白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

末裔

昨日、第1回の「ニコ生読書会」を決行した。大失敗に終わったことは言うまでもない。ただ、クルーズが来たので、20人ほどの人が見てくれた。「棒読みちゃん」もおらず、読書会ではなく、私の独演会になった。まあ、タイムシフトで見ることが出来るので、お暇な人は・・・いないですよね。(笑)

末裔 (新潮文庫)

末裔 (新潮文庫)

絲山秋子氏については説明するまでもないだろう。現代日本を代表する作家だ。私が最初に読んだのは「ニート」だったが、マイノリティを手際よく描いた短編集だったと記憶している。

「末裔」は長編小説である。主人公の富井は50代の男性。妻を亡くし、子供たちは独立していて、一戸建ての家に一人で暮らしている公務員だ。物語は主人公が家から帰ると、ドアに鍵穴が無くなっていて家に入れないというシュールな状況から始まる。どことなく怪奇小説のようでありながら、細部がリアルに描くというのは、考え抜かれた手法なのだろう。

もっとも絲山氏は自身が躁うつ病であることを告白している。であるならば、ドアに鍵穴がない、といった想定は想像力を駆使したのではなく、夢で見た現実のようにも思える。もっとも、それが絲山氏の口から語られたところで、その真偽が不明であることに変わりはない。世の中なんて、そういうものだ。

さて、この小説の確信はどこにあるのか。それは、文庫版の160ページから161ページに書かれている、教養を失った富井家の末裔たちの堕落、そして日本の文化人の堕落だ。少し長くなるが、正確に全文を引用する。

 今でも知識人と呼ばれる人はいる。文化人もいる。だが、教養がない。圧倒的に専門知識に偏っている。教養なんて言葉自体、十九、二十歳の大学生がノルマとして単位をとる講義の範囲に押し込められてしまった。
 教養というのは理念さえあれば、気取ったものでもなんでもない。
 外国語はコミュニケーションをとるために使うものというよりも、その国で長い年月の間に培われた考え方、哲学を発見するたものものだった。ましてや外国旅行のためのツールや、出世の道具なんかじゃなかった。だからあんなに苦労して、物のない時代から洋書を手に入れて読んでいた。
 物理だって歴史だって漢文だってそうだった。文系とか理系とかではなく、上の世代は学問全体が好きだった。分野を超えて広がっていく知識は伯父という人間、祖父という人間の根本と結びついていた。
 僕にはそんな根本はない。そんな能力もない。努力もしなかった。
 大人になってわかった。
 自分はインテリではなかったということだ。知識の量なんかでは計れないがやっぱり絶対量も足りない。そして俺には哲学がない。話題の選択における独特のセンスも持っていない。
 姉や弟は、俺よりたしかに頭はいいかもしれないが、決して父や伯父、祖父のようにはなれない。あんなふうには喋れない。
 富井家の末裔は堕落した。
 俺だけじゃない。日本中の知識人の末裔が堕落したのだ。
 だが、それはなぜなんだろう。
 無責任のようだが、不思議に思う。
 なぜなんだろう。
 ※「末裔」絲山秋子新潮文庫p160-161)

さて、本物の知識人、教養人とは何なのか。そんな議論すら成り立ちにくい時代になった。いままた、福沢諭吉が持て囃され、政府までが実学主義を声高に主張している。私がそれを嘆かわしく思うのは、自身が知識人の末裔であるという自負によるものなのかもしれないし、それだけではないかもしれない。

教養とは知を愛するということだ。そこには目的などないし、むしろ目的があってはいけない。登山家が山に登る理由を問われた時には、「そこに山があるから」と答えるのが普通である。教養もこれと同じことだろう。単なる懐古趣味などではなく、この小説には時代への怒りと失望、悲しみと嫌悪、軽蔑と救済などが混ざり合い、複雑な味のスープのように仕上がっている。

つまり、時間をかけて、味の変化を楽しみながら食べるべき小説なのであって、2、3時間で一気に読むなどというのは邪道としか言いようがない。ああ、今日は本音を書き過ぎた。この辺でお仕舞いにしておく。