或る阿呆のナマステ

それこそひそやかに

Well, I never worry, now that is a lie.

去年、アルコールや薬物に依存する人間の治療を専門とする医療センターで一日をかけた診察の結果、「あなたをアルコール依存症である、とは診断できませんでした」との言を受けた。

にわかには信じられなかったが、じゃあ私とアルコールとのこの明らかにおかしな関係はなんなんだ。

最近、「アルコール乱用」というものを知った。なるほど、あくまで門外漢の私だがアルコール依存症でないのなら私はおそらくこれなんだろうと強く思った。

先の「アルコール依存症とは認められない」理由として、連続飲酒(寝ている時間以外は常にお酒を飲み、それにより脳がしらふであることを「異常」と判断してしまう状態)をしていないことを挙げられた。これに嘘はない。

とても大雑把に言うと、「アルコール依存症」の前段階に「アルコール乱用」があり、アルコール乱用とは一度お酒を飲みだすとコントロールが効かず、他人に迷惑を掛けたり怪我をしたりするような飲酒の態様を指す。四六時中飲んでいるわけではないが、飲んではいけない人種のことだそうだ。今度自分からこのアルコール乱用についてたずねてみようと思う。

 

閑話休題。としようとしたが少し気になっていま調べたら、「閑話休題」を「ところで」「話は変わって」という意味で使うのは誤用で、脱線した話を本筋に戻す、というのが本来の意味だそうだ。

ならば「レッチリ」と言いたいが、彼らには「By the Way」以外にも山ほどの代表曲があるので、それはかなわない。私は「Scar Tissue」が好きだ。「Otherside」もいいっすね。レッチリ大好き、というわけではないけれど、アルバムとしてのCalifornicationは大好きだ。そういえば大昔、2000年くらいのスペシャの生放送番組でチバユウスケリサ・ステッグマイヤーにお気に入りの一枚を聞かれて、ウキウキでCalifornicationを取り出して両手に持ちながら「Scar Tissue」で小躍りしてたな。その影響でCalifornicationを好きになったわけではないので、それを見て嬉しかった記憶がある。

 

閑話休題。I don't ever wanna feel like I did that day.

 

つい最近、親しい人間に話した。

「自分は家族にアルコール依存症の罹患者がいるから、その家族の辛さや悲しみを知っている。自分もアルコール依存症かアルコール乱用者だ。そんな自分が、家庭以前に恋人を見つけること、悲しむ人をひとりみすみす増やすことは許されないと思う」

それを聞いてくれた相手は言った。

「私はあなたとは家族じゃなく他人だから、愛想が尽きたら別れればいいだけです。恋人を見つけることすら許されないとは考えなくてもいいと思う」

私は馬鹿なので(と言うと相手に失礼な気もするが、実際馬鹿である)、この言葉に打たれて、救われた。この人は、将来私から迷惑やダメージを受ける可能性を踏まえている。踏まえたうえで、もしそうなれば縁を切ればいいだけで、最初から諦めなくてもいい。そう言ってくれたんだろう。その人の優しさを裏切りたくない。一日ずつ、断酒を続けたい。

あと2ヶ月半で40になるのに不惑にはほど遠い現状と私の思う本音というもの

嘘やおためごかしは許せない、あなたの正直な思いを教えてくれ。

という人にこれまでけっこう出会ってきた(友人、恋人、親)が、そう言われるたびにほとんど毎回、こちらの本音を言葉にして伝えることができなかった。本音があればきっとどうにか言葉にできるのだろう。ここでそれを伝えないともう終わります、という段階まで来たときに、そんな時になってもいよいよ本音を言葉にできない。おそらく自分には本音というものがない。なにかの「事実」のあとに、それを受けた「ぼんやりした感情」を希釈したり濃縮したりして心の中にとりあえず置いているだけなんだろう。

子どもの頃からそうだった。自分の行動の理由に説明がつかない。だからその時なりの誠意を尽くして、ぼんやりした感情をなんとか形にして伝えても、なにせ急造ものだから理屈として筋が通らない。

それを聞かされた相手はだいたいこう言う。「ちょっとなに言ってるかわからないです。というかあなたがなにを考えているかわかりません」。その少しあとにほとんどの関係が終わってきた。

自分の本音すらわからない、本音がない人とは付き合えません。ということならそれは自分も理解を通り越して共感できる。自分自身、本音どころか普段なにを考えているのかよくわからないし、そんな自分と付き合うことにいい加減あきれて、疲れている。

 

本音を言ってくれ、と言われても本音がない。ないものはない。なんとか捻り出してもそれは本音ではない。「ないものはない」というのが本音だ。それ以外にはなにをどう伝えても嘘になる。嘘はばれる。仕方ない、さようなら。

 

「わからない」と伝えたい。それが本音で、それだけが嘘にならない。あなたの正直な思いを教えてくれ、と言われたら、「わからない」と本当は言いたい。そう言えないから嘘をつく。その嘘を許してほしい。嘘は手段で、中身はほとんどどうでもいいかもしれないから。

自分がそんなありさまだから、他人の嘘に寛容でいたい。嘘の中身はどうでもよく、嘘をつくしかないのなら、それでいいと思う。嘘と知っていても知らぬが仏だろう。別に仏様になりたいなんてチリほども思わないが。まだ死にたくないし。

愛のすべて

チリも積もれば山となる、イチモツ盛れば母となる

授業中とてもヒマだったから キミのカオでカいてた
キレイなカオでカキたくて 角度を変えたり カキ直したり

だからBaby 苦労するぜ

勝手にキミの目を開けてやろう
こんなはずじゃなかったよ ふくれっ面のキミのカオ

20年ぶりくらいにホフディランの「長い秘密」を聞いた。イントロこんなだったっけ?と戸惑った。2000年の中3〜高1の頃を思い出した

それはただの気分さ

18年前にダンスミュージック研究会(大学の軽音サークル)の合宿で「毛細血管」という曲を作って1学年下の後輩の女子に無理やり歌わせた、歌ってもらったという余興をいまだに覚えている。気持ち悪いのは、鮮烈すぎるくらいに景色とバンドの演奏、歌声をはっきりと覚えていること。さらに気持ち悪いことにその曲の歌詞をさっき思い出そうとしたらすぐに出てきた。

 

愛してると言って あと2時間だけ夢を見させて 恋をしてるのは 恋をしてるのはあなたの毛細血管

 

どういう意味かわからないし、泥酔しながらの練習中に口をついて出てきただけ。口から出ただけのイメージのない言葉の意味をあとから自分で考える。いましてみる。後付け、こじつけになるがしてみる。

 

愛してると言って(言ってくれないのはわかっているけど)、あと2時間だけ夢を見させて(fishmansの「MELODY」の一節をそのまま引用) 恋をしてるのは(そもそもこれは恋ではない、セフレだから)あなたの毛細血管(恋じゃないけどセックスはあなたにとって、全身に通う、全身に満ちた気概でぶつかるものであってね、ついでにとても薄い壁を通して私の老廃物を回収してね)

くどいが()をはずして書きなおす。

私のためにとりあえず愛してると言ってほしい、宿泊なんてせずにいつも休憩¥4,980で入ってるんだからせめて建前を言ってほしい。すぐに忘れるくだらない夢をあと2時間だけ見させてほしい。セフレの関係は私からその時々に気まぐれに求めるだけの勝手なものでいいし、その方が楽だ。あなたの気持ちは私には関係ないしこれは恋じゃない。でもあなたには全力で誠実でいてほしい。あなたが本気で誠実でいつづけることでしか、こんな単なる運動と発散の関係は続かない。あなたにはいつも心身ぐったりと疲れていてほしい。それはただの気分さ(君の一番疲れた顔が見たい)。そうじゃないとめちゃくちゃ腹が立つ。あなたには勝手に私に恋をしていてほしい。私のこの身勝手さは恋じゃない。ならこれはいったいなんなんだろう。

 

もう一曲、「六大学」という曲も作って歌ってもらった。この余興の直後に、先輩に「あんたバカでしょ」と言われた。バカじゃないです。

 

初めてMELODYを聞いたとき、「ゆれるテンポの中で」が「揺れるベッドの中で」に聞こえて、そこで「見たこともない顔を見せる君」、あ!セックスだ!!としか思えなかった。歌詞を見てベッドはテンポだったと気づき恥ずかしくなった。でも本当の歌詞そのままでも少しセックスだ!!!

 

濡れタオルとシャツ

ごわごわの濡れタオルで体を拭く

いがっぽい皮膚に水滴にはならないが 乾いていく涼しさが気持ちいい

閉め切った脱衣所で冷たい風にさらされているような 涼しい冷たさがだらしない春をいっとき引き締める もっとうまく言葉にならないだろうか

 

ぼろぼろのシャツを着る

最初からぼろぼろだったみたいだね

そう笑うけどこのシャツを裂いたのはあなただ

 

見られても恥ずかしくない人たちの前でこのシャツを着る

袖を通して笑われたあとに親しさに気付く時もある コンビニには行かない

 

台所では棚のつまみにひっかける

いつか怪我をするかもしれない 深くは考えない ミスフィッツとスピッツが聞きたい

あとはケセラセラ

「なるようにしかならない」

22歳くらいのころ、やたらと口をついて出ていた。半ばやけくそ、ある程度やったしあとは野となれ山となれ。知らねえよ。

そんな意味だったがいまは、ある程度やったんだしよくなっても悪くなっても仕方ない、あとはケセラセラ、納得もできるだろうしこれが最善なんだろう。と使い方が変わった。あくまで「ある程度」はちゃんとやる、これが大事だな、というか前提ですね。

これ書く必要があるのか?といえばそうでもないな。これから書く↓についても。でも書いちゃう。

 

以下は雑感。あなたにも、もしかしたら分かってもらえるかもしれない夢です。

 

・しつこくもまたアルコール依存症について。アルコール依存症の罹患者には「酔いのグラデーション」がない。

自分の家庭には自分と母の二人のアル中がいる。自分はまだほろ酔いを経て泥酔に至るが、母はビール50ccでも摂取するともう別人格になり「すべておじゃん」コースに突入する。家事もできない。会話もできない。顔つきが人間をやめたものに明らかに変わる。こういうところでもまだ自分は完全に脳みそがアル中にはなり切ってないんだな、と最近気づいた。断酒するならいまのうちだな、と改めて思う。アルコール依存症とは診断されていないが、自分でそう確信してるんだから。あとはケセラセラ

 

・人ひとり、自分とともに歩く人がいたら、どうしても自分は持て余してしまうこと。恋仲にある相手には、私で満たせないところは、他の人で埋めてほしいなと思う。心的であれ肉体的であれ。束縛、独占欲が理解できない。自分にもそういう欲が沸いてきてほしいな、と思うこともなくはない。

愛情とその優しさで隣を用意してくれてそこに居続けても許してくれる人がいるのなら、その人のために死ねるのは幸せ、とまでは言わずとも長い時間を共有させてもらえる幸せって生きる意味に匹敵するんじゃない?

あとはケセラセラ

 

・「ものすごい愛」ってなに?いま↑で言ったことが自分の答えかもしれない。「取るに足らない愛」が「ものすごい愛」だと思う人がいてもいいんじゃない?多分私はそんな人間です。でも「ものすごい愛だってあなたは思わないの?」と聞かれたときに、「うん、そうだね」と言える優しさは「ものすごい愛」だな、とも思う。

 

・自分はおそらく他の人の恋愛とはだいぶ変わった恋愛をしたい、してきた、している。あとはケセラセラ

 

・大昔の自分のブログを、恥を忍んで読み返してみた。20歳くらいの自分が「初対面からしばらく、自分と相手の共通点を見つけるほど親近感は膨らむけど、その親近感のなかに『理解できる違い』を見つけるほどにさらにそれは『好奇心という形をとった共感』、言いかえれば好意に変わって、膨らんだ親近感の中で膨らんでいく。膨らんだ風船の中でもうひとつ、別の風船が膨らみはじめる」と折に触れて書いていてはっとした。「いいこと書きよるがなこのクソガキ」と思った。

20歳前後の自分はこんなにいちいち苦しかったんだなとびっくりした。

たまにハッとすることを言うクソガキはもうこんなクソ大人になったよ。安心したり悲嘆に暮れたり納得してください、20前後の俺。

これは蛇足だが、考えなしにつれづれ書き散らしたあれらを「面白い」「好き」って言ってくれる人がいたけれど、たしかに20そこらのガキがあんなの書いてたらちょっと面白いかもな、と思った(言う必要ねえな、でも言っちゃう)。

 

・バックが楽しい理由(奥まで刺さる感、演技がいらない、純然たるピストンだからけっこう楽、相手が恥ずかしさを忘れて鳴いてくれる)。

 

・詩を書きたいな、とずっと思っているのにいつまで経っても書けない。誤解を招くのが怖いから。読み手の想像力に価値を置いて、自分の意図とは違う受けとめかたを許す、その上で投げかけられる人はすごいと思う。自分の場合、なにか書き散らしたいな、という時にはだいたい6割5分が脱線という本線で、つまり脱線したいから書き始めて、残された3割5分のスペースを、詩(もどき)か散文かわからない何かで埋めてかろうじて人に斟酌してもらえるように成型する。あとはケセラセラ

 

・ブログはお金がかからない。それを楽しんでくれる人がいるならコストゼロの、感想を聞かない限り双方向にはならないコミュニケーション。でもあとはケセラセラ

 

・20歳くらいから言い回しが違うだけで言っていることに変化がない。

石川雅之(代表作「もやしもん」の人)が描いた坂本龍馬の死に際の台詞に「人間が人生で本当に伝えたいことなんて一個か二個ぜよ」というのがあり、高校生の自分は「きっとそうなんだろう」と思った。いまもそう思う。

いまの自分に、人に伝えたいことがもしあるとしたら

 

「親近感を持つのは共通点を見つけた時、好意を持つのは違いを見つけていく時。そのあとに、やっぱり違いは当たり前にあるとわきまえて、わきまえたら、好意があるからこそ違いを小さくしようとする。お互いがそうできればその姿勢が共通点になってはじまりに戻ってくる。はじまりに戻ってきたときに親近感が愛情になって、あとはこの過程を繰り返す、繰り返す体力が愛情

「ハードコアな人の気持ちを理解するのに、自分までハードコアになる必要はたぶんない」

 

20前後とほとんど変わってない。20年経ってもそうなら↑が多分伝えたいことなんだろう。

 

・本当は各項ひとつひとつについてもっと長く書きたかったが、その必要がないなと思った。それをすると多分二個前のブログみたいにぼやける。読む人が疲れる。あとはケセラセラ

 

俺の好きな人がみんな幸せでありますように。無責任にそんなことしか考えられない。

 

いちにーさんしーごーろくななはちくーじゅーじゅーいちじゅーにじゅーさーん!!!

↑きのう弟にいきなり言ってみた。

「うわー!!それなんだったっけ?」

「青い春」

「ああー!懐かしいー!」

生きていると使える言葉が増える。同時に使いたくない言葉が増えていくということになる。

 

また「この言葉はちょっときついな、他人にも自分にも使いたくないな」と思いつつ不本意に使っていた言葉を、「こんな言葉があったのか、こっちのほうがいいな、使いたいな」と、心地よさを乗せた言葉で封じ込めてしまえるようにもなる。使いたくない言葉の例を挙げようとしたが、本当に使いたくないので挙げない。

 

そのうち、使いたい言葉はそんなに多くないことに気が付いた。というより、使いこなせる言葉の数は自分には限られていることを思い知らされた。

 

身体にしっくり馴染むおもちゃのヌンチャクのように、経験から自在に取り回せるような気がする言葉、人に当てずに自分の肘肩あたりで楽しげにくるくる回る、優しい言葉だけ使いたくなった。

 

これをいっときの気分で済まさずに、喜怒哀楽のどの中に取り込まれていても通せればいいのに。使いたい言葉だけを使って生きていれば、いつかそのうち喜怒哀楽のほうから自分に取り込まれてくれるかもしれない、という半ば無責任な、祈りのような気分だけでも持ち続けられればいいのにとも思う。

 

身の丈を知り、弁えた分の中で使える、使いたい言葉だけ使って人と関わりたい。言葉はちゃんと選ばないとびっくりするくらい相手に伝わらない。自分の思うそのままをなるべくそのまま伝えたいのなら、そのとき使える、選べる言葉は案外少ないと思う。選べる言葉が一つもないときもある。選択肢を増やしておくに越したことはないのでは。

 

言葉なら捨てることと拾うことは真逆ではない気がする。捨てても拾っても語彙は増えるのではないか。使いたい言葉だけを使うために、使える言葉を増やしたい。

 

先月に会った知人?友人?というか後輩がとても長い時間(ファミレスで7時間)、タロットカードを使った占いも踏まえて(タロット占いの示唆に富んだ自由な面白さを知りネットでカードの意味とかを調べるようになりました)、こちらの身の上話をカウンセリングかのように真摯に聞いてくれたおかげでこちらも使う言葉をゆっくり選んでいたら、こんな楽しみを見つけた。感謝してもしきれない。

長時間の会話の7割くらいは雑談もさせてもらった…そのあと相手からカラオケを提案してくれてありがたかった、こちらは7時間のありがたさと相手の優しさと素敵なオーラに緊張してきて、カラオケの約束はしていたが誘えなくなっていた。そのあと終電まで楽しませてもらった…その意味でも感謝してもしきれない…