辺見庸 インタビュー(『週刊金曜日』2012.1.13号)

辺見庸のインタビューを読んだ.あぁ,なるほどね,これはダメだ,レベルが違い過ぎると思った.『週刊金曜日』に載せられたインタビューはたったの5ページ! 最初,いろいろと感想を書くつもりで読み始めたのだが,すぐに,あぁ,僕には適う相手ではない,ということを悟った.「それでも人は言葉から逃れることはできないのか.」

立花ゼミの後輩が震災企画をやっていた.彼女は言う,「震災をとりまく言説には違和感を感じる」と.でも,その違和感が分節化できないらしい.その彼女が,辺見庸が「ヤバい」と言う.『瓦礫の中から言葉を』のamazonのカスタマーレビューなどを見ていると明らかに「変だ」った.それでなんとか,『週刊金曜日』のバックナンバーを手に入れて読んでみた.僕は「言葉で伝えてナンボ」の思想を生きていたので,彼女に「語りなさい」と言った.でも,それは,今回に限り,間違えていたのかもしれない.けれど,言葉で語れない重さ・しんどさを言葉で語らなければならない重さ・しんどさ.その価値を真っ正面から認める者が,Twitterに甘んじていてはいけないと思う.過去に,現代芸術家の内海信彦さんの講演を聞いたときにいたく感動を覚えた.「mixiなどのSNSで満たされる人は芸術家になれない」というような内容を言っていた.その彼はいま,敢えて,Facebookをやっている.その内海信彦さんは,アウシュビッツに行ったきり,プチ鬱状態になって,そのエネルギーで作品を作っていた.その作品を拝見したとき,何と言えばいいか,辺見庸の「しんどさ」と同種のものを感じた.(こう言っては失礼だろうか.)僕は『眼の海』だけ読んだときは,「分からなかった」.もちろん,ある種の「しんどさ」は伝わった.けれど,それは,数字の上での「しんどさ」と何が違うかと言われると自信はないし,それを批判したいのが辺見さんの主張だろう.人の死の重さを思えば,現代人は誰も知らない.無惨な死に方をした人のリアリティを僕たち現代人は誰も知らない.その死体が10体積み重ねればどうか.100体はまた,その10体が10個山をつくる.想像はリアリティだ.何の根拠もなくイマジネーションを信じることは無力だ.その100個の山のイメージがさらに10個で1000体.それがさらに…….今回,死者,行方不明者は20,000人.我々がいかに数字の上のマジックに踊らされていることか.(それは,質と量をめぐるトリック.)アウシュビッツのエネルギーで作品を作る内海さんが,今回,原発の話を芸術家としてアジりまくっているのにも納得がいく.

辺見さんのインタビュー,『週刊金曜日』のバックナンバーでしか見れないのは残念だ.『週刊金曜日』のバックナンバーなんか,本屋に売ってない.『眼の海』は僕たちシロートには分からない.辺見さんは,もと共同通信のジャーナリストで,言葉で伝えられないことを言葉で伝えるギリギリのラインで闘ってこられた人だ.ある意味でペンなんか無力って,当たり前のことだ.そんなことには気づいている.けれど,僕がジャーナリストになった先輩に挨拶に言ったとき,それでも彼は「書くということで,何かが動く」と言っていた.それは,ペンで世界を変えられるかどうか,というような話ではない.その格闘家,辺見さんが,鬱病になりながら,自分のなかの〈コトバ〉をギリギリのところで産んだ作品,それが詩というギリギリの形だ,ということだろう.そこまで言われないと,僕には分からない.そして,インタビューでの,辺見さんはさすがジャーナリストだけあって,やっぱり言葉が「うまい」.

週刊 金曜日 2012年 1/13号 [雑誌]

週刊 金曜日 2012年 1/13号 [雑誌]

眼の海

眼の海

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

2012年度 慶應法学部 小論文

2012年度の慶應法学部の小論文の問題を見た.「ビンゴ!」である.今年教えた教え子たちは,表面的な議論に終始せず,principleに沿った議論を書いてこれたであろうか.ちゃんと,民主主義や公共性の話と結び付けて書いてこれただろうか.

この話は,僕が授業中に何度もしてきた,構造にどう向き合うかという話と直結する.最終授業でしたマトリックスの話を思い出してくれただろうか.それ以外にも,オーウェルの『1984年』(と村上春樹の『1Q84』の話)はしたし,カズオ・イシグロの『私を離さないでNever Let Me Go』の話もたしかした.他にも,iPS細胞などで「人間」という枠を人間が超えられるようになるとメチャクチャになるという話もした気がする.それから,小論文の学生には,東浩紀Twitter民主主義の話,古市憲寿の「あきらめさせろ」とTwitterお手軽承認問題の話もしたし,そこまでつなげて書いてくれただろうか.もしそうなら嬉しい.
改めて,本文を読んでみるとゾッとする.人間は人間を根源的にはコントロールすべきではない,ということがおぞましいほど分かる.でも,この問題のミソは,「擁護」もしろと書いているところだ.(多分,普通の出題の方法なら,ほとんどの受験生が反対意見を,しかも印象論に終始して書くだろう.)ちょうどタイムリーなのだが,国民ID制度の話も小論文の学生たちにはしておいた.震災のとき,「番号」があれば,もっとスムーズに被災者が社会保障を受けられた,と.もちろん,セキュリティーがもっとも大きな問題だし,「番号」という無機質なものに支配されたくないという国民の声が聞こえる.でも,我々は社会に生きる以上,システムから逃れることはできない.システムとは効率性だ.社会を「回す」ため(それが政策だ),我々はシステムの合理性を一定程度認めざるを得ない.ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』の最小限国家の思想は,無政府主義無政府主義アナーキズムは違う!)では社会は回らないということを示してる.当たり前のことだ.
その行き過ぎ(本文のケース)に歯止めをかけるのが,民主主義なんだ,そのための国民の最低限の公共性は必要だし,教育は必要だし,それはコミュニタリアニスト的には,「規定不可能」なもの,つまり人間が人為的にシナプスに電気信号を送るような形では実現できないもの,だと思われる.じゃあ,何なのかと言われると,文科省の「ゆとり教育」と同じくらい難しい問題になると思う.
急に古い話に飛ぶが,日大の全共闘の人が「(直接)民主主義とは人間性なんだ」と言っていたことを思い出した.マルクスも「人間性」にコミットする.僕たちが守らなくてはいけないのは,人が社会で生き生きと暮らす価値である.けど,ここで,堂々巡りが起こる.アーキテクチュアと愚民社会の問題だ.人が生き生きと暮せるように,人に知られない形でシステムを構築し,人びとの効用を上げる.フィールグッドプログラムだ.本文が指摘するように,じゃあ,そのシステムを作るのは誰なのかという話になり,そこには卓越主義perfectionismやパターナリズムの存在を否定できない.ここで,法哲学的な問題となる.
著者の長尾龍一さんは,僕の習っていた東大の井上達夫先生の兄弟子だ.井上先生は,反卓越主義anti-perfectionism的な政策論的目的論にコミットする.それが正義だと言う.つまり「脳のシナプスに電気信号をつけることなく」人びとが良き生をそれぞれが自己決定できるように共生の枠組みを作る,それがリベラリズムの本義だと.もちろんそこには公共性が必要とされる.でも,そんな公共性なんか無理だよ,というのが,功利主義者たちの主張で,例えば,今の日本人のオタクの多さなどを見ていると,日本の国民性としては,功利主義の方に軍配が上がるのかな,と思ってしまう.
結局,「功利主義の罠」(本文にあるような)を乗り越えるためには,ある種のエリーティズムに頼らざるを得ないし,そこにはエリーティズムの良識が,つまり「徳」が要求される.
古市憲寿は言う.「あきらめられる人は,それで幸せだ」.その通り! 「あきらめきれない人」がエリートになる.「あきらめられない人」がノーブレス・オブリッジに基づき,政策的目的論として,ときには,多様な自己決定を包摂するリベラリズム的な枠組みを「強制」し(反卓越主義を卓越的に推奨する),ときには,功利主義的な(こう言ってはなんだが,バカでも楽しく生きられるような)枠組みを「強制」する,そういうモデルになる.それが,〈システム〉の作り方だ.もちろん,マトリックスのネオ自身がまたマトリックスの一部であることを,つまり,「教育者自身が教育されなければならないことを」(マルクス)十分に再帰的に自覚する必要がある.これが正しいのかどうか,それは分からない.もっと問題なのは,そのエリート要請のマッチングの方な気が(今の東大生の様子を見ていると)する.

ここまで言ってきたことは,小論文の授業で何度も言ってきたことです.あくまで「私見」として.彼ら,彼女らは「良き」大学生になってくれるだろうか.そういう言い方さえもが,パターナリスティックで卓越主義的なのかもしれないが.


問題はこちら→ http://mainichi.jp/life/edu/exam/daigakubetsu/graph/keio_hou/ronjutu/1.html

映画祭1968

「映画祭1968」に行ってきた.

http://eigasai1968.com/

日大の芸術学部の学生たちが主催ということで,同じく3年前に立花ゼミで「若者の側から,熱かった,よく分からないあの時代を振り返る」イベントを主催した自分の身としては,大変なシンパシーを持って,初日,観に行った.

『日大闘争』『続日大闘争』,当時の記録フィルムであるが,これは大変貴重なもの.

僕としてのこの「映画」の見どころは,まず「大衆運動なんだ,それに立脚した民主化なんだ」という価値を日大生たちが大いに訴えるところだ.
東大と違って,日大は「大衆の」大学だった.大学は「みんなのためになること」をするべきなのにそうじゃない,と,今の政治家がまさに言ってそうな,そんな「当たり前の価値」を当時の学生たちは主張していた.「学生運動=危ない何か」というステレオタイプで見てしまいがちな若者たちは,当時同じく若者だった彼らのメンタリティーを,同じ視点から少しでも考えてみようとは思えないんだろう.上映後のイベントでの登壇者である,当時の芸術学部闘争委員会委員長,眞武善行さん,彼はとても優しそうな方だったが,例えば,彼の今日のトークなどに耳を傾けてみれば,今の若者なんかでも「なんて当たり前のことなんだろう」と思ってしまう.それが,「大衆」運動の意義だ.

同時に,この映画は大衆運動の限界を映し出している.「大衆」という言葉が一人歩きするとき,悲劇はおこる.その過程が,『日大闘争』→『続日大闘争』に移るにしたがって,悲しげに映されていく.運動は後退期はダラダラと続くものだ.その感覚が伝わってくる.

もう一つ,この映画で観るべき大きなポイントがあると思う.それは,武器に関して学生たちが議論するシーンだ.学生運動は戦争ではない.社会運動である.学生運動を弾圧する側の機動隊だって,当時は,もしかしたら学生の側にいたかもしれない(けれど,家庭の経済的都合でそうはできない)若者たちが多かった.右翼学生だって,思想は違えど,同じ「学生」だ.だから,ゲバ棒や投石は「学生」運動としての,「最後の」武器なのだ.そこから,火炎瓶を使用するかどうかについて,学生の間でも意見が分かれる.その後,70年代に入るにしたがって,闘争は過激化し,大衆から遊離し,殺し合いに発展していく.

68年はお祭りだ.それでいい.お祭りはヤングカルチャー(サブカルチャー)だ.その68年の文化的空気が演劇やロックなどで少しだけ出てくる.とくに,ロックをやるシーンはウッドストック的な何かを感じさせる.とても貴重な映像だ.(たしか,頭脳警察のドキュメンタリーに使われていた.)

映画としてでなければ,取りこぼされてしまう何かがある.映画だからこそ見えるものがある.その可能性を求めて.

「映画祭1968」は,2月3日まで.是非,足をお運びください.

園子温『ヒミズ』

園子温ヒミズ』を是非観てほしい.

「映画としてはどうか」と評価があまり高くない人もいるけれど,それは違うと思う.

園子温は,たぶん,作品としては,真逆の結末にしたかったんじゃないかな,と思っている.でも,あえて,そうしなかったのは,彼の中の何か,その何かに彼が負けたから.その意味を考えてほしいと思う.

映画であるということを超えて,「がんばれ」って.そう,「がんばれ」って.語りかけてくれている.そのことの意味.

僕は昔「がんばれ」って言葉が好きじゃなかった.だって,すでに人は皆,努力してるから.

僕の友人も「がんばれ」って言葉が好きじゃないって言ってた.だって,その友人は人一倍がんばっていたから.

でも,「がんばれ」.「がんばれ」って語りかけてくれる.

「がんばれ」

「がんばれ」

それは,多分,その境地を味わったことのない人には,出てこない言葉だ.人間は,最期は,理屈じゃない.最期に残るのは,

「がんばれ」

「がんばれっ」

そう,それは,愛.そういって差し支えなければ,だが.

サンデル駒場講義(1月16日)東京大学,学術俯瞰講義にて Micheal Sandel's seminar in Komaba Campus, Tokyo University (Todai), January 16th.

http://www.gfk.c.u-tokyo.ac.jp/inSession/inSessionArticle01.html

東大で行われたサンデルの駒場講義(1月16日)に参加させてもらった感想を書きます.僕は井上達夫ゼミということで参加させてもらいました.

I will write about Michael Sandel's lecture at Komaba Campus of Tokyo University (Todai) on January 16th. I participated as a student of Inoue Tatsuo's Seminar.

やはり思っていた通りで,言語の壁は厚いです.サンデルの英語はとても分かりやすかったし,そのこと自体がサンデルの美徳だと思います.彼は同時通訳の方にもタイミングなど十分に配慮し,英語を母語としない日本の学生に向けてのやりとりも丁寧でした.あのスタイルの授業が可能なのは,ひとえにサンデルの能力の高さ(他者への配慮)によると思います.(日本語で喋った東大生は,同時通訳の方への配慮が見られず,皆,早口でした.でも,それはいたしかたないのかもしれません.)しかし,そのサンデルの能力の高さをもってしても,ディスコミュニケーションは避けられませんでしたし(自分のことも含めて),言語,ひいては文化の違いはそう簡単には乗り切れないのだ,ということです.井上先生が何度も「日本語でもいいよ」と横やりを入れておられたのが印象的でした.

As I had expected, I felt the wall of language. Of course, Sandel's English was very clear, and the fact itself shows he has virtue. He cared for the translator very much about when to speak, and cared for the Japanese students, too. That style of the lecture can be done entirely due to his high skill (to concern for Others). (On the other hand, Todai students was not able to concern for the translation and spoke very quickly. Surely, it is no use complaining about that kind of things…) However, in spite of Sandel's virtue, we could not evade some kind of miscommunication (as for me). We realised we can not overcome easily the difference of language, and culture also. Mr. Inoue said many times that we can use Japanese, getting in our discussion.

サンデルの講義は思っていたより本格的な内容を含んでいました.東大生向けだからなのか,普段の白熱教室より少しレベルが上がっていたと思います.冒頭で,そもそも正義を考えるとはという話をされていました.rightはgoodに先行するというお話や,正義の要請の2類型として「契約」と「共同体」を挙げてそれぞれにジレンマがあるとしたこと(そのことを体現する形で講義が進められます),それから,そのジレンマを考える際に必要なのはgoodについて推論するreasoningことだという話でイントロが締めくくられました.これらは,井上先生をやや意識したものかもしれません.

Sandel's lecture included more academic content than I had expected. It was a little more difficult than his usual lecture, probably because it was for the Todai students. In the introduction ahead of discussion, he explained about what is thinking about Justice, what is the right thing to do. He refereed to the priority of Justice (the right) over goods, and the dilemma of two type of the obligation of the right "contract" and "community" (this theme would be embodied in his lecture later). And, he finished his introduction comment with the story of reasoning about goods in dilemma. I might say these things were addressed to Mr. Inoue's criticism to Sandel.

サンデルは『これからの正義の話をしよう』では,有名なトロッコのジレンマで,「待機線の例」と「デブの例」の二つを比べさせ,それらが「同じ」であることを推論reasoningさせます.ある例と別の例は原理的に「同じ」なのに我々は違った結論に到達する.(「待機線の例」では1人を殺す方を選ぶのに,デブを押すことはできない.)なぜならば,我々の一人一人は論理ではなく素朴な日常感覚で日々の生活を営んでいる.サンデルの授業スタイルは,学生を使いながらそういったことをパフォーマティブに暴いていく手法をとっています.サンデルの授業が抽象的な原理を深く扱わないことがつまらないと嘆く学生もいますが,それは間違っているということです.彼の言いたいことは「我々は推論に耐えうるほど強くない」ということなのではないでしょうか.そのことを,実践として暴露していく.そのサンデルの実践に反論しようとするならば,SNSでグチを書くのではなく,それを実践により,つまり,現実でサンデルに喧嘩を売ることによってしか可能にはならないでしょう.そして,そのための場が討議空間として開かれていなければなりません.だから,サンデルは,今度1月31日に開かれる,井上ゼミ(東大)×サンデルゼミ(ハーバード)のインターネット中継を介したオンライン・ディスカッションのイベントに一人でも多く参加してほしいと促したのでしょう.その事前予習会を1月23日(月)18時から駒場キャンパスで井上先生が開いて下さりますから,東大生諸君は是非とも参加してください.

In famous example of "trolley car" in 'Justice', Sandel gave us two example, "one in the side track" and "one to push the big man". And he propose us to compare these examples with "reasoning". We will have different consequences in spite that these examples are quite the same in principle. (We should choose to kill one person in the example of the side track, but we cannot push the big man!) We lived our life as to our simple sense of living. Sandel's original style of his lecture will reveal that fact perfomrmatively, through discussing with students. Some Todai students complain that his lecture doesn't treat abstract analysis, but this opinion seems fundamentally wrong. I might say, he said "We are not too strong to do reasoning." in his lecture. He exposes this as a practice. If you would like to criticise Sandel, you should stop grumbling in SNS and say your opinion face to face as a practice. So, necessary is a field to do that as deliberative sphere. That is why Mr.Sandel proposed that every student should attend the online discussion event on January 31th, held by Inoue Seminar and Sandel Seminar, using the Internet. Mr.Inoue will held the preparation seminar for them on January 23th in Komaba Campus. Todai students should participate by any means!

サンデルの立場は「我々は推論に耐えうるほど強くない」だと解しますが,これは井上先生がおっしゃる「普遍化可能性要請(リベラリズム)」への批判です.さきほどのトロッコの例では,リベラリズムによると,普遍化不可能な差別を排除しなければいけないわけですから,理由なく2つのケースで行動を変えることは規範として許されません.でも「人はデブを押せるほと必ずしも強くない」.(現に僕が自分のアルバイト先の塾でサンデルのJusticeを扱ったところ,高校生たちの答えはほとんどがNoでした.)他の例としても,「正直さ」を徹底させるべきだという学生に対して,「僕の今日のネクタイが素敵じゃないとして,面と向かってそう言えるのか」と冗談まじりに詰め寄っていたサンデルはさすがでした.

I realised Sandel's viewpoint is "We are not too strong to do reasoning." This may be the criticism to "universalisation (Liberalism)" as Mr.Inoue is engaged in. In the example of "trolley car", as for liberalism, which should eliminate the discrimination between cases that cannot be universalised, we are not allowed to change our attitude to those two cases as a rule. However, "people are not strong to push the big man" (In my lecture of my self --I had a part time job as a teacher of a cram school-- I treated 'Justice' in my English class, then most of the Japanese high school students in my class answered "no, I can't push!") In Sandel's lecture, to the student saying honesty is absolutely important, he asked if she could say honestly Mr.Sandel's neck tie was not nice. Sandel was nice.

では,我々は何によって突き動かされているか.「文化」です.それが(サンデルがコミットする)コミュニタリアニズムと呼ばれる立場です.サンデルが講義で挙げていた,「家族」「会社」「国」ということに関して,「なぜ我々は身近な者those close to usに重きをおく傾向があるのか,あなたはどう考えるのか」と学生に質問されていた.そこで,サンデルがお決まりの「最後の言葉last words」を言って,授業が締めくくられたのですが,それは彼の思想の根幹に関わる重要な話題です.そこで,サンデルは「Justiceの前にgoodなくして人は生きられない」と明確に言っていました.そして,そのgoodをpurposeと言い換えていました.物事には目的purposeがある.これはサンデルのコミュニタリアニズム(共和主義)の発想の根本にある,アリストテレス的目的論です.(『これからの正義の話をしよう』の第8章で紹介されている.)またサンデルはloyalityやreposonsibilityという言葉も使っていましたが,それも同じことです.それから,どういった行為が共同体で理想とされるかという美徳virtueにも連なります.

So, how can we decide our viewpoint? The answer is "culture". This position is called Communitarianism as Sandel is engaged in. He raised the example of "family", "company" and "nation". One student questioned, why we tend to put high value to those close to us, how Sandel thinks about it. Then, "the last words" of Sandel came as conventional, but this is primitively important to the thought of Sandel's communitarianism. He said that people cannot live without goods before justice. And later, he paraphrased by the term "purpose". The idea "purpose" is attributed to Aristotle theology ('Justice' chapter 8), and this may be related with Sandel's fundamental concept of Justice. Loyality and responsibility may be the same thing. And, "virtue" may be closely connected to the concept as the ideal in communities.

さて,これらの議論を,1月31日に行われるディスカッションのテーマである「格差問題」に当てはめるとどうなるでしょうか.駒場でも学生たちが集まって英語のディスカッションの練習をしていますし,Facebookなどでも事前に意見交換をしてみたいと思います.よろしくお願いします.

Then, how can we apply these arguments to the theme "difference problem" in the coming discussion on January 31th? In Komaba Campus (Todai) students now gather to practice discussions in English, and we will exchange our opinion in Facebook. I can't wait.

テオドール・W・アドルノ 『自律への教育』

テオドール・W・アドルノ 『自律への教育』原千史ら訳,中央公論新社,2011年.

自律への教育 (MEDIATIONS)

自律への教育 (MEDIATIONS)

この本ともう少し早く出会えていれば,最終授業でお話できたのに,とつくづく思っています.いくつか引用をしたので,是非読んでみて下さい.

  • -

6 教育は何を目指して
「教育とは,いわゆる人間形成ではありません.なぜなら,何人も外から人間を形成する権利などもたないからです.しかしまた,単なる知識の伝達でもありません.そのような伝達に,生命を欠いた物的な面があることは幾度となく明かされてきました.そうではなく,教育とはまっとうな意識を作り上げることです.まっとうな意識には,同時に顕著な政治的意義があると言えるでしょう.まっとうな意識という理念は,こう言ってよければ政治の面で求められます.すなわち,民主主義を単に機能させるばかりでなく,その概念にふさわしい仕事をさせようとすれば,自律的な人間が要求されるのです.民主主義の実現は,自律的な人々の社会というかたちでのみ思い描くことができます.」(150-1)

「私たちはもはや,いつになったらベートーヴェンソナタが隣の部屋から聞こえてくるのかと憂いているわけにはゆきません.むしろ,そんなものは聞こえてこないのだ,と覚悟を決めておかねばならないのです.」(157-8)

「他者のもとで我ならぬものを経験する中でこそ,おそらく個性は形成されるのです.」「事態は逆説的です.個人なき教育は押さえつけるもので,抑圧的です.しかし,個々人を,植物に水を遣って栽培するように育て上げようとするなら,そこには人を欺くイデオロギーの面があります.可能なのは,こうした一切を教育において意識化することだけです.そしてそれは,たとえば,今一度順応の話に戻るなら,闇雲な順応に代えて,どうしても避けられないところではっきりと自覚した譲歩を行い,そしていかなる場合にもたるんだ意識に立ち向かうことなのです.個人は,今日では抵抗の力の中心としてのみ生き延びている,と申し上げましょう.」(165)

7 野蛮から脱するための教育
「人々の圧倒的大多数が,文明の概念に見合った人格の陶冶を経験していないばかりか,原始的な攻撃意欲に充ち満ちています.人々は原始的な憎悪,あるいはそれを洗練された言い方で呼ぶなら,破壊衝動に満ちているのです.この破壊衝動は,文明それ事態がおのずと向かう方向,すなわち文明全体が爆発してしまう危険を増大させるのに,相当の貢献をしています.」(168)

「[野蛮の定義について尋ねられたことについて]わかりました.私には抵抗がありますが,おそらくここで野蛮を定義しておいてもよいでしょう.社会の理性的な目的との関係が見通せないような原始的な物理的暴力への逆行が起こる場合,すなわち物理的暴力の爆発と〔人間と〕の同一化が生じている場合,これは野蛮としか言いようがないのではないか,と私は疑っています.その一方で暴力が,すみずみまで制限された状況の中でも,人間の尊厳にふさわしい状態をもたらそうということと明らかに結びついている場合,その暴力を簡単に野蛮と断罪してしまうことはできません.」(174)

「教育における野蛮の永続化は,本質的にこの文化そのものに潜んでいる権威という原理によって媒介されるということも帰結するのです.あなたは攻撃性がその野蛮な特質を捨て去るための前提として,攻撃性を寛大に扱うことを要請しておられます.それはごもっともですが,そのことは,権威主義的な態度を放棄し,頑固で同時に皮相でもあるような超自我を形成することを断念することなしにはそもそもありえません.それゆえ正体不明の権威は,いかなる種類のものであっても解体するというのが,とりわけ幼児期の教育において,野蛮から脱するための最重要の前提です.」(184)

8 自律への教育
「そこ[教育学の文献]には自律の代わりに,実存的存在論によって飾りたてられた権威,絆といった不快この上ない概念が見受けられ,自律という概念をサボタージュすることで,民主主義の諸前提に対して,暗にのみならずまさに公然と逆らっているではありませんか.」(192)
「…〔絆が〕客観的真理であると受け入れられ,なおかつ受け入れられるべき根拠のある立場にもとづいているのではなく,ここではもしかしたら何らかの理由で,秩序や絆がよいものかもしれないという理由で弁護されている点です.自律(アウトノミー),つまり自分の頭で考え,判断すること(ミュンディヒカイト)などまったく気にとめてはいないわけです.」(193)
「何を行うのが正しいのか,いや,そもそも正しい実践とは何なのかを,思考すること,しかも惑わされずに首尾一貫して思考することなく,規定することなどできない,というところまで否定してはならないでしょう.」(193)

「そもそも大人の役割を演じているだけで,まったく大人になっていないような無数の大人がいるからこそ,そうした模範との同一性を,場合によっては演技でカヴァーしたり,大げさに演じてみせたりといったことさえ,せざるをえなくなるのです.自分が本当はなり損ねた役割を,自他ともに信ずるに足るものにするだけのために,威張って見せたり,大人ならこう言うであろうことをべらべらしゃべったりしなければならなくなるわけです.このような他律へ向かうメカニズムは,それこそある種のインテリの間にも見出されると思われます.」(200)

「こうした困難[=自律への妨げ]がある根拠はもちろん社会の矛盾です.つまり,私たちが生きる社会の仕組みは相変わらず他律的で,言い換えると,今日の社会では何人たりとも現実に自らが決めた通りに生きることはできません.(…)このことに立ち向かうことができるかどうか,またどのように立ち向かうかということなのです.」(203)

「こうして,まずはそもそも,人々は騙される,それというのも今日の他律メカニズムは,地球規模に高まったmundus vult decipi,すなわち「世界は騙されていることを望む」であるかだ,という意識を呼び覚ますよう,ともかく試みるのです.」(205)

最後の授業

 皆さん,お元気にしていますか.メリー・クリスマスです.毎年,この時期になると,1月生の授業の最後とともに,今年ももう終わりだな,という気持ちでいっぱいになります.
 先日,1月生の最終授業が終わりました.僕は3年間栄光会にきっちり勤めましたから,これで本当の最後の授業,最最終授業,ということになります.これまでの3年間,ほぼ毎週,週に2日は授業をしていましたから,僕の方はその感覚が抜けきれていません.野球部員の引退明けのような状態になっています.ただ,僕はこれから国家試験がありますから,その勉強の日々を過ごします.その意味で,残り少しですが,受験勉強を控えている君たちと同じ身分ということになります.
 1年間,どうでしたか.思えば,Ch.1からはじめて,本当に様々なことを教えてきました.その都度,難しい話も多かったでしょう.でも,それも,何度も言ってきたように,「わざと」です.僕は,今年,最終年度でしたから,どこまで君たちのポテンシャルを引き出せるか,そのギリギリのところまで試してみたかったのです.その結果,君たちは,とてもよく色んなものを吸収してくれました.嬉しいかぎりです.
 この前の最終授業も,時間がなかったということもありますが(あくまで,僕の授業は英語の授業ですから,英語に関する部分はしっかりとやらねばなりません),多分,最後にしたお話は,抽象的かつ支離滅裂で何を言っているか分からなかったと思います.でも,それでよかったと思っています.わざと簡単な話をして,君たちをお手軽に感動させることは,おそらく,そんなに難しいことではなかったです.そういうネタは僕はたくさん持っています.けれども,授業中にお話しした星の王子様にでてくるきつねではありませんが,大切なものは目に見えない,大切なものは簡単に言葉では伝わりません.本当に価値のあるものとは,そう簡単に分かってしまってはいけない.世の中は決して単純ではありません.僕にそういったことを教えてくれたのは,実は法学部ではなく文学部出身の大学教授でした.いまでも恩師の一人ですが,同時に彼はこうも言っていました.だからといって,解釈という仕事を怠ってはならない,と.言葉はたしかに万能じゃない,けれども(文学者の仕事でもあるので),なお,言葉を紡いでいかねばならない.「感動しろ.大いに感動しろ,しかし,感動だけするな,解釈しろ」とその先生は言うのです.されば,世界の見え方は変えられよう.だから,僕も,授業中に説明しきれなかったところを,こういった形ではあるけれども,言葉を紡いでいこうと思う.それで分かることは,たった一部分に過ぎないとしても.
 僕の授業は常に,くだらない冗談に満ちていました.関西出身の友人の講師からは,僕がくだらない冗談ばかり言ったら,関西人は皆そうだと思われるからやめてくれと言われながらも(とっても,その友人の冗談の方が寒かったという噂はかねがね聞きますが,それはさておき),皆はだんだん笑ってくれるようになってくれました.僕は遊びが大好きです.どんなにハードコアな授業であっても,遊びを楽しむ余裕がなければ,それは人間としてどこか不健全だと思っています.その最後の大物が,授業で見せた,政見放送Youtubeだったのかもしれません.皆,大いに笑ってくれました.それでいいんです.面白いですから.でも,同時に,その政見放送の「裏舞台」についても少し説明しましたね.そのことについては「長くなるから」,Youtubeの関連動画を辿ってみて下さい.僕がその背景を知ったのは,関連動画で出てくるある方がやっているvlog(ビデオログ)です.「おそろしーい陰謀」と一見コミカルに見えるものの背後には,彼が人生を賭けた反管理教育という価値があることに,そしてその大きさとリアルさにゾッとするかもしれません.それでも,なお,笑っていてほしいのです.
 僕の授業では,学生運動の話をときどきですが,断片的にお話しました.その全体像をお話することは,とてもできませんが,僕が駒場時代にずっとやっていたインタビュー活動は,それに関するものです.いまは学生運動などは日本では皆無です.脱原発などの価値を訴えるデモなどは出てきていますが,大学の風景は依然として変わりませんし,60年代のように,大学のキャンパスが若者の政治の舞台になることはもうないんじゃないかな,と思います.皆さんは,なんでそんな遠い昔の話に僕が興味があるのか,疑問に思うことでしょう.それは,僕の受験生時代に遡ることになります.当時,さまざまな師と呼べる人との出会いがありました.その多くが学生運動経験者だったのです.彼らは他の人たちと明らかにパッションが違う,異色の人たちだったのです.どうして,そんなエネルギーが湧いてくるんだろう.その原動力に魅かれました.それがリサーチのきっかけです.僕は駒場時代,立花隆というジャーナリストのゼミに参加し,その機会を使って,全共闘世代と呼ばれる世代の方々に片っ端から話を聞きにいくという活動をしました.最終的には,立花さんも登壇していただいて,大きなイベントを学生で主催することになりました.その成果が「見聞伝」というページに残っています.
 いまでも,学生運動経験者が,予備校で講師をやっています.そのうちの代表的な存在の一人は,もと東大全共闘の議長でいらっしゃった山本義隆先生でしょう.僕は彼にインタビューを依頼したことがありますが,断られてしまいました.彼は,学生運動関係のインタビューはすべてお断りしているということです.先ほどのお話に少し近づいてくるのが分かりますか.「本当に大切なことは言葉では語れない.」いや,語ってしまってはいけないのでしょう.それでも,なお,言葉で語っていかねばならない.でも,簡単ではない.だから,少しずつ,少しずつ.現に山本先生も少しずつ,語り始めています.彼は,学生当時,湯川秀樹の研究室にいた素粒子の優秀な研究者でしたが,挫折を経て,在野で科学史の研究に転身しました.その成果が『磁力と重力の発見』『一六世紀文化革命』などという本になっています.どちらも太い本ですが,とくに後者に関しては,世界史をやっていた人はとくに読んでみたらいい,とおすすめします.その研究のスケールの大きさにきっと感動するはずです.彼が背負っているものを感じながら,読んでもらえれば,嬉しいです.僕が受験生時代に,一生懸命カフェで読んだ本です.すすめて下さったのは,これもまた,僕の恩師の一人である,世界史の先生でした.そういった本で読んだことは,ずっと自分の中に残ります.忘れたくても忘れられない一冊になります.文理を超えるアプローチを大学で研究したいという女の子がいたので,この本を勧めておきました.
 さて,その学生運動ですが,実はいまでも真面目に活動している人たちがいます.僕はそういった,現役世代にもインタビューに行ったことがあります.例えば,法政大学で運動をしている人たち.話を聞いてみると,動機はとってもマトモです.皆,話を聞くことなしに「こちら」と「むこう」に分ける壁を築き,彼ら他者に寄り添おうとしません.あくまで他者とコミュニケーションを取り続けること,それこそが重要だと,今年学習していた正義論の文脈を引いて,何度も君たちに価値を訴えました.他者とコミュニケーションをとっている内に,いつの間にか自己が変容します.その可能性を受け入れることが正義ですし,僕たちが社会に生きているということの証明でもあります.人は人の中でしか生きることができないことの意味です.僕が授業中に引いた,村上春樹の〈システム〉は実は僕たち自身が作り出しているもので,見ず知らずのうちに,自己と他者を分け隔てる〈壁〉がつまりは〈システム〉そのものです.
 いまでも,法政大学にいくと,例えば入学試験なんかでも,ビラを撒いたりしている人たちを見かけます.彼らのやり方があまりに自分たちとかけ離れているので,何か「嫌な感じ」を受けてしまうかもしれません.最近,松山ケンイチ妻夫木聡が出ている『マイ・バック・ページ』という映画を見ました.そのなかで,ある少女が「この闘いって分からない.けれど,なんか『嫌な感じ』がする」といって,この映画は終わるのです.僕が思うに,動機はとても賛同できるものでも(例えば,貧困社会のためになんとかする.例えば,学生の自治による公共性の涵養),大衆運動はあくまで大衆に立脚しないといけません.大衆から遊離してしまった時点で,何か大きな可能性を失ってしまうのではないか,と思うのです.何かの話と似てきました.最初の授業でした,受験システムの話です.受験は不条理だと思う,それは様々な意味で.でも,その不条理を批判したかったら,まず不条理を乗り越えないといけない.システムを変革したかったら,まずそのシステムに適合しないといけないのです.これは,悲しいことです.なぜなら,人はシステムに適合する過程で,多くの場合,そのシステムに食われてしまうからです.人はそんなに強くありません.手段と目的を分離すると,いつのまにか,手段の目的化が起き,多くの場合,うまくいきません.最後の授業でやった,慶應法学部2009年の英語の文章は,まさにそういったことを問題意識にしている,と,マルクス資本論』の価値形態論の話などもひきつつ,説明しました.貨幣—資本—商品という体系の背後にあるのは,具体と抽象を転倒させた物神崇拝なのだというお話,皆,お金に神を見ているんだというお話,直観でもかまいません,どこまで理解してもらったかは分かりません.でも,ずっと説明してきた,学生運動の行く末は,これと同じことになってしまった.ミイラ取りがミイラになってしまった.そして,その〈システム〉からは誰も逃れることができないのかもしれません.
 そのような問題意識を明確に描いたのが,傑作の映画『マトリックス』です.ネオはマトリックスの構造が見えるが故に世界の変革者たるわけですが,そのようなネオもまたマトリックスという〈システム〉の生成物です.こういった論争は,実は1966年のフーコーサルトル論争からあります.サルトルマルクスの影響を受けながら,世界=〈システム〉を変革する主体の可能性を信じた.しかし,フーコーに言わせれば,そのような〈システム〉を変革する主体もまた〈システム〉によって作られているに過ぎない.すべては〈システム〉の生成物なのです.そして,そういうフーコーさんもまた〈システム〉がそう思わせているのであり,と思っている僕もまた〈システム〉の……と,無限に後退します.誰もシステムから逃れることはできない! 村上春樹は,エルサレムスピーチにおける「卵と壁」というテーマで,彼は弱者である卵の側につくと言っていますが,卵だって,所詮はシステムの生成物ということなのです.そういう問題意識で,若松孝二の『実録連合赤軍』を観て下さい.真面目な動機をもった若者たちが,〈システム〉に打ち勝つことができず,どういう成れの果てになったか.そして,構造としては,いまの君たちも変わりはありません.受験という〈システム〉にどう立ち向かうのか,その構えの一つ一つが,実はとても重いです.とても.そして,僕が「笑いが大事です」と言ったことも.何かに囚われないこと.浅田彰が『逃走論』で「逃げろ」と言ったこととそう違いはありません.
 では,どうすればいいのかという〈答え〉ですが,答えはありません.そもそも特定の何かが答えだと固定してしまうことにこそ,問題性があるのです.答えはありません.資本主義にどう立ち向かうのかということとの関連で,一冊本を挙げました.ジョン・ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』.社会主義というのは,今となっては昔の話なのかもしれませんが,その一番の問題点というのは,すごく簡単に言えば,人々を解放しようとして(目的),一つの答えを権力的に押し付けてしまったことなのです(手段).つまり,手段の目的化です.だから,答えはありません.
 けれど,それで終わるのはなんですから,一つだけヒントを出しておきましょう.先ほどの『権力を取らずに世界を変える』にも書かれていることなのですが,「自分の内なる声に誠実たれ」.最後にはそれしかありません.し,最後は自分の判断で自分が生き生きとしていること,これの他はありません.自分が楽しいこと,しっくり来ること,これだと思えること,その価値に誠実になることです.もちろん,それは,自己が社会的に成立しているからには,自己実現は社会的な形で達成されます.その上で,古市憲寿さんの『希望難民ご一行様』や,他にも諸々挙げた若者の「活動」系の本たちを見てみて下さい.(例えば,石松宏章『マジでガチなボランティア』,山口絵里子『裸でも生きる』,荒井悠介『ギャルとギャル男の文化人類学』.)皆,内なる声に誠実です.これでやっと,最後の授業で皆で読んだエマソン『自己信頼』の意味が少しは分かってくれたかもしれません.さらに,なぜ「内なる」声なのか,ということに関して,一つだけ付け加えれば,それはジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』です.ここで,つながりました.
 これからの君たちがどう生きればいいか.残酷にも高いハードルを設定して駆り立てたり,世界を変革することをアジったりはしません.かと言って,あきらめさせろと言うこともありません.ただ,内なる声に誠実に.それが,たとえ,〈システム〉の生成物にすぎないとしても,それでもなおdenn noch,自分に残る価値は何か.耳を傾けてみて下さい.

 3年間,どうもありがとう.

自己信頼[新訳]

自己信頼[新訳]

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

マジでガチなボランティア (講談社文庫)

マジでガチなボランティア (講談社文庫)

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

ギャルとギャル男の文化人類学 (新潮新書)

ギャルとギャル男の文化人類学 (新潮新書)

権力を取らずに世界を変える

権力を取らずに世界を変える

一六世紀文化革命 1

一六世紀文化革命 1

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

16のインタビューと立花隆の特別講義 二十歳の君へ

16のインタビューと立花隆の特別講義 二十歳の君へ

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

校門を閉めたのは教師か―神戸高塚高校校門圧殺事件

校門を閉めたのは教師か―神戸高塚高校校門圧殺事件

答えが見つかるまで考え抜く技術

答えが見つかるまで考え抜く技術

自由論(双書 哲学塾)

自由論(双書 哲学塾)




  • -

2012年,あけましておめでとう.追記です.

授業中に話していた,労働法の話,いろいろと知りたいという方がいれば.

それから,政見放送のムービーをもう一つ追加しておきます.これまで述べてきた話を重ね合わせてもらえれば,いろいろと考えられるかもしれません.ピエロは,詐欺(もしくは,イデオロギー?)の象徴.テレビのスクリーンは,僕たちに何かを見させる〈システム〉と考えてもらってもいいし,『1984年』の「テレスクリーン」と考えてもらっても構いません.コミック雑誌も同じです.でも,それに高らかに異議を唱えるロッカーも「マンガ」なのです.「いつも笑いが絶えないのは,そこに憩いがないからさ.」「Love & Peace, Rock'n'roll」

魔法でわかる「労働法」 ―間違いだらけの労働現場―

魔法でわかる「労働法」 ―間違いだらけの労働現場―