今日の辞世



  人の苦しがるのを見るの、不愉快でしょう。あなた、あっちへいって、なさい。


『骨董』『怪談』等で知られる作家・民俗学者小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)、最期の言葉でございます。狭心症の発作を起こし、妻・節子に上記の言葉を残した後、床に就いて間も無く亡くなったそうでございますが、実はこの1週間前にも同じ発作を起こしていたようでございますな。その突然の発作に八雲は己の死を覚悟して、「私、新しい病気、得ました。……この痛み、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。私、死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶、買いましょう。3銭、あるいは、4銭くらいの、です。私の骨いれて、田舎のさびしい小さな寺に、埋めて下さい。私死にましたの、知らせ、いりません。もし人が尋ねましたならば、はあ、あれは先ごろ亡くなりました。それでよいです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい」と遺言らしきものを語ったそうです。その時は呼ばれた医者が来るまでの間に発作は治まり、事なきを得たようでございますが……はい、拙サイトのタイトルは此処から頂きました。実は私も不整脈持ちですので、狭心症の事をネットで調べている時に偶々この八雲の言葉に辿り着いたんすよね。はあ、あれは先ごろ亡くなりました。うん、実際それぐらいで良いよなあ。でまぁこの2回目の発作ですけど、食後の一服、喫煙中に来たようでございますな。やっぱ喫煙って色々影響あるのねえ。まぁ止める気はしないっすけど。

今日の辞世



  来山はうまれた咎で死ぬる也  それでうらみも何もかもなし


元禄時代に活躍した談林派の俳人・小西来山の辞世の句でございます。談林派ってのは江戸時代に栄えた俳諧の一派(井原西鶴も派を代表する俳諧師なんですけど、『好色一代男』等の浮世草子作品の方で有名でございますわね)で、言葉遊びや駄洒落など軽妙な言い回しの句が特色なんですけども、来山の句は芭蕉の作風(蕉風)に通じるものも見られて、何事にも型に嵌まらないとゆーか、物事にはあまりこだわらない方だったみたいですわね。代表作にも挙げられる「御奉行の名さえも知らず年暮れぬ(御奉行の名前を知らなくても一年は過ごせる)」は、元禄当時好景気に沸く大坂に対しての皮肉とも云われてますけど、奉行を愚弄したと取られて大坂から追放されてしまいました。が、特に気にする様子も無く、浪花の南今宮村に「十萬堂」という庵を建てて移り住んで静かな晩年を過ごしたようでございます。ちなみにこの十萬堂跡地には現在石碑が建っているようですが、半ばゴミ捨て場に化しているとかゆー話を聞いたんすけどホントかしらん。物事にあまりこだわらない方の元には物事にはあまりこだわらない人が集うのかしらねえ。他にも酩酊して夜道をぷらぷら歩いているところを「怪しい奴」と目付に咎められ投獄された事もあったようですが、迎えに来た門人に「自炊しなくても良いから気楽だった」と笑いながら応じたとか。何事にも拘らない。まぁしょうがないって感じに大らかに物事を捉え、怒りや悲観等で己を失うことを良しとしなかった人だったのかなぁと個人的には思いますわ。だからこその、この辞世の句、なんでしょうねえ。

今日の辞世


  もののふの 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも


幕末・会津の女性、中野竹子の辞世の句でございます。2013年大河ドラマ『八重の桜』に、主人公・新島八重(山本八重子)のライバル役として登場するようですな。史実においては会津藩では知らぬ者がなかったと云われるほど、容姿端麗、文武両道の才女だったみたいですわね。戊辰戦争が始まって、戦勝の勢いに乗る西軍が城下に侵攻した際、「ここで自害して果てるより、照姫様をお守りするために戦いましょう」と、会津藩主・松平容保の義理の姉、照姫を守るべく、母・こう子、妹・優子らとともに「会津婦女薙刀隊」通称「娘子隊(じょうしたい)」を結成し、会津藩兵の一隊として城下から攻め進んできた長州と大垣藩の兵を相手に奮戦しましたが、戦闘の最中、不運にも流れ弾が胸を貫通し、18歳(22歳とも)の短い生涯を終えたようでございます。しかし何でしょね。不謹慎かもしれませんけど、個人的に昔からこういった“戦う女性”には、ときめきにも似た強い憧れを覚えるんですわよね。強い女性が好きなのね私。マゾなのかしら? 女の子に苛められたい願望でもあるのかしら。いや無い(反語) まぁおそらくは、学生時分にどっぷり嵌って読み耽っていた、新井素子氷室冴子の作品からの影響が強いんじゃねーかなって気もするんですけど、坂額御前や巴御前、鶴姫の活躍譚には非常に心惹かれるものがあるのでございますよ。戦いの根底にあるのが「想い人のため」なんてのが特にね。強い女性と云えば『ベルばら』のオスカルも好きでしたわねえ。そー云やオスカルも狙撃に遭って亡くなったんでしたっけ。主君の為に大軍の渦の真中を死に場所と決めて特攻する、爆散上等な男の美学も好きですけれど、気高く咲いて美しく散る、華やかで儚い女の美学にも憧れる次第なのでございますよ。

今日の辞世


  旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る


さて、松尾芭蕉の辞世として有名な句でございますけれども、要は「結果的に最期に詠んだ句」であって、前詞に「病中吟(病床にあって詠んだ句)」とある事から、芭蕉本人も別に辞世として詠んだつもりはなかったってのが昨今の解釈でございますな。死の直前まで「夢は枯野をかけ廻る」か「なをかけ廻る夢心」かとで悩んで、枕元の弟子たちにどちらが良いだろうかと尋ねていたぐらい創作意欲は衰えていなかったようですが、問われた弟子たちはそのどちらが良いかってゆーよりも、上の句(六文字)の方が気になっていたみたいですわね。


  此夜深更におよひて介抱に侍りける呑舟をめされ、
  硯のおとからゝと聞えけれハ、いかなる消息にやと思ふに、
  病中吟  旅に病て夢ハ枯野をかけ廻る  翁
  其後支考をめして、なをかけ廻る夢心といふ句つくりあり。
  いつれをかと申されけるに、其五文字ハいかに承り候半と申さは、
  いとむつかしき御事に侍らんと思ひて、
  此句なにゝかおとり候半と答へけるなり。
  いかなる微妙の五文字か侍らん。今ハほいなし。
                ――芭蕉翁追善之日記より


  夜更けに呑舟(弟子の一人)を呼び出した後、墨を磨る音が聞こえたので
  一体、何してんのかしらと思っていたら、口述を書かせてたみたいっすね。
  病床にて詠む  旅に病て夢は枯野をかけ廻る  翁(芭蕉
  その後に支考(日記の著者)を呼んで、「“なをかけ廻る夢心”とゆー
  バージョンも考えたんだがどちらが良い?」と聞かれたわけでございますよ。
  それより上の五文字はどうなるのでしょうか、と聞きたかった所だけども、
  体調が悪いのに余計に頭を悩ます必要も無いかと、一応空気を読んで、
  「この句で良いと思いますよ」と無難な答えを返した次第ですわ。
  しかし、一体どのような上の五文字を考えていたんだろうか。
  今となっては聞くことも出来ないんだけれども。


ま、何やかんやと考察されてますけど、「毎日毎日の句を辞世の気分で詠むもの」とゆーのが芭蕉の信念だったようなので、この句も辞世と云っちゃえばそれでも構わないんですわよね。「病中吟」と断りを入れなかった(病床に伏す前に詠んだ)最後の句は「秋深き 隣は何を する人ぞ」だったみたいですけど、この句も辞世と云えば辞世。つーか面倒くさい事考えないで、とりあえず詠みたい時に詠んで、何時終いになっても構わないってのが正解な気も致しますわねえ。まぁどうでもいいですけど。ちなみに「どっちが良いかなぁ」と悩む芭蕉の近くで、場の空気に緊張した弟子の一人が派手にすっころんで、「はっはっは、しょうがない奴ですねぇ、翁」と皆が笑いながら芭蕉を振り返ると、何時の間に息を引き取っていたみたいですわね。この話が本当なら、芭蕉の死因は脱水症状よる衰弱死じゃなくて心臓麻痺とかだったんじゃないかしら。

今日の辞世

  悠々たる哉天壤、
  遼々たる哉古今、
  五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
  ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
  萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」
  我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
  既に巌頭に立つに及んで、
  胸中何等の不安あるなし。
  始めて知る、
  大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

辞世の句としては日本では一番有名とも思われる、藤村操の「巌頭之感」でございます。まぁ有名なだけあって現在までに様々な考察が為されているので、今更私がどーこー云うまでも無いんすけど、取り敢えず私なりの言葉で超訳してみますわよ。

  やっべ、世界広いわ。宇宙キター。
  あと何時から始まってんだか知らない時間ってすげーわ。
  150ぐらいの背丈で、この広くてすげーやつの事を考えても答えが出ないっすわ。
  何か良い事云ってそうな哲学にしても、特に信憑性とか無いし余計解らないっす。
  この世の真相とか云っても、要は「不可解」の一言で済んじゃうんじゃないかしら。
  まぁ色々悩んだんだけれども、結局解んないからこの世から消える事にします。
  こうして飛び降りるために華厳の滝の絶壁に立っていても、特に不安とか無い感じ。
  こうなって初めて分かったけれども、達観したら悲観も楽観も大差無いっすね。

……まぁちょっと超訳過ぎたかしらん。不快に思った方がいらっしゃいましたらあしからず。でもアレよね。自分なりの訳でも自分が納得したら良いと思うの。よくテストで見たけれども「この時の作者の心境を答えなさい」とかゆーのが一番困りますわよね。んなもん作者以外知りようが無いやんか。後付けの多数決をなぞらせてどうすんねん。まぁ学生時分の私は「締切怖いわあ」って解答して、後で先生にめっちょ怒られたんすけど、別に間違ってるとは限んない気もするんすけどねー。うん、その時の作品は漱石の「彼岸過迄」だったわけだし。ああ、そー云や藤村操って漱石の教え子でしたわね。彼の投身自殺が漱石晩年のノイローゼの一環とか云われてますけど、まぁ「I LOVE YOU」を「月が綺麗ですね」と訳すぐらいの繊細さと奥ゆかしさを持つ人ですから、それこそ「巌頭之感」ばりに色々悩んだんでございませうなあ。若しくは夢日記なんて付けたからですわね。でまぁ話を「巌頭之感」に戻しますけれども、この句ってやっぱり不可思議ですわよね。死を目前にした人に統合性を求めるってのもアレですけど、それでも何か不可思議な内容なんすよね。この世のすべてに疑問を持って、とりあえず「不可解」って答えを出して、絶望するのと安心するのって超似てるとか云って己の人生の幕を引いたわけですから、結局何がしたいねんってゆー話ですわよね。「解らん」と絶望して「答えは“解らん”だ」と安心して、「あ、やっぱダメだわ」って結果を選ぶ過程がよく判らないんですよねえ。まぁ現在で云う東大生の彼と、全プリキュアのフルネームと必殺技が云えるのが数少ない自慢でしかない私の頭脳を比べること自体がナンセンスかもしれないっすけど、それでもやっぱり理解は出来ないんすよねえ。まぁ、うん、無理やりに解ろうとするならばですけれど、この「不可解」ってのを「わけがわからないよ」と訳すんじゃなくて、「答えを出しちゃいけない」と無理やり解釈するなら、一応意味は通るんすよね。この世はわけがわからない。もしかして答えなんか出しちゃいけないのかしら。そんな世なら死ぬのも生きるのも一緒だ。これなら全プリキュアのお母さんの名前が云えるのが数少ない自慢でしかない私にもギリギリ判るんですよね…………とかまぁ此処まで色々と書き殴ってきましたけれども、結局のところ、まぁどうでもいいや。個人的には今日呑むビールが美味しかったら、ネギと鰹節をたっぷりかけた冷奴が美味しかったら、この世のすべてがおかしかろうと大体良いです。

今日の戯言

今季、私がプリキュア以外に視聴しているアニメは3作品、『峰不二子〜』『ニャル子さん』『氷菓』なわけなんすけど、何か久しぶりにどれも迷い無くソフト購入意欲が湧くとゆーか、私個人の嗜好にかなり嵌った良作揃いの期だなぁとか思ったり思わなかったりしてございますよ。この3作品の中でも特に…うん、自分でも少し意外に思いますが、原作は読んでいたけれども特に最初は視聴予定では無かった『氷菓』に惹かれてますわね。これが京アニクオリティか、なんて軽く云っちゃうのも色々な意味で生半可な気も致しますが、いや何でしょね、そりゃ映像メディア化なわけですから、原作とは相違点が出てくるのも已む無しなんすけど、それが個人的には納得できる範囲とゆーか、素人が偉そうに云わせてもらえるのなら「原作のリアルな軽い虚無感・虚脱感な締め方を、多少性善説寄りに振ったとしても物語的には大差無い」って感じでございますかしらね。特に7話のラストを観てそう思ったんすけども、原作のフキノトウのようなほろ苦い締めも良かったんですけど、アニメにおいては多少の救いを見せて後味を良くしたんですよね。つーかどっちの場面をラストにしたって、それは千反田さんの見た光景が「偶々そうであった」とゆーだけで、どーゆー味を切り取ろうとも姉妹の本質においては何ら変わりは無いわけですから、坂の下で足を捻ってしまった妹を気遣う姉が、あの後冷たい態度をとるかもしれないし、千反田さんたちを坂の上から手を振りながら1人で出迎えた姉が、あの後お祭りに行って妹のために綿菓子を買って帰るかもしれない。でもエピソードの締めとしてはどちらがより万人向けかって所なんすよね。未だ絆を蔑ろにすると叩かれる傾向のある世ですから、もしかしたらそこら辺を加味してのシーンだったのかもしれないすけど、個人的には物語的に大差無いのなら、アニメでのラストの方がより良かったと思う次第でありますわ。それはともかく『スマイルプリキュア!』第19話 「パパ、ありがとう! やよいのたからもの!」 感想。


じぶんのなまえには、どういういみがあるのかな? 学校で、じぶんのなまえについて調べるしゅくだいがでたみゆきたち。やよいは、おうちにかえって、ママになまえのことをきいてみたの。するとママは、「パパが『やよいにする』って決めたのよ。どうしてそうしたのかは、やよいにはなしをしたって言ってたけど…。」とおしえてもらったわ。やよいのパパは、やよいが5さいのときに天国へいってしまったの。パパはやよいに、なまえを“やよい”にきめたりゆうを、おしえてくれたはずなのに…。やよいは、パパがなにをおはなししてくれたのか、おもいだせない。パパはわたしのこと、どうおもってたんだろう? しょんぼりするやよいのまえに、ウルフルンがあらわれた! やよいは、パパとのだいじなおもいでをおもいだせるかな…!?(朝日放送公式HPより)


……ってな内容でございましたが、名前の由来と聞いてアルファルファのネタを思い出してしまったのは内緒だ。豊本明長氏が「親が蛍光灯を見て思いついたんだって」ってゆーやつね。つーか東京03になってから、あんまりシュールなネタをやらなくなったよなあ。それはそうと今回はアレね。個人的には今シリーズ最高の回だったと思いますわ。夏服に衣替えしたしね。いやそこじゃなくて、レッツゴー! く・ち・べ・に! 口紅だと思った? 残念、ブローセットでした。いやそこでもなくて、うん、最初に目についたところと云えば、今話のテーマ、父親との思い出に沈むやよいの心境と、季節が梅雨時でどんよりした空模様ってのに合わせて、全体的に暗い色調で物語が進んでいったとこですかしらね。プリキュアって結構陽光や降雨降雪で自然の自然な演出しますわよね。『フレッシュ』でのラブとイースのガチバトルからパッション誕生までのシーンとか、『ハートキャッチ』でもサンシャイン覚醒のシーンがそんな感じでしたものね。あ、そうそう、『ハートキャッチ』と云えば、今回、あのやよいママがマネジャーらしきものをやっていたファッションショーで“来海”先生から電話が来てましたし、ショーのBGMで流れていた曲ってえりかっちのキャラソンでしたわねw やっぱそーゆー事なのかしらねぇ。まぁえりかママの方だろうけど。でまぁそのショーの最中にやよいが「今はママの宝物」と過去に父親に宛てて書いた手紙を渡されましたけど、うん、個人的に一番うるっときたシーンはあそこでしたわw 稚拙な絵とたどたどしい文字はまぁよくある演出ですけど、あの折り紙は何かじーんときましたわ。上手に折れてるんだもん。頑張ったんだろうなあ。そして父親とのひみつを思い出して、愛されていた事に改めて気付き、敢然と敵に向かう成長したやよいも良かったですわねえ。ピースサンダーで怯えなくなったしねえ。頑張ったんだろうなあw あとは……アレですかしらね。親に自分の名前の由来を尋ねるそれぞれのシーンですけど、なおの父ちゃん、おっとこ前でしたわね。娘に褒められても嬉しかねぇや。その父親の背中を見つめながら腕組みして柱にもたれるなおも決まってたしね。カッコ良い父娘ですわね。うん、ホント父親に似てよかった、なおw