声カタマリン

 さて、というわけで、ルセルクルさんの「言葉の暴力」。

 この本の少々難しいところは、やはり言葉の暴力というその暴力の性格と対象が多様すぎる点にあることでしょう。もちろん、我々が日常でよく知っているような「言葉によって情動が喚起され、その情動は大きく分類すれば苦痛ないし不快と呼ばれるような情動である」という意味での言葉の暴力もあります。他面では、言語学的な意味での暴力、すなわち、この本ではラングと呼ばれる共時的な言語構造を侵犯していく言語それ自体の持つ働きも。さらには、言葉に対する暴力(本書ではドゥルーズ=ガタリによって取り上げられたことでも知られるウルフソンがその代表格としてあげられますが)という側面、つまり、既存の言葉にたいして暴力的な操作を行うことでみずからの意に沿った表現を可能にする、という側面も見られます。本書の最も大きな魅力の一つは、こうしたさまざまな形で「言葉の暴力」にかかわったひとたち(もちろんわれらがフロイトせんせいもラカンせんせいもそのお仲間です)が入れ替わり立ち替わり紹介されては、奇人たちの宴を繰り広げている点にありましょう。ウニカ・チュルンのアナグラム、ジャン=ピエール・ブリセ、ルイス・ウルフソン、そしてクラストルの紹介するグアヤキ族(ああこの他人とは思えない男たち!)、ハイデッガー、ホーン・トゥック、ラッセル・ホーバン、ベイトソンの紹介するパーシヴァル、ファヴレ=サーダ等々。こうした奇人列伝を愛を持って紹介するルセルクルさんの筆致によって、オモシロ図鑑としての役割を果たしてくれる、というのも、本書の大きな魅力の一つです。

 確かに、それらはさしあたり「よけいなもの」あるいは過剰というカテゴリーに放り込むことはできます。大きく出てしまえば、世界のなかに付け加えられた過剰として。そしてその過剰がどちらにどう向かうか、それが暴力の性質と対象の多様さをかたちづくるのだ、と。

 まあ、それ自体にとくに反論があるわけではないのですが、その多様さを追っていくルセルクルさんの論旨は、どうしてもとっちらかってしまいがちです。それはちょうど、大掃除の際に見つけた本が面白くて読んでしまい、途中で気が付いてその本はしまうのだけれども、また別の本に目がいって夢中になり、といったぐあいです。まあ、扱っているテーマの性格上そうならざるを得ないことはご本人も認めていらっしゃることですから、そこをあげつらうのも味気ない、仕方のないことではありますが、部分的には明確化、理論化体系化とまでは行かずともその試みとおぼしき箇所もあったりするので、そのあたり、読みやすい割には難しいところもある本ではあります。


 とはいえ、ここに精神分析業界的な補助線を一本引いてみたらどうだろう、というのが、まずは最初の試み。

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よけいなもの=あまりもの?

2008年12月24日

 ひとには、使命というものがあります。

 人生でなんらひとさまに責任を負わず、なんら約束をせず、ひとさまが居ようが居まいが行い続けるであろう信念ある行動にもモラルある振る舞いにも乏しいわたくしではございますが、この日にきっちり更新するという使命だけはきっちり果たしたいと、こう思うわけですよみなさん。ええ、誰も聞いていないですね。しかし良いのです。この一週間孤独に風邪で寝込んでいたにもかかわらず、それでも立ち上がって今日この日に更新する責務だけは果たそうとするこの後ろ姿の凛々しいこと!(色んな意味で隠れもなく知られている広大に輝く前額部のみならず、さいきん後頭部も薄くなってきたというはなしがあります。ひみつです。)


 まあそれはともかく、そんなわけで取り上げてみようと思うのは、「言葉の暴力」。うん、じつに今日の嘉き日にふさわしいテーマです。おまえらクリスマスクリスマスいうな今日の予定は聞くな年齢も聞くな独身かどうかとか聞くなそれに(略)も聞くな。うん、本当にこういう日のためにあるテーマですね。
 とはいえ、この種の「言葉」がなぜ暴力になるのか。それを理解するには、やっぱり言語遂行論についての若干の知識が必要だ、というのが、いちおうはスタンダードな回答でしょう。しかし、ジャン=ジャック・ルセルクル「言葉の暴力 「よけいなもの」の言語学」(岸正樹訳、法政大学出版局、2008)では、ここをラカン派のララングと、それからドゥルーズ=ガタリリゾームとの接点にもってくるという、まあ派手にアクロバティックな芸が展開されることになります。いや、これはあくまで第一章の内容でしかないわけですが、今回は体力上の都合もあって(ほんとに寝込んでたんだい)序および第一章だけを手短に扱うことにしましょう。



 ルセルクルさんといえば、「現代思想で読むフランケンシュタイン」(今村仁司、澤里岳史訳、講談社、1997)ですでにご存じのかたも多いかと思われます。この本でも、「現代思想」と題されてますがとくに精神分析系の色彩は濃厚でしたしね。にもかかわらず分析哲学チョムスキーの研究者である、と。おかしいぞこういう人は普通ブーブレスみたいな本を書くんじゃないのか、という期待をしてしまうのですが。それと、もうひとつ昔から気になるのは、「ルソーの世界 : あるいは近代の誕生」(小林浩訳、法政大学出版局、1993)のジャン=ルイ・ルセルクルさんとは関係あるのかしら、ということ。なにせ、今回扱う方のルセルクルさんはジャン=ジャック。ルソーといっしょ。これで二人のルセルクルに関係があったりするとえらいねじれ現象なわけですが、うん、ややこしい。


 まあ「フランケンシュタイン」もそうでしたが、この本もちょっとアイディア一本勝負そのぶんちょっと尻切れトンボ気味、というきらいがなくはないわけですが、それでもアイディアが貴重ならいいじゃないか、ということで、まずはてみじかに見ていくことにしましょう。

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逃走するキノコたち

 さて、またしてもちょっと間が空いてしまいました。

 もう何をやっていたか忘れそうですが、いちおうわれわれがやっていたのは、レオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)。うん、いくらお金があっても、覇権を握ってても、きーのこにんげんじゃあねえ、ってはなしでした。

 今回は、レオ・シュトラウスにしたがって、まとめに入りましょう。ホッブズの二つの革新があると。その一つは権利の法に対する優越であり、もうひとつは、主権という理念の十全な重要性の認識である、と。今回は(というよりレオ・シュトラウスの議論の都合上)後者はそれほど展開できませんでした。またいずれ別の本から取り上げましょう。
 それはともかく、この二つは直接に関係し合う、とレオ・シュトラウスはいいます。古代においては、このような近代の問題と類似する問題設定が別の形を取りました。それは、誰が支配すべきかという問いだったのです。それに対する答えは法でした。なぜなら、法は理性的であるからです。かれらには支配者たる権利がある。一番理性的な奴が支配者だからです。

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牛に願いを


 近江牛に釣られて急ぎの仕事を引き受けてしまったので、すっかり間が空いてしまいました。

 怒濤の貧困生活が災いして、タンパク質不足が続いていますから、うん、そりゃ意志は強くても牛には弱くてもしかなたいよね、とひきうけたは良いですがこれが結構難物で、なんとかかんとか〆切前に無事終わらせたから良いようなものの、さて、これで牛を踏み倒されたらどうしよう、とひむがしの空を見上げながら考えていたわけですが、するとまあ、牡牛座のプレイアデスあたりに巨大な流れ星が。

 ああそうだジャコビニ流星群が来るとかいうのだった、ジャコビニといえばアストロ球団アストロ球団といえばアストロズ、ことしは終盤の追い上げにもかかわらずシカゴはおろかミルウォーキーにも届かなかったな、シカゴといえばブルズだやっぱり牛づいてるな、と、連想が進んで、そういえばノーベル賞を取った南部博士(ガッチャマンを連想)はシカゴ大だっけ、あれシカゴ大と言えばだれかいたような・・・で、ようやくレオ・シュトラウス。長いよ。

 そんなわけで、前回、前々回ともうなにを話したのかすっかり忘れてしまいましたが、今思い起こせばそれは、レオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)だったはず。メインテーマはキノコパワーじゃなかったキノコ人間。牛からキノコなんてタンパク質的には大暴落ですが、まあ仕方ない。

 さて、このキノコさんたち、かれらにとっての第一原理は暴力によってもたらされる死を回避することでした。しかも、その自然状態の恐怖を評価する唯一の理由は、その恐怖の意識のみが持続的社会を基礎づけるからだ、と。うん、なんとなく思い出してきた。
 とはいえ、ここまではまあまあ普通の話。しかし、ここで、あれ、という一ひねりが。その一ひねりを付け加えることで(はじめて)見えてくる展望があったりしたのです。なんてことを言いたかったはず、たしか。

 じゃあなによそれ、ってはなしですが、それが以下です。

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賢者の石

 というわけで、前回は「イギリス哲学で読む『星の王子さま』」なるインチキな小ネタをマクラに、そのままレオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)になだれ込んだわけでした。

 この書物での、レオ・シュトラウスの主張はとっても明快です。近代的思惟の根源としてのホッブズ。つまり、若き日に身につけた人文主義的な教養から脱し、かつその時代のガリレイ的科学主義の影響を受けつつもそれとはまた別のところに根をもつ思想家としてのホッブズを、その初期著作から検討していくことで、その根源的なオリジナリティを示すこと。

 レオ・シュトラウス自身の説明を借りましょう。かれによれば、ホッブズの基準となる信念は近代特有のものであり、それこそが、近代意識の最下、最深の層に他ならないものです。この思想が浮かび上がったのは、まさに歴史上のほんのわずかな空白期間、すなわち、古代に起源を持つ伝統が動揺しだし、かつ近代的自然科学の伝統がいまだ形成されず固定化されていなかった、そんなつかの間の時期であり、ホッブズはまさにこのときに思索を行ったのです。しかし、このつかの間の時期こそが、それ以降の全時代にとって決定的に重要なものとなります。すなわち、近代的思惟はここから見たときに初めて根源的に理解されるのです。(7)

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マタンゴ

「いくら頭が良くったって、可愛くたって、キノコ人間じゃあねぇ」
(筋肉少女隊『マタンゴ』)

「ゼニ勘定のほかすることない。おまけに毎日毎日ぼくはぁ〜カタギの男だからなぁ〜カタギの!ってそればっか。でもそんなん人間ちゃうで。おんどれキノコや。」
「ん?なんやって?」
「キノコやっちゅうねん!」
(『こぼんさん』第7章)

 さて、下のほうの引用箇所、フランス人のイマジネールには人をキノコにたとえるっつうのはありませんな、と、加藤晴久先生は注釈をつけていらっしゃいます(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、「自分で訳す 星の王子さま」(加藤 晴久注釈、三修社、2006)、67頁)。上を見ても分かるように日本人にはあるで〜、と威張ってみたいところですが、意外にもこのイマジネール、じつはイギリスにはあります。それもなんとホッブズ。ここは孫引きですが、レオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)の154頁に引用されているホッブズの言葉を見てみましょう。

「たったいま突然に、大地から(茸のように)出現し成人となった」(『市民論』, VIII, 1)


 なるほど、キノコ人間です。

 しばしば、新自由主義からリバタリアンにいたるまでの人間観は、合理的計算に従う自律的な人間を前提としすぎだろう、という批判があがります。まあそれが良いことか悪いことかはさておいて、ホッブズせんせいはすでにこれをキノコ人間という卓抜な比喩であらわしていました。もうひとつ別の作品から大槻ケンジに従うのなら、

「キノコパワー どこか僕を連れて行って キノコパワー 遠く高く 放り投げてくれ」
(筋肉少女隊『キノコパワー』)


とお祈りして、この社会に是非とも適応したいものだ、と切に願う今日この頃です。いや、ジョン・ケージが、という反論は認めません。それともかれらはどこかで通じ合うのだろうか、という仮説は、興味深くはありますが、これはもうちょっと考察が必要ですから、いまのところはやめておきましょう。

 まあ、それはともかく、ホッブズ。さらにレオ・シュトラウスから続きを引きましょう。どれもホッブズの著作のパラフレーズです。

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イタチ on the run?

 さて、ここ二回ほど、ブルーノ・ラトゥール「虚構の近代 科学人類学は警告する」(川村久美子訳、新評論、2008)を読みすすめて来たわけでございます。

 セールのこの「準-客体の理論」の節は、それ自体とくにラカニアン的にも多くの示唆を与えてくれる箇所ですが*1、とりあえず脱線は避けておきましょう。
 とりあえず、ここでは前回紹介しそびれた、仲介と媒介の区別だけをおさえておけば十分です。*2パスされるボールはパスする人間からパスされる人間へのメッセージを仲介するだけのモノではない。むしろ、すなわち移送するもの(この場合はパスの出し手)を翻訳し、定義し直し、再配置し、裏切ることができるアクターとして捉えられるようになるべきものです。たしかに、意外なパスの一本が通った局面というのは、パスの出し手受け手そして局面全体を再配置することになるはずであり、そのパスが意外であればあるほど、ボールそれ自体がある種の主体として周りを動かすものとなるはず。逆に言えば、そこから形成される社会的絆、あるいはチームケミストリーとは、つねに意外性、あるいは(良い方向でも悪い方向でも予想や期待を、という意味での)裏切り者という側面を持つはず。この辺はオシム先生に聞いてみたい気もしますね。

 この区別がなぜ重要かと言えば、セール本人の著作が「パラジット」すなわち寄食者、居候、ノイズを意味する語であることからも分かるように、それはノイズであり、関係を損なってしまうものであり(ていうか関係が直接的なものになって100%ぴたりと行くんだったら関係じゃないでしょ、とセール先生居直ってます。こんな居候になりたい。。。)しかしそのことで整流器として、新たな意味の創造をもたらす者として機能するとされているからです。*3ラトゥールに言わせれば、媒介はそれ自体、自律的な出来事であり、媒介者は自ら媒介する相手の存在者も、翻訳の内容自体も作り出す、ということになっていますが、それはここまで見てきた説明によってだいぶ明らかになってきたのではないかと思います。

*1:というより、この節のセールの記述は、イタチから割符にいたるまでラカンの用いたたとえ話とぴったりおなじで、さすがにここまで一致するとあんた知ってたでしょ?とセールさんに聞きたくなるのもやむを得ないところです

*2:英語版は手元にないので分かりませんが仏語版で見る限り媒介mediateurと仲介intermediateurでしょうか。ちなみにこの区別もセールにあります。

*3:ノイズ、寄生者、非関係。さきほどはラカンの比喩とぴったり一致する、といいましたが、ここまで来るとむしろ、ラカンのさまざまな時期を一つの概念枠の中に整理し直すいい機会を与えてくれているようにさえ思えてきます。あるいはおおざっぱになっただけかもしれませんが。

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