翻訳の仕事をしました
久しぶりの更新が宣伝というのもアレですが、ここを見てくださっている方には耳寄りな情報ではないかと思うので、お伝えいたします。青土社の『現代思想』がフッサールを特集した増刊号が出ました。私も翻訳者としてお手伝いさせていただきました。二本の論文を訳しています。2000年代以降のフッサール研究の動向の一部を窺い知ることができる、(私の知るかぎりでは)数少ない日本語の読み物の一つです*1。しかも、この特集号のために訳されたフッサール自身のテクストや、原文でさえも古い雑誌にあたらないと読めないデリダの初期の仕事の翻訳も収録されていて、非常に充実した内容だと思います。ぜひ書店で手にとってチェックしてみてください。目次は以下の通りです。
【テクスト】
評価と行為の現象学
形式的および実質的な価値論と実践論 / エトムント・フッサール (訳=吉川孝+八重樫徹)【フッサール現象学】
〜理性〜
〈視ること〉 の倫理 フッサールにおける 「理性」 概念の再定義 / 田口茂
〜倫理〜
生き方について哲学はどのように語るのか 現象学的還元の 「動機問題」 を再訪する / 吉川孝
〜意味〜
現象学的な意味の理論
ブレンターノからインガルデンまで / アルカディウス・フルヅィムスキ (訳=植村玄輝)
〜自己意識〜
夢、悪夢、そして自己覚知 / ニコラス・ドゥ・ウォレン (訳=村田憲郎)
〜現出すること〜
超越論的現象学批判 / ルノー・バルバラス (訳=齋藤瞳+河野哲也)【間文化現象学】
〜間文化性〜
現象学と間文化性 / 谷徹
間文化性への現象学的パースペクティブ / ベルンハルト・ヴァルデンフェルス (訳=相澤佑佳)
〜暴力〜
暴力現象学の構想 / ミヒャエル・シュタウディグル (訳=神田大輔)【臨床現象学】
〜リハビリテーション〜
行為の現象学へ / 河本英夫
フッサールとリハビリテーション キネステーゼの神経哲学を求めて / 宮本省三
「現れ」 考 沈黙する身体からの手続き / 人見眞理
〜精神医学〜
超越論的テレパシーを貫く治療者の欲望 フッサールとドルト / 村上靖彦【交叉/横断】
〜認知科学〜
現象学と認知科学 展望と危険 / ダン・ザハヴィ (訳=伊藤周史)
〜分析哲学〜
「充実」 概念について / ジョスラン・ブノワ (訳=植村玄輝)
〜論理学〜
全体と部分の現象学 メレオロジーとフッサール / 齋藤暢人
〜政治哲学〜
歴史と社会に耐えて / イヴ・ティエリ (訳=亀井大輔)【継承/転回】
〜リシール〜
現象学の鋳直し / マルク・リシール (訳=澤田哲生)
〜マルディネ〜
超受容性について / アンリ・マルディネ (訳=塩飽耕規)
〜デリダ〜
エトムント・フッサール 「現象学的心理学―― 一九二五年夏期セミナー序論」
/ ジャック・デリダ (訳=松葉祥一)
J・N・モハンティ 『エトムント・フッサールの意味の理論』 / ジャック・デリダ (訳=松葉祥一)
〜ドゥルーズ〜
ドゥルーズと発生の問題 / 鈴木泉
第二章が膨らんでいる
一月くらい放置してしまった。博論執筆はといえば、いまだ『論研』の周辺でうろうろしている。しかし、長い時間をかけたおかげか、『論研』を統一的な著作として読む自分の解釈が一段階深まったような気がする。『論研』の第一巻と第二巻はいわば分業体制のもとで一まとまりの大きな問題に取り組んでいる、というのがこれまでの考えだった。最近は、二つの巻はもっとずっと複雑に関係していると考えるようになった。というわけで、心理主義批判のあたりからきちんとやり直さないとと思って関連文献を読みながら執筆を進め、その結果、一章ですませる予定だった『論研』についての章を二つに分割する必要が出てきたというのが現状。
Hanna 2008, De Palma 2008
- Robert Hanna, "Husserl's Arguments against Logical Psychologism (Prolegomena §§ 17 - 61)," 2008.*1
- Vittorio De Palma "Husserls phänomenologische Semiotik," 2008.
『論研』関連の二次文献調査。どちらも、Klassiker Auslegenシリーズの『論研』の巻に収録されている*2。Hanna論文は、『論研』第一巻におけるフッサールの心理主義的論理学批判がどれも同じようなかたちの議論になっていることを示しつつ、それらの議論を後で支えている、「論理法則に従って推論すること」と「論理法則から推論すること」の区別の重要性を指摘するもの。なかなか面白かった。De Palma論文は、第一研究の前半部への、かなり良質のコメンタール。フッサールの言語論を扱った論文のほとんどが見落としているか無視している、表現作用の二重の志向性(言語記号に関係する「語音意識」と言語記号によって表示されるものに関係する「意味志向」)の問題をきちんと取り上げていて好感が持てる。しかし、フッサールにとって、意味の第一義的な担い手は言語記号ではなくスペチエスにおける作用だ、という主張には同意できない。
*1:Hannaのサイトからダウンロード可能。http://spot.colorado.edu/~rhanna/
Pfänder 1963/2000
- Alexander Pfänder, Logik, 1963/2000.
博論作業をやるという気分ではないので平行してやっているプロジェクトの方を。実在論的現象学の古典の一つであるプフェンダーの論理学本(初版1921年)の第一部と第二部をおよそ七割ほど読む。論理学の本といっても、内容的には存在論や(概念論というかたちでいわば偽装された)志向性理論として理解される部分が多い。概念ないし(概念の複合としての)判断に存在論的に依存した対象(概念の形式的対象ないし志向的対象)の領分を導入して、自体存在する対象(概念の実質的対象)の領分から区別するあたりがポイントか。ただし、二つの対象の関係がどうなっているのかがいまいち不明瞭なのと、概念や判断の存在論的身分に関する主張(概念や判断は、作用によって作られる形成体 Gebildeであり、数のように無時間的な存在者でもある)という主張が理解困難なのが問題か。インガルデンの志向性理論はこの辺の問題の可能な解決策の一つと見なすことができる。fomal concepts関する最近のマリガンの仕事もこの文脈に位置づけることもできる。実際マリガンは最近プフェンダーによく言及する*1。
*1:代表的なものとして、Kevin Mulligan, "Truth and Truthmaking in 1921"