無理しないなんて無理

 なんとなく気分がすぐれないだけでなく、熱があることに気がついた。ふりかえってみれば昨日も、エアコンの中で数時間過ごしても身体の熱さを感じていた。

 無理しないで、という人からの言葉に「無理しないなんて無理。終わらないし」と返事してしまう。けっこう投げやり。今日、というか今夜中に終わらせたい仕事ははたして終わるのか。終わらせられるのか。ターミネイトできるのか。どうにでもなれ、と書いてみて、仕事の方はどうでもよくなくて、自分のことがどうでもよいという感覚に気づいた。

 ビタミンBを多めに飲んで、頭をしゃきっとさせるために更にエアコンの温度を下げ、再びとりかかる。死にたくない。。

今日の私

 やらなければならないことが山積していることを意識しすぎるあまり、そこからの逃避行動をしてしまい、かえって、意識していない場合よりも事態が悪化しているように思う。


 逃避行動に出ていないときには、「週末も仕事するだけでなく平日も睡眠時間を削って(まで)取り組む」という行動パターンがここ1年ぐらい出てきているが(と他人事のように)、それも焦燥感を持続させる結果となっている。


 もっと自意識を減らして淡々とロボットのように生きられればもっと楽なのだろうけど、そうできなくて苦しんでいる。


 ラディカルな解決法はわかっているのだが、義理人情との間でambivalentな思い。


 夢、という言葉を使っている知人たちのメールや投稿を目にしていた。


 夢を持つという状態自体があまり理解できない。

 私の夢、というのは特にない。

 強いていえば、「こうであって欲しい状態」として、世界の悲惨な状態にある人たち、特に子供たちが、少しでも健康で愛を感じられるように状況が改善されたらいいなあ、とか。


 自分については特にないが、あえていえば、将来職を失って飢えたら嫌だなあとか、もう少し睡眠時間がとれるようになりたい、とか。

 ネガティブな状態にはなりたくない、とか、ネガティブな状態から改善されるといいな、とか。それは夢とは多分呼べない。


 夢と呼んでおかしくないものを思い出した。映画「トラフィック」 - 夏のひこうき雲

 映画の終盤に「報酬はいらない、その代わりスタジアムに夜照明を点してくれ」というようなやりとりがあったのを憶えている。子どもたちが夜行くところがないから犯罪に手を染める、遊び場を確保したい、という意味のことを言っていた。

 この捜査官の夢、これはまさしく夢だと思う。そして夢が実現した、映画の中では。

神様まだですか


 「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」という聖書の箇所がある。

 今日、嬉しい感謝のお手紙が届いた。その手紙の書き手はそうした「最も小さいもののひとり」にあたりそうな人だ、とふと思い、上の聖書の箇所を思い出した。

 今後もう何の利害関係もないだろうから、単純にお気持ちだけで、あそこまでの内容を書いて送ってきてくれたのだろうと思う。

 私は、私がひとつのきっかけとなってイエスと出会ったんじゃないかなという人が2人ぐらいいたし、こうして「最も小さいもののひとり」のために力になれた(と私が思える)ことが何回かあったし、自分としてはもう十分やるべきことをやったんじゃないかと思っている。友なき者(と括るのは乱暴だが)と共に何度も泣いた。これでもう十分でしょう神様、後悔や恥もあるけどそれは私の限界だった、もうこの世のつとめから解放してほしいと感じている。

 でも、まだ命があるということは、まだこの現世(讃美歌の読み的には「うつしよ」)でやるべきことがあるんだろうと思う。自分ができる範囲について、私が過小評価してしまっているのかもしれないけど、私としては過大評価しないでください神様と思っている。

 ファンタージエンの「帝王たちの都」でもない、ある人の表現を借りて言えば「シリウス」に、風船で飛んで行ってしまいそうな私を何かが地上につなぎとめていて、私の今の境遇に対する一般的な理解からすればそれは何かというのは明白なのだけど、その明白な何かとは違う別のものを今意識がフォーカスしている。
 それは、ひそやかな、しかしやや確固とした何かの意志とでも言うべきもので、この私の自我とは少し異質な何かのようにも感じる。(今の私とは違って)ひどく傷ついていたときの私を支えていた何かと同じかもしれない、「かもしれない」というのは修辞でなく。

はてな記法を忘れた

しばらくtwitterで書いていたが、「銀河通信」的な場ではなくなったと感じるようになったので、今回ここで。

最近どうだったか?

  • かつて親しかった人が、不慮の事故で、死んでしまった。この「左近の日記」とネット外の私を結びつけて知っている、数少ない人だった。私の中では何年も前にさよならを言った人だった。泣きはしなかったが、それなりに衝撃を受けた。クリスチャンとしては、死は永遠のお別れではないし、悲しいことですらないのだが、でも。/生きていることと死んでいることはそれほど遠くない、あるいは、どちらも夢のような気がする。
  • 燃え尽きるように生きている。寿命がどんどん縮まっていっている気がする。できるだけ悲愴感を持たないようにして、なんとなく生きている。
  • はてしない物語』の主人公のように、たくさんの物語を後に残しながら生きている。その心残りを解決してくれる、アトレーユとしてのイエスに後を託している。でも、少しずつ着実に片付けていかなくちゃな。(別に死のうとしているわけではありません。)
  • twitterにあれこれとその時々の気持ちを書いている。ときどき、自分の気持ちをうまく言い当てたな、と感じたり、美しいものを美しいままに書き残せたな、と感じることもあるが、ほとんど過去の投稿(「つぶやき」)は振り返らない。大抵は、焦燥感を伴う祈るような思いで書いている。それを見返すのがつらいし、価値を感じない。それでいいとも思っている、半分は。
  • 本を読む気力と時間に乏しいが、それでも、良い本に続々と巡り会えている、この年になっても。嬉しいことだ。
  • 花の美しさを再発見。もっと身の回りに草花を増やしてゆきたい!!(スタパ齋藤さん風に)
  • 他方、お茶の美味しさからは遠ざかってしまっている、思い起こせば。たまには美味しく淹れたい、久々に。