ももいろクローバーZの男祭について

ももクロこと、ももいろクローバーZ太宰府市大宰府政庁跡で行う男性限定ライブについて、市民団体から苦情が出て、市長が名称変更等を求める事態になっています。(参照http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381

こうした女性権利団体の申し入れが報道された場合に良くあるように、インターネット上では市民団体へのバッシングも行われているようです。モノノフ(ももクロファン)のヒステリックな反応が残念なので、ももクロファンの一人として、分かる限りの経緯と見解を書いておきたいと思います。

経緯

太宰府天満宮からライブ開催の依頼

ももクロ侍というサイトの記事(http://momoclozamurai.xxxblog.jp/archives/37553355.html)で明らかなように、太宰府天満宮宮司ももクロの運営は、ももクロを結婚式に出席させるくらい親密な関係だったようです。そして、太宰府天満宮より、ライブの開催がもちかけられたようです。

昨年、大宰府天満宮側から「ももクロを通じて歴史を知ってほしい」と開催の打診を受け(…後略…)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000128-spnannex-ent

太宰府市から誘致を受けた、というような情報も見られましたが、ももクロ運営と懇意だった太宰府天満宮から依頼を受けたということのようです。

実行委員会の結成

ももクロの男祭の会場である大宰府政庁跡でライブを行うためには、大義名分と市の関与が必要となるようです。そのため、九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念といった大義名分で、市、九州国立博物館太宰府天満宮などによる実行委員会を7月に結成しました。

市によると、特別史跡でイベントを開催する場合、大義名分と市の関与が必要となるが、史跡の使用料は原則無料という。「大義名分」として今回は九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念などの冠がついている。
http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381

コンサートは太宰府天満宮、九博、市などでつくる実行委が計画。
http://digital.asahi.com/articles/ASHBB4Q81HBBTIPE00J.html?_requesturl=articles/ASHBB4Q81HBBTIPE00J.html&rm=331

市が関与し、市が実行委員として企画に関わっている以上、単なる私的なイベントということはあり得ないでしょう。また、これは推測ですが、市が管理している国の史跡をイベントで使う場合、営利目的でのイベントを禁止するような内規が存在するかもしれません。

議員協議会は非公開であった。出席議員らによると、当初7千円の予定だったチケットが最終的に8500円になったことについて、ある議員は「入場料がかなり高額。営利目的ではないか」とただした。
http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381

議員から営利目的でないかと追及されたのは、営利目的のイベントを行わないという取り決めがあるからだと推測することができます。
いずれにせよ、実質的にはスターダストプロモーションの企画運営だったのでしょうが、大宰府政庁跡をライブ会場とするために、建前上は市が実行委員会に名を連ねて計画に関わっていることにしたのでしょう。

ももクロ運営が市の要求を拒否?

建前上は市も計画に関わっていることになっていましたが、実際には市はライブの内容を把握していなかったようです。8月に入ってようやく、男性限定のイベントだと知ったようです(http://www.news24.jp/articles/2015/10/14/07312197.htmlhttp://digital.asahi.com/articles/ASHBB4Q81HBBTIPE00J.html?_requesturl=articles/ASHBB4Q81HBBTIPE00J.html&rm=331)。九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念といった大義名分では、女性を排除することを正当化できないため、市もしくは太宰府天満宮は是正を申し入れたようです。しかし、ももクロ運営に拒否されます(同上)。
ただし、ももクロ運営側は、話し合いで決めたという認識のようです(https://twitter.com/teusisu/status/653873786194755584)。これも推測になりますが、「太宰府天満宮にある実行委事務局の担当者」(http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381)という記述が朝日新聞の記事中にあることから、実行委員の実務は太宰府天満宮が担当し、太宰府天満宮ももクロ運営の話し合いの中では男性限定イベントであることが確認されていたのでしょう。

市民団体が苦情申し立て

市が計画に参与しているイベントで、女性を排除する男性限定イベントを行うとは何事だ、と市民団体が苦情を申し立て、市長が実行委員会に改善を要求することになりました(http://www.news24.jp/articles/2015/10/14/07312197.htmlhttp://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381)。

男性限定イベントは差別か?

女性限定イベントも行っているから差別ではないという主張について

そもそも男性限定イベントは差別ではない、むしろももクロは女性限定イベントも行っているのだから平等だ、という主張を見かけます。女性限定イベントと男性限定イベントが対になっているのだから、一方的な排除ではないというのです。
しかし、今回の市民団体の批判は、男性限定イベント自体を問題視しているわけではありません。大宰府政庁跡でイベント開催するためには、九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念という大義名分が必要でした。この大義名分から、女性を排除する理由を合理的に導き出すことはできません。合理的理由もなく女性を排除するイベントを、市が実行委員会に参与する形で行うことが問題なのです。ももクロ運営が、別の機会に女性限定のイベントを行っていようが、この問題に関係ありません。市が関与しているイベントが、合理的理由もなく女性を排除するものであった、ということが問題なのです。

都営地下鉄の女性限定車両やすべての男性限定イベントも差別になるのか?

男性限定イベントに反対するなら、女性限定車両にも反対すべきだという極論も見かけました。しかし、多くの女性が痴漢と呼ばれる性犯罪の被害にあっているという事実を無視した極論に過ぎません。性犯罪から女性を守るために男性を排除するという合理的理由があります。
また、例えば「家事が苦手な男性のための料理教室」というような男性限定イベントを市が企画したとして、それが今回のように問題になるとは言えないでしょう。「女性の前では料理をしにくい人が、男性限定の料理教室でのびのびと学べる」というのはそれなりに説得的な理由になるからです。

映画のレディースデーも差別だ!という主張について

同様に、一私企業のイベントで、女性優遇の施策を行うことは問題ないでしょう。ただし、普段から優遇されている側が、さらに優遇されるような施策は、「差別を強化する」と批判されても仕方ありません。現実の力関係が考慮に入れられなければなりません。

どうすればいいのか?

市民団体

市民団体側の主張に瑕疵は見当たりません。市が関与する九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念のイベントで女性を排除するならば、批判をするのは当然です。「ももクロは女性限定ライブもやっているし、男性限定ライブをしたっていいじゃないか!」と言ってもは、「市や博物館と無関係のイベントで、男性限定ライブをやってください。市が女性を排除するのが問題です、民間の私的イベントととして行うなら、別にどうぞ」と言われておしまいです。

ライブ運営

市が求めるように(http://www.news24.jp/articles/2015/10/14/07312197.htmlhttp://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381)、名称の変更(冠の削除?)と女性も買えるチケットの販売を行うよりほかないのではないでしょうか。

チケットの応募は締め切られて抽選になったが、まだ入金されていない分が2500枚ほどあるという。
http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381

この2500枚のチケットは、女性も購入可ということで改めて販売すべきだと思います。これが現実的な落としどころではないでしょうか。ももクロのメンバーが悲しい思いをしないような対応を、運営に期待したいです。

Gl17さんへ

ブログなんて書く余裕がないほど生活が逼迫して、三年以上日記を放置し、たまにブックマークをつけるだけだったのですが、どうしても書く必要があると感じたので、日記を書きます。

id:Gl17さんのブックマーク、

諸外国の言うことは全てプロパガンダだ!だから史実なぞ無視、というプロパガンダ。無論それを進めた先は全世界を敵に回す閉塞しか無く、日本国内の(まともな)歴史学すらどうやっても敵。行着く先は北朝鮮の鏡像。
http://b.hatena.ne.jp/Gl17/20131002#bookmark-163749206

についてです。

この「北朝鮮の鏡像」とは、どのような意味なのでしょうか。諸外国の言い分をすべてプロパガンダと主張するプロパガンダだらけで、八木秀次氏のような歴史修正主義を徹底し、歴史学を敵視し、全世界を敵に回す国家が「北朝鮮*1であり、日本もやがて「北朝鮮」の鏡像のような国家になる、という意味でしょうか。

私は、上のような発言は、「北朝鮮」を悪魔化し、朝鮮学校を無償化から排除するような理屈と通じ合うものだと思っています。日本の極右勢力を「行き着く先は北朝鮮」と評する時、「北朝鮮」が悪の全体主義国家であることは当然のように前提されています。「北朝鮮」を悪魔化し、それに関わるものを悪しきものとする日本の空気こそが、朝鮮学校の無償化排除などのもろもろの差別的行為を支えている以上、この前提を肯定することができません。

日本が「北朝鮮」の鏡像になるのではなく、むしろ日本の鏡像として「北朝鮮」のイメージが作られているのではないでしょうか。右翼にせよ、リベラルにせよ、自らが思う日本の悪い部分を凝縮させたものとして北朝鮮をイメージする。右翼は「左翼の理想は北朝鮮」と言い、リベラルも「右翼の行き着く先は北朝鮮」と言う。どちらも、敵の悪い部分(と信じている点)を北朝鮮と名指し、蔑称として用いる。その「北朝鮮」という言葉に実体はなく、単に相手の主張をグロテスクにしたものとしてのイメージがあるだけ。空気のような「北朝鮮」差別には、暗澹とした気持ちになります。

私は、ブックマークのお気に入りにGl17さんを入れています。基本的にその言動を好ましく思っています。だからこそ、極右勢力を揶揄する言葉として「北朝鮮」を使ってほしくないのです。「北朝鮮」の単純な悪魔化をやめてほしい、という私の希望を分かっていただけるでしょうか。

*1:以下、すべて「」付きで「北朝鮮」と表記します。実体の伴わない表象としての「北朝鮮」を意味し、朝鮮民主主義人民共和国とは異なる表象のことです。

東浩紀氏のポストモダン・哲学史理解について

忙しさにかまけて、日記をかなり放置していたのですが、「どの口がそれを……PartII(追記あり)」(http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100903/p1)というエントリに付けたブックマーク、

「東氏が「カンニングは許せん」と言えても、「カンニングツイッターで告白するのはおかしい」と言うのは自己矛盾になるということ。ポモ系リベラルとは、まことにハードな立場ですなぁ…。」(http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100903/p1

に関する補足をここで書いておきます。

ポストモダンについて

同じ記事のブックマーク内でid:y_arimさんが、

ポストモダニストが責任を問うなど笑止千万、ということか。『逆境ナイン』に曰く「それはそれ‼ これはこれ‼」とのことだが……

と書かれたように、ポストモダンは責任を問うことができないという意味で、私はブックマークコメントを書いたつもりはありません。
id:Fondriestさんが

「本来」ポストモダン相対主義や無責任と同一視できるようなものではない。これは東の個人的資質に過ぎないのでは。そんな区分けを認めないのがポストモダンだとしても。

と指摘されているように、私もポストモダン自体が相対主義とか無責任であるとは考えません。しかし東氏は相対主義的で無責任な言動をしながら、それをポストモダンの立場のせいにしているので、揶揄を込めて「ポモ系リベラルとは、まことにハードな立場ですなぁ…」と書いたのです。
東氏がポストモダン相対主義的なものと理解しているらしいことは、孫引きですが、『リアルのゆくえ』で、

東 たとえば、なぜ歴史の問題すら解釈次第という立場なのかと言われたら、それはぼくがポストモダニストだからです。ぼくにしてみれば、高橋哲哉氏が靖国問題であんなにポジティヴな話をしてしまえることに違和感がある。だからそれは、ある種の知的訓練の中でそういうポジションを取らざるを得なくなってしまったということでもある。
 
大塚 その話を聞いてしまったら、ポストモダンっていうのは、何もかもから距離を取れて、すごく楽な思想だっていう話になっちゃうよね。
 
東 楽と言えば楽ですが、楽じゃないと言えば楽じゃない……(苦笑)。
http://watashinim.exblog.jp/8879908/

と発言していたり、

デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる
言うということはデリダを裏切る
左翼とかポストモダニストが言っていたことはそういうこと
という文脈で話をしていたのだが、本では南京の部分だけが残された
それがネットにコピペ
ばーっと批判

様々な見方、無限の寛容を認める
テロリストを認めるということに近い
そういうことを言っている人間が、
右翼とか保守主義に対しては、ほとんど愚直に対して真理だと言う

これは非常に難しい問題
従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか
南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか
全ては解釈ゲーム
http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081114#p1

という講義での発言から伺えます。
おそらく東氏は、デリダ脱構築という立場を、「あらゆる言説は真理ではなく単なる解釈に過ぎず、すべての言説は解釈ゲームに過ぎないフラットなものである」というような立場であると理解しているのではないでしょうか。

何のための脱構築

しかし、デリダは間違いなく「ホロコースト否定論者に発言の場を与えるべき」とか「すべては解釈ゲームなので、ホロコーストはなかったという言説もあり得る」などとは決して述べないでしょう。高橋哲哉は『デリダ』の用語解説の中で、形而上学的言説が二項対立を作り出し、ある一方の項を上位に置く形而上学的思考について、

脱構築的言説は、こうした広義の形而上学的思考を支配している諸概念の階層秩序的二項対立を解体し、現実の力関係を変形すべく介入する。
高橋哲哉デリダ』、「現代思想冒険者たち」28巻、1998年、310頁)

としています。例えば形而上学的思考は、男/女の二項対立を作り出し、男性が優位なものとし女性を抑圧する暴力的な言説を形成してしまう。この二項対立を解体し、形而上学的言説の暴力を暴露するのが脱構築の目的となります。
しかし、東氏にとって現状は、「インターネット等によりすべてがフラットになった世界」なので、脱構築における力関係の暴露と変形という目的はなくなり、脱構築はただ単にすべてを相対化するものになってしまいました。デリダにとって国家の戦争犯罪の否認は他者への暴力的な力関係を温存し強化するものであり批判の対象ですが、東氏にとってはすべてがフラットなので力関係は目に入らず許容すべき言説になるというわけです。
私は、ポストモダンとは、近代形而上学の暴力を暴露し、力関係を解体していく営みであると理解しています。それ故、ポストモダンの目的をオミットし、現実にあふれている暴力的な力関係を無視して相対主義的な立場を強弁する東氏を、本来のポストモダンとは違うという意味で「ポモ系」という言葉遣いをしてみたのですが、分かりにくかったかも知れません。

そもそも哲学史をちゃんと理解しているのか?

私は、東氏はポストモダン哲学史の理解が怪しいのではないかという疑念がぬぐえません。

そもそも大陸系の哲学の一部はとうの昔に科学ではなく文学になっている
 
強力に科学志向の論理実証主義(のち英米系の分析哲学)と、強力に文学志向のハイデガーに分化するところから20世紀の哲学は始まった。
 
したがって、「科学と文学」「論理と詩」に分化してしまった20世紀の哲学を今後どうするべきか、というのはきわめて重要な問題です
http://togetter.com/li/41085

こういった「科学と文学」、「論理と詩」という二項対立をたてることが、そもそもポストモダン的ではありません。ハイデガーは哲学を「科学と文学」という二項対立でくくることを決して許容しなかっただろうし、デリダも自分の哲学が「科学ではない文学だ」と考えなかっただろうと思います。東氏がハイデガーを読んでいないだろうということは、

たとえばフランスだとわかりにくいのでドイツの例で行くと、フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味があるけど、ハイデガーの誤謬は衝いても意味がない。あれはカルナップが同時代に正確に指摘したように科学よりも詩に近い言語だからです。
 
フッサールなんて、けっこうまじめに科学と哲学の統合を考えているのだけど、1920年代あたりにそのプログラムがどうも破綻する。それで開き直ったはてにハイデガーが出てくる。他方でウィトゲンシュタインも初期の論理実証主義を捨て、謎めいた日常言語分析に足を踏み入れる。
http://togetter.com/li/41085

という発言からはっきり分かります。ハイデガーをきちんと読めば、科学用語を哲学のメタファーに用いること自体に反対しているのが分かりますから、そもそも「ハイデガーの科学的誤謬を衝く」ことができません。ハイデガーは科学的な哲学に反対しましたが、科学もそこから可能になるような知の営み全体を考察していたという点では、「開き直って詩の言語を使ったハイデガー」などという理解もあり得ません。ウィトゲンシュタインだって、確かに『論考』的な言語観は捨てましたが、「言語使用の探求を通して、形而上学的な病を治療する」という哲学理解は一貫していたように思えます。
ハイデガーデリダは哲学を文学にした」という哲学史理解はどのような根拠に基づいているのか、ちょっと分かりかねます。
また、東氏のソクラテス理解もおかしなものです。

教育や大学の起源を考えるにあたって、ソクラテスという存在は外せません。でも彼はべつに弟子たちに哲学を教えてわけではない。金持ちが主催する飲み会へ参加しては、酒を飲んでツッコミを入れていただけです。彼自身に体系があったわけじゃない。でも彼がいると何となく議論が活発になる。そういう人だった。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20100430/1272628761

普通ソクラテスと言うと、飲み会というよりも広場で議論しているイメージが強いのではないでしょうか。「町の広場で人々と問答を繰り返し、しかもそのことで人から金銭を受け取ることは一切しなかった」みたいな記述は哲学史の教科書で見かけますが、「金持ちが主催する飲み会へ参加しては、酒を飲んでツッコミを入れていた」みたいな記述にお目にかかったことがありません。『饗宴』では確かに宴会の中で議論していましたが、ほかのプラトンの対話篇で酒を飲みながら議論をしていたシーンがあったという記憶はありません。東氏は、どのような根拠で上のようなソクラテス像を描き出したのでしょうか?
 
私は、以上のように、東氏のポストモダン理解や哲学史理解はおかしいのじゃないかと考えています。しかし、東氏の理解の根拠となるようなテキストがあれば、どなたでも結構ですからご指摘いただければ幸いです。

普遍的人権と文化・補足

tari-Gさんへの補足

前回の記事にid:tari-Gさんから、

sadamasatoさん。今回に限らず、これまでの姿勢から彼等の多くは人権の「普遍性」については懐疑的に考えていると理解しています。今回の引用文の限りでも岡真理自身がそのように見えますし。*1

というブクマコメントをもらいました。

id:font-daさんのブログで引用された文章を読んでも、岡真理さんが人権の普遍性に懐疑的であるとは読めませんでした。もちろん、文化と普遍性を対立させるような思考が否定されるという意味では、カッコつきの「普遍性」は批判されることにはなります。岡さんは以下のように述べています。

〔ある種の西洋フェミニズムの主張は=引用者注〕西洋が他者を(被)抑圧的なものとして一方的に規定するという行為によってのみ担保されているのであり、そのような「普遍的」人権やフェミニズム、これら当該社会の女性たちが与しないのはある意味で当然のことだろう。*2

ここでは人権の普遍性が問題視されているのではなく、第三世界の女性たちに対して差別的な眼差しでもって「普遍的」人権を唱えることが問題視されているわけです。
あくまで、差別的な眼差しに基づく「普遍的」人権が批判されているということは、以下のように「西洋が主張するような」人権と強調されていることからもうかがえます。

西洋が主張するような人権の普遍性に対して疑義を表明すると、「原理主義者」「狂信主義者」というレッテルを貼る。*3

もちろん、このような書き方をしたからといって、文化擁護の立場から女性器切除を擁護しているわけではありません。

私は、女性に対する他のあらゆる暴力と同様、性器手術を許し難い暴力であると考える。*4

と岡さんは述べ、更に、

繰り返し言おう。性器手術は批判されねばならない。性器手術の習慣を批判することがレイシズムなのではない。植民地主義的なのでもない。私たちがそれをいかに語るか、その批判のあり方が問われているのだ。*5

と繰り返しています。
暴力は許さないという普遍的立場から、女性器切除は批判されるべきです。しかし、「普遍的」人権vs文化という対立図式で批判することは、文化の中から女性の抵抗が可能になるということを見落とすような差別的な眼差しを持つということ、また第三世界に対する自らの経済的搾取から目をそらすということから、問題視されるわけです。
文化と普遍的人権は対立しません。文化と普遍的人権を対立させるのは、ある文化を野蛮なものとして固定的に見る眼差に由来するものです。

ハリーフェ、アブーゼイド、クレイフィらが描いているのは、一女性の抵抗によって表明される、民族の文化にほかならないと言えるだろう。そこにおいて、「民族の文化」とは、普遍的人権とア・プリオリに、相互排除的に対立するものではなく、むしろ、普遍的人権そのものの実現ではないか。*6

岡さんは、人権の普遍性に懐疑的ではありません。ただ、カッコつきの「普遍的」人権と文化を対立させる眼差しに潜むものに対して、批判的だということです。

andalusiaさんにお返事

id:andalusiaさんからトラックバックをいただき、

では、
「文化を尊重しながら、その文化の内部の運動を通して女性の身体保全という人権を可能にしていくということ、そのようなことが目指されるべきではないでしょうか。」
との主張についても簡単に触れておきます。
 
南アフリカアパルトヘイトの廃絶には、内部の運動(ネルソン・マンデラ氏のような)があったのは事実ですが、外部からの圧力(経済制裁やオリンピックへの参加拒否のような)も重要な役割を果たしたのは厳然たる事実でしょう。外部からの圧力がなければ、アパルトヘイトの廃絶は行われなかったか、もしくはもっと遅れていたであろうことは想像に難くありません。
 
現在も、毎日6,000人の少女に女性器切除が行われていると言われます。このような現状で、「経済制裁のような外部からの圧力」をかけるべきか、かけないべきか、という選択(トレードオフ)はやはりあるのであって、そこに目をつぶってはいけないと思います。
 
私は、それこそが「判断からの逃げ」であって、「自らの責任を隠ぺい」しているように思います。*7

との批判をいただきました。それに対してお答えします。

一言でいえば、経済制裁などを持ち出すことそれ自体が、アフリカの経済的貧困に対する当事者意識の欠如であり、自らの責任を隠ぺいしているのはandalusiaさんだろうということです。ソマリアに対して経済制裁をすれば、女性器切除を根絶できると、本気でお考えなのでしょうか?

もちろん、女性器切除に反対することは大事です。私は、前回のエントリで、「女性器切除に対して反対の声を上げつつ、アフリカの経済格差(搾取)を解消していくことによって、女性の教育や経済的自立が可能になることが大事ではないでしょうか」と書いた通り、女性器切除に反対すること、切除から逃れてきた女性を保護することを通して、切除を受けなくてもよいという選択肢を提示することは大事だと考えます。

しかし、搾取や差別的な眼差しによって抵抗の声を消し去っておきながら、「経済制裁のような外部からの圧力」を持ち出すのは、無責任極まりない言明だと言わざるを得ません。自分たちが、アフリカの女性たちの抑圧に加担していることはきれいに忘れ去られています。

もちろん、あらゆる外部からの圧力を許さないと言っているわけではありません。女性の抵抗の声を潰そうとする内部の動きには、厳重に対処すべきでしょう。ですが、単純に外から圧力を加えることについての弊害は、
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20090926%231253967001
で人類学者の小田さんが述べている通りでしょう。内からの抵抗の声が強くなっている時に外から働きかけるのは、有効に働くだろうと考えます。外部からの圧力自体を否定しているわけではありません。しかし、内部からの抵抗が出にくいような構造に加担しながら、「経済制裁のような外部からの圧力」を云々するのは、明らかに順序が逆であり、顛倒した議論だと思います。

*1:http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20090925#bookmark-16255662

*2:岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』、青土社、42頁。太字部分は原文では傍点。

*3:前掲書、43頁、太字部分は原文では傍点。

*4:前掲書、119頁

*5:前掲書、139頁、太字部分は原文では傍点

*6:前掲書、111頁、太字部分は原文では傍点

*7:http://d.hatena.ne.jp/andalusia/20090925#c1254358865

普遍的人権と文化

ちょっと待って、「女性器切除」の話題! - キリンが逆立ちしたピアスというエントリのブックマークで、id:andalusiaさんからid:コールをいただきました。ブックマークの100字では収まらないので、ここにお返事を記すことにします。同様に、id:AmanoJackさんへのお返事もここに書きます。

身体の保全と民族の知識・文化および伝統的慣行の尊重

「どんな人間も、自らの身体を誰からも傷つけられない」というのは守られるべき基本的人権だと考えてよいでしょう。同様に、「民族の知識・文化および伝統的慣行の尊重」も、文化的アイデンティティーをもった人格の保護という点で、人権の尊重であると考えられます。では、女性器切除の場合は、andalushiaさんのおっしゃるように、身体の保全と文化的アイデンティティーの尊重という二つの人権の衝突と考えてよいでしょうか?私は衝突とは考えません。

まず、人権とは普遍的なものでなければなりません。ですから私は、

andalusiaさん、「人権を侵害する民族の知識・文化および伝統的慣行の尊重=人権の尊重」 ではないと思います。さもなければ人権は文化・社会に相対的なものになってしまい、普遍的な人権はありえないことになります 2009/09/24
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20090923/1253674546

と書きました。ある特定の文化・慣習には適用されない人権ならば、それは普遍的な人権とは呼べなくなります。このコメントに対してandalushiaさんから、

sadamasato さんへ、だからそれが人権と人権の衝突なんじゃないの? 「自己の文化を享有する権利は、人権に含まれる」ということ自体をまさか否定はしないですよね?
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20090923/1253674546

とお返事をいただきました。andalushiaさんの言いたいことは分かります。人権を侵害する文化を否定することは、その文化に属する人の文化的アイデンティティーを傷つける行為ではないか、ということです。しかし、それはあまりにも伝統や文化を固定的に考えているために生じる二項対立ではないかと思います。元のエントリに張られているリンクhttp://d.hatena.ne.jp/gordias/20070625/1182738048に紹介されている映画などは、アフリカの伝統の内部から女性器切除に向き合ったものとして評価されているようです。伝統の内部から伝統を変えていく動きがありうるということを見落としてはなりません。そして、そのような伝統の内部から、伝統を越えて伝統を変革していくような運動を可能にするのが、普遍的な価値なのです。単に伝統に囚われているだけでは、伝統は変えられません。伝統の中にいながら、同時に普遍的なものにコミットメントしうるからこそ、伝統の内部から伝統を刷新していくことが可能になるのです。そしてこのような普遍的な価値を、我々は人権と呼んでいるわけです。

font-daさんのエントリに引用されている岡真理さんの文章は以下の通りです。

フェミニズムイスラーム」「普遍的人権主義 対 文化相対主義」といった粗雑で安直な二分法――二分法とはえてして粗雑で安直なものだが――による議論は、したがって、問題の本質を隠蔽するための中立性、客観性を装った装置にすぎない。そこでは、ムスリム女性であることとフェミニストであることが、あるいは自文化の伝統に主体的に参与することと、普遍的人権を信じそれを実践することが、あたかも相互に排他的で、両立不可能なものとして前提されている。

文化か、普遍的価値か、という二項対立を厳しく批判している文章です。そして、この二項対立を生みだしているのは、「野蛮な文化」を啓蒙してやろうという差別的な眼差しであると岡さんは主張しているのです。彼らは野蛮な文化だから、それを否定して啓蒙してやらなければ人権が守れないという差別的な思考が、「文化を守る」vs「文化を否定して人権を押し付ける」という二項対立を固定化してしまうのです。更に、野蛮な文化の連中に人権を啓発してやるという思考が、経済格差(先進国による搾取の問題)に起因するアフリカの女性たちの様々な人権問題に関する自らの責任を回避しつつ、あたかも人権の守護者のような意識を生み出してしまうことも批判されるわけです。

「文化的アイデンティティーを守ること」と「身体の保全」という二つの人権が衝突するように考えることは、アフリカの野蛮な文化は内発的に女性の人権を守るように動いていかない、という前提を含んでしまってはいないでしょうか。文化を尊重しながら、その文化の内部の運動を通して女性の身体保全という人権を可能にしていくということ、そのようなことが目指されるべきではないでしょうか。そしてそのような運動にとって、普遍的人権という価値が大きなよりどころになるのではないでしょうか。

整形手術と女性器切除との間

font-daさんのエントリの冒頭には、女性器切除という語自体にも、差別性が含まれているのではないかという指摘があります。このhttp://africa.u-shizuoka-ken.ac.jp/j/Essays1/Circumb.htmlというページに書かれているように、「一人前の大人とみなされ、自分の生活を有利にしよう」と女性器切除を受けるのと、「美人とみなされ、自分の生活を有利にしよう」と整形手術を受けるのと、どれくらいの差があるのだろうかということです。片方では非常にグロテスクな呼び方で呼ばれ、もう片方では形を整えてよりきれいになるというニュアンスが与えらています。どちらも、自らの生活を有利にしようとする目的合理性に支えられている行動にもかかわらず。同じ目的合理性に支えられた行動でありながら、前者は野蛮な印象与える言葉が選ばれ、後者は野蛮でない印象を与える言葉が選ばれていることに対して、やはり差別的ではないかと異議が申し立てられているわけです。

しかし、日本での整形手術は人権侵害とされず、アフリカでの女性器切除は人権侵害とされます。この差はどこにあるのでしょうか。この差について答えることが、AmanoJackさんに答えることになります。

まず、日本での整形手術を考える場合、制度上は教育・就職など公的な活動において、その人の顔による差別を受けることはありません。しかし、アフリカでの女性器切除の場合(私の乏しい知識によれば)、女性器切除を受けていないことは差別の対象になります。日本でも女性差別がたくさんありますが(だからこそきれいになって男にもてるという選択がかなり有利な選択肢にもなる)、アフリカの方がより女性差別が激しく、十分な教育も受けられず、貧困に苦しむことになります。このような差別的状況の中では、女性器切除を受けて大人の女として結婚することがほとんど唯一の選択肢となります。このような構造が人権侵害的だと言えます。アフリカの女性にとっては、合理的な選択かもしれませんが、そのように強制する(あるいは内面化させる)差別的な権力が人権侵害となります。つまり女性の選択が人権侵害なのではなく(母親が娘の女性器を切除することが多いと聞きます)、そうさせる構造が人権侵害なのです。

私が、

AmanoJackさん、民主主義国家で、経済的に困窮せず、基本的人権が守られていて、十分な教育を受けて、合理的な判断が行われると思われる年齢に達してから自己責任で行う「包茎手術」と、女性器切除を一緒にするの?

とブクマコメント書いた時に力点があったのは「民主主義国家で、経済的に困窮せず、基本的人権が守られていて、十分な教育を受けて」という点です。これらに代表される基本的人権が保障されている時、女性器切除という選択肢は合理的なものではなくなります。あらゆる基本的人権が保障されて、その上で「非合理だけど伝統を守りたい」という理由で女性器切除を受けることを許すかどうかは議論が分かれそうな気がしますが、とりあえずは女性器切除に対して反対の声を上げつつ、アフリカの経済格差(搾取)を解消していくことによって、女性の教育や経済的自立が可能になることが大事ではないでしょうか。

おまけ

というわけで、岡真理さんは(そしてたぶんid:font-daさんも)、普遍的な人権を承認していると思います。普遍的人権を承認しつつ、その適用に差別的な眼差しがありうること(人権vs野蛮な文化という構図)を告発しているのであって、id:tari-Gさんの、

tari-G ハテナ櫓, 6/6層目 今回改めて「人権の普遍的尊重」をハテサ達等がきちんと承認できていない事が明確に。だがこの「世界を観る上でのイロハのイ」が駄目ではどんな問題でもまともな答えが出る筈もない。やれやれ… 2009/09/25
http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20090925#bookmark-16214506

というコメントは、明確な誤読であろうと思います。

昨日の記事や私のブクマについたブクマなどに返答

昨日の記事や私のブクマについたついたブックマークコメントで、いくつか返答したほうがよさそうなものについて簡単に返答します。

日教組=左翼?

まず目についたのは、id:inumashさんの

inumash はてな うん?何故「日教組叩き/嫌い」と「左翼叩き/嫌い」が単純接合されてるの?“左翼=日教組”なの? 2009/09/14
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/sadamasato/20090913/1252865485

とのブックマーク。他の人たちからも、日教組=左翼ではないという声がありました。まずはこの件について簡単に返答します。

日教組が真の意味で左翼かどうかという議論はともかく、id:seijigakutoさんは日教組を左翼に分類したうえで「日教組云々」のブクマコメントを残したと読めたので、私は「よほど左翼がお嫌いなようで」とコメントを書き込みました。その後そのままやり取りが続いたところを見ると、特に間違っていなかったような気がします。

なぜseijigakutoさんが日教組を左翼に分類したと感じたかというと、seijigakutoさんのブクマは、

takashi1982 NEWS, education 右派系で自民党支持全日教連ですら教職の専門性向上に寄与しないような免許更新制には懸念を表明している/http://www.ntfj.net/j/opinion/post_14.php/つまり、左右関係なく現行の更新制は現場のプラスになってないということ

を受けて、

seijigakuto 教育 左右を問わずに制度は意味がないといっていてそれは事実ですけど、日教組の教育もゆとり教育も支持されておらず、教員の質への不信感が強いのも事実。選挙結果を都合よく解釈して組織防衛に走れば、自民党の二の舞。

と書いていると思われるからです。ここで、「左右関係なく」とか「左右を問わずに」と書かれている中で、日教組が左に分類されているのは間違いないでしょう。右派系に全日教連が分類されており、左には日教組が入ると考えざるを得ません。それとも、seijigakutoさんのブックマークは、「左右を問わずに制度は意味がないといっていてそれは事実ですけど、"左でも右でもない"日教組の教育も〜」と解釈できるのでしょうか?

ですから、私が日教組嫌いと左翼嫌いを結びつけたのは、inumashさんが仰るように私がそのような「欲望」を持っていたのではなく、seijigakutoさんの分類に従っただけだということです。

中立ごっこ

id:PledgeCrewさんのブックマーク

PledgeCrew id:sadamasatoさん, id:seijigakutoさんがいつどんな問題で中立を装ったとあなたは言ってるの?右だろうと左だろうと間違ってると本人が判断したなら(その正否は別にして)批判するのは当然。それは「中立ごっこ」とは違う
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/politics/update/0912/TKY200909120178.html

これは、昨日の記事でほとんどお答えになっているでしょう。特に日教組が間違ったわけでもない件で(むしろ現場に歓迎されるようなことを行ったということさえseijigakutoさん自身が認めておられます)、日教組に批判的な書き込みをしたのを問題視しました。また、在特会への批判は右への批判ではありません。それを「右にも批判的」の証明にしようとしたので、「中立を装っている」としたのです。

ネットウヨク?

id:hisamatomokiさんのブックマーク

hisamatomoki メタブクマ 要するに、「日教組を批判する奴はネトウヨで、右翼も左翼も批判する奴はネトウヨだ」ってことですね、わかります>一連の流れ 2009/09/14
http://b.hatena.ne.jp/hisamatomoki/20090914#bookmark-16006896

これにも、昨日のエントリがお答えになっているでしょう。日教組と関係ない件で日教組を持ち出して批判したので、「左翼が嫌い」なのだろうと述べたのです。また、在特会批判は右翼批判にはなりません。あと、ネトウヨとは申し上げていません。

seijigakutoさんの新たな記事に望むこと

seijigakutoさんは、

seijigakuto 教育 ウヨサヨ系の議論に付き合う気は薄いのですが、閲覧者の方へ教育問題の説明にためにエントリーを書く事にします。

と書かれています。もし、昨日提示されたハイクの延長線上にある「愛知に比べて東京の公教育は荒廃しており、それは日教組のせいだ」という主張ならば、ぜひ以下のことは書いてほしいと思います。幾つかは、昨日の疑問とも重複します。
(1)不適格教員を日教組がかばった事例の例示(組合活動のために解雇されるのに抵抗するのは組合として当然ですので、そうではない指導力不足の教員の例ならば更に嬉しいです)。
(2)愛知に比べて東京のほうが日教組が強い(組織率や、日教組の候補の得票率などの比較)ことの根拠の提示。
(3)愛知に比べて東京のほうが低所得者の大学進学率が低いというデータの証示。
(4)東京では私立に流れるであろう高所得者層が、愛知では公立に流れるため、高校受験に十分お金をかけられる愛知の高所得者層が名門公立高校に集まる。そのため、十分な所得のない層はレベルの低い公立に行かざるを得ない、という懸念の払しょく。

もちろん別の切り口であるならば、これに答えていただく必要はありません。とりあえず、ハイクのエントリに対する疑問を書いただけ、ということです。

日教組を叩きたがる人たち

教員免許更新制度が廃止の方向で動くようです。

日教組出身の民主・輿石氏「教員免許更新制は廃止」
民主党輿石東参院議員会長は12日、甲府市で記者会見し、同党が衆院選マニフェスト政権公約)で「抜本的な見直し」を掲げた教員免許更新制について「法律を変えないといけない。できるだけ早くやるという方向だ」と述べ、現行制度を廃止する意向を示した。早ければ来年1月の通常国会に教員免許法改正案を提出し、11年度から実施したい考えだ。
http://www.asahi.com/politics/update/0912/TKY200909120178.html

教員免許更新制は、問題教員を排除できず、逆にただでさえ職務に忙殺されている良心的な教員の負担が増えるという制度だと私は認識しており、当然、この制度の廃止を喜びました。そして、当該記事のブックマークにもそのように記しました。

ただ問題は記事のタイトルです。朝日の見出しが「日教組出身」という肩書を前面に押し出しているので、それにつられて日教組を叩きたいだけのブックマークがたくさんつく結果になりました。しかし、まあ、日教組民主党を攻撃したいだけのブックマークは分かりやすいし、一目見ればその内容のなさが分かるので放置すればいいと思いました。ただ、中立の振りをしながら日教組を攻撃しているブックマークには突っ込みを入れておきました。

そのブックマークはid:seijigakutoさんの、

seijigakuto 教育 左右を問わずに制度は意味がないといっていてそれは事実ですけど、日教組の教育もゆとり教育も支持されておらず、教員の質への不信感が強いのも事実。選挙結果を都合よく解釈して組織防衛に走れば、自民党の二の舞。 2009/09/13
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/politics/update/0912/TKY200909120178.html

というものです。
ここでseijigakutoさんは、自身で意味のない制度だと認めているにもかかわらず、「日教組の教育」にからめながら、民主党が「選挙結果を都合よく解釈して組織防衛に走」ることへの苦言を呈しています。無意味な制度を廃止することに関して、なぜかその無意味な制度を作った右翼政権へと攻撃が向かわず、その制度に反対した日教組に攻撃が向かうのです。もちろん、輿石氏が「反自衛隊教育を推し進める」とか、「日の丸や君が代に敬意を払わないような子供を育てる」といった、政治的に対立している問題に一方的に介入しようとしているのならば、まだ理解はできますが、右翼政権が作った問題だらけの制度を廃止するだけで自民党の二の舞になるぞと脅されるのです。

そこで私は、

id:seijigakuto無駄な制度を廃止することを「日教組の組織防衛」「日教組の教育は支持されていない」ってよほど左翼がお嫌いなようで 2009/09/13
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/politics/update/0912/TKY200909120178.html

と、ブックマークに追記したのです。

そうすると、seijigakutoさんからお返事がきました。

seijigakuto メタブクマ id:sadamasatoさん はっきりといっておきますが、私は支持できる要素がない場合はウヨサヨ関係なしに批判します。教育問題の極々基本的な所をまとめていますので、参考までに http://www7.atwiki.jp/epolitics/pages/296.html 2009/09/13
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/politics/update/0912/TKY200909120178.html

ウヨサヨ関係なしに批判しますと言われても、なんでこの件で「日教組の教育」や「日教組の組織防衛」が持ち出されるのかがそもそも理解できません。朝日の記事から読み取れるのは制度が廃止されるというだけで、その背景に日教組イデオロギー教育や日教組の組織防衛があるようには読めないからです。日教組の問題行動があったのならばともかく、無意味な制度を廃止するということと日教組批判が結びつくのは、記事の題名につられてつい日教組を叩きたいという本音が出てしまったからとしか思えません。

そこで、

sadamasato id:seijigakutoさん、右左関係ないと言っておきながら、無意味な制度を始めた右翼政権は批判せず、この件と関係ない「日教組の組織防衛」などを持ち出すところに、左翼を叩きたいというあなたの欲望が透けて見えますよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/politics/update/0912/TKY200909120178.html

と返事を出しておきました。

そうするとさらに、

seijigakuto メタブクマ id:sadasamatoさん 私が書いた教育問題の基本のリンク先を読みました? 後、ウヨクがどうとかいうなら、同じリンク先の国籍法問題とかカルデロン一家問題のまとめ作ったの私なんですけど、そちらはご存知でしたか? 2009/09/13
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/politics/update/0912/TKY200909120178.html

とのお返事が。これには少々呆れてしまい、かなりきつい嫌味を返してしまいました。

sadamasato id:seijigakutoさん、読みましたし、ほかのまとめの作者だとも知っていますよ。中立を装いたいのはよく分かりましたが、日教組の見出しにつられてつい左翼嫌いの本音が漏れてしまいましたね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/politics/update/0912/TKY200909120178.html

かなりきつい書き方をしてしまったのは、seijigakutoさんの主張が「自分は左翼嫌いではない、国籍法問題やカルデロン一家問題の時のように、右翼も支持できないときは批判するのだから」という主張だったからです。しかし、国籍法問題やカルデロン一家問題で在特会を批判するのは当然です。左右問わず社会の敵である排外主義のレイシストを批判しただけでは、右翼に批判的ということにはならないからです。スターリン連合赤軍を叩けば、左翼に批判的になるのでしょうか?

そして最後のお返事がきました。

seijigakuto id:sadamasatoさん これで最後。私は「左翼」に限らず、責任ある立場なのにレベルの低い議論・実現への道筋を書いた議論が嫌いなのです。日教組に関しては、→に書きました。 http://h.hatena.ne.jp/seijigakuto/9258648441846936419
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/politics/update/0912/TKY200909120178.html

重ねて書きますが、朝日の記事から読み取れる輿石氏の発言は、今後の教育行政全般の議論・実現への道筋ではなく、単に百害あって一利もない制度の廃止を明言したにすぎません。どうしてこれが、「責任ある立場なのにレベルの低い議論・実現への道筋を書いた議論」とされるのかが理解できません。よっぽど受け手に、「日教組出身の議員の話はレベルが低い」というバイアスがなければ、そうは受け取れないはずです。

そして、seijigakutoさんが提示したアドレスを読みました。日教組について語られているのは、

(……)東京を中心とする公立学校の問題ですが、その中の一つの理由として「不適格教員でも免職させられないので、教員の質が上がらない」というものがあります。
私としては、結果も出していないのに、こういった所にだけ熱心に取り組む組織や、それを擁護する人達への不信感は強いものがあります。
http://h.hatena.ne.jp/seijigakuto/9258648441846936419

というところでしょうか。

しかし、「不適格教員でも免職させられないので、教員の質が上がら」ず、それは日教組が守るからだというのは事実でしょうか?まず、東京都の不適格教員を日教組が守ったという事例を提示していただいく必要がありますし、愛知に比べて東京の方が日教組が強い(組織率や日教組の代表の比例の得票率の違いなどでしょうか?)ということを提示していただく必要もありそうです。そもそも、あれだけ私学志向が強い中で都立西高といった都立高校は非常に健闘していると言っていいのではないでしょうか?

というわけで、seijigakutoさんのハイクのエントリをみても、ちょっと分からないというのが正直なところです。むしろ、大した根拠も提示せずに日教組を叩いているなぁ、という印象の方が強いです。やっぱりseijigakutoさんは、単に左翼が嫌いなのではないでしょうか?