短編2本の組み合わせ~‘The Caoining’, ‘Was I Not A Girl’

 国際ダブリンゲイ演劇祭の短編2本立て‘The Caoining’+‘Was I Not A Girl’を見てきた。

 'The Caoining'はダブリン郊外のソーズが舞台である。女性を狙う殺人鬼がうろついているらしいというので地元民は警戒している。そのソーズで、どうもインターネット上のマノスフィアコミュニティみたいなものに出入りいるらしいパトリック(散りゃード・ネヴィル)と、300歳のバンシー(エンヤ・ドノヒュー)が同じ家(たぶんボロ屋)でルームメイトとして同居している…というお話である。この世ならぬ存在であるはずのバンシーでもまともな家が見つからないとはさすがダブリン…という感じだが、最後のほうはマノスフィア諷刺になる。けっこう誇張の多いダークコメディである。

 

  ‘Was I Not A Girl’は、19世紀に男性として生きて医師になったコーク出身のジェームズ・バリ(ケイン・カルバート、バリは現在の言い方だとトランス男性に近いと思うのだが、19世紀のアイデンティティの感覚は今と全然違うのでなかなか定義しづらい)と、現代のトランス男性であるルイス(モンゴメリー・クィンラン、戯曲の作者でもある)の人生が時代を越えて交錯するお話である。短い話なのだがけっこう切実で見ていてキツいところもある。とはいえ大変よくできたお話で、演技もいいし、出色と言える作品だった。

はっきり好きではないと思った~『関心領域』(試写)

 ジョナサン・グレイザー監督『関心領域 The Zone of Interest』を試写で見た。

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 アウシュヴィッツの所長だったルドルフ(クリスティアン・フリーデル)とヘートヴィヒ(サンドラ・ヒュラー)のヘス夫妻を描いた作品である。アウシュヴィッツ収容所内では連日残虐行為が行われているのだが、ヘス夫妻はのどかで立派な田舎家に住んでおり、ヘートヴィヒは理想的な家庭を築くべく努力している。ルドルフがオラニエンブルクに転勤した際も、ヘートヴィヒはアウシュヴィッツで子どもを育てたいと言って無理矢理留まろうとするほどである。

 全体的にホラーみたいな怖い映画で、評価が高いのはよくわかるし何をやりたいかも完全に理解できるのだが、私の個人的な趣味でははっきりと全然好きになれない映画だった。コンセプトを立ててをそれを実現するという点では極めてうまくやっているのだが、良いと思うかといわれるとまた別…という作品である。全体的にヘス夫妻をはじめとする登場人物について、かなりカメラを引いて撮ったり、わざと影に入るように撮ったりしていて、表情などがよくわからないように提示している。このため、ヘス夫妻をはじめとするナチスの人々はまるで日常のタスクを淡々とこなしているだけの機械みたいで、血肉のある人間だという感じがほとんどしない。一見、こういう撮り方はホロコーストを主導した人々を、日常生活を送る「どこにでもいるような人々」として提示しているように見えるのだが、実は全然そうではない…というか、この撮り方はヘス夫妻を観客がいる生身の人間の世界から完全に切り離しており、観客はむしろヘス夫妻が自分たちと同じ人間だととらえられないような方向に誘導されていると思う。ホロコーストを行った人間も我々と同じ人間であるというところが重要であり、そこにこそ恐怖があるのではないかと思うので、私としてはこういう機械人形の観察記録みたいな撮り方でホロコーストにかかわった人々を観客に見せるのはあんまり好きではないし、むしろホロコーストを人工的なホラー映画の題材みたいな形にして遠ざけているのでは…という気がした。監督のジョナサン・グレイザーは『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』でもこういう一歩引いて人間を観察するみたいな冷たい距離感のある撮り方をしていて(それになんかお腹痛くなりそうな音響が入る)、私はそこがあまり好きになれなかったので、たぶん撮り方の個人的な好みの問題たと思う。

 

 

障害のあるアーティストを追ったドキュメンタリー~『花子』(試写)

 「暮らしの思想 佐藤真RETROSPECTIVE」の試写で『花子』を見た。京都に住む知的障害のあるアーティスト今村花子の暮らしを撮ったドキュメンタリー映画である。花子は畳の上に食べ物を並べてオブジェみたいなものを作ることをやっており、それを花子の母である⺟の知左が面白いと思って写真に撮っていた。花子は食べ物オブジェ以外に絵も描いており、この絵はけっこうダイナミックで面白い。

 母は花子の食べ物オブジェを面白いと思っているが、父親の泰信は汚いと思っているとか、花子の姉である桃子は妹が暴れるのでまったく家で勉強ができないような状況に追い込まれ、最近は父とも不仲で家を出るつもりだとか、家族の間の大小の軋轢がそのまま描かれているところが興味深い。とくに桃子のナレーションがけっこうわかりやすいタイミングで入るので、この家族の状況を理解するのに大きな役割を果たしている。そういう点では、障害のあるアーティストのみならず、いわゆるきょうだい児の問題をとらえた作品と言えるかな…と思う。

あんまりいいと思わなかった~『まひるのほし』(試写)

 「暮らしの思想 佐藤真RETROSPECTIVE」の試写で『まひるのほし』を見た。知的障害を抱えるアーティストたちの制作を撮った作品なのだが、正直あんまりいいと思わなかった…というのも、アーティストの中にはいろいろな人がいて、おとなしい人から騒ぐ人までいろいろ…なのだが、シゲちゃんという大きくとりあげられているアーティストが正直だいぶ困った人で、そういう人を「アーティスト」として提示しているのがどうもピンとこなかった。序盤から女性の水着のことばかり言っていて、とにかく女の子に自己紹介したいらしく、いろいろ女性に対する執着が強くて軽くトラブルも起こしている。この映画ではそういうことをしてはいけません…ということは語られている一方、シゲちゃんが作った作品はアートとして提示されているのだが、私の目にはあんまりアート作品らしく見えない上、たぶんこれをシゲちゃんに日常生活を邪魔されたことがある女性が見たらすごくイヤだろうなと思った。障害がないアーティストが作ったのであればまったくアートとは見なされない、ただの迷惑行為の証拠品にしかならなそうなものについて、障害がある人が作ったのならアートとして提示できるというのは、迷惑行為を受けた人にも失礼だし、当の障害者アーティスト自身に対してもなんだか変な特別扱いをしているように見えて非常に居心地が悪かった。こういう障害がある人をドキュメンタリーに出すなとかそういうことではなく、作品を「アート」的なものとして提示するのに引っかかりを感じる。

水難が続くゆるいシェイクスピアロマコメ~『恋するプリテンダー』

 『恋するプリテンダー』を見てきた。原作はシェイクスピアの『から騒ぎ』で、監督はこれ以前に『緋文字』の翻案である『小悪魔はなぜモテる?!』を撮っているウィル・グラックである。

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 法律を学んでいるビー(シドニー・スウィーニー)はとあるトイレのトラブルをきっかけに金融関係の仕事をしているベン(グレン・パウエル)と知り合ってこれこそホンモノの恋…と思うが、結局うまくいかずに1日で最悪の別れ方をしてしまう。ところがその半年後、ビーの姉であるハリ(ハドリー・ロビンソン)のガールフレンドであるクローディア(アレクサンドラ・シップ)がベンの親友ピート(GaTa)の姉妹であることが発覚する。ふたりはクローディアの父の実家であるシドニー郊外で結婚式をあげることになり、ビーとベンはお祝いに向かう。ビーとベンがあまりにも犬猿の仲で結婚式の雰囲気を台無しにしてしまうことを怖れた周りの家族たちは、このふたりをくっつけようとするが…

 意外ときちんと『から騒ぎ』に沿っており、何しろ主人公ふたりの名前がベネディックとビアトリスの短縮形であるベンとビーだし、ところどころでシェイクスピアのセリフが出てくる(砂浜とか看板に書かれていることが多い)。ヒーローとクローディオが騙されて仲違いする展開はカットされており、ふたりが喧嘩するふりをする程度の描写になっているが、オペラの『ベアトリスとベネディクト』なんかでもヒーローとクローディオの主筋はカットされていて先例があるので、そんなに意外ではない。ふたりのなれそめとかはジョス・ウィードンの『から騒ぎ』にちょっと似ており、スタッフの中にこの映画を見ている人がいると思う。

 一方で内容はかなりゆるいロマコメである。完全にスウィーニーとパウエルの華やかで息の合ったやりとりの面白さに頼っている作品で、脚本はだいぶいい加減だ。ビーがしょっちゅうトイレのトラブルに見舞われ、ベンも水に落ちまくっているなど、水難のたびにふたりが近づく…みたいなのはいいのだが、くっついたり離れたりする理由がけっこう引き延ばしみたいな感じでもたつき気味だ。2000年前後のロマコメみたいな感じで下ネタがいっぱい出てくるのはまあいいのだが、あの飛行機内のあまり展開に貢献しない下ネタは必要なのかとか、オーストラリアではみんなしょっちゅう裸でうろついてるんだみたいな雰囲気はそれでいいのかとか、下ネタとしても洗練度が低いと感じられるところがいくつかある。そもそもオーストラリアでやる必要があるのか…?というのもあり、一応クリスマス映画なのでホリデー観光映画っぽくしたかったが、東洋とかを舞台にするとオリエンタリズムが鼻につくのでオーストラリアにしただけなのでは…と思ってしまった。

 ただ、これだけゆるくて文句もたくさんある映画だが、スウィーニーとパウエルがビアトリスとベネディックをやっているのを見られるだけでけっこう楽しく見られてしまうというところもある。また、女性同士の結婚が誰からも祝福されるべき家族の一大行事として当たり前のように描かれているのはロマコメとして進歩…というか、これは2000年前後のロマコメにはそんなになかったことなので、新しいと言っていいと思う。ハリとクローディアのカップルも可愛くて感じがいいし、脇役でダーモット・マローニーやレイチェル・グリフィスなどが出ているので、そのへんも面白いところではある。

 

一貫性のない映画~『湖の女たち』(試写)

 大森立嗣監督の新作『湖の女たち』を試写で見た。吉田修一の小説の映画化である。

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 琵琶湖と覚しき大きな湖のそばにある介護施設で不審死が発生し、西湖署の刑事である圭介(福士蒼汰)と伊佐美浅野忠信)が捜査に乗り出す。圭介は捜査の途中で出会った介護士の佳代(松本まりか)にやたらと執着するようになる。一方、ジャーナリストの池田(福地桃子)はこの事件を調査するうち、かつての薬害事件にぶち当たり、さらに731部隊まで関連しているらしいことがわかってくる。

 エロティックスリラー的なものを目指しているのだと思うのだが、一貫性のないセックス観に基づいて作られている古臭い映画だな…と思った。圭介と佳代のくだりが、単に警察官が権力を使って女性にセクハラをしているようにしか見えず、佳代もなんだかそれにのせられているようなのだが、この2人の性的な関係(と言えるかよくわからないのだが)は基本的にセックスをタブーと見なす抑圧的な考え方に基づくものである。何かこの2人を通して性的な解放みたいなものを描きたいのだとしたらちゃんちゃらおかしい…というか、抑圧の中で遊んでいるだけの人たちを出してきて性的な解放ですとかいうのは実に矛盾しているだろうと思う。とくに圭介はあまりにも身勝手だし、佳代はそれに従属しているだけで、何の解放もない保守的な関係である。

 さらに、もうひとつの筋である薬害事件の調査においても性的な虐待がキーとなっており、この話においては性的な強要が非常にネガティブに描かれている。そうなると、2つの話を並べた時、結局今も昔もみんな抑圧的な環境で性的な虐待や強要が発生しているだけで全然状況が良くなってないじゃないか…という話に見える。この薬害調査の話のほうが面白いので、こっちだけでいいじゃないかと思った。

子どもの失踪を扱った深刻な人間ドラマ~『ミッシング』(試写)

 𠮷田恵輔監督の新作『ミッシング』を試写で見た。

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 沙織里(石原さとみ)と豊(青木崇高)の夫婦は、小さな娘の美羽が行方不明になって以来必死に捜索を続けていたが、全く手がかりは見つからない。地元のテレビ局員である砂田(中村倫也)以外は報道も関心を示さなくなる。砂田が調査を続けるうち、どうも沙緒里の弟である圭吾(森優作)が何かを隠しているらしいことがわかってくるが…

 ミステリっぽい謎解きではなく、子どもが失踪した後の夫婦の温度差や、姉弟の間のぎくしゃくした関係、報道のあり方などを中心に据えた重い人間ドラマである。出てくる人たちは悪意はないのだが誤解されやすいところや失敗しがちなところがあり、とくに沙緒里は自分がそういうタイプであることを自覚しているのでネットの中傷などにとても敏感だ。沙緒里役の石原さとみが、疲れ切った庶民的な女性を非常にリアルに演じている。全編、深刻で真面目な話で、とくに何かが劇的に解決するとかいうわけではないのだが、最後は少し明るい後味で終わるのがいい。