義父も逝く

二年前の11月初め義母が亡くなり、こないだ三回忌を終えた。

その二週間後、義父が亡くなった。

脳梗塞や糖尿や初期の胃がんがあったが、老衰とのこと。

前日は施設のお誕生日会でカラオケをうたったが夕方から

体調を崩し、翌日18日の朝、旦那と義妹、つまり二人の子供に

看取られて眠るように亡くなった。

 

義母のときはつききりでお世話したからロス感がひどかったが、

今回は「思ってたより早かった」とは思うものの

準備ができていて葬儀もつつがなく終わった。

今は週に三日CADオペの仕事も復活してるし、明後日からまたいつもの日々なのだ。

義父とは生前衝突が多かったため、なんか

悪い嫁で申しわけなかったな、と思う。

ロシア語続いてます

そういえば、ロシア語は一年前から続けていて、検定3級を去年取った。

ブログタイトルにまだしがみついているよ。

 

ママ友が亡くなった。

2005年に最初の子(娘)を産んだときに知り合った人。

2008年に中野から横浜に引っ越して以来年賀状のやり取りしかしてなかったけど

彼女が二人目産んだ時には町田の本屋から絵本とベビー服を送ったのを覚えている。

司書として働いていて、お互い本が好きで、保育園に入れた時期も一緒で

何よりもとても話が合う人だったから、長年あってなくても

再開すれば話は尽きないだろうなと思ってて、今年の二月にメールで

「久しぶりに会いたいです」と連絡したら

「大病して、よくなったと思ったらまた悪くなって入院してます」という返事だった。

病名を彼女の方から聞かなかったから、お見舞いも遠慮しておこうと思って、連休あけぐらいに

また連絡してみようと思ってたところ、電話が鳴って、いそいそと電話に出たら妹さんからで、「昨日息を引き取りました」と。

猛烈に後悔したよ。娘が司書にあこがれてたから、お話聞きに行こうねと言ってて

去年の夏そんな話をしたから言っておけばよかった、とか、

二月にお見舞い行けばよかったとか。

妹さんは「亡くなった時に連絡するように言われたので」とのことだったから、

私のこと気にしててくれたのかと思うと余計に残念で。

 

もしや、と思ってたけどやはりがんだった。

告別式の時にお顔を見ることができたけど、すごく痩せていたし、

おそらく抗がん剤治療をしていたのだろう、キャップを被ったままだった。

家族の方は死が近づいていたのをわかっていただろうから、葬儀の時は

しっかりしていて、和やかに見おくる感じだったけど、私にとっては

突然の事過ぎて、今でも思い出すと涙が止まらない。

葬儀の後、彼女との思い出の場所、といってもお互いの家を行き来したり、近所の公園で散歩したりするくらいだったけど、

昔住んでいたアパートまで行ってみた。

これからの人生で彼女がいないのかと思うと、それがすごくつらい。

第一子の出産は初めてのことで、何もわからない状況で、

話の合う仲間がいたことはとても大きな財産だった。

自分の体に起こったことをお互いに共有したり、差に驚いたりというのは

ママ友ならではの感覚で、そこを一緒に過ごしたからこそ、何年合わなくても

分かり合える部分があると思っていたのにその相手が、数少ない友達のうちの一人がいなくなってしまった。それは思った以上のダメージ。

 

彼女の訃報を聞いたその日に、母の日には修学旅行のため家にいない娘が

前倒して私にプレゼントしてくれた。私の好きな曲を2つピアノで弾いて(「パリは燃えているか」と「Don't stop me now」)手紙とストラップをくれた。

 

彼女は、この日がくることを察していて、家族や友人にあてて手紙を遺していた。

ご主人がそれを読んでくれた。

本にかかわる仕事をしている人らしい、丁寧に選ばれた言葉で綴られた

素敵な手紙で、でも彼女がこんなに素敵な文章を書く人だと、

亡くならなければわからなかったことだと思うとまた、辛い。

 

 

 

はてなブログに移行していた

今日は2019年5/2ってことで

まだ無職のままだ。

義母が亡くなって今度の秋で2年になる。もういい歳でそろそろ仕事探さないと。

もらった遺産もなくなりかけてるし、1年半、行きたい展覧会にもドライブにも随分行かせてもらった。デミオの調子は良くて保土ヶ谷バイパスも少しは慣れてきた。

派遣の登録をしつつ、昔みたいな景気のいい話はないだろうなあと思う。

あと15~20年くらい、なんの仕事を選べばよいのやら。

 

元号が変って、そのお祭り騒ぎに辟易しているのだけど

戦争責任も天皇制も解決しないまま今に至る。

新しい元号の元での追加の難題は女性の問題だと思うよ。

 

 

 

まだ無職

2017年の4月に仕事をやめた。
辞めた理由は二つあって、社長のパワハラと次長(コイツがまた社長のイエスマン)のセクハラがひどくなったことと、
息子が学校にちゃんと行けるかどうかが心配になったからだ。

小学校入学前に「就学前検診」というのがあり、
息子はまったく先生の言うことを聞かず参加できてなかったため
発達の様子が不明なので
一度校長面接に来てほしいと言われた。
校長面接は特に問題なく、その後は特に学校から連絡もなかったが、
一年生の間、グレーな状態だった。
このままだと、周りのサポートなしでは上手く学校に
なじめないのではないか、という話もきいた。

なので一年間休んで息子の様子を見ようと思ってたら
末期癌になった義母の介護と看取りが入り
夏休みをはじめ子どもたちの面倒をよく見ることができなかった。
なので生活は苦しいけどあともう少し仕事をせずに
ゆっくり子どもの、特に息子の様子を見てみようと思っている。
息子を他の子と比べるのをやめて、
彼自身が時間とともに成長しているかどうかを
しっかりみなければいけないなと思った。
先日2度目の小学校の運動会があり、去年と比べて
ダンスも徒競争もペア競技も、わりとちゃんとできていて
少し安心した。
今年の夏休みこそいろいろ遊んであげたいなと思う。

看取り

11/4に義母が永眠した。
7月の時点ではまだ庭に出たりコンビニに買い物に行ったりしていたが
膀胱いっぱいのがんは足の浮腫を引き起こし、歩くのがかなり困難になった。
私は毎日両足に合計6本の包帯を巻くのが日課になってそれはかなり続いた。
一カ月ごとに悪くなる、と言われたものの実感はなく振り返ると本当に
1か月、1週間ごとに悪くなっていった。
看護士の訪問は週1から最終的に週4になり、ヘルパーは意外と役に立つことはなかった。
最期の1か月くらいは私と夫が交代で泊まり込んだ。
ブザーをつけて、夜中に何度も起こされたこともあった。
麻薬の量はどんどん増えて、薬を自分で飲み込むのが難しくなり点滴の麻薬と
張り薬の麻薬を併用したころから意思疎通は難しくなった。
そのちょっと前から歩行も無理でおむつをあてた。
毎回どの介護をしても「悪いね」と言ってしくしく泣かれることが多く
それがつらかくていつまで続くんだと思ったけど振り返れば
あっという間だった。あっという間に要介護2から5の病人を
ダイジェストで看病したという感じ。
介護中は私の自由が利かなくなり、
「これが終わったらあれをしたい、これをしたい」と思うことで
乗り切っていたが、自分の自由が義母の死によってもたらされることが
なんともいえない罪悪感がすごかった。

そもそも抗がん剤をやるかやらないかのところからいろいろな
選択を私たちが、しかも主に私がしなくてはならなかった。
義理妹が来てくれたのは助かったがメインは私だったので
私がつらいなら緩和ケア病棟に入れてもいいのでは、という
話し合いもあった。しかしそれは「探してる間に亡くなる可能性が高い」と言われて
見送った。言われたときはほんまかいなと思ったが
そのあたりから1日ごとにどんどん悪くなり、
最期は骨に皮膚がはりついているような状態なのに
胸から下は異常に浮腫みどこを触っても痛がり
9割五分は寝て一日にわずかな水分だけをとって
それでも最後の最後までしっかり脈はあった。
排尿もあったし、脈も血圧もしっかりしてたから
あんなにあっさりと私が朝ごはんを食べている間に逝ってしまうとは
予想外だった。
その瞬間には実子のみが立ち会っていたので
それはそれでよかったと思う。

義母宅は住む人がいなくなった。
今は毎日線香をあげにいっているが、
私が仕事を始めたらそうもいかなくなると思う。
今は本棚を置こうとか、ピアノを移動させようとか言っているけど
私たちの思い付きがどこまで維持するのかはわからない。

まず、サンシャワー展のこと

サンシャワー展に夫と行った。
ASEAN10か国86組のアーティストの出品で、会場は六本木の森美術館国立新美術館

まず森美術館から。
大好きなアピチャッポン・ウィーラセタクン
「サンシャワー」という作品はチャイシリとの共作とのこと。エスカレーターを上ると、
横たわる巨大な白象が
頭上から眼下へと変わり、月を思わせる丸い光と重なる。
アピチャッポンの映像が好きなのでこういうインスタレーションは珍しなーと思った。
白象は聖なるものだとの解説。
が、後に白象はタイでは「迷惑施設」の意味もあり、
王様が気に食わない臣下にわざと贈るものとのこと。
贈られた家来は捨てることもできない白象の世話で財をつぶしてしまうからだ。
それを知って「アピチャッポーン!」としびれた。

アジア人のアイデンティティ、政治との闘い、記憶等をテーマに、解説も多く
分かりやすい展覧会だったため、
「解釈の自由さがあまりないね」と夫が言う。
「作品についてあれこれ語り合う感じのものではないね」とも。
ただ気になったのは、自国の歴史や圧政などのテーマのものをみるにつれて
「この人たちは自分たちの作品を、かつて自国を攻め入った日本という国で発表することを
どう思ってるのだろうな」と思った。
夫もそれを感じたようで
「歴史や政治を扱ってる作品は多いけど、日本に占領されたことに触れた作品はあれとあれくらいだね」
と言った。
そのうちの一つ、虎人間についての映像作品がよかった。
映像もよかったが、ナレーション(?)の声がよかった。

ぺかぺかした電飾の作品(センザンコウ)、赤い明りに祀られた大量の戦死者の仏壇
インスタレーションの中で面白かった。

カタログが手元にあればいいんだけど、この手の展覧会にありがちな
「開催してすぐにはカタログができてない」情態で、困る。
生き別れになったおばあちゃんの話の映像や、
華人の名前を付けられて苦労したシンガポール人の映像とか面白かったんだけど
アーチストの名前がわからん。

美術展2つと末期がん介護雑記

サンシャワー展とヨコハマトリエンナーレに行った。
その合間にアピチャッポン・ウィーラセタクンの個展と、ワタリウムにも行った。

あと、相模原にある女子美術大学での中西夏之にも行ったのだった。
それぞれ追々しっかり感想書きたいが、
無職になったのにわざわざ行ってるのは時々無性に美術に触れたいと思うからなのだ。
ヨコハマトリエンナーレでワエル・シャウキーに会えたのが一番の収穫だった。

それはおいといて。
去年の夏、義父が倒れて老人ホームに入った。
義母はしょっちゅう義父の元へ通い、あれこれ世話をやいていた。
年末、「お母さんが世話焼きすぎてお父さんの自立を妨げているので、お母さんが老人ホームに来るのは週1くらいにしてほしい」
と施設の人に言われた。
しばらく義母は体調を崩していた。
それでも持ち直して、保育園の卒園式などに来てくれたが、6月に血尿が出て、
最初は膀胱炎と言われたのだが
あれこれ死にかけた後、
膀胱原発の神経内分泌がんと解った。
見つかった時点で膀胱を埋め尽くしていた。
たちが悪く、進行が早く、1ヶ月後のCTと比べて解ったが1ヶ月で1.3倍に増殖している。
今も進行中。余命は半年。
さて。
病院に相談したら、訪問診療と、訪問看護を紹介してもらい、それを利用することに。
更に介護認定も降りた。
敷地内同居のため、私が見守りの中心になる。
以上のことについて思うことはまた後程。
今日はメモのみ。