ハイスコアガールを読みました。

・ゲーマーとしてどうかと言われると共感できる部分はほとんどなかった。僕はFC→SFC→PS→PS2というゲーマー的に唾棄すべき道をたどってきたので、マイナーハードを有する真のゲーマーにはついていけない部分が多かった。PCエンジンも友達の家でちょこっとさわった程度。あと、アーケードゲーム文化にもほとんど触れていない。だって対戦格闘ゲーってなんか怖いじゃないですかー。さすがにスト2SFCでプレイしたけどはまりはしなかった。FF4サイコーとかその程度のにわかですよ。RPGサイコー。


PS2の後に箱○洋ゲーにどはまりした。今はPCゲーをよくやる。ようやく自称ゲーマーと言ってもいいかな。


・後真のゲーマーとして足りないのはTRPGの経験とテーブルゲームだけど、これは今からなんとかなるものではなくあきらめている。


・じゃあつまんなかったかというと全然そんなことはなかった。面白かった。久しぶりに真っ当な青春ボーイミーツガールものを読めた。中二病的痛さを抱えているわけでもなく、かといってハーレムものでもない。最近の漫画にしては珍しい作品だと思う。小学校のとき第一ヒロインと出会う→共通の趣味で距離が近くなる→女の子は異性を意識しはじめるけど主人公は全く気付かず→第一ヒロイン退場し中学生になって第二ヒロインと遭遇→第一ヒロイン帰ってくる!この自然な流れ!うん、いいよいいよ。おそらく続刊の三巻では第一ヒロインと第二ヒロインとの間でようやく主人公が異性を意識しだすのだろう。そう想像できるところもよい。薦められて読んだ漫画だけど読んでよかった。


・第一ヒロインが無口でしゃべらないという設定なのだけど、綾波臭は全くしなかった。90年代はもとよりゼロ年代も既に過去なのだねー。そこが新しいとも言える。


押切蓮介氏の作品でベストワンはやっぱりミスミソウという気はした。多分パロディ成分が全くないストレートな作品だったからだと思う。ハイスコアガールもパロディ成分は味付け程度の真っ当なボーイミーツガールなのでやっぱり面白いと感じた。

エヴァQネタバレなし感想

エンドクレジットが流れている中俺はずっと泣いていた。
庵野さんありがとう」ってずっと思ってた。
14年前から妄想していた映像が流れてよかったと思ってそのシーンでも涙がでた。
人と話した。
そして時間がたてばたつほど
庵野さんなんでこうしたんですか。あなたやればできる人じゃないですか。どうしてですか」
と心の中で思うようになってきた。
そしてどんどん精神的ダメージがきつくなって
「なんで俺は1800円出してこんな辛い思いをしなければならなかったんだろう」
と鉛が腹に溜まったような鈍い痛みが腹部をおそった。



ああああああああああああ。


家に帰って録画してた序を見た。

画がすごく綺麗だけど

つらい

つらい
つらい

途中で消した。

本当なんでこんなに辛いんだろう。


結局旧劇場版から時間が経って俺はなんの成長もしていない事実を突きつけられ、「庵野さんあなたが正しいです」と思うようになった。

今、ようやく落ち着いてきた。

もう一度みるのはたしかだが、それがいつの話になるのか。
今は考える余裕がない。
三日寝込むのは確実だ。
だが、うつにはうつの楽しみかたがある。

刑務所の前でも再読して、うつを楽しもう。

坂道のアポロン

坂道のアポロン』USTにゲスト参加させていただきました。
http://www.ustream.tv/recorded/21962299


ラジオでも触れていますが、こうして聞いてみると確かに第一話の西見くんのピアノタッチより千太郎のピアノのほうが「スイング」していますね。
二話もセッションシーンが最高でした。坂道のアポロンは完走できそうです。アクセル・ワールドもそうですが、原作知っているアニメのほうが視聴意欲高まりますね。
理由は3つ
・面白さを知っていること
・どう映像化されるか期待がもてること。
・残念メディアミックスが驚くほど減ったこと
二番目と三番目は実質同じですが。

雑感

・用語「リア充」について。ネットスラングが元にあった「リア充」だが、どうも周りの若い子に言わせるとネットスラングではなくもはや若者言葉になっているとのこと。ネットスラングとの違いは「彼氏/彼女がいるかどうか」になっているところが大きな違いみたい。こっからは推論だが「私恋人いないんです。あるいはあなたは恋人いますか」という使い方をしているみたい。元々自虐的なワードだったのがその自虐成分を薄めた感じで「リア充」が使われていると私は思う。ストレートに「恋人いるかどうか」より聞きやすいみたい。「非リア充リア充の対義語が非モテでないことがみそ)」アピールすることでの連帯を強める使用法のようだ。ただ「非リア充」同士で連帯感を高めるところはネットスラングと大体一緒のような印象を受けた。

ガンダムAGEをライトヲタに言わせると子供向けと大人向けの要素を取り入れたいい作品らしい。ここは私としては意義を唱えたい(どっちつかずに見える)ところだがそれは考察ヲタの悪いくせ。ライトユーザーの見方のほうが多分正しい。
・スカイリムをすると他のことができなくなる。面白くボリュームの多いゲームの弊害。個人的には一周10時間か15時間くらいがちょうどよい、という見方が相変わらず僕のなかにある。
モゲマスプレイしての雑感。ソロプレイするかぎり決して楽しいゲームではない。一番ダメなところは効果音の類が一切ないところ。ゲームは究極的には操作に対するレスポンスつまりプレイヤーの操作にフィードバックがあることがゲームのキモだと思う。タッチパネル以後はボタンを押すではなく効果音でフィードバックしていたのに対しソシャゲはそれがない。強いていえばタッチしたあとの読み込み時間がそれにあたるがそれがフィードバックというのはどうじゃろ
・ソシャゲのシステムはわかりにくい。が、これはソシャゲにとって不利にはならない。なぜならシステムを全て把握しなくてもプレイしているうちに自然とわかるような作りになっているから。これはチュートリアルがめんどくさいというコンシューマに対するアドバンテージとなる。ドラクエ7みたいに最初の戦闘に二時間かかるみたいのがない。
・ソシャゲと言いつつ、リアルでの情報交換が楽しい。つまり、ソシャゲはそれ単体で完結するものではなく、情報交換が楽しい。ということは私にとってソシャゲのメインはソシャゲを肴にだべることになっている。し、そういった楽しみ方をしているのがメジャーのよう。なるほどなるほど

個性が大事!←それって本当?〜ねじまきカギューとかちはやふるとかフォーゼとか

ねじまきカギューのキャライズムってバズワード化した「個性」を取り巻くワードだと思っている。と、すると役に立たないキャラはいらないとする学園長は「社会の役に立たない個性は無意味」とする社会からの要請とかぶる。学園長は表向き「個性は大事」といいつつ「最近の若者は・・・」といってしまう現実を映しだしているのだろう。むしろ役に立たないキャラなんてキャラじゃないと言い切る学園長のほうがはるかにマシって考えてしまう。
・学園長と対比されるカモ先生は本来的な意味での「個性が大事」を全面に打ち出しているといえる。ゆえに上記の理由によりうさんくささが出てきてしまっている。
・でも学園長とカモ先生なら絶対カモ先生なのであって、それはフィクションだからとか所詮ファンタジーだからという理由だけではない。多分、「個性」にはそれを見抜く眼力が必要で今のところ(単行本4巻時点)その能力がカモ先生のが上回っているように見えるからだろう。
・つまり「個性が大事」という建前を成立させるためには個性を見抜いている/見ようとしている姿勢が大事ということなのだ。では現実世界でそれが出来ている/出来ていたかというと出来てなかったよなあ。そんな建前いうくらいなら「才能」と言い切ってしまったほうが思春期以降の子どもにとっては救いだと思う。それなら才能/個性を磨こうと思うわけで。
ゼロ年代のフィクションはラノベや萌え作品を中心にキャラクターの時代だったといえる。それは建前としての個性(才能)ではなく本来的な意味での「個性が大事」を体現していたのかもしれない。ツンデレなんて現実世界ではめんどくさいだけなわけだしw。
ねじまきカギューほど過激ではないにしてもアニメちはやふる仮面ライダーフォーゼでも才能を伸ばすことは欠点もそのまま残すことであるという描写が見られる。そのためには才能と裏表の欠点を受け入れる度量が必要なのだ、ということを我々に教えてくださるありがたい作品なのだ。だとするとフォーゼはともかくちはやふるは本当深夜アニメじゃないよなあ、と。
・そんな感じで最近はようやく個性という言葉がバズワードじゃなくなったといえる時代になりつつあるのかな、と。というかバズワードからはじまる言葉が広まる現実世界ってどうよ。
とかなんとか。

何者になれないという幸せ〜輪るピングドラム

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」
このセリフきっと二十代半ばのころに聞いたらものすげーダメージくらっていただろうな。
ではなぜ今は平気なのか。

十代のころ俺は「絶対何者かになる」と確信していた。
二十歳あたりのころの俺は「まだまだ時間はあるさ」と余裕こいていた。
そして、大学で才能あふれる仲間に恵まれ自分の才能のなさに打ちのめされていった。
ようやく自分が勘違いしていたことに気づいたのだ。

さらに、自分より才能ある連中がどんどん創作の道から挫折していった。
少年漫画の雑魚敵じゃあないが、俺が負けたあの連中が名を残していくならそれならそれでいいさと思っていたにもかかわらず。

そして、「きっと何者にもなれない」と確信してしまって、それを受け入れるまでかなりの時間を要した。
それで俺は考えた「そもそもなんで何者になろうと思ったのか」と。

それは幸せに生きるためだ。
もっと言うなら生き生きと生きるためだ。

では「何者にもなれなかった」ら「生き生きと生きられないのだろうか」。
もちろんそんなことはない。

僕は人との出会いに恵まれていたおかげでそんな生き生きと生きている人たちに出会うことができた。

だから今の俺はこう思う「きっと何者にもなれなくとも、生き生きとした人生を送りたい」と。
心のそこからそう思う。

[日記]事実に基づいたストーリーに対する違和感

父親にメールを送りながら亡くなった気仙沼の女の子はいなかった

クオリティの低いストーリーだから事実だという色付けをしちゃっているだけの話で、これが最初からフィクションだとわかっていたら、これほど陳腐な話はない。少なくとも、震災についてまじめに考えていた人なら、ああいう災害時の状況に反した筋書きにはしないだろう。(略)こういうデマを許容するということは、フィクションとして通用しないレベルの作品に事実だと味付けすることを認めることになる。それでいいの?

http://n-styles.com/main/archives/2012/03/10-040000.php

僕にはわからない感覚だが、「事実を元に作ったストーリー」とついただけで作品の見方が変わる人がいるらしい。もちろん、そういう人を非難するつもりは全くないが、そういう人の心理を利用して嘘のストーリーをでっちあげるのはさすがにどうかと思う。

「事実は小説より奇なり」というけれど、それって裏を返せば「事実を元に作ったストーリー」という一言があるだけでどんなご都合主義も許されてしまうということでしょう?

作者は必死でご都合主義と呼ばれないようストーリーの整合性を整えつつ、それを踏まえた上で面白い作品をつくろうとしている。今回のケースやゲーセン少女の話はそういう人たちの心理を利用して嘘をついている(もちろんリンク先にもあるように「悪魔の証明」になるため完全な嘘ということはできないが・・・)。

「事実を元にしたストーリー」がいけないというのではない。この文言さえあればフィクションと同レベルで語ることができる。作品鑑賞していても「どっか脚色しているところがあるのだろうな」と思うことができるからだ。

いずれにしてもフィクションを愛する人間からすれば非常に残念なことであることには間違いない。