記録映画について

仕事をはやく切りあげて、東京大学情報学環の丹羽研究室が主催する、記録映画アーカイブ・プロジェクト、第7回ミニワークショップに参加。
満洲の旅――ホームムービーから観光映画まで」と題して、満洲への旅を記録した観光映画など、5つのフィルムの上映と、駒澤大学の高媛さんによる解説。

上映したのは、以下のフィルム:
1.「満鮮の旅・父銅像除幕式参列のため」(1930年、19分、後藤家)
2.「満洲の旅」(1937年、5分、満鉄映画製作所)
3.「内鮮満周遊の旅 内地篇」(1937年、10分、大阪商船株式会社)
4.「内鮮満周遊の旅 満洲篇」(1937年、29分、満鉄映画製作所)
5.「娘々廟会」(1940年、20分、満鉄映画製作所)

高媛さんによる、フィルムの詳細な解説と分析が、たいへん素晴らしい。よく調べているのだけれど、それだけではなくて、言葉にできないおもしろさがある。どうして、この人は、この細部に関心があるのか、について、関心がある。
すごく、個人的な感想ではあるのだけれど。
4.「内鮮満周遊の旅 満洲篇」と、5.「娘々廟会」の解説が、特にすごい。なんか、水を得た魚のような昂奮。参加してよかった。

ナチスドイツにおける、レニ・リーフェンシュタールとは違った、プロバガンダ。
日本の場合、プロバガンダとはなにかという意識が希薄だったのではないかと、思う。映像を見て、特別な操作なく、自然につくられたものなのではないかと、感じる。欧米との相対性において。
そのあと、はかる基準が、欧米になってしまったのだから、しょうがない。しょうがないというのは、なすすべがない、という意味。
高媛さんの解説のなかに、「リットン調査団」がでてきたときに、そう思った。異質な、判断基準に、戸惑ったのではないか、日本は。

娘々廟会について、大連の、満洲族の友人に、知っていることを聞こうと思って、忘れてしまった。慌ただしい、金曜日。

アナグラムで思いだしたこと

人の名前をアナグラムにして遊んでいたら、昔のことを思いだした。

大学2年生で、ソシュール言語学を勉強した。おもしろかったから、いろいろ本を読んだ。さらに興味をもったのが、アナグラムだった。ソシュールは、あれほど体系的に言語を分析しているにもかかわらず、晩年、ギリシア詩のアナグラム研究に没頭している。言ってみれば、言葉遊び。しかしそこに、芸術における無意識の問題があるらしい。
大学ではラテン語ギリシア語も勉強して、アナグラムのことを考えた。わかんなくなると、お酒を飲んで、寝た。ダックジャニエルをよく飲んだ。
春休みは、思いのほか長かった。
お酒を飲んでも眠れなくなって、やがて食べるのも億劫になって、いろんなことが面倒くさくなった。ちょっとたいへんだった。そんなことを思いだした。
という、一連を、すっかり忘れていたのだけれど、さっき、アナグラム遊びで思いだして、まだ、喉にゆで卵をつまらせたみたいに、びっくりしている。
春休みが終わると、なんとか生活は元に戻った。
あれから15年くらいが過ぎているのだけれど、その間、ソシュール言語学が、ラングとかパロールとか、役に立ったことはいちどもない。
昨日、奥さんに、「圧力鍋で玄米を炊く方法を教えてやるから、次からできるようになって」と上から目線で言われて、「じゃあ、そのあと、微分積分教えてやるよ」と言ったら、「それ、役に立たないから」と一蹴された。そういうことらしい。
 

僕を救ったプリマドンナ

仕事中に、エルトン・ジョンがちらちらと頭をよぎって、やがて、Captain FantasticのSomeone Saved My Life Tonightのメロディが頭にこびりついて、離れなくなる。
邦題は、「僕を救ったプリマドンナ」。名曲。
キャプテンファンタスティックは、確か、1975年のアルバム。名盤。エルトン・ジョンは47年生まれなので、28歳のアルバム。


これは僕のつくり話なのだけれど

これは僕のつくり話なのだけれど、ひとりの男がいる。
恋人ではない女の子とデートの約束があって、ライブハウスのチケットは男がもっている。当日、ライブハウスの開場30分前に、ライブハウス前で待ち合わせをする。
ところが、女の子は現れない。男は女の子の携帯電話を呼び出すが、何度かけても、応答はない。
ライブが始まり、ついに男はあきらめるのだが、男はほんとうにあきらめることができたのか、つまり、どういう絡んだ感情で演奏を聴いていたのかということなのだけれど、そのへんは定かではない。
翌日、女の子に電話をしても、やはり出ない。
男は新聞をとっていて(いまはとっていないのだけれど)、地方版を眺めていると、横浜の埠頭で、二〇代と思われる女性の遺体が発見されたと書いてある。
男がその記事を読んだのは、ライブがあった日の翌日だったか数日後だったか、記事内で「女性」の特徴にまで言及されていたかどうか、記憶はあいまいである。
しかし「情報提供、または詳細な問い合わせは、横浜水上警察暑まで」とあり、電話番号も掲載されていた。男は、横浜水上警察署に電話をかける。刑事課にまわされる。
刑事課の刑事は、素性の知れない男を警戒していた。それは口調にあらわれ、遺体で見つかった女性について訊ねても、「髪が長い」、「色白である」という以外、多くの特徴を言わない。あえて口をつぐんでいるのがわかる。
「暑までお越しいただけますか」と、刑事は言った。「これから行きましょう」と、男は言った。
男は、中区海岸通にある、横浜水上警察署に足を運ぶ。
入り口で用件を話すと、上階に案内され、本物の刑事が二人、テーブルをはさんで男と差し向かいに坐った。若いほうの刑事は、陶器の椀にコーヒーを淹れて差し出した。
男は、「遺体で見つかった「女性」に心当たりがある、写真を見せてほしい」と言ったのだが、刑事は「心当たり」の背景を聞かせてほしい、写真はそのあとだと言う。
二人とも、小さな手帳を出して、小さな細いペンを握りしめて、男の言葉を待っている。男は、じしんの素性と、彼女との関係(恋人ではない)、彼女が約束の時間、約束の場所に現れなかった経緯を伝えた。
いくつかの質問があり、男はそれに応えて、しかし刑事は、何の感想も漏らさない。メモの量が多い。
いよいよ刑事は、「女性」の顔写真を見せてくれると言った。「海で発見されたので、顔面の皮膚の膨張、漂流物や岸壁によってついた傷があるが、冷静に見てほしい」と刑事のひとりが言って、もうひとりは薄っぺらい写真アルバムを手に立っていた。
テーブルの上にアルバムが開かれ、すぐさま男は、「これは遺体の写真だ」とわかったのだが、幸運にも、それは、男の知っている女の子ではなかった。
 
実をいうと、ここまでは、ほんとうの話である。男というのは、僕である。僕は、13年前の2001年の春、横浜水上警察署で、見知らぬ女性の遺体写真を見た。
 
僕は、これは僕の知っている女性ではないと言った。「なぜなら」、と僕は顔写真の頬のあたりを指さして、「彼女はここにホクロがあったんです。ここです、ここ。彼女はここにホクロがありましたが、写真にはありません。だからこの女性は僕の知人の女性とは関係ありません」と言うのだけれど、僕が指さしてるまさにその頬の位置にホクロがあり、僕の指はそのホクロを隠してしまっていることに、僕は気づいていない。
刑事は、「ホクロ、あります」「指をどけて」「冷静に」「他の部分も見て」などと口々に言い、しかし僕は、「これは違います」の一点張りで、顔写真の頬をずっと指さして、押さえて、隠している。
その遺体の女性が、僕の知っている女の子だったのかどうかは、わからない。
というのも、この「僕」は、僕ではない。この部分、ホクロの件(くだり)にかんしては、つくり話である。
 
僕のほんとうの話について言えば、「それは、僕の知っている女の子ではなかった」というところが結論である。
数日後、彼女から電話があり、「ライブのことはすっかり忘れていた。郷里に帰省していた。携帯電話はアパートに忘れてしまって、だから出られなかったのだけれど、それにしても、すごい数の電話かけたね」と彼女は言った。
お詫びに、と、しゃぶしゃぶの食べ放題をごちそうしてもらった。
繰り返すようだけど、13年前、2001年の春のことである。僕の知らない20代の女性が、横浜の埠頭で、遺体で見つかった。海水を含んで膨張した皮膚、傷だらけの顔面の写真(目を閉じた)を見たという事実だけは、変わらない。
 

「英語力」とは何か

(扇田明彦)――向こう(ロンドン)で何回もワークショップを重ね、配役を決めて、しかも英語で野田さんが演出して自分自身も英語で演じる訳ですよね。今までの日本の演劇人はそんなことはしてこなかったと思うのですが、やはり演劇システムの違いもありますし、戸惑うことも多かったのではないですか。
野田 そうですねぇ。……どのくらいかかったんだろう、〇六年の『THE BEE』までに十年はかかってるような気がしますね。最初、〇三年に『赤鬼』を『RED DEMON』としてロンドンで上演したんですが、その時に自分の英語力が不十分で、演出の言葉を役者たちに的確に伝えることができなかったし、決断もできなかった。というのも、こちらが言葉の面で弱いと役者の主張に対して「自分はこうだと思うけれど、ロンドンのシステムだと違うのかな」などと考え過ぎてしまって、説得できない。それで、役者たちに言い切れる言葉を使えるように、まず英語力を身につけないとだめだなと思ったんです。
――最初は英語力不足だったと言われましたが、その場合、普通の人なら通訳を使っちゃうと思うのですが、野田さんは使わないで乗り切ったわけですよね。
野田 そうですねえ……それはイギリスという国の特殊性のためなのかもしれないですね。例えば、タイの役者と組んだときは、通訳を介して彼らとのコミュニケーションが充分取れて楽しめたんですが、イギリスの人間というのはやはり英語を喋れない人を自分より下に見ますから。役者も、「英語が喋れない奴の話をなんで俺が聞かなきゃならないんだ」という態度に出ますので(笑)。ただ、自分の仲間は、キャサリン・ハンターやサイモン・マクバーニーなどを含めて、そういったことに対して非常に寛容な人間たちだったので良かったですね。九三年頃、一番最初にサイモンのワークショップに行った時、僕はまったく喋れなかったのですが、サイモンがやたらと僕を使う。そうすると、他の役者から「なんであいつを使ってるの?」という空気をすごく感じたんです。それでもその時は、フィジカルなワークショップだということをみんなが理解していたので、僕がフィジカル性で何か見せるとそれは認めてくれたんです。しかし、もしあれがRSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)のワークショップだったら、相手にもされないわけですよ、ちゃんと発音もできないだろうし、って。
野田秀樹 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)』、河出書房新社、2012) 

「英語力」というキーワードで、思い浮かんだのがこのインタビュー。 
野田秀樹がロンドン留学したのが37歳のとき。
 

MUSASINO-1(1957)

奥さんと子供たちが出かけてしまい、インフルエンザ明けなので僕は連れて行ってもらえず、留守番。
インフルエンザから回復するには、相当に体力を使っているらしく、4キロほど体重が落ちている。造血機能が疲れていて、普段ですら貧血気味なのに、輪をかけてくらくらする。
こういうときには、牛肉とかレバーがよい。肉食に転じる。
英語の勉強。「DUO 3.0」という英語の単語帳をもっていて、5年くらい前にCDといっしょに買ったのだけれど、ちゃんとやってなくて、いまさら再び読み返す。いま、TOEICなんて受験したら、600点取れる自信もない。
Wikipediaの英語のサイトを読むのはおもしろくて、IBMを中心にしたパーソナルコンピューターやメインフレームの歴史を追う。
昔のごつごつしたパソコンの筐体は、懐かしさというか、ほしくてたまらなかったんだけど指をくわえて見ているしかなかった時代が思いだされる。
メインフレームからは、安部公房の「第四間氷期」が思いだされるのだけれど、この小説は驚くべきことに1958年の発表で、IBMのSystem/360すら、まだ世に出ていない(System/360は、1964年、東京オリンピックの年)。
安部公房が取材したのは、日本電信電話公社(現・NTT)の電気通信研究所で1957年に開発されたMUSASINO-1で、いまは武蔵野市NTT技術資料館に展示されているらしい。
ちなみに、僕がはじめて買ったパーソナルコンピューターは、IBMAptivaで、23万円くらいしたけれど、「安い」と衝動的に選んだ記憶がある。
1995年、Windows95のリリースに伴ってインターネットが爆発的に普及した年で、ビル・ゲイツとか、立花隆とか、坂本龍一とか、とにかくインターネットのお祭りで、僕も例にもれず、「これはすごい」と追っかけた。
当時、インターネットの速度は、電話回線で自宅に引いたのが14.4kbpsで、「いっちょんちょん」とかいわれて、大学研究室では28.8kbpsで、羨望のまなざしの「にいぱっぱ」。
来年20周年。誰か、なにかやるのかな。
 

紙の匂いから

朝起きて、ほぼ平熱。午前中、クリニック。インフルエンザ、完治。喉が腫れていて、炎症止めの薬が処方される。
それでも、体調はいいので、車で三浦半島を回ってみる。車中、先日買った、ムーンライダーズ「Live at FM TOKYO HALL 1986.6.16」を聴く。
帰って、英語の勉強。それほど、はかどらない。
早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん』(晶文社、1982)を拾い読みする。
ドゥービー・ブラザーズ「スタンピード」とキング・クリムゾンクリムゾン・キングの宮殿」をレコードで聴く。ジャケットの紙の匂いが懐かしくて、名古屋のバナナレコードを思いだす。
バナナレコードのホームページを見たら、高校生の頃、連日のように通っていた、栄の店舗はなかった(栄・本店ではなくて)。
名古屋、栄周辺の地図を、Googleマップで眺めてみるが、地名と景色の記憶と、じっさいの地図との位置関係がなかなか結びつかない。
思っていたより、狭いサークル内で、暮らしていたみたい。鳥瞰図で見ていなかったから、「名前だけ知っているけれど行ったことない地名」が、周辺に点在している。
まあ、たかが、3年間のことだ。
そうは言っても、15歳から18歳までの3年間で、先述のバナナレコードでは、キング・クリムゾンも、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドも、ドアーズも、クリームも、ぜんぶ、ここで買った。
本は、千種の正文館書店。ビートニク関連の本は、たいてい、ここ。
どうしてビートニクかというと、当時、クローネンバーグ監督で、W.S.バロウズ裸のランチ」が、近所のシネマテークで上映されていたからで、しかし、この映画館で観た最初の映画は、矢崎仁司の「三月のライオン」だと記憶している。
中学生のときに見聴きしていたものは、いまとなっては、まるで残っていないのに、高校生になると、当時の情報を、不完全燃焼みたいに、いまでも引きずっている。おかしなことだと思う。