ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Nathaniel Hawthorne の “The House of the Seven Gables”(2)

 先週末、亡父の十三回忌で愛媛の宇和島へ二泊三日の帰省旅行。さいわい大きな余震はなかった。立ち寄らなかったが実家のほうも、弟夫婦によると地震の被害はほとんどなかったそうだ。
 意外だったのは、ホテルや街なかで外人をけっこう見かけたこと。ロビーでちょっと立ち話をした外人のひとりはミズーリ州カンザスからきた若い女性で、もうひとりは奥さんが日本人だというオーストラリア人だったが、どちらもお遍路さん姿だった。
 ほかにも何人か外人のお遍路さん(日本人はゼロ)が泊まっていたのでフロントで話を聞くと、今年に入って外人客が増えたが、お遍路さんはいつも数えるほど。こんなに多いのはめずらしいという。やっぱり円安のせいだろうか。あと、歩きやすい季節になったことだし。(写真は、宇和島駅にほど近い龍光院。八十八箇所とは別格の札所だが、それでも参拝するお遍路さんが多いという)

 行き帰りの車内では "The Portrait of a Lady" を読んでいた。昔はなにしろ東京から宇和島まで陸路で半日以上もかかったので、旅の友は清張ミステリ二冊。『松本清張地図帖』によると、愛媛では松山が『草の陰刻』の舞台のひとつになったそうだが記憶にない。
 "The Portrait …" はやっと終盤。頂上は見えているものの、まだきつい登りが待っている。おもしろい? まあまあ。すごい? うん、技巧的には。ってことは、なにか不満があるわけ? そのとおり。じゃあ評価は? もう決まってるけどお楽しみ。
 さて第四回古典巡礼。前回まで19世紀イギリス文学の旅がつづき、つぎはいよいよ Dickens か、と一瞬迷ったが、なにしろデカ本だ。それに古典といってもイギリスばかりで、アメリカはどうした、という(内心の)声が聞こえる。
 ただ、19世紀アメリカ文学といえば Melville。それも "Moby-Dick"(1851)がまず挙げられるけど、これについては過去記事『 "Moby-Dick" と「闇の力」』で紹介済み。あれを一本のレビューにまとめるのもしんどいしなあ。

 などと考えているうちにふと、Hawthorne のことが頭に浮かんできた。Melville ほど(たぶん)世界的に有名ではないが、じつは19世紀アメリカ文学では Melville と並ぶ一方の雄である。Hawthorne はタダ者ではない、と若いころ、よく聞かされたものだ。
 しかしただ、Hawthorne といえば "The Scarlet Letter"(1850)でしょ、とこちらも相場が決まっている。でもあれ、"Moby-Dick" ほどじゃないけど、けっこうきついんですわ。
 というのも学生時代、ある読書会に参加したとき、ここだけでもと指定された箇所を読んでみたけど、あまりピンとこなかった。Hawthorne にかぎらず、どだい、つまみ食いで全体像などわかるわけがない。たしか「Hawthorne の霧」とかなんとかいう発表者の報告を聴いても、頭の上を通りすぎていくだけ。
 とそんな霧のかなたの記憶しかない同書より、次作の "The House of the Seven Gables"(1951)はどうか。中学時代、亡父がなぜか毎月一冊配本の世界文学全集を買ってくれ、ある年のある月に届いたのが『七破風の屋敷』。へえ、おもしろそうな題名だな、と思った。
 が、何十ページか読んだだけで挫折。その理由を思い出すところから今回の巡礼がはじまった。(つづく)

Jane Austen の “Emma”(5)

 あしたから亡父の十三回忌で愛媛県宇和島市に帰省(ゆうべの地震にはびっくりした。余震がこわい)。そのため今週はきのうおととい、二日つづきでジムに通い、さすがにバテた。なかには毎日通っているひともいるようだけど、ぼくの場合、一回のメニューがかなり濃いのでムリ。帰宅後、しばらく仮眠をとらないと活字に目がついていけない。
 しかもいま読んでいるのは "The Portrait of a Lady"。三日前からいくらも進んでいない。たぶん帰省旅行中が胸突き八丁だろう。今回は往復とも陸路なので時間はたっぷりあるけれど、睡魔が敵だ。
 さて "Emma"(1815)の落ち穂ひろい。ほんとうは(4)でおわるはずだったのに、とんだハプニングで「春休み」となり、今回にズレこんでしまった。
 Jane Austen といえば、だれしもまず "Pride and Prejudice"(1813)を思い浮かべ、よほどのことがないかぎり、そちらから先に読むはずだ。"Emma" の前作なので、両者の特徴や相違など早わかりという利点もある。
 たとえば第一印象として、二作とも要するに結婚狂騒曲。"Pride and Prejudice" のレビューを引くと、「たしかに結婚は現代でも人生の重大事のひとつであり、まして十九世紀初頭、イギリスの上流階級ともなれば、結婚が個人と家庭に占める比重は相当に大きかったものと思われる」。
 勘ちがいかもしれないけれど、いくら古典といっても、ぼくのような素人ファンなら、これくらいの時代認識で両書ともまずまず楽しめるのではないか。ただしもちろん、本格的に研究されるかたはべつですよ。
 ともあれ結婚狂騒曲。それ自体はまあ、ウディ・アレン映画の古典版みたいなものだけど、

ウディ・アレンとたぶんちがうところは、pride and prejudice、あるいは "Emma" の場合なら vanity and arrogance という人間の宿痾が、やっぱり宿痾なんだなと思わせる点ではないかしらん。
 なぜ宿痾かというと、ひとつには、ギリシア神話に由来した「ヒュブリス」(hubris)ということばがある。Wiki によれば、これは「神に対する侮辱や無礼な行為などへと導く極度の自尊心や自信を意味」する単語で、「『驕慢』とか『傲慢』とか『野心』というように訳され」、「そのヒュブリスが人間の心にとりつくと、当人に限度を超えた野心を抱かせ、挙句の果ては、当人を破滅に導くと考えられていた」。
 時は流れて現代の世界情勢はどうか。どこかの国など、hubris の権化のような指導者が君臨し、隣国を属国扱いしているのではないか。
 その一事をもってしても hubris は人間の宿痾といえるのだけど、Jane Austen がどこまでギリシア神話を意識していたかは不明。おそらく的はずれだろうが興味ぶかい問題である。もしぼくがいま英文科の学生だったら、卒論は「Jane Austen と hubris」にしようと思うかもしれない。それも、ウディ・アレンと比較しながらってのはどうだろう。
 ともあれ結婚狂騒曲。"Pride and Prejudice" のほうはほんとに「ストレート」で、Elizabeth と Darcy がそれぞれ初めて登場したときから、あ、このふたりが結ばれるんだな、とすぐにわかる。恋愛映画で美男美女が顔を出した瞬間気づくようなものだ。
 ところが "Emma" は「変化球」。どうせ Emma とこの男が、と思っていたら、いやはやビックリしましたね。なにしろ Emma 自身も驚く展開が待っていた。Emma even jumped with surprise;―and, horror-struck, exclaimed,……/ "You may well be amazed," returned Mrs. Weston,……"You may well be amazed.……It is so wonderful, that though perfectly convinced of the fact, it is yet almost incredible to myself. I can hardly believe it.……"(p.371)
 省略はネタバレを防ぐため(「どうせ Emma とこの男が……」あたり、すでにネタバレですが)。ぼくはなにしろ邦訳でも読んだことがなかったので、ほんとに驚いた。当時の読者もきっと同じ反応だったのでは、という気がする。もしかしたら Austen 女史自身、読者があっと驚くのを期待していたのかもしれない。どう、こんな話になるなんて、ちっとも想像できなかったでしょ。
 落ち穂ひろい(3)でぼくはこう書いた。「作者 Austen としても、(前作の)二番煎じになることだけはぜったい避けたかったはず。いやそれどころか、きっと新しいアイデアが浮かんだからこそ、こんどもイケるぞ、と思ったのではないか」。
 そのアイデアはふたつあり、ひとつは(3)で述べたとおり、「聡明で思慮ぶかいエリザベス」とちがって、Emma という「欠点のある等身大のヒロイン」を思いついたこと。もうひとつは、上の「変化球」。これについて本書のレビューでは、「家族や周囲の人びと、そしておそらく大半の読者の予想に反する人物がヒーローとな」る、としか紹介しなかった。この(5)で少々ネタを割ったわけです。
 ともあれ、本書は「『高慢と偏見』で文学キャリアの頂点をきわめたオースティンがさらなる高みを目ざし、同書で確立した自身の創作パターンを打ちやぶろうとした野心作」。ニューヒロインの創造と意外な展開で「パターンを打ちやぶろうとした」のではないか、というのがぼくの臆測だ。(了)

Jane Austen の “Emma”(4)

 あっ、パソコンが壊れた!
 と叫んだのは、たしか13日ならぬ5日の金曜日だった。ひさしぶりにデスクまわりを掃除していたら、なにかの拍子にパソコンが前向きに倒れ、液晶画面が文鎮と激突!
 しばらく再起動を試みたものの、素人目にもオシャカになったとわかる。翌日量販店に駆けこんだが、古い型なので修理に出しても代替部品が保存されていないだろうという。しかたなく、買い換えることにした。
 きのうの午後、データ移行済みの新品を持ち帰ってからも四苦八苦。きょうになってもまだ、連絡先のメルアドやお気に入りのサイトを復元できないなど、いくつか不具合の箇所がのこっている。
 というわけで突然やってきたこの「春休み」、災い転じて福となす、読書に専念しようと手に取ったのは Henry James の "The Portrait of a Lady"(1881)。恥ずかしながら、邦訳もふくめ未読でした。
 難解で知られる Henry James、たしかにむずかしい。なにかと首をひねることが多く、「専念」のわりにまだ、終盤の入り口あたり。でも点数はだいたい決まっているし、レビューもどきに使えそうなフレーズも二、三、思い浮かんでいる。
 と、ここまでが新しく綴った駄文で、以下は復元した文面。
 きょうはまず、"Pride and Prejudice"(1813)の落ち穂ひろいの落ち穂ひろいから。モームが選んだ「世界の十大小説」のうち、ぼくが英語・英訳で読んだのは同書で五冊目。邦訳もふくめ相変わらず未読なのは『トム・ジョーンズ』だ。これと合わせ、のこり五冊を英語版で読むのは、大物ぞろいだけにかなりしんどそう。
 なかでもディケンズの長さには、本を見ただけでゾっとする。同じデカ本なら "Bleak House"(1853)に手をつけようかと一瞬思ったけど、やはり腰が引け、三回目の古典巡礼として "Emma"(1815)の旅に出かけることにした。
 三回目ともなると、ぼくなりに古典の読みかたがパターン化してきたようだ。といっても基本は現代文学の場合と変わらない。Let the work speak for itself.  作者の来歴とか創作事情などは、調べるのが面倒くさいので極力無視。もちろん調べたほうが作品の理解には役立つはずだけど、その前にまず、作品に接して自分なりに解釈し、どうにも解釈しきれなくなったところで調べる。なるほど、そういうことだったのか、と納得するほうがいい。
 ここから追加。ううむ、なにを書こうとしてたんだっけ。あとは「ストレート」、「変化球」という単語しかのこっていない。
 あ、そうか、“Pride and Prejudice”が「ストレート」で、“Emma”は「変化球」だという話になるはずだった。そこへ大事件勃発。いやはや、参りました。(つづく)

(「春休み」中は児玉麻里を聴いていた。実際に聴いていたのはアップできなかったけど、キング・インターナショナル盤。いまは入手困難らしい)

 

Nathaniel Hawthorne の “The House of the Seven Gables”(1)

 数日前、Nathaniel Hawthorne の "The House of the Seven Gables"(1851)を読みおえたが、なかなか考えがまとまらなかった。大昔、一部だけ読んだことのある "The Scarlet Letter"(1850)について調べたり、同じくかじり読みしたD・H・ロレンスの『アメリカ古典文学研究』をパラパラめくったりしたが、それが本書のどんなレビューもどきに結びつくのか、このイントロを書いているいまもまだ、よくわからない。はて……

[☆☆☆★★] ラヴクラフトにつよい影響をおよぼしたとされる本書だが、おそらくラヴクラフトは魔術や超自然現象など、自分に関心のある部分だけに着目し、それを自作のこやしとしたのではないか。じっさい、この本家本元のほうはタネも仕掛けもあるゴシック小説である。たしかに17世紀末、ニューイングランドの港町に建てられた七破風の屋敷にまつわる因縁話は、ときに怪奇小説的な様相を帯びるものの、築百年以上もたった19世紀中葉になると、ほぼすべて合理的に説明される。その意味で、これが初代当主の「象徴する古い秩序が過ぎ去ってゆく話」というロレンスの指摘は正しい。もとよりホーソーンは、「降霊術とか魔法とか、その手の見せかけの超自然能力」なんぞ興味がなかった。彼は終始、「二元論という十字架」を背負った人間の魂の奥底を見つめ、そこにひびく「魔性の声」に耳をかたむけようとした。ただし本書の場合、そうした人間の二面性の追求はもっぱら外部からの謎解きに依る。前半の緻密な人物造型は、『緋文字』のヘスターとちがって、罪びと自身の内面と求心的にかかわるものではない。むりもない。「ピューリタン中のピューリタン」だったホーソーンが、ピューリタンにあるまじき俗欲をあばき出すのは当然としても、俗物なら罪の意識の掘り下げようがないからだ。とはいえ、現実と仮想現実を交差させながら俗物の偽善ぶりを描いたところはみごと。本書を楽天的ともいえる雰囲気で締めくくったホーソーンだが、彼はエマソンたちの甘いロマン主義を批判してやまなかった作家である。終幕のロマンスから脳天気な楽天主義を読み取るのは早計だろう。

Jane Austen の “Emma”(3)

 本書が近年(でもないか)、二度も映画化されていたとは知らなかった。まず、ダグラス・マクグラス監督の『Emma エマ』(1996)。ついで、オータム・デ・ワイルド監督の『EMMA エマ』(2020)。

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 まぎらわしいタイトルですな。Emma や EMMA とエマを並記するのは、エマだけだとインパクトが弱い(『エマニエル夫人』ほど強くない)ってことなんだろうけど、なんかキモい。ロマン・ポランスキー監督の『テス』(1980)はなぜ『Tess テス』ではなかったのか。監督があのポランスキーだったから?
 いかん、きょうもムダ口からはじめてしまった。さて、「三回目にして初めて、未踏の地への古典巡礼」となったこの "Emma"(1815)。"Pride and Prejudice" の二年後に書かれた作品とあって、当然そちらとどうちがうんだろう、という興味があった。たぶんみなさんも未読ならそうでしょうね。
 前作の執筆中から本書の腹案を練っていたのかどうか、といった詳しい創作事情は把握していないけれど、作者 Austen としても、二番煎じになることだけはぜったい避けたかったはず。いやそれどころか、きっと新しいアイデアが浮かんだからこそ、こんどもイケるぞ、と思ったのではないか。
 などと勝手な想像をめぐらしながら開巻。The real evils indeed of Emma's situation were the power of having rather too much her own way, and a disposition to think a little too well of herself; these were the disadvantages which threatened alloy to her many enjoyments.(p.7)
 おや、のっけから、"Pride and Prejudice" の Elizabeth とはちょっと異なるキャラづくりのようだ。この印象は読み進むにつれ深まり、「聡明で思慮ぶかいエリザベス」とちがって、Emma のほうは「欠点のある等身大のヒロイン」というのがぼくの結論。そんなヒロインを思いついたのが新アイデアだったのでは。
 その欠点を彼女自身、深く反省しているくだりがある。With insufferable vanity had she believed herself in the secret of everybody's feelings; with unpardonable arrogance proposed to arrange everybody's destiny. She was proved to have been universally mistaken; and she had not quite done nothing―for she had done mischief.(pp.386 - 387)
 要約すると、vanity and arrogance。これですな、前作に準じて本書に代わりのタイトルをつけるなら。
 ただ、"Pride and Prejudice" の場合は、Elizabeth もふくめ、主な登場人物のほとんどが pride and prejudice を持っていたのにたいし、"Emma" では Emma のほかに vanity and arrogance の持ち主といえば、「正真正銘スノッブ」の Mrs. Elton とその夫くらいしかいない。Mrs. Elton はまさに vanity and arrogance の権化だが、Emma のほうは上のように rather too much, a little too well。可愛いものだ。それを insufferable, unpardonable, universally mistaken と悔いるところがますます可愛い。
 ゆえに本書はやはり "Emma" で正しかったのである。(つづく)

Jane Austen の “Emma”(2)

 さる2月23日から、今年もぼくのふるさと愛媛県宇和島市西江(せいごう)寺で〈えんま祭り〉がもよおされたそうだ。

 上の写真が載っている「うわじま観光ガイド」によると、宇和島には古くから閻魔信仰があり、毎年旧暦1月16日をふくむ三日間、藪入りの時期にえんま祭りが西江寺で開催され、現在まで350年以上の歴史を誇るという。「地元の人々からは『えんまさま』として親しまれ、祭りの時期になると宇和島に春の訪れを感じます」。
 ぼくも一度だけ、たしか小学校に上がる前、生きていれば今年77歳になるいとこのノブオ兄ちゃんに連れられ、えんまさまに行ったことがある。むろん上の歴史もなにも知らず、ただ屋台でお菓子を買ってもらった記憶しかない。それから、「ウソをつくと、えんまさまに舌を抜かれる」という怖い話。
 とそんなことを思い出したのは、このおやじギャグ、おわかりですね、Austen の "Emma"(1815)を読んでいたときのことだ。
 そういえば、ぼくにキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』のことを教えてくれた知人の娘さんも、ひとりはエマちゃんだっけ。その知人も去年、鬼籍に入ってしまった。
 いやはや、いつにもましてムダ口ばかり。しかしむべなるかな。"Emma" が Austen の代表作のひとつだとは知っていたけど、予備知識はそれだけ。"Jane Eyre" や "Pride and Prejudice" とちがって、これは恥ずかしながら邦訳すら読んだことがなかった。三回目にして初めて、未踏の地への古典巡礼である。
 さて落ち穂ひろい。やはり英語の話からはじめよう。二冊目の Austen とあってさすがに馴れてきたせいか、"Pride and Prejudice" では奇異に感じたいくつかの点も、センセイ、またですね、とすんなり読めた。

 代名詞の指示内容と「変則カンマ」については上の過去記事で紹介しているので、ここでは「変則話法」とでもいえるような例を挙げておこう。She [Emma] introduced him [Frank Churchill] to her friend, Miss Smith, and, at convenient moments afterwards, heard what each thought of the other. "He had never seen so lovely a face, and was delighted with her naïveté." And she,―"Only to be sure it was paying him too great a compliment, but she did think there were some looks a little like Mr. Elton." Emma restrained her indignation, and only turned from her in silence.(p.205)
 最初の話者は Emma なので、her naïveté の her は your がふつう。また、And she, の she は Miss Smith を指すので、but she は but I がふつうだろう。このように直接話法のなかに間接話法が混在している例は "Pride and Prejudice" にもいくつかあったが、あいにくメモは取らなかった。
 [Mrs. Elton said to Miss Woodhouse (=Emma),] "... And it [Bath] is so cheerful a place, that it could not fail of being of use to Mr. Woodhouse's [Emma's father's] spirits, ..."/ ... She [Emma] restrained herself, however, from any of the reproofs she could have given, and only thanked Mrs. Elton coolly; "but their going to Bath was quite out of the question; and she was not perfectly convinced that the place might suit her better than her father."(p.256)ふつうの直接話法なら、but our going ... is / and I am / suit me better than my father だろう。
 ... she [Emma] recommended his [Frank Churchill's] taking some refreshment; he would find abundance of every thing in the dining-room―and she humanely pointed out the door./ "No―he should not eat. He was not hungry; it would only make him hotter." In two minutes, however, he relented in his own favour; and muttering something about spruce beer, walked off.(p.341)やはり直接話法なので、I should not eat. I am not hungry / make me hotter がふつうのはず。
 こうした「変則話法」の例はぼくが気づいたかぎり、ほかにふたつあっただけで、けっして多くはない。あとの会話ではすべて現代英語と同じく、直接話法と間接話法ははっきり区別されている。
 Austen の書き癖なのか、当時は直接話法と間接話法が混在する過渡期だったのか、それともなにか個々の例に共通する混在の必然性があるのか、ぼくにはよくわからない。きっとどなたか英文科の先生が研究されていることでしょう。(つづく)

Jane Austen の “Pride and Prejudice”(4)

「一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。と昔からいわれるように、三学期は、あっというまに過ぎてしまいます。だからみなさん、いままで以上に一日一日がんばってください」
 大昔、ぼくが小学二年生か三年生のころ、三学期の始業式で校長先生がおっしゃったことばだ。「一日一日」は「毎日」だったかもしれないが、あとは鮮明に憶えている。「一月は~」ではじまる頭韻に、子どもながら、なるほどなあ、といたく感心したからだ。(むろん当時は、頭韻とは知らなかったけれど)。
 ともあれ、この一月なかばから、いつにもまして飛ぶように時が流れてしまった。読んだ本はたった三冊だけ。それも二冊は寝ころんで。「今年は本をたくさん読もう」と年頭に誓ったばかりなのに、早くも挫折とは、やんぬるかな。
 さて第二回の古典巡礼となった "Pride and Prejudice"(1813)、いまさらなんの説明も必要ないほどの超名作である。一回目の "Jane Eyre"(1847)同様、「そんな名作を英語で読んだからといって、屋上屋を架す以外に、どんな感想が書けるというのだろう」。
 と思いつつ、いちおうレビューをでっち上げることにした。
 "Jane Eyre" のときは、どうしてもエリザベス朝について調べる必要を感じたので Wiki を検索し、ついでチェスタトンの『エリザベス朝の英文学』も拾い読みしたけれど、今回は参考記事・文献ゼロ。モームの『世界の十大小説』も目次しか見なかった。ぼくの勘ちがいで、『高慢と偏見』が載っていなかったらマズいと思ったからだ。
 古典について論評するときは本来、少なくとも時代背景など周辺知識を得るのが常道というか必須である。いうまでもなく、さもないと恣意的な解釈になる恐れがあるからだ。ぼくも大昔、必要があって "Moby-Dick"(1851)に取り組んだときは、当時定評のあった研究書を何冊か参考にさせてもらったものだ。
 その成果?が数十年後、本ブログに連載した「"Moby-Dick" と『闇の力』」という記事である。

 あれを書いているときも、Milton R. Stern の "The Fine Hammered Steel of Herman Melville"(1957)だけは一部読みかえした。

 しかし "Jane Eyre" もそうだったが、この "Pride and Prejudice" はまあ恋愛小説ですからね、とバカにしたわけではないけど、Melville とちがって寝ころんで読んでも罰が当たらないだろう。ずっと高血圧で頭が痛いことだし、上のエリザベス朝のことのように必要があれば起きて調べればいいさ。
 というしだいでたどり着いたのがレビューらしきもの。おそらく二百番煎じくらいの蛇足の蛇足、もしくはそれこそまさに恣意的な解釈のはずだ。

 その後もコワくて『世界の十大小説』もなにも目にしていない。チェスタトンがなにか鋭い指摘をしていそうな気もするが、どうせエリザベス朝(1558 - 1603)の話じゃないしってことで無視。
 だからこれもきっと自分勝手な感想にすぎないが、"Pride and Prejudice" は意外に現代的な小説だと思った。「現代の国際社会をもプライドと偏見が席巻している現実」、「愛がプライドと偏見を克服し、またべつの場合には克服しなかったという結末は、国際政治の現実とも符合」。具体的に昨今のどんな国際情勢がぼくの頭に浮かんだか、それはもちろん「アレ」ですよ。
 むろん本書が家庭小説の鼻祖と目されていることは、なんとなく知っていた。じっさい読んでみて、その定説は一面正しいとも思った。でもいやいや、ここでは家庭というコップのなかには収まりきれない嵐もけっこう吹いてますよ、だからこれは「小さな大小説」なんです、というのがぼくのケ・ツ・ロ・ン。お粗末さまでした。(了)