本書が近年(でもないか)、二度も映画化されていたとは知らなかった。まず、ダグラス・マクグラス監督の『Emma エマ』(1996)。ついで、オータム・デ・ワイルド監督の『EMMA エマ』(2020)。
まぎらわしいタイトルですな。Emma や EMMA とエマを並記するのは、エマだけだとインパクトが弱い(『エマニエル夫人』ほど強くない)ってことなんだろうけど、なんかキモい。ロマン・ポランスキー監督の『テス』(1980)はなぜ『Tess テス』ではなかったのか。監督があのポランスキーだったから?
いかん、きょうもムダ口からはじめてしまった。さて、「三回目にして初めて、未踏の地への古典巡礼」となったこの "Emma"(1815)。"Pride and Prejudice" の二年後に書かれた作品とあって、当然そちらとどうちがうんだろう、という興味があった。たぶんみなさんも未読ならそうでしょうね。
前作の執筆中から本書の腹案を練っていたのかどうか、といった詳しい創作事情は把握していないけれど、作者 Austen としても、二番煎じになることだけはぜったい避けたかったはず。いやそれどころか、きっと新しいアイデアが浮かんだからこそ、こんどもイケるぞ、と思ったのではないか。
などと勝手な想像をめぐらしながら開巻。The real evils indeed of Emma's situation were the power of having rather too much her own way, and a disposition to think a little too well of herself; these were the disadvantages which threatened alloy to her many enjoyments.(p.7)
おや、のっけから、"Pride and Prejudice" の Elizabeth とはちょっと異なるキャラづくりのようだ。この印象は読み進むにつれ深まり、「聡明で思慮ぶかいエリザベス」とちがって、Emma のほうは「欠点のある等身大のヒロイン」というのがぼくの結論。そんなヒロインを思いついたのが新アイデアだったのでは。
その欠点を彼女自身、深く反省しているくだりがある。With insufferable vanity had she believed herself in the secret of everybody's feelings; with unpardonable arrogance proposed to arrange everybody's destiny. She was proved to have been universally mistaken; and she had not quite done nothing―for she had done mischief.(pp.386 - 387)
要約すると、vanity and arrogance。これですな、前作に準じて本書に代わりのタイトルをつけるなら。
ただ、"Pride and Prejudice" の場合は、Elizabeth もふくめ、主な登場人物のほとんどが pride and prejudice を持っていたのにたいし、"Emma" では Emma のほかに vanity and arrogance の持ち主といえば、「正真正銘スノッブ」の Mrs. Elton とその夫くらいしかいない。彼女はまさに vanity and arrogance の権化だが、Emma のほうは上のように rather too much, a little too well。可愛いものだ。それを insufferable, unpardonable, universally mistaken と悔いるところがますます可愛い。
ゆえに本書はやはり "Emma" で正しかったのである。(つづく)