ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Henry James の “The Portrait of a Lady”(2)

 やっと落ち穂ひろいをする気になった。「なんという不毛な芸術だろう」と慨嘆したほど好みに合わない作品なんて、思いかえすだけでも億劫だ。
 さて、「ヘンリー・ジェイムズはむずかしい」という話を聞いたのは大学生のころだろうか。それまで『デイジー・ミラー』や『ねじの回転』は邦訳で読んだことがあったけど、内容的にべつに難解という印象ではなかった(いまやその内容も失念)。
 ただ中学のとき、亡父がなぜか買ってくれた毎月配本の世界文学全集のなかに『ある婦人の肖像』があり、ぱらぱらっとめくっただけで積ん読。なんだか取っつきにくそう、と思ったような気がする。
 むずかしい、取っつきにくいのはなぜか、と昔は考えたこともなかった。あまり興味がなかったせいだろう。ぼくのまわりでも、D・H・ロレンスやフォークナーの話なら熱弁をふるうひとがいたけど、ヘンリー・ジェイムズはといえば、ただむずかしいと聞かされただけ。人気薄だったことは間違いない。
 それから時は流れ、2009年の夏、ぼくは Colm Tóibín の "The Master"(☆☆☆☆★)を読んだ。2004年のブッカー賞最終候補作ということだけで取りかかり、the master が Henry James だとは知らなかった。

 今回 "The Portrait of a Lady"(1881)を読んでみて、Colm Tóibín が "The Master" で描いた巨匠の人物像は実像にかなり近いのではないか、と思った。「ここには明らかに、いかにもプロの作家らしい観察者の目がある。相手の言動や顔の表情、声の調子などを鋭く観察し、心理や意識の流れから性格・気質にいたるまで分析ないし想像。この精緻をきわめた心理描写、性格描写がまず読みどころだ」。
 それはまあ、"The Portrait" の読みどころでもありますな。「なんという超絶技巧」だろう。
 しかし欠点もあり、という前に映画化作品(1996)のほうを調べてみたら(未見)、な、なんと監督は『ピアノ・レッスン』(1993)のジェーン・カンピオン。そして主演は、かのニコール・キッドマン

 ニコール・キッドマンが大ブレイクしたのは『誘う女』(1995)だから、当時の彼女は飛ぶ鳥を落とす勢いだったのではないか。
 と思ったら、Wiki によれば、「ハリウッド進出当時は、当時の夫であり、ハリウッドに導いたトム・クルーズの妻としての側面が強く、いわゆる型どおりの美人女優として平凡なキャリアに甘んじた。しかし2001年にトム・クルーズとの離婚を機に、積極的な活動と充実したキャリアを開花させ、以降、アメリカを代表する演技派女優として変身を遂げた」。
 なるほど、たしかに『ムーラン・ルージュ』(2001)、『アザーズ』(2001)、『めぐりあう時間たち』(2002)、『奥さまは魔女』(2005)と、ぼくがめずらしく中身を憶えている作品だけでも今世紀初頭のものだ。
 それにしてもニコール・キッドマン、シリアスからコミカルまで、じつに芸域の広い女優ですな、といまさらながら感心。しかもすごい美女。直近でそんなスターはだれなんだろう。(つづく)

Henry James の “The Portrait of a Lady”(1)

 きのうやっと Henry James の "The Portrait of a Lady"(1881)を読了。途中、諸般の事情でなんどか大休止してしまったが、それでも最後は一気に頂上まで駈け登った。さてどんなレビューもどきになりますやら。

[☆☆☆☆] 微視的な、あまりに微視的な画風である。ヘンリー・ジェイムズはよほど人間の心理に関心があったのだろう。まるで顔の毛穴のひとつひとつまで再現した超細密画のように、彼は貴婦人イザベルのみならず、どの人物も、その心の動きをすこぶる忠実に追いかけることで肖像画を仕上げていく。身分や立場、言動、顔の表情や声の調子、気質や性格など、内面外面を問わず、あらゆる個人情報を精査照合しながら一瞬一瞬の心理を顕微鏡で観察。まさに超絶技巧である。しかし不毛な芸術だ。イザベルのいう「道徳」は正邪善悪とはおよそ無縁のものであり、彼女が「自由」「個人の自立」を宣言するとき、それはただ「好き勝手に生きたい」と述べているにすぎない。そんなイザベルが不幸な目にあうのは、身から出たサビというしかない。一方、彼女と接する人びとはそもそも道徳を口にすることさえなく、結婚や財産、美術品などに興味を示す者はいても、人生いかに生きるべきかとおのれに問い、またイザベルに問いかける者はだれひとりいない。彼らとイザベルのかわす会話が、それぞれの根本的な価値観や存在基盤にかかわることは皆無。「彼女にはなにも意見がない」とは、本質的にどの人物にも当てはまる記述である。ここには当然、魂の激突がなく、感動的なドラマもない。おわってみれば長大なメロドラマにすぎず、しかもその長さの大半は「微視的な画風」に起因。なんという超絶技巧、なんという不毛な芸術だろう。

Nathaniel Hawthorne の “The House of the Seven Gables”(3)

 先週末、帰省したドラ娘の企画で、劇団四季のミュージカル『アラジン』を観劇。もう何年も前、やはり新橋シアターで観た『キャッツ』よりストーリー性があり、ずっとおもしろかった。

 "The Portrait of a Lady" は九合目付近で大休止。おもしろければ急坂でも一気に登れるのだけど、話がなかなか進まず、飽きてしまった。終盤のグダグダはきつい。
 表題作も中盤すぎまで相当にきつかった。中学生のとき、『七破風の屋敷』という邦題に惹かれて読みはじめたけど数十ページで挫折。このほど英語で読んでみて、その理由を思い出した。待てど暮らせど、期待した怪奇小説らしくならない。これはアカン。
 今回はただし、昔の挫折の記憶だけはあったのでそんな期待はしなかった。事実、「17世紀末、ニューイングランドの港町に建てられた七破風の屋敷にまつわる因縁話は、ときに怪奇小説的な様相を帯びるものの、築百年以上もたった19世紀中葉になると、ほぼすべて合理的に説明される」。
 前半はとにかく「緻密な人物造型」が中心で、その緻密さたるや、そこまでやるか。Henry James は Hawthorne の評伝を著しているが(『ホーソーン研究』)、"The Portrait of a Lady" の精密な心理・性格描写は Hawthorn 直伝かもしれない。
 話が本格的に動きはじめるのは、なんと第13章 'Alice Pynchon' から。ここまで中学生にガマンしろというのはさすがにムリだろう。
 Alice を誘惑する男は a strange power of getting into people's dreams, and regulating matters there according to his own fancy, pretty much like the stage-manager of a theatre の持ち主というふれこみで(p.189)、ここがいくつか「怪奇小説的な様相を帯びる」箇所のひとつ。しかしまあ mind control みたいなもので、べつにたいしたエピソードではない。
 ストーリー性という点では終盤がいい。「現実と仮想現実を交差させながら俗物の偽善ぶり」をあばき出す展開で、因縁の裏話には推理小説の謎解きを聞かされるような興味がある。
 と本書を駆け足でふりかえってみたが、Hawthorne はむずかしい、というのが偽らざる感想だ。ここでは彼は実力の片鱗しか示していないような気がする。D・H・ロレンスは『アメリカ古典文学研究』のなかで、「『緋文字』に比べると、ホーソーンの他の著作は全然比較にならない」とクサしているけれど(大西直樹訳)、ほんとうにそうなのか。
  ロレンス自身、つづけてこう述べている。「しかし、『トワイス・トールド・テールズ』の中には、すぐれた寓話があり、ピューリタニズムの初期アメリカの暗い姿が描かれたすばらしい作品もある」。
 "The Scarlet Letter" はもちろん、"The Gentle Boy" や "The Birthmark" などの短編もじっくり読んでみないと、Hawthorne の全貌はつかめないのではないか。今回は、そんなありふれた感想と、たくさんの宿題がのこってしまった古典巡礼でした。(了)

Nathaniel Hawthorne の “The House of the Seven Gables”(2)

 先週末、亡父の十三回忌で愛媛の宇和島へ二泊三日の帰省旅行。さいわい大きな余震はなかった。立ち寄らなかったが実家のほうも、弟夫婦によると地震の被害はほとんどなかったそうだ。
 意外だったのは、ホテルや街なかで外人をけっこう見かけたこと。ロビーでちょっと立ち話をした外人のひとりはミズーリ州カンザスからきた若い女性で、もうひとりは奥さんが日本人だというオーストラリア人だったが、どちらもお遍路さん姿だった。
 ほかにも何人か外人のお遍路さん(日本人はゼロ)が泊まっていたのでフロントで話を聞くと、今年に入って外人客が増えたが、お遍路さんはいつも数えるほど。こんなに多いのはめずらしいという。やっぱり円安のせいだろうか。あと、歩きやすい季節になったことだし。(写真は、宇和島駅にほど近い龍光院。八十八箇所とは別格の札所だが、それでも参拝するお遍路さんが多いという)

 行き帰りの車内では "The Portrait of a Lady" を読んでいた。昔はなにしろ東京から宇和島まで陸路で半日以上もかかったので、旅の友は清張ミステリ二冊。『松本清張地図帖』によると、愛媛では松山が『草の陰刻』の舞台のひとつになったそうだが記憶にない。
 "The Portrait …" はやっと終盤。頂上は見えているものの、まだきつい登りが待っている。おもしろい? まあまあ。すごい? うん、技巧的には。ってことは、なにか不満があるわけ? そのとおり。じゃあ評価は? もう決まってるけどお楽しみ。
 さて第四回古典巡礼。前回まで19世紀イギリス文学の旅がつづき、つぎはいよいよ Dickens か、と一瞬迷ったが、なにしろデカ本だ。それに古典といってもイギリスばかりで、アメリカはどうした、という(内心の)声が聞こえる。
 ただ、19世紀アメリカ文学といえば Melville。それも "Moby-Dick"(1851)がまず挙げられるけど、これについては過去記事『 "Moby-Dick" と「闇の力」』で紹介済み。あれを一本のレビューにまとめるのもしんどいしなあ。

 などと考えているうちにふと、Hawthorne のことが頭に浮かんできた。Melville ほど(たぶん)世界的に有名ではないが、じつは19世紀アメリカ文学では Melville と並ぶ一方の雄である。Hawthorne はタダ者ではない、と若いころ、よく聞かされたものだ。
 しかしただ、Hawthorne といえば "The Scarlet Letter"(1850)でしょ、とこちらも相場が決まっている。でもあれ、"Moby-Dick" ほどじゃないけど、けっこうきついんですわ。
 というのも学生時代、ある読書会に参加したとき、ここだけでもと指定された箇所を読んでみたけど、あまりピンとこなかった。Hawthorne にかぎらず、どだい、つまみ食いで全体像などわかるわけがない。たしか「Hawthorne の霧」とかなんとかいう発表者の報告を聴いても、頭の上を通りすぎていくだけ。
 そんな霧のかなたの記憶しかない同書より、次作の "The House of the Seven Gables"(1951)はどうか。中学時代、亡父がなぜか毎月一冊配本の世界文学全集を買ってくれ、ある年のある月に届いた(当時の本屋さんは自宅まで配達してくれた)のが『七破風の屋敷』。へえ、おもしろそうな題名だな、と思った。
 が、何十ページか読んだだけで挫折。その理由を思い出すところから今回の巡礼がはじまった。(つづく)

Jane Austen の “Emma”(5)

 あしたから亡父の十三回忌で愛媛県宇和島市に帰省(ゆうべの地震にはびっくりした。余震がこわい)。そのため今週はきのうおととい、二日つづきでジムに通い、さすがにバテた。なかには毎日通っているひともいるようだけど、ぼくの場合、一回のメニューがかなり濃いのでムリ。帰宅後、しばらく仮眠をとらないと活字に目がついていけない。
 しかもいま読んでいるのは "The Portrait of a Lady"。三日前からいくらも進んでいない。たぶん帰省旅行中が胸突き八丁だろう。今回は往復とも陸路なので時間はたっぷりあるけれど、睡魔が敵だ。
 さて "Emma"(1815)の落ち穂ひろい。ほんとうは(4)でおわるはずだったのに、とんだハプニングで「春休み」となり、今回にズレこんでしまった。
 Jane Austen といえば、だれしもまず "Pride and Prejudice"(1813)を思い浮かべ、よほどのことがないかぎり、そちらから先に読むはずだ。"Emma" の前作なので、両者の特徴や相違など早わかりという利点もある。
 たとえば第一印象として、二作とも要するに結婚狂騒曲。"Pride and Prejudice" のレビューを引くと、「たしかに結婚は現代でも人生の重大事のひとつであり、まして十九世紀初頭、イギリスの上流階級ともなれば、結婚が個人と家庭に占める比重は相当に大きかったものと思われる」。
 勘ちがいかもしれないけれど、いくら古典といっても、ぼくのような素人ファンなら、これくらいの時代認識で両書ともまずまず楽しめるのではないか。ただしもちろん、本格的に研究されるかたはべつですよ。
 ともあれ結婚狂騒曲。それ自体はまあ、ウディ・アレン映画の古典版みたいなものだけど、

ウディ・アレンとたぶんちがうところは、pride and prejudice、あるいは "Emma" の場合なら vanity and arrogance という人間の宿痾が、やっぱり宿痾なんだなと思わせる点ではないかしらん。
 なぜ宿痾かというと、ひとつには、ギリシア神話に由来した「ヒュブリス」(hubris)ということばがある。Wiki によれば、これは「神に対する侮辱や無礼な行為などへと導く極度の自尊心や自信を意味」する単語で、「『驕慢』とか『傲慢』とか『野心』というように訳され」、「そのヒュブリスが人間の心にとりつくと、当人に限度を超えた野心を抱かせ、挙句の果ては、当人を破滅に導くと考えられていた」。
 時は流れて現代の世界情勢はどうか。どこかの国など、hubris の権化のような指導者が君臨し、隣国を属国扱いしているのではないか。
 その一事をもってしても hubris は人間の宿痾といえるのだけど、Jane Austen がどこまでギリシア神話を意識していたかは不明。おそらく的はずれだろうが興味ぶかい問題である。もしぼくがいま英文科の学生だったら、卒論は「Jane Austen と hubris」にしようと思うかもしれない。それも、ウディ・アレンと比較しながらってのはどうだろう。
 ともあれ結婚狂騒曲。"Pride and Prejudice" のほうはほんとに「ストレート」で、Elizabeth と Darcy がそれぞれ初めて登場したときから、あ、このふたりが結ばれるんだな、とすぐにわかる。恋愛映画で美男美女が顔を出した瞬間気づくようなものだ。
 ところが "Emma" は「変化球」。どうせ Emma とこの男が、と思っていたら、いやはやビックリしましたね。なにしろ Emma 自身も驚く展開が待っていた。Emma even jumped with surprise;―and, horror-struck, exclaimed,……/ "You may well be amazed," returned Mrs. Weston,……"You may well be amazed.……It is so wonderful, that though perfectly convinced of the fact, it is yet almost incredible to myself. I can hardly believe it.……"(p.371)
 省略はネタバレを防ぐため(「どうせ Emma とこの男が……」あたり、すでにネタバレですが)。ぼくはなにしろ邦訳でも読んだことがなかったので、ほんとに驚いた。当時の読者もきっと同じ反応だったのでは、という気がする。もしかしたら Austen 女史自身、読者があっと驚くのを期待していたのかもしれない。どう、こんな話になるなんて、ちっとも想像できなかったでしょ。
 落ち穂ひろい(3)でぼくはこう書いた。「作者 Austen としても、(前作の)二番煎じになることだけはぜったい避けたかったはず。いやそれどころか、きっと新しいアイデアが浮かんだからこそ、こんどもイケるぞ、と思ったのではないか」。
 そのアイデアはふたつあり、ひとつは(3)で述べたとおり、「聡明で思慮ぶかいエリザベス」とちがって、Emma という「欠点のある等身大のヒロイン」を思いついたこと。もうひとつは、上の「変化球」。これについて本書のレビューでは、「家族や周囲の人びと、そしておそらく大半の読者の予想に反する人物がヒーローとな」る、としか紹介しなかった。この(5)で少々ネタを割ったわけです。
 ともあれ、本書は「『高慢と偏見』で文学キャリアの頂点をきわめたオースティンがさらなる高みを目ざし、同書で確立した自身の創作パターンを打ちやぶろうとした野心作」。ニューヒロインの創造と意外な展開で「パターンを打ちやぶろうとした」のではないか、というのがぼくの臆測だ。(了)

Jane Austen の “Emma”(4)

 あっ、パソコンが壊れた!
 と叫んだのは、たしか13日ならぬ5日の金曜日だった。ひさしぶりにデスクまわりを掃除していたら、なにかの拍子にパソコンが前向きに倒れ、液晶画面が文鎮と激突!
 しばらく再起動を試みたものの、素人目にもオシャカになったとわかる。翌日量販店に駆けこんだが、古い型なので修理に出しても代替部品が保存されていないだろうという。しかたなく、買い換えることにした。
 きのうの午後、データ移行済みの新品を持ち帰ってからも四苦八苦。きょうになってもまだ、連絡先のメルアドやお気に入りのサイトを復元できないなど、いくつか不具合の箇所がのこっている。
 というわけで突然やってきたこの「春休み」、災い転じて福となす、読書に専念しようと手に取ったのは Henry James の "The Portrait of a Lady"(1881)。恥ずかしながら、邦訳もふくめ未読でした。
 難解で知られる Henry James、たしかにむずかしい。なにかと首をひねることが多く、「専念」のわりにまだ、終盤の入り口あたり。でも点数はだいたい決まっているし、レビューもどきに使えそうなフレーズも二、三、思い浮かんでいる。
 と、ここまでが新しく綴った駄文で、以下は復元した文面。
 きょうはまず、"Pride and Prejudice"(1813)の落ち穂ひろいの落ち穂ひろいから。モームが選んだ「世界の十大小説」のうち、ぼくが英語・英訳で読んだのは同書で五冊目。邦訳もふくめ相変わらず未読なのは『トム・ジョーンズ』だ。これと合わせ、のこり五冊を英語版で読むのは、大物ぞろいだけにかなりしんどそう。
 なかでもディケンズの長さには、本を見ただけでゾっとする。同じデカ本なら "Bleak House"(1853)に手をつけようかと一瞬思ったけど、やはり腰が引け、三回目の古典巡礼として "Emma"(1815)の旅に出かけることにした。
 三回目ともなると、ぼくなりに古典の読みかたがパターン化してきたようだ。といっても基本は現代文学の場合と変わらない。Let the work speak for itself.  作者の来歴とか創作事情などは、調べるのが面倒くさいので極力無視。もちろん調べたほうが作品の理解には役立つはずだけど、その前にまず、作品に接して自分なりに解釈し、どうにも解釈しきれなくなったところで調べる。なるほど、そういうことだったのか、と納得するほうがいい。
 ここから追加。ううむ、なにを書こうとしてたんだっけ。あとは「ストレート」、「変化球」という単語しかのこっていない。
 あ、そうか、“Pride and Prejudice”が「ストレート」で、“Emma”は「変化球」だという話になるはずだった。そこへ大事件勃発。いやはや、参りました。(つづく)

(「春休み」中は児玉麻里を聴いていた。実際に聴いていたのはアップできなかったけど、キング・インターナショナル盤。いまは入手困難らしい)

 

Nathaniel Hawthorne の “The House of the Seven Gables”(1)

 数日前、Nathaniel Hawthorne の "The House of the Seven Gables"(1851)を読みおえたが、なかなか考えがまとまらなかった。大昔、一部だけ読んだことのある "The Scarlet Letter"(1850)について調べたり、同じくかじり読みしたD・H・ロレンスの『アメリカ古典文学研究』をパラパラめくったりしたが、それが本書のどんなレビューもどきに結びつくのか、このイントロを書いているいまもまだ、よくわからない。はて……

[☆☆☆★★] ラヴクラフトにつよい影響をおよぼしたとされる本書だが、おそらくラヴクラフトは魔術や超自然現象など、自分に関心のある部分だけに着目し、それを自作のこやしとしたのではないか。じっさい、この本家本元のほうはタネも仕掛けもあるゴシック小説である。たしかに17世紀末、ニューイングランドの港町に建てられた七破風の屋敷にまつわる因縁話は、ときに怪奇小説的な様相を帯びるものの、築百年以上もたった19世紀中葉になると、ほぼすべて合理的に説明される。その意味で、これが初代当主の「象徴する古い秩序が過ぎ去ってゆく話」というロレンスの指摘は正しい。もとよりホーソーンは、「降霊術とか魔法とか、その手の見せかけの超自然能力」なんぞ興味がなかった。彼は終始、「二元論という十字架」を背負った人間の魂の奥底を見つめ、そこにひびく「魔性の声」に耳をかたむけようとした。ただし本書の場合、そうした人間の二面性の追求はもっぱら外部からの謎解きに依る。前半の緻密な人物造型は、『緋文字』のヘスターとちがって、罪びと自身の内面と求心的にかかわるものではない。むりもない。「ピューリタン中のピューリタン」だったホーソーンが、ピューリタンにあるまじき俗欲をあばき出すのは当然としても、俗物なら罪の意識の掘り下げようがないからだ。とはいえ、現実と仮想現実を交差させながら俗物の偽善ぶりを描いたところはみごと。本書を楽天的ともいえる雰囲気で締めくくったホーソーンだが、彼はエマソンたちの甘いロマン主義を批判してやまなかった作家である。終幕のロマンスから脳天気な楽天主義を読み取るのは早計だろう。