宇野常寛『ゼロ年代の想像力』

まず全体的な感想としては、面白かったし、方向性としても納得というか共感した。
しかし、読みながら、色々と批判したくなってくるのは何故なんだろうか。
とりあえず、以下、この本のまとめと読みながら思った事を書いていくつもりだが、その中には「ここがおかしい」というものも含まれる。ところが、色々考えていると、それって単なる重箱の隅を突いているだけのように思えてしまう。重箱の隅つつきは面白くないよな、と思うので、あんまりしたくないのだが、何故かそういうものばかりが、読んでいてチラチラと頭をよぎるのである。
これは、この本が、読んでいて自分のことを批判されているような気分にさせられる本だからではないか、と思う。
重箱の隅を突きたくなるのは、図星だからなのであろうか。一方で、いや別に、この批判は俺のことを言っているわけじゃないなんだから、そんなに焦らなくても大丈夫、と思ったりもする。
それから、あとでもう一度触れるつもりだが、批評家批判なのか、セカイ系作品批判なのか、セカイ系消費者批判なのかが分かりにくい。というよりは、それらが渾然一体となっている。

内容

基本的なルートに関しては、このブログを読んでいる人なら大体知っているような気がするが、一応まとめておく。
大きな物語」が失効する。これによって「私の生きる意味」が与えられない状況になる。つまり、「モノがあっても物語のない社会」「自由で冷たい社会」となる。
そこで、どうやって生きていけばいいのか分からなくなって引きこもる、というのが、「心理主義/ひきこもり」的な「90年代の想像力」である。それを最も端的に描いていたのが『新世紀エヴァンゲリオン』であり、それの堕落形態が「セカイ系」と呼ばれる作品群である。本書は、この「セカイ系」を批判していくというのが、基本的な姿勢となっている。
さて、「私の生きる意味」が与えられない、というのはもはや所与の前提であるが、だからといってひきこもっていたとしても、一向に生きていくことはできない。そこで、無根拠でもいいので、とりあえず何らかの「生きる意味」をあえて選択するのが「決断主義」。そしてこの「決断主義」は、バトルロワイアルを伴う。つまり、その「生きる意味」は、何かによって正当性が与えられているわけではないので、他の人のそれと衝突してしまうから。このバトルロワイアル型の「決断主義」も、それはそれで息苦しい。暴力の連鎖を無制限に拡大していくことになるし、とりあえず選んだ「生きる意味」が、バトルロワイアルに負けることによってキャンセルさせられてしまうことも織り込まなければいけないから。
決断主義/バトルロワイアル」が、一応「ゼロ年代の想像力」ということになるのだが、この本は、それもまた批判対象としている。
セカイ系」も一種の「決断主義」であるので、「セカイ系」「決断主義」が共に批判対象となる。
「私の生きる意味」が与えられない状況において、「セカイ系」と「決断主義」という二つの適応があるが、そのどちらもあまりよい選択肢ではない、というのが宇野の診断である。
では、どのような適応方法があるのか。
それを宇野は、宮藤官九郎の「地名シリーズ」、木皿泉の『野ブタ』、よしながふみに見いだすのである。


宮藤官九郎の「地名シリーズ」
具体的には『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』『マンハッタンラブストーリー』の3作品である。
一言でまとめるならば、「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」から「終わりのある(ゆえに可能性に満ちた)日常」へ、である。
日常の中にロマンがある、というような言い方もあったが、日常生活の中での面白い出来事(物語)を生きよ、という点が一点(これは特に『木更津』)。
それから、流動性の高い、選択された共同体、という点が一点(これは特に『池袋』)。
そして、そうした共同体に終わりがある、という点が一点(これは『木更津』)。
決断主義」的に、何か1つの価値に基づいた共同体を特権化*1するのではないかたちで構成された共同体、というのが、流動性の高い共同体ということだと思われる。
そしてそれ故に、それには終わりがある。
コミュニティというよりは、アソシエーションみたいなものかな、と思う。
何らかの目的をもって集まり、その目的が果たされたら解散する、みたいな集団。まあ別に目的はあってもなくてもいいのだが。そういうものを宇野は指向しているのかな、と思った。ついでにいうと、理念としては、ベ平連と同じなんじゃないかとも思った。
匿名コミュニティもそういうふうに機能することはあるよな、と思ったりもする。
『木更津』の話は、「死」が強調されるので分かりにくいけど、「終わりがある」とはそういう意味ではないか、と受け取った。岡崎京子や『完全自殺マニュアル』が、「死」を非日常的な外部として設定することで、「生きる意味」を逆説的に手に入れようとしたのに対して、日常の中の「死」として「終わり」を設けることで「意味」を手に入れる。
「死(終わり)」を見つけられないから絶望するのであって、「死(終わり)」があることが分かれば面白い、ということ。終わってしまうからこそ、それまで楽しもう、ということか。「死」をロマンティックな対象として、いわば絶望からの救いとして見てはならない、ということだろう。
面白いのは『マンハッタンラブストーリー』で、宇野はかなり高く評価すると述べつつも、言及は3頁にとどまるし、以後宮藤へ言及するときも、『マンハッタン』が抜け落ちてる。これは、「入れ替え可能」な恋愛を描いた作品らしい。
恋愛というのは「入れ替え可能なもの」を「入れ替え不可能」と錯覚してしまうものだと思うので*2、「入れ替え可能」な恋愛というのは、一種の語義矛盾を呈しているように思うのだが、だからこそ「ラディカル」だと思うし、興味深い。


木皿泉は、テレビの脚本家であり、『すいか』『野ブタをプロデュース。』『セクシーボイスアンドロボ』を手がけた。
『すいか』は、非日常ではなく日常を選ぶ話であり、それも日常こそが魅力的だからである。日常を選ぶことは、「生きる意味」を断念することではなく、むしろそちらに「生きる意味」があるのである。
野ブタ』は、「決断主義/バトルロワイアル」的なのだが、ドラマ版では、そのバトルロワイアルを戦うことによって、結果ではなくそれを共に闘った仲間との関係性こそが重視されていて、そこにバトルロワイアルからの脱出があるという。『ロボ』もまあほぼ同じ。これらの関係性もまた、「終わり」がある。
日常こそが面白い。終わりのある共同体(関係性)に、その面白さがある。
というのが、宮藤、木皿の共通点であり、「セカイ系」でも「決断主義」でもない適応である。


第九章では、山岸涼子吉田秋生よしながふみにいたる、少女マンガの系譜が参照される。
「生きる意味」が与えられない状況で、とりあえず何かを選ぶ時、誰かを暴力的に「所有」することを選ぶことが往々にしてありうる。つまり、「キミにだけは、ボクのことを分かって欲しい」という、恋人に全てを承認してもらおう、というタイプである。
宇野はこれを激烈に非難する。「共依存的ロマンティシズム」とか「レイプ・ファンタジー」などといった言葉で表現している。それは、あまりにも暴力的だからだ。また、相手からの拒絶にあえば、それで全て瓦解してしまう。これを、山岸の『日出処の天子』に見いだし、「厩戸の呪縛」と呼ぶ。
その「呪縛」の解呪に成功したものとして、よしながふみを見いだす。
それは、『西洋骨董菓子店』や『フラワーオブライフ』に見られるような、「所有」ではなく「ゆるやかなつながり」による人間関係である。


第十章から第十二章までは、「成熟」がテーマとなる。
第十章は、いわゆるレイプ・ファンタジー批判である。東浩紀は、『AIR』が断念・反省を描いていてマッチョイズム批判になっているというが、宇野は、その断念・反省は、安全な反省に過ぎず、むしろマッチョイズムを強化しているのだという。
本当に断念・反省があるのであれば、少女からの拒絶がなければらないのではないか*3、というわけである。
しかし、十章が面白いのは、「母性のディストピア」である。つまり、何故そのようなマッチョイズムが温存されるのか、というと、オタク文化に圧倒的な「母性の重力」が働いているからだ、というのである。つまり、父性の抑圧などというのは、とっくの昔に消えてしまったが、母性の抑圧というのは根強く残っているのではないか、という指摘である。
これは例えば、斎藤環の「戦闘美少女」という概念が、ファリック・マザーに由来していること、あるいは、『網状言論F改』で小谷真理が、オタクと母の関係について指摘していたこと*4と関わったりしているのかなと思う。
最後に、青山真治『サッド・ヴァケイション』が「母」を問題にしていることを、指摘している。


第十一章では、「家族から疑似家族へ」と「新教養主義」が説かれる。
子どもは、親をロールモデルとして成熟するのではなく、自ら試行錯誤して関係を選択していく(疑似家族)ことで成熟していくのであり、大人はそのための環境整備をすればよい(新教養主義)。


第十二章は、平成仮面ライダーシリーズを追うことで、この時代における「正義」と「成熟」について論じている。
クウガ』は、古いタイプの「正義」と「成熟」を描いた作品。
『アギト』『龍騎』で、「正義」が相対化されて、「決断主義/バトルロワイアル」へと移行する。また、『アギト』は、非日常ではなく日常を指向することで成熟する。
『555』で完全に「正義」は相対化されてしまう。
『剣』『響鬼』『カブト』は、いわば保守反動的。
『電王』においては、「変身」の意味合いがかわり、それこそが新しい「成熟」とされる。つまり、変身というのは、今までは「エゴの強化」であったのに対し、電王では「コミュニケーション」として描かれている。


第十三章では昭和ノスタルジア・ブームが取り上げられ、それらがレイプ・ファンタジーと同じの安全な自己反省でしかない、とされる。
第十四章では、青春映画ブームが取り上げられ、これらが非日常から日常へ、というかたちになっていることを指摘する。その中で、ハルヒは、非日常を指向しつつも日常を楽しむものとして、オタクの軟着陸(?)を描いているものとして読む。


第十五章では、ケータイ小説をもとに「脱・キャラクター」論が語られる。
本書では、全体を通してキャラクター批判がなされているのだが、今までその部分をカットしていたので、ここで本書のキャラクター批判をまとめておく。
宇野は、「〜である/〜ではない」という状態によるアイデンティファイと「〜する/〜した」という行為によるアイデンティファイを区別する。
そして前者のあり方を「キャラクター」と呼ぶ。
例えば、トラウマなどがこれに当てはまる。「私は○○というトラウマがある人間だ」などというアイデンティファイの仕方である。「私はいじられキャラだ」とかでもよい。
このようなアイデンティティをもった人間にとって、自分以外の存在(他者や社会・世界)とのあり方は、そのアイデンティティを承認してくれるか否か、しかない。
心理主義/ひきこもり」は、周囲が承認しくれないからひきこもるのであり、「セカイ系」は、自分を全て承認してくれる者を暴力的に所有する。「決断主義/バトルロワイアル」は、承認してくれないものたちを暴力的に排除する(ゆえに、「セカイ系」と「決断主義」は表裏一体の関係となる)。
このような、承認か否か、しか認めないようなあり方こそが、まさに「空気読めない」であり、宇野はこれを批判する。
人は、状態*5によって評価されるのではなく、行為によって評価されるからだ。
行為によってポジションは変えていくことができるし、生きやすくなる。
「私は○○だから、生きにくい」のではなく、それは単に、生きやすくなるように行為していないだけなのである。
日常が楽しく思えないのは、日常が楽しくなるように行為していないからである*6

読みながら思ったこといくつか

批評とは何か。文学とは何か。

批評とは何か、ということで、twitterでのポストをタンブラーにまとめておいた。
これはまさに、この本を読みながら考えていたことである。
何故、作品を解読するのか。
本書に関して言えば、それは作品からロールモデルを読み込むためだろう。
つまり、現代社会において、参考になる生き方はどのような生き方か、というものである。
それゆえにこの本は、生き方指南書ともなっており、福嶋亮大が「自己啓発的」と指摘している通りである*7
ここで問題になってくるのは、果たして作品をロールモデルとして読み込むことが妥当であるかどうか、である。
これはなかなか複雑である。
小説の類がロールモデルとして機能してきたことは、ほとんど事実であるように思える。僕自身が、そのような読み方をしているし、またヒーロー物が正義をどのように扱うか、ということは、まさにその点から考えられる問題であると思う。僕自身、作品を批評的に読むというスタート地点として、そのような問題意識があった。
あるいは、文学性とは、まさにそのようなものなのではないかとも思う*8
僕は以前、文学とは何かというエントリを立てたときに、価値的なニュアンスにおける文学とは何か、それは芸術とは何が違うのか、という問いを発したが、個人的にはその問いには既にある程度の答えがある*9。それは、このエントリで書いていることだが、共同性と暴力についての問題を扱っていることである。これが、本書が扱っている問題と関わり合っていることは、かなり明白であるように思える。
一方で、作品がロールモデルとして機能するかどうかと、その作品の価値が、必ずしも一致するかどうか、というのは言い難いように思える。ただし、だからといって、そのことが本書の欠点になるとは思わないが。
とはいえ、問題がないわけでもないように思える、本書は、作品を読むことで望ましいロールモデルを取り出し、「このように生きよ」と述べる。そして、望ましくないロールモデルを扱っている作品を批判するわけだが、その際に、そうした作品を取り上げる批評家とそうした作品を好む消費者を同時に批判している。この批判が、必ずしも十全に成り立つかどうか、という見極めが、かなり難しいように思えるのだ。
つまり、セカイ系を消費しつつも、実生活では日常を生きているオタクというのも、結構いたりするのではないか。あるいは逆に、クドカンが好きだけれど、実生活では全くそのように生きられない人もいるのではないか。
ところが、そのような仮定をたててしまうと、そもそも何故作品を読んでいたのかがよく分からなくなってしまう。実生活での生き方こそが重要なのであれば、しかも非日常ではなく日常の中での楽しさを追い求める生き方をせよ、というのを完全に実行しようとするならば、そもそも作品なんて受容しない方がいい、という解もありうる。

東浩紀劣化コピーは、一体何を批判されていたのか。

その1、安全な自己反省によるマチズモの温存
その2、想像力の古さ
その3、テレビドラマやジャンプマンガを批評の俎上にあげなかったこと
おおよそこの3点にあると思われるが、これらはそれぞれ別の問題でありながら、しかし絡まり合ってもいる。
ここで重要なのは、その2とその3である。
これらは、批評家の怠惰である。
しかしそもそも、テレビドラマやジャンプマンガなんて見ていない、という可能性も高い。もちろん、その「見ていない」ことこそが、怠惰だと謗られるであろうが、これはなかなか難しいところがあるように思える。
つまり、批評とは一体何なのか、ということに関わってくるからだ。
作品の面白さを深く追求していくために行われているのか。社会を理解するために行われているのか。新しいロールモデルを発見するために行われているのか。
また、テレビドラマ批評というのは、どこで行えばいいのか分からない、というのもある。『ゼロ年代の想像力』は、それこそSF作品など扱っていないにもかかわらず『SFマガジン』で連載された。また、宇野はそれ以前は、WEB上で活動してた。つまり、媒体がない。
ライトノベル批評やギャルゲー批評もまた同様で、大塚英志東浩紀、あるいは斎藤環も、色々な媒体にわりと無理矢理にそれらを押し込んできた。
まさにその「無理矢理押し込む」こと、押し込むほどの力をまだ持っていない場合には、WEBでやること、などが批評家に求められるものである、といえる。
しかし何故そこまでして、そのようなことをやりたいのか。
批評の対象への深いこだわりがあるから、ではないだろうか。
そもそもテレビドラマを見ない人間は、テレビドラマ批評など始めないだろう。
それは怠惰なのか否か、というのは、批評の目的によって変わってくるような気がするのだが。

キャラクター論

現在の若者が、自分たちを「〜である/〜でない」という状態によってアイデンティファイしている、という指摘は、まさにその通りだと思う。僕も、ネットと絡めて、そういうことは言ったことがある。
ただ、第二章「データベースの生む排除型社会」がよく分からなくて、そのことと、二次創作を同列に並べて論じているのだが、そこが同列に並ぶのかどうかがよく分からなかった。
あるキャラを使って二次創作することは、そのキャラを全面的に承認・所有することであり、それはある特定の「物語」を補強し、他の物語を排除する「決断主義」である、というような主張がなされている。
つまり、キャラクターは「物語」を越境しない、「物語」を強化する、というわけである。
しかしこれは、伊藤剛の「キャラ」であれば、果たしてどうだろうか、と思わなくもない。
宇野は、「超能力者や宇宙人を信じる少女」は、端から見れば「痛い不思議ちゃん」だが、その「少女」の二次創作においては、そのような解釈は排除され、「超能力者や宇宙人を信じる少女」という物語が強化される、とも言っているのだが、二次創作ってそういうものなのか。「痛い不思議ちゃん」として描く二次創作があっても、全く不思議ではない。というか、そういうことが起こるのにもかかわらず同一性を維持している点に、東や伊藤は二次創作の面白さを感じたのではないか。
「物語」という語と、「キャラクター」という語において、意図的に混乱を生じさせているのではないか、と思う。
宇野は、「物語(共同性)」という言葉を使うのだが、これは少し妙である。
キャラクターは「物語」を越境するといわれる時、それは作品を指しているはずだ。
一方、宇野が、キャラクターは「物語」を強化するという時、それは、ファンの共同体を指しているようなのだ。ハルヒなら、「ハルヒが好き」という共同性。確かに、ハルヒの二次創作を作ることは、「ハルヒが好き」という共同性を強化するだろう。
キャラクターという言葉には、フィクションにおける登場人物という意味と、実際の人間の性格という意味との両方があり、だからこそ、この言葉は魅力的であり、論じられるのだろうが、しかしやはりこの二つもまた、分けて考えるべきなのではないだろうか。
東や伊藤のキャラクター論は、フィクションにおける登場人物に対して使われている。
宇野のいうキャラクターは、実際の人間の性格に対して使われている。その限りにおいて、宇野のキャラクター論は正しいが、そこから直ちに、前者のキャラクター論を批判できるかどうかは、なかなか言い難いように思える。
とはいえ、東や、そして僕自身も、この両者を混同して使っていることはあるので、事態はさらに訳分からなくなっていくのだが。


何が同一性を担保するのか、という話と
何が生き方を規定するのか、という話が
キャラクターという言葉を介して、おそらく混在している。
アイデンティティという言葉がまた、その混乱に拍車をかけている。
同一性と生き方は、別ものである。
しかし、当然のことながら、この両者は関わり合っている。
同一性とは何か、そしてそれが生き方とどのように関わっているのか、という問題は、まさに哲学の領分であると僕は考える。
本書には、そのような哲学的考察が欠けていたように思われる。
逆に言えば、東や伊藤の本は、まさにその哲学的考察に当てられていたとも言えるが、一方で生き方についてはほとんど論じていなかった、と言えるかもしれない。


言葉の使い方について

様々な言葉が、明確な定義なしに、あるいは多義的に使われているような気がする。
文脈から追えば、基本的な論旨を追うことに難儀するほどではないし、批評という文章というのは、まさにそういった言葉遊びを楽しむ一面がなきにしもあらず、なのかもしれないとも思うのだが。
以下に挙げることは、僕自身もそのような曖昧な使い方をしたことのあるものも含まれており、宇野批判というよりは、自戒の意味も込められている。また、以下の語は、使われることも多いと思われるので、概念をはっきりと分析しておくことは、思考の整理として重要だと思われる。


既に述べたように、「物語」という言葉が分かりにくい。
大きな物語」とか「小さな物語」とかいう場合の物語は、おおむね「価値観」という意味で使われているように思われる。
一方で、「物語」には、作品という意味合いもある。
それから、物語性ともいうべき性質をあらわす言葉としても使われている。ドラマチック、ドラマツルギーとでも言い換えることが出来るかもしれない。起承転結のように、盛り上がりとオチがあるようなもの、とでもいうか。
あるいは、筋書きというような意味もある。
この、ドラマいう意味での物語と筋書きという意味での物語が、やや入り混じっている。
宇野は基本的に、現在は「物語」が強化されていて、「物語」を見ていくことが大事だとしている。これは「物語」以外の要素(例えば「文体」)といったものは、「大きな物語」(例えば「国語制度)の凋落と共に、その重要性を失っていたからである*10
「キャラクター」は「物語」を強化するわけだが、第十五章の脱・キャラクター論では、「物語」の強化によって「脱キャラクター化」されるという。
前者の「物語」と、後者の「物語」は意味合いが異なる。どう異なるかとおそらく、前者はドラマ、後者は筋書きというような意味なのではないだろうか。
つまり、「〜である/〜でない」という形でのキャラクターは、まさにそのキャラクターを承認するような、ドラマチックな(非日常的な)「物語」を強化する。
一方、筋書きとしての「物語」は、人物を、その筋書きの中での行為によって位置価を割り振る。「物語」と「行為」の関係から割り振られた位置価が、新しいロールモデルを立ち上げるのだろう*11


それから、「(生きる)意味」「超越性」「ロマン」である。
この3つの言葉は、おおよそ同義語として使われていた。あと、そういえば、「物語」という言葉が、「(生きる)意味」と同義語として使われているところもあった。これはまあ、上述の区分でいけば、「価値観」ということだろう。
この3つが同義語として使われていることは、読んでいたら分かるので、まあ構わないのだけれど、「(生きる)意味」と「超越性」「ロマン」は、同義ではないような気がする。
「超越性」というのは、おそらく神様のことだろう。神様が、生きる意味を与えてくれる、というのはよくある話であって、だからこそ、「意味」と「超越性」が同義語になるのは分かる。また、それが「大きな物語」と言われたり、オウムと関わって言われたり、するのも分かる。
だが、僕個人の理解としては、「超越性」って「意味」とはかけ離れているような気がしなくもないのだ。「超越性」というのは、僕個人の「(生きる)意味」とは全く無関係に存在していて、だからこそ、「生きる」ことを可能にしてくれるのではないだろうか(いわば、「意味」ではなくて「強度」を与えてくれる)。
「ロマン」も同様。
日常の中に「ロマン」がある、という言い方があるのだが、そもそも「ロマン」というのは、手に入らない遠いものという意味ではないのか、と。そうすると、日常の中にロマンがあるって語義矛盾じゃないか、と思う。
ただ、日常の中に「(生きる)意味」はある、というのであれば、全く問題ない。というか、まさにその通りだと思う。あと、「ロマン」が、ワクワクするもの、というような意味で使われているのであれば、やはりそれでも問題ないと思う。


超越とかって、この世界の「なんかわからんけどすげぇっ」ってもののことではないか、と思っている。例えば、ミクロの世界とか、宇宙の端(つまり始まり)とか。崇高さ、という奴かもしれない。
「世界ってすげぇ」というのと「自分はこうやって生きていく」ということは、明らかに直接繋がるものではないと思う。もちろん、この二つを繋ぐことは可能だけど、そのためには別の装置が必要で(それが比喩的に「物語」と言われているのか)、単に「超越性」があれば、「生きる意味」が分かるというわけではないと思う。
もう少し付け足すと、僕は、哲学とか文学とかあるいは芸術というのは、主に二つの問いの周りを回っていると思っている。
「この世界は一体どうなっているのか」
「自分はどうやって生きればいいのか」
この二つの問いは、明らかに別物で、「超越性」というのは前者の問いに、「生きる意味」というのは後者の意味に関わっていると思う。また、哲学や芸術というのは前者の問いに、文学や倫理というのは後者の問いに関わっているように思える。
とはいえ、この二つの問いの中間として「自分とは何か」というものがあって、それがこの二つの問いを分かちがたく結びつけており、哲学と文学を簡単には分離させないでいる。
それでもこの二つは別物であり、安易に結びつけることはできない、と僕は思っている。
認識と実践は異なる、という言い方も僕は好む。
認識と実践は果たしてどのようにして結びつけることができるのか、あるいは結びついてしまうのか、というのを僕は考えているつもり。



あとは、コミュニケーションという言葉か。
これは普通に使っている分には、特に問題なのだけど、ふと考え始めると分からなくなる。
健全なコミュニケーションをせよ、というのが、本書の主張である。

まとめ

「生きる意味」なんてものは、黙っていて勝手に与えられるものではない!
でも、この世界の中には、至る所に「生きる意味」は転がっている。自分で探し出せば、必ず見つかる。「生きる意味」が分からないなんて言っている奴は、自分で探してないだけだ!
日常の中にある「生きる意味」を見つけ出して、楽しく生きよう!
という、反省をせまり、ポジティブな結論を見せる、自己啓発本である。
そしてそれは、すごく真っ当なことであって、全くもってその通りだと思う。宇野の称揚している共同性のあり方とか、成熟・新教養主義モデルとかは、完全に同意するしな。
あるいは、福嶋による本書はナルシシズム批判であるというまとめも、全くもってその通りだなと思う。コミュニケーションせよ、というのは、ナルシシズムから脱却せよ、ということだろう。


宇野は、『スカイ・クロラ』とか『ポニョ』をどう評価しているのだろうか、ということが気になったり、気にならなかったり。


「生きる意味」が見つけられないことと、全能感の関係とかって、どうなっているのかなあ。鈴木謙介あたりが言っていたような気がするけど。
たった今思いついたことだけど、『カーニヴァル化する社会』的かもね。ポジティブ版。
「生きる意味」は、その都度その都度、確保していきましょう、みたいな。でも、それで全然見つかるし、安全だしおk、みたいな。


「超越性」「恋愛」「暴力」といった点に関して、僕は必ずしも宇野路線をとれないなと思う。
自ら選択し、健全な関係性を築くこと、というのは、確かに実生活を送る上で非常に重要なことなのだけれど、上に挙げた3つは、まさにそのことを不可能にさせてしまう契機なのではないかと思う。だからこそ、多くの作品はこれらのことを取り上げるのではないか、と。
もちろん、本書はそれを踏まえた上で、これらを解除していくものであるわけだが、解除しきているのだろうか。
あるいは、イーガン的、伊藤計劃的な不可能性に関してはどうだろうか。
宇野の<ファウスト>批判は、必ずしも全面的には当てはまらないように思う。東は、佐藤友哉舞城王太郎メタフィクション的な部分を評価していたのであって、宇野はそこをスルーしていないか、と思う。『スカイ・クロラ』もそうだけど、日常そのものの屈折が描かれているのであって、それは単に「非日常じゃなくて日常選べよ」という話で済むものではないように思うし、そのことは上述した不可能性と関係してくるのではないか、と思う。もっとも、佐藤も舞城も方向転換してしまっていることは確かである。


<追記>
ニーチェっぽくもあるのかも。
「生きる意味」が与えられなくなった、どうしよう、というセカイ系/決断主義は、受動的ニヒリズム
「生きる意味」を自分で見つけ出せ、ないし作り出せ、というのが、宇野の主張であり、能動的ニヒリズム
宇野は、社会から与えられるような「生きる意味」はなくなったが、人は「生きる意味」がないと生きられないという。だから、まあ意味なんてないんだけど、作りなさい、という話だと思う。
しかしこれって、「何故生きるのか」から「どう生きるのか」へのシフトのように思える。
「生きる意味」って何のことかよく分からないのだけど、「生きる理由」だとか「生きる目的」だとか「生きる価値」だとかっていうのであれば、それはもはや失効していて、宇野の提出しているモデルも、そういうものはなくたって生きれるよ、と言ってるように見える。
「何故生きるのか」(つまり理由とか目的とか価値とか)は置いておいて、「どう生きるのか」を考えましょう。そうすれば、案外と楽しいよ、とそういうことなのではないか、と。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

*1:セカイ系」ないし「セカイ系」消費者、あるいはネット上の様々なコミュニティというのが、まさにそうした特権化を行うことで、バトルロワイアルへと突入している

*2:だからこそ、「超越性」を担っているとされたりするわけだが

*3:あるいは、他の男と結ばれるところを見守れるか、とも述べている。『AIR』視聴後のid:Muichkineも、全く同じかたちの批判をしていたのは興味深い。それって、寝取られゲーならいいの? というどうでもいいツッコミが思いついてしまったが。あ、あと、全然関係ないけど、白痴、白痴いいすぎじゃね、と思った

*4:「おたく」という二人称は、まさにおたくたちの母親が使っていた二人称ではないか、とか

*5:データベースから引き出されたスペック、パラメータの束

*6:あるいは、その感性がないという言い方もあったけど

*7:今読み返すと、この福嶋エントリはすごくよいまとめになっているし、示唆的だ

*8:あるいは、id:crow_henmi宇野常寛的なんちゃってカルスタの意義も参照のこと。かつては、文学が果たしていた役割を、サブカルが果たすようになったと述べているが、まさにその役割のことを文学性と述べてよいのではないだろうか。ならば、サブカルもまた文学たりうる。大塚英志が主張しているのは、そういうことだ

*9:一方、夏目陽さんは、言語の問題であると答えてくれた。僕はもちろんその答えもありだと思っているので、僕の場合は、文学性という語は、ロールモデルを扱っているか、と言語をどのように扱っているか、の二つの意味で使われているといえるかもしれない

*10:大きな物語」の凋落によって「物語」が重要になる、というのは、「物語」という語の多義性に頼った分かりにくい言い回しではないか、と思える

*11:さらにいえば、この位置価のことを「キャラクター」と呼ぶことも可能ではないだろうか、という意地の悪い言い方もできる。若者論としては、位置価によって自分のキャラを取り替える生き方というものが、結構クローズアップされるように思うのだが。そもそも僕は、「〜である/〜でない」と「〜する/〜した」の区別が、どこまで本質的な区別なのか、ということには疑いをもっている。同様のことを述べていたエントリがあったのだが、その時にも同じ疑いをもった