半分の学生が単位を落としたとしたら、一番悪いのはそれを教えてた教員だと思う

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 京都産業大学で約20年の実績のあるキャリア教育科目を対象にして考察を行うことが目的となっている。キャリア教育科目といっても、心理学や教育学といった学問的背景をもつキャリア理論に基づく実践を扱うわけではなく、社会、特に産業界から求められる従順で聞き分けの良い姿勢やリーダーシップを発揮する構えを身に付けるような内容でもなく、まして、直接的に就職活動に役立つハウツーでもない。かつて私(二宮)が担当したことのある科目との類似点が多く、何度も頷きながら読み進めた。学生の意欲に関心をもつ大学関係者や、初年次科目の担当教員、就職・コミュ力キャリアプランニング志向のキャリア教育に問題意識をもつ関係者は必読の書である。

 この科目の初回授業は学期が始まって2、3週のちに設定され、必然的に履修制限単位の外に置かれる。学生の身になって考えると、単位不足を解消するために履修制限ぎりぎりで履修登録を済ませたあとにもうワンチャンス与えられるオイシイ科目ということになる。受講生のなかには、このルートではなく、単純にシラバスを読んで「あ、これは自分のための科目だ」と思って来る者もいれば、「低単位ではないけど、なんか面白そう」と思って来る者もいる。「なんか面白そう」と思って来る少数派を別にすると「とにかく単位が欲しい。授業の中身に関心はない。適当に参加して単位をもらえればそれでいい」と考えてやって来る学生が多数を占める科目なのである。
p. 4

以前に私は一橋大学で「学生生活の技法」という授業を企画、開講したことがある。GPAが2.0未満(経過措置期間は1.8未満)の学生は卒業できないという制度の導入に合わせて、ここでいう「オイシイ」「ワンチャンス」という体裁を整えた科目である。複数の教員がファシリテーション役を担うことで、履修する学生が自ら学生生活の道すじに沿って進んでいくことを構想していた。その際、特にファシリテーションに詳しい臨床心理士やユースワークの経験者にお世話になっていた。
 本書では2006年から2010年にかけて実施した、このキャリア教育科目の受講生を対象とした個人面談記録の分析が紹介されている。分析の結果、大学への関与を阻害する要因として、以下の4点の概念が抽出されたという。どこの大学でもあると想定される、学生による後ろ向きな心情や社会への敵対心である。

不信感
「大人は信用できない。大学の教員も、就職活動で出会う大人も建前と嘘ばっかりでうんざりする」
「社会人になるって、とにかく我慢して生きていくっていうこと。自分たちは大人につかい捨てられるだけ。バイトしていてもそれは感じる。就職しても同じだと思う」
「授業を履修していて、半分の学生が単位を落としたとしたら、一番悪いのはそれを教えてた教員だと思う。でも金を払わされるのは学生。悪いのは学生ってことになる。大学は何の責任も取らない」
「先輩とか(部活の)顧問とかの前で正座してお酒つがなきゃいけないとかって、そもそも理由がわかならい。不条理なことが多すぎる」
「こんな社会にした大人たちが許せない」


他律感
京産は第一志望じゃなかった。親に言われたから入った」
「経済学とか、全然興味ない」
「大学行って就職して、結婚してみたいな道ってもう決まっているじゃないですか」
「やりたい勉強が全然やれない。先生に言われたことをやるだけ」
「入れる学部に入ったって感じ。大学も高校の教員も親も、学部はどこでもいいと言っていた。


不安感
「自分にはすごく才能があると思う。でも何もできないかもしれないと思うこともある。結局何もできずに終わるとか、そんなことになるかもしれないと思うと不安で眠れない」
「社会人として働いてゆく自信がない。きっと傷つくと思う」
「相談できる人が誰もいない。恋人はいるけど、本当の自分は見せられない。恋人や親はむしろプレッシャーになっている」
「親の期待に応えられない」


疲労
「家から出られなくなるときがある」
「友達関係とか、バイトとか、何もかもうまくいかなくて、疲れた」
「授業に出て、部活をやって、バイトもして、お金をためて、資格を取ってとか、頑張ってやれたのは最初のうちだけ」
pp. 9-10

注目したのは「傷つく」という表現である。おそらくこの「傷つく」は他の要因においても出現される言葉であり「傷つけられる」ではないことが重要である。具体的な他者、たとえば大学や高校にいる大人の発言や行動によって「傷つけられる」とは言わない。やや雑なことを言ってみると、明確な問題が他者にあるのでそれを粉砕するという70年代までの「青年」像とはまったく異なる、それ以降に文学者、社会学者、精神科医などによって繰り返し指摘されてきた「やさしい若者」像の延長線上に、自ら傷付いてゆく当事者が立ち現れる。本書のタイトルである「大学授業で対話はどこまで可能か」は、もちろんこうした学生との対話、学生同士の対話を意図したものである。
 この授業は、自己、他者、尊厳感情、相互承認の場、自己ー他者対話、自己内対話などをキーワードとして、次に示すように計画されている。

1日目(2コマ) オリエンテーション、アートコミュニケーション、自分史を語る
2日目(2コマ) アイスブレイキング、ニックネームづけ
3日目~4日目(合宿5コマ) 物語創作ワーク、夜店プログラム
5日目(2コマ) 社会人との対話
6日目(2コマ) 5日目までの振り返り、7日目の準備
7日目(2コマ) 参加者からの応答
個人面談
学期末試験
p. 6 

この内容の一部は記述の「学生生活の技法」(希望者と履修をしていないけれども関心のある学生を対象として合宿も実施した)や、私が途中参加させて頂くことになった日本工業大学の初年次科目と重なるものである。後者の初年次科目の一つ「大学での創造的学び」(略称ダイソー)は、工学部における「ものつくり」と基礎的なライティング練習を念頭とするもののプログラムの内容じたいを学生が考案するというハードな授業であった。イマドキのものつくりは一人で完結するわけでもなく、文書を通じて他者と意思疎通を図ることも必要だからであった。本書で示されているプログラムからは、月並みな言葉ではあるものの全15コマを通じて「(ファシリテーターに支えられつつ、そのことの自覚もありながら)どこかで失った自分を自分で取り戻す作業」であるとも言えるだろうか。2024年1月に紹介した大学生を対象とするソーシャルワーク - 群馬大学 二宮祐研究室なかでも「(1) 学生が悩むことができる」というポイントと繋がっているだろう。悩む機会を奪わないためにファシリテーションが必要なのである。
 しかしながら、このような授業はファカルティから反発されることがある。私も既述の2大学において批判や抗議を受けたことがある。その理由は皆さんお気づきのとおり、専門的で学術的な知識を伝達するわけでもないし大学という場で続けられてきた西欧社会の伝統に基づく教養を身に付けるわけでもないからである。「これは大学ではない」「大学はもう終わりだ」という趣旨の言葉を頂戴することもあった。この書籍が良書であると評価した理由の一つは、そのような教員の反発を含む複雑な心情も紹介されているからである。コラム7(pp. 146-151)においてこの授業に関わっていた社会学者はキャリア論に対する懐疑、社会人ゲストによる講和に対する違和感、カントを引用しての人間観について説明している。大げさではあるものの近代以降の大学のあり方がユニバーサルアクセスの時代を迎えて問い直されているのである。本書ではそれを教室規範の解体と相対化、大学規範の解体と相対化という概念で表している。規範への着目という点でもとても勉強になった書籍ではあるものの、学術的にもう一段高めた分析を行う場合には「隠れたカリキュラム」への着目も必要であるように思われる。一見、「ゆるい」ように見えるファシリテーションが効いている場面であっても、そこには実は厳しい統制が働いていてだからこそその目的が達成されているかもしれない。授業を担う教員やファシリテーターもまた「隠れた」ものには気付きにくく、むしろ、反発するファカルティのほうがそれを言語化できることもあり得るだろう。
 

学びのリテラシー2「若者について考察する」アンケートへの回答

 群馬大学には「学びのリテラシー2」という全学必修の教養科目がある。私はそのうち「若者について考察する」という科目を担当している。その科目に関する授業アンケートの自由記述に対して回答しておきたい。
 学びのリテラシー2のねらいは次のように説明されている。

少人数のゼミ、講義、演習で行い、各教員が専門としている分野を中心に、課題の見つけ方、分析の仕方、発表の方法、文章のまとめ方など、これから4年間ないし6年間にわたる大学での学びにおいて求められる基本的な方法を修得させる。さらに、各学問分野に共通の思考力・判断力・表現力等を養い向上させることを目指す。
カリキュラム | 群馬大学 大学教育センター

概ね最大40人を上限として、主として1年生が履修する「初年次科目」である。学びのリテラシー1が学部・学科ごとに開講されるのに対して、学びのリテラシー2は学部横断的に履修が可能である。通りすがりに「私は理工学部だけれども、せっかく総合大学へ入学したので昔の英文学を習ってみたいので〇〇を履修してみた」、「他の学部の友だちができて良かった」といった会話を聞いたことがある。1年生でほぼ教養科目の履修を終えてしまう学部・学科においては貴重な学習の機会、友だち作りの機会となっているようである。
 さて、授業アンケートで次のような趣旨の自由記述を頂くことがある。それは、「毎回、必ず出席をとったほうが良い」、「遅刻すると注意されることがあるので、遅れそうな学生は休んでいた」(原文を修正済み)といったものである。表面的な回答は「出席は毎回授業後のLMSへの、授業中のディスカッションをふまえた考察の入力によって確認している」、「1つのグループが4~8人程度でディスカッションを行うゼミナール形式の授業であることから、他の学生の学習の進捗を妨げることになる大幅な遅刻に対しては、やむを得ない事情の有無を確認しつつその場で不利益を被る他の学生がいることを説明しなければならない」である。そのうえで、難しい課題となっている可能性はあるものの、もう少し踏み込んだ回答をしてみる。それは、「出席については教員任せにしないで自分自身でノートやスマホなど駆使して記録を取っておこう」、「遅刻に対しても教員が指導を行うまでもなく、学生どうしで気を付けてみよう」である。この回答はおそらく期待を裏切るものになっているだろう。出席をその場で「とってもらう」ことで安心感を得たかったり欠席者に対して見せしめの罰則を与えたかったりする場合には、空振りの回答になっているはずである*1。しかし、「大学生になる」ために教員を使うことなく自らの心情を安定させようとしてほしいのである。群馬大学ではあまり見かけないものの「あと何回授業を休めますか?」、「欠席に対する救済措置はなんですか?」、「レポートを提出すれば単位を取得できますか?」という教員に対する質問も同じ課題である。なお、最後の質問に対して想定される回答は「提出されたレポートを読んで、評価をしてみないとわからない」であろう。また、学生どうしで気を付けるというのも肩透かしの回答である。大学生として同じ仲間であるのだから遅刻をする学生に対して注意を促してほしいものの、そうした行動がまったく見られなかったために教員が指導を行うことになった。「大学生になる」ために先ほどと同じようになるべく自分たちで何とかする姿勢を身につけてほしい。授業中にも説明したとおり、大学で教室の照明が落とされていたり空調が不十分であったりするとき、さてどうしようかという問いにつながっている。
 とはいえ、これらのことは現代の発達課題のようなことがらであり、すぐに解決できるというわけではないだろう。そのため、次年度からはいわゆる「大福帳」を導入することを検討している。とりあえず、「出席していることがLMSではなくその場で認識された」という安心を提供することができる。ただ、それは自分でいろいろなことを何とかする、ということの歩みを少しゆっくりにさせてしまう危惧を残すものである。

すべての授業で大福帳を使おう
kogolab.wordpress.com

*1:私が知っている渡辺雅男という学者はかつて、学籍番号が書かれている提出物に対して「自ら番号で管理されるようになってしまった気分はどうかな?」みたいな問いかけをしていた。

大学生を対象とするソーシャルワーク

 とても勉強になった。これまでも臨床心理士公認心理師など心理に関する専門職による学生支援は行われてきた。そこでは、心理職の専門分野である心理療法、心理コンサルテーションはもちろんのこと、心理面の課題だけにとどまらい多様で総合的な困難に対する支援も進められてきただろう。本書は学生の社会的な背景に関するサポートまで含めたことがらを「キャンパスソーシャルワーク」として概念化して、事例をもとにその必要性を論じるものである。小中学校におけるソーシャルワーカーについては本書で説明されているとおり日本においても必ずしも十分ではないものの配置が進められてきた。大学に対してはあまり浸透していないものの、社会福祉学の学科やコースがあるような場合にはソーシャルワーカーについて認知されているという。
 キャンパスソーシャルワーカー(CSWr)を配置してる大学について、次のようにその状況がまとめられている。

大学が配置することに至った経過を聞いてみました。10校あまりに過ぎない校数でしたが5点の理由が出てきました。


(1) 学生対応に専門性が必要だと感じた
(2) 教職員だけでは、学生対応に困難性を感じた
(3) 学生の問題が多く起きるようになった
(4) 学内において連携した支援が必要になった
(5) 大学で父母等からの相談が増えた


 以上のようなことからCSWrに力を借りたいと考えたことが、配置に至った理由としてあがっています。
 さらに、大学がCSWrに期待する役割や業務を、先の配置に至った理由と同様に、CSWrに確認したところ、その事由が13点に及びましたのでそれを列挙しましょう。


(1) 引きこもり学生への対応〈自宅訪問などのアウトリーチ
(2) 学生問題の予防的な対応〈教職員から情報収集や研修等の教育活動〉
(3) 心理的な相談に加えた現実的な問題解決〈経済面・就職面・居場所の確保・不登校者へ対応〉
(4) 障がい学生への対応〈他機関の利用・合理的な支援の判断資料の提供・システムづくりと運営〉
(5) 支援活動としての居場所作りや運営〈居場所作りの発案や運営〉
(6) 一人暮らし学生への支援〈生活への具体的なアドバイス・訪問等〉
(7) 教職員へのコンサルテーション〈発達障がい 聴覚障がい 精神障がいについて〉
(8) キャンパスハラスメントに対する対応〈相談・対応・フォローアップ〉
(9) 退学者防止への支援〈成績不良者への積極的面談〉
(10) 社会資源の紹介〈弁護士等専門家の紹介・同じ悩みを持つ人の紹介等〉
(11) 教職員の学生対応への負担軽減〈支援連携会議・情報交換・情報の集約化〉
(12) 学生支援としての危機的介入〈自殺者防止の取り組み〉
(13) 研修等の企画〈学生・教職員研修の企画や開催〉


 こうして列挙してみると、かなり多岐にわたる内容であることがわかります。これは、CSWrから聞き取りをした内容でありますから、大学から指示や依頼されているだけではなく、 実際にCSWrが果たしている役割でもあります。
 また、大学で働くCSWrは、自身で認識して以下の8点を大学に存在する意義として上げています。


(1) 社会へ出る最後の教育機関で社会性を育成する
(2) 成人しているが未成熟な学生へのサポート
(3) 親からの自立の実現への支援
(4) カウンセラーより敷居が低く、相談しやすい
(5) 人の生活する場でもある大学にもソーシャルワーカーが居るのは、当たり前
(6) 卒業後のフォローアップ
(7) 卒業ばかりが人生の目的でないことを一緒に見つけていく
(8) 障がい学生 (特に就職) への対応


 最後にCSWrの支援の対象者である学生のニーズについて、CSWrは以下のような11点をとらえています。
(1) 対人関係の問題に関する支援
(2) 心理的支援
(3) 障がい学生の支援
(4) ソーシャルスキルレーニン
(5) 大学内の居場所に関して
(6) 引きこもり学生に関して
(7) 修学についての具体的な支援
(8) 望まない妊娠について
(9) 進路に関して
(10) 経済的な支援
(11) ハラスメント、 性的被害に関して


 大学が学生の支援として上げている項目と重なる内容もありますが、 大学が認知していないような内容を、学生はCSWrに相談したいと考えていることがわかります。
 最後にCSWrが配置されている大学がどんな効果を感じているのか確認してみると5点ありました。その内容は、


(1) 学生が悩むことができる
(2) 教職員との情報共有ができる
(3) 外部とのつながりができる
(4) 家族との協働の芽生え
(5) 教職員が抱え込まない(一人で悩まない)で済む
という事項でした。こうしたことが多岐にわたる相談内容を対応するなかで実践できている点ということになります。
pp. 23-25

 特に私(二宮)が関心をもったのは、たとえば、ふらっとフリースペース(学内の相談室近くに設置された居場所、たまり場のようなところ)を訪れる学生に対して先回りして助けてしまわないこと、攻撃的な態度をとりがちな学生へ挨拶の練習や他者理解の方法を伝えつつ学内外に「味方」を増やしていくこと、学費を払えなくなった理由が家族の医療問題にあることを突きとめて公的扶助の受け方を模索すること、若者サポートステーションなどの外部機関と連携して勉強が嫌で中退したいけど働きたくもないという学生に対して次の一歩を踏み出せるよう支援することなどである。これらはまさしくソーシャルワークであり、日本においては特に若者向けの施策としては不十分であるとされてきた内容である。支援の最終的な目的が「自律」であるという主張も頷けることである。大学のことが嫌で嫌で仕方がなかった二十歳の頃の私(二宮)がこうした支援を受けることができれば、どれだけ有難かっただろうか(その場合、おそらく研究生活を志望することはなかっただろう)。
 気がかりであったのは、CSWrの重要な仕事として後任者への引継ぎが挙げられていたり(p. 57)、個々の学生対応のような「ミクロレベル」の実践に終始してしまうと周囲の人から評価されなくなってしまったりする(p. 70)ということである。このことは、全国の大学で任期付きとして雇用されてきた臨床心理士公認心理師などと同様の問題でもあり、私(二宮)が研究してきた「大学における新しい専門職」の仕事の難しさともよく似ている。

10年トランジション調査に対する教育社会学者の観点

 責任編集者が実施してきた「学校と社会をつなぐ調査」(通称:10年トランジション調査)の発達心理学や青年心理学の観点による分析に対して、3名の教育社会学者、1名の教育行政官、1名の中高教諭経験のある校長がそれぞれの立場から批評を試みるという意欲的な研究である。書籍のタイトルではその意図が見えないようにしているのが少しもったいない。心理学の研究に対する教育社会学による検討、教育社会学の研究に対する心理学による検討が行われる機会はあまりないため、貴重な研究であるとも言える(学術誌の投稿論文における匿名の査読では行われているかもしれない)。 
 3名の教育社会学者が緩やかに共通してもっている問題意識(それぞれにまったく異なる論点提起も行われている)の一つは、結局のところ教育を受けることよる「成長」は限定的であり、その「成長」に寄与するものの過半は学生の出身階層ではないかという懐疑である。

 教育社会学では、この理念と現実の乖離を重く受け止めて、現実の社会がどの程度理念と離れているのか(あるいは近くなっているのか)を分析する試みが長年なされてきた。その際に、基本的な分析の観点となる一つが、OEDトライアングルである(図表2-1)。OEDトライアングルとは、図表2-1に示したように、本人の出自(Origin)、本人の教育成果である学歴(Education)、そして、最終的に到達した社会階層(Destination)の関連を示したものである。ポイントは2つである。一つは、その本人の出自は教育と到達階層に影響を与えているということである。もう一つは、教育成果としての学歴は当然ながら到達する社会階層に影響を与えるため、出自の効果は教育を経由(媒介)して、本人の到達階層に影響を与えるということである。本調査の文脈に当てはめて考えると、本人の資質・能力といった教育成果が大学卒業後の職業生活(Destination)に影響を与えているとしても、そもそもその教育成果(Education)は当人の出自(Origin)に影響を受けていることが考えられる。また、その教育を媒介した効果だけでなく、出自(Origin)はより直接的に当人の到達階層(Destination)を規定している可能性だってあり得る。 第2章 pp. 35-36

 つまり、家庭環境が高校での学びに影響を与え、家庭環境が大学での学びに影響を与え、家庭環境が社会人としてのスキルにも影響を与えているとすると、高校での学び、大学での学び、社会人としてのスキルの3つの間に因果関係がなくても、データとしては単純な相関が出てくるということです。第4章 pp. 83-84

 もう一つ、当初のサンプルが大学進学者の多い高校に限定されている点にも注意が必要です。これは、社会的格差の影響が過小評価される可能性があるということです。高校の大学進学率の状況は社会階層との関連があるということが、長年の教育社会学の研究で繰り返し確認されています。したがって、進学率の低い高校がごっそり抜けてしまうと、社会階層の分散の幅が小さくなるわけです。そうすると、データ分析では社会階層の影響が出にくくなることが予想されます。 第4章 pp. 85-86

 あくまでも私の理解ですが、先生は、学生が自分自身で選択する、自分自身の力で学びをコントロールすることができる大学時代にこだわっていたのだと思います。これはまた別の課題として取り上げるべきですが、大学時代までは、どうしても階層の影響が出てきてしまう。そうしたなか、高校時代までに学習習慣を身に付けろというのは、酷なことでもある。 第5章 p. 107

 責任編集者はこれらの問いに対して読み応えが十分なガードとなる応答をしている。他方、二宮は教育社会学からアプローチをする場合には階層論に加えてメリトクラシーに対する懐疑もあったほうが良かったようにも思える。従属変数として「主体的な学習態度」、「組織社会化」、「資質・能力」などが挙げられているものの、「強い学習者」「強い社会人」「強いビジネスパーソン」を前提として個々人がリーダーシップ力、他者理解力などを「成長」させなければならないという規範に対する検討も必要である。こうした規範的検討は二宮が苦手とする領域であってないものねだりになってしまうものの、「ありのままでよい」「働いたら負けかなと思ってる」といったオルタナティブな生き方のような別の規範を射程に入れた考察を行うという課題が残されているはずである。あるいは、一人の個人としては確かに成長がゆっくりのんびりになってしまう項目があったとしても、共同体の中でそれを補うような視点も重要である。

パラドックス定数第39項、第41項、第45項の感想

pdx-c.com
 劇団「パラドックス定数」のDVDを複数購入した。とりあえず「第39項 731」、「第45項 Das Orchester」、「第41項 5seconds」の順番で視聴した。この3作には共通するテーマがあるように見えた。
 「第39項 731」はそのタイトルのとおり巨大な組織であった関東軍防疫給水部(=満洲七三一部隊)を対象として、その戦後を創作したものである。作中では戦時中の人体実験と生物兵器の開発、戦後における連合国軍最高司令官総司令部の職員との取引、帝銀事件に関する疑惑、民間血液銀行などについて言及される。これまでノンフィクションのみならず、小説や演劇で何度も扱われてきたテーマである。戦後に血液銀行が業務を開始してからも「黄色い血」や薬害エイズ事件といった問題を引き起こしてきた。七三一部隊が語られる際、日本陸軍関東軍のあまりにも残虐で非道な行為や、軍医であり部隊の責任者であった石井四郎の性格に焦点が合わせられることが多い。この作品はその着眼点を踏襲しながらも、「マルタ」の扱いに関与した複数の軍医たちのせめぎ合う〈専門職〉の論点を追及している。言葉にしてしまうと陳腐ではあるものの「たとえどのような手段を用いても医学の進歩に貢献するべきだ」という主張と、それとは相容れない主張があり、その相克の状況に対して戦後における旧軍の軍医たちの地位、名声、経済的状況といった課題―たとえば、出身大学である旧帝国大学に復帰して講座のポストを得られるかどうか―が纏わりついている。〈専門職〉とは何であるのかという問いを突き付けているようである。
 「第45項 Das Orchester」は第三帝国時代のとある管弦楽団が国民社会主義ドイツ労働者党(=ナチス)から派遣された職員(官吏と言うべきだろうか)による高圧的な指示に対して苦渋の決断を迫られる経緯を描き出すものである。楽団内部のヒエラルキーに由来する様々なトラブルを挿入しながらも、数多くの楽団員をその出自を理由として退所させること、演奏中に党の旗らしきものを掲げること、地元の自治体からの助成金を打ち切ることなどのナチスから寄せられる命令へその都度対応する様子が演じられる。この光景の一部はなんだか現代のどこかの大学と国家の関係のようでもある。私が注目したのは〈専門職〉としてのオーケストラ関係者の矜持である。ナチスが「クニ」を愛しているのと同じように、オーケストラ関係者も優れた音楽を長い間育んできた「クニ」を愛している。しかし、その「クニ」が意味するものはけっして同じではない。楽団員によって演奏されるワーグナーナチスのためにあるものではなく、いつかのどこかの政治家や官僚の意思とは関係なく民族や歴史をはるかに超えてゆくものである。古くから存在する音楽についての〈専門職〉と近代以降になって遅れてやってきた「国民国家」、その中でも特に「クニ」の成立に時間のかかった第三帝国との対峙ともいえる。
 「第41項 5seconds」は1982年の日本航空350便墜落事故の際の機長とその弁護士をそれぞれ模した二人芝居である。この事故については当時、「逆噴射」や「機長、やめてください」という表現が流行したこともあって覚えている方も多いことだろう。史実において機長は今の言葉で言う統合失調症を患っていたとされるとおり、劇中においても弁護士との会話があまりかみ合わない。そのコミュニケーションの困難に関して弁護士の力量不足を厳しく責めるほどである。〈専門職〉としての弁護士の仕事はそのような会話の中から整合性のある箇所を見つけ出して、機長に刑法上の責任能力がないことを示して無罪を勝ち取ることである。しかし、あろうことかこの筋立ては〈専門職〉としての機長の思考と矛盾することになる。たとえ無罪となったとしても、機長はその病気の性質上復職することはできないだけではなく、長い闘病生活を強いられることになるはずである。他方、機長は無罪であるならば、当然すぐに復職を果たして、これから新しく導入される機材にも慣れて乗務員のリーダーになると考えている。それこそが運航乗務員の反省と使命のあり方なのである。その仮想のキャリアに対して弁護士が介在する余地はまったくない。「仕事に戻って恩返しをしたい、新しい飛行機に招待しますよ」と弁護士に繰り返し呼びかけるのである。心神喪失者・心神耗弱者の行為について定めた刑法第39条もノンフィクション、小説・演劇において、とりわけ痛ましい事件を題材にするときによく用いられる主題ではある。本作はそこに2つの〈専門職〉による相互の葛藤を絡ませて描いたものである。
 〈専門職〉は社会学、教育社会学が研究対象の一つとして扱ってきたものである。医師、法曹、学校教諭を対象とすることが多かったように思われるものの(学校教諭については学問固有の立場から異なる見解が示されることもある)軍医、音楽家パイロットといった対象についても検討の余地が多く残されているのだろう。