電車、駅、コーヒー屋と至るところにいる読書する人々は、ただ時間が流れるのを待っているように見える。死ぬのを待っているような不気味さがある。永遠のオブザーバーの途方もない哀しみと言おうか。
仕事柄か、シンクタンクの連中と時折接する。彼らは知性で仕事をしていることになるが、発言の全てが2次資料の暗唱に思える。言葉が溢れ、そのネチネチしたしつこい言葉は不要な読書の結末と思える。それだけ調べたにも関わらず、てめえは何も行動しようとしていないその姿にヘドが出る。


一方、税金で営なまれる団体の言葉も重い。その市場から締め出された精神性から編み出す言葉の羅列にこれまた淀みを感じる。貨幣の川に放り出され、その淀みのなさに身が浄められる。


光熱費の算出は、生きることを貨幣化するようで思いのほか楽しさを感じる。

最近、引越しをした。60の手習いならぬ、30の一人暮らしである。今、必要なのは静けさだと思い、決意したが隣人が五月蝿く、なかなか参っている。中東にいた時もほとんど野営で暮らすような生活だったので、東京の快適さに舞うような気分である。

さて、今日は医療建築フォーラムに参加した。この類の〔アカデミック〕な集いは主催側のエゴにも思えるが、行った甲斐はあった。医師やれ、サラリーマン建築家やれ、看護師やれが何やら制度に悪態をついて、難しい顔をしている。質問のある方いらっしゃいますか、シーン。日本風景によく見られる静寂。あの静けさは中々好きだ。既成権力に対する宣戦布告と行った挑発的な気分なのかもしれない。

日本の公共事業のプロポーザルでは、提案者の実績が強い制限となり、出てくるアイデアは実質、どれも同じだ、とし、小さな事務所らの軽快な案のほうが時に制度や会社の柵から解放された良案となることもあるのではと思うとした。実施する力が色んな意味でない、行政は嫌がる。そこを変えなくては行けないのでは?との指摘があった。友人とアアルトの仕事を訪れたとき、村役場の提案を見て、出来たものは鋭くモダニズムだが、そのシンプルで素朴な提案書にじわりときた。



本当の意味で頭を使わなくなり、七年後にせまる年寄りの夢をなすり付けられる我々は、果たして一人暮らしを出来ているのだろうか。仕事もほとんどが政治家頼みの腐敗した世界を知るにつけ、なんとも歯痒い。

ここ最近、神戸方面へ出張が多く、昨日は戻ってきて東京で飲み会があった。
さまざまな人間と会うと生きるモデルの多様さに驚く一方で通底するものに辟易とする。


突然銀行を辞めマレーシアへ留学した女性や
日本で翻訳助手を行っている妊娠中のカナダ人と日本人官僚の夫婦
北京へ留学していたメーカー営業の女性は来月から上海へ行くというし、
外資系コンサルへの転職活動に勤しむ男性
トップベンダーの営業をしながら英語に磨きをかけ、これまた外資系コンサル転職を目指す女性
フランス語、英語、日本語、ロシア語を駆使するウズベク人の文学部院生
ロボットプログラミングの博士課程と並行して研究室助手するマレーシア人
韓国の大学へ留学していた日本企業勤めの女性(実は何者かよくわからないが)
国連や世界銀行の道へ進みたがっている同僚


とまあ、どっと疲れが出るような輩ばかりである。
こういう席は以前にも似たような連中と出くわしたが、頼んでもいないのに外国の話をしたがる輩が多くてかなわん。
さらにフランス語で話してみようなどと、よせばいいのに、しゃべりはじめる。きみはいい発音をしている、ウィときたもんだ。こいつはいい、傑作だ。こいつらは、きっと夢遊病かなにかを患っているんだろう。
FBと同じだ、いいね!といってもらうことが当たり前だと思っている。
大抵この類の連中はワインやヨーロッパのビールが好きだ。マラソンなんかもやっていたり、週末は自転車や山登りとなる。
みな、鼻持ちならない顔つきだ。ゆで卵に目と鼻と口がくっついているような顔つきだ。