雫...shizuku


なんすかね。なんか書こうかなとかそんなんでかいてみたんだが、メンテ中だったんで、ひとまずmixiにうpして、暇になったんでこっちにうpして整理してみる。

一昨日あたりからものっそいヴィジュアル系を聞きたくなっていたので、今日ついに雫...shizukuの『月が闇に翳るとき・・・』を引っぱり出してしまったです。
個人的に冬はLAREINEの季節な気がするんですが、犬神サーカス団の曲に酷似したリフが使われている曲が入っているのでついつい。
季節に附随するバンドのイメージとしては、
春:Raphael、メリーゴーラウンド
夏:Plastic Tree
秋:NeiL、Pierrot
冬:LAREINE、Davidノ使途:al
こんな感じです。なんつーか、わりと『その季節の曲』とか『初めてこの季節に聞いた』とかそんな話しの陳腐な連想です。


私の聞くヴィジュアル系は1992〜2002年の間に存在したバンドの物がほとんどで、割かし満足の行くライブラリーを持ちつつ未だに何か見つけると購入しています。 何がそんなに良いんだか、分析はしてみつつ自分でもよくわかんないんすけどね。
そんなこんなでなんの脈絡もないままにわたくしが初めて購入した中古CD『月が闇に翳るとき・・・』とこのCDを生み出してくれたバンド雫...shizukuのレビューとかしてみようと思う。

・雫...shizuku
バンドの歴史なんかは詳しいサイトがあるんでそちらにお任せ。このバンドはなにが良いって、別に良い所はない。つーか歌詞が良いとか曲が良いとか、そんなん個人的すぎて書きようがない。長所をあげるとしたら、音源を出し始めた当初はバンドとして何を表現していくか定まってなかった感があるんですが、活動していくうちに雫...shizukuとして何を表現したいのかがかなりソリッドになり、後期はかなり雫...shizukuにしか作れない・作らないであろう作品になっていった所ですわ。
雫...shizukuのいた時代はどんどん耽美がもてはやされる流れにあったです。ゴシック、ロリータ、デカダンス、グロテスク、発狂、ロマンス、そんな感じ。そんなメインストリームの要素を統合すると、要はこいつら個人の内面の精神世界の話なんですよ。そういう楽曲を提示されると、ヴィジュアル系の主な市場である廚なオーディエンスは『解るわ!アタシ解るの○○様の気持ちが!!そしてアタシを解ってくれるのは○○様だけなのよ!(以下略)』みたいなかんじで勘違いするんです。でもって売れるんです。
いやね、おちょくってんじゃないの。だって私もそうだし。
そういう内面シフトなバンドが寡占状態のヴィジュアル系の中で、雫...shizukuの表現が指向するのは内面でなかったんです。後期の彼等が表現したかったのはそれと真逆の世界、外の現実の世界だったんです。まぁね、戦争とか環境とか、こっちが書いてるだけで赤面なんですが、それにしても雫...shizukuはかなり特異的に頭を高く擡げて様々なものを見て、それを表現しようとしていたバンドです。
とはいえ、こんな分析なんて今突発的に文章化しているだけなんで、こういうことを考えるまでもなく雫...shizukuが好きです。だってかっこいいんですもん。時々はっとするような曲があるし。えへへ。好き。


・『月が闇に翳るとき・・・』

1:月が闇に翳るとき・・・
これはプロデューサーの作ったインストの曲。クレジットにMr.SASAKIとしか載っていないんですが、この人が雫...shizukuと仕事をしたのはどうやらこのアルバムまでのようです。でもって結構良いんですよねこの人の仕事。雫...shizukuと良く合っているんです。湿っぽい暗闇のにょろにょろした嫌な感じがかっこよくて、なぜか焦燥感が煽られる曲。

2:終末
堕天させられてしまった何かが突然世界が終わっていく様を見せられながらも何もできない上に結構他人事の香りがしている曲。 見せられつつもこの人、期せずして存在自体が世界の崩壊を招いているような気がします。
でもって世界を壊しちまった後にこの人も滅びるんだろうなぁ。

3:DISTURB
全体に記憶と現実がフラッシュしながら交錯しているような気、にさせるような効果の入った曲です。 内容的にちょっとお高級なことをいうとポーのあまのじゃくを思い出す感じ。ひとまず下世話でエロくてヘタレなちんぴら臭い。

4:サイレン
これは望郷の歌。この街の人達はみな何処かの何かに帰れればきっと今より良いだろう、みたいなことを考えてるんだけど、その故郷的な何かなんてないんですよと。 おそらく望まれている『鮮やか』な故郷は、『サイレン』と共に『悲しみの果て』なんです。そしてそれは今いるここなうえに、壊したのは君達だから帰りようがないよね。

5:傷跡
この曲に関しては思い入れが凄いです。多分引くぐらい山積。
初めて聞いたのは友人から借りたTHE END OF THE CENTURY ROCKERSに入っていたリミックス版の方なんですが、そのカセットテープを借りパクしました。この曲が手放せなかったので。まぁその友人にはヴィジュアル系バンド大集合!みたいなテレビ特番の入ったビデオ貸しっぱなしだし、しかも10年前の話なんでうやむや。 とにかくそのテープに書いてあった曲名とバンド名を覚えておいて、偶然入った中古CD屋でこのミニアルバムを買ったと、こういうわけです。
内容は単純。戦争中に恋人と再会を約束して離れ、『傷跡を残したまま』僕が約束の場所に帰ってみると恋人は死んでいました、という話。もうフラグ立ち過ぎ。
でもね、凄く良いんですよ。明記はされていないんですが、戦時中に約束を交して終戦後に再会しているのがちゃんと設定されている所や、後悔して悲しいけれども記憶はどんどん薄れていくとか。
思い入れ強過ぎて、これ以上は恥ずかしいっすわ。

6KIZ-ETU〜あなたは闇人に包まれて〜
よくあるライブ用盛り上がり曲。
襲われちゃったね君。こんな気分かな、こんな気がしていると思うんだ。
恐いでしょう。大変だと思うな。
でも助けてあげられないんだ。
だって襲ってるのは僕だもん。

 ヴィジュアル系のごく個人的定義

そおゆうわけでごく個人的に考えるヴィジュアル系の定義の話です。
これはもうごく単純な定義で、『あるコンセプトの元に表現行為を行うバンド』ということになります。
これを解釈した上でごく個人的に厳密に定義した場合、私の中で『ヴィジュアル系』とみなされるバンドはMALICE MIZERのみです。


MALICE MIZERというバンドには、まず『人間とは』というバンドの存在意義となるコンセプトが存在しています。つまり、軽く逆説的ロジックになりますが、MALICE MIZERというバンドとはメンバーがあるコンセプトを表現するためのツールなのです。
そこからMALICE MIZERというバンドが『人間とは』というコンセプトを表現するために様々なコンセプトが派生し、それを表現するために楽曲や衣装やメイク、プロモーションビデオ、ライブといった二義的ツールが発生し、我々オーディエンスはそれらの二義的ツールを鑑賞することによってMALICE MIZERというツールを鑑賞し、最終的に『人間とは』というコンセプトを鑑賞しているわけです。


ここまでMALICE MIZERを持ち上げるなら、もう芸術家とか言ってしまって良いのではないか、とか思い至ったりしますが、そうでもないんです。あくまでもMALICE MIZERは芸術家や芸術集団ではなく音楽を活動の軸にしたバンドなので、これはどうみてもどう考えても『ヴィジュアル系バンド』の域を逸脱できないのです。


そしてMALICE MIZERと先にあげた『あるコンセプトの元に全ての表現行為を行うバンド』
という定義から一般的にヴィジュアル系とされているバンドをもう少し解題していきます。


といったところで今回の評論はお開き。
だってロジカルな思考力が続かないんですもの。
後日に続きます。
ついでにいうとなんだか高邁な感じになってきましたね。
根が高慢な人間なんで実際こんなもんでしか物を語れないんです。
アハハアハハ。

ヴィジュアル系ってなんだ?

 性懲りもなくまたヴィジュアル系の話です。BGMはKlein Kaiserのfreezaです。なんですか?そうですよ。Davidノ使途:alも好きですよ。衣装及びセットに、自分達の表現したい世界観よりもバンドが先読みした受け手側の嗜好や期待を優先させる、ジャニーズ系ヴィジュアルバンドの始祖だと思います。ライブ中に頭振り過ぎてズラ吹っ飛ばしたミサ様が好きなんです。そこから開き直ってズラ廃止に及んだあたり神ですね。ぱっと見B-boy、でもヴィジュアル系。彼の声と楽曲はことごとく私のツボです。


 ところでヴィジュアル系ってどういう範囲のくくりなんでしょう。
 『ヴィジュアル系』という言葉はX JAPANのHIDEが自分達の形容詞として提唱したものです。そのあたりから1化粧 2凝った衣装 3バンド形式 4耽美・暗黒的な楽曲、これらの要素を持つアーティストが増え始め、ヴィジュアル系というジャンルが育っていきました。まぁこのさきのヴィジュアル系の歴史やバンドの勃興は省略するとして、ヴィジュアル系の定義って存在しないんですよね。
 アーティストも受け手もヴィジュアル系を自認している場合、アーティストは否定しているが受け手はヴィジュアル系だと思っている場合、アーティストの自認に対して受け手の間でも評価が割れる場合。私が一番ひでーなーと思ったのは、バラエティ番組に出てきたちょっと顔の良い民間人の若い男性のことを「アンタヴィジュアル系やな」と言っていたことです。
 ここで引っぱりだしたいのが、80年代のバンドブームとTV番組『イカス!バンド天国』(イカ天)です。この時期にバンドブームという潮流に乗ってブレイクしたのは、たま、X JAPANBLANKEY JET CITY筋肉少女帯等もうジャンルとしては何の統一感もありません。とはいえ、これらのバンドはなべて80年代バンドブームのバンドという括りを持っています。これは、各ジャンルの間にグラデーションのようにさまざまなポリシーやコンセプトを持つバンドが存在したうえで、この時代のバンド及びバンドマンの目標としてイカ天を始めとするバンドブームを生み出しているメディアに乗るという目的があったからです。つまり、あるバンドがバンドブームの時代のものであると認識されるのは、そのバンドがイカ天に出たから、あるいは出たかったからなのです。
 これをヴィジュアル系に適応させてみると、MALICE MIZERも Laユcryma Christiも FANATIC CRISISも SHAZNAも、一アーティストとしてそれぞれは絶対無二の存在ですが、この四つのバンドがヴィジュアル系とされるのはヴィジュアル系バンドを商品としていた産業にその商品(原料)を供給していたからです。具体的にはSHOXX、Vicious、M-gazetteなどの雑誌、Like an Edison、自主版倶楽部、Brand X、Third StageなどのCDショップなどがあげられます。(関東周辺情報ですが)
 つまりヴィジュアル系とは、音楽という芸術作品を経済的に流通させるために産業側から作られたある種のブランドです。ただ、物品に付与されたブランドとは違い芸術作品はそれ自体に解釈の幅があるので、ブランド自体の範囲も音楽を受け取って解釈する個人によってさまざまな形態を持ちます。これによって、ヴィジュアル系というブランドが漠然とした括りとなっています。
 ヴィジュアル系がファジーな括りである理由は、ヴィジュアル系が音楽であるから、芸術作品であるからです。ヴィジュアル系とは何かという議論は、芸術作品を享受する最小のユニットである個人で行い、個人で決定するものなのです。

『日本以外全部沈没』

 を見てきました。いやぁ、大好き。どれくらいかというと、ほぼ一年半ぶりに映画館で映画を見たのにケツも腰も痛くならなかったくらい。久々に見知らぬ人々同志が心を一つにする瞬間を味わいました。以下に粗筋を。

 主人公はおっぱいばいんばいんのテキサス娘と結婚したイケ面童顔で背の低い日本人のマスコミに勤めるサラリーマンおそらく20代後半。同僚といつものバーでクダをまく。曰く、「俺達のたまり場だったのに、最近外人大過ぎ」「総理もいるしな」
 各国連常任理事国元首(除フランス)と事務総長、韓国首相、ハリウッドスター達がバーをうろつく。中国と韓国は日本国総理大臣安泉の腰巾着になっている。筒井康隆が葉巻きをふかしながらあらわれ、アーノルドシュワルツェネガーともう一人のハリウッドスターに「おい君たち、100円やるから何か芸をやりたまえ」。狂喜するハリウッドスターは芸をするが、お座敷芸にもならないレベルなので筒井康隆はそれぞれに10円と5円を賜り、悠々と態度でかいまま去る。
 最初に沈没したのはアメリカ。テキサス妻大パニック。定員70人の飛行機に4000人のアメリカ人が乗り込んで墜落したりする。ピンチは人をお馬鹿にしますね。大統領はエアフォースワンで日本に向かい、その中で政見放送を行う。「俺はアメリカだしアメリカは俺だし、アメリカのために俺は国外に行くのよ。みんなごめん。大変遺憾。」みたいなことを喋くっている最中に、バニーガールが大統領に水割りをサーブ。大統領は尻をひと撫でし、「ごめんね僕のうさちゃん、これが終わったらム・フ・フ」「アーハーンダーリンアイムウエイチングユー」みたいなアイコンタクト。こんな感じで亡命してくる。
 
 この映画、何が凄いって要点の抽出を行うセンスが高いです。モブや特撮やCGは思いきりチープに徹しているかわりに、実在の誰かが本人らしく見えるためのポイントや、生活とか感情とか動作のフォルムをしっかりとってセンス良く誇張しています。つまり現実の物真似のクオリティーが高いので、そこに乗せられた非現実な設定やエピソードが安定して生きてくるんです。
 例えば先述のテキサス妻がGAT(Gaijin Attac Team)に身分証を見せるシーンがあるんです。すっげーきたねーカタカナで書かれた名前は『キャサリン・コーマン』。単純に面白さを出したかったら、毛筆で達筆に名前を書いてもいいんですよね。たどたどしい日本語を使う外国人妻が字だけ達筆、みたいな。でもきったねー字なんです。これはリアルですよね。でもここをリアルにすることで、非現実的な名前のマンコが生きてくるわけです。
 まぁ理窟はいろいろありますが、良くできたいい映画でした。それでめちゃくちゃ面白い。なんせキムジョンイルがかっこいいですから。今私は劇中でルーカス監督が着用していた『タバコを吸う女は人類の敵だ!』と大書されたTシャツを着用しています。

某友人とブログの話

 先日友人と友人の友人で仲良くなったオタクの友人と遊んだです。そのオタクの友人とはちんことまんこ交換してぇとか大抵汚い話をしているんですが、四方山話すうちに何かの弾みで「そういやブログつけてる?」と。ほう意外な話題、と思いながら先と先々の雑記に書いたような事を話したら、奴も同じようなことを考えてブログをつけていると話してくれました。
 奴も目の前の便利な箱の中は情報整理が楽だ、と考えたみたいで、趣味の整理としてブログ及びHPをやってるそうです。どこにも誰にも知らせずにちまちま書いていたら、それなりに固定客は付いたと。へえぇぇ。面白いっすね先輩。別にそれまで何かそういう話をしていた訳でもなく、それでもこうやって同じようなことを考えるやつが友人だったっていうのがちょっと嬉しかったというどうでもいい話。

 ちょっと補遺なんだが、昔一つの小説を書いて、自分としては最高傑作だと思ったですよ。日本語も構成も良くできたし、書きたかったことも精一杯出せたんですよ。今思い返しても、ぴよぴよしているクソ餓鬼が良くやったと思う。アイスの一つも奢ってやりたいって思います。
 でもそれから暫くして、偶然自分のやりたかったことをもっと明確に形にしていた本を読んじゃったんですよ。もう凄いショック。だって自分の考えていることってこの世で唯一独尊のものだと思っていましたから。しかしそうじゃなかったんです。自分はこのように生きていこう、と思っていた信念とか理想が根底から崩壊しました。だって、自分はこの人と考えてること同じじゃないか!それって私の存在は別に私でなくても良いってことか!?じゃぁ誰かのまたは何かのコピーである私って必要ないじゃないか!!
 とはいえこの乖離に納得した上で生きていたかったので、必死で考えました。何物かのコピーだった自分の個性って一体どういうものだろう。
 そこで考え付いたのが、個性は多種多様な素材のモザイクでできている、という理屈です。誰かと共有した体験は同じタイル、誰かと同じような体験は色や形の似たタイル、しかしタイルが集合してモザイクとなった時に作られる絵柄は人それぞれ異なったものとなる、という話です。そして相同なタイルが存在するからこそ、他者とのコミュニケーションが成立するのではないかと。ただ総体として同じ集合にはなっていないから、その違いが個性の差異になっているのではないかと。
 個人的にはわりと納得しているんですが、如何せん脳足りんなんですぐに忘れちゃうんだけど上記のようなことがあったんで久々にしっかり思い出したというメモ。

ヴィジュアル系が好きだ

 そうなんです。ヴィジュアル系が好きなんです。といってもバンギャ(もうオバンギャか?)ではないし、服がゴスロリなわけでもないし、球体関節人形とかも興味はないし、フランス語もドイツ語もできないし、バロック文化もスルーだし、コスプレイヤーでもないです。ただ、所蔵しているCDの九割八分は1996年から2000年前後に発売されたヴィジュアル系バンドのもので、未だに普通に鑑賞しています。最近ようやくRaphaelのLILACを買いました。ちなみに今はGuniu ToolsのOTHER GOOSEを聴いています。次はメリーゴーラウンドにしようかLAREINEにしようか迷ったあげく、結局LAREINEのLILLIE CHARLOTTEにしました。はい、かけかえました。LILLIE CHARLOTTEは短いので、次はTHE END OF THE CENTURY ROCKERS2の予定です。THE END OF THE CENTURY ROCKERS2の中では呪麗の聖域-サンクチュアリが好きです。
 ちょっと前までは友人が来宅した際にもヴィジュアル系のCDをかけていたのですが、最近は止めました。酷いから止めてくれという数多の友人達の懇願が理由ではなく、好きすぎて会話のBGMにできないからです。

 どうしてこんなに好きなんでしょうか。
 まずは年代が考えられます。丁度私の10代前半は、ヴィジュアル系四天王(MALICE MIZER,La'crima Christi,SHAZNA,FANATIC CRISIS)がぶいぶいいわせていました。思うに、10代前半というのは何かの作品を受容するための下地が形成され始め、ある程度趣味に合致して接触した最初のものに刷り込みを受けるのではないでしょうか。私が初めて聴いたヴィジュアル系の音源はMALICE MIZERのmemoireでしたが、『私の求めていた音楽はこれだ、これを聴くために今まで生きてきたんだ』と思って歌詞を手書きで書き写し、制服の内ポケットに入れて持ち歩いていました。音楽の他には純文学、山本直樹、ガロ、丸尾末広、セックスに出会い、これらも未だに大好きです。
 ここで考えておきたいのは、当時から好きだったもののほとんどがサブカルチャーに属するものだったということです。何かを好きになるには、そこにあるものを直球で愛することが必要ですが、長くサブカルチャーを愛し続けるにはもう一つの能力が必要となります。それは、一周したところから愛する能力です。これは俯瞰した視点ではありますが、距離を取っているのではなく、作品やジャンル周辺の状況(信者の電波な行動や、アーティスト本人のおいた等)をひっくるめて愛することです。この回りくどい愛し方をする性癖も、私が未だにヴィジュアル系を愛し続けている理由の一つでしょう。
 例えば某耽美系バンドの某耽美系メンバーが某新興宗教幹部でなおかつスカルファック可能なくらいのアナルマニアだったとします。それでもいいんです。バックグラウンドがすっぱ抜かれてバンドが干されたとします。それでもいいんです。彼が素敵な作品を創ってくれたから、そのバンドが好きだとか彼が好きだとか楽曲が好きだという気持ちはなくなりません。例えば好きな曲が有名曲パクリまくりのパッチワーク曲だったとします。それでもいいんです。だって私はその曲が気に入ってるし、そんな曲が世に出たということ自体も面白いから。つもりこのルートを持っていると、作品の受け手としての許容量が格段に増えるわけです。まぁ最初からこうやって回りくどくやっていたわけではなくて、さすがに若いころはド直球でしたよ。
 

 以上が目下の所分析した『どうして私はヴィジュアル系が好きなのか』になります。色々言葉足らずですが、なぜ一周したところから愛するようになったのか、ということに関しては考え出すとお育ちなんかが関わってくるのでここでは発表しません。
 ところで最近の悩みは、好みの時期のバンドの音源は、そろそろ中古市場からも消えつつあるということです。

 水戸芸術館現代美術ギャラリー『ライフ』展 (原画とインスタレーション)

 会期:2006年7月22日から10月9日
 
 出展作家:今村花子、岡崎京子、川島秀明、齋藤裕一、佐々木卓也舛次崇、棚田康司、西尾康之ハスラー・アキラ、HEARTBEAT DRAWING,SASAKI、日野之彦、山際正己、吉永マサユキ


 展示内容:

お金がなくてパンフレットが買えなかったので、記憶によるものです。一部嘘かも知れません


 展示概要:入場してすぐにほぼ等身大ハルナと山田君。キュレーターとしてはこれで『ライフ』の世界へ引きずり込む意図だったようです。もう連れを無視してハルナへダッシュ。身長160cmの私より少し小さい感じだったので、おそらく150cmくらいでしたね。入場後一分未満でオタクスイッチオン。リバーズ・エッジの展示は八番目だったので、そこからはぼちぼち他の作家の作品を眺めたり、森村泰昌スペシャトークを聞いたり。
 岡崎京子の展示は、おおまかに言うと長方形の廊下的なスペースでした。前半三分の二はリバーズ・エッジ、後半三分の一はチョコレートマーブルちゃんという配分でした。入り口右手壁面にリバーズ・エッジ単行本159・158Pを引き延ばしたものが壁面にプリントされ、壁面のプリントが終わったところからリバーズ・エッジの扉絵。左手にはリバーズ・エッジ単行本表紙原画から始まって、『CUTIE』やリバーズ・エッジ原稿とリバーズ・エッジ扉絵、これでリバーズ・エッジゾーンが終了して、チョコレートマーブルちゃんへ。
 右手に原稿が展示され、ここは「お花畑に行こうよ!」というシーン。原稿を見てから右手壁を見ると、単行本74・75Pの聳え立つ団地。正面(出口横)の壁面に84・85Pのそらと『おはよう』『こんにちは』。台詞を読み進んで左手壁を見ると、70・71Pのお花畑で超幸せそうな二人の絵。



 感想:『ライフ』展全体としては、見せたいものと見せているものがかなり一致した良い展覧会になっていた。目当ての作家があってもなくても、参加作家が一定の実力を持った上に伝わりやすい展示をされているので、双方満足できるものとなっていた。
 岡崎京子の展示は、二作品に絞り込んだ上でほとんど原画自体の展示となっていたリバーズ・エッジインスタレーション的に展示されていたチョコレートマーブルちゃんと展示方法に減り張りをつけることにより、スペースと展示内容が程よいバランスになっていた。リバーズ・エッジではハルナが卑怯であったり優柔不断であったりする部分は展示されておらず、またチョコレートマーブルちゃんではストーリー展開を攪拌したインスタレーションがおこなわれ、展示室全体が岡崎京子作品の登場人物達が妄想及び希求して手に入れられない「南の島」のようであった。