生活:いまさら

これまでもずーっと、世界中で、日本中で、

毎日のように人が死に、殺されている。





“誰かのために”という思い自体、傲慢であることを意識しないといけない。

祈ることも含めて。

誰かのためには結局自分自身のためなのだから。

誰かのために何かをしたいという自分の欲にしたがって行動しているだけなのだから。

見返りを求めてはいけない。結果だけを求めてはいけない。

他人にまで同調を求めてはいけない。

傲慢だと自覚した上で、

できるかぎり誰かの気持ちや誰かのためを考えた上で、

何かをする。何かをしない。

すべては自分に関わる問題。

自分に繋がる問題。






ナチス共産主義者を弾圧した時、
共産主義者でない自分は行動しなかった。
ナチスは次に社会主義者を弾圧した。
社会主義者でない自分は抗議しなかった。
ナチスは、学生やユダヤ人に弾圧の輪を広げ、
最後に教会を弾圧した。牧師の自分は立ち上がった。
時すでに遅かった。
抗議するのは誰のためではない、自分のためだ』

映画:ソーシャル・ネットワーク

映画『ソーシャル・ネットワーク』を鑑賞。





これを観た人たちがソーシャルメディアについて語ろうが、
コミュニケーションについて語ろうが、
デヴィッド・フィンチャーについて語ろうが、
サントラのかっこよさについて語ろうが、
賞賛しようがディスろうが、
そのすべてが結局Facebookの宣伝になるという仕組み。
完璧な宣伝映画。
(オフィシャルには法廷記録を元に、Facebookの指示を無視して勝手に作ったとのことだけど、そんな無茶苦茶通るわけがない)
そして実際に素晴らしい宣伝効果があったと思う。
思わず語らずにはいられない、
それだけの魅力を持っている映画だったからだ。





思わず本作について語りたくなる理由、1つ目。
それはすべての演出が快楽的なことだ。





高揚感を煽る音楽、
観るものを切り刻むような鋭角的なシーンの数々…。





これまでのデヴィッド・フィンチャー作品のような特異な演出はほぼなかったけれど、
一つ一つの絵は相変わらずシャープで無機質で快楽中枢によく馴染むものだった。





しかし、
今回映像よりも刺激的だったのはセリフ回し。





トランシーでアシッドでトライバルなトラックを、
スキのない流れ、
飽きのこない間の取り方で聴かされてる時みたいに気持ちがよいものだった。





速すぎて踊れない高速アシッドハウスかのようなマーク ザッカーバーグのマシンガントーク
カットアップを彷彿とさせる彼とその他登場人物たちの時系列を無視した問答、
韻を踏みまくった会話、すべてにクラクラした。





思わず本作について語りたくなる理由、その2。
それはマーク ザッカーバーグを現代人にとっての完璧な偶像として描いた点にあると思う。





才能にあふれる勝者である姿は競争社会に生きる我々にとって崇拝、または尊敬に値するものだし、
孤独でナイーブな人間性、時には過ちを犯してしまうその姿には多くの現代人が共感、同情の思いを寄せただろう。





崇拝、尊敬、共感、同情。
人を虜にするスペックを完璧に備えたその偶像はまるでロックスターのようだった。





さまざまな演出に陶酔させられ、
マーク ザッカーバーグに感情移入し、同化させられたことで、
鑑賞後なんだかFacebookがとてもクールに思えてきた。神々しいとさえ思った。
これって凄まじい宣伝効果だと思う。





Facebookを流行らせようとたくさんの人が躍起になっているのを見ていてキモくてしょうがなかったが、
今回ばかりはちょっと「Facebook・・・かっこ・・・いい」と少し思ってしまった。
こんなに右脳&左脳の脳汁をだらだらと垂らされた状態で何か教え込まれたらひとたまりもない。





この映画を作るために、実際の関係者にどれだけのお金が積まれたのだろうか。
Facebookとマークを神格化するために、どれほど多くの人が口をつむんだのだろうか。





お金を使って無理矢理情報を操作し、
自分(マーク)を映画という商材にしてでもFacebookを売り込むその商魂、気概。
なんてアメリカン。
なんてフロンティアスピリッツ。





しかし、
最後に流れたテロップ「この映画は事実をもとに一部脚色しています」って、
「無料です(一部有料です)」っていうグリーノリと一緒だなーと思う。
無料なわけないし、事実のわけがない。
これから同じノリで著名人が自分のプロモーション映画を作ることが増えそうな気がする。





嘘だろうが本当だろうが情報がすべてということなのだろう。
今の時代に限ったことではないけれど。

映画:ジーザスキャンプ


映画『ジーザスキャンプ』を鑑賞。





アメリカでは福音派と呼ばれるキリスト教原理主義たちが勢力を増している。
今やアメリカのキリスト教信者の25%が福音派





福音派がなぜ勢力を増しているか。





この映画で言われていることを乱暴にまとめると、
共和党が自分たちの勢力を強化するため。






共和党福音派の幹部たちがお互いの利権を拡大しようと手を組む。

福音派の幹部たちが宣教師を使って信者たちを共和党が素晴らしい党だと洗脳していく。






大体このような流れで。






で、
その福音派の主張をこれまた乱暴にまとめると、

●すべては神が創造した物。進化論は嘘。
資源なんてなくならない。ガスも電気も使いまくろう。環境破壊もなんのその。
なにもかもイエスが再臨してなんとかしてくれるんだぜ。

●中絶反対

政教分離はナンセンス。共和党万歳。ブッシュ万歳






そして、この福音派の人たちが、
自分たちの子供を福音派に染め上げるためにすることがある。

まだ幼稚園児から小学生くらいまでの子どもたちを、
キリスト教福音宣教会ベッキー・フィッシャー氏が主催するサマーキャンプに出すのだ。

この映画はそのサマーキャンプの様子を撮ったドキュメント映画。






これがなかなかえぐい。





中絶される赤子を模した人形を子供たちに見せるなどして罪の意識を感じさせ、
不安定になった子供たちをアジり、トランス状態にさせる。
そしてすべてはリベラルが悪い。この世界のすべては神が作ったものだと教え込む。

子供たちは「ごめんなさい。もうこんな世の中は嫌です」と天を仰ぎ泣き叫びながら、
エスに許し乞い、彼の再臨を祈る。






大体こんな感じのテクで子供たちは100パー福音派の教えにずっぱまり。







大人が自分たちの都合のために、
子供から信教の自由、考える自由を奪っていく。







その様子が
小気味のよい実に淡々としたテンポ描かれていく。






作品全体に流れるそのクールなテンポが、
大人たちの無自覚さ、
洗脳することの容易さを浮き彫りにしていく。






誰も何の抵抗も示さずに、
淡々と、淡々と、
ミッションは遂行されていく。







迷うことができなくなった子供たちからは、
キリスト教のためなら死ぬことも厭わない毅然とした意志の力が滲み出ていた。






明確で絶対的な人生の目的を与えられ、
喜びに震えているその眼差しに寄った数々のカットが、
子供たちがいかに盲目であるかを鮮やかに表していた。






でも、
自分以外の何かが絶対になったら、
それはもう生きているとは言い難い。






生きるために信じるのではなく、信じるために生きる。
それはもう生きているとは言い難い。






フィッシャー氏が福音派の主張が正しと思うかどうか子供たちに挙手を求め、
手を挙げない子供たちの手を、
その親たちが強制的に挙げさせていたシーンが特に印象的。
矯正教育ここに極まれり。






でも宗教学者によると完璧な宗教的洗脳は、
“性”に目覚めるまでは難しいらしい。
“性”に目覚めたときに、初めて人は原罪を感じることができるということだ。






それまではいくら洗脳しても、
子どもが宗教を信じようとするの最大の理由は、
“ほめられたい”という承認欲求らしい。






“性”に目覚めて、
自分や他人の欲深さに絶望しなければ大丈夫ってことだが、
それって不可能すぎる。






だから自分から目をそらさず、
自分で自分を認めてあげられるような子供を育てないといけない、
断食を他人に強制しながらブクブクに肥えたフィッシャー氏を観ながらそう思った。

映画:スプリング・フィーバー


その情念は眠らせることができるの?
その衝動は飼いならすことができるの?
本当に?






ロウ・イエ氏の最新作となる映画『スプリング・フィーバー』を鑑賞。






物語の主人公はオフィス勤めの独身男性、ジャン・チョン。

彼は同性愛者で、妻帯者であるワン・ピンと不倫をしている。

ワンは本屋の主人で、彼の妻は中学校の教師をしているリン・シュエ。

リンはワンの行動を怪しみ、
探偵のルオ・ハイタオに浮気調査を頼む。

やがてルオはジャンの中に自分と同じ孤独を見つける。

そんなルオには恋人がいる。
彼女の名前はリー・ジン。
彼女は勤め先の工場長の愛人でもある。

紆余曲折を経て、
リーとルオとジャンは、3人で行く当てのない旅に出ることになる――。







登場人物たちは強烈な孤独感にずぶずぶと漬かっている典型的な現代人。

彼らは心の隙間を埋める為にいつも過剰に誰かを欲し、
相手や自分を傷つけ泣くことで、
曖昧な生を確かなものにしようとする。

彼らの想いはスクリーン上で嘔吐物のようにぐちゃぐちゃに混ざり合い、
どこへ流れ着くでもなく、
痛みを別の痛みで塗りつぶしながらさまよい続ける。







薄汚れた監獄の地下室にいるかのような陰鬱な色調、
観ているだけで呼吸困難になってしまうような張り詰めた空気感を演出するカメラワーク、
観るものの心をそこにゆっくりと沈み込めるような耽美的なサウンド







それらが、
己の情念や衝動に支配されて、
神経をすり減らして墜ちていく彼らの姿に、
強烈なリアリズムを与える。







そして、
情欲に溺れることの醜さ、
愛に対してあまりに無防備で純粋無垢な想い挑むことの愚かさを、
観る者に容赦なく突きつける。






だが、
この作品は、
そんな醜く愚かな生き方が間違っていると断罪するようなことは決してしない。

それは不可避なものである。
決壊したダムのように感情を爆発させる登場人物たちがそう告げる。

愛し愛されることは誰にも止められない。
それが人間の営みってものだろう。
上等じゃないか。
そう観る者に思わせる。







人生にはハッピーエンドもバッドエンドもありはしない。
ただただ果たしなく長い道程があるだけ。

そんな人生の無慈悲さを暗示したラストシーンを観て思う。






彼らの狂った生は、
何か生み出したのだろうか。
何か意味があったのだろうか。
いや、何もない。
でもそれが何だって言うんだ。
知ったこっちゃない。






春の嵐スプリング・フィーバー)は告げる。
誰も彼もが狂ってる。
泣きたいなら泣けばいい。
笑いたければ笑えばいい。
それだけのことだ。

映画・音楽:前野健太×松江哲明 映画『ライブテープ』

私たちが生きる日々はクソみたいに残酷。

私たちが生きる日々は光輝いている。

どちらも思い込みだ。日々はただただ過ぎ去っていくだけだ。

でも生きることになんらかしらの意味を持たせたいなら思い込みが必要で、
思い込むには想像力がいる。

前者のように思い込むのは簡単だ。
悲しい出来事は山のようにあるし、人は傷つきやすいし、弱い。
日々=残酷の方程式は簡単に成り立つ。

その方程式の中で生きるとなったら感じることに鈍くなるしかない。
心に脂肪をつけてすべての感覚を鈍らせるしかない。
それがラクというか、そうせざるおえない。

もしくはいっそのこと身を任せてしまおうか。
もう知識はいらない。意味なんかないね意味なんかない――。
もしくはガチガチに武装しようか。
負けるやつが悪い、強者を目指せ、こっちだって辛いんだ――。

極論だけど。



でも、
そういった行為自体はともかくとして(あまりいいとは思わないけど)、
その行為の理由が、日々はクソみたいに残酷っていう思い込みからくるってのは悲し過ぎるっていう話で。
せっかく生きてるんだし。

後者(日々は光輝いている)であると思い込むことができるなら、
そのほうがいいなって誰しも思うわけで、
実際そう思い込める出来事もたまに訪れ、しばらくはそう思えたりすることもあるわけで。

自分の仕事が認められたり、友だちができたり、恋人ができたり、子供ができたり。

でも悲しみや残酷さを感じる機会に比べたら圧倒的に少ない。
また上で書いたようなことを享受するには、努力は当たり前として、
なんといっても幸運が必要だ。
正直バランス悪いなぁと思う。

でも光り輝く瞬間ってのは、感じることができないだけで、もっともっとあるのでは?
というかすべてが光り輝いているでしょう。

生きてるってだけで奇跡の連続なわけで、
それだけで素晴らしいでしょう。
晴れだったり、雨だったり、歩いたり、寝たり、歌を聴いたり、口ずさんだり、人に優しくしたり、優しくされたり、誰かががんばっているのを知ったり、誰かのことを想ったり、
それだけでたまらなく素敵な気持ちになれるものでしょう。
悲しみだったり、痛みだったりも、時には愛おしく思えるものでしょう。


ミュージシャン・前野健太氏の歌は、
頭の中だけじゃなくて、血肉レベルでそう思わせてくれる。
そう思える想像力を与えてくれる。

彼はどこにでもいるような人々のどこにでもころがっていそうなありふれた日常を歌う。

怠惰にすごす恋人たち、
孤独を持て余す人たち、
どうしていいかわからない想いを抱えた人たち、
感傷に浸る人たち、
仕事に向かう人たち、
季節の移り変わり――。

ちょっと湿った温もりのあるメロディと歌声、
魂を揺さぶる言葉の組み合わせで届けられるその風景は、
身もだえするほど美しく、
なんでもない日々が、退屈な日常が、
悲しみに満ちた想い出までもが、
光り輝き、かけがえのないものに思えてくる。
自分の過ごしてきた日々を思い返して、涙さえ出てくる時がある。

ひねくれ者の私でもそう思えたのは、
歌われる人々がみなアンバランスで人間臭いから。

優しい私、
ロマンチックな私、
まっすぐに生きている私、
でも
馬鹿な俺、
自分勝手な俺、
残酷な僕、
わかったような気になってる僕――。

人間の美しい部分だけじゃなく、
歌にするにはあまりに俗っぽい部分までも淡々とさらけだして歌う。

携帯ばっかいじってるだとか、ポ○チンばっかいじってるだとか、失楽園でヌいてたとか、赤裸々に歌う。

まったくかっこつけない。
(というかそれがかっこいいと思ってる)
だから共感できる。
私のような俗物でも彼が描く美しい日々を受け入れてもいいんだと素直に思える。
そして、その俗っぽさまで愛おしく思えてくる。

ちょっと困りものだけど(笑)。



そんな 前野健太氏が主演(?)を務めたドキュメント映画『ライブテープ』を吉祥寺で観てきた。

内容は前野健太氏が吉祥寺の街を歌いながら歩く姿をワンカットで収めたというもの。

大通り、路地、横断歩道、商店街、飲み屋街、公園など、目の前に堂々と横たわる街並みを、ギターをかき鳴らしながら、歌いながら通り抜けていく前野氏。

そしてそこを行き交うのは、
前野氏がいつも描いている、私のようななんでもない普通の人たち。
きっとアンバランスで人間臭い普通の人たち。
普段はすれ違うだけで何も感じないけれど、前野氏が歌う姿を通して街ゆくたちを見ると、彼らが(私たちみんなが)十人十色の思いを抱え、日々を一生懸命生きているという当たり前の事実が浮き彫りになってくる。
そしてその事実がひどくステキだということが、
前野氏の歌と渾然一体なって一気に自分の心に押し寄せてきてちょっと泣きそうになった。

彼の歌が一番映えるのはライブハウスではなく、街中なんだな。
そこは彼がいつも歌っている風景や人々であふれかえってる。

こういう撮り方をしようと考えた松江哲明監督はすごいと思う。

ワンカットで撮っているから、歌同様にすべてがむき出し。
かっこいい部分も、かっこ悪い部分も。

BGMもなし、演出もなし。
あるのは、時に優しく時に激しく共鳴する歌と人と街だけ。



見終わった後に映画で前野氏が歩いたのと同じルートで吉祥寺を歩いた。

もうとんでもなかったね。
スクリーンごしに見た時と同じように街が本当に美しく見えたし、
行き交う人々がなんだかちょっと愛おしかった。

ワンカットで描かれた映画だから、
映画のリズムと自分が街を歩くリズムがまったく同じで、
完全にシンクロ。


映画館やライブなどでしか味わえないあの特別な感覚を、日常でも十分感じることができるんだって気付かされた。
すべては地続きなんだなと。

監督がどこまで意図されたのかはわからないけど、映画で感じた気持ちが永遠に持続するかのようなあの研ぎ澄まされた感覚は本当にすごかった。
家路に着くまでちょっとした興奮状態だった。

今は少し覚めてしまったけれど、記憶は残ってる。
この記憶は大切にとっておこうと思う。

私たちが生きている日々は光り輝いてるって思っていたいからね。