私が文フリに行かない9個の理由

本日2011年11月3日は文学フリーマーケットが開催されて、twitterで仲良くしてる人たちが出品者としてあるいは客として多数参加しました。あんまりタイムライン見てないけど多分仲のいい人達が挨拶してお話ししてそのあと飲みに行ったりとしてたんでしょう。

まあ、参加しない理由は特になくて単に家でうだうだやってたというか参加する理由がなかったから参加しなかった消極的不参加だったわけですが、そんな仲の良い人が電車で一時間程度のところに集まっているのに行かないのは不自然というか、なにかついつい何か理由があるのではないかと邪推したくなってくるというもの。

そこで思う存分邪推してみました。


1,外に出たくない

ありそう。前世が吸血鬼だったから太陽を浴びたら死ぬ。


2, 千葉を出たくない

これもありそう。一時間圏内だから一見千葉のようだけど東京モノレールなんていう意味のわからない電車に乗らなきゃ行けない場所は千葉じゃない。やっぱり千葉県は中央線快速圏内じゃないと。


3,単にお金がない

これはありそうな理由。半年以上 労働が長続きしたことがない根性なしクソ野郎ですからね。

それにこいつ「厚い本はページあたりの単価が下がるから正義」とか抜かしてることもありましたしあんまり同人誌の類を好んで買うタイプではないと推測できます。実際、知り合いが多数出品者として参加している以上、行ったら挨拶に行かなきゃだし、挨拶に行ったらなんか買わなきゃいけない気分になりそうだしで逆に知り合いが多数いるから行きたくないとも考えられます。


4, 人がいっぱいいる

これもリアリティあるなぁ。実際どんなもんか知らないけど人がいっぱいいる場所はそれだけで気分悪くなりますからね。

あんなに人をいっぱい同じく浮かんで動かして処理落ちとかしないんですかね?


5,仲の悪い人がいて気まずい

これもありそうだなー。一見、特別仲の悪い人がいなさそうな瀬見さんだけど裏でどんなドロドロした関係があるかわからないですものね。相互ブロック寝た寝ないお金返した返さない思想が合わないどんな関係があるかわかったもんじゃない。


6,何かコンプレックスがある

あー、これすげーありそうだわー。瀬見さん歩くコンプレックス図鑑だかんなー。

一番好きな村上春樹の作品はんがり焼きの盛衰とか行っちゃうタイプだかんなー。何か娯楽作品しか読まないような自分の読書遍歴に思うところがあってそういう感情を刺激されたくないから文学と名前のついたフィールドに近づかないとかすごいありそう。

そういう場所に言ったらきっとみんなが「そういえば芥川とったアレは読みましたかな?」とか当たり前のように話してるんでしょ、どうせ、怖い。安部公房庄司薫は好きだよ!


7,雨が降ってた

晴れてたよ。


8,孤立するのが怖い

kei_exさんがいるとはいえ文学トークしてたらついていけないですからね。みんなが知らない話をしてる中所在なさそうに過ごしてる自分とかなにそれ怖い。

飲み会だったら孤立しても延々と割り箸の袋から折り鶴を量産して時間潰せるけど文フリだとどうだろう。流石に本を折り鶴にするわけにはいかないだろうし、やることがない。

iPhoneの折り紙アプリでも入れようか。


9,起きれなかった

今日、9時頃には起きてたよ。



と、いうわけで文フリに行かなかった9個の理由でした。あくまで邪推なので 実際の行かない理由とはなんの関係もありません。

あとタイトルの「私が文フリに行かない9個の理由」 を最初に考えてから記事書き始めたから9個も考えるの苦労しました。

四肢切断ダブルピースを巡る冒険(序章)

書いてる途中に正気に戻った。続きを読みたいって人が一定数いたらその人のために書きます。きっと。
実のところ私は未だ四肢切断ダブルピースに対する真実を発見できておらず。この物語は真実を発見するための武器であり、戦いの途中経過を記すものでしかない。


四肢切断ダブルピースを巡る冒険

一、
四肢切断ダブルピースという言葉があります。
いつその言葉が生まれ、そしてその言葉は一体どのようなものを指すのか、それは私にはわかりません。ですがいつのまにかその言葉は少しずつ私の日々の生活の中で目につくようになっていきました。例えばそれはイラストに特化したソーシャル・ ネットワーキング・サービスの中であり、大型匿名掲示板の中であり、あるいはコミュニケーション・サービスの中で目にします。
しかしそれが一体どういうものかというとそれがとんとわからない。そういったものが存在すると語る人は目についても四肢切断ダブルピースを目にしたことがあるという人は一人もいません。
しかしこの言葉は妙に私を惹きつけるものがある。私はいつのまにか四肢切断ダブルピースの正体を追い求めるようになっていました。
さて、では一体どのようなものか考えてみましょう。まず四肢切断ダブルピースは四肢切断とダブルピースの異なる二つの要素の組み合わせであることが当然の帰結として推測できます。当然ではないかって?そう、当然です。しかし理論というものは分解してしまえば一つ一つの繋がりは明快で当然なものなのです。そうした明快で当然なものを組み合わせている内に意外な結論を導くのが美しい理論というものでありましょう。
私のような人間には四肢切断とダブルピース、その二つの単語だけでニュアンスが伝わるわけですが、おそらく私の所属する文化圏は小さく、伝わらない人の方が多いでしょう。それを思えばこれら二つの単語を取りまく環境を説明せねばいけないでしょう。
四肢切断、いったいこれを読んでいる貴方はこの単語からどのようなニュアンスを感じ取るでしょうか?四肢、すなわち手足の切断。事故?拷問?処刑?いえいえ、ここでいう四肢切断とはそういったニュアンスのものではありません。あえていうなら拷問が近いかもしれませんが決して四肢切断を通してなにか情報を引き出したいとかそういうことではないのです。
ここで語られる四肢切断とは性的嗜好としての四肢切断です。すなわち四肢、手足を切断された女の子に興奮するタイプの人たちによって口にされる四肢切断という単語がここでいう四肢切断なのです。
四肢切断は腕ならば二の腕、足ならば太ももの中程から切られていることが多く、手足の全てを切断しない場合もあります。全て切断されている場合は達磨とも呼ばれます。
さて、いったい四肢切断のどこが人を惹きつけるのでしょうか?
四肢切断の魅力は多岐にわたります。例えば女性が不幸な目にあっているだけで興奮する人もいます。もしかしたら純粋に四肢が欠損した見た目が好きな人もいるかもしれません。しかし私はその両者とは違います。私は逃げられない、抵抗できないというところに魅力を感じるのです。何をやっても向こうは抵抗することができず逃げられず例えば服を剥いてしまったら向こうはどれほどの羞恥を覚えたとしても身体を隠すことはできない。もっとも四肢を切断された状態で羞恥心など感じる余裕があるかは疑問ですが。さて、そのような悲惨な目にあった女の子は泣いて騒ぐのか、気丈に睨み付けてくるのか、あるいはもう絶望しきってなんの反応もしないのか、そういった想像をするだけで股間に激しい潮流を覚えるのです。
そしてダブルピース。普通に解釈をするのならば両手で人差し指と中指をたて、他の指をたたみピースサインをする、そのように解釈なさるものと思います。ですがさきほどの四肢切断に四肢を切断する以上のニュアンスがこめられていたように私どもの文化圏ではダブルピースにも両手でピースサインをするという以上のニュアンスがあるのです。
さて、この百年戦争アジャンクールの戦いで最初に使用されたと言われているピースサイン。このピースサインという奴は中々に色々な意味をもつもので平和を祈るサイン、勝利を意味するVictoryのVを示す勝利のためのサイン、あるいは「くたばれ」を意味する場合もあるそうです。しかし日本ではそういった意味合いは薄く、主に写真やカメラを向けられたときにピースサインを行うことが多いようです。
そう、カメラ。つまり日本においてはピースサインのイメージは撮影行為と繋がっているのです。それも証明写真などといった公式なものではなくもっと楽しい雰囲気の撮影行為と。しかし、私の所属している文化圏ではこのダブルピースという奴は真逆のニュアンスを持ちます。酷い目にあっている女の人が――――この場合の酷い目とは往々にして性的なニュアンスで酷い目にあっている女性という意味なのですが――――ダブルピース行っている光景を指すことが多いのです。それも多くの場合は撮影行為とセットで。
さて、何故酷い目にあっているのにダブルピースするのか、主流な理由は二つに分けることができます。
一つはダブルピースするよう命じられたからです。酷い目にあっているということは酷い目にあわせている人間がいるということでその人が命令したからこそ彼女はダブルピースしているのです。屈辱的な目にあっているにもかかわらず両手でピースサインをすることを命令される、いや、もしかしたら笑顔を浮かべることも強制されているかもしれない。そういった悲惨さ、そして圧倒的な優越感、そうしたものに私は性的な興奮を覚えるのです。
そしてもう一つの理由は自分が悲惨な目にあっていることが理解出来ない状況、むしろ幸福すら覚えているからこそダブルピースをしている状況です。これは例えば麻薬漬けにされている状況などを例えに出すとわかりやすいでしょうか。外から見れば麻薬漬けにされるのはとてもとても悲惨な状況かもしれませんが、本人にとってはとても幸せな状況です。この分野は一般に「アヘ顔ダブルピース」と呼ばれるものが有名でしょう。アヘ顔、つまり快楽に流され自我を失い目の焦点が合っておらず舌が垂れているような顔を晒しながらダブルピースしている状態を指す言葉です。
さて、話は四肢切断ダブルピースの話に戻ります。四肢切断ダブルピース、冷静に考えれば両足を切り落とし逃げられなくしたところで残った両手でダブルピースをさせる、おそらくはそういう状況を指す言葉なのでしょう。それが物理的に無理のない唯一の解答です。ですからおそらくこれが正解なのです。
しかし、理性はそう主張するのですが私の感情はそう簡単には納得してくれません。それではただのダブルピースの部分集合、細分化の結果生まれた言葉に過ぎません。はっきり言ってしまえば両脚を切り落としてダブルピースさせるくらいなにも新しくはないのです。それをわざわざ四肢切断ダブルピースと呼ぶからには右腕左腕右脚左脚、その全てを切り落としてダブルピースしているはずではないでしょうか?それは確かに物理的に不可能かもしれません。しかしだからこそ四肢切断ダブルピースは私を惹きつけるのです。


二、
私は友人の革命家のところに四肢切断ダブルピースについて相談にいくことにしました。理論の言う通り四肢切断ダブルピースとは両足を切断してダブルピースさせるだけの行為に過ぎないのか。それとも直観の告げる通りそれとは違うもっと異質なものなのか。そして仮にそうだとしたら四肢切断ダブルピースとはなんなのか。それをどうしても突き止めたかったのです。
革命家はアニメイトの横の階段を下りたところにある潰れた地下劇場を買い取りそこに住んでいます。そこで毎日来るべき革命の日のための準備を行っています。
階段を下り、扉を開けるとほこりと動物の体臭のような臭いが混ざったむわっとした臭いが鼻をつきました。そして照明が壊れているのか、今はたまたまつけていないのか、それともいつもつけていないのか、それは私にはわかりませんが廊下は真っ暗で何も見えません。今は扉を開いているからかろうじて廊下がしばらく続いていることが確認できますが中に入ってドアを閉めてしまえばもう何も見えないでしょう。そして細かい内容は聞き取れませんが奥の方から何か喋るような声がします。
声が進む方向に進めば人がいる場所にたどり着けるはずです。私は意を決して中に入りました。ドアを閉めると何も見えません。ですが、ゆっくりと慎重に転ばないように壁に手をついて進めばなんとか進むことはできます。そして私は声のするほうに進み始めました。
そうして徐々に声が聞き取れるようになり、暗闇に目が慣れて廊下の輪郭くらいはわかるようになってきた頃、ようやく人の姿を発見しました。いえ、人といいましたが会ったそれが人かどうかはわかりません。動物の体臭のような臭いを発しておりフゴフゴと鼻を鳴らしています。見た目は黒い外套を羽織っていること以外はこの暗闇ではわかりません。顔が見えれば人間かどうか判断ついたのかもしれませんが今の私にはそれが人間らしいシルエットを持っていること以外は何一つ断言できないのです。それは廊下を私と同じように壁に手をつけて歩いていました。


「私は革命家の友達なのですが、革命家を捜しています。いったいどこに行けば会えるでしょうか」


暗闇の中その人だかなんだかわからないものはゆっくりと廊下の先を指しました。おそらくはこのまま進めば会えるということでしょう。私は闇の中で果たして見えたかどうかはわかりませんが軽くお礼の会釈してそれとすれ違うように先に進みます。
そうしてそれ指し示した方向に進むと大きいドアがありました。声が漏れてくるところを見ると私が道案内代わりに使っていた声はこの中から響いていたようです。私はゆっくりと中で喋っている人の邪魔をしないように静かにドアを開けました。
するとむわっと動物の体臭のような臭いが溢れてきて、また先ほどあった人間らしきものが出していたフゴフゴという鼻息がこんどは十も二十も聞こえます。そこは地下劇場であり、黒い外套をかぶった生き物がまばらに観客席に座っています。
そんな中、聞き覚えのある声、すなわち私の友人である革命家の声が響きます。革命家は劇場の舞台に立っていました。


「我々は革命によって全ての童貞を救済しなくてはいけない!それこそが我ら革命組織の究極の目標である」


その声に賛同するかのようにフゴフゴという声が一斉に響きます。


「童貞を苦しめているものはなんでしょうか?それは性行為が神聖で高尚であるという欺瞞です。では何故そんな欺瞞があるのでしょうか?」


私は今すぐにでも革命家に声をかけ四肢切断ダブルピースについて相談したかったのですが演説の邪魔をしてはならないと、劇場の席に座ることにしました。近くの黒い外套をかぶった生物に軽く会釈をして席につきます。
そうしている間にも革命家は黒い外套たちに向かって語りかけます。


「それは人が弱いからです。人が弱いがために真実の太陽を直視できず欺瞞を必要とするのです。彼らは自分が動物ではないという幻想が欲しいのです。しかし繁殖と労働という二つの生物的な義務が人は所詮動物であるという現実を見せ続けます。それを見ないために労働と繁殖を人は神聖視せずにはいられない。この欺瞞こそが童貞を苦しめる元凶です」


フゴフゴと隣に座っている外套が鼻をならします。初めは賛同を表しているのかと思いましたが、少しそうではないのではないかと思い始めました。彼らはただ興奮して鼻を鳴らしているように見えるのです。


「そうです、童貞を苦しめている性行為の神聖さという欺瞞。それらは全人類を救済するためにあったのです。しかし、欺瞞の上に築いた砂上の救済は欺瞞に過ぎないが故に必然的に多くの人を苦しめます。矛盾した神の信仰は世界に軋みをもたらします。私たちは動物に還元されるべきなのです。私たちは特権的な生き物であることを辞めて動物に戻るべきなのです!」


革命家が声を張り上げると興奮したような鼻を鳴らす声が周囲を満たします。この頃には私の彼らは本当は革命家の話など聞いていないという疑惑は確信に変わっていました。では何が彼らをこうも興奮させているのでしょうか。


「貴方方も一度くらい嫁宣言、すなわち綾波レイが好きであれば"綾波レイ俺の嫁"、ホシノルリが好きであれば"ホシノルリ俺の嫁"などと掲示板に書いたことがあるでしょう」


綾波レイは1995年10月から1996年3月の間に放送されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に、ホシノルリとは1996年10月から1997年3月の間に放送されたアニメ『機動戦艦ナデシコ』にそれぞれ出てくる女性キャラクターです。私も幾度となく掲示板に「ホシノルリ俺の嫁」と書き込みました。もちろんアニメのキャラクターですから実際に結婚しているわけではありません。俺の嫁というのは自分がそのキャラクターが好きだということ、それを示すための常套句です。


「しかし、嫁というのは共同体から関係を認めてもらい、さらに独占しようという考えからくるものです。しかし、一夫一妻制などというものは人間を非動物たらしめようという欺瞞に過ぎません。婚約などというシステムも同様に欺瞞です。そうした価値観に縛られている限り童貞に救済はあり得ません。我々は真実を見なければいけません」


ここでふと変な考えが私の頭をよぎりました。外套たちはひょっとしたら一生懸命に人前で演説をする革命家に萌えに来ているだけなのではないかと。実のところ内容などはどうでもよく革命家が可愛い声で頑張って声を張り上げれば彼らは満足なのではないかと。


「そうした欺瞞に気付いたのかあるいは実際に綾波レイと婚約関係を結び独占することはできないという現実に気付いたのか。最近では俺の嫁に変わる新たなる言葉が生まれ始めています。それがペロペロです」
「おお、ペロペロ!あずにゃんペロペロ(^ω^)!!」


私は無意識につぶやいていました。
ペロペロもまた俺の嫁のようにそのキャラクターに対する好意を示す常套句です。


「なるほど、可愛いから舐める。非常にわかりやすく動物的です。ペロペロは俺の嫁に比べ真実に漸近したと言えるでしょう。ですが、我ら革命組織はより真実に近い表現を創り出すことに成功しました。それがブヒイイイイです」


ブヒイイイイ!!
ブヒイイイイイイイ!!
ブヒイイ!!
ブヒィ!
口々に外套たちが叫び出しました。その耳を劈くような歓声に私は耳をふさがなければいけませんでした。


「私たちは欺瞞を捨て特権的な生き物であることを放棄しただの動物、萌え豚に回帰するのです。与えられた性的な餌に脊髄反射で食いつく、家畜として他のあらゆる価値観から救済されるのです。しかし、それでは私たちは自分を救済しただけに過ぎません。私たちはこの価値観を、この観念を、炸裂させなければいけません。あらゆる欺瞞を照らす光と買えて、またあらゆる価値観を破壊する爆弾としなければいけません。それこそが我らの目指す革命です。我々は今も苦しみ続けている全ての同志を救うべくこの革命を成功させなければいけないのです!」


外套たちの声はいよいよ音量を増し、何十にも重なったそれらはもはや人の声でなく空気の振動としか認識することができません。
革命家の演説は終わったのか地下劇場の幕が下りていきます。それと同時に灯りがつき始め少しずつ部屋が明るくなっていきました。私はすぐにでも革命家の元にいき四肢切断ダブルピースについての相談をしたかったのですが、外套の中身が人間なのかそれとももっと違うなにかなのか気になったので彼らの素顔を拝んでやろうともう少しだけ客席に座っていることにしました。
外套たちは完全に幕が下りるまでブヒブヒと叫んだ後、完全に幕が下りたのを確認すると立ち上がって雑談をかわしながら劇場を出て行きました。顔は完全に人間のそれで、鼻を鳴らすこともなく雑談の内容もごく一般的なそれです。それは無条件安定陽解法のバネ質点モデルへの応用の話であり、一匹の象を巡る人間関係の話であり、あるいはまたたび相場の話でした。それらの会話は彼らが人間として社会の中で生きているということを示すものであり、彼らは見た目だけでなく内実共に人間であるということです。
彼らの正体を確認して満足した私は劇場の舞台にかけより、幕を開きました。


「おや、貴方は。どうぞ上がってきてください」


革命家は私の顔を見るなりいやな顔一つせずに幕の下りた舞台に招いてくれました。舞台に上がった私を革命家は舞台袖に誘導してそこにあったテーブルの椅子を引き、私に座るように示したました。そして私が座ったのを確認すると対面に座りました。


「さて、貴方がどうしてここに?ついに私たちの革命に参加することを決意したのですか?」
「いえ、違うのです。今日は貴方に相談があって来たのです」
「相談?」


私は私の四肢切断ダブルピースについて考えていることを革命家に説明しました。
革命家は私の言葉を聞きしばらくあごに手を当てて考えた後、ようやく口を開きました。


「確かに一般的に考えれば四肢切断ダブルピースとは両脚を切り落として残った手でダブルピースさせるものでしょう。しかし、貴方はそれではないと思うのですね?」
「はい、どうしても私にはそれが四肢切断ダブルピースの正体だとは思えないのです。私がその言葉から受ける印象はもっと深く、新しいものなのです。しかし――――」
「しかし、理論で考えれば両腕を切り落としてしまってはダブルピースはできない。それはわかっているのですね?」
「はい」
「ふむ」


革命家は再び考え込みます。
その頃には私の胸は後悔でいっぱいになっていました。何故私はこのような相談を革命家に持ちかけてしまったのでしょうか。こんな質問誰に聞いても私の直感が間違っていると答えるに決まっています。ああ、恥ずかしい、今すぐこの場を立ち去ってしまいたい。
しかし、革命家は私の予想とは違う言葉を口にしたのです。


「貴方が四肢切断ダブルピースがただの両脚切り落としダブルピースではなく、達磨ダブルピースだというのなら、そうなのかもしれませんね」
「しかし、理屈で考えれば――――」
「ノン」


反射的に口をついてでた自分の意見に対して同意する発言に対する反論にも気を悪くした様子がなく、優雅すら覚える態度で革命家は私の言葉を止めました。


「いいですか、近代科学信仰が生み出した観察と推論と実験、それだけが唯一の真実に至る道であるという考え方は欺瞞に過ぎません。人には最初から真理に飛翔できる能力が備わっているのです。私には見えませんが貴方が四肢切断ダブルピースに何か別のものを観たというのなら、それは容易く否定されるべきではないと考えます」
「最初から真理に飛翔できる能力……そのようなものは非論理的に思えます」
「その通り、非論理的です。しかし、論理だけが唯一の真実にいたる道筋ではないことはさっき言った通りです。いいですか?科学上でなんらかの画紀元的な進展を与えた新しい観念のほぼ全ては推論から導かれたものではなく最初から知っていたものなのです。アインシュタインは17歳のときはすでに相対性理論を知っていました、ただ理論化に時間がかかっただけなのです。考えてもご覧なさい、相対性原理、素粒子力学、波動力学、こういった概念を推測や解析だけでどうして組み上げられるでしょうか?彼らはすでに見えているゴール地点に向かって理論を積み上げていったのです」
「なるほど、つまりその人が持つ最初から真理に飛翔する能力によって私は四肢切断ダブルピースの真実にすでに到達していると、貴方はそう考えているのですね?」
「その通りです。お待ちになって、貴方のいいたいことはわかります、それは単なる思い込みではないかと貴方はそう仰いたいのですよね?わかります。ですから貴方は四肢切断ダブルピースを発見しなくてはいけません」
「四肢切断ダブルピースの発見……」


オウム返しに革命家の言葉を繰り返しました。
その響きのなんと嘆美であることか。私の男性器はその言葉だけでむくむくと膨張を始めています。


「そう、四肢切断ダブルピースを巡る冒険です」
「しかし、一体何をすればいいのか……」
「己の発見した真実と向き合うか、あるいは観察と推論と実験によって真実までの道を作るか、でしょうね。真実に至る唯一の道ではないにしろ観察と推論と実験が真実に至る一つの道であることは確かですから。しかし、貴方にはそのどちらも難しいかもしれませんね」


革命家の言う通り私にはそのどちらもできるとは思えませんでした。一体第一歩目に何をすればいいのか、それすらまるで皆目見当もつかないのです。


「私の知り合いの求道者を紹介しましょう。彼であれば貴方の力になってくれるでしょう」
「そこまで手を貸して頂き申し訳ありません。いったいなんとお礼を言えばいいのか……」
「ノン、かまいません。四肢の完全切断による達磨ダブルピース、もしそのような概念があるのだとすればそれは来るべき精神の革命闘争のときに役に立つかもしれませんから。これは私のためでもあるのです」
「精神の革命?」
「その通り。四肢切断ダブルピース、それが既存のシステムを超越する何かであれば概念の爆弾となります。炸裂したそれは全ての欺瞞を照らし私たちの闘争を勝利に導くでしょう」


こうして私の四肢切断ダブルピースを巡る冒険が始まった。

これ

数学のエキスパートが3ヶ月かけて作成した「世界一難しい数独」 - GIGAZINE



解いたー。
まあ、世界一難しいって言っても?
所詮9×9だし?
まあ、そんな難しくないよね、はは。
回答載せちゃうとあれなんで一応隠しときますね。

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忍者やべぇ

・日記っぽい使い方がしたくなったので日記書く。

山田風太郎甲賀忍法帳を読んだ。

甲賀忍法帖 (角川文庫)

甲賀忍法帖 (角川文庫)

私が読んだのは昭和四九年に発行されたバージョンだったんだけどその表紙はアマゾンさんにはなかったので新装版のほうを貼る。

忍者やべぇ。とにかく忍者やべぇ。
そうか、粘液を口から飛ばしたり、全身から水分を出して縮小したりする人間を描くときにわざわざ魔法だとか超能力だとか言わなくても「忍者だから」で済んだのか!
つーか、作者は忍者のことを人間だと認識してないだろ。山田風太郎先生の中の忍者っていうのは多分「人と同程度の知性を持つ、人とは異なった身体構造を持つ生物」くらいの存在だろ。この世界の侍は刀なんて振り回してる場合じゃねーよ。
忍者のほうがどう考えても武芸者数人より強いとかなんのために武芸者は存在するんや……!

とにかく貴様ら、忍者のヤバさをもっと知るべきだと思います。

たまに手を出したことのないジャンルに手を出してみると想像と全然違って楽しい。そのうち苦手意識を捨ててもう一度くらいハードSFと呼ばれるジャンルに手を出してみるべきかもしれない。