『知ってるつもり 無知の科学』

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 読んでいる。タイトルの通り、人は個人レベルでちゃんと知っている、理解していることは専門とするものなど一部に限られ、それ以外は身近なもの(ファスナーやトイレの水洗の仕組み)でもろくにわかっていないし、政治などの複雑な問題に対してはいわずもがな、にも関わらず自分はそれを知っていると思っている、そういう知識の錯覚を持っているのだ、というような内容。原題はそのまま"The Knowledge Illusion"ですね。
 ネットにおわす色んなことに深い理解がありその正否を瞬時に判断できる大賢者の方々には不要な本ですが、自分の無知さ愚かさを時に感じることがある人は、その事実を科学的に噛み締めてみるのも面白いかなと。
 とはいえ力点が置かれてるのは、人が無知である事実やそれに関する錯覚にも関わらず、なぜ人間がこれだけあらゆることを「知っている」ように思えるのかというと、コミュニティやテクノロジーなど、個々人の脳の外部に利用できる「知識」があり、他者とも認知的分業を行っているからだということのようですね。
 「第八章 科学について考える」で述べられている、個人の知識や信念(例えばワクチン有害説)はコミュニティや本人のアイデンティティと深く結びついているので、それが科学的に間違っていますよ、ということをちょっと理性的に説明されただけでは、ほとんど変わらないよ、という点は、あーまーね、と思いました。それにいわゆる科学的に正しいことを知っている人も、その仕組みをそれほど詳しく説明はできないし、実験や検証をしたことがあるわけじゃない、○×クイズでは正解を選んだというだけに過ぎないことが多い。そんなことちょっと考えればわかりそうなのになんで(略)。
 知っていること、知らないこと、の利点や危険性や限界、を見つめる上では参考になるし、学習や教育をどうするべきかということについても発展的に考えられるなあとは思いました。社会全体はともかく、自分の学習に関してとか。とはいっても、興味が湧くといろんなことを知りたい気持ちにはなっちゃうんですけどね、たとえ表面的になってしまうとしても。知る努力をした結果、まだまだ知らないことを自覚するのか、大体のことは知ったつもりになるのか。常に謙虚、というのも行動や実践することを考えると絶対いいとは言えないですし、難しいね。

 

 理由も脈絡もなく。思慮の浅さとか、思考停止というのにも種類というかがあるように思ったりする。誤謬の種類、詭弁の種類、認知バイアスの種類、認知の歪みの種類、というものにも色々なものがあって名前が付いてリストになってるじゃないですか。そういうのと似たようなっていうか、対応するようなものはすでにあったりそれらに含まれてるのかもしれないけれども。そういうところを漠然と頭に浮かべたり、傾向やらを整理したら面白いかなーとか思うことがありますね。例えば思い込みに近い前提を疑わないことだったり、慣習になっているがゆえに改めて振り返ったりしないこととかだったり。どういうものに対しての、っていうのは色々あるので具体例が難しいけれど。でも何かに対して自分が到達してる深さよりも思慮が浅いな、ってもちろん軽蔑等の気持ちも伴いつつ感じることに関して。こっちのが思慮が深いって簡単に言うのは傲慢にもなりえるからあれですけどね。でも明らかに間違ってるというか、断定が過ぎるよそれ、考えなさすぎだろそれって思うような種類の、でも人間がしがちな思慮の浅さとか、愚かさとかを振り返りたい気がする!と全然してないけど思ったりはしてます。なんとなく。
 唐突に書いてなんかごめん。書きたーいという情熱は全然ないように思うけど、でも何もしないよりは創造性を発揮している(たぶん)から楽しい。のではないでしょうか。世界も代わり映えしないようで実はさまざま起こっていますしね。

 人の考えやらに対して、何か違うなとか思ったり、部分的に引っかかったり、もっといえば苛立ったり、いやそれはそういうことじゃないでしょ、とか、思ったりはいろいろあるけど、それを全部突っ込んだり突き詰めようとしたって、野暮で無粋になってしまいがちじゃないですか。思うのがよくないとか、ではないが。


 たまたま目にしてスクリプトもあって聴き通せそうな面白い感じだったので、リスニングのお勉強など兼ねて。全体的に堅すぎず緩すぎず面白い。クドくないユーモアもあり。この先生割と好きなタイプの人だ。サンデル教授ほど演技がかってもいないしw。 Paul Bloomさんで専門は認知心理学らしい。著書の『喜びはどれほど深い?』(原題 How Pleasure Works:The New Science of Why We Like What We Like)は書店で見かけたこともありますね。
 内容は、フロイトの理論概説。基本は知ってはいたことだけど、微妙に違う観点からの説明や学生の質問などから深まるところもあったりで。イド、自我、超自我の局所論については、the id is outrageously stupid, superego is also stupid だって。エゴが板挟みになってるというのは承知していたけど、超自我もstupidというのは、フロイトでは超自我とかは働きとしては割りかし高級な部分、理性的にこうあるべき!という要求を出す所、みたいな扱いじゃなかったっけ?エゴからすれば板挟みで困るのは変わらないにしても、なんというかこれがあってこそ人であり、みたいにフロイトとかは位置づけていると解釈していたのでちょっと意外だったりした。勘違いかな。
語彙 polymorphous perversity / bubble up

 なんか、殺人犯だとか異常者にもそれなりの動機や事情や心の動きがあるとか、そういうのはフィクションでもいくらでも描かれているし、そういう作品をどんな形であれ享受してない大人なんて現代日本でそうはいないだろうに、なんで現実にそういうことがあるとこいつは人の心が完全に欠如してるとか理解不能な化け物みたいな考えになるんだろうっていうか、よっぽど頭が悪いのかなって思っちゃって。いや、わかりますよ、そういう「常識的な」人たちはそういうことにいちいち頭を使う機会や時間があんまりないだろうし、あるいはフィクションはフィクションでしかなくて何となく読んで娯楽として楽しんでおしまい、その程度のものとして捉えてるとか、あくまでも現実とそこまで結びつけて考えるようなもんでもなくて、むしろそんなことしちゃう方が頭おかしいっていうか、現実は現実であって作り物とはことの重大さが違うだろって思ってるのか、ていうか何がどうであれそんなことが起こるのなんてあってはならないしそんなことをしちゃうのは異常だしキチガイなんだ、わかりませんが例えばそんな感じなんだろうなって。だとしても、常日頃からそういう作品をアニメやマンガで消費しといて、そういう感性や洞察力なりが全くない人がいたとしたらちょっとばかし呆れちゃうけれども。それでいいならいいんでしょうけど。

 他人が嫌、ていうか。というとざっくりしすぎていて間違いになってしまうし、昔からすれば十分(ではないとしても)変わってきてもいるけど。あんたらの見方で勝手に自分を計られて、自分が了承してないことで、どうこう言われたり、変な目で見られたり、受け入れられたりそうでなかったり、現実上で振り回されるなんて嫌だ。それが現実だし、気になったり実際に問題があるならお前がどうこうすべき問題だろ、とか言われたって。自分としてはそれなりに頑張ったり勇気を出してやったことや、特に問題ないと思ったことだって、他者からしたら不十分だの足りないだのイマイチだの善さに欠ける、変だ、って判断される。あなたたちの都合であるとか価値観のフィルターとか単純に見た目の印象とかそりゃあるでしょうよ。でもそんなのにどうやって合わせろっていうんだ。そっちが狭量なのかもしれないし、どこまでが対処できることなのかもわからない。
 まあもちろんそういう否定ばかりや寛容さの欠片もない判断をする人や対象ばかりではないのは、解っているつもりだけど。でもそういうのがあると、苦しくなるというか、吐き捨てたくなる。ずっとそうだった気がする。自分を否定してくる何かがあることに耐えられなくて、そういうのにばかり反応して怯えたり怒りを覚えたり心を閉ざしたりしてきて、そういうものがどうにかならないか、自分が悪いのか、あいつらが性格悪いのか何なのか、なくなってほしいのになくならない、苦しいとばかり思って生きてきてしまっていて、そんなのほっといて、好きとか寛容な視線をくれる人を好きになってその中で楽しむとか自分が好きになったものに近づくとか、そんなことはできなくて、そもそもそれができるとかもあまり思えないししたいわけでもないのではないか、って思っている感じだった。プラスを求めて動くとか楽しむよりもマイナスからいかに身を守るか、なくせるか。もうそれが無意識レベルで世界の見方に作用しているって気がする。それをやっと俯瞰的にも自覚できてきて、少しずつ解消しているっていうか。でもそれもある種の思い込みで、ホントは自分に心や見方以外の問題があるのかもしれない、たとえ自分の心や見方自体がよくなったとしてもやっぱり変に見られたりダメと評されるだけの何かがあるのかもしれない。だとしても、面倒くさい。それが一朝一夕で変えられる何かならどうこうできても、何がそんなに悪いのかもわからないのに。
 何がそんなに気に食わないんだろう、とか、浅すぎる価値観に基づいた言動とか、答えありきで否定するとか穿った見方をするとか、そういうものもめんどくさいというか苛立つというか。彼らには彼ら自身を中心とする愛と都合のフィールドがあって、だからたとえば自分が彼らに安心を与えるだけの笑顔や自信のある雰囲気?や何かを纏っていたりそれを提示できれば彼らだって安心度合いが高まるのだろう。私が拒絶や不信の目を向けられた、と感じる場合、おそらくは彼ら自身も、私から戸惑いとか拒絶とかいわゆる「壁」みたいな、警戒の雰囲気を感じ取っていたりもするのだろう、私にそうするつもりがなくても。もちろん、そういうのに鈍感、というのか、基本的に愛や安心感に満たされているのか、こちらが多少そういう部分を持っていても殆ど気にしない感じの人もいるし、慣れがそれを打ち消していく場合もある。あるいは基本的に親しい交流はしない、という儀礼的無関心みたいな関係性に固定された場合も、面倒な感じは減る。
 面倒くさい、気付いてすぐに変えられる、どうにかできることだったら楽なのに、そんな風にいかないのが。そんなことが生きることに不利に働いてしまうことが。そんなものを背負わされてしまったことが。なのに誰もわかってもくれない、どころか敵視されることもあることが。
 まあ結局そういう否定の目を向けたり、非難の言動をするような人は、同じものを自分の中にも見ていてそれを許さない、同じ怒りを向けている、あるいは恐怖を抱いているってことなのかもしれないけど。
 あーなんか、他者に温かい視線を向けるとか、好意ある、受け入れるような?態度を向けるとか、そんなことほぼできたことがないような。でもそんなのしようと思えばできる、ってものでもないな、自分の場合。っていうかそれって何、って感じというか。イメージや他者からされたものはあっても。かわいげとか愛嬌とかね。…アホらしい、なんでそんなことばっか考えてどうにかしようとしないといけないんだ。でもそれで上手く行かなくて苦しむのも変わらなかったら嫌だ。

 顰蹙買いそうな言い方になるけど、男の方が言葉や思考を弄ぶのが好きな人多い印象。弄ぶというのか思考の世界で体系化したり整理して満足しようとする、というか。そしてそれが、現実的な生活や身体的なものとの結びつきがどちらかと言えば弱くて、言ってみれば俺様の箱庭を作って悦に浸る、みたいなイメージ。その割合が大きい印象がある。で、知性化して解ったつもりになって、結果的になんかそこじゃなくないか、問うべきだったり向き合うべきは、みたいに見えることもある。それは性別云々関係ないのかもしれず、偏見かもしれませんけどねー。なんつうか、言葉や思考を弄ぶのは誰でもするといえばするんだけど、その仕方だったり動機だったりどういうことと結びついてるのか、っていうのが違っている気はしますよね。それがいいとか悪いとかどうとかではなくて。自分はどう、って言ったら、まあ知識を摂取して、体系化やらをして理解しようとする部分も当然あるけど。でもそれをそこまで突き詰めたり小難しく語ったりどうこうしても、知的遊戯や探求としては面白いけど、そこに究極の真理やら尊ぶほどのものがあると思うか、ていうとそこはそれほど別に、って感じ。ロゴスが男性原理だって話と繋がることでもあるのだろうけど。