これからの「暴力」の話をしよう

ジェンダーの! ジェンダーによる! ジェンダーのための? ジェンダー!!!!
以上をもって挨拶と代えさせていただきます。申し遅れました。アイアムア死体性病です。

エ~今日はね、ジェンダーの話ということで、どういったことからお話しようかなーなんて思ってるわけですけども、どうですか?ジェンダーしてますか?なんてね。ジェンダ~イズ~ワ~イルド、なんつってね。あらありがとうございますお客さんがね暖かくてもう、そちらのジェンダーの方なんかももうね、大変ですよね。ジェンダーさん、ジェンダーさん、ひとつ飛ばしてジェンダーさん。って飛ばしたらいけませんね。ジェンダーはね。こらこらいい加減にしなさいよ。ジェンダージェンダーうるじぇえんだー!とか怒られないうちにね、早速ですが本題の方に入らせていただこうかなと思っております。

「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」

令和三百六十五年、高輪ゲートウェイから田町オプトアウトにかけての一帯は祝祭の喧騒に包まれていた。○○○(任意の文字列)○○○(任意の文字列)、○○○(任意の文字列)○○○(任意の文字列)、○○○(任意の文字列)○○○(任意の文字列)、高・収・入の祝詞を大音響で響かせるトラックをベーシックインカム派大僧正がその身ひとつで横転させる言祝ぎの儀は既に九十四回目。煩悩の数と同じ一百八回目のクライマックスへと向けて、衆生の熱は高まらんばかりであった。
生にまつわる一切の苦を浄するゆるキャラ「南無ずっきゅん」のARスタンプの応酬が夜の闇に薄く抗い、誰もが等しくその光に照射された。そこには平等しかなかった。一切が平等で、一切が苦しく、完璧にポリティカルなコレクトネスだった。齟齬がない美しさだけで、もうそれだけでよかった。

「この世には差のつかないことなど何もないのだよ、関口くん」

こんこん。こぶしが、ちいさすぎて、ノックのおと、きこえなかったのかな?こんこん。だれかいませんか?こんこん。わたしです。きこえますか?そっちはどうですか?へんなこと、ありませんか?こんこん。だれかいませんか?こんこん。わたしはここです。とどいていませんか?へんじを、してください。わたしのことなんか、どうでもいいですか?わたしの、てが、ちいさすぎますか?こんこん。ぱぶりっくいめーじさんですよね。こんこん。あけてください。こんこん。いれてください。こんこん。きこえませんか?わたしは、ここに、います。わたしです。フェミニズムです。こんこん。こんこん。こんこん。
繰り返される度早くなり、その代わり祈る時間が増えた。いつしかその拳は、音を置き去りにした。こうして怪物が誕生した。後にこう呼ばれることになる。百式フェミニズム観音。

「この世には叶わないことなど何もないのだよ、関口君」

鮎喰響が、割った。そうなれたかも知れない、ありえた世界の全てを、その、拳で、割った。
暴力であった。まぎれもなく正当な、現代まで受け継がれてきた暴力のひとつの到達の、暴力だった。
「素晴らしい。あなたの暴力はまぎれもなく正義そのものです」
誰かが言った。
「そんなこと知らない。わたしはわたしのやりたいようにやってるだけ」
「それこそが正義になるのです。結果として、あとから、いかようにでも正義になるのです」
「ふぅん」
いつでも殺せるという姿勢は崩さぬまま、鮎喰響は本を取り出し、開いた。まるで気のない風に、問うた。
「あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなります。横道にそれれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?」
「御心のままに
誰かが、どこにもいない誰かが言った。
「望むがままになすことが、いかようにも正しい結果となりましょう。ただそのように思われるがゆえに。光あれと思う故に光あれかし」



「ふぅん」
まったく同じトーンで鮎喰響は鼻を鳴らし、こう言った。
「じゃあ、書いてみたらそれを?小説に」
そうして誰かを殴った。生きているものはもう、誰も立っていなかった。

「この世には理不尽なことなど何もないのだよ、関口君」


鬼さんこちら 絵になるほうへ

ラッスンゴレライの話をしよう。

無邪気にはしゃいでばかりいて、手を叩いて笑ってふざけあっていた頃からどれくらいの時が過ぎたか分からないけれど、貴方達はラッスンゴレライのことを覚えているだろうか?
自由だった。何もなかった。あるいは今の気持ちが何かに続いていくなんて思いもよらなかった。はちきれそうだった。忘れないと誓った一瞬ばかりだった。悔しさばかり覚えていた。狂っていた。狂っていた。素晴らしいなにかに出会えてなにか変わるような気がしてた。なにかが何なのかさっぱりわからなかった。説明して欲しかった。あの頃、ラッスンゴレライが確かにそこにいたことを、貴方達は覚えているだろうか?
もちろん僕が知っているラッスンゴレライが貴方にとってのラッスンゴレライと同じものだとは言えないかもしれない。ぼくがときどき鈍い傷のように思い出すラッスンゴレライとは違い、貴方はラッスンゴレライを取るに足らない、所詮ラッスンゴレライでしかない、いやたかがラッスンゴレないラッスンゴレライだと捉えているかもしれない。もしかしてラッスンゴレライみたいなものをそんな大げさにラッスンゴレられても単なるラッスンチゴレンタルな感傷じゃないか、と笑っているかもしれない。ラッスしたものをゴレしたがるおッスンのレーライを誰もがラッするごレラレラだとは、あまつさえ、レラツゴレ、レラするなんてンゴレっているかもゴレライ。そレラらばスンゴレレラい。でも、貴方がラッスンゴレれなかったとしても、ラッスンゴレライはスンゴレラったのだ。たしかに。あの頃に。

ひさしぶりに筆をとるものだから上手く表現することができないかもしれない、というまったくもって僕の能力の問題で申し訳ないけれど、ここからはラッスンゴレライのことを共感と表記することを許して欲しい。ちょっと待ってと言われても考えなおす気はない。
共感の話をしよう。
あの頃、確かに共感があった。共感できることがすべてだった、そういう時があった。貴方のことを自分のことのように思うことができた。僕と同じように感じている貴方がいることが嬉しかった。まるで僕の気持ちを説明してくれているような言葉を読んで胸を打たれた。自分ではない誰かのことを理解できた、ということの全能感に酔っていた。貴方に分かってもらえない感情ならば存在しているだけだった。存在している価値もなかった。共感できないということは欠陥があるということも同然だと思い込んでいた。共感以外なんてどこにもなかった。
共感することを強いられているのは環境のせいなのか、個人の問題なのかは僕の語ることじゃない。ただあの頃を遠くに過ぎて、ほんとうは僕と貴方がぜんぜん違うことを思っていたから、だから共感したがっていたのかもしれないと気づく。その時がくる。
どんなに求めてもダメだと繰り返し拒否される。あれこれと言葉を尽くしても、最後にはくちびるを噛み締めながら「イイじゃないか」と呟くしかない。
こうして、僕は共感を忘れてしまう。
最初から忘れてしまうものだった、と納得しようとする。

それでも貴方の感じたことを、考えたことを受け止めようと思うのはワガママなんだろうか?
特別でもなんでもないスープを、人じゃないんだからと貴方が言うスープを、信じようと思うことは、それくらいは僕の勝手にさせてもらえないだろうか?


いつだって何か恐ろしいものから逃げ続けながら、それでもこの瞬間を切り取って、いつか馬鹿みたいだと、恥ずかしいと思うようなことを額縁に飾って残しておきたい。
気になることを、絵になるように、無になる前に、語るハメになる。
それで僕はblogを書いている。

「・ュ。シ・・シ・ノ1」あるいは「素人童貞」について

死体性病です。面白い、ということについての何かを書いていきます。

まずはてな社の皆さんに言っておきたいことがあるのですが、この記事のタイトルを見てください。

これはタイトル欄を記入しようとした際に、記事のタイトル候補に表示された文字列です。これはどういうことでしょうか?僕にこのような内容の記事を書けとサジェスチョンしてくれる、従来はお楽しみ頂け無かった小粋な新機能でしょうか?はてなblogというサービスは、「あなたの人生の物語」を書くもの、などとtopページでは公言していながら、その実のところ、僕に「・ュ。シ・・シ・ノ1」あるいは「素人童貞」について書くことを迫る、大切な最初のblogからユーザーにムチャぶりをして、これでは僕のblogを読んだユーザーは「ああ、死体性病というのはアタマがどうかしているのだ」と思ってしまうに違いないでしょう。ユーザーに勝手なイメージを押しつけて楽しもうというはてなという会社の下衆な魂胆がUIに至るまで徹底されているとしか思えません。

はてなは僕の気持ちを傷つけましたが、本当の問題はそんなことではないので、僕に謝れとは言いません。言いませんが、しかし、はてなにはできることがあるだろうと思いますし、それを知恵をしぼって考えて欲しい。

そうやってひとりのユーザーのことを真摯に考えぬいたとき、その気持ちは必ず多くのユーザーに届くはずで、それははてなという会社がサービスを成長させていくならば、いつか必ず僕の気持ちを傷つけるようなひどいシステムで僕の気持ちを傷つけたことを多くのユーザーが抗議する時がくるからです。僕だったらそうする。だってひどいんだから。

つまり、僕の伝えたいことを簡潔にまとめるならば、僕です。

僕が僕のことをいじめるシステムのことを何度僕の夢に見たらやめてくれるのは僕だったのか、誰に僕が文句を言っても僕がおかしいと言うのはおかしくておかしいのは僕じゃなくてお前のほうで、おかしいです僕だし言っておきたいのだし、面白い、ということについての文字列がはてなblogサジェスチョン、やめろ、多くのユーザーがどうか僕だし死体性病、傷つけた、人生の、人生の僕の問題がどうかしているのだ」サジェスチョン謝れいつか、僕です真摯にはてな社の皆んが、しかし、どいんだからーザーblo知恵をしぼ・ュ。シ・・シ・ノ1

「ああ、駄目だ壊れてるな」

そして街には無数の素人童貞が降ってきて、そんなものは誰もいらない。

イノセンス「大丈夫か?大丈夫でないか?それが問題だ」

夏の終わり

主はかつて「気よ、向け」とおっしゃられましたが、そんなことで気が向くくらいなら石の上に三年座った姿が人格を剥ぎ取られ偶像になどなるものか。お久しぶりのお目通り。わしのおねしょを三年秘す為、三年寝過ごして布団と大地の霊的合一を果たしていました。その間、ゲームが一番、労働二番、blogはー三番目くらいにー気になるー存在?といったスタンスでね、バカ言ってんじゃないよ、blogのことは一日たりとも忘れたことなどなかった俺だぜ?三年目の浮気くらい大目に見ろよ。三年目の浮気くらい多めの期待感と背徳感にWAKU-WAKUさせてよ?DOKI-DOKIさせてよ?ついでだからHAN-SHOCKさせてよ?大人も子供もおねーさんでもかまいやしない。人間、大好き。死体性病です。大丈夫。問題はありません。

7月下旬頃にblogを更新する為のオフ会を開催しました。拳法で言うところの臨戦態勢と同義と考えていただきたい。結果としてオフ会は絶えることなく我が魂に及び、下は洪水にして我が魂は大火事、歩く姿は百合の花に思わず愚息を転蓮華、と相成りました。夏に終わりは来ないのか、それとも終わりがないのが終わりなの?いつになったらおうちにかえれるの?いつまでオフ会つづければいいの?いつからふるまいをネタとガチにあらかじめ分別しておくようになったの?いつまでもいつまでも笑いものはリサイクルできるゴミなの?死ねばいいのにとおもったら死ねばいいのにとかくかなくちゃいけないローカルルールはなくなるひがくるの?
そう。いつだって【いつ】が、It's the question。
最初は4本、続いて2本、それから3本。終わるのはいつ?問題というのはこういうものだ。

When ends the ending?

世界の終わり

グノーシス学派においては、カバラから由来して神のことをエイン・ソフと呼ぶと聞いています。エイン・ソフとは<虚無でありながら、無限である存在>を意味し、「自らの姿を目にするために、この世界を創造した」と言われています。大丈夫です。もうお薬は飲みましたって。
もう紙一重に神を噛み砕けば、自分って何か知るために思いつきをとにかく垂れ流してみたらいろんなしがらみから大変なことになった。インターネットみたいなやつですねエイン・ソフってのは。「自らの姿を目にするために、この世界を創造した」という逸話は先人が伝えたくなるのも無理はない格好よさです。100ReTweetはカタい。
未踏の天に向かうエイン・ソフの意志は立派なものですが、方法論に難があるように思われます。自分って何者なのか?そんなものはたいした問題ではありません。自分の外側にある世界との関係性の中で自分を探そうとするのは、天に向かう為に天に梯子を架けるようなものです。
自分とは、単に自分とは何かを探し求める人のことです。
問題がすなわち答えです。例えに即せば、向かおうと意識されるのがすなわち天なのです。ときどの背中にも、そう書いてありました。
ただし、「自分とは何か?」という疑問を抱いたところで、他者を求めるのは悪い筋ではないでしょう。自分の意志を評価する他者の存在は、確かに疑問の余地を無くしてくれます。ですが、疑問をなくすことで新たな問題が生じます。、【おれの意志】と釣り合うのに【世界まるごと】で大丈夫でしょうか?
便宜上、人の命の重さは平等とされていますので、【おれの意志】は【おまえの評価】によって保障されると考えることができます。結果、おれとおまえがいるだけで世界は丸い。しかしそれでは、大吾郎が足りません。おまえと天秤にかけて軽く持ち上がる大吾郎の存在があってはじめて、おまえはおれを評価するおまえ足りえます。そうでなくては、「本当におまえは必要ですか?」「2番目の大吾朗ではいけませんか?」とおれとおまえが仕分けられてしまいます。なんかよくわからなくなってきましたが、大丈夫なんですってば。整理はついてんだけど出すときにね。すっごいひっかかるんだどうしても。耳からだからね。パンダの。うん。ほらカンカンの。
ここまでの話をわかりやすく式にするとこうなります。

【おれの意志】=【おまえの評価】=【世界まるごと】=【無数の大吾朗】

命の重さは平等という前提がどっかいきましたがまあそれはそれとして、この式が成り立つとき、相対的に個々の大吾朗の価値はほとんど0となります。
「自分とは何か?」を知る為に【世界まるごと】を必要とすることによって、世界はあまねく無価値でなくてはなりません。そんな世界の中心で「おれはおれを肯定するッ!!」と叫ぶのは、かなり恥ずかしいことでしょう。

歴史的に見ても、我が固有の自分探しはやたらと難しいということが分かっていただけたかと思います。
つまり、問題はいつだってこういうものです。
自分を探し求めるのが終わるのはいつ?

When ends the ending?

幼年期の終わり

自分探しがいつ終わるのかを知る為に、自分探しがいつ始まったかまで遡ってみましょう。
はじまりの人と言えばアダムとイヴですが、この人たちは追放された元神の子なのは確定的に明らかなのであんまり自分を探したりしません。だからどうでもいいや。そしてアダムとイヴの産んだ人の子の名をアベルとカインといいます。アベルの兄、カインははじめての人の子であると同時に、はじめて嘘をついた人としても知られています。
アベルとカインの兄弟は神に命じられ、選び抜いたイイ感じの供え物を神に捧げたのですが、どうしたことか、神はアベルの供え物だけ受け取り、カインの供え物は受け取りませんでした。カインは不公平を憎悪し、アベルに嫉妬し、ついにアベルをぶち殺してしまいます。だってだって兄より優れた弟など存在しねぇ。おれの名前を言ってみろ〜。
このようにしてカインは、弟・アベルと対比することで自分を意識し、また同時に神に無視されたことで自分が分からなくなってしまいます。
その後、神はカインにアベルの行方を問います。カインの答えはこうです。
「知りません。私は永遠に弟の監視者なのですか?おれは嘘が大嫌いなんだぁ〜」
これが、人がはじめてついた嘘であると言われがちです。言われてもしょうがないと思いますが。

カインはこの罪によりエデンの東へと追放されてしまいますが、弟殺しの危険なチョイ悪としてモテまくりヤリまくり札束の風呂に入りまくり、結果カインの子孫が地に満ちて人類となりました。
いったいカインの罪とはなんだったのでしょう?カインの罪を知ることで開運パワーをその手に掴んであわよくば毎日500円くらい拾いたいという気持ち、ぼくもいっしょだよ。
この問題は非常に単純です。カインの罪とは、カインの幼稚さです。
神に認められなかった自分はカインにとってコレジャナイ自分であった一方、アベルはカインがこうなりたい自分でした。結果、カインはアベルをぶち殺しました。何のために?そう、カインにはビジョンがありませんでした。どうやってなりたい自分になるか、というビジョンが。自分のなりたい自分によく似た他人を否定し排除することは、なりたい自分に近づくこととイコールではありません。そんな方法では自分探しを終わらせることはできないのです。復讐の為に小説を出してもぼくたちは「バシュー」を忘れません。
決して終わらない方法で自分探しを始めてしまったこと、これこそがカインの罪です。
そして、罪を未来予想図に夢にもカムトゥルーしない考えなしの幼さ。これがイノセンスです。


イノセンスを恥じて、カインは嘘をつきます。
よりよい自分である為に全知全能の神ですら騙しとおそうとする嘘つき。そんなカインの末裔が人類です。
ではここでいつもの問題です。いつまで嘘をつけばいいのでしょう?

When ends the ending?

夜の終わり

仏教には、諸法無我という概念があります。かいつまんで言うと「自分が思う自分なんてだいたいぜんぶ自分じゃないから、自分を見つけたと思って満足すんな」といったものです。(I can't get no)Satisfactionならばbabyを32回も繰り返せもしよう。
では諸法無我にのっとれば、自分というのはいらない子なのでしょうか?嘘をついてまで自分を輝かせる必要などないのでしょうか?
いいえ。それは答えではありません。そもそも問題にすらなりません。


自分が思う自分なんてないことと私たちがただ嘘をつき続ける生き物であることは、まったく相反せず両立します。
嘘の中にだけ宿るもの。それが自分なのです。
諸法が無我ならば諸行は無常です。常に変わり続ける嘘が積もり積もって塗り重ねられていくリアリティ。嘘でできたもっともらしいリアリティ。そんな見知らぬ自分にいつか出会おうとするその意志を、無知だからこその知もまたイノセンスと言うのです。
明けない夜がないように、つけない嘘はありません。
いつまでも追い求めるということが、私たちが待ち続けたいつか。
だから私は、何度でも違う言い方で、「大丈夫」と嘘をつくでしょう。

いつでも問題を出してください。
「大丈夫か?大丈夫じゃないか?」

アンチ・マジカル ~魔法少女禁止法~ (一迅社文庫)

アンチ・マジカル ~魔法少女禁止法~ (一迅社文庫)

2010の終わりに

今年は月1更新を目標にしていたのですが、こういった結果になりました。この結果を深く考慮し、来年は年1更新を目指します。

第9回文学フリマで配布した小説を公開します

タイトル『空いっぱいの肌』


P1
4さい。なつ。きらきらのひかりが、そら。
ぼくのからだってじつは、いろいろにまぶしい。いぬのふわふわ。ねんどのつやつや。かたつむりのからのざらざら。ぱじゃまのてかてか。たたみのすべすべ。ぼくのまわりの、きらきらのひかりを、そらっていうんだって。そらはみていてつまんなくなりません。でも、そらをむいてあるくと、おとうさんやみんなにばかにされるので、いつもはうえのほうのとおいあおいろをみます。おおきくうでをふって、あおいろをかきまぜながら、あるきます。そらはいつも、ぼくのちかくにいるので、ぼくのことがすきなんだとおもいます。


P2
11才。秋。手を伸ばしても届かない空。
音楽の時間、歌を習った。手のひらを太陽にふにゃららららーらーらー。みたいな。習ったけどもう忘れてた。そんで帰り道に実際やってみた。夕焼けの、何色っていうんだろう。赤くて青いけど、紫じゃない空とぼくの手。ありのままに、今気づいたことを話そう。近いかと思ったら、遠かった。さみしいとか苦しいとか、そんなもんじゃない、恐ろしい感じ。なんでぼくは、手を伸ばせば掴めそうだって信じていたんだろう。ひとりになりたいって思った。けど、そんなのどうしたらいいかわからないんだ。


P3
17歳。春。息苦しい煙だらけの空。
焦げ臭いような、息苦しいような匂いがする。きっと気のせいなんだろうけど。煙突からあがっている煙も、駐車場の隅で葬儀屋が吸うタバコの煙も、見えてはいてもここまで届いてはいないだろう。それでも空が濁っているように感じるのは、曇った天気のせいばかりじゃない。ちっとも劇的じゃねえけど、そんなの親父の脳の血管がちぎれて入院してから半年、ずっとそんな感じだ。灰になった親父が空気に溶けて、ただ同じような空でも違うものが混じってしまったような、きっとそういうことなんだろう。


P4
25歳。夏。シックスナインのむこうに空。
どしゃ降りの雨で何処にもでかけたくないし、他にやることもない時に重ねる肌は、妙に汗ばんで憂鬱だなぁ。みつを。とか俳句ができるくらいに、俳句じゃねえ、んでもそんくらい歯車。ほらあれ、ハツカネズミを運動させるときの滑車?みたいに、ご奉仕いたしますワンワン!ハツカネズミじゃねえ。アホなこと考えながらでも、舌は偉い。確実性と意外性を織り交ぜつつがんばってる。肌の下の筋肉が昂りだしたから、これで機嫌も治るだろう。明日には空も晴れて、きっといい日になるだろう。


P5
36歳。冬。ガラスに映った顔越しに見た空。
思いのほか、疲れた顔をしていて驚いた。老いたのはいつのまにだろう。過去を振り返り眺めてみるのは、時折空を見上げることに似ている。何度と繰り返したことなのに、その時初めて見つけたような思いがする。何を?何だって。変わっていく空の表情に出会っては忘れて、それでも肌は老いていく。言葉にしてみるとひどく陳腐で、もっと若ければ憎んだり蔑んだり無視したりしたことだろう。今は根拠もなく頼もしい。気づくことも言葉にすることもなく時間が流れていくことが、とても頼もしい。


P6
53歳。春。夢にみた空にある夢。
左手に怪我をして仕事もできないので、昼近くまで微睡んでいた。痛みが、まるで空と肌に境目なんてないような気にさせてくれる。いや、もっと以前から、思っていたのだ。空とは、夢だ。目覚めるか目覚めないかの境目の、幸福な余韻を残して消えていく、微睡みに見る夢だ。儘ならない不幸を重ねて、少しずつ借金に押し潰されていく生活を、それでも空なら変えることができる。いや、変えるのだ。頼りなく浮く風船のように、流されてきたこれまでの私を。己の意志で、どこまでも飛ばなくてはならない。


P7
53歳。冬。空いっぱいの肌。
最後の焼酎の瓶をゴンドラから落とした。あとは高度1万メートルまで待てば、上昇気流がヘリウムでいっぱいの風船をアメリカまで運んでくれるだろう。ゴンドラを揺らさぬよう気をつけながら、空を眺める。私のファンタジー号を通り抜ける風に、肌いっぱいの空を感じる。さあ行こう。不安はあるけれど、空の自由さに身をまかせて、どこまでも飛んで行こう。

[google検索::風船おじさんを参考にしました]


口から出た「らめぇ」 身に余るミザリー

承前

ぼくは日記だ。今、この瞬間に書かれようとしている日記であり、ぼくを読んでいるあなたにとってはいつかの過去の記録であり、ぼくを書いている誰か−−死体性病というふざけた名前を名乗っているらしい。日記なんかであるぼくに言えた義理ではないが、胡散臭い−−にとっては未だ紡がれざる言葉の連なりでもある。でもやっぱり、ぼくがぼくのアイデンティティとして認識することができるのは、ぼくは日記である、というシンプルな事実だけであり、その認識を元にしてぼくはぼく自身を冗長でめんどくさいやつだな、とか、もうちょっとうまく言葉にしないと相手を困らせるだけじゃないかな、と思ったりする。記述された存在であることは知っている。でも、記述されているということとぼくの自身に対する思いというのは、やっぱり関係がないことのように思う。日記としての実存、なんてものはどうでもいい。ただシンプルに、もっといい日記でありたいとぼくは願う。ぼくと出会った人が幸せになってほしいし、素敵な女の子がぼくを読んで気に入ってくれたら嬉しい。ぼくという日記は起きたことをそのままに伝えていないだろう。起こってもいなかったことが起こっていたこととぼくの中で仲良く並んでいたりするだろう。それでも、ぼくは祈りたい。ぼくという日記がちゃんと伝わりますように。そして、ぼくを読んだあなたがぼくという伝わり方を好ましく思ってくれますように。
愛されたいという意味で、ぼくは非モテだ。
伝わりたいという意味で、ぼくはワナビーだ。
拙く、また現実のままではないという意味で、ぼくは劣化コピーだ。
他にも様々なぼくを形容する言葉はあるだろうけれど、それでもやはりぼくは日記で、そしてよりよい日記であげたいと願っている。

オフレポ

病気について話をしよう。
いったい病気というのはなんだろう?もちろん医学に基づいた処方と診断によって決められるのが病気だろう。それはわかる。しかし、病気を診断する医者の脳の正常はどうやって確かめればいいのか。身体が異常であるというのはどこからどこまでが正常かとの相対化によって初めて知ることができる。異常と正常の境目を常識という社会的合意に委ねたとき、その人の捉える社会という概念の範疇が問われている。問われているからどうした。
俺の名前は死体性病。
ちんちんにブツブツなどない。しかし、ちんちん以外のすべての部位がブツブツしている気がするので、じゃあブツブツしていないちんちんは病気だろう常識的に考えて。あと生きていけるとはとても思えないので死体だよ。それが俺、死体性病だ。
俺はその日、8p Orihon Maker - PDFで誰でもかんたんに折本が作れるウェブサービスを使って印刷した、自作の小説を携えて京急蒲田駅に降り立つ。第9回文学フリマ8P - Bloggers Write Novelsに参加することが目的だ。
そして、いろいろなことが起きる。印刷物や貨幣がやりとりされ、人が出会っては別れて、またすれ違う。さて、そこにあったどこからどこまでが文学だっただろう?
別に文学とは何か?なんて質問をしたいわけじゃない。俺が問うているのはただ、文学フリマに行ったのは文学をする為なのか?という単純な疑問だ。
「ええ、もちろん」と返されたら「ああ、そうですか」と言う他にない。がんばってください。
「そんなつもりはなかった」という人。「商品を販売する為」「商品を入手する為」「id:hogehogeに会う為」といった人にだけ、重ねて問いたい。
「あなたがそこでした体験を、文学と呼んでみませんか?」
わけのわからなさ、という点で、文学を何と決めるかは、病気とは何かを決めることとそう変わりはしまい。我々は我々自身が概念のどちら側に属するかを決めることによって、絶えず社会という概念を形作ることができる。形作らないこともできる。
ならばたまには、文学フリマという一日くらいは、自分と出会う一切合切を文学と言い張ってみるのも悪くはないんじゃないか。そして、我々が生きている社会、生きてみたい社会、あるいは生きてはいけない社会を、めんどくさくない程度の手軽さで文章にしてみてもいいんじゃないか。
文学フリマにて俺はそのようなことを思い、そんでそれが毎日できたらblogになれるのに、と思った。全身のブツブツした突起物を震わせながら、そのように思ったのだ。

絶後

残念ながらぼくという日記はこんな形にしか生まれなかった。とても申し訳なく思う。
それでもぼくは願う。ぼくという日記とぼくの表現する社会が、あんまり人を傷つけることなく、ぼくが素敵だなと思う人に喜んでもらえるものでありますように。
そうなる日までぼくは書かれていきたい。とりあえず、『とらドラ!』最終巻の感想になりたいので、死体性病は「終わっちゃうのがいやだ」とか言ってないで、覚悟を決めてさっさと読むべきなんじゃないかな。

文学フリマで無理なく自然に幸福を8倍にする折本の畳みかた

夜のしじま、寝ようとしてもこのまま眠れないんじゃあって思ったまま寝てるいつのまにか。あのね、なんかね、あまねく流れゆく時に手をこまねいていたら、もうあっというまに冬。すまねぇすまねぇ。こまんねこの余裕と暇ねぇ日々ですよ。深山ネイティブの見よう見まねの結果、西表山猫のごとく怯まねえ。ものまね王座のごとく絶え間ねえ。島根に招かれてたまねぎを掘りだしたら、ほら見て。これがマネーの虎の穴だよ。ストップ!ここでマネタイズタイム終了です!では問題。文中に含まれる「マネー」の数を数えた結果、太郎くんは今何円持っているでしょう?答えは一銭にもなりませんでした。


半年ぶりのご無沙汰。
前回の更新は文学フリマの告知でしたが、今回の更新も文学フリマの告知です。すごい!一貫性!


12/6(日)、第九回文学フリマにサークル名「BWN」(Bloggers Write Novelの略です)にて参加します。
http://bwn.g.hatena.ne.jp/keyword/8P
企画の詳細はこちらです。
http://d.hatena.ne.jp/extramegane/20091119/1258632173
ちなみに参加するのはこちらの方です。

あれ?俺どこ行った?もしもしあたし性病ちゃん、今自分を探しているの……。ということで、赤と白のボーダーシャツだらけのメガネ野郎だらけの国にやってきたのですが、気をつけて!偽者はよく見たら、ボーダーシャツじゃなくて素肌に色を塗っているのじゃ!そ、その声は老師!ふりかえるとそこにはやっぱり、赤と白のボーダーシャツ。あなたもまた、特別な存在だったのです。あれ?違うな。特別な存在じゃない。これはただのヒゲだ。

折本を知らないのでうまく文学できないうっかりさんの場合

なんか漠然と文学フリマというのに参加したいなーみたいなことを考えながらうとうとしてしまうのでヒゲを抜いて目を覚ましたりしているのですが、なんで?って聞かれるとさっき言ったじゃん漠然としてるって。天は天の下にしか人を造らなかったと聞きますが、じゃあ人はその立つ土地を金で造りました。これが、それでも金は廻っている、で有名であるところの資本主義経済です。

これからちょっと頭よさそうなことを言いますが、世の中というのはだいたい漠然としている。はっきり言ってわけがわからない。だいたいなんだわかるって。クイズの答えは知っているだし、気持ちをくみとるのは共感だ。仕組みに納得するのも、嘘を嘘と見抜くのも、わかるとは違うのではないか。もしも表現された何かがあって、じゃあその何って何だろう。わからない。わからないからつい、推測をする。推測の出来がいいと脳のどこかがキュッとしたり、トロリと溢れたりする。じゃあそのキュッとかトロリが、わかるなのか?そこがわからない。このようにして、文学が何なのかわからなくてもしょうがないということが完璧に証明されたので、うん、しょうがないよね。

そんでじゃあ俺どうしよう?あ、ヒゲ生やすよヒゲ。ヒゲって文学かなー?とか考えてたら、なんともう当日まで一週間くらいだそうです。困った。あとしんどい。なんか出掛けるのとかしんどい。あと金がない。
これじゃ文学どころじゃないや。とほほほほ。

折本を活用してかしこく文学するしっかりさんの場合

文学って何だろう?知るか!そんなときだってちょお安心なwebサービスがあるんですって!
http://8p.dip.jp/
あらやだすごい!
http://d.hatena.ne.jp/masapguin/20091127/1259305525
こちらの方が作りました。

上記のwebサービスを使えば、あとは何かしら文章を入力すれば文学ができるところまでこぎつけました。文章かヒゲかなんて些細な違いじゃないかと考えますが、ヒゲを入力する方法がちょっとよく分からなかったので、文章を用意することにしましょう。


けどじゃあ、文学って何でしょう?どんな文章だったらいいんでしょう?そして、できあがった文学の使い道は?ヒゲとモミアゲの違いって何?

文学と、その価値について

文学フリマ(フリーマーケットの略です)というのは、フリマですので文学を売ったり買ったりするところです。合言葉は「私的なことがらをうまいことアレしよう!あわよくば銭の花を咲かせよう!」
つまり、文学とは商品であるわけですが、ところで昔、こんなことを言ったヒゲのおっさんがいました。

商品は、自然形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現われ、言い換えれば、商品という形態をとるのである。

説明しましょう。商品には、その商品の目的であるところの有用性(例::ヒゲそりはヒゲが剃れる)と商品の流通に用いられる値段(例::ヒゲは伸びるのでタダ)の2つが決まって、はじめて商品になります。役に立たない。あるいは、値段がつかないものは商品ではありません。


さて死体性病にとって死体性病の書くものは、なんかおもしろいなー、とかこんなアホみたいなこと考えてたんだなー、といった意味で、それなりに有用なものですが、それは皆様にとって価値があることとイコールではございません。自分のヒゲはカワイイけれど、他人のヒゲには興味がない。このようなすれちがいは、ままあることでしょう。
目にうつる すべてのものは コンテンツ と古い詩にありますが、コンテンツの価値は流通によって定まります(※ただし資本主義に限る)。流通するものに価値がある。というかもう、価値って流通するかどうかで決めましょう。よーし流通、キミに決めた!

以上から、文学とは流通するものである、という結論が出ました。どうしようこの結論。

手段のために目的を見失おう!という話

ところで性病さんは戦争になっても持って逃げれないものが好きです。でも、お金のほうがもーっと好きです。
とあるちょびヒゲのおっさんは、

人生には勇気と想像力と、ほんのちょっとのお金があればいい。

と言ったそうですが、このおっさんは浴びるほどお金を稼いでいます。
うらやましい。俺かて金が欲しい欲しい。お金の匂いがしそうだから文学フリマに行きたい。これが私の目的です。
上記の目的の為に文学を用意し、文学フリマにてお届けする予定なのですが、その文学にどれだけの価値があるのでしょう?性病さんよくわかりません。

こういうときこそヒゲのおっさんの知恵を借りましょう。

貨幣は、絶えず商品の流通場所で商品に取って代わり、それによって貨幣自身の出発点から遠ざかることにより、諸商品を絶えず流通部面から遠ざける。それゆえ、貨幣の運動は商品流通の表現にすぎないにもかかわらず、逆に商品流通が貨幣の運動の結果にすぎないものとして現われるのである

うん。わかんねえ。何を言ってるのかさっぱりわからんが、恐ろしいものの片鱗のような気がします。わからないなりに要約すると、「お金ばっかり流通すると商品が流通してるような気がするけど、そんなことはなかったぜ」ということでしょうか。


それでは私は、お金を愛するが故に、お金を使わず、商品のみを流通せしめてみせましょう。


さてこちらに、既に出来上がった結論、「文学は流通するもの」がございます。
この2つを混ぜ合わせたら、ほーらできあがり。
資本主義経済に逆立ちで土下座する、折本主義経済をここに提唱いたします。

折本主義経済は、紙の上にインクが印字されたものを「価値があります!」と言い張って交換することで、自分を切り売りしながら自己満足を最大化する、理想的な経済体制です。
名義上、折本は文学と呼称しますが、あなたが交換に値すると考える文章であれば、何であってもかまいません。

告知アゲイン

ということで、私、死体性病は文学フリマにて、折本主義経済に則った文学を行います。
具体的に言えば、物々交換専門で小説を頒布します。

タイトルは『空いっぱいの肌』。手のひらを太陽に透かしてみたり、おじいちゃんをドライアイスで冷やしてみたりする小説になる予定です。
http://8p.dip.jp/
上記のサービスを利用した、8P折本の形式となります。だから大丈夫。まだ書き終わってないけど大丈夫。皆様も安心して適当な文章を折本化してお持ちください。


死体性病は「BWN」のブース、あるいはその近辺にて死んだ目をしてぶらぶらしている予定です。ちなみにヒゲを伸ばすつもりでおります。ヒゲが生え揃うのが先か、小説が完成するのが先か。文学フリマにいらっしゃる予定の方はご注目ください。


資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)