日仏会館加藤周一記念講演会

今年の講師は長谷川宏氏。当時の様子をレポしてくれている人のところから質疑部分だけ
を以下引用させてください。
質疑
会場:亀井勝一郎の名が出たことに驚いた。戦後、加藤が名指しで批判している日本浪
漫派の一人だ。ところで加藤が三木清について言及した例はあるか?
他の聴講者:ないのでは?

会場:加藤が医者だとは知らなかった。1960年の渡仏船には自分も医学生として乗って
いたが、実績は?
他の聴講者ら:戦後米軍に同行して原爆後の広島に調査に入った。裏千家塩月弥栄子
のご主人である塩月先生と一緒だった。フランスではパスツール研究所にも籍を置いた
。留学は往復運賃だけが仏政府給費だった。
三浦:(したがって)加藤を悪く言う人は、本当の仏政府給費留学生ではないという。

三浦さんが「加藤を悪く言う人」というのは滞在費もフランス政府が出してくれたらしい
平川祐弘東大名誉教授である。

丸山真男の加藤周一著作集についてのダベリ

加藤周一著作集」をめぐって ―W 氏との対話―(1980.3)
丸山真男別集3 2015.6
W は当時平凡社で編集者をしていた鷲津氏。丸山による著作集月報の準備のための対談の記録控え。丸山はこれを元に別に執筆。
W
・加藤への反応として加藤ファンと拒絶反応を示す人の2種類。
後者の例:世阿弥の「花」概念を観客の反応にかかわる概念としてつかまえた。(岩波日本思想大系24)国文から反応ゼロ。
日本文学史序説も専門家からの反応がない。
「ある孤独感を感じる」
・読者からのスター的な反応
医学論文までいれろ、英仏独まで全部入れろという要望。
M・ 森有正の読者のことは良くわかるが、加藤のファンのことは正直想像しにくい。
加藤と違うのは命題の叙述の面がほとんどない。加藤のは事実の叙述の面があるけど、完全に自分の思索。森の場合はそれが逆に受けるところがある。それが非常に文学的な表現になされているから、事と言とを分けると、むしろ言葉のほう。
W一種の知的ミーハーの人たちではないところで、あっちをかじり、こっちをかじりじゃないかという批判がある。とにかく何についても発言できて、国際的にも活躍できるような人に対する一種の憧れみたいものが学生の間にある。
M・戦争直後のマチネ・ポエティークの時代ならともかく、こういう70年代のしらけの段階になって加藤君の読者層が若い人であるというのはよくわからない。
・(若者が異端を好む)という点では吉本隆明なんかが受けるのもわかる。ただこの人は異端とはいえない。僕は大変正統的で立派な批評家だとは思うけれども、それなりに若い人にうけるのはわかる。しかし、吉本君は政治論文はほとんど書かないし,書けないだろうと思うんです。例えば今度のアフガン侵攻とか具体的な問題を分析するというようなことは、実際に書かないだろうし、書けないだろうと思う。それが加藤君なら書けるわけだ。ところが若い人にそういう政治的関心が非常に減退している。
W/1万刷って80%売れている。森有正は2万。後半でも落ちない。読者は9割以上が男性。
M 日本ではきわめて受け入れにくいタイプの人だというのが実感。なげかわしいけれど現実はそうです。逆にそれを受け入れる方がわからない。(笑)
森有正の男性読者は、ぼくらのような戦前派から言うと、男か女かといいたいようなの仲に熱烈な森ファンがいる。神経は繊細だけれども、ひ弱な、少したくましさのかけているような男性ね。拒絶反応は文学者が一番でしょう。それと大学教授、国文学史をやっている人。
W フランス文学をやっている鈴木道彦、海老坂武、阿部良雄のような人は、学生時代に触発を受けたので、好意的。日本文学のほうからは反応ゼロ。
M 例えば政治学の人々の間でいうと逆に拒絶反応があることが理解できないぐらい非常にナチュラルに受け入れられている。要するに文学者の中で、政治学者と同じ言葉を使って、普通に話のできる人がほとんでいないわけですよ。例えば60年安保の時に学生であったというような人でも社会科学系の人には拒絶反応はないですね。文学者として政治評論を書いて、政治の人からみておかしなところが全然ない、検討違いを書いているなんていうことはない。こういう人は文学者には少ないんですね。
・丸山がハンガリー事件の時に「世界」で座談会をやったときに埴谷を推薦し、竹内好も参加したが、海外留学中の政治学者が埴谷が何を言っているのか自分には全然わからないと手紙をよこした。丸山は埴谷がいっていることは一応わかるが、普通の政治学をやっている人には全然通じない。政治学的にいうとあまりに常識からはずれている。
・60年はじめに開高健から「丸山さん、加藤周一っていうのは芸術がわかると思いますか」っていわれてたまげた。杉浦民平、「未来」の同人、戦中派安田武の拒絶反応はわかるが。
木下順二と議論になり、丸山が「ああいう人がいてもいいんじゃないか」といったら「それが加藤君についていいうる最大の評価だ」といっていた。
・30そこそこまでは引っ張られる。で全部初年兵教育でしょう。しかも幹部候補生になるのはいやだから拒否する。
・今はまたタコツボになっちゃいましたけどね。現在はもう驚くべくひどいでしょ。
・加藤君に対する拒絶反応はそういう中野・桑原的な「広さ」に対する批判一般に解消できない何ものかがあるんじゃないかというのが次の問題。
W・花田清輝が生前加藤について話をしたことがあって、一言で「半可通」といわれた。 
平家物語石母田正の平家をほとんど下敷き、成島柳北前田愛、極論刷ればほとんどそれを超えていない。鴎外は石川淳中野重治。そういう風に一つ一つそれぞれのところで専門家は見えちゃうという面があり、そういうところから大したこといっていないよ、というふうになってくる。しかし加藤の狙いはひとつひとつではなく全体である。
M 戦争直後の反発のひとつはハイカラ趣味。
・戦国時代の「横目」(横目付)
・日本的陽明学知行合一で実は行を優先させるというのが、三島由紀夫を始めはやるわけ。
加藤周一はいかなる問題でもある程度以上の実践的な問題にはコミットしないわけです。ぼくもそうだけれど、ぼく以上にそうだね。彼は。それはもう見事といっていいぐらいコミットしない(笑)そうすると日本的な道徳基準からいうと実にずるいヤツだということになるわけですよ。そういう日本的モラリズムからの評価が一つないだろうかという気もするんです。
W どういうわけか、加藤さんというのは贅沢な暮らしをしていると思われているわけです。大方の人がそう思っている。
M 銀座のバーでの岸田国士「暖流」(松竹、吉村公三郎監督)について、なぜ高峰三枝子(病院長の娘)より水戸光子(看護婦)にほれたかという議論。
文学史序説における紀貫之菅原道真、政治経済的支配層と文化的創造者としての知識人との分離の指摘。
津田左右吉「文学に現われたる国民思想の研究」(1916−21)との比較
・一方は従来の伝統として考えられていた思想史を解放し、少なくとも非常に広い、総合的な視野から歴史叙述をしてしかも思想をテーマとした。一方は文学というものを思想史的な文学のなかでとらえた、そういう意味でぼくは非常にパラレルなものを感じたわけです。
・お二人とも専門分野からは完全に孤立し、無視されている(笑)
ゲオルゲ・ブランデス「19世紀文芸思潮史」
・R.G.Colligwood
・Egon friedell 近代の文化史
・Friedrich Heer Europaische Geistesgeshichte 1956
・加藤著は通時的的かつ共時的である。
・加藤著で津田さんを思い出したのはイデオロギー批判。イデオロギー批判というのは外在的批判、つまり社会的、政治的条件から思想なり作品なりを説明していくいき方で、これはいまはあまりはやらない。
・そういうイデオロギー批判が無さすぎる。これを日本でやったのは津田さんです。ただ、津田さんのはちょっと破壊的すぎてね。さすがに加藤君はもう少し内在的にみています。津田さんは偶像破壊をしすぎてしまい、イデオロギー批判のやりすぎだ(笑)、戦後はその反動で、今度は記紀神話にしても津田さんはいいところばかり強調するようになったけど・・・。
プリンストン比較文学のある有名な人が報告したが、江戸時代の何とかという僕の知らない絵描きの画風がロココに似ているという話。うちの女房が「だからどうだっていうの?」。「お前には珍しく、今日の報告に対する最も鋭い批判だ」と女房にいった。ただ比較しているだけで、何のために比較しているのかという問題意識がさっぱりわからない。
・津田さんが加藤君と似ているところは書誌学的趣味がゼロなんですよ。P297
・加藤君に僕が感心するところは、非常に簡潔であることと、フランス的志向のいい面で定義が明確であること、これは日本人には足りない面です。
・逆説の使用、これも津田さんにはない面。
・アストン「日本文学史」を読んでいる。
・日本でいわれているのと全く逆の辛らつな評価を今は別れちゃったオーストリア人の加藤夫人から聞いたことがある。ウィーンのホテルで一晩ダベッたところ一晩中加藤批判だった。その時の加藤評価は日本でいわれているのと全く逆。彼女が言うには、加藤の役目は、ヨーロッパあるいはヨーロッパ的世界にいてヨーロッパ的世界の目で日本をみて、それを日本や日本人に伝えることにあるのだが、彼には非常なコンプレックスがあるということなんです。つまり、少し外国にいるとあいつはヨーロッパにイカれたんじゃないか、日本人でなくなったんじゃないかと思われそうだというコンプレックスがあって、しょっちゅう日本に帰ってくるが、それが彼にとってはマイナスであるという批判なんです。なんというくだらないコンプレックスであるか。加藤の使命はどこにあるのか。ヨーロッパ文化を内在的に捉えられる人は、日本ではまだ非常に少ないのに、それを自分の使命としないで、1年ぐらいヨーロッパにいるとしょっちゅう日本へ帰る。日本との接触、日本人との接触が失われることを、彼は極度に恐れている。そして日本にもいいところはあるとか、そんなあたりまえのことをいったり書いたりしているという(笑)。辛らつな批判ですね。(中略)
もっとヨーロッパにのめり込め、10年帰らなくてもいいではないか、日本人の知友がいなくなってもいいではないか、もっと自分の使命がどこにあるかを考えろというわけです。
・森君の加藤君に対する批判もややそれに近いですね。加藤君もやはりコンプレックスがあって、日本人だから日本としょっちゅう行ったり来たりして、日本人とも接触を保とうとする。それぞれ考えがあるのだから、加藤君は加藤君の考えがあると思いますが、さっきのを足してニで割るとちょうどいいのではないかと思うぐらい、日本の中での拒絶反応と全く逆なんですね、奥さんからみた加藤君は。
・ぼくは絵というのは全然ダメだから、彼と話すのは音楽ですが、彼はバッハから現代音楽まで、すべてわかるわけです。ぼくは逆で、現代音楽はバルトークぐらいまではわかるけれども、後は全然無縁です。また一般的に少しずつわかるようになるので、非常に遅いんです。オクテです。ブルックナーなんか面白くなったのはつい最近です。
ベートーベンの弦楽四重奏なんていうのは学生時代には全然わからなかった。あんなのお経みたいもんだと思っていましたよ。
・加藤君は驚くべき感受性で全部わかっちゃうわけです。加藤君が好きなピアニストでミケルアンジェリという人がいます。ぼくも天才だとは思うけれども、どうしても受け入れられないような種類のピアニストですね。芸術家を分類するのは無茶だけれども、非常に知的な演奏をする。非常に変人らしい。確かに天才だとは思うけれども、とてもかなわない。ところが彼はすばらしいという。だからその辺は感受性の構造は違うなとおもうんですけれども、同時に芸術作品のあらゆるジャンルを全部受け入れられる精神というのは何だろうと思ってしまう。それがもう一つぼくにはわからない。驚くべき理解力ですね。文学史から何から全部そうです。強いて疑問といえばそこですね。究極的にいちばん芯のところには何があるだろうというのがわからない。しかし、驚くべき理解力であることは確かで、けっして嘘じゃない。本当に感受しているんです。
みんな感受しているに違いないんだけれども、その感受するこっち側の鏡というのは非常に等質的で透明だという感じがするんです。いわゆるよくいうところの知的、分析的という意味ではないんですが・・・。
ミケランジェリを受付ける精神なら後記ロマンティークのある要素はとてもかなわないということになる。どっちかじゃないかと思います。それが両方とも感受できるというのですから、その精神はなんだろうか(笑い)
・最近のピアニストをみると、すごく感覚的になって、そっちの方がどんどん進歩している。そういう意味では内面性が希薄でねえ。
 ・極端に衰えてしまったけれども、ケンプのよさミタイのものは、今の若い人は全然わからない。昔のケンプの演奏を聴かせても「どこがいいんですか、先生」という。嗚呼、そうかなぁ、ドイツ精神ついに滅びたかと思ってね。
・(ヨーロッパでは)いやになるぐらい伝統的ですよ。全部デカルトから来ているのが話してみるとわかる。

「女ざかり」と最高裁判事

 『女ざかり』刊行後、衆院選があり、同時にある最高裁判所判事を
選ぶ○×式の選挙(?)用に、候補者たちの経歴や趣味を紹介する
新聞紙面の最近読んだ本を挙げる項目に、『女ざかり』を挙げている
人物がいたが、私はもちろん×をつけた。
 金井美恵子・新・目白雑録 P202 落穂ひろい7
 「こんなに沢山の自販機は全く不要である」と「ヘップサンダル」
  2016年5月

・しばらく前の新聞朝刊の読書欄に、裁判官出身の女性人事院総裁
読書暦についてインタヴューした記事があって、子供の頃鶴見俊輔
作文を添削してもらった経験があリ、その影響が今でも残っている、
というのにも驚いたが、それ以上に驚いたのはこの女性があげている
何冊の本が(人前で講話をする必要があるからという理由を一つに挙げて)
とても人前で常日頃こういう本を読んできましたという普通はあげない
レベルの本であったことで、この女性人事院総裁に限らず、財界人とか
で功なり名なりあげた人々が愛読書としてあげる本がすさまじいことに
なっている気がしてならない。鶴見俊輔が「がきデカ」や「寄生獣」を
愛読書に挙げるのとは意味が違って、司馬遼太郎で近代日本史を勉強して
みたり、新入社員が読んでいる(本人も若い時読んでいた?)ような自己
啓発本を並べてみたりして、ご当人の仕事ぶりとその会社や組織の内情が
そのままにじみ出しているのであった。

フランス思想の「難解さ」

http://www.openculture.com/2013/07/jean_searle_on_foucault_and_the_obscurantism_in_french_philosophy.html
ジョン・サールによるフーコーの思い出」
わたしはフーコーの講義と会話の明晰さと書くものの晦渋さのコントラストを
不思議に思っていました。そこである日(・・・)昼食をとっていた時、単刀
直入にたずねました。「ミシェル、何で君はあんなに難解な書き方をするのかね。」
これに答えて彼が言ったことは極めて示唆的であるように思います。「私がもし、
君と同じように明晰に書いたら、パリの連中は私を本気に受け止めないだろうよ。
私の書くものを子供っぽい、おめでたいとかんがえるだろうよ。」「フランスでは
少なくとも10%、理解不可能な部分がなければならないんだ。
・・・・
のちにコレージュ・ド・フランスに招聘された機会に、ピエールブルジューにその話を
しました。フーコーと交わした会話を伝えたのです。ピエールはすぐに話に乗ってきました。
ほぼこう言いました。フランスではある本が真剣に受け止められるためには、10%では
だめで、少なくともその2倍、20%は、理解不可能な部分がなければ、と。

加藤晴久 「ブルジュー闘う知識人」講談社選書メチェ2015年P155

鴎外の遺言の読み方

http://gunnkei.sakura.ne.jp/99_blank139.html
平川祐弘の旧著「和魂洋才の系譜」が河出書房から豪華装丁で出たらしいので中を
覗いてみたら、中野重治との論争についての東大の学生の意見を引いた反論や
竹内好の言いがかり?への言及が平凡社ライブラリ版を引き次いでそのまま載っていた。
解説の粕谷一希も平川の肩をもっており、この本の肯定的な外国人研究者の書評も
一緒に載せているが、批判的または懐疑的な書評はもちろん載っていない。
何を読んでみても真芯を捕らえない2002年松岡正剛の書評はくだくだ長いだけで、それこそ
平川著を読んだ方がよい。
「本書には刊行当時は反発もあったらしい。とくに中野重治からのクレームが議論になったようだが、これはのちに読んでみて勝負にならないものだった」。
http://1000ya.isis.ne.jp/0686.html
最近の評価はどうなっているのか、検索してみたら上記の安宅夏夫氏の文章が
出てきた。エリーゼ問題を論じているのだが、遺言についても言及がある。
小平克という高校教師を勤めた人の唐木、中野、平川の論を紹介しているが、
平川新版のおまけや粕谷解説とは異なる評価である。安宅の文章から長いが
以下そのまま引用する。
「小平は平川が、「遺言の文章に反復がみられ、語気が荒らかなことは事実だが、それは自分で筆を取った文章でなく、口述筆記をさせたために、命令口調が強く出たのではあるまいか」としているけれども、事実は、筆受者の賀古は、「大正十一年八月二日付加藤拓川宛書簡」で、「別紙森の遺言ハ遺憾ながら充分にガンバル事能(あた)ハざりしが其筋ヘ不敬ニ渡ラヌ程度ニ切リ上ゲ申候」と述べており、「遺憾ながら」よく頑張れなかったが宮内省陸軍に「不敬」にならぬ程度におさめた、と解説している(山崎一穎監修『鴎外その終焉・新資料にみる森林太郎の精神』・森鴎外記念館・一九九六刊)から、平川の所見は逆となる。賀古の書簡の文面からすれば、「遺言」は鴎外の口述をそのまま筆録したのではなく、激越な言葉も語っていたらしく、鴎外が自分で筆を執ったら「不敬」になりかねない気配だった、と小平は推測する。
 小平は、このように見ると、中野重治が『鴎外 その側面』(筑摩書房・一九五二刊。ただし「遺言状のこと」の執筆は、戦中の一九四四・七)で夙(つと)に言ったように、「鴎外は何のために、何をおそれて、あれほどむきになって死の外形的取扱いを拒んだのであろうか。どうして、あれほどに力をこめて、それに対する嫌悪の情を露骨に表白したのであろうか」と疑問をもつのが文章に即した読み方であり、平川が「主観的要素の濃い判断は、筆者自身の人柄や気分を示しても、鴎外の心を明らかにするにはあまり役立たないようである」と述べて、平川が、先立つ代表的論者二人、中野・唐木の評釈を「党派的な感情や恣意的な解釈が混じる」と蔑(なみ)するのは的外れの批判だとする。」

「奇跡の丘」パゾリーニ

パゾリーニのキリスト伝記映画であるが、DVDがレンタル屋になく、価格も高いので見る機会がなかったが、現在GYAOで無料公開中。小谷野敦先生のお奨めであるので、何とか視聴する機会をまっていたが
ようやく望みがかなった。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1FG31CVTS25GU/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B001SSXXWA
 ハリウッド映画とは異なり、出演者の表情やイタリヤの背景からくる画面の緊張感とバッハのマタイ受難曲を初めとする音楽の効果がすごい。イエスの演説もアジテーターとしての才能はこういうもので
あったかと思わせる迫力がある。
 販売用DVDの解説は四方田犬彦が書いており、22歳のジョルジュ・アガンベンやナタリヤ・ギンズブルクが出演していることに触れているらしいが、WIKI英語版にもその記載はある。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Gospel_According_to_St._Matthew_(film)