北陸のきのこ図鑑
届いた。
- 作者: 池田良幸
- 出版社/メーカー: 橋本確文堂
- 発売日: 2010/04
- メディア: 単行本
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多くのきのこがカラー図版で載ってるのが見ていて楽しい。その総量100ページ以上。この図鑑の長所として、きのこの学名の意味も載っているというのもある。他の図鑑には載ってない(らしい)。
眺めてはため息をつくの繰り返し。表紙のつるつるを二度三度飽きることなくなでている。しばらくはこれのために時間の潰し方を考えなくてよさそう。きのこ覚えたいな。
第一章 コケ学事始め
苔:
根・維管束がない、茎と葉で出来ている
クチクラ層が発達していない
胞子で増える
苔は通常コケ植物、蘚苔類と云う
蘚類、苔類、ツノゴケ類がある
卵と精子を作る
有胚植物(胚を作る植物)、二倍の染色体を持つ
わたしたちが見てるコケ植物は配偶体世代
染色体を一組だけ持っていて精子や卵をつくるものを配偶体、一方染色体が二組あって胞子をつくる世代のことを胞子体といいます。コケ植物では配偶体が、シダ植物では胞子体が、私たちがいつも目にするものなのです。裸子植物や種子植物でも事情はシダと同じで、木や草はすべて胞子体世代です。そして維管束というのは胞子体だけに備わった器官なのです。
蘚苔類は単系統ではない!らしい
雌雄異株の場合、受精は必ず異なる個体間で起こることになりますが、同株のときに問題となるのが自家受精です。自家受精すれば相手がなくても胞子体をつくることができる利点があります。そのため、高等植物では自家受精する種がたくさん知られています。ところがコケ植物の場合は特別な問題が生じるのです。それは、コケ植物が半数体植物であって、通常の体細分裂によって卵と精子がつくられるため、卵も精子もすべて遺伝的には同質だからです。これは高等植物の雌雄同株種が自家受精するのと意味が少し違うのです。もしコケ植物において自家受精によって遺伝的に同質な卵と精子が受精すると、有性生殖が本来果たすべき役割、つまり遺伝的に異なる卵と精子が出会って親とは性質が少し異なる子孫をつくる機能が働かないことになってしまいます。(中略)野外での観察によると、雌雄同株種のほうが異株種よりもはるかに胞子体をつけている頻度が高いようです。このことから判断すると自家受精は例外的な現象ではなく、ごく普通に起こっている現象だろうと思われます。
矮雄という現象がある
- 作者: 秋山弘之
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2004/10/01
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これからの予定について
専門に関して読書したことを毎日まとめて書いていこうと思う。そうでないと、すぐに忘れてしまって元も子もなくなってしまうので。調べたら、わたしが読みたいと思っている本はすべて大学の図書館にあるらしい。そりゃあ、専門書なのだもの、当たり前か。今すぐ借りて読みたいものまとめメモ。
- 作者: 秋山弘之
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2004/10/01
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- 作者: 木村資生
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- 作者: E.O.ワイリー,D.R.ブルックス,D.シーゲル・カウジー,V.A.ファンク,E.O. Wiley,Daniel R. Brooks,Douglas Siegel Causey,Virginia A. Funk,宮正樹
- 出版社/メーカー: 文一総合出版
- 発売日: 1993/01/01
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- 作者: 戸部博
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- 作者: 相良直彦
- 出版社/メーカー: 築地書館
- 発売日: 1989/06/01
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おんなのひとのけいべつ
川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』から抜粋。
ユキヒコはあおざめていた。わたしのことを、甘くみていたのだ。いつもいつも。わたしはユキヒコを甘くみていなかったのに。でも甘くみあわないで、どうやってひとは愛しあえるだろう。許しあって、油断しあって、ほんのすこしばかり見くだしあって、ひとは初めて愛しあえるんじゃないだろうか。
わたしは「人と付き合うことは侮ることだ」という自戒を持っている。それは、ひとに好意的な気持ちを向けるとき、その気持ちに相手を甘くみたり軽んじたり見下したりという気持ちが少なからず混じっていることを知っているからだ。だから、このフレーズはわたしのその事実を体よく無視出来ないという気持ちを含め誇張表現になっている。
おんなのひとが、好きで好きで仕方のないひとに対して軽蔑の気持ちを向けていると他人が分かる瞬間はどんなときか。それは、誰かがそのおんなのひとを、そのひとの所有物のような発言をするとき。
少なくともわたしは、それにイラッとする。なぜか。わたしは誰かの所有物ではなく、一人の人間だから。しかし、そういう思いは、確かに幼稚と云わざるを得ない。社会で生きていく上で誰かと一まとめに扱われるということに本来なら慣れていなければいけないからだ。関係していくということが社会でもある。それなのに。
正論を云えば、関係性をもっているだけで、わたしも個人として独立した人間なのであって、もちろん彼に所有されている気も自分が付属物である気もさらさらない。わたし単体ではなく、付き合っているおとこのひとをフィルターとして彼を通してわたしという人間を見られることに、わたしはまだ慣れていない。ただそれだけのこと。
しかし、こうした思いが漫画や小説などにもよく出てくるように、これはわたしだけの思いではないらしい。
ひとが誰かと関係しているとき、そこには尊敬と軽蔑がある。両方があって、初めて関係していられる。もしもおんなのひとが誰かおとこのひとの精神的な所有物、配下に置かれる存在なのだとしたら、そのときそのおんなのひとは自己を放棄するしかない。そこには尊敬も軽蔑もなく、対等ではないために自己を全うすることも敵わない。
だからこそ、誰かがおんなのひとを彼の所有物のような発言をするとき、その度彼女は軽蔑している。誰を。その好きで好きでたまらないおとこのひとを。そうしておんなのひとは自我を守り、自分が彼と対等であろうとする。これは自分を守るための正当防衛。自分のなかにある城の主である自分がそこから転げ落ちてしまわないためのもの。おとこのひとは、こういったおんなのひとの中にある、已まれぬ軽蔑を知らないものらしい。ふしぎ!