テレ朝 「男装の麗人 川島芳子の生涯」・・・ken

12月6日土曜日、テレビ朝日でドラマ「男装の麗人 川島芳子の生涯」が放映された。
川島芳子清朝末の皇族粛親王善キの第14王女だ。
7歳で、清朝再興をたくらむ大人たちの手で、大陸浪人・川島浪速の養女となった。
幼いときから大人たちの政治的な思惑に翻弄された、悲劇的な生涯だった。


若い頃から、突飛な行動が取りざたされて、マスコミをにぎわしたりしたらしい。
馬で女学校へ通った。17歳で断髪し、男として生きることを宣言した。などなど。
今回のテレ朝のドラマも、従来のスキャンダル路線をなぞったにすぎない出来だった。


川島芳子はれっきとしたスパイでもあり、陸軍特務機関の田中隆吉少佐のもとで諜報活動で手腕を発揮した。
1931満州事変に際して、溥儀の妻を天津から大連に脱出させた。
翌年には上海事変を勃発させるべく、日本人僧侶襲撃事件を仕組んだ。
どちらも、日本軍にとっては非常に重要な転換点となった出来事だ。
テレ朝のドラマでは、田中少佐への彼女の色仕掛けをヤケに露骨に描いている。実在の人物なのに、いいのだろうかと思わされた。


川島芳子は、戦後国民党軍に捕らえられ、漢奸として訴追され、48年に処刑された。
養父・川島浪速が帰化手続きをしていなかったために、日本人とは認めらず、死刑を免れることはできなかった、という。
分野が違うとはいえ、同じように日本軍に利するように活動してきた李香蘭は、日本国籍であることを証明できたせいで死刑を免れたと、ご本人が書いている。


もしも川島芳子が生きながらえたとしたら、何を言いたかっただろうと考えた。
清朝再興の夢を、日本軍に託したことへの慚愧の念だろうか。それとも幼い頃の旅順の思い出か、華やかでもあり苦しくもあった上海での思い出か。
では一方で、実際に生きながらえた李香蘭は、何を語りたいのだろう? 何を語ってくれるのだろう?

私たちは李香蘭じゃない・・・ Lo

私はシンガポール出身で、香港と東京で長年暮らしています。
通信員で、中国語の新聞記事を書いています。
採用されることは少ないけれど、日本語・英語の記事も書きます。


李香蘭は、母の世代からよく聞かされてきました。
日本に来てから、李香蘭に関心を持って取材をしましたが、すぐ失望しました。
日本では李香蘭は悲劇のヒロインで、彼女自身が何をしたかが追求されることはないと感じたからです。


映画評論家Yが、中国返還前の香港人女性監督Cの発言を紹介して、次のようなことを書いていました。
この女性監督Cは、90年代に李香蘭の映画を撮ろうとしていたそうです。
その理由を、CはYに対して「わたしたち香港人は皆李香蘭だから」と語ったそうです。
Yは、このことを次のように説明しています。「(満州に育って)まだ見たことのない祖国に憧れてきた少女時代の李香蘭の心情は、5年後の中国返還を前に期待と不安を抱いている香港人の心情と同じだ」


Cの発言の真偽は分かりませんが、Yの解釈は大きな欺瞞なだけでなく、私たちへの侮辱です。
李香蘭満州に育っても、日本人としての特権を最大限享受していた。
香港人は、誰にも守られることなく、植民地人を脱却すると同時に共産党独裁に対峙しなければならなかったのです。
李香蘭となど、比べて欲しくはない、というのが香港人の気持ちです。


これは、日本での李香蘭取材をめぐるエピソードの中の、ひとつの例に過ぎません。
けれどこの例でも分かるように、日本では李香蘭の最も重要なポイントを扱おうとしない人が余りに多いです。
一番重要なポイントとは何かと言えば、軍国主義に利用されてとは言っても、大勢の中国人を騙したことです。
そんなことをしてしまった償いは、できるのかどうか、私にも分かりません。
でも償う気持ちがあるのならば、彼女にしか分からないことを、彼女は語らなければならないと思います。


李香蘭の自伝は、中国でも翻訳されました。けれど信じない人が多いです。スターは、皆に賛美されて、その美しい思い出しか語りたがらないから、仕方がないでしょう。
けれど、李香蘭は年を取ってから初めて、台湾人映画監督・劉吶鴎と親しかったと告白しました。


李香蘭も、劉吶鴎も、日本軍に利用されて、軍国主義のための映画作りに携わった。
同じ時同じ場所にいて、劉吶鴎は殺された。誰も助けてはくれなかった。やはり、台湾人だったからではないでしょうか。
李香蘭は中国人のフリをしながら、日本人であったために日本軍や中国親日政権の手厚い保護を受けて、生き延びた。
李香蘭が、劉吶鴎が殺されたときに、どこで誰と何をしていたか、疑問を感じている人は多いです。
李香蘭が口を開くのを見守っている人も、とても多いです。私ももちろんその一人です。

いやあオフ会は盛況でした・・・ ken

この夏、暑かったけれど、とても活動的な過ごし方をした。
きっかけは、このブログのオフ会。
はじめは中心メンバー5人が呑んだだけなのだが、2回目、3回目と日を改め数回集まった。
友達の友達というふうに集まったのだが、思わぬ収穫も多かった。


そのひとつひとつは、できるだけこの場で報告してもらうつもり。
その最初として、なぜあんなに話が弾んだかの理由を、ぼくなりに考えてみた。
最も興味をひかれたのは、中国・台湾・香港・シンガポールなどの人たちとも意見交換ができたことだ。
李香蘭の恋人』を叩き台にすると、話が広がっていく。
それはたぶん、この本が従来の李香蘭を論じたものと違って、彼女を時代の犠牲者の位置に安住させて置かないからだ。
時代のせいにした途端に、ぼくらは立場の違う人と話を通じさせる糸口を失う。


すみません。急用が飛び込んだ。
続きはまた書きます。
その前に、オフ会の報告その他、どうぞお願いします。

”裸の王様”なんじゃない?・・・ yuri

黒澤明監督の「醜聞 スキャンダル」(50年 松竹作品)を見ました。
もちろん、山口淑子が出ているから。


驚いた。
はっきり言って駄作。
でももっと驚いたのは、山口淑子のまあすさまじい大根ぶり。
彼女はもしかして、いつもあの美貌を見せるだけでよしとされていたんじゃないかしら?
彼女の売り物の歌も2つでてきた。けれどこれも、ただ無表情にうたうだけ。「きみよ知るや南の国・・・」なんて、場違いすぎて笑っちゃうけど、彼女がうたえそうな歌の中からムリに選んだ感じだ。


山口淑子は人気者の歌手という設定。
それが、ふとしたことから山の温泉宿に新進画家(三船敏郎)と一緒にいるところを雑誌記者に見られて、スキャンダルになる。
画家と歌手が雑誌社相手に訴訟を起こした。依頼した弁護士(志村喬)の娘(桂木洋子)は、結核で寝たきりになっている。
クリスマスの晩、画家と歌手は娘を見舞い、そこで「きよしこの夜・・・」をうたうのだけれど・・・。
瀕死のかわいい少女が目の前にいるというのに、ただ無表情にうたうだけって、いったい何考えてるの?


法廷の場面でも、結局裁判に勝ってインタビューを受ける場面でも、山口淑子にはまるでセリフがないせいもあるけれど、何考えているか分からない無表情。
あんな重要な役でありながらセリフがほとんど無いのは、黒澤監督が彼女にセリフを言わせるのをあきらめたんじゃないかな。
重要でないいくつかのセリフの棒読み加減から推測して、そんな感想を抱いてしまった。


この作品のとき、山口淑子は30歳。
新進画家のモデル役で登場する千石規子は、このとき28歳だけれど、生活の苦労も知っている大人のいい味を出していた。
山口淑子さんは、美人過ぎるのが災いしているのかしら?
それとも「支那の夜」で大当たりしてしまったために、本気で駄目出ししてくれる人を、ついに持てなかったのだろうか。
やはり若いときに叩かれないのは不幸だ。皆知っていながら「大根」なんて言わずに口をつぐんだんだ、きっと。
叩かれっぱなしの、売れない女優の感想でした。

父の思い出話を聞く・・・ wang


父は今年91歳。いまも上海で健在です。旧正月に帰省した折、ぼくが持っていた『李香蘭の恋人』(田村志津枝著)に興味を示したので、父にプレゼントしました。父は若い頃に、3年半の日本留学経験がありますが、その後は日本とは無縁の生活でした。
ところが驚いたことに、父はこの本を読破しました。この本を読んで父の脳裏に浮かんだ思い出話を、先日聞いてきました。


劉吶鴎の暗殺事件は、当時の上海ではとても大きいニュースだったそうです。
人々は劉吶鴎を「大漢奸」と呼び、表面的には「殺されて当然」という態度でした。けれど内心では、自分の身が心配で仕方がなかったそうです。あれくらいのことで「漢奸」として殺されてしまうなら、自分も殺されるかも知れない。それが人々の心配のタネだったと父は言いました。


それから5年後に戦争が終わったとき、こんどは李香蘭が「漢奸」として処刑されたというウワサが流れました。
李香蘭は確かに歌手としてとても人気があった。けれどトップの人気ではなかった。白光や周璇などの方が、やはり人気はだいぶ上だった。その理由は、李香蘭は声はきれいだけれど、人生の悲しみを深くうたう点では、あまり上手ではなかった。それに李香蘭は、権力者の間を渡り歩いているというウワサも一部ではあった。
そうでなければ偽満州国のスターが、なぜ上海の舞台に躍り出ることができたのかと、皆が疑いの気持ちをもっていたそうです。


その劉吶鴎と李香蘭が、待ち合わせをするくらいの親しい間柄だったかどうかは、父も知らないし、ウワサも聞いたことはないそうです。
ただ、あまり現実感はないな、というのが父の感想でした。その理由は、二人の待ち合わせ場所とされるフランス租界は、とくに日米開戦前のこのころにはとても反日勢力が強かったから、日本軍の手先のように思われていた李香蘭が行くのは難しいのではないか、とのことです。


だから李香蘭が、劉吶鴎が殺されたときに、彼と待ち合わせて彼を待ってたというのが本当なら、やはり彼女はこの事件をめぐるさまざまな質問に対して答えて欲しいと、父は言っていました。当時のフランス租界のようすが、彼女の目にはどう映ったかが、最も興味があるそうです。


父は、この本の意図を正確に理解したと、ぼくは考えています。
けれど日本人のなかに、この本の意図を理解せずに、著者の主張を逆に受け取っている人がいるのが、ぼくには不思議です。なぜなのでしょう? 中国の歴史の知識が足りないからなのか、それともほかの理由があるのでしょうか?

共通項は”台湾軽視”・・・ shiho

岩崎昶は1935年に上海に行き、映画館で「漁光曲」(蔡楚生監督)という映画を見た。貧しい漁民の生活がリアルに描かれていた。岩崎は帰国すると日本の映画雑誌にこの映画のことを書き、絶賛した。岩崎は当時の中国映画を評価していて、岩崎の映画批評を魯迅が読んでいたというのも有名な話だ。


その同じ岩崎が、1927年に台湾を舞台にした日活映画「阿里山の侠児」のストーリーを書いている。これは、当時日本人が「生蕃」と呼び差別的な扱いをしていた少数民族を、侮蔑的に描いたひどい作品だ。
岩崎昶は、1935年にも台湾を訪れ、帰国後「台湾紀行」を「キネマ旬報」に書いている。岩崎は中国にはあれほど肩入れしていたが、植民地・台湾を見る目は当時の世間とほとんど変わらない。つい数年前に起きた残虐な霧社事件などまるで知らぬげに、「驚くべき原始的な民族美」などと書いている。


その岩崎だからこそ平気で「サヨンの鐘」の前宣伝などにも行けたわけだ。もちろんこのころは、台湾では新聞に弾圧が及び、岩崎が相手にしたのは日本人の新聞の日本人の記者だけだった。


山口淑子は、戦後になって初めて中国を再訪したときのことをよく語っている。
李香蘭という「売国奴」として活躍した中国で、再び受け入れてもらえるよう、彼女はさまざまに心を砕いたことだろう。「李香蘭 私の半生」に、台湾巡業や「サヨンの鐘」のことはもちろん、劉吶鴎のことにも一切触れなかったのも、中国に気兼ねしたことが一因であることは否定できないだろう。


こうなると、「劉吶鴎が暗殺されたときに、彼と待ち合わせて彼を待っていた」という山口淑子の(ウソっぽい?)告白のタイミングにも納得がいく。中国もこのときには、劉吶鴎を話題にすることがタブーではなくなっていた。そして日本では、この事件の関係者が皆亡くなっていた!!


しかし、だからこそ言いたいのだ。人ひとりの命が、どんなふうに失われたのかを知りたい人の気持ちが、あなたは分からないのですか?
戦争中にしたことを悔いる気持ちがあるのなら、せめてその罪滅ぼしの一端として、もう少し詳しく劉吶鴎を待っていたときの状況を語るべきではありませんか?
中国におもねるあまり、台湾人を軽視してはいませんか?

李香蘭と岩崎昶・・・ honda

李香蘭が1943年に「サヨンの鐘」のロケのために台湾を訪れたとき、彼女のマネージャー役兼ラインプロデューサー役をしていたのは岩崎昶だ。
岩崎昶は左翼的な思想をもった映画評論家で、「映画法」に反対したため治安維持法によって逮捕され、1年ほど獄中体験もしている。
だがその後、満州映画協会東京支社の嘱託となり、43年頃は絶頂期のスター李香蘭と何かと関わりができたようだ。


満映理事長・甘粕正彦の鶴の一声で、李香蘭を無理矢理「萬世流芳」に出演させることが決まったときも、李香蘭に同行して上海に行ったのは岩崎昶だ。
「サヨンの鐘」が、松竹・満映台湾総督府の合作と決まり、主演に李香蘭を送り込むことになったときも、岩崎昶はロケに先立って台湾に行き、記者会見を開いて「サヨンの鐘」の宣伝活動を行った。


私は実は、40年も前の大学時代に、岩崎昶の映画史を受講したことがある。
左翼映画評論家らしく、「戦艦ポチョムキン」について熱を込めて語ってくれたことを覚えている。
ある時私は、岩崎昶を授業のあとでつかまえて、満映との関わりについて釈明を求めた。
岩崎昶が映画史の上でもいくつかの評価できる業績をもっているからこそ、あの時点で彼が満映で働き、李香蘭の手助けなどして「サヨンの鐘」出演の後押しをしたことなどをどう総括しているか、聞きたかったのだ。


岩崎昶の態度は誠実だった。何も語りたくないと言った。あのときは満映は禄を食む手段と思って就職したが、しだいに麻痺したように無批判になっていった。「サヨンの鐘」も「萬世流芳」も「私の鶯」も見たくはない。とくに「サヨンの鐘」などは、封印してしまいたいくらい恥ずかしい、と。
言葉少なにそう語る岩崎先生を前に、当時生意気な左翼学生だった私も、口をつぐむしかなかった。


山口淑子の自伝によれば、終戦後に山口淑子が上海から日本の帰ったとき、岩崎昶は彼女の住まいを用意して待っていたという。
岩崎先生は、李香蘭に関する見解も語ってくれたし、43年頃の李香蘭の状況も語ってくれた。だがここでは今は触れない。


ただ思うのは、山口淑子に岩崎昶のような誠実さがあるのなら、劉吶鴎の暗殺時の出来事は、もっと早く語られたはずではないだろうか。