人間として。

4日目、その後半。








皆さんは「杉原千畝(すぎはらちうね)」という人物をご存知だろうか。
第二次大戦前、欧州にナチスが台頭する最中、外交官として赴任したリトアニアの日本領事館で迫害を逃れてきたポーランドユダヤ人達に、日本外務省からの命令に逆らう形でビザを発給した人物である。以前に観たドキュメンタリーで紹介されて、強いシンパシーを抱いていた。
「多くのユダヤ人を救った」という意味では92年にスピルバーグが監督した「シンドラーのリスト」が有名だが、それに準えて「日本のシンドラー」と形容される事が多い。



(余談だが、2009年にポーランドを訪れた際、内陸部のクラクフという所で、シンドラーがリストに加えたユダヤ人を労働者として勤務させ、強制収容所行きを免れさせた工場跡地を見たのも思い出深い)。
ナチスによって欧州を包囲されてしまったリトアニアポーランドユダヤ人にとっての脱出ルートは唯一つ、リトアニアからソ連に入り、シベリア大陸を横断して日本を通過。そこから太平洋を渡り、当時公式にユダヤ人受け入れを表明していたカリブ海の島、オランダ領キュラソー島へ辿り着くという、この地球を半周する程のラインだけだった。ソ連領内を通過する為の条件が「日本の通過ビザ」を持っている事だった為、ユダヤ人達はカウナスの日本領事館に押し寄せたのだ。
当時、否現在でも殆んど同じだが、ビザを発給する条件として筆頭だったのが「渡航・滞在の為の費用を有する事」であった。つまり充分なお金を持っていなければビザ発給は認められなかったのである。実際にユダヤ人達は当時「お金が無い」という理由でアメリカやイギリス等の領事館から発給を拒否されている。命からがら、着の身着のままでやって来たユダヤ人にそんな費用などある筈もない。当時三国同盟や日独防共協定を締結し、ドイツと同盟を組んだ日本の立場からしても発給は無理からぬ事であった。「査証発給・日本通過は認めない」という日本外務省との板挟みとなる中で、杉原千畝は独断でビザを発給したのだ。
今回訪れたカウナス、ここにその「命のビザ」発給を行なった領事館の建物が現在も残されており、彼の功績を讃える記念館になっているという。
聖ミカエル教会を通り過ぎて細い道をいくつか通り、通行人も殆んど居ない住宅地、バイツガント通りに、これまで何度も写真等で見たのと同じ建物が目前に現れた時は筆舌に尽くし難い感慨に包まれた。




日本から飛行機を乗り換え、列車に乗り、全てはこの為にやって来たのだ。この地を訪れる為に。





建物正面に向かって左側に入り口があり、ブザーを押すと中から人が出てきた。そのままスタッフに促されて、まず最初にプロジェクターが設置してある少し大きめの部屋に案内され、そこで彼の功績を称える映像が上映された。これまで多少なりとも杉原氏の事は知っていたつもりだったが、今回初めて知った事実もあった。領事館でビザを受け取ったユダヤ人達一人ひとりに「バンザイニッポン」と言わせていたエピソードがそれである。日本に対する感謝を忘れないでほしい、東洋の小国日本を忘れないでほしいという思いからであったという。映像は15分程だったが、その間何度も溢れる涙を拭った。




壁に面白いものがあった。これまでここを訪れた日本人が、自分の住む土地を示す為の、日の丸が付いた小さなピンを刺す地図である。よく見ると、自分の地元にはまだピンが刺さってない!地元でここに来たのは自分だけだという事に優越感を覚える。






杉原氏が書いたビザ。最初は手数料を徴収し、受給者の名前を記録していたそうだが、発給の作業効率を上げる為にどちらも面倒になって止めてしまったという。





これが杉原氏が領事館の執務で使用していたデスク。ここで休む間も無く何枚もビザを書き続けていたのかと思うと身体中の毛が逆立つ様な感覚になり、畏敬の念を禁じ得なかった。スタッフに頼んで椅子に座らせてもらう事も出来たのかもしれないが、敢えてそれはしなかった。自分如きが偉大な先達の使用した椅子に気軽に座るなどとはおこがましいにも程が有る、と考えたからだ。
当時ナチスの台頭に対してリトアニアを実効支配していたソビエトにより、日本領事館は閉鎖・退去を命じられた為、杉原氏とその家族はカウナス市内のホテルに移る事になる。そのホテルこそ、他でも無いホテル・メトロポリス。今回泊まったホテルである。
ホテルにもユダヤ人達が大勢詰め掛け、ビザの発給を求めたが、退去に際しビザ発給のスタンプ等は次の移動先であるベルリンに送ってしまっていたので、代わりに正規のビザとは少し違うが、それと同等、若しくはそれに準ずる効力を持つ「渡航証明書」を作成して対処した。

1940年9月5日、カウナスからベルリンに向かう列車が出るその日、駅の待合室でもプラットホームでも、列車が動き出しても尚、彼はビザを書き続けたという。
その後欧州を転々とし、ルーマニア終戦を迎え、「敗戦国民」としてソ連の収容所に入る事になった彼は1947年、ようやく日本への帰国を果たしたが、待っていたのは外務省からの退職命令だった。更に三男が小児癌によって7歳で死去するなど不遇の生活を送った。
本国の訓令に反したとして罷免の憂き目に遭ったのは彼だけではない。在仏ポルトガル総領事だったスーザ・メンデスは独断でビザを発給した責任を問われ、罷免させられただけでなく財産まで没収された。しかし戦後ポルトガル政府はこれが過ちであった事を認めて謝罪し、国の最高位メダルを授与して完全な名誉回復を行なった。
一方日本はどうか。戦後、ビザを手にして脱出を果たしたユダヤ人達は恩人である杉原氏を探したが、本名の『ちうね』で無く名前の音読みである『せんぽ』で外務省に問い合わせており、「該当者無シ」の回答しか返ってこなかったという。もっとも、その時期にリトアニアに居た「スギハラ」姓の外交官は一人だけしか存在しない事は明白であったにも関わらず、過去においても現在においてもそうした名の人物は存在しないと回答していた事実は「故意」とみて間違いないのではないか。
もしも杉原千畝の、ユダヤ人救出の功績を前面に押し出していれば、極東軍事裁判、いわゆる「東京裁判」の流れは変わっていただろうと言われている。後世に伝えるべき人物、そして日本人の誇りとして内外に知らしめるべき人物の存在を、あろう事か外務省は隠し続けた。昨今の中国による漁船衝突事件の一連の報道を観るにつけ、戦前から戦後、そして今日に至るまで日本の外交センスの悪さ、稚拙さは何一つ変わっていない、と怒りにも似たやる瀬ない思いにさせられる。




これはイスラエルが建国50周年を記念して発行した切手。ここには命懸けでユダヤ人救出に尽力した外交官5人の姿が描かれている。以下、左から、


ジョルジオ・ペルラスカ 1910−1992 イタリア人。ハンガリー、ブタペスト市のスペイン公使館スタッフとして働く。公使館閉鎖後、数千人のユダヤ人に通行証を書きスペイン国旗をたてた館にかくまった。


アリスト・デ・スーザ・メンデス 1885−1954 ポルトガル人。フランス、ボルドー市のポルトガル総領事。1940年6月にユダヤ人約1万人に許可証を出して解雇され財産は没収、一家は離散した。不遇のうちに死亡したと言われる。


チャールズ・ルッツ 1895−1975 スイス人。ブタペスト市にいたスイス公使。ルッツは数千人のユダヤ人に通行許可証を出し、スウェーデン公使のラウル・ウォーレンバーグに協力して、ユダヤ人を1945年2月まで他の中立国へ逃亡させた。


杉原千畝 1900−1986 日本人。リトアニアカウナス市の日本領事。ソ連政府の領事館閉鎖命令後、日本政府の訓令電報を無視して通過ビザを出し6000人のユダヤ人を助けた。戦後 帰国して 外務省を免官される。



セルハティン・ウルクメン 1914−  トルコ人ギリシア、ローデ島のトルコ総領事。ドイツ軍は全ユダヤ人を捕らえたが、彼はこのうち50人はトルコ籍だといって解放させた。他のユダヤ人1500人はアウシュビッツへ。


その他にもユダヤ人を助けようとビザを発給したり、匿ったりした外交官達は多く存在する。
http://www.chiunesugihara100.com/com-kinen-jusyo.htm


記念館の係員からポストカードを数枚頂き、何度もお礼をしてその場を後にした。
外に出ると強い充足感と心地よい疲労感が身体を支配した。いわゆる「やりきった感」。Perfumeの興行を観た後に近い感覚、いや今回はそれ以上かもしれない。予定では2年前にここを訪れている筈であったが、様々な要因が重なって果たせないままなだけにその想いも尚更だった。
ホテルに戻り、ベッドに倒れこんで、様々な思いが去来しつつ暫く天井を見上げていた。冷蔵庫を開け、ビールを飲む事にする。通常その国に旅した際は必ずその国、その土地のビールだけを飲むというのが自分の中での決まり事なのだが、前日ホテル近くで見た事の無い銘柄のチェコビールを発見。「チェコビール」と聞けば黙っておれない。



http://www.samson.cz/
味は「あああチェコの味だ」と納得。かつて杉原千畝チェコに赴任した事があるそうなので、恐らく本人も飲んだのだろうか、と想いを馳せる。
日が傾いてきた頃に再び外に出てミネラルウォーターやビール、スナック類を購入しようとスーパーマーケットに向かったのだが、そこで予想外のハプニングが起きた。
商品が入ったカゴをレジまで持って来たら、店員のおばちゃんがそれを指差し、明らかに拒否や否定のニュアンスでこちらに何事か言っている。リトアニア語なので答えに窮していると、そこに居合わせた大学生と思しき若者が英語で話してくれた。曰く「リトアニアでは毎年9月1日、スーパーや小売店などで酒類の購入が出来ないという法律がある」と。「新学期の始まる日だから青少年への影響を考慮してという理由で云々〜」というのだ。これにはただ唖然。リトアニアを始めとしたバルト三国に関する旅行情報誌は皆無に等しいと言っても過言ではなく、唯一のガイドブックが「地球の歩き方」である。
隅々まで読んでも「9月1日にはアルコヲル類は買えない」という記述は一切無い。最近出来た法律なのかと思って現地人に訊いてみるが「昔からある」との答え。ならばこのカウナスだけの法律なのかと思ったが「リトアニア全土での法律だ」との事。これだけの情報を記載し忘れる、若しくは存知していないなど極めて不本意。出版元のダイヤモンド社は大いに猛省して頂きたい。

A30 地球の歩き方 バルトの国々 2009~2010

A30 地球の歩き方 バルトの国々 2009~2010


それにしても「青少年への影響」を考慮するのなら、隣国ラトヴィアの様に「毎日22時以降は酒類購入不可」とした方が理に適っていると思うのだが。今夜はアルコヲル抜きなのかと落胆しかけたが、幸い「購入」のみが不可能であり、バーやレストランに行って飲むのは問題無いとの事なので胸を撫で下ろす。


夕食は少し離れたホテルの近くにあるレストランでスープとコウドゥーナイ(リトアニア風水餃子)、ビールを注文。その後ライスヴェス通り沿いのちょっと洒落たバーにて一杯。折りしもその時、FIBAワールドカップの予選が行われており、店内のテレビで放映していた。「FIBA」、FIFAの間違いでは無い。日本では馴染みが薄いがバスケットボールのW杯であり、予選リーグでリトアニアは強豪国のスペインを破って1位通過を果たしていた。日本でメジャーなスポーツは言わずもがな野球とサッカーだが、リトアニアではバスケットが最も人気なのだそうだ。
http://www.fiba.com/

ホテルに戻り、前日に買ったワインを飲みながらテレビを観ていると、リトアニアチーム予選1位通過を踏まえ、バーにて応援する人がかなり多いのだろう、窓の外から「ウォー!」という歓声が聞こえてくる。ホテルに至近の店でも多くが観覧していた。目の前のテレビ画面で、シュートが決まる毎に外からの絶叫が聞こえてくるのは何だか可笑しかった。
ゲームセットとなった瞬間、表の通りは勝利を喜ぶ人達が何やら合唱し始めた。恐らく国歌だろう。ちょっとした祝賀ムードに辺り一帯が包まれる中、自分もそこに相乗りする感じでグラスの中のワインを一気に空けた。サラミやスナックをつまみながら、ワインが無くなった時点でお開き。そそくさと荷物を整理し、シャワーを浴び、明日のビリニュスへの移動に備えた。
念願叶って訪れたカウナスも明日発つのかと思うと急に寂しくなってきた。
このホテルに滞在していた時の杉原千畝はどんな思いでビザを書いていたのだろう。そしてここに来たユダヤ人達の、藁にもすがる思いは如何ばかりであったろう。荷造りの手を止め、程よくワインの回った頭でそんな事を暫く考えていた。

戦争と平和。

第4日目。





リトアニアカウナスでの2日目。今回の旅、ちょっとしたゴタゴタのとばっちりを受けて、当初の渡航計画から2年が経過してしまった。それ故、今回の旅には並々ならぬ思い入れがあった。




ホテルでの朝、朝食はよくあるビュッフェスタイル。黒パン、スクランブルエッグ、ハム、ソーセージ、そして珍しいものがあった。蕎麦の実を茹でたものだ。意外に欧州、とりわけ東欧諸国では蕎麦は食材としてはかなり一般的である。気候の厳しい、痩せた土地でも育つという特性、加えてハプスブルグ家の支配下にあった頃は、作物に軒並み高い税金が掛けられていたが蕎麦は課税を免れた歴史的経緯もあって、蕎麦がきの様にして食べたり、パンケーキの生地にしたり、ソーセージの肉のつなぎとして入れられたりと様々な食し方がある。
朝食を済ませ、ホテルから歩いてすぐのヴィエニーベス広場にある「ヴィタウタス大公戦争博物館」を目指す。



これが博物館正面。この広場には多くの記念碑がある。その中で向かって左に位置する、リトアニア独立の為に犠牲になった英雄たちの記念碑(Paminsklas Zuvusiemus uz Lietovos Laisve)。


各地の戦闘が行われた場所の石を集めて作られ、無名兵士達の灰が収められている。これは最初の独立時に建てられるもロシアの占領により撤去の憂き目に遭うが、1989年に再建されたという。カウナスでは結婚式を挙げたカップルが、ここへ献花に訪れるのが習慣となっているそうである。


さて、博物館へ入場料6リタスを支払い中へ。
中世から近現代の武器・装備が展示されている。実は内部の撮影は有料で30リタス。受付の無愛想なオバちゃんにお金を払い、カメラのマークがプリントされたIDホルダーを渡される。最初は「何やゼニ取るんかいな」と思い、当初は見るだけで帰ろうとしたが、ひとしきり見て回った後、どうしても記録に残しておきたい展示品があったので支払う事にした。それが以下の写真。



ずらり並んだ小銃類。



昔の、先込め単発式のライフル。右から2番目の短いタイプは日本の火縄銃(!)



17〜18世紀頃のマスケット式ライフル。「マスケット」とは弾を先から込める銃の事。当然、火縄銃もこの範疇である。



真ん中はベレッタ Modello 1938A。空挺部隊などが使用した。右はロシアを始め共産圏でも広く使用されていたPPSh-41。使い勝手の良さから人気があったという。その形から、ドイツ軍からは「バラライカ」と呼ばれた。



手前はドイツ軍が使用していたMG34。経費削減と生産性向上を目的として造られた改良型MG42があり、両方を平行して終戦まで使用された。その威力と性能、発射音から「ヒトラーの電動ノコギリ」という異名を持っていたそうである。



映画「プライベート・ライアン」の冒頭、オバマビーチへの上陸作戦のシーンにも出てきたが、米兵達がいとも簡単に撃たれていく光景にはゾッとした(余談だが、実際の上陸作戦に参加した経験を持つ元米軍兵士があのシーンを観て「完璧な描写だ」と語ったという)。






このMG34、以降再設計とマイナーチェンジを施されて現在でも「MG3」の認識名称でドイツ・イタリア・デンマークノルウェーポーランド・スペイン・ギリシャ等の軍にて使用されている。




こちらは左から順に、日本の30年式小銃、ロシアのモシン・ナガン、イギリスのエンフィールド、ドイツのGeber98。
白眉は30式小銃。旧日本軍の主力だった38式歩兵銃、その前身。第2次大戦前後の頃、各国の小銃の口径はドイツの7.92mmをはじめ、その殆んどが同等、若しくはそれを超える大口径であったのに対し、日本は6.5mmの弾薬を採用した。これは弾薬を選定するにあたり、体格の小さな日本人に反動の強くない使い易い弾薬をという要望、加えて「残酷なる殺生は人道に非ず。敵兵の戦闘能力を奪うに足らしむれば充分」という人道的見地から決定されたものだという。その分落ちた威力は銃身を長くする事で初速を高めて補っている。いわゆる「小口径高速弾」、現在の軍用ライフルに通用する考え方である。




その他、歴史的な銃器が盛り沢山。左からロシアのPPS43、ドイツのMP40シュマイザー、同じくドイツの、アサルトライフルの草分け的存在とも言われるStG44。




左は珍品。メキシコのモンドラゴンM1908(←製造はスイス)。そのとなりはシモノフM1936セミオートライフル、右端はその改良型のトカレフM1940(SVT40)。前作の欠点を改良する目的で製造されたが完全には修正出来ず、加えて弾薬に粗悪品が多かった事や、極寒の環境下でチャンバー内に薬莢が張り付く等のトラブルが多発し、大戦の終結を待たず生産は打ち切られたという。しかし作動方式や設計自体は優れていて、ドイツ軍やフィンランド軍に鹵獲・研究され、それらの国での自動小銃の開発に影響を与えたと言われる。





その後製造されたドイツのワルサーのGew43ライフルの形状からもそれが窺える。





右はロシアのナガン1895。将校の携帯用としてもさる事ながら、寧ろ突撃の命令に怖気づいた兵を撃って「撃たれたくなけりゃ突っ込めー!」と喝を入れる為に使用される事が度々あったそうである。ったくこれだから露助は(以下自粛)。











その他、18世紀頃の武具や装備品、甲冑があった。現代の様な内張りや衝撃吸収の素材など当然ある筈も無く、着用感は酷いものだったろう。斬られるよりマシ、という事か。





このジオラマは秀逸。ただフィギュアを並べてるだけでなく、負傷したり絶命して倒れてる様子の再現が妙にリアル。





こんな感じの騎兵が時速50キロ近くでドドドドドと向かってくるんだから怖い。





M14とAKM。リトアニア軍で採用されてたとは知らなかった。





ロシア製の手榴弾はレバー部分がヤワく出来ているので、B級アクション映画に出てくるヒーローよろしくポケットやベルトなどに引っ掛けるのは絶対に止めましょう。





Red armyが使用していた対戦車砲、と説明文にあった。赤軍とはこの場合ロシアの事を指すようだ.




昔の大砲の砲身。写真だけでは大きさが把握し難いので、自ら横になって比較してみた(当方180cm)。撮影はたまたまそこに居合わせたカナダ人の男性に依頼。




ここは博物館の地下にあった祠、かどうかは分からないが、十字架が祭られていた。恐らくリトアニアの「聖人」を奉る部屋ではないだろうか。色々と調べてみたが、博物館の公式サイトにもこの部屋への言及は無かった。
最後にここを見てから出口に向かおうとすると、入り口横の入場券売り場のオバちゃんがしきりに今上がってきた階段を指差して何事かこちらに訴えかけている。当然リトアニア語なので何を言っているのか理解出来ない。数人オバちゃんが居た中で1人英語を話せる人がおり「『最後に必ず下の部屋を見ていけ』と言ってるよ」との事。「いやもう見たよ」と言うものの、まだ何か口走っている。多分「ニイちゃんしっかり見ていきなはれ」とか言ってるんだろうと勝手に推測。ハイハイ見りゃいいんでしょ。で、再び階段を降りて撮影したのが上のカット。
とはいえ、その厳かな雰囲気に自ずと背筋が伸びる。撮影する時も周囲に誰もおらず、撮影禁止とも書いてなかったが、「すいません、撮らせて頂きます」と言ってからシャッターを押した。




出入り口前に展示してあった自走砲






そしてこの後、念願だった場所へ向かうのだが、書くと今まで以上に長くなってしまうので続きは次回に。

気分はもう戦前。

第3日目





カウナスに向けての移動の朝。「遅れたらエラいこっちゃ」という意識が根底にあるせいか、やはりこうした日は随分と早く目が覚めてしまう。飲みすぎた訳では無いが食欲をあまり感じない。ゆったりと時間を過ごし、午前9時半を回った時点でホテルをチェックアウト。3分程歩いた先のバス停にて駅行きの車輌を待つ。




ここがヴィリニュスの駅。向かって左側が切符の窓口。時刻表を見ると、約30分後に丁度カウナス行きの列車がある。憶えたリトアニア語が不安だったので、時刻表に書かれた列車番号等をメモして窓口のオバちゃんに渡す事にする。1時間15分の道のり。料金は17リタス。ちなみに写真右側に写ってる、仕立てのいいスーツを着た初老の男性は終始オイラをガン見してた。東洋人が珍しいんだろうねきっと。ここには写ってないが、奥様と思しき人と一緒だった。





これが切符。スーパーのレシートと同じ様なペラペラの紙を渡されて「あれ、切符は?」と思ったが、よく見ると「BILIETAS(切符)」の文字が。これを車掌に見せればOK。こういう日本との小さな違いに遭遇するのも旅の楽しみだと言えよう。
発車まで少し時間があったので、駅のカフェテリアで朝食を取る事にする。





何とも旅情をかき立てる雰囲気の店内。昔観たヨーロッパ映画の1シーンを思い出す。





注文したのはリトアニアの定番、刻んだ赤カブとヨーグルトをあわせ、分葱、ディル等のハーブやゆで卵をふんだんに盛り込んだ冷製スープ「シャルティバルシチェイ」それと茹でたジャガイモにディルを散らしたもの。何のてらいも無いが美味い。
常々実感するが、その国の高級な料理も勿論だが、みんなが毎日普通に食べているものが美味い。日本人の感覚に置き換えれば、うどんや蕎麦、ラーメン、白いご飯に味噌汁の付いた定食といったところか。




支払いを済ませ、発車10分前にプラットホームに移動。向こうに見えるのがカウナス行きの列車。異国の地でバスや飛行機よりも「鉄道」での移動はこれ以上無い位に旅の風情が高まるというもの。





自ずと脳内BGMが「世界の車窓から」のテーマソングになってしまう。




1時間15分後、終着駅のカウナスに到着。





駅前のキオスクでバスの切符を買う。
カウナスのバス。人生で初めて「トロリーバス」というものを見た。ある意味「電気自動車」の先駆けとも言えないだろうか。
自分が生まれる前、昭和30〜40年代あたりは東京都、横浜市川崎市名古屋市京都市大阪市宝塚市で運行されていたが、現在では全て廃止。最後に廃止されたのは、横浜市交通局のもので1972年の事であるとの事。現在は立山黒部貫光の室堂駅〜大観峰駅間、それと関西電力が運営する関電トンネルトロリーバス黒部ダム駅〜扇沢駅間、この2区間のみ現存している。

これは「ソラリス」というポーランドのメーカーが製造したもの。
ちなみにソラリスと聞いてタルコフスキーを連想する人は相当な映画通、ですね。




閑話休題
駅から伸びる地下道を通ってバス停に向かい、旧市街方面行きを待つ。
ビリニュスでの、降りる場所を大幅に過ぎてしまう轍はもう踏みたくない。バス停に貼られている路線図を何度も見て確認。ホテルに最寄のバス停で下車し、1ブロックほど歩いた所にカウナス旧市街のメインストリート、ライスヴェス通りがある。その通り沿いに今回宿泊するホテル「メトロポリス」があった。
http://www.metropolishotel.lt/





正面のドア、そして中にある回転扉も木製という造りが戦前から営業しているという歴史を静かに語っているかのようだった。建物は3階建て。用意された部屋は2階。




階段の雰囲気が昨今のホテルには無いお洒落、且つ厳かな雰囲気。この宿がこれまでどれ程の旅人を受け入れ、そして送り出していったのだろう。幾多の歴史に想いを馳せると、あたかも自分がその時代にタイムトリップしたかの様な錯覚にとらわれ、暫しこの階段で足が止まっていた。




戦前から営業しているとはいえ、内装は綺麗に施され劣化など感じさせない。天井が高いのも開放感があって良かった。そして小さな事だが、今回用意された部屋にはこの料金ランクとして珍しく冷蔵庫が設置されていた。これまでは自分がホテルを選択する上で冷蔵庫の付いている部屋は殆んど無かったので高く評価したい。




バスタブ。「ああお湯に浸かれる」と思ったが、底の栓が無かった・・・。




ホテルに入って落ち付いたところで、周辺を探索してみる事にする。ライスヴェス通りを東に進むと「独立広場」があり、そこに聖ミカエル教会が建っている。





元々はロシア正教の教会だったのだが、後にカトリックの教会になったという。





そこを間近にしたカフェにてカウナス入りしてから初のビールを頂く。銘柄はビリニュスでも飲んだ「カルナピルス」。
当日の気温は16℃くらい。酷暑を記録した日本とは20℃前後の開きがあり、加えて湿度も低いので吹く風がとても心地良い。





飲んでから教会から伸びる通りを端の方まで歩く事にする。念の為、道すがらの写真店にてカメラのフィルムを1本購入。デジタル化の著しい昨今だが、申し訳程度ではあるがネガフィルムも置いてあった。ホテルを再び通り過ぎる格好となったので、買ったビールやワインを部屋の冷蔵庫に入れておく。





これは「TAURAS」という銘柄。これもスッキリとした味。
http://www.tauroalus.lt/tauro-alaus-rusys/






1kmに渡る通りを歩き、レストランや商店の様子、公園で遊ぶ子供達、バイオリンやギターなどの弾き語り、そしてネオバロック調の建物の数々。目に留まる全てが初めて目の当たりにするものばかり。





やや日も傾いてきた頃、聖ペテロ&パウロ大聖堂の前のベンチに腰掛けた時に、何やらプロペラ飛行機の音がした。空を見上げると、曲芸飛行用のプロペラ機が遠くの方で急上昇や急降下、背面飛行を繰り返しているのが見えた。その時訪れる強烈な既視感。レンガ造りの教会、石畳の道路、バロック調の建物、そしてプロペラ機の音・・・・昔観た、第二次大戦を舞台にしたヨーロッパ映画の如き光景が眼前に広がっていた。暫し忘我の境地に入り、そしてこの国の歴史に想いを馳せる。戦前のナチスの台頭、その余りにも深過ぎる傷痕。その傷も癒えぬまま、今度はロシア連邦の一つとして圧制の下で歩まねばならなかった苦難の歴史を。




そのうち周囲はだいぶ陽が落ちてきた。食事の場所を探して歩き回り、ふと急に肉が食べたくなったので、丁度目に付いた「Steak」の看板の店に入る事にする。ビールと共に運ばれてきたのは握りこぶし大の、粗挽き黒胡椒がたっぷりかかったステーキだった。

平たい肉でも上手く焼き上げるのは難しいのに、こうした形状の肉はそれ以上に火の通し方が非常に難しい。やれと言われても無理だよなー、と感嘆しながら食した。その後スーパーマーケットに行ってビールとワイン、スナック類を購入。ホテルでCNNや音楽番組を観ながら盛大に飲み明かした。

だって異国ですもの。

第2日目




ベッドが柔らか過ぎた事もあって完全に深い睡眠にはならなかったようで、珍しく8時頃に目覚める。
ホテルに併設されてるカフェ兼ワインバーにて朝食。よくあるビュッフェ式でなく、店員が皿に盛り付けて運んでくるスタイル。まぁ朝は左程食べないからこれで充分。パンにハム、チーズ、きゅうりを挟んで食べる。傍らにはエスプレッソ。朝にはちょっと濃過ぎたかも。

ちなみにヨーロッパでは、カフェで「コーヒー」と頼むと必ずと言っていいほどエスプレッソで出される。我々の感覚でのコーヒーが飲みたい時は「カフェアメリカーノ」と注文する事になる。
食後部屋に戻り、身支度を整えて外出。ホテルのあるゲディミノ通りを南東に進み、街のシンボル的存在の大聖堂Arkikatedra Bazilikaがあるカテドゥロス広場へ。


近くのキオスクにてコーンに入ったアイスクリームを購入。

んまい。


大聖堂前に建つ鐘楼近くの敷石に1枚だけ違うものが。「Stebuklas(奇蹟)」と刻印されたこの敷石は1989年8月23日、当時ソ連支配下にあったエストニア・ラトヴィア・リトアニア独立運動の一つで、3カ国約200万人が参加して行われたデモ活動「人間の鎖」の起点となった場所であるという。



この敷石の上で途計回りに3回周りながら願い事をすると叶うと言われているそうである。ええ、勿論トライしましたよ。何を願ったか、皆さんには容易に想像が付くでしょう(「Perfumeに会いたい」に非ず)。
三人の聖人を掲げる大聖堂。この像はロシアが支配していた時代は撤去されていたのだが、1996年に再び設置されたという。中は観光客も入る事が出来るとはいえ、熱心に祈りを捧げいてる人もいるので、その厳かな雰囲気ゆえ何回もシャッターを押すのが躊躇われる。
ここはバロック様式の聖カジミエルの礼拝所。入り口から右奥にある。


正面に飾られた聖カジミエルの聖画には手が3つある。この3つ目の手は画家が何度消しても再び現れてきたのでそのまま残したという言い伝えがある。
お布施の募金箱にコインを数枚入れて外に出る。次に目指すは大聖堂から1kmちょっとの距離、パメンカルニオ通りにある国立ユダヤ博物館Lietuvos Valstybinis Zudu Muziejus。


第二次大戦時にナチスの犠牲になった7万人近いユダヤ人の資料が展示されている。建物の外観から、通称「グリーンハウス」と呼ばれる。入り口の前に来た時、ドアにはこんな貼り紙が。

何と8月2日から9月6日まで改装工事の為閉館という旨の内容。あーらら。中を覗くと大工さんとか工事業者がのんびりと作業している。
順序がバラバラになってしまったが、気を取り直して再び大聖堂の方向に歩く。周辺にカフェテラスがあるのでそこを目指す。気温は16℃くらいで、その時に連日30度台後半を記録していた猛暑の日本に比べて20℃くらいの差がある。心地良い気温の中、大聖堂の鐘楼(高さ53m)を眼前に見渡すテラスにて、リトアニア入りしてようやく国産ビール「SVYTURYS」をいただく。
http://www.lithuanianbeer.com/svyturys_beer.html


味はズンと苦味が効いてて旨い。キリンの「ハートランド」を彷彿とさせる。


このブランドロゴを以降あちこちで見かけたので、これがリトアニア最大手のメーカーなのだなと認識。しかしこれどう発音するんだろう。「シュバイチュリーズ」か、それとも「シュヴィタリース」なのか。誰か知ってる人いませんか。
大聖堂の南側にあるビリエス通り。ここで何かの音楽イヴェントだろうか、舞台や音響装置の大掛かりな設営を行っていた。

それを傍らで見守っている警官。銃はグロック19だった。




↑コレ。


周辺のお店を色々と物色し、またホテルへ戻る事にする。その道すがら、ゲディミノ通り沿いにある劇場。その入り口上に建立された像。


戯曲の登場人物か何かだろうか。印象的だったので思わず撮影。


てかPerfumeの3人が公演のオープニング時にこうした感じの衣装で颯爽と現れ「かしゆかです、あ〜ちゃんです、のっちです」と自らの名を名乗る度に仮面を一つひとつ取っていき、最後には身に纏った黒い衣装を脱いで宙に高く放り投げ「3人合わせてPerfumeです!」というパフォーマンスを敢行してくれたらファン全員のハアトをガッチリ掌握出来る事間違いなし(←多分)。東京ドームでそれやってくれてたらなぁー。行けなかったけど。
ホテルのすぐ脇にキオスクがあったので物色。国内のビールが沢山陳列されている。酵母を濾過していないタイプやアルコヲル度数高めのタイプ、エールっぽいものまで様々。基本的にピルスナータイプが好きなので、数ある中から「カルナピルス」を選択。

http://www.kalnapilis.lt/lt/
ちなみに写真のは500mlビン。すこーし酸味が多い感じだが旨い。飲みながらぼんやりとテレビを観る。リトアニアの小中学生が参加するクイズ番組がOAされてた。
「さて、今夜の食事はどうしようか」とガイドブックを手にし、何処にするかと考えていたところ「自家製ビールを飲ませてくれるレストラン」があるとの事。それもホテルから徒歩5分以内に。こ、これは行くしかない。
外から銀色の大きなタンクがあるのを確認し中へ。早速注文し、パスタも一緒に頼む。


味は・・・何と言うか、ハチミツを溶かした様な味がした。うーむ、想像していたのとはちょっと違うかな。

で、これがオーダーしたサーモンとムール貝のパスタ。

クリームスープに入った状態で運ばれてきたのだが、これがまた酷い仕上がり。「アルデンテ?何それ?」と言わんばかりに茹で具合が柔らか過ぎてボソボソ。しかもブツブツに切れていてフォークで巻き取る事が出来ない。さすがにこれは落胆。味自体は良かったんだけど。まぁウエイトレスのお姉さんが綺麗だったのでギリギリ及第点としますか(←何だその理由は)。
納まりの効かない気持ちを抑えつつ店を出て、宛てど無く歩き出すも夜景が綺麗な場所やナイトスポット等も周辺に無いので結局ホテルに戻る事に。その帰途、スーパーマーケットがあったので入ってみた。海外に旅した際は必ず現地のスーパーマーケットに立ち寄るのが恒例になっている。日本では滅多に見る事の出来ないその国のパンやチーズ、ソーセージといった食材の多くに、その国の文化、とりわけ基本的な食文化の発露を見て取る事が出来る。加えて時折料理を作るという事もあり、珍しい調味料を発見出来るというのも大きな魅力。

ここでは固形のビーフブイヨンと、野菜だけのブイヨン、いわゆるブーケガルニを入手。ベジタリアン向けのカレーを作る時に便利。それとタブレット状のビタミン剤も購入。水に入れると発泡しながら溶けるタイプです。
あとビールのお供にLaysのポテトチップスを買おうとしたのだが、ワインビネガー味やトマト&バジル味、サワークリーム味など沢山あるというのに何故か私の最も好きな塩味が無い!

↑コレ。


これはリトアニア滞在中ポテトチップスが売られている場所を発見する度に確認したが、結局発見出来なかった。「何故塩味タイプを食わねぇんだよリトアニアぢんは!」とプチ憤慨。
その後ホテル脇のキオスクでビールを2本購入。どちらも500ml入り。


右のは褐色でアルコヲル度数5.8。ぅおっ。ピルスナー好きな自分にはちょっと口に合わなかった。
リトアニア第2の都市、カウナスに向けての移動を控え、荷物をまとめ、シャワーを浴びて就寝。いよいよ明日は旅の真打ちだ。

一応報告。

皆さんこんばんは。
東京ドーム興行観覧を果たせず、日々の生活の気勢が揚がらない、Perfumeを応援する市民の会新潟支部長のシンジです。観覧券確保したってのに。
観覧した皆さん、そしてPerfumeの御三方、大変お疲れ様でした。
通常ならここで会場の模様を報告するのですが、今回は代わりに、今更感満点ですが8月29日から9月4日までバルト三国の1つ、リトアニアを旅した見聞録を以降6回に渡って書きたいと思います。






第1日目。


前日夜から常宿のある新宿に移動。酒場をハシゴして夜を満喫。翌朝新宿駅に向かい、成田エクスプレスに搭乗。所要時間は約90分。
すると日暮里に差し掛かるあたりで列車が停止。アナウンスでは「人身事故」との事であり、かなり復旧に時間を要するという。ようやく列車が動き出したが、空港のチェックインカウンターには離陸2時間前が基本。所要時間を逆算したら、そのデッドラインを割ってしまう事態に。車中での1分1秒がもどかしく感じる。
目的の成田空港第2ターミナル駅に到着するや否や駆け出す。この時点で、出発時刻まで約70分。大幅な遅れである。今回搭乗するフィンランド航空の受付にでは問題無く手続きを済ませるも、待ち時間を免税品店巡りなどして悠然と過ごす間も無く出国審査場へすぐさま向かう事になる。時間が差し迫っていたのでそのまま小走りで出発ゲートへ。成田に着いてから終始駆け足の状態でようやく機内に。乗り換え地のヘルシンキまでは約10時間の飛行。そこから乗り換えて1時間程でリトアニアの首都ヴィリニュスに向かうというプラン。



離陸して90分程したところで機内食が配布される。チキンor パスタで後者を選択。ドリンクはダイエットコークをチョイス。到着までドラマや映画を観て過ごす。




到着。これが乗ってきたエアバスA340。不肖シンジの一番好きな機種。



ヘルシンキ空港に到着して、普段はそのまま乗り換え便の搭乗ゲートに進むだけなのだが、降りてすぐに再び荷物検査。次のヴィリニュス行き出発時間までビハインド45分。当初は待ち時間が少なくて楽とばかり思っていたが、再度検査があるとは想定外。人がなかなか流れていかない状況に不安を覚え始める。ようやく検査をクリアして、そこでやっと入国審査。「シェンゲン条約」というEU加盟国同士の取り決めにより、EU圏内に入った時点で「入国」とみなされる為である。これは昨年夏にミュンヘンに行った時もそうだった。最終目的地はドイツだが、件の条約によりパスポートに捺印されたスタンプは乗り換え地のオランダのものを捺された。



これが入国審査場。このカットを撮影した時点でヴィリニュス行きの便出発まで10分を切っていた。しかも列は遅々として進まない。シビレを切らして、たまたますぐ傍を通りかかったフィンランド航空の女性職員に「時間が無いから何とかしてぇなホンマ」と直訴。その職員は携帯で何処かに電話を掛けて何事か交渉しているようで、電話が終わると「んじゃあっちのトコ行って」と、上の写真には写ってないが左端の、誰も並んでいないレーンに向かうよう便宜を図ってくれた。スタンプを押してもらい、そこから搭乗口まで一気に走る。
指定の搭乗ゲートは遥か向こう。走れどもなかなか着かない。向かっている最中に2度「早く来てくれ」と自分の名前がアナウンスされているのが聞こえる。道すがらには様々な土産物やグッズの店があるのに、ゆったりウィンドウショッピングも出来ない。あーもう!成田からヘルシンキまで結局走りっぱなしかよ。
デッドラインを二分程超えたあたりでようやく搭乗ゲートに辿り着く。機内に入り、15分後くらいに離陸。乗った機体はブラジル製のエンブラエル190だった。



↑これ。写真が見付からなかったのでミニチュアで代用。
これまでボーイングエアバス、ダグラス、ボンバルディアに乗った事はあったが、この機種は今回初めて。100人前後が搭乗出来る近距離路線の小型機のシェアで、エンブラエルボンバルディア、それとボーイング737がほぼ3等分している状態。そこに三菱重工業製の機が参入を目指しているがそれはまた別の話。
離陸して約1時間の飛行。ようやく落ち着いた瞬間に重大な事に気付いた。「成田で保険加入の手続き忘れた・・・・・!」
どんな事故やトラブルが起きるか分からない海外旅行。外国は日本と違って医療費が信じられない程高額なので、必ず加入せねばならない、ある種の「義務」といっていいものである。これまでは必ず手続きを済ませていたが、成田到着に相当手間取ったので、その慌しさによりすっかり忘れていた。しかもガイドブックには「リトアニア入国の際には保険加入を証明する英文の書類の提示を求められる事がある」そうで、それが無ければ入国を拒否される可能性もある、としている。ガビーン
以前読んだ新聞に書いてあった「実例」なのだが、こういう事があったそうである。



「ロンドンに来た日本人観光客が現地にて事故に遭い、病院のICUへ搬送。結果、病院への搬送費・ICUでの治療費・入院費・一報を聞いて現地に駆け付けた家族の渡航費や宿泊費・帰国する為に空港へ向かう為の搬送費用・その際医師や看護師が付き添った費用・車椅子で帰国便に搭乗する為に座席部分を改造した費用」、合計約2000万円。
しかしこれらは全て日本出発前に加入した旅行保険で全額カバーされたという。


出発から乗り換えまで散々急かされ、ようやくひと安心かと思ったらまた新たな問題・・・これほど気の休まる状態を許さない旅があっただろうか。
結局、到着した首都ビリニュスでは荷物を回収しただけであり、入国審査は事実上既にヘルシンキで済ませたので事無きを得た。しかし保険に加入していない事実だけは変わらないので、事故や怪我、防犯に充分留意せねばと気を引き締める。
社会主義の名残りが残る殺風景な到着ロビーを抜け、持参した米ドルを現地通貨の「リタス」に交換。
外に出た途端呆気に取られた。見渡す光景が一国の国際空港周辺の佇まいとはまるで思えず、特急列車は通過して準急がようやく停まるような地方都市の駅前を彷彿とさせるものだった。


もっとも日本だったら駅前はサラ金の看板だらけなので、暫く見ているとこの殺風景な感じが心地よく思えてきた。


費用を抑える為と、ボッタクリの被害を防ぐ為にタクシーで無くワゴン車を大きくした乗り合いのミニバスに乗り、目的のホテルに面した大通りを目指すが、当然土地勘が有る訳も無く、あっさりと降りるべき地点を過ぎてしまう。慌てて降りた場所が、観光客は間違いなく足を踏み入れないであろう場所。現地の人間にとって東洋人は珍しいのか、通り過ぎる人が皆こちらを凝視している。



道の反対側のバス停に向かい、今来た道を戻る為のバスを待つ。こうした早くその場を離れたい時ほど、目的のバスはなかなかやって来ない。おまけに待っている最中に雨が強く降り出す始末。この期に及んでも事態はスムースに動かず、消沈する気持ちを異国での孤独感が更に後押しする。
やっと現れたバスに乗り、ホテルのある旧市街のメインストリート、ゲディミノ通りで下車。ホテルを探す時も、仰々しい看板が出ている訳ではなく、入り口とは知らずに2回も素通りしてしまう羽目に。外観はホテルというより、すぐ隣がカフェだったので、どこかの商業ビルの出入り口といった雰囲気。すぐ近くなのに分からずウロウロしていたと知った瞬間に強烈な脱力感を覚える。
チェックインしてキーを受け取り、フロントに設置してあった冷蔵庫にデンマークのツボルグがあったのでヤケ酒的に2本購入。1本6リタス(2010年11月現在1リタス約33円)。これは現地の相場からは倍以上の値段。まぁ背に腹は代えられん。



王冠ではなく、オロナミンCの様なプルトップ式だった。



1本を一気に空け、そのままベッドに倒れこむ。テレビはCNNと欧州圏のチャンネル「ユーロニュース」が英語で放送してたので、何とか「浦島太郎」状態にならずに済んだ。しかしドイツの「viva」やアメリカの「vh1」といった音楽番組が映らなかったのは残念至極。youtube同様、こうした海外の音楽プログラムが自分のDJネタ発見に役立つのだが・・・。
http://www.vh1.com/
http://www.viva.tv/

もう1本のビールを飲み干したところで、汗ばんだ服を着替えてから外に出て周辺を探索。午後8時くらいだったので何か食べようと思ったが、着いたばかりなので食事が出来る店を充分に把握しておらず、加えて首都の、それも中心部であっても、これまで行った事のある都市に比べれば非常に雰囲気が地味。結局個人的な嗜好もあり、道すがらにあったトルコ料理のスタンドでケバブをテイクアウト。



薄い生地で牛肉のケバブと千切りキャベツを巻いた物、それとフレンチフライ。なかなかのボリューム。一緒に買った7UPは日本で売られているものと比べてもの凄く甘かった。
一気に平らげると、移動の疲れもあり、安堵感も加わってそのまま就寝。








2回目に続く。

「祝辞」で復活。

長い沈黙を破り、本日ここに新潟支部の活動を再開します。







大本さん、22歳の誕生日おめでとう御座います。

多くの仲間と共に、御祝い出来る事を大変嬉しく思っております。

この一年が大本さんにとって、たくさんの幸福と可能性に満ちた日々でありますように。

いつまでもお元気で益々のご活躍をお祈りいたします。