ミクのライブ

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お金払ってまでは行きたくないけど、近くでただでやってたら参加して、結構盛り上がっちゃうだろうなって思った。
バーチャルアイドル」が「ライブ」する。すでにそこにある現実。

映画「アバター」でも話題になってる3D映像の技術やWiiのコントローラーなどのモーションキャプチャー技術?の普及で、身近な娯楽商品が一気に身体感覚自体をターゲットにして広がってきているように思う。
もはやぼくたちは体の動かし方や現実感覚自体をも消費の対象として生きているのだろうか?
「価値観が合う人、合わない人」なんていうような言葉はもう古いのかも。
一部の奇抜だったり歴史があったり権威だったりする現実感や振る舞いがマーケティングにより分類され、みんなが消費する情報となる。
そういったメディアが作った分類に従って現実の感覚や振る舞いが現実になる。
その現実をまた、新たに分類して次の消費のモデルを作り、メディアが流布する。
これにはきりがない。

「何を信じていいのかわからない」と言っていた時代はまだよかった。
「あなたがそこにいる」ことは無条件で認められたのだから。
今や、「あなたの現実感覚や振る舞い」自体が選択と消費の材料として賭けられている。
存在の仕方そのものが記号として消費されている。
これが、いわゆるオタクの言動のある種の「気持ち悪さ」や「違和感」なのかもしれない。

そりゃ、ひきこもりも増えるだろう。
そこでは「人権」の二文字も変質してしまうからだ。
かつて人権侵害と言われた人を中傷することは、いまや消費財としての人格を改善、革新するための批判として許容されるようになっている。むしろ、よりエキサイティングな存在や生き方を生み出すために、積極的に存在の否定がうたわれてはいないだろうか。
商品としての生き方をまとわずに、うかつに外へ出ると「ダサイ」の一言で人格や在り方を否定されてしまうのだ。
消費の人生観はすでに現実のもの。
現実感が買える時代なのだ。
現代人はそれぞれの日々の在り方自体が何らかのモデルを追って消費することでしか意味づけられなくなってはいまいか。
職場では労働時間がどんどん長く過酷になり、人間関係が希薄になる。
学校は親の価値観で染まった子どもに振り回され「在り方」を失っている。
生き方どころか現実感すら定まらない親にはどんな子育てができるのだろうか。
地域活性化も行政や企業頼み。
自分がありのままで認めてもらえる場所はどこかにありますか?

学べる人、そうでない人―公共性につながる思考―

 一昔前、ネットの世界は、特別な趣味や技能を持つ人のみが楽しめるところだった。教育哲学の世界も、特殊な業界用語を駆使する専門家が、知的な議論により楽しみを享受していた。
 しかし、いまやネットの世界は通信の高速化と携帯への普及などにより急速に敷居が下がり、コンテンツの一般化が進んでいる。教育哲学の世界は、思想界の相対主義ニヒリズムの蔓延により、人間が生きる意味を問い直すというダイナミズムを失い、経済合理性の論理に、教育の意味を語るという役割をのっとられた。


 ネットはオタクによって運営されていた時代がすでに終わり、「リア充」により侵食が始まっていると言える。教育哲学の世界は、「もうかる」「かっこいい」「かわいい」という価値を問い直せず、言いっぱなしを批判する自浄作用を失っている。


 旧来からネットに携わる、30代以上のオタク、いわゆる第1、第2世代のオタクは、我が物顔にやりたい放題しだす「新入り」に、どう反転攻勢するのだろうか。教育哲学の世界は、成果主義や自己責任で語られる教育思想にどう反転攻勢するのだろうか。


 どちらにも通じることが一つある。
 それは、ネットや学校というそれぞれが対象とする世界では、日々、新しい実践が刻々と起こっているということだ。ネットがどういう経緯を経て今に至ろうが、哲学がどれだけ知的な蓄積をしていようが、関係ない。現場では、確かに知識と経験は浅いかもししれないが、生き生きした実践が日々起きている。


 ネットや教育哲学が、生きることにつまずいた一部の絶望した若者や研究者の安全地帯だった時代は終わった。
 旧オタクや旧教育哲学は反転攻勢に出ているのだろうか。一方では30代以上にも優秀なネットコンテンツプロデューサーがいる。既に違う理論を立てて、人間や教育をダイナミックに語りなおす教育哲学者もいる。メジャーではなくても、確実に存在する。


 そういう日々変化する現実に開かれていることはとても大切だ。過去の歴史や栄光に誇りを持つことと、移り変わる現実を見ることは両立できる。自分の中に作った規範を少しずつ壊しつつ、新たな意味を学び、変化する生き方は可能だ。この生き方は人間を広く、深くする。そういう生き方をする人は、つまり、学べる人なのだ。
 そして、そこにこそ、人間の根本的な可能性がある。


 具体的な行動に移すことは少ないが、ほとんどの大人は、その「開かれた姿勢」を維持している。現実から学べない大人は、世間知らずと呼ばれる。果たして、旧オタクや旧教育哲学は世間知らずになってはいないだろうか。


 昨今、こだわりを持つことが称揚される世の中になっている。私は自分の変化を肯定できる世の中であって欲しいと思う。それが人の学びであり可能性だと思うから。そうなるように、教育に携わり、地域の活動に参加する。
 公共の場とは好き放題できる場所ではない。こだわりを持ちつつもそれを反省し、学んでいくことに開かれた人のための場だ。誰かが所有できるものではない。理論と実践を往還をする生活から生まれる、ネットワークや生き甲斐が公共性を生むのだ。

他者を理解する視点とは何か

大野氏の記事へのコメントの中で、AntiSeptic氏が「他者を理解する視点は推論だ」と述べています。
私はこれに反対です。理由は、推論からスタートする他者への理解は論理的な整合性の中に理解の射程が閉ざされてしまうからです。あらかじめ推論として体系付けられている自己の論理に、他者の言葉が回収されてしまうからです。


では、どう「他者理解への視点」考えるかというと、その他者(人、モノ、動植物、テキスト)への関心だと思います。

同コメントの中で、AntiSeptic氏が、「私(shinpants)の『他者を理解しようという視点』とは、要するに好意的な見方に過ぎない」とご指摘されている箇所がありますが、まさにその通り、的を得ています。
私は、自分と異なる世界観を持つ他者に対して理解しよう(つまりコミュニケーションをとろう)と思ったとき、そのコミュニケーションの展望をどこから語るか、視点(まなざしのスタート地点)をどこに置くかというと、好意、つまり、他者への関心だと思います。(これはなんら難しい話ではありません。「その人のことが嫌いでは、そもそも、理解しよう、コミュニケーションしようという気にならない」という話なのです。)


私は、言葉は語っているその人とストレートに結びついている、とは考えていません。論理的に一貫した説明が、その人を正しく表現しているとは思いません。言語で説明することは、必ず語らない部分を生みます。つまり、ある側面を隠してしまいます。常に世界は語りきれないものです。
様々な状況の中で生きている自分と、そういう自分について語りうる姿の部分と、聞き手に実際に語った自分の姿はどれもそれぞれズレを含んでいます。そのズレを含むものとして言語を考えないと、コミュニケーションは自己中心的な、一方通行もしくは表層的な単なる形式に堕ちてしまいます。


では、どうやって説明したり理解したりすればよいのでしょうか。私達がその人の姿を言語でしか明確に理解できないとしたら、他者に関心を持ったとして、そこからどうすればそのズレに立ち向かえるというのでしょうか。
そこでキーワードになるのは対話だと思います。語りきれずにズレていく自分の姿を、お互いに「ズレてるね」と確かめつつ、なにがズレているのかを相互の関心の視点から明らかにしていくこと。それが「関心から始まる対話による理解」だと思います。
このズレを踏まえずに、論理的な整合性に固執していては、「いくら話しても分かり合えない人」になってしまうのではないでしょうか。


人間は論理的に矛盾した行動に満ちた生き物です。しかし、論理に回収しつくせない人間の行為が文化の多様性を生んでいるとも言えます。「推論からコミュニケーションをする」ことが、「理路が整然としていない」ことが理由で、「別に『どういう世界観か、聞いてみたいと』も思いません。」と帰結するAntiSeptic氏の論理に、「推論からのコミュニケーション」が関係を閉ざすことになる(つまりコミュニケーションにならない)危険性を見ます。

理論と実践をつなぐ判断としての美的感覚②

私達は、人に言ってもダメだったとき、「あの人のこだわりだから・・・」なんて言う。
理屈でわかっているはずなのに、そうしてしまうこだわり。そうしないと落ち着かないとか、気持ちが悪いというこだわり。人は様々なこだわりを持っている。


どうして人はこだわりを持つのだろうか。
不便なときがあるのに、なぜかいつもの道を通ってしまうとか、同じお店で買い物するとか、好みの音楽ばかり集めるとか。おそらく、こだわりはその人の美的な感覚から導かれるものなのだろう。


様々な世界の事象を、お決まりのパターンで捉えてしまうそういうバイアスをかけるもの、それが人の美的な感覚なのではないだろうか。様々な事象を、毎度、ある一定の形式で捉えることをこだわりとするならば、そのこだわりを導くのは、その人にとっての美的な感覚である。


「モテたい」というこだわりがある人は、様々な現実が、こだわりのフィルターを通ることによってどうしても一定のあるバイアスのかかった理解になる。どうしてそうなるの?と思わせるそのこだわりは、判断をしている感覚に原因がある。


これは、巷で、価値観と呼ばれているものに近い。
人々が価値観の多様化を問題としてあげるとき、多くの場合、「話の通じない相手」を想定している。その、話の通じない相手は、理屈は理解しても、「本質的」には変われないという意味での「通じない」相手である。
この、「本質的なもの」というものが、その人の美的な感覚なのだ。


私達が日常耳にする「あの人は、ああいう人だから」という諦念や陰口が示しているのは、その人の持つ美的な感覚への対応の難しさや近寄りがたさである。だからといって、共に活動するときにはお互いの「本質的な価値観」を尊重しつつ、なんとか私達は行動を共にする方法を模索していく。だから、いくら美的な感覚がその人の「本質」のように見えても、そこから先に進めないものでもない。
つまり、おそらく、一面では「本質」である美的な感覚に導かれるこだわりも、一面ではもう一つの道、オルタナティブに開かれているのだろう。いったいそれは、どのように捉えることができるのだろうか。


つづく

理論と実践をつなぐ判断としての美的感覚①

大野氏の記事へのコメントのやり取りから
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20080410/1207843401#c


「恋愛できない苦しみ」を度々味わい、「それが嵩じて非・非モテから言及されることに怒りを表す非モテ」、A氏がいるとする。
このA氏に対して、「なぜモテたいのか」と問うことを烏蛇氏は提案した。
このA氏への問いかけは「暴力的ではないか」と大野氏は指摘した。
ぼくは大野氏に賛成する。確かにこれは酷な宣告だろう。

本人が、生きている世界のこだわりの対象に「恋愛」を選んでいるのだ。
感覚的にだろうが、そういう世界に生きているのだ。
そういう世界で生きている人間に向かって、「なぜそういう判断をするのか考えろ」と言うことは暴力的だし、無責任に聞こえる。

では、人が「恋愛」に生きることは勝手でしかなくて、そういう「恋愛」にこだわることの偏りや副産物について指摘することはできないのだろうか。

A氏がなぜ「恋愛」をこだわりとして選ぶのか、その構造を理解することで、この問いの糸口が見えるかもしれない。

A氏をこだわりへと結び付けているのはA氏の美的な感覚である。
美的な感覚とは、理論と実践の間で、概念と行為の対応を判断する経験的な術である。
美的な感覚とは、具体的な経験を、ある概念の枠組みに対応させる時の判断の術である。


これまで、非モテの議論は、主に二つの方向からのアプローチで議論されてきていた。
一つは、「非モテ」を実際の存在としてどう語るかという、説明、理解の仕方を経験的に追及する方向(以下、『実践型』)で、もう一つは、そうして語られた「非モテ」像が、概念としてどう体系に組み込まれるかを分析する方向(以下、『理論型』)である。
これらの方法は、相互に役割を補い合い、二つのアプローチが、それぞれの領域で新たな意味を見出すことで、議論が保たれてきた。『実践型』は、例えば烏蛇氏の体系的な分析により経験的な語り方のバリエーションを増やすことができたし、『理論型』は多くの経験的な事例をえることで概念体系の広がりを得ることができた。
しかし、ここに来て、Aという、「非モテ」にこだわる生き方は、本人にとって「幸せ」かどうかという問題をどう扱っていいのかという問題に直面している。

これまでのところ、議論がかみ合わず、頓挫している。
これはしょうがない、これまで前提としてきた議論の前提が生み出す必然的な行き詰まりだろう。。
非モテのAに対し、『理論型』の人間は、「その発想自体が偏ってるから、一度よく考えてみたら。」と言う。
『実践型』の人間は、「モテをコンプレックスとするかどうか、それは本人達の勝手だろ。」と言い、
それを受けて、本人Aが「考えた上で、偏ってたっていい。人の弱みに口出すな」と言ってしまう。


はたして、どこから手をつければよいのだろうか。


人間は、二段階で欲望や現実を理解する。
理屈どうこう抜きにして、「なんとかしろ」と自分自身に迫ってくる「欲望」や「現実」を、まず経験的に理解する。この理解はあくまでも、まだ実践の段階でバラバラの状態である。
そして、その実践領域での経験を、統合し、これまでの自分の理解との対応を判断することで、これまでの蓄積で体系付けられている概念の枠組みに組み込む。この段階で、今後の自分の行動に影響する形式的で体系的な「欲望」や「現実」の理解になる。
美的な感覚は、形式的な概念の体系と、経験的な実践の領域とを対応させる、各自が経験により学習してきた一定の基準を持つ感覚である。この感覚が本人の「幸せ」を決める。


つづく

ネット社会のプライバシー考(ミクシィより転載)

Amazonの「ほしい物リスト」で本名や趣味がばれる? ネットで騒動に
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=430512&media_id=32

個人情報が漏れてしまうという点では、ミクシィもしかり。
いくら友人までとしても、何かの経緯で個人が特定され、その言動が槍玉に挙げられる事件も起きている。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0611/14/news057.html

ネット環境は本当に便利だけど、個人情報の管理はどんどん難しくなっていると感じる。
ネットでのプライバシーは今後、どう守られ、どう展開していくのだろうか。


個人情報の管理が難しくなる背景の一つには、情報通信技術の発達による、リアルとバーチャル(ネット)の越境状態がある。それは、アナログとデジタルの越境と言ってもいいだろう。
すでに、デジタル処理の高速化で、アナログ感覚が違和感無くデジタル処理されてネットやゲームで共有できるようになっている。
高速になったネットでは、私の感覚を様々な方法で発信し、共有できるツールが開発されているし、ゲームでは、アナログコントローラーに始まり、Wiiに至っては体の動きそのものがそのままゲームに反映されている。


もう一つには、世の中が、ネット経由の情報と深く関係していることがある。
行政は住其ネットで私達の住まいを把握するし、確定申告もネット経由だ。
テラ牛丼やドライブスルー事件など、ネットの話題が社会問題化し、テレビ等のマスメディアで取り上げられることも、近ごろ目に付くようになった。
3年後にはそのテレビ自体がデジタル化され双方向のネット機能を持つようになる。


この二つに支えられ、いまや、ネット上の「炎上」や「祭り」を実際に起こっている出来事として、「リアル」に感じられる人も出てきた。
ネットという情報の網の目の中に、一種の身体感覚を伴った「私」という存在を実感できるのだろう。実際、自分で働いて得た労働対価としての「お金」が、ネットゲーム等、完結したネット世界の通貨と取引されている。

これまで「プライバシー」は、人が持つ、ある範囲での内・外面の私事性を定義してきた。しかし、リアルと感じる範囲がネット上にまで広がった今、「プライバシー」の再考が求められている。

自分だけの時間・空間という外的なプライバシー権は労働権、環境権などの基本的権利として多く議論される一方で、今後、「誰からも知られたくない」と思う、内面的な私事性(私秘性)は、いったいどうなるのだろうか。
干渉から守られるべきものとしての内面的な「プライバシー」はどこに見出されるのだろうか。
ネットが自由にできる外的な環境がありさえすれば、内面的な「プライバシー」は特に必要なくなるのだろうか。
誰からも干渉されたくない内面などというナイーブなものは、多種多様なネット世界や商品の中に霧散してしまうのだろうか。

冒頭の「ほしい物リスト」において、多くの人が、実名や趣味がネット上にばらされることに危機感を感じる一方、ギフト商品検索のために、顧客の情報をネット上に公開するというサービスも検討されている。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0608/14/news025.html
贈り物に迷ったとき、ネットの調査で、相手の「誕生日、関心、職業、学歴、所得水準、所在地、人種、民族、宗教、性的指向」が判り、「最適な商品」を購入できる世の中が可能なのだ。需要があるなら、いずれ実現するだろう。


この問題を考える上で、ここでは一つ、ネット上でのコミュニケーションの特徴を押さえておく。
ネットでのコミュニケーション(広義の政治)形態は、民主主義の前提とする、自立した個人による主体的な意思決定とは異なっている。
かといって、必ずしも、意思決定を容易にする為の、なにかしらの共同体の物語を共有しているわけでもない。
細分化された趣味嗜好の世界で、世代も性別も地理的条件も超えて、その時々の話題やイメージでコミュニケーションが成立する。
そのため、一人の人は、多様な人格を作ることができるようになる。ネット空間をまたいで、いくつもの人格を同時に持つのだ。
これは、演じるというよりも、むしろ、自分の中にそれぞれの趣味嗜好に対応する様々な「キャラ」が存在していて、ネットの場に応じてその「キャラ」が入れ替わる感覚である。
旧来の、場に応じて自分を装うというアイデンティティ感覚とは異なっていると言える。
従って、装っていない「本当の私」という存在は、様々なネット空間の間でバランスを取るだけの存在となっていて、他者とのつながりを持たない役割として、負担を軽減される。
現代のネットを使うことで、人は、人格を統合させず、オタク的な趣味を方々で作り、それらの趣味嗜好を発展させつつ生きることができる。人格を統合させないで済むことにより、多種多様な「幸せ」の基準と、追求するためのつながりを平行して持つことができる。
これまで、現実世界に固執し、「本当の私」を探し続ける生き方からすれば、はるかに楽で、広がりもあり、幸せそうである。


しかし、そこは、いまや大きな社会問題になっている学校裏サイトでの「ネットいじめ」を含む、「ネット犯罪」の起こる場でもある。
この「ネット犯罪」は、ネット社会をルール化することでなくせるのだろうか。
現在の対策の流れはネットの閲覧制限や禁止等、規制を進める流れだ。
しかし、ネットでの「いじめ」や「犯罪」が、「自由な情報のやりとり」というネットワーキングの特性から出現しているなら、ネットの規制という発想では、根本的な解決は難しい。


私達は、自分達が便利さを追求して作り出した、ネットというシステムを利用することで、「共同体の物語」でもなく、「科学的な合理性」でもない、刹那的であるかもしれないがその時々の話題やイメージから、別な「ありそうなこと」を生み出すことで、それを文化として生活するようになってきている。
この新しい文化的生活により作られた社会は、いままでの魔術的であったり、啓蒙的であったりした「人間」の定義を揺るがしている。前提とする人間像が揺らいでいるから、当然、住みよい社会、公共性の根拠としての民主主義という理念が危うくなっている。


ネット社会のプライバシーを再考する際、すでに、これまでの人間像や共同体の感覚を超えた文化領域を想定しないかぎり、的外れなものになるだろう。

メモ

概念は文脈に左右されるなら、メタファーの力でそれが揺らぐことは想像に難くない。
だから、なんだ?
揺らがして、新たな力の場を作ることは、何をもたらすのか。


日々事件の起こる現場はその力をどう使えるのか。
言葉遊びではないと言い切れるのか。


そうは言っても仕事に忙殺される毎日は耐え難い。