安く売れ、高く買え 後編



移行期の混乱
商品の調達範囲の拡大期には調達範囲の拡大とプレミアムの付加のタイミングにギャップが発生する。プレミアムを付加するためには倫理の弱体化が必要だが、倫理を弱らせるためには「倫理が有効でなくなる状況」つまりは商品調達範囲の拡大が必要になる。決してこの順番は逆にはならない。
そのためにこの時期だけの社会状況を観察すると「生産者が倫理を失って金儲けに走り始めた」となり、「生産者=悪、消費者=弱者」という図式を導き出すことができてしまう。分かりやすい構図だし、この時期だけの情報しか与えられないのであればこれ以外の答えはありえないだろう。しかしこの答えは皮相的であり、事態の本質をつかめていないから応用が利かない知識となる。
逆に商品調達範囲拡大の前期だけを見ると正反対の構図が浮かび上がる。「消費者がこれまで誠実に暮らしを支えてくれた地元の生産者を見捨て、価格だけで商品を選ぶようになった」や「生産者は地元消費者からの制裁という脅迫から解放されたにもかかわらず、倫理を失わずに低価格で商品を提供し続けた」となり、ここでは「生産者=善、消費者=恩知らず」という図式が成立する。これも皮相的すぎる。
生産者・消費者ともに善でも悪でもない。彼らはともにその時代々々の状況に合わせて自分自身の利益を最大化しようとしただけのことだ。正義*1の観点から見ても「消費者が理不尽な倫理を押し付けた」「生産者が一方的に倫理を踏みにじった」だから差し引きゼロだ。
しかしこのギャップの期間にも人々は生活を営んでいる。その時期には人々はそれぞれの倫理観でもって自分や相手を評価することになるだろう。移行期の前期に生産者は「俺たちは倫理を守っているぜ」つまりは「ものづくりのプライド」と呼ばれる心理的な優越感を持ち、後期には「プライドを失った生産者」と消費者が生産者を罵倒することで心理的な優越感を持った。
経済学に限らず社会科学全般においてなんらかの原理を見極めようとすれば、その事象が起きた歴史的背景を遡って調査しなければならない。つまりは「太平洋戦争の戦争責任を問うならばペリーを連れて来い(石原莞爾)」*2ということだ。


中国産食品が怖いわけ
「のれん」を信用できるものにする原理は複雑なのだが、どうしても不可欠なものにペナルティーの存在がある。「悪徳行為を働いた場合、ペナルティーを受け入れる覚悟があります」=「ペナルティーが怖いから悪徳行為を働きません」という図式だ。
ペナルティーには二種類が存在する。「今後の利益を放棄させる」と「保有している資産を減少させる」である。穏健な事件においてはペナルティーは前者だけで十分だろう。不買運動や営業停止などがこれの代表格だ。しかし過激な事件、再犯者や初犯でも深刻な被害が発生した場合は後者のペナルティーの適用も必要だ。そうでなければ「やったもん勝ち」になってしまう。
後者のペナルティーは損害賠償や罰金が一般的だが、(未必の故意を含む)悪意には身体的処罰(保有資産には当人の身体も含まれる)を課す必要がある。そうでなければ「大金持ちは多少の犯罪が許される」という拝金主義になってしまうからだ。これも一種の「やったもん勝ち」だ。最悪には死刑を含む身体刑(懲役は身体の自由を奪うという意味で身体刑である)を用意しなければならないのだ。
しかし中国の生産者には悪徳に対する司法ペナルティーを期待できない。中国の司法当局は「のれん」を生成するだけの真剣さを欠いているからだ。毒ギョーザ事件では犯罪の隠蔽をしているとしか思えない。このようなペナルティーの及ばない生産者の商品を消費者は信じることができない。経済学的合理性からすればこの事件を奇貨として、中国司法当局の「のれん」を作り上げるべきだったのだ。
なぜ中国政府は「のれん」を重視できないのか。それは彼らが「『のれん』が重要である」という経済学を理解していないからだ。先述したが、経済学は当事者の全員が理解していなければ効果的にはならない。消費者だけでなく生産者も経済学を理解してようやく社会は次の新しい倫理を身につけることができるのだ。
しかし中国は正しい経済学*3を正しいと認めることはできない。もしも「『のれん』という市場を理解するための経済学」が正しいと認めてしまえば社会主義経済学という今ではとうてい科学と認めようのない経済学が正しくないということをも認めなければならなくなってしまうからだ。


ようやく本題
元記事は経済学の専門家ではないわりにまあまあよく書けている。「のれん」が付加価値となり価格に転嫁できることを見抜いているあたりがよい。しかしいくつかの部分で解説停止の罠と「ゲーム理論による常識の再構築」についていけていない。
このプレミアム常識化の根本には「ボるのは商道徳上よくない」という倫理が変化したこと、そして倫理が変化したのは消費者単独の意識変化によるものではなく流通環境が変化したことによる不可避的なものであるということの二つの原因がある。
ついついこういった問題では「生産者が不道徳になったけど優しい消費者様が許してあげたよ」という耳障りのよい(つまり読者が共感したくなる)論理が語られる。そういった解説を読めば、こういった元記事を書くための基礎知識となるのだろう。しかし経済学は取引の学問であり、取引の主体は生産者であろうと消費者であろうと対等なのだ。


>消費者はようやく「安くていいもの」は稀有だということに気付いた
「耳障りのよい論理」に惑わされている部分を一点だけ指摘しておこう。
この文章は「消費者はようやく『いいものを安く売れ』と生産者に強要できなくなっていることに気がついた」と書くべきだったのだ。


本題終了
なんと最後の一段落だけが本題でした。しかしここだけをコメントするとあまりにも不親切で理解不可能なものになってしまうので長々と前説を書いてしまいました。
ついでなので、もう一点、多くの経済学の解説で抜け落ちている「耳障りの悪い論理」を紹介しておきましょう。それは「社会科学の根本には暴力という解決方法がパワーソースとして用いられている」です。どのような人間関係も(それが他人同士であれば特に)暴力という交渉のための潜在的なパワーが必要だということを忘れてはなりません。しかしこれはものすごく耳障りが悪いので、多くの経済学者はその解説をスルーしてしまいます。そしてそういった教育を受けた新しい経済学者の多くは「暴力というパワーソース」の存在すら意識しなくなっています。
しかしゲーム理論的には「暴力の存在を否定することが暴力を誘発する」となってしまいます。現実の暴力を誘発しないために我々は潜在的な暴力を肯定しなければならないのです。


フラクタルな世界
なお、今回の解説ではまあまあ大事な部分の解説を「面倒だから」という理由で省いています。それは「商品調達範囲拡大の過程として国家的独占企業が誕生し、彼らが独占価格でもって不当な利益を得た」というものです。
その国家的独占企業を打倒する過程でまだ命脈を保っていた「ボるのは商道徳上よくない」という倫理が重要な役割を演じています。そしてその功績によってその倫理はもう少しの間長生きすることになりました。また国家的独占企業が不道徳だったことへの反発で「倫理的な社会を作るためには社会主義でなければならない」*4という思想が芽生えたりもしています。
国家的独占企業を本当に倒したのは第二次世界大戦終了後のアメリカ主導の自由貿易体制です。第二次大戦前のブロック経済では逆に国家的独占企業が国家のために必要であるという状況がありました。しかしブロック経済体制が戦争を誘発するために自由貿易体制が設立され、そこでは国家的独占企業は悪であると認定されたのです。
こういった複雑な状況を解説するのはかなりの文字数を必要とするので省きました。あまり複雑な論理展開をすると逆に分かりにくくなってしまうのです。また要素を増やしてしまうと「本質を単純化し理論を構築する」という科学の基本を踏み外してしまうのです。

*1:何度も言ってるが、経済学は基本的に正義を論じない。

*2:東京裁判の検事が「日本の戦争責任は、日清・日露戦争までさかのぼる」と言ったのに対してつっこみとして発言したらしい。石原本人は「開戦当時の日米双方の政府に責任がある」くらいに考えていたっぽい。満州事変を起こした石原に責任があるんじゃないかとも言えなくもないのだが。

*3:正しい経済学などは未来永劫存在しないのだが、せめて旧来の経済学よりかは正しいという意味で「正しい経済学」と表現している。

*4:この思想の恐ろしいところは「倫理に合わせた社会を作ろう」となっているところだ。本当は「社会に合わせた倫理が発生する」なのに。「社会と倫理は適合している」という現在だけを見るとどちらもあっているように見えるが、歴史的な視点を持てば前者が間違っていることは明らかだ。

安く売れ、高く買え 中篇

ここからが本題というわけでもない
前説が長い。これは僕の悪癖だ。
前説が長い理由の一つは前述の解説停止をできるだけ避けたいと考えているからだ。何度も言うがこれは「3歩先の経済学」なので、「1歩先の世界」と「2歩先の世界」を解説しないと誰もついてこれない世界になってしまうからだ。僕はこのブログをせめて「経済学部の大学生ならば理解できないこともない」文章にしたいと考えているので、冗長でしつこいくらいに説明を繰り返したいのだ。
もう一つの理由は「実は前説の部分を書きたかった」からだ。「なぜ他人の文章を知識のベースにするのか」「なぜ他人の文章は信じられないか」ということだ。そしてここから「実際どんなふうに間違ってるのか」「間違っている部分を見つけ出すにはどうすればいいか」を書いていこうと思う。「プレミアムがどのように消費者に認知されているか」というテーマは実はどうでもいいのだ。


プレミアムは嫌われる
「のれん」が信用という価値を持っていること、どのような価値を持っているか、なぜ価値が発生するかについて長らく知られていなかった。正確には「なんとなくは知っていたが、強く意識されなかった」と言うべきかもしれない。
もっとも経済学で扱われている事象はたいてい「なんとなくは知っていたが、強く意識されなかった」ことばかりだ。本当に革新的で衝撃的な概念であるゲーム理論もこの「たいてい」の仲間だ。ゲーム理論が発表される以前から人々はゲーム理論を応用して経済活動を行っていた。それどころか人類が誕生するはるか以前、単細胞生物が出現したころから生物はゲーム理論でしか説明のできないような進化を続けている。経済学はほとんど常に現状の観察結果でしかない。
もっともこの「現状の追認」はどの学問分野でも同じようなものなのかもしれない。量子力学もかなり新しい科学だが、ビッグバンの昔からこの宇宙に存在していたとも言える*1量子力学が発見される以前から量子力学を応用した技術(無線など)も存在していた。しかし量子力学が広く研究されるにつれてそれを応用した技術は急速に精度を高めることができるようになった*2
経済学も同様だ。経済学の原理自体は昔から存在しているが、その原理を人々が知ることでより精密に応用することが可能になる。そしてその原則は「のれん」に関しても当然適用される。
「のれん」はこれまでは(なんとなくの知識では)「継続的な取引を可能にするもの」、つまりは量的拡大の道具だった。しかし「のれん」に関する知識が深化すると、「のれん」によって商品の販売価格を引き上げることができることが分かった。「のれん」は質的拡大の道具になりうるのだ。これがプレミアムだ。
実はプレミアムは昔から存在した。しかし消費者からは嫌われていた。「同じ効用の商品なのにちょっと有名だからってボりやがって」という感覚だ。取引というのは双方の合意によって成り立つものだから、ボろうが投げ売りしようが商売が成り立つのならば文句を言われる筋合いはない。しかし商品をできるだけ安い価格で買いたいと願っている消費者からすれば「足元を見られている」という不信感をどうしても払拭できなかったのだ。
消費者がこのようなわがままな論理で商品を選ぶ以上、「ボるのは商道徳上よくない」という倫理を持っている生産者が消費者に選好されることになる。前回に詳述しているが、倫理などは単なる生理的嫌悪や個々人の利己的意識の言い訳に過ぎない。しかし大多数が信じる倫理は正義として通用し、それを紊乱するプレイヤーは市場から締め出されてしまうのだ*3
しかし「ボるのは商道徳上よくない」という倫理は経済学的合理性を欠いている。その倫理に従って行動すると、生産者・消費者双方の損失につながるからだ。多くの人々が「ボられて(ボって)いるのではない。プレミアムを支払って(受け取って)いるのだ」と気づいたとき、ようやくプレミアムという概念が市場に受け入れられた。これは経済学の「生理的嫌悪にもとづく倫理」に対する勝利だ。人々がプレミアムという経済概念を意識的に理解することで「のれん」というものの利用技術が向上したのだ。
ここに経済学などの社会科学の特徴を見ることができる。社会科学はその名の通り社会現象に関する科学であり、社会は複数の人間が参加している。そのために社会科学を効果的に応用するためには社会の参加者がその社会科学を理解する必要があるのだ。


暴力的手段を忘れるな
そうは言ってもこのプレミアム概念の浸透は経済学の啓蒙だけによるものではない。プレミアム付加行為が生産者・消費者双方にとって、旧来倫理から発生する生理的嫌悪を覆すだけの利益になる素地が社会に存在しなければ倫理の均衡点は移動しない。
その社会基盤(インフラ)は流通業の発達だった。
流通コストの高かった時代において、消費者は生産者を選ぶ自由はなかった。近隣にいる生産者の生産した商品のみが購入可能であり、遠隔地で生産される商品は最初から対象外だった。
その状況では逆に独占的な生産者がいくらでも商品に高値をつけることが可能なように見える。それは貨幣経済のみを対象とした経済学的には正しい見解だ。しかし社会は金銭だけで動いているのではなく、特に閉鎖的な社会では金銭以外の力学が強く働く。つまりは独占で法外(当時の法律的には合法なのだが)な利益をむさぼる業者の倉庫を略奪してしまえばいいのだ。消費者は生産者に暴力という後ろ盾でもって「ボるのは商道徳上よくない」という倫理を押し付け、生産者は自身の身の安全という利益も含めた経済学的合理性によってこの倫理を受け入れた。
時代が進み流通コストが引き下がると消費者は遠隔地から商品を購入することが可能になり、生産者は遠隔地へ販路を拡大させた。これによって誰が一番利益を受けたかというと生産者だと思う。打ちこわしというすべてを台無しにする暴力から解放されたからである。
打ちこわしは消費者にとってもリスクの高い作戦だ。生産者の自衛行動に反撃される可能性もあるし、治安責任者からの司法的懲罰もあるからだ。そんなリスクを選択するよりも遠隔地から輸送された(輸送費を含んで)少しだけ高い商品を購入するほうが割に合う。遠隔地の競争相手がいれば近隣の生産者も独占による高値をつけることは困難になるだろうから余計に打ちこわしは割に合わなくなる。
生産者は自分たちの商品にどのような価格をつけてもかまわなくなった。安値をつけて量を拡大してもいいし、高値をつけて利益率を重視してもいい。自分にとって一番利益が上がるだろう戦略を選べるようになったのだ。


暴力の届かない世界
商品の調達地域が広くなると、今までには強く意識されなかった問題が発生するようになった。それは破滅的品質の商品の流通である。
特に食物が分かりやすい例なのだが*4、毒物が混入していたり腐敗していたりするとそれは低品質どころか破滅的品質の商品と呼ばれるべきだろう。「安物買いの銭失い」とあきらめて購入した商品を廃棄すれば済む問題ではなくなるからだ。調達地域の広域化でこのような破滅的品質の商品が流通するリスクは極端に高くなった。
閉鎖社会において近隣の生産者がこのような商品を販売すると生産者は簡単に特定され、治安責任者からの処罰や消費者による私刑にさらされる。しかし広域経済圏で大量の商品流通にまぎれてしまうと生産者の特定は困難になり、司法的解決はともかく消費者による私刑は現実的でなくなってしまう。
このリスクに対抗する手段は3つある。「消費者が地球の裏まで悪徳生産者を追及しにいく覚悟を持つ」「生産者が『破滅的品質の商品を生産しない』という倫理を持つ」「消費者が信用できない生産者の商品を購入しない*5」だ。しかし前二者は現実的ではない。悪徳行為に利益が発生する以上、悪徳業者の発生をゼロにすることはできない。生産者に倫理を押し付けるためには倫理に反した場合のペナルティーが必要だが、地球の裏まで犯人を捜しに行くことはあまりにも困難だからだ。
結局、消費者は信用、つまりは「のれん」を利用する以外の対処方法は選択不可能だ。そして消費者から「のれん」という追加行為を求められた生産者はその追加コストを価格に上乗せする。この上乗せを前述の倫理が禁じていたが、その倫理はもはや経済学的合理性を失っている。ここでようやく「のれん=プレミアム」という図式が成立するようになったのだ。

*1:ビッグバン以前にはなかったのかもしれない。それどころか宇宙自体がなかったのかもしれない。

*2:半導体の動作原理は量子力学を使わずに説明することはほぼ不可能だ。そしてCPUの内部配線は量子力学の影響が出ないように工夫されている。ネガティブな方向ではあるが、これも量子力学の応用の一形態だと言える。

*3:もっとも貴族社会などのように「ボられること」がステータスとなる市場もある。

*4:ブレーキが壊れる自動車とか発火しやすい家電製品とか食品以外でも多くの破滅的品質商品は存在しうる。

*5:もちろん完璧な信用などは原理的にできるわけがないのでそこそこの信用で我慢するしかない。

安く売れ、高く買え 前編

このエントリーへのコメント用に書いていたのだが、あまりにも長いので自分のブログにエントリーすることにしました。
woodさんのエントリー自体はまあまああっていて経済学部の大学生くらいなら十分に合格点がもらえます。でももう少し進歩した解釈を紹介します。


一面的な解釈
ある経済事象(取引)には常に2者以上の主体が関与する。取引の主体が偶然一人の人間である場合(余暇時間をどのようにすごすか決定するなど)もあるが、その場合も与える側と受け取る側の役割を一人の人間が演じているだけだと解釈される。取引に関与しているプレイヤーそれぞれの立場から取引の意味を解釈することで「なぜこのような変化が生じたか」を解明することができるようになる。
このエントリーでは消費者の立場からプレミアムという現象を解釈している。ここでは消費者の意識が変化したからプレミアムのついた財が売れるようになったという結論が引き出されている。しかしこの結論はかなり本質を外しているのだ。
なぜこのような一面的な解釈をしてしまうかというと、一番の原因は知識の不足に行き着くだろう。経済学の知識も足りないし、社会事象を経済学的に解釈したらどうなるかという歴史的知識も足りない。そのためにどこかで書かれている文章(日経新聞とか)を読んで、まあまあ消化された知識を入手してそれを自分の知識のベースにしているのだろう。


「誰か」は踏み台でしかない
この「誰かの書いた文章を基に知識を増やし、教養を作り上げていく」という手法は非常に合理的なやり方だ。人間には限られた時間しか与えられていないし、こういった異分野の知識を修得するにはとっつきのいい誰かの解説を基盤にするのが一番簡単で効果的な方法だ。
しかしこの「誰かの書いた文章」というものを鵜呑みにするのはすごく危険な行為だ。
まず最初の問題点は紙幅の制限のために解説が(著者にとって)完璧ではないということだ。ある解説をするためには別の事象の解説をして、その解説をするためにさらに別の解説が必要になる。この無限の入れ子構造を打破するためにはどこかで解説を打ち切らなければならない。そしてこの解説停止の部分で著者と読者の論理の齟齬が不可避的に発生する。
もちろん著者は「読者がここまでの知識は持っているだろう」というところで解説を停止するわけだが、読者がそこまでの知識を持っているかどうかはなかなか分からない。そして著者自身がその知識を誤解していることさえも十分にありうるリスクなのだ。
次の問題点は著者に「読者を喜ばせよう」という欲求が発生しているということだ。これは僕のようにまったくの趣味で文章を書いている人間ですら逃れられない罠であり、商業誌に寄稿している著者ならばさらに強力な拘束条件となってしまう。ここに「読者に理解したという満足感を与える」と「読者が期待する結論を提示する」という二つの悪文の発生条件が整ってくる。
後者は後段で説明するとして前者の問題点を見てみよう。これは経済学では特に顕著な問題に発展する。経済学はもはやゲーム理論がなければ科学として成り立たない。そしてこのゲーム理論の特徴が「しばしば常識とは正反対の結論が導き出される」というものなのだ。そのために本当に正確な論理を記述するためにはゲーム理論を利用した解説が必要なのだが、多分にこれは冗長な説明を必要とする。
ゲーム理論の冗長な説明を省くとその文章は読者にとって「なんでそんな結論になるか分からない」ものになってしまう。逆に読者におもねって「やっぱりそうなるのか」と思わせるべく「常識に沿った解説」をするとそれは「本当っぽく聞こえるけど全然正反対な解説」となってしまうのだ。*1
三番目の問題がイデオロギーの問題だ。これは先ほどの「読者が期待する結論を提示する」も含まれるのだが、結論ありきの文章が世界には横行している。自分の個人的な正義感が「理論的にも正しい」と証明するために理論をでっち上げる人間は後を絶たない。特に経済学は未熟な科学だからどんな結論でもそれなりに論理的っぽく書くことができる。一番目の問題の解説停止という技法を使えばさらに簡単になるだろう。
このごまかしを看破するためには高度な知識が要求される。知識が未熟なために他者の文章から知識を得ようとしているにもかかわらずだ。これは特に「読者が期待する結論を提示する」罠にはまったときに顕著になる。読者は自分が期待した結論を見ることができた満足感に浸っているときにそれが虚偽であることを疑うことに非情な努力を要求されることだろう。
最後の、そしてどうしても解決不可能な問題は「どんなに誠実な著者であっても知識不足や勘違いからは逃れられない」だ。僕もそうだが誰一人としてこのリスクからは逃れられない。どんな偉大な人間の言った言葉でも絶対に鵜呑みにはできないのだ。


3歩先へようこそ
しかもここは「3歩先」の世界であり、誰かの指標を期待できない。
僕はここで様々な論理を展開するが、そのうちのいくつかは裏の取れない理論である。多くの論文はその論理を補強するために別の論文の存在を利用している。「他の人もこう言っているからこれは正しいのだ」という論法だ。しかし僕は「まだ誰も言っていない」ことを書くことが多いので、僕の言葉を信じるためには僕の言葉そのものを信じる以外にない。
さらに悪いことにゲーム理論の一般原則「しばしば常識とは正反対の結論が導き出される」により、僕はしばしば現在の経済学の常識とは正反対の論理を展開することがある。そのために裏を取ると逆に「僕が間違っている」ことも生じてくる*2。それでも僕は僕を信じて突き進むしかない。3歩先の世界は修羅の道なのだ。
この修羅の道の代わりに僕が手に入れたものがある。それは「既存学説からの自由」だ。僕は既存学説が間違っているかもしれないと考える自由を持っている。もし既存学説が間違っている可能性があるのならば、僕の作った理論も例外ではない。僕は「僕が間違っているかもしれないと考える自由」を持っているのだ。やっぱり修羅の道だ。

*1:この「間違ってるけど分かりやすい文章」を書くことが(一部の著者にとって)合理的な行動となる現象もゲーム理論で解説できるわけだ。

*2:しかも本当に僕が間違っている可能性がある。

ゆずれないものの交渉 その8



今日のまとめ
戦争の是非を問うのは難しいが、世界中のほとんどの人が全面核戦争だけはなんとか回避したいと願っていることは確かだろう。
戦争に関する交渉は最終的に全面核戦争という終着点が見えているために、誰もがどこかでチキンになることを選ぶ。
イラク戦争の場合、戦争反対派が先にチキンになったので開戦が決定した。
イラクは全面核戦争というカードを持っていなかったために、米政府はチキンになる必要がなかった。
戦争に関する交渉は影響が深刻すぎるので大義名分などの倫理は交渉結果に大きな影響を与えることはできない。
今日で完結。


会議は踊り、いつのまにか去っていく
しかし戦争の是非などどうでもいい。ここで解説するべきなのは米政府がA「戦争したい」と言い出したときにそれを止めさせることができるかどうかだ。その交渉においてどのような倫理がルールとなっているか、そしてそれはどのような経済学的(ゲーム理論的)背景があるのかを解明することがこの文章の目的だ。
結論は「Aを止められない」である。現時点で世界が遵守するべき倫理においてはAを止める大義名分を用意することはできない。たしかに「戦争をするべきではない」という大義名分はあるのだが、「戦争をするべきだ」という大義名分もあり、双方ともが公共の福祉に合致している。
もちろんこれは開戦直前の状況での倫理的判断にすぎない。後知恵でよければ「大量破壊兵器はない」から「戦争をするべきだ」という大義名分はあまりにも弱いものになっている。
戦争反対派は違う理屈でもって賛成派を非難するべきだった。「イラク以上に人権侵害を行い、他国の主権を侵害し、大量破壊兵器保有と開発を行っている国を先に攻撃するべきではないのですか?」こう聞かれたとしたら賛成派はどう答えたであろうか。リストの筆頭は北朝鮮だ。影響の大きさを考慮すれば中国やロシアもイラク以上に人類の敵となるはずだ。開戦派はこの質問に対してはぐらかすか答えないかくらいしかできそうにない。「じゃあそっちの国から先に攻めようか」と言った日には第三次世界大戦が勃発してしまう。答えをごまかした時点で開戦理由は正当性を失う。「答えたくありません」はもはや一般に共有される価値観から逸脱している。
これはある屁理屈の矛盾をあぶりだすために原理主義的な解釈を突きつけるという手法だが、多くの屁理屈はしっかりと論理が練りこまれていないためにこういった矛盾をさらけ出しやすい。しかしこの手法には屁理屈が一人歩きして原理主義へと政策が突き進んでしまうリスクがあることだ。そしてそのリスクは人類の歴史上、数え切れないほどに顕在化している。
この交渉はつまるところチキンレース形式のゲームだった。ここでは戦争反対派のほうがチキンだったために開戦派に押し切られてしまったが、逆のパターンになることも十分にありえた。捕鯨問題における日本と違い、どちらも命を賭けてまでチキンになることを拒否するだけの切羽詰った理由がなかったからだ。


私のために争わないで
ぐだぐだに終わったこのチキンレースの裏で、イラクはレースの景品として取引されていた。ここだけを見るとイラクにとっては迷惑千万な話でしかない。しかしイラクもまた米政府とチキンレースを勝負しており、賭け金が高くなりすぎる前にゲームを降りる自由がイラクに与えられていたことを忘れてはならない。
イラクが所属している倫理の一つに「国体*1の維持のためには国民の虐待は許される」というものがある。民主主義国家に住んでいる我々からすればはっきり言ってキモチワルイ倫理なのだが、彼らからすれば我々の倫理もまたキモチワルイのだ。そしてこの倫理はイラクだけが有していたものではなく、他にも多くの国が有している。
この倫理を信奉していることが罪となるならば、多くの国家が断罪される。いや、まったく断罪されない国家など現時点では存在しないだろう。アメリカも日本も自国民である兵士に「国のために死ね」と命令することを否定していないし、内乱罪というものも刑法に存在している。しかし民主主義国家では「罪になること」が明文化されており、国民が望むならその法律を改定することができる。こういった制御機構があるから「他者の自由を奪う倫理」の存在が許容されるのだ。
イラクをはじめとした無法国家は「制御機構を組込むべきだ」という倫理を強く嫌っている。この倫理を受け入れてしまうと国家に寄生している独裁集団の存続が危うくなるからだ。そして独裁者たちは同盟を組んでこの倫理の押し付けに抵抗している。もしもイラクがこの倫理の受け入れを要求されるならば、明日は自分たちが同じ要求を突きつけられることになってしまうからだ。
実はこの同盟がイラク戦争の遠因となった。アメリカの開戦派も戦争反対派も同盟の抵抗を恐れ「この倫理はイラクにだけ押し付けて、他の無法国家には押し付けませんよ」という幕引きに走ってしまったからだ。同盟国も全面戦争を恐れてイラクを切り捨てた。ここでもぐだぐだのチキンレースが展開していたのだ。


信念と死と
イラクは一国だけでアメリカをチキンにさせるだけの力を持っていなかった。イラクがどれだけ抵抗しようとアメリカが自分のキモチワルイを捨てなければならないほどの損害を与えることはできない。そんなイラクアメリカにチキンレースを挑んだとしても勝てるわけがなかったのだ。
もしもイラク核兵器とそれをアメリカ本土上空まで運搬する手段を持っていたとしたらイラクチキンレースに勝つことができただろう。もしもイラクがそういった強力な核戦力を持つ国家(ロシアか中国)の属国だったならばそれもまたチキンレースに勝つ力となっていただろう。しかしイラクは両方とも持っていなかった。イラクの持っているのは古い倫理だけでしかなく、倫理同盟はイラクを裏切った。
我々はこの事例から、全面戦争というカタストロフィーの前では倫理は無視されるという古い教訓がまだ生き残っていることを知った。個人だってそうだ。生きるか死ぬかの瀬戸際に立ったとき、本人自身の倫理ならともかく社会から強制されている倫理を守ろうはずがない。
イラク戦争勃発時において他のすべての国や派閥が倫理を放棄しパワーゲームに身を投じたのに対し、イラクだけは倫理でもって勝利を目指した。イラクだけが倫理を信じ、それゆえに滅びたのだ。

*1:こういった場合の国体は国民を含んだ国家ではなく、国家に寄生する集団の権力維持構造であることが多い。

ゆずれないものの交渉 その7

今日のまとめ
イラク戦争には「開戦するべき」「開戦するべきでない」の両方に十分な大義名分がある。
どっちにしても大量の死者が出る。


空想の兵器
捕鯨問題は前述のように現代の倫理を適用すれば「どうするべきか」の答えがはっきりと出る。もちろんその倫理自体が成文化されたものでも公式化されたものでもないから、「俺たちの倫理ではその答えは受け入れられない」と反発することは可能だ。しかし倫理の恐ろしい面ではあるが「倫理を受け入れられない」と言った人間が社会に受け入れてもらえなくなる。村八分を恐れるならば、その答えを受け入れなければならないのだ。
しかしイラク問題はそうではない。「イラクに攻め込むべき」という答えも「イラクに攻め込むべきではない」という答えもどちらともが大きく倫理から外れていないからだ。どちらの答えも正当性を持っているが、選べるのはどちらか一つだけだ*1
ここで言うイラク問題は「フセイン政権を倒すために第二次湾岸戦争イラク戦争)を行うべきか」という問題のことだ。A「開戦したい」と考える米政府に対して「開戦させたくない」と考える反対派との交渉だ。第一次湾岸戦争は行うべきだっただろうし、現在のイラクへは治安確立のために大量派兵を行うべきだろう。
当時のイラクサダム・フセイン大統領によって独裁政治が行われ、国内での人権侵害はもとより近隣諸国に軍事的圧力をもたらしていた。第一次湾岸戦争で敗北したイラクに大幅な軍事力の制限が課せられたため近隣諸国への軍事的圧力は激減したが、それは多国籍軍によるイラク空域監視などの不断の努力によって支えられているものだった。フセイン政権が存続する限り、多国籍軍は多大なコストを費やしてイラク軍の監視を続けなければならなかったのだ。
さらに大量破壊兵器の問題がある。これは実際には存在しなかったのだが、こういった戦略兵器は実在が問題なのではなく「存在しないと証明されていない」ことが問題なのだ。イラクは国連の査察を妨害し、それは大量破壊兵器存在の状況証拠となった。
ここで開戦理由は二つ出来上がることになる。「国内での人権侵害をやめさせなければならない」と「戦争をさせないために先に叩きのめしておこう」である。この両方が戦争を始めるのに十分な理由ではある。そしてその程度の理由で戦争をしていたらあっというまに人類が滅亡するだろう。


敵の敵の敵
基本的には内政干渉のための戦争は起こしてはならないことになっている。捕鯨問題のようにある国で普通に実施されている政策が、別のある国の国民からすれば「言語道断で生理的嫌悪をもよおす政策」となることもある。捕鯨問題は海洋資源という国境をまたぐ資源に関するものだったから国際問題たりえたが、国内での政策に関しては「好きでやってるんだから放っておいてくれ」と言ってかまわないのだ。
人権侵害は内政問題だが、他国が介入していいことになっている。なぜかと言うと、人権侵害を行う側の人間は「好きでやっている」ことだが、迫害されている人間は「好きで迫害されている」わけではないからだ*2。そのため、外国政府は「その国の虐げられている人々」を代弁して当該国に人権侵害の撤廃を要求することができるのだ。
もちろんこういった内政干渉を正当化する論理などはただの屁理屈でしかない。本音は「人権侵害というキモチワルイことはなんとしてもやめさせたい」や「俺は倫理に従って差別を実行していないのに、お前たちだけ好き勝手に差別ができるのは不公平だ」といったC、つまりは生理的嫌悪である。そして生理的嫌悪を旗頭にしている限りは自分の要求を他者が受け入れてくれないから、Bという「納得してもらえる理由」をでっちあげているだけだ。
こうした本音を隠して屁理屈で他者の行動を制限する行為はなんとなく不道徳に思えるだろう。しかし今の人類にとってはこれ以外に妥当な解決策はない。なぜなら今の科学では他人の(そして自分の)本心を証明する術を持たないからだ。本心が分からない以上、他者を評価するには当人の行動でもってする以外にない。この場合は当人が語った理屈という言葉だ。その言葉に正当性があれば受け入れればいいし、なければ棄却すればいい。
本心の部分に共感していても言葉に正当性がなければ受け入れてはならない。逆に本心の部分に共感していなくても言葉に正当性があれば受け入れなければならない。どちらも精神的に大きな苦痛を要求される。そのためにこの倫理はまだそれほど一般的なものとして社会に受け入れられてはいない。しかし人々がむやみに殺しあわずにすむ社会を作り上げるためにはどうしても必要な倫理として、今後一般的になっていくだろう。
倫理がはっきりしていないために第二次イラク戦争直前に奇妙な現象が発生した。開戦の大義名分の一つが「イラク政府の人権侵害」であるにもかかわらず、いわゆる人権派が戦争反対を主張したのだ。開戦賛成者は「人権などどうでもいい」とまでは思っていない人々だろうが、人権派ほどは人権を重視していない人々だった。


数の暴力
予防戦争は正義であり悪である。第一次世界大戦は予防戦争が連鎖的に暴発したために世界大戦となり、第二次世界大戦は予防戦争をしなかったために戦争が拡大した。その後の米ソは予防戦争の代わりに核による相互確証破壊戦略をとり、第三次世界大戦の勃発を未然に封じ込めた。
本当に戦争をするつもりの国家に対しては予防戦争は非常に有効な対策となる。予防戦争は一般的に相手国の軍事力の撃破を目的とするために民間人に被害がでにくいことも事実だ。第一次世界大戦では戦死者は膨大であったが、民間人の被害はそれに比べると少ないものだった*3第二次世界大戦、特に独ソ戦線においては両国は互いに相手国を侵略するために戦争をしたために膨大な民間人が殺された。もしも英米仏が独ソ両国に予防戦争をしかけていたら民間人の犠牲ははるかに(桁が2つほど、いや3つかもしれない)少ないものになっただろう。日米戦線は日本に対して予防戦争をしかけようとしたアメリカに日本が予防戦争をしかけた構図だったので民間人の被害は小さかった*4
死者の数を重要視するならば予防戦争の大義名分は明らかに正当性がある。そして人権救済のための戦争はさらに意義があるものになるだろう。社会主義国家による国民の虐殺数は約2億人と言われている。第三世界の内戦による難民の死者数も膨大だろう。しかしこれらは結果論に過ぎない。予防戦争・人権救済戦争がエスカレートしてもっと多くの人々が死んでいたかもしれない。戦争をしなくても人々が殺されることはなかったかもしれない。ただひとつはっきりしていることは、戦争をすれば必ず人が死ぬことだけだ。
「確実な死者」を重要視すれば予防戦争も人権救済戦争も許されざる罪悪となるだろう。他人が殺人を犯すことはキモチワルイのだが、自分の手で人を殺すことに比べればまだましだ。「世界中の人が『自分は人を殺さない』ことを実践すれば世界から殺人という罪がなくなる」という理想を追い求めることもできる。理想は青臭いかもしれないが、それでもよりよい世界を作り出すための原動力であることも忘れてはならない。

*1:本当は中間的な解決方法を模索するのがベストなのだが、それを言ってしまうとおしまいになるので、選択肢は二つしかないという仮定で話を進めている。

*2:本当のところは好きで「他人から見ると人権侵害されている状況に身を置き続ける」ことをしている人もいる。なぜそんな状況に甘んじるかと言うと、それ以外の生き方を知らないために「自由だけど自己責任を要求される生き方」というものが怖いからだと思う。今の日本だってかなり自由な社会ではあるが、自由を制限される部分も多い。その制限を当然と思う人にとっては制限される側であっても強い不満を持ったりはしないだろう。そしてきっと百年後の人々から「なぜあんな自由のない社会で幸せだったの?」と不思議がられることになるのだ。

*3:戦闘員900万人、非戦闘員1000万人と言われている。戦争被害者の統計は極度に混乱した状況に加えてプロパガンダがあるためにどの数字も信憑性が低い。ここで挙げている数字はほとんど根拠のないものとして見てほしい。第一次世界大戦での非戦闘員死者は戦闘員よりも少し多いのだが、非戦闘員のどこまでが民間人なのかよく分からない。軍人の一部も非戦闘員に含まれているのではないかと思う。第二次世界大戦では軍人2500万人、民間人3500万人くらいらしい。あまり割合が違わないのではないかと感じるかもしれないが、ソ連軍人戦死者1300万人のせいであろう。ソ連はとかく兵員の命を軽視した作戦をたてることが多いことに加え、軍隊内部での処刑が膨大だった。まともな戦闘での戦死者はこの数字の半分以下だろう。だいたい戦争に負けたドイツの戦死者が350万人(独ソ戦以外も含む)なのに勝った側がその4倍も戦死者が出るのはおかしすぎる。

*4:都市空襲による死者は多かったが、それはB−29という超兵器が出現したからだと見るのが正解だろう。都市空襲をしたのがB−29でなければ被害面積は同じでも死者の数は10分の1以下だっただろう。東京大空襲のようなどこに逃げ場があるのかと思うほどの空襲でも被災者に対する死者の割合は8%でしかない。そして少し規模が小さくなるだけでさらに死者の割合は減る(大阪空襲で1%)。意外と避難は間に合うものなのだ。逆に原爆では一瞬で丸焼けになるために死者の割合が高くなる(広島で35万人の市内人口に対して約10万人)。沖縄では島という特性上、民間人の避難先がほとんどなく約10万人(臨時の軍属を含む。民間人の人口は約50万人)が死亡した。そのような大きな被害であっても独ソ戦と比べると桁が2つ違う。独ソ戦の民間人死者が約2000万人で日本の民間人死者は約30万人だ(沖縄戦での軍属死者を含めると35万人くらいか?)。

ゆずれないものの交渉 その6



今日のまとめ
生理的嫌悪を理由としていては捕鯨をやめさせることができないから、環境保護という大義名分を持ち出した。
大義名分を戦わせている裏でコスト競争も行われた。しかし倫理は金で買えないために双方がコスト度外視の行動をとった。
コスト度外視で相手の倫理を叩きのめしていると世の中がギスギスしすぎて生きにくくなるから、最終的な結果は妥協の産物となるべきだ。


計算された勇気
Cという生理的嫌悪でもって他人の自由を侵害しようという行為は、世界の新しい倫理でもって許されざる行為と認定されることになった。そうは言っても反捕鯨主義者は日本に捕鯨をやめさせたい。その欲望の炎は誰にも(本人にも)消すことはできない。
欲望の炎を胸に抱いたまま倫理に従っておとなしく生きることは選択肢の一つだ。しかし倫理に反しない方法で自分の欲望を満足させることもまた人間の可能性の一つだ。そして一部の反捕鯨主義者はB「捕鯨環境保護の観点からよくない行為だ」という理由でA「捕鯨という経済行為を行いたい」をやめるように迫ることとした。
この訴因の変更は実際の経緯とは違うかもしれない。Cの論者とは別にBの論者がいて、彼らは真剣に環境保護を訴えていたのかもしれない。そこにCの一部が合流しただけかもしれない。どちらにせよ本心はどうでもいい。我々に見極められるのは行動だけだ。
しかし捕鯨問題においてCはBに変化しきれていない。シロナガスクジラに関してはBとして有効なのだが、他の鯨種(特にミンククジラ)ではBとしての説得力を持ちえていない。商業捕鯨モラトリアムを日本が受け入れたときには「もしかしたら他の鯨種も絶滅の危機にあるかもしれない」という論理は説得力を持っていた。そのために日本は絶滅の危機にあるかどうか調査する期間のモラトリアム(一時停止)を受け入れた。そして調査の結果、ミンククジラは明らかに捕鯨可能な資源量があることが証明された。
この調査結果を受けて捕鯨反対国家が捕鯨賛成に態度を変化させていれば、その勇気は賞賛されたであろう。そう、勇気だ。CでありながらもAを認めること、思想信条に反する他者の自由を認めることはとても苦しくそれゆえに気高い倫理なのだ。
世界はそのように動かなかった。捕鯨反対国は「捕鯨なんてどうでもいいや」と無関心な国に資金を提供し、捕鯨反対国の一つとしてIWC(国際捕鯨委員会)に参加させた。それに対抗して日本も関係のない国に資金を投入して捕鯨賛成国としてIWCに参加させた。両者の競争はエスカレートし、内陸国捕鯨反対国:スイス・ルクセンブルク捕鯨賛成国:モンゴル)までが参加するという喜劇が発生している。
問題の過熱は捕鯨反対国に有利な事態だった。日本は経済行為として捕鯨を行いたいのだが、IWCの票集めに資金が必要だとしたらたとえIWCで勝ったとしても赤字になってしまう。捕鯨反対国も純粋な持ち出しなのだが、彼らにとってCが大きなものだったとしたら割に合う。このチキンレースでは日本がチキンになるポイントが確実に存在するのだ。


チキチキバンバン*1
捕鯨反対国は誤算していた。日本は赤字になってもチキンレースから降りなかったのだ。
日本は資源を持たない小さな島国である。この小さな国土には過大なほどの人口を抱え、人々は世界最高水準の裕福な生活を営んでいる。この裕福な生活を維持するためには絶対に世界が公正なルールに基く自由貿易体制になければならない。貿易ができなければ日本は破滅する*2
もしも日本がCという理由でAを禁じられたとしたら、その世界はもはや日本が生きていける公正な世界ではなくなってしまう。たかが捕鯨という小さな問題ではないのだ。Aが禁じられるのならば、A’もA”も理不尽な理由によって禁じられてしまうだろう。このチキンレースには生理的嫌悪どころではない自分自身の生命が賭けられている。日本は何があってもチキンになるわけにいかないのだ。
逆に反捕鯨がBという公正な理由を伴っていたら日本は喜んでレースから降りただろう。ここでAにこだわって公正なルールの支配する世界を放棄すれば、そのときに日本は破滅する*3
日本がチキンレースから絶対に降りないことに気づいた反捕鯨主義者は動揺した。日本を説得する論理も持たず、数の暴力で日本を屈服させることもできないのであれば、残る手段は二つしかない。捕鯨を認めるか本物の暴力で日本を屈服させるかだ。


造反有理
シーシェパード(以下SSと略す)の捕鯨抗議活動がテロであることは論を待たないであろう。あの程度の暴力で日本が屈服するだろうと妄想してしまうことはとても不思議な*4のだが、とにかく彼らにはテロしか手段が残されていなかった。
もちろん21世紀の日本はテロに屈さない。この程度のテロに屈したりしたら内閣は確実に崩壊する。そして国際社会もテロに共感しない。SSテロ以降、IWCの雰囲気は大きく変化した。理不尽な理由で捕鯨を禁止しようとすることはテロリストと同類だと見なされることに気づいたのだ。
今後数年(少なくとも10年以内)で商業捕鯨は復活することになるだろう。しかし全面的な解禁ともならないだろう。漁獲量や漁獲水域は科学的に問題ないとされるレベルと比べると大幅に小さいものとなるだろう。
この漁獲制限は理不尽に感じられるかもしれないが、完全な理不尽というものでもない。まず最初に「科学的に問題ない」とされる「科学」が完璧に信じられるものではないからだ。相手は野生動物であり、恐ろしいほど広大な面積の大洋に点在しているからだ。どうしても現在の調査結果だけでは「臆病で慎重な資源管理」の壁を大きく乗り越えるわけにいかない。相当量のマージンを「科学的に問題ないレベル」からさっぴかなければならない。しかしこの理由は明らかにBの正当性を持っているために日本は積極的に受け入れるだろう。
次の、そして本当の理由はもう少し理不尽なものだ。それは「相手の生理的嫌悪に配慮して漁獲制限を行う」というものだ。「一頭たりとも鯨を殺させたくない」と願う人々からすれば一頭でも捕鯨が行われたとすればそれは許せない出来事だろう。日本はそこまでの理不尽な譲歩はできないが「殺される鯨の数を減らすことに成功した」という小さな満足感を与える程度の譲歩は行える。
ある人にとっての生理的嫌悪は別の人にとっては理不尽なものであることが多い。そして「理不尽がイヤ」と感じることは、生理的嫌悪と区別することができない欲望というものから発生している。極言すれば生理的嫌悪に対して生理的嫌悪を感じているのだ。
このような人間の欲望の本質を考えると、他人の生理的嫌悪を完膚なきまでに弾圧することは不正義となる。生理的嫌悪を完膚なきまでに弾圧された人にとって残された手段はテロしかない。「多数の人間が殺しあわずになんとかやっていく社会」を作るために考案された倫理「BでなければAを弾圧できない」が逆に暴力を誘発している。その破局を防止するためには「よほど酷いCでない限り、ある程度Cに配慮してAを制限する」という倫理が必要になる。人類は互いに妥協をしなければならないのだ。

*1:本当はチティチティバンバン(Chitty chitty bang bang)らしい。

*2:ブロック経済体制によって破滅しかけた日本が太平洋戦争へと向かった歴史を忘れてはならない。

*3:中国大陸の利権にこだわって英米ブロック経済から排除された歴史も忘れてはならない。

*4:福田康夫現首相の父親の福田赳夫元首相はその在任時に日本赤軍のハイジャックテロに屈している。

ゆずれないものの交渉 その5

今日のまとめ
ようやく本題(ケーススタディー)のとっかかり。
基本的に誰もが自分のやりたいことをする自由を持っている。でも他人の自由はキモチワルイから制限したい。制限するためには正当な理由(正義)が必要だ。
正義は時代によって変化してきた。この変化は民主主義の進展と原動力を共有している。
現代の正義の根本には「公共の福祉」があるが、これの測定方法は単純な積分方式ではダメである。


本題は遅れてやってくる
ここまで長々と(経済学者にとって)自明のことを書いてきたのは二つの国際問題について倫理的な是非を論じたかったためだ。捕鯨問題とイラク問題である。どちらも倫理という相容れない論点でもって複数の国家が互いを非難しあっている。
まずは簡単なほうである捕鯨問題から始めよう。
最初に捕鯨問題の現状を述べておこう。ただしここで僕が述べる内容はもしかしたら事実と反するかもしれない。僕は捕鯨問題というケーススタディでもって倫理というものの経済学的解明を行いたいのであるから、もしも前提条件自体が間違っていてもかまわないと考えている。この文章を読んだ人もここに書かれていることでもって捕鯨の是非を断じないでほしい(イラク問題も同様)。どのような場面においてどのような倫理が他人に強要できるのだろうかということだけを読み取ってほしい。


地球は人類のモノだ
捕鯨の問題はたった3つの論点に集約される。
A.捕鯨という経済行為を行いたい。
B.捕鯨環境保護*1の観点からよくない行為だ。
C.捕鯨に生理的嫌悪を感じる。
Aは至極まっとうな欲求である。食料目的であるかどうかは本質ではない。自然環境から資源を収穫して経済活動に利用することは人類にとって普通の行為だ。「自然からの資源収穫」を禁じられたら人間は生きていくことができなくなる。
Bは少し複雑な評価を必要とする。現在の科学レベルではどうしても資源管理の基準を「慎重で臆病」なものにしなければならない。しかしどの程度「慎重で臆病」であるべきかが難しい問題なのだ。現在のところ「慎重で臆病」の最低基準は「種の保護」であろう。しかしある種を積極的に保護した結果、その種に関係している他の種が絶滅したり、逆に大量発生して困ったことになったりする。「なにがどうなるかよく分からない」から「地球環境がとりあえずこのままであってほしい」と「慎重で臆病」にならざるをえない。つまりは「Aをされると困る(かもしれない)」という経済的欲求の表れだ。
Cはどうしようもない。どのように「どうしようもない」のかと言うと「そんなこと言われてもどうしようもない」し「その気持ちを持つなと言われてもどうしようもない」のだ。しかし経済学は欲求を扱う学問であり、「欲求に貴賎はない」というのが原理原則だ。だからCもまた経済的欲求の表れなのだ。


正義の変遷
論点を経済学的用語に翻訳してみよう。
A.経済的欲求
B.Aが一般的に共有される価値観に基く経済的欲求に反しているとの主張
C.Aが一般的ではない個人的な価値観に基く経済的欲求に反しているとの主張
実はAが一般的に共有される価値観に基いたものであるかどうかは重要な問題ではない。A「2次元の女の子しか愛せない*2」B「少子化になるぞ」C「キモチワルイ」でもいい。何度も言うが「欲求に貴賎はない」のだ。
2次元の例で言うとBを主張する人より、Cを主張する人のほうが数は多いのではないかと思う。しかしBの理由によって損害を被る人数はCのそれよりも多い。言い換えればBの理由に共感する人はCの理由に共感する人よりも数が多いとなる。つまりはBには大義名分があってCにはそれがない。
昔は倫理が弱かったからBとCの区別はなかった。「困る」も「キモチワルイ」も同じだった。「困ったA」も「キモチワルイA」も力ずくで抑え込めばよかった。逆にBCの文句も力ずくで抑え込んでAを貫いてもいい。力が正義だったのだ。
しかし時代が進み、個人の力が強くなると民主主義が到来した。Aがある程度多くの人数から要求された場合、それを抑え込む側がBであるかCであるかが重要な問題となってきた。BならばAよりも人数が多いから勝利者になれたし、CならばAより人数が少ないために敗者となった。もちろんCがAよりも多数派だったならば勝利者になれる。数が正義となったのだ。
さらに時代が進むと個人の力がさらに強くなり、個人主義が到来*3した。ある個人を弾圧すると、その個人は複数の弾圧者に報復することができるようになった。油断しているところを狙えば簡単なことだ。そのためによほど人数が多いとき、つまりBでしかAを抑え込むことができなくなった。大義名分が正義の時代だ。
世界はさらに前に進む。今まではAがある程度多数であるか、Cをやり込めるだけの大義名分を持っていなければ勝者となれなかった。極端な少数派は弾圧されていたのだ。そして世の中の多くの欲求はその極端な少数派でしかない。欲求はバラエティーに富んでおり、一つ一つの欲求はそれぞれ少数に支持者しか持つことはできない。ある少数派のAに対してCがある程度多数であったならば、CはBを僭称して弾圧することができた。A’に対してはC’が、A”に対してはC”が弾圧した。
AはA’に共闘を求めた。それでも数が足りなければA”にも共闘を求めればいい。いや、逆だ。A’がA”が積極的にAに協力を申し出たと見るべきだろう。CがAをわけの分からない理由で弾圧するのを許されるならば、C’やC”が自分たちをわけの分からない理由で弾圧することも許されることになる。わけの分からない理由で他人を弾圧する連中を許してはならない。AたちはBとなりCたちを弾圧し始めた。
「他人の自由を侵害するためには正当な理由がなければならない」
いまや正義しか正義になれない時代なのだ。


僕は時々嘘をつく正直者です
捕鯨問題におけるC「捕鯨に生理的嫌悪を感じる」はA「捕鯨という経済行為を行いたい」を弾圧する正義を有していないのは明らかだ。もしこれが許されるのであればC’「自分に近い毛の生えたホ乳類を食うなんて気持ち悪くないですか?」もC”「有色人種の社会進出に生理的嫌悪を感じる」も弾圧の正当な理由となってしまう。
もう少し正確にCを表現しよう。「『捕鯨に生理的嫌悪を感じる』という理由で捕鯨活動を非難してかまわない」という思想が許されないのだ。これははっきり言って思想の弾圧だ。思想信条の自由を侵している。しかし倫理というものは思想信条の自由とはどこかで矛盾してしまうものである。思想信条の自由という倫理も例外ではない。「『思想信条の自由は守るべきではない』という思想信条を持つことは自由である」は「クレタ人はうそつきだ」と同じ論理矛盾に陥る。
思想信条の自由は絶対に守られなければならないものではなく、尊重されなければならないものなのだ。つまり場合によっては思想信条の自由に優先されるものがあるのだ。その代表は「公共の福祉」だ。「思想信条の自由は守るべきではない」という思想は公共の福祉に反するから否定される。
だからといって公共の福祉が最優先されるべき価値だと言うわけではない。それでは全体主義になってしまう。思想信条の自由・自己決定権・人間としての尊厳・生命・公共の福祉。多くの尊重しなければならない価値がある。それらの一つが他の一つを大きく侵害するならば、それは多少の制限を受けなければならない。我々は一神教の価値観ではもはや文明を維持できなくなっているのだ。
ある種の思想信条は弾圧されるべきなのだが、その思想信条を持っているという理由だけでは弾圧できない。人の心の中にあるものはその存在を証明できないからだ。たとえ本人が「俺はそう思っているんだ!」と言ったところで、「俺はそんなこと思っていない」と同様にその言葉が本人の思想を証明できるわけではない。そのために弾圧のための証拠は実際の行動のみに限定される。
「『捕鯨に生理的嫌悪を感じる』という理由で捕鯨活動を非難してかまわない」という思想を持っていても弾圧はされないが、実際に非難をしたり妨害活動をしたりすれば弾圧の対象となる。思想を表明したときも、「思想の表明」という行動が弾圧の対象となる。思想を心の中に有しているだけでは裁かれてはならない。逆に本当はその思想を持っていなくても、非難をしたり妨害活動をすれば弾圧の対象となる。人はその行動のみによって裁かれるべきなのだ。


アイムシリアス(I'm serious)
Bの理由はAの行動を規制できるほどに正当なものであるか。Bが正当であるかが問題なのではない。Aよりもはるかに重大な問題でなければAを規制する正当性を持ち得ない。少しでも他人の権利を侵害してはいけないのだとしたら我々の誰一人として生きていること自体を許されなくなってしまうからだ。
「重大」の定義も必要だ。単純に被害の量で計算してはならない。もちろん被害の総量は重要なのだが、そこに算入するべきかどうかの閾値は設けられなければならない。
例えば騒音被害だ。自動車は少なからず騒音を出している。騒音はなければないに越したことはない。つまり騒音は人々に迷惑をかけている。そして自動車は日本中の道路を走り回っている。自動車の騒音被害の総量は莫大なものになる。この被害を自動車会社は弁償しなければならないのか。
高速道路や渋滞交差点の周辺住民にとっては騒音の被害は見過ごすことのできない量になっているだろう。彼らは何らかの方法で救済されるべきだ。しかし自動車の音を少しでも聞いたことのある人間のすべてに弁償することはナンセンスだ。受忍限度以下の被害は被害総量に算入されるべきではない。
逆に被害総量が小さくてもその被害が一部の人に集中しておりしかもその被害が回避困難だった場合、それは重大な被害と見なされるべきだ。足が不自由な人が鉄道の駅を利用する場面を考えてみよう。車椅子や松葉杖では階段を利用することが極端に困難なため、エレベーターを設置しなければならない。そのエレベーターを設置するために階段の幅を狭くしなければならないかもしれない。健常者は狭くなった階段で渋滞を引き起こし、その苦痛の総量は少数の車椅子利用者のエレベーターがないときの苦痛の総量よりも大きいかもしれない。それでも少数に深刻な損失を押し付けてはならないのだ。*4
Aの弾圧は自由の剥奪という意味も含めてAにとって深刻な被害である。その被害を許容できるだけの大義名分がBになければ、つまりはBの被害のほうがより重大なものでなければ、BはBでなくCに分類されるものとなってしまう。
「種が絶滅する恐れがある」はあきらかにBの要件を満たしている。被害総量は小さい。もともと個体数が少ないところからゼロになるだけのことだ。しかし深刻な被害であるために重大な損失であると言える。
「ホエールウォッチングに悪影響を与える」は検討に値するBだ。鯨の個体数が半分に減ったとしたら、もともと空振りになる可能性のあるホエールウォッチングの成功率が大きく下がることだろう。観光客も観光業者も大きな被害を受けるかもしれない。しかし捕鯨全面禁止の理由にはできない。鯨が百頭減ったところでホエールウォッチングの成功率はほとんど変化しないからだ。つまり観光業者の損失は閾値に達しておらず、Bたるための被害総量から棄却されるからだ。観光目的のBはAに対して「漁獲量や漁獲水域の制限を求める」程度の弾圧しかできないだろう。

*1:環境保護という言葉は正確でない用語だと思う。「慎重で臆病な資源管理」(こちらのコメント参照)と表現するべきだと考えている。

*2:共感する人はけっこう多いらしいが一般的ではない。

*3:「個人を尊重する」という概念の到来は民主主義よりも遅かった。

*4:最大多数の最大幸福という命題はこの論理で否定される。