『マリウポリの20日間』(2023)【試写】

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4月26日公開のこちらの試写、覚悟を持って、観ました。

ウクライナ出身のAP通信ジャーナリスト、ミスティスラフ・チェルノフが、2022年2月、ロシアが侵攻を開始したウクライナマリウポリに入り、ロシアが街を爆撃し、迅速に占領し、チェルノフらが命からがら脱出するまでの20日間のドキュメンタリー。

第96回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞しました。

最上のドキュメンタリーは、言葉をつけ加える必要がないし、下手につけ加えたら台なしになるものだと思いますが、この作品もそうでしょう。スクリーンの上に展開されるのは、あまりにも残酷で、あまりにも野蛮で、あまりにも絶望的な現実で、何度も目をそむけたくなりますし(実際そむけました)、怒りや悲しみ、恐怖といった感情にもみくちゃにされて、ついには何を感じたらいいのか分からない麻痺状態に投げ込まれます。その意味では、このドキュメンタリーは戦争そのものを体験した時の感情を追体験させるものになっているのかもしれません(という言い方もかなりの保留が必要ですが……)。

少なくとも後に残るのは戦争という野蛮に対する怒りですし、プーチンとロシアに対する怒りです。人間にはどうしてこのような野蛮や愚行が可能なのか。野蛮や愚行は歴史から学んで収まるどころか、エスカレートしていくだけなのか。このようなドキュメンタリーにそれを押しとどめる力があるのか。そのような絶望が画面からにじみ出ます。

あらゆる意味で観るのには覚悟の必要な作品ですが、目をそむけてはならない作品です。ウクライナに一日でも早く平和が戻ることを祈っています。

自分のやりたいこととできることは一致しない〜『カラオケ行こ!』(2024)

劇場で見逃し、早速配信で。

合唱部の部長の岡聡実くんが、ひょんなことから、極道者の成田狂児にカラオケに誘われ、組のカラオケ大会に向けて歌のレッスンを頼まれるという荒唐無稽だけれども二人の奇妙な友情がなんともジワジワ来る映画。面白かったのですが、どうも最初の、カラオケに行く下りでの登場人物の心の動きが分からなかったというか、そういう状況になったらもう少し聡実くんにリアクションがあり、コンフリクトがありそうなものの、唯々諾々と状況を受け容れている(ように見える)部分がどうもしっくり来ませんでした。

これはプロットや台本のせいなのか、そもそも日本人の感情表現が薄味であるためかは分かりません。シュールな展開のシュールさを強調するためにああなったのかなとも。原作読んでないんですが、読んだら色々解決しそうな感触もあり。

狂児はX JAPAN「紅」が大好きなのだけど、聡実くんの言う通り、音域が合っていない。カラオケで歌いたい好きな曲と自分に合っている曲はこのようにえてしてズレがちなのだけど、この「自分のやりたいこととできることは必ずしも一致しない」というテーマが、声変わりと新たな旅立ちを迎えた聡実くんの成長物語のテーマにもなっているわけです。そこ、もうちょっと深めて欲しい! 聡実くんの内面、もう少し大事にして、彼にとっての「やりたいこと/できること」が何なのかという情報が欲しい……。

ということで、惜しい映画でした。

落ち穂拾い〜『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(2017)、『ラストナイト・イン・ソーホー』(2021)

なんとなく、周辺情報から敬遠してしまって見損ねていた作品を落ち穂拾い。でも、『チャーチル』は分かるけど、『ソーホー』をなぜ敬遠したかは謎。謎なんだけど、勘は正しいというか、いずれもそれぞれの意味で、どうもな〜、な作品でした。

ウィンストン・チャーチル』については、ゲイリー・オールドマンの演技はそれはすばらしいのだけど、オールドマン、それでいいのか、と。とにかく、チャーチルの秘書のエリザベス・レイトンとチャーチルとの関係性に気持ち悪さを感じ続けざるを得なかったです。チャーチルのダメさ(その多くの部分は男性的ダメさ)を肯定するための道具になるだけの美女。

ちょっと調べると、この作品は「史実」に基づいているというのだけど、そこは本当に怪しい話だと思います。上記のレイトンとの関係についても、かなり外形的な事実から、細かな人間関係については相当に想像力を働かせているはずで、それで「史実に忠実」と言っていいのかどうか。そのような水準で伝記映画は「史実に忠実」にはなれない、という大前提を理解することが大事なように思います。

『ラストナイト・イン・ソーホー』については、エドガー・ライトは『銀河ヒッチハイク・ガイド』(これは原作好きなだけかもですが)や『ホット・ファズ』あたりが大好きだったのですが、これはとりわけ結末(ネタバレ回避)に納得感がなかったです。フェミニズム的というよりはむしろミソジニー的と言ってしまった方がいいような。

以上!

男性性と障害〜『君と宇宙を歩くために』

マンガ大賞2024は泥ノ田犬彦さんの『君と宇宙を歩くために』が受賞しました。おめでとうございます。

このマンガは、現代の男性性を考える上でとても重要な作品だと感じています。行動をすべて、彼が「テザー」(宇宙遊泳の際の命綱)と呼ぶノートにメモしておかないと、うまく新たな事態に対処できない転校生の宇野くんと、不良なのだけれども、勉強もバイトもうまくできない(濃淡はあれ、宇野くんと似た性質を持っているかもしれない)小林くんとの友情の物語。

この二人は明らかに、今であればなんらかの病名がつく人たちなのですが、作品の中ではその病名が名指されないことが重要かもしれません。「障害disablity」というものは英語であればあくまでdis-abilityであって、しかもそこにはグラデーションというものがあり、社会が何を「能力ability」で何を「非能力disability」と規定するかという問題がからんでくる、ということを、障害を病名で名指ししないことで手放さずに表現している、とでもいいましょうか。

拙著『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)の重要なポイントはそこでした。現代の男性性を考える時に、「障害」が有効な視座になるのですが、それは上記のように、障害というものが現代における能力主義のあり方をあぶり出すものだからです。何が障害で何が健常であるかという線引きは、社会によって構築されているところがある。「男性らしい」能力もまたそうです。

拙著では、奇しくも同じくマンガ大賞を受賞した『ブルーピリオド』をその観点からまあまあ詳しく論じました。

さて、『君と宇宙を歩くために』ですが、この作品が(今のところ)すばらしいのは、まず、スーパークリップ的なものに陥っていないことです。スーパークリップというのは、障害があるにも関わらず努力などで並はずれた能力を発揮する、もしくは障害があるゆえにそういった能力を発揮する人のことです。障害(者)を主題にすると、まずこれに陥りがちです。障害のロマン化と言ってもいいでしょう。

この作品は、病名をあくまで名指さないということもそうですが、あくまで二人が「ふつうの日常」をどう過ごしていくのかということに焦点を当てていることで、スーパークリップの罠に陥らずに済んでいると思います。

そしてなんと言っても、そのような障害のモチーフを通じて、どうやって弱さを認め、弱さと共に生きていくのかという、現在の男性性をめぐる大きな問いをこの作品は追究します。多かれ少なかれ、「本当の現実」と比較すれば理想的な解決がもたらされることもあるかもしれませんが、そこはフィクションにしか表現できないユートピアとしてとらえたいように感じています。続刊が楽しみです。

メガネっ娘と社会的記憶〜『ゴーストバスターズ/アフターライフ』(2021)

ということで、なぜか公開中の『フローズンサマー』ではなく、これを。というか観ていなかったので。

期待以上によかったですが、まあとにかくマッケナ・グレイス演じるフィービーのキャラが全てを持って行った映画ですね。もちろん再集合で燃えるべきなんでしょうけど、フィービーずるい。

それにしても、ニューヨークが危機に陥ったこととか、ゴーストバスターズがそれを救ったこととか、もうちょと共有された社会的記憶になっていてよさそうなものの、予想外に忘却されているのに最初は違和感を抱いたものの、でも社会的記憶なんてそんなものなのかもしれません。

さて、予習は済んだので『フローズンサマー』を観に行く、かもしれないし行かないかもしれない。

ひどい映画の効用〜『The Son/息子』(2023)

フローリアン・ゼレールの監督デビュー作『ファーザー』は本当にすばらしいと思ったので、これも当然観ているべきなのですが、なぜか嫌な予感がして敬遠したままになっていたところ、最近複数の人に「観ていないの」と言われたのでやっと観ました。私の勘は当たっていて、これは本当にひどい映画でした。なんでこんなことになったんでしょうね。ヒュー・ジャックマンローラ・ダーンヴァネッサ・カービーアンソニー・ホプキンスという超豪華なキャストの熱演が空回りし続けるのを見るのは、本当にいたたまれない経験でした。

ひどい映画の中には、「ひどい映画だね」の一言で済ませればいいものと、何がどうひどいのかを説明するのが生産的な映画があると思いますが、本作が後者であることを期待して、説明してみます。

この映画は、タイトルにある息子(ニコラス)の物語というよりは、父ピーター(ヒュー・ジャックマン)の物語であると言えます。彼自身、父(アンソニー・ホプキンス)への憎しみに苦しみ、父の反復をすまいと苦闘する息子でもあるのですが。

ですからこの映画は男性性の問題を、父となることを通じて検討するものになっているという意味で、私が『新しい声を聞くぼくたち』で論じた(あとは関口洋平さんが『「イクメン」を疑え!』で論じた)イクメン物語の系譜にあると言えます。『クレイマー、クレイマー』から『マリッジ・ストーリー』に至る系譜。

拙著で私は、イクメン物語を二つ(もしくは移行期を含めると三つ)の段階に分けました。『クレイマー、クレイマー』が、仕事人間がイクメンに「なる」物語だとすれば、『マリッジ・ストーリー』はそのような葛藤をプロットの原動力とはしていません。言ってみればある程度のイクメンであることはデフォルト。新しい男性性がすでにヘゲモニックなものになった時代の物語といえます。

『The Son/息子』のダメさは、後者の時代の作品であるふりをしながら、前者の時代の男性性イデオロギーの一番悪い部分を保持していることでしょうか。そしてそのためにベタベタのメロドラマに訴えていること。

ピーターは抑圧的な前時代的な父を反復しないために、息子を愛して良き父になろうと努力します。実際彼は、息子や周りの人たちの感情をおもんばかり、自分の仕事(出馬する政治家のためにワシントンDCに行って働くこと)をあきらめます。

しかし(軽くネタバレですが)、その努力も空しく、悲劇的な結末を迎えてしまいます。これはなぜでしょうか?

ここで、先ほど「前者の時代の男性性イデオロギーの一番悪い部分」と書いたものがせり出してきます。『クレイマー、クレイマー』の問題は、そのミソジニーです。ミソジニーと、その返す刀での男性のメロドラマ的な被害者化。『クレイマー』では、メリル・ストリープ演じるジョアンナがある種のフェミニズム的な衝動で家を捨ててしまうことが物語の発端となり、ダスティン・ホフマン演じるテッドが仕事人間であったことを反省してイクメンになる努力が感動的に描かれ、しかし親権裁判で負けることで彼は被害者的なポジションに置かれます。この、(とりわけフェミニズムと法廷に傷を加えられた)被害者としての男性というモチーフは、この時代から現代に至るまで、男性権利運動のミソジニーの基本形です。(この辺については拙訳のウェンディ・ブラウン『新自由主義の廃墟で』参照。)

『The Son/息子』の物語的葛藤はどこにあるでしょうか? ピーターは良き父になろうと努力し、実際になっている部分もあるのですが、なぜ悲劇が訪れるのでしょうか? もちろん、ピーターが最終的には人生の成功者としての男性性を抑えることができず、息子を理解してやれなかったことが問題にはなるのですが、そこでせり出してくるのは、それをまさに悲劇として提示する際に作動する上記のイデオロギーです。というかこの映画、最初からミソジニーがひどく、主な女性たち(ピーターの離婚相手のケイト(ローラ・ダーン)と再婚相手のベス(ヴァネッサ・カービー))のキャラクター造形は一貫性がなくご都合主義的で、最終的にはピーターの悲劇的男性性の演出のためだけに存在しているようです。ケイトは影響力の強すぎる母(強権的というよりは愛情過多)で、ニコラスは最初反発しているのですが、その葛藤はいつの間にか解消しますし(でも最後の「決断」に彼女は大きな影響を持つ)、ベスは明らかに若く性的な存在であり、思春期のニコラスはそのことに反発するわけです。そしてそのような存在として、ピーターがニコラスの良き父になることを妨害します。ですが最後は聖母のようにピーターを抱擁する。(ちなみにローラ・ダーンはなぜか「イクメン物語」の常連で、『アイ・アム・サム』と『マリッジ・ストーリー』にも出ています。)

この全ては、ピーターを不当に傷ついた、イノセントで悲劇的な男性として仕立てることに貢献しているわけです。この映画が終わった後に残るメッセージがあるとすれば、「こんなにがんばって、無邪気に──イノセントに──新しい男性性を身につけ、良き父になろうと努力したのに、女たちの協力不足で傷つけられたヒュー・ジャックマン」というものです。ひどい映画ですが、現在の男性性をめぐるイデオロギーのある種の核心には触れているでしょう。

 

『闇の奥』についてのメモ

昨日は職場の主催のシンポジウムで帝国主義植民地主義をめぐる5時間+懇親会。大変に濃密でした。

その中で、中井亜佐子さんが『闇の奥』と採取/採掘主義(extractivism)についてお話をされていて、最近考えていたことにとても強く響いたのでメモ。

中井さんの議論をここに正確に再構成はできない/しないですが、お話を伺いながら、最近ナンシー・フレイザーの最新刊などを読みながら考えてきたことがすっきり整理されたような気がしました(気のせいでなければいいですが)。

採取/採掘主義というのは、大まかに整理してしまうと、マルクス主義的な「搾取(exploitation)」に対する、原初的蓄積が現在も進行中であるというローザ・ルクセンブルク、デイヴィッド・ハーヴィー、ハートとネグリフレイザーが大きくは共有している仮説における「収奪(expropriation)」のこと。自然の収奪を考えれば一番分かりやすいですが、資本主義はその内部で完結することはできず、常に外部からの暴力的な収奪が必要でそれに依存している、ということです。自然以外には植民地、女性などがその収奪の対象ということになります。

今回よく分かったのは(そういう議論は中井さんはしていなかったと思うのですが)、搾取と収奪の違いは、「再生産」があるかどうかということでしょう。搾取は(労働力の)再生産を制度化するのに対して、純然たる収奪は再生産のことは考えない。

そう考えると、搾取と収奪の違いというのは、それほど明確ではなくなるかもしれません。植民地のことを考えると、再生産が完全に度外視されることはじつはあまりない。

それで、昨日は植民地主義の話で、現在パレスチナで進行中のことが強く意識されながら議論が進んで行ったのですが、疑問だったのは、イスラエルによるパレスチナ人の大量虐殺は、いったい、収奪であれ搾取であれ、植民地主義と言えるのかどうかということでした。

収奪であれ搾取であれ、それは植民地主義に(同意するかどうかは別として)何らかの経済的合理性を見いだそうとする議論です。現在進行中のものに限らず、ホロコーストにはいったいどのような経済的合理性があるのか。この辺で帝国主義の帰結として全体主義を考えるアーレントなど持ち出す必要もあるのかもしれませんが、私にはそこにどうしても合理性があるようには思えません。

『闇の奥』はそれを描いた作品です。それはまずはベルギー領コンゴでの「収奪(採取主義)」を描きます。象牙が取り尽くされ、像の一頭ももはや登場しないことはそれを物語っているでしょう。ですがこの小説はさらにその先に向かいます。収奪の先にもはや経済的合理性のない狂乱が待ち受けている。クルツのノートのExterminate all the brutesという言葉は、それを表現しています。その意味で『闇の奥』はその半世紀後に起きたことをみごとに予見していると読むことができ、また現在起きていることも予見していたと読むことができそうです。

この「絶滅」は、イスラエルパレスチナの病院、学校、図書館などを狙って破壊していることを考えると、重みを増します。再生産のための制度を積極的に破壊する。今回、鵜飼哲さんがcolonyというのはラテン語の語源経由でcultureにつながっているという指摘をされてはっとしました。確かにcolonyの語源のラテン後colereはcultivateの意味であり、そこからcultureが生まれました。イスラエルが行っていることはcolonyの破壊であり、それが同時にcultureと、それが担う再生産の徹底的な破壊である。それはもはや収奪でさえない(けれども、収奪の限界の向こう側にある)。

このような野蛮に対しては、文化と再生産をいかに守るかということがやはり鍵になりそうです。それも、搾取のための再生産ではないそれです。