雑木林

ウトウトしていたら一年以上経ってしまった。一年なんてあっという間だな、と思う。


それはそれとして私の行っていた大学には隣接して別の大学があり、そのまた向こうが玉川上水となっていた。もう20年も前の話である。


玉川上水沿いの道を西に進み、北に折れてちょっと行ったら左手に大学の正門、その正門を抜けて西にまっすぐ進み、
部活の連中がトグロを巻いているクラブハウスの裏側に行くと、そこから玉川上水の方に延びている細長い雑木林がある。


そこはいつも晴天だった。というか晴天の記憶しかない。
踏み込むと身のまわりの全ては木漏れ日のダンダラとなる。その中でドングリが芽を吹いている。
なぜかここには人は滅多に来ない。いつも静かであり、木の葉がサラサラと鳴る音ばかりが聞こえる。
いや息をひそめるとバッタが草の裏に隠れる音やミツバチの羽音も聞こえる様な気がする。静かなりに命に充ちていると思う。


もっと良く耳を澄ますと遠くのクラブハウスでバンドが練習している。ドラムの音が一番大きい。
ドドチッ、ドッチッ、ドドチッ、ドッチッ、ドチドッ。
ああまたトチった。いい感じでリズムに乗ってきたところでトチるから思わずこちらもツンのめる。
誰が叩いてるのかは知らないけれどトチらなければこの人うまいのにな、と思う。


そこでフーッと思い直す。そんな雑木林は大学の裏手には無かったと思う。


shizyukara2007-06-16

なにやらウダついているうちに、だんだん湿気が多い季節になってきた。モワーとした湿気が身の回りを取り囲むと、ちょっと足下が浮いた気分になってくる。ならないだろうか。


そして、足下が浮くと言えば怪談である。私は盲目的にオカルトや宗教を信じる人間は苦手だが、怪談は好きだ。ウソにしろ本当にしろ、怪談にはセンスがオブでワンダーな香りがする。 この度は「わからぬもの」のお話しである。


時は今から30年と少し前、私がまだ小学2年生だった頃の話である。私は当時、団地の二階に住んでいた。季節は夏の終わりで、時刻はまだ暗くなったばかり、おおむね七時頃であっただろうか。台所では母親が夕食の用意をしている。居間にはもう料理が並べはじめられており、テレビの音が聞こえる。空気は夕立があったのか、湿気は多いが不快ではない。


当時子供であった私は、ガキらしく意味もなくウロウロしたり、グルグル回ったりしながら団地の正面側にある部屋に入っていった。白熱電球に照らされたその部屋は、おおむねいつも通りの部屋であったのだが、何だか様子がおかしい。窓のカーテンのあたりがどうも変だ。よく見ると、カーテンの下側が光っている。何だろうと思ってカーテンを引いてみると、テニスボールくらいの大きさの光が二つ、窓の下側、曇りガラスになっている部分の裏側に水平に並んでいる。


はて、これはなんだろう? 奇怪な感じは全くない。窓を開けて確かめてみようかと思ったが、もし万が一、火のついたものが部屋の中に転がり込んできたら大変なので、窓の上側の曇りガラスになっていないところに顔をくっつけてのぞき下ろしてみると、何かが燃えている様なチロチロした乱反射が見える。私はこれはなにやらスゴイ自然現象なのだとコーフンし、母親を呼びこれは何かと聞いたらそんなものは見えないと言う。本当に見えないかと聞いたらやはり見えない、そんな訳のわからない事を言っていないで飯を食えと言う。


なんだつまらねえとすっかりフテくされて夕食を食べてから、よし再調査じゃとその部屋に入ると光はきれいサッパリ消えている。窓を開けて見てみても、何かが燃えた様子も無い。いったい何だったのだろうか…と書いているとちょうど母から電話があり、ついでにその事を訊ねてみると、そう言えばあの時なんだかわからない事を言っていたとねえの事。とすると、少なくとも夢ではなかったわけだ。いや、それ以前に見た目が余りにも自然で全然怖くなかったので、たまにある自然現象だとばかり思っていたのだが…。


なぜ母親には見えなかったのだろう? どうにも不思議である。

shizyukara2007-03-27


私はソ連邦のスパイである。日本に密入国している私はシャム双生児の老婆である上司の指令を受けて日本の宇宙開発技術の捜査をしていたところ、同じような目的で潜伏している各国の諜報員とナシ崩しに横のつながりを持つ様になる。
そこには日本の諜報員まで含まれているのだが、諜報員という職種を鑑みるとこれは特に驚くべき事には当たらないのであろう。


その旨を上司に連絡しに行くと、上司は分離手術を受けており二人になっている。
しかし互いにケンカばかりしていてとりつくシマがない。やはり同じポストに複数の人間がいるのは良くないようだ。
これでは仕事にならないのでどうしようかと思っていると、他の諜報員から我ら諜報員は横のつながりを持っており、かつ所有する情報の総量は任意の国家を上回っている。この際連合して超国家的な企業を起こそうではないかという話を持ちかけられる。


とここに至って国家の障壁を超えた宇宙開発が成り立ち、資本の効率的な集中の結果として人類は程なくして火星に基地を持つまでに至ったのであった。
私は現場調査のためバイクの様な乗り物で郵便ポストの様な格好をしたロボットのパーカーと共に火星に降り立つ。
するとそこにはうち捨てられた寺の墓場があり、よく見るとヒトダマが飛んでいる。
開発したばかりの火星に廃寺があるのは大変に不自然な光景である様に思えるのだが、墓場にヒトダマが飛んでいるのはそれはそれで自然な光景と言えるであろう。
パーカーは生まれて初めてヒトダマを見たらしく、「アー!キレイデス!」とか言って感動している。どうやらロボットには人間の霊魂は怖くも何ともないらしい。


小腹が減ったので近くのコンビニに行くと、知人が雑誌を立ち読みしている。

素晴らしき水伝

shizyukara2007-02-18

水からの伝言」という物がある。それによると水の結晶の形によって言葉の善し悪しを判断できるのだそうだ。


いやはや、これはまったく大発見である。なにしろこれを応用すれば世の中の面倒臭い判断を全て水にまかせる事ができるではないか。


この手法を用いれば、もはや選挙に行く必要はない。候補者が具体的な政策を水に語りかけ、その結晶の形で判断すれば良いのだ。これでもう、やかまし選挙カーとも、いちいち投票に行く手間ともオサラバであるし、だれでも平等一律に国家元首となるチャンスができる。素晴らしいのである。


裁判もこの調子で量刑を決められる。裁判官と弁護士と検事が水に語りかけ、そいつを凍らせてみればよいのである。また、政策も同様に水にお伺いを立てればよいのは言うまでもない。


この場合、人間の常識では無理無体な結果が出る可能性は充分あり得るのだが、移ろいやすい個人の判断などよりも水の判断の方が普遍的で正しい判断という事なのであるから、結果に文句を言う事は単なる個人的なワガママというものであろう。その個人の総量がいかに多かろうが。


さてこの様な素晴らしい発見が見いだされた以上、教育機関はこの業績がノーベル賞を受賞できる様に格段の取り計らいをしなくてはなるまい。教育の基礎となる初等教育で教えている学校もあるとの事だから、支援をするに当たって特に問題はないはずなのである。


その際少し気になるのは、「ノーベル」の前に二文字加えられた賞の方を受賞してしまう様な気がしてならないところなのであるが…。

ダイスを転がせ

shizyukara2007-02-16

その昔、易にハマった事がある。易とはあの長い棒をザラザラとひねり回して占うというアレであるが、フリップ・K・ディックの「高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)」と言う小説に、重要な小道具として出てきたので興味を持ったのだ。


そこで岩波の「易経」と、ホームセンターで売っている竹ひごを買ってきて、色々とヨシナシ事を占ってみた。のだが、当たっている様に思える事もあれば、全然当たらないこともある。どうも竹ひごをひねくり回したくらいでは未来はなかなか見えてこない様だ。


ちょっとガッカリしたのだが、よくよく考えると当たり前である。もし仮に全てが当たってしまっては、それはもはや占いではなく、ただのチョー能力ではないか。というかもし万が一未来が決定論的に全て決まってしまっているのなら、推理小説の結末を初めに見てしまう様なもので、面白くも何ともない。


となると、占いは外れるからこそ面白いという事になる。変な話だがそう言う事にならないだろうか。負けないギャンブルがギャンブルではなく、絶対に当たる宝くじが宝くじではないのと同様、占いはハズれる事によって初めて占いとなるのである。

shizyukara2007-01-22


 今日は象を殺す日である。私は手に大きな木槌を持ち、脚立の上に立っている。私の目の前には引き出されてきた象の額がある。象は恐怖を感じさせない様、白い布で目隠しをさせられている。私は手に持っている木槌で象の額を打つ。象はコロリと死ぬ。今日はその様な祝祭の日であるらしい。殺してどうするのかは知らないが。


 しかし象の額は広いので、どこをどう打てば良いやらわからない。迷っていると象の額がなにかを察した様にピクリと動く。どうやら殺そうとしている事がばれてしまったようだ。そう思った瞬間、完全にやる気を無くしてしまう。


 なぜばれてしまったのかは解らないが、ともあれ私にとってこれは神事ではなくタダの虐殺になってしまった。こらもうダメだと脱力しながら周囲を見渡してみると、象が殺される瞬間を見に集まった大勢の人々が私を取り囲み、祝祭の瞬間を待ち望んでいる。


 これは大変に困った事になったと思っていると目が覚めた。

枯れ木も山のバンザイ

shizyukara2007-01-17

 冬である。外を見回してみると葉っぱをすっかり落とした枯れ木がいかにも寒々しく、思わず鼻水を垂らしてしまったりするのだが、その枯れ木を見ていて一つ発見。


 夏場の様に葉っぱがたくさん付いている時はよく解らないのだが、樹木の枝の一本一本は少しでも多くの光を葉に当てようとして伸びているために、枯れ木になるとまるで全体が空に向かってバンザイをしている様に見えるのだ。


 おまえ今さら何を言ってるんだと言われそうだが、こりゃおもしろい。そう思ってまわりの枯れ木を見回してみると種によって枝を縦に伸ばしたり横に伸ばしたり、やり方は色々あるのだが基本的にどいつもこいつもバンザイをしている。シュロはちょっとやる気が無さそうなのだが(というか、あれは木なのか?)。


 なにやら植物のナマの欲望を見てしまった様な気がしないでもなし。枯れ木はなにげにセキララなのだ。