Strawberry Fields Forever

サニーデイ・サービス丸山晴茂さんが今年の5月に逝去されていたと、所属事務所のスタジオ・ローズが本日発表した。多感な時期を支えてくれた、そして今でも大好きで仕方ないバンドに訪れた突然の訃報ということで、自分でもそんな自分におどろくほどに、気持ちが揺れている。

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上記リンクにある食道静脈瘤破裂・アルコールの問題という記載から、アルコール依存症とアルコール性肝障害(おそらくはその末期としての肝硬変)をわずらい、困難な闘病生活をおくられていたのだろう。ファンの通例にならい親しみの情を、そしてすばらしい音楽でぼくの人生に伴走してくれたことへありったけの感謝をこめて、やはり彼のことは「晴茂くん」と呼びたい。晴茂くん。すてきなドラムの演奏をありがとう。そしてお疲れさまでした。

ひとつの、あまりに悲しい別れに際して5年ぶりのブログ更新をしようというのだから、ぼくもご多分にもれず、サニーデイ・サービスというバンドに大層あてられたクチだ。ときは90年代の後半。内側からむくむくと湧きあがる「自分」という不思議とどう折り合いをつけたものか分からずもがいていた、かといってそんな「自分」は世のなかにとって何でもないというあの頃。そう、いわゆる思春期というやつです。彼らの楽曲がぼくにどれだけのものを与えてくれたのか、言いあらわすことなんてとてもできない。

30代もなかばをすぎて心身ともに順調なオッサン化を果たしているから分かるけれど、あの頃のぼくは「観念」でアタマがいっぱいだった。アタマでっかちになりすぎて「身体」や「現実」が見えていなかったともいえる。もうすっかり魔法はとけて、寝不足がめちゃくちゃ翌日にひびいたり、それでも子どもたちのためにご飯代をかせがなきゃいけなかったりする今なら骨身に染みて分かる。人間は観念だけじゃ生きていけなくて、身体をもって現実のなかで生活をしている。身体や現実という大きな制約からは逃れられないし、だからこその折り合いをつけてくのが人生にちがいない。

ところでサニーデイ・サービスって、とくに一度解散するまでの時期は、じつに観念的なバンドだったと思う。若者らしかったとも、青春時代を生きていたともいえるだろうか。ひとつには演奏。ミュージシャンにとっていちばんの身体であり現実でもある、演奏そのものへの意識は(とくに活動初期には)とても薄かったように感じている。もうひとつには作品自体。たとえば代表作とされることも多い『東京』(1996年)には、千鳥が淵の桜のアルバムジャケットと、表題曲「東京」という曲名のほかに、東京をあらわす表象があらわれない。90年代中期を感じさせるようなモチーフもほとんど見受けられない。東京という具体性あるいは同時代性からたくみに距離をとりながら、若人たちの心理や日常がごく三人称的に描かれている。アルバムから立ちあらわれる、身体や現実の感覚はきわめて淡い。

閑話休題、「自分」というやっかいな観念でアタマがいっぱいのぼくの思春期に、サニーデイの詞曲は、晴茂くんの叩くドラムはずっとやさしく寄りそってくれていた。やけっぱち天使も、恋におちたらも、忘れてしまおうも、恋人の部屋も、そして風は吹くも、シルバー・スターも、夢見るようなくちびるにも…挙げきれないよ。この追悼文を書きながら彼らの音源を聞いている。そしてやはり思う。サニーデイ・サービスとは、晴茂くんのドラムだった。

彼のドラミングはいつももたっていた。クリックを聞きながら叩いたとは思えないほどよたっているところが山ほどあった。オンタイムで演奏できているようでも何だかどんくさかった。彼のドラムを一般的な巧拙の意味で「上手い」と評する人はそういないだろう。でもそれこそが味わいの秘訣、サニーデイにとって欠かせない要素なんだとみんなが知っていた。やわらかな雰囲気と愛らしいなまりをたたえながら、気がつけば「これしかない」というビート感を出してくれている。きっとサニーデイ・サービスというバンドでだけでとびきりかがやく、すばらしい音楽家だった。

サニーデイは、ましてや曽我部さんのこと、やりたいアイデアが山のようにあり、しかし肉体というカベ、つまり演奏が達者ではないことにぶち当たってもがいてきたバンドという側面をもっていたと思う。いや、それだけなら多くのミュージシャンたちが同じ苦しみを体験してきているはずだ。ただ一点、サニーデイはやっぱり特別なところがあって、なにって晴茂くんのドラムはいつまでたっても、やっぱり上手くならなかったと思う。ある意味で素朴なつくりの『若者たち』から、狂気のレコーディング風景で語られる『24時』に至るまで、そして『MUGEN』の頃になっても。彼のビートは平常営業でもたり続けていた。『LOVE ALBUM』ではついに出番がほとんどなくなってしまった。そしてバンドは、ひとたびの解散を迎えた。

再結成後の彼らは、やはりお世辞にもスキルフルとはいえない晴茂くんの演奏を、ポジティブに受容しているように見えた。にじみでるサニーデイらしさを大切にしているように聞こえた。3人がせ〜ので鳴らす音があれば、そこにはサニーデイがあった。オッサンには肌身にしみて分かります、彼らは、観念のなかで音を鳴らそうとしてるんじゃなくて、自分たちの身体や現実をみずからの物語として受け容れたんだなって。サニーデイ・サービスさん、あなたもぼくと同じくあのとき思春期をおくっていて、そしてようやく通り過ぎたのでしょうか。

サニーデイは思春期を生きた。というより、彼らの活動は思春期そのものだった。上述の意味でとても「観念的」なアルバムを作ったり(すべてドのつく名作!)、晴茂くんの演奏に象徴されるような身体のままならなさに翻弄されたりした。少なくともぼくはそういう風に(も)彼らの音楽を聞いてきた。

なかにいるうちは意識できないのに、通りすぎたとたんに客体化され、ぜったいに取り戻せなくなるのは、思春期という季節がたたえるおどろくべき性質のひとつだ。年をとって青春のかがやきを失ったぼくには、憧れぶくみにとてもまばゆく見えたりもする。ついえた恒星から時差をもって地球に届くうつくしい光のようなもので、いくらたどって光源にたどりついても、そこに実際の星はもうない。ジョンレノンはストロベリーフィールズに戻れない。

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晴茂くんが参加した最後の作品群のひとつである「苺畑でつかまえて」は、凜としたたたずまいの、背筋がのびるような名曲だ。サニーデイ・サービスがやろうとしてきた「サニーデイ・サービス」という恒星の、ひとつの完成形といって良いと思う。彼らが青春という光の渦のなかでもがきながら発してきた「思春期のかがやき」がみごとに客体化されて、しずかに透明に、でもはっきりと鳴らされている。不器用にもたったドラム・パターンがやさしくループする。最後まであまり上達したようには聞こえなかった彼の演奏はそのまま、年をとったぼくたちが受けいれてきた、身体や現実のように聞こえてくる。だからこそひびく美しい歌詞とメロディ。なくなった星から届く光、ぼくたちのストロベリーフィールズ

くり返しになるけれれど。
晴茂くん、ありがとう、そしてお疲れさまでした。
ご冥福をこころからお祈りします。

お引っ越し

両親が引越しをする。子どもたち3人が独立することもあって、父がかねてから望んでいた静かな海辺の街に居をうつすという。ものごころ、と言っていいのかな?その手のサムシングが芽生えてからこの方、いつもそこに「実家」としてあったあのおうちがどうやら空っぽになる、なってしまう。ええと…寂しいじゃないですか。

神奈川県厚木市。小学校1年生から大学2年生まで僕はそこで過ごした。2年間の浪人もあったので都合15年以上の生活のすべてがその家とあった。屋内をみかん爆弾片手に走り回って死ぬほど怒られたのも、文化祭前に同級生と垂れ幕やら何やらを作ったのも、机に向かってひたすら大学受験の勉強をしていた(バカだったのでがんばって勉強するしかなかった…)のもぜんぶこの家だ。
幸いたくさんの友達に囲まれ弟2人もにぎやかな人たちでいつもこの家はいつもごった煮、どうやら両親もそれを望んでいるようだった。仕事から17時きっかりに帰ってきてしまう母親(今思えばなにより感謝!)はそのくせに、夜が来てなお遊び続けようとする僕らをしかり散らしていた。
ひとり暮らしをさせてもらって少しだけ距離が離れ、でもそこはやはり僕の「故郷」だったしいつ帰ってもほら、気前よく迎えてくれる地域があり友達たちがいた。そして当たり前だけど家族がいて実家があった。だからほら…お引っ越しなんて、寂しいじゃないですか。

ちっちゃなころは悪いことをすると家からつまみ出され鍵を閉められたし、時には押し入れに閉じ込められた。長じて少し知恵がついてみれば都心からの遠さに辟易して、いわゆる「文化」にはさっぱり恵まれていないと感じていた。厚木いちばんの市街地を覆っていたヤンキー趣味は、思春期の僕にはただの「退屈」であり「虚無」でしかなかった。それでもしかし、そこは僕の実家だった。

そんな実家が引っ越しをするという。…寂しいじゃないですか。

お別れに言った実家。僕が生まれる前からあった掛け時計や箪笥、お気に入りの本棚、居間の匂い、壁にスタンプされた思い出の染み。発掘されるわされるわ、はずかしい青春の思い出グッズ。
母はいつも通りの食事を作ってくれて、年を取り一人前のアル中になった僕はお酒を片手に泣きながら食べた。男児3人、毎日6合のご飯を2回炊きながら仕事も抱えてしかも会社から表彰されながら、食事から何から何でもまかなってくれていた母は真似しようにも真似できないすごい人だ。ヒステリーは国宝級だし理屈はまったく通じないけれど、それはまあ「母」としてのご愛嬌なんだと感謝を込めて今は思う。
日曜日もフルに仕事をして帰宅した父はいつものペースでサントリー角を炭酸水で割り、仕事の来し方や心がまえ、そして趣味の政治に経済そして数学。そんなアレコレをいつもの通り自分のペースで語っていた。彼は絶望的におもしろのセンスがないのでどうしようもないし、僕の喋り方は残酷なくらいそれにそっくりだ。そうだこの口調で父は、自作の物語で子供たちを寝かしつけ就学してからの僕らには日々勉強を教えていたのだ(高3までの英語と数学を教わった)。
すごいじゃないか、僕の両親。

ブログを始めた頃には想像もつかなかったことだけれど、僕は何やら徳の高い、内面/外面共に「せんとくん」に似た女性と結婚することができ、さらに幸いが重なり子どもにも恵まれた(やったー!)。僕は、僕ら夫婦は、うちの子どもが「育つ」のをお手伝いできる環境をほんの少しだけでも提供してあげられるだろうか。
休みの日にはうちの両親がしてくれたのと同じように海も山も川も、音楽もスポーツも都会もド田舎も、とにかくあらゆる「人間の活動」に連れ回して色んなジョイフルを共有したい。勉強は喜びで、音楽って世の中でいちばんくらいに楽しくて、全力で体を動かすってどうやら素敵な営みで(ここは僕は分かりきれていない!)、とまれ人は人と交わるとハッピーなのであって…そういう僕の感覚は、両親が授けてきてくれた経験が、遺伝子以外のかたちですてきに遺伝してできている。

何かが動くのだ。年代かもしれないし世代かもしれない。環境の連鎖か遺伝子のアレコレか、そういう力動の予感がある。言ってしまえば「血」というウェットな要因が、よくも悪くも(ハッピーな境遇を生きてきた僕にはとても良いものだと感じられますが)脈打っている。
僕は息子だったけれど幸運にめぐまれ父となり、でもいつまでも息子だし、そして同時に駆けだしの父だ。両親のようにはまだなれない。けれどどこかで息子と共に生きて、彼は育ち、僕は僕らはそれを見守る。

こうやって気がつけば、実家の話がうちの両親の話が、うちんちの息子の行く末に流れていく。これが今の僕のナチュラルな思考で、それはただの連想ゲーム、思いは季節のようにうつろいめぐり回る。
25年そこにあった実家が引っ越しをするという。寂しいじゃないですか。近所の友だちたちとも会いづらくなるかもしれない。寂しいじゃないですか。そして息子の未来。少しでもいいものにしてあげたいじゃないですか。僕があの頃そういう幸運のお星さまにめぐまれたように。

そういうのが全部混ざってるね。引っ越しのことを話したいのか、幼少期の思い出か、結婚か、子どものことか、アレもコレもぐちゃぐちゃだよ俺の脳みそは。あたりまえだけどものごとはリニアじゃないもの。だからこそ!ブログがあってよかった。10年くらい前の俺、ブログはじめたの大正解だよ。

実家のお引越しの話でした。

あの日をリメイク

大学6年生のとき、今からぴったり7年前の今日に書いたブログを、少し修正して再アップしてみます。今思うとバカらしい部分もたくさんあるけれど、趣旨も作りもあえて変えていません。

【2006年5月28日】

今週末は「五月祭」という、うちの大学の学祭だった。大学受験の塾講師というバイトをやっていたこともあって、元生徒(今では後輩)たちから「屋台をやってるから是非チケット買ってね」といったタカリ連絡を結構な数いただいた。今日はその「業務」をまとめてこなしながら、懐かしい顔たちに会えて楽しかった。たくさん買ってあげられなくてごめんよみんな。

ひとりひとりの個性を捨象することがとても下品であるとは自戒しつつ、後輩の彼ら/彼女らは「大学1年生(2年生)らしい」表情をしていた。それはやはり、「あの時」にしか出来ないあの顔だった。僕は無性に小沢健二の「流星ビバップ」が聞きたくなって、帰り道からずっとそればかり聞いている。音楽の魔法に頼れないのは残念だけれど、歌詞だけでも抜粋してみる。

教会通りにきれいな月 火花を散らす匂いとまぼろし
も少し僕が優しいことを言や傷つくこともなかった?
そんな風に心はシャッフル 張りつめてくるメロディーのハード・ビバップ
ただ一様の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム

薫る風を切って公園を通る 汗をかき春の土を踏む
僕たちがいた場所は 遠い遠い光の彼方に
そうしていつか全てはやさしさの中に消えて行くんだね

誰もが通ったはずの、十代の「あの時」。僕たちがいた、そして今は遠い遠い光の彼方にある「あの時」。そこに対するコンプレクスと憧れが僕にはずっとある。あの時の僕は、求め焦がれながら結局は「あの時」にいられなかったからだ。何よりも甘く切ない夢物語。

悩みを何でも話し合える友人関係を人並みに築いたり恋をしたり、(そして願わくば)恋されたり。そんなことできるわけないし資格もないし、万が一そんな「ウルトラC」ができたとして僕なんかがそんな立派なことをするなんて、世間様に対して申し訳が立たない…。
中高生の頃の僕は四六時中そんな風に考えていた。大分マシになったとは言え今でも生活の根底にはっきりと、その手の「申し訳なさ」が横たわっている。周りの人たちが屈託無く「親友って何だろう」とか「○○君が好き」とか。きちんとした人たちが抱えるそういった豊かでまばゆい悩みを端から眺めては、「なんて素直な悩みなんだ…羨ましい!」と憧れてばかりなのだ僕は。例えば中高生のあの時、合唱コンクールにのめりこめた、体育祭の練習にきちんと参加しない人たちに怒り狂えた、そんなクラスメイトたち。アツい人たち。彼ら/彼女らは畏怖と同時に、はるけき憧憬の対象だった。

アツい彼ら/彼女らとは始めの一歩から、生き物としての種族そのものが違う気がして、つまり自分はとても劣った人間のようで僕はいつだっておどおどしていた。その「おどおど」の裏返しなのか反動なのか、今思えば独善的な考え方にすがりひたすら自己の内面と一人相撲のを繰り返していた。いつもどこかに「醒めた自分」がいて、それが僕の熱中を拒んだ。周囲の人たちとアツく、芯から心を通わせ夢中で駆け抜けることはゆるやかに、それと気付かせずに、しかし厳として禁じられていた。
僕はどんなときも、将来ふり返って「あの時」として想起されるであろう、ポテンシャルとしては輝ける毎日を、指をくわえ嫉妬に溺れながら遠巻きに眺めていた。

本当に怖い。気がつけばそんな眺める立場のぬるま湯につかりきった僕は、「自分から世界に対する視線」以外を失っていた。
現実は違う。「世界から僕に対する視線」が逃げ出したくなるくらい山盛り一杯に存在していて、そこで踏ん張りぐっとこらえて、自身の肉体や人格を他者と結んでいかなくてはいけない。そういった労苦の果てにようやく辿りつけるはずなのだ、かがやける「あの時」は。僕には青春をかがやかせる才能なんてまるでないから、逃げずにこつこつと努力を重ねるしかない。そのことがわかっていなかった。(まあ、今でもわかった「気になってる」だけなんだろう)

「趣味は人間観察」という人がものすごく嫌いだ。一方的な観察者の立場は、すぐ上に書いたような「視線ってのは双方向なんだよ」という認知を欠いているから。あるいは、自身からの一方的な視線のみで世界うあ人間を語る暴力を、自分も同じ穴だからこそ、同族嫌悪しているのかもしれない。もっと言えば「自分では実現できてないけど視線は双方向ってことに気づいている分だけ俺の方がマシだぜ」といった具合に、かりそめの優越感で質の悪い自我を守っているだけかもしれない。

南風を待ってる 旅立つ日をずっと待ってる
“オッケーよ”なんて強がりばかりをみんな言いながら
本当は分かってる 二度と戻らない美しい日にいると
そして静かに心は離れてゆくと

先と同じく小沢健二より、「さよならなんて云えないよ(美しさ)」の歌詞。ここでもまた戻らない「あの時」が歌われている。僕がいられなかった、でもみんなが通過したであろうまぶしくかがやく「あの時」…。
そんな「あの時」に自分がいられなかったコンプレクスを、自分探しさんをディスることで「俺の方が考えが深い」という優越感に変換していた僕は結局、「あの時」に身を投じることを恐れていただけなんだと思う。「二度と戻らない美しい日々」に叫びだしたいくらい恋焦がれているくせに。マジでお前はアホか!かけようと思うものにしか、ポケットの中で魔法はかからないのだ。

でもね、そんなくだらない毎日を否定したいわけでもなくて。これは単なる自分史だけど、たとえば伊集院光のラジオが、松本人志のコントが、松尾スズキのエッセイが教えてくれた。お前みたいな「逃げ腰」でもいいんだよってことを、みじめさを笑い飛ばす、魔法じゃなくても手品を。そんなこんなで育ってきてしまった僕を、なんだかんだで、今の僕はそんなに嫌いじゃない。

あと、これまたくだらない自分史かつかつ鬱陶しい話だけれど、僕は勉強がそこそこできることに救われた。大したレベルじゃないとはいえぼちぼち勉強ができることで、何だか居場所がある気がしていた。お勉強以外に人並みにできることの何にもない僕は、無意識のうちにそこを最後の拠り所にしていたような気がする(そんな思いも今やすっかり打ち砕かれましたが!)。
高校3年生までは何の努力もしていなかったけれど、それまでもやはり「いざとなればそこに逃げ込める」という安心感が僕を支えてくれていた。そんな薄っぺらい安全基地にすがり続けるために2回も浪人してまで、自分の能力と努力には不相応な大学を受け続けていたのかもしれない。僕は必死だったんだな。

再び「流星ビバップ」。

薫る風を切って公園を通る 汗をかき春の土を踏む
僕たちがいた場所は 遠い遠い光の彼方に
そうしていつか全てはやさしさの中に消えて行くんだね

薫る風、にじむ汗、春の息吹、土のにおい。
大学6年生の僕が、大学1年生の、しかも塾講師時代の元生徒たちに会う。そこにははつらつとした笑顔があり、おそらくその裏ではみずみずしい苦悩がある。僕がいたかもしれなかった(現実には傍観していただけだった)場所への、憧れ混じりのほろ苦い夢想が生まれる。二度と戻らない美しい日々のにおい。薫る風、春の息吹。僕のリアルからもっとも遠くて、だからこそ何よりもリアリティのある、美しい可能性。だから、ありがとう、本当にありがとう。

人生のさまざまな先輩たちがが、気前よくご飯を奢ってくれるのも、自身の価値観をまっすぐ照れずに話してくれるのも、実は同じ構造なのかもしれない。つまり、25才の僕の中に「あの時」を見出してくれているのかもしれない。もしそんな形で僕を消費してくれているのだとしたら、それは身に余る光栄だ。戻れない過去、あったかもしれない、二度と戻らない美しい日への投影性同一視。上から下へと時は編まれ、返し縫いのような「入れ子」の構造の中で僕は(僕らは?)歳月を重ねていく。

僕たちがいた場所は 遠い遠い光の彼方に。本当はわかってる 二度と戻らない美しい日にいると。そういうことだ。意味は分かんないけど、そういうことなんじゃないかなー。

とんこつしょうゆラーメン完食

今日は祝日、読みたかった本を進めながら洗濯機も回し、ざざっと掃除機もかけたし、さーてお昼は何を食べようかしらん。特別に食べたいものもなければ電車に揺られてグルメスポットに向かうほどの意欲もなし、しかし腹が減ってきたのは事実、つまりは「なんかテキトーなもんをぼさっとした感じに食いたい」というムードが世界をおおっている。

日本にはある。「テキトー飯」のリクエストにおあつらえ向きのお食事処、つまりラーメン屋さんがある。黒いTシャツ頭にタオル、腕組みしながら人生訓ポエムを謳いあげる意識の高い「ラーメン道場」ではなく、街場の、良い意味であまり思い出に残らないラーメンを出してくれるお店がある。ラーメンがおかしなことになる前から普通にあったタイプのラーメン屋さん。というわけで、テキトーな雰囲気を全身にまとい、最近できた近所のラーメン屋さんにチェックインである。ぼんやりした気持ちでとんこつしょうゆラーメンと野菜トッピングを注文。うーむ、我ながらカンペキ、祝日としてのエレガントな空気がここには実現している。書き残そう、あなたの人生の物語

オマッセシマター、トンコッショユラメンデス!という小気味良い発語と共に運ばれてきたとんこつしょうゆラーメン、これがドンピシャな塩梅で「ザ・普通」としか言いようがない。とんこつっぽいような味がするししょうゆの味もある以上、とんこつしょうゆラーメンと呼ぶしかない。まさに狙い通りのテキトーさ。ザ・普通。祝日としてのエレガントな空気ゴーズオン。と、ここまでは良かったのだが、一点おかしい。いつまでたっても野菜がやってこない。とんとやってこない。とんこつしょうゆらーめんに野菜をトッピングすることで完成するとんこつしょうゆ野菜ラーメンを俺は食べたいのに。

できることなら野菜の到着を待ちたい。野菜ご一行さまご来場の後に、とんこつしょうゆ野菜ラーメンをザザッとすすりたい。しかし待てど暮らせど野菜はテーブルに現れず、かといって麺の「のび」という時限爆弾を抱えた俺にとって悠長は罪だ。本日のラーメンにおいてはテキトーこそが是ではあるけれども、それは目の前で食事が不味くなっていくことを笑って容認するような退廃ではない。そこで涙の折衷案。「いつもよりも落としたペースで食べ始め、遅れてやってきた野菜と合流を果たしたあかつきにはギアを上げ、とんこつしょうゆ野菜ラーメンを一気呵成に食べきるプラン」の発動である。祝日としてのエレガントな空気にかげりが…。

ラーメンは食べるペースが何よりも大切だと思う。麺をすすりスープを飲みまた麺をすすり、という循環がグルーヴを産むからこそ、そしてそのグルーヴがおのれの身体感覚に根ざしたものであるからこそ、ラーメンはなんだか美味い。そんな不思議を味わうためには、むしろ「そこそこ」くらいのラーメンの方が良かったりもする。味に感動しているとビートが生まれなくなってしまうから。ラーメンが生むグルーヴのマジック。しかし野菜トッピングが届かない今、俺は身体感覚から疎外されたおかしなテンポでとんこつしょうゆラーメンをすすらねばならず、そこにはビートやグルーブが生まれない。狙い通りが仇となり、ザ・普通を自分の本意ではない駄ペースですすることになっている俺にマジックは訪れず、なんだか寂しい。

アルカイックは日本の美徳ではあるものの菩薩のほほ笑みで野菜トッピングが運ばれてくるのなら政治も警察もいらないのであって、言うべきときにはガツンとものを言わなくてはいけない。私が注文した野菜トッピングはまだでしょうか?という意味内容を、紳士的なものごしで二度ほど尋ねてみるが相手もさるもの、ゴチュモンノヤサイ・モチョトオマチクダサイの一点張りで事態は平行線を辿る。俺はグルーヴを得られていないのに、韻を踏んできている店側にはグルーヴの予感があるのも悔しい。駄ペース・ノーマジックでラーメンをすすり続ける俺に打つ手なしである。駄は駄ながらに麺は順調にどんぶりから姿を消し行き、チャーシューも半熟卵も海苔も3枚も俺のストマックにイン、残るわずかなとんこつしょうゆラーメン、さっぱり運ばれてこない野菜トッピング。失われた祝日のエレガンス。途中から俺の中で「ちょっと面白い」のスイッチが入っている。

そして感動の瞬間がおとずれる。とんこつしょうゆラーメン完食である。いつもの半分くらいの速度でちんたらすすったのに…という逆説も手伝って、独特の感慨がそこにはある。トッピングが運ばれてくる前にメインを食べ終わったときに特有のドラマであり高揚がある。それを祝うかのように店内に鳴り響く、高らかな福音。ヤサイタイヘンオマタセシマター!!うん、すごく待ったよ。ザ・普通を駄ペースでノーマジックのままフィニッシュしちゃったよ。残されたわずかなとんこつしょうゆスープを手がかりに、山盛りの茹で野菜(味付けなし)を泣きながら食べた。マタオマチシテマスー!

みをまかせ

ゴールデンウィークの前半を利用して、妻が実家に帰っている。書き置きは2行だったので離縁宣告ではなさそうだ。ほっとしている。

妻のいない夜に何をするかといえばごくごくと酒を飲むわけで一人でも二人でも大勢でも飲酒はいつだって実に愉快、それにしても最近は「すなおに酔っ払う」ようになってきた。春の風をうけながらの缶チューハイは私をほろ酔わせるのにピッタリだし、ハニー・コーンやベティ・ライトなど気の利いたソウルミュージックにあてながらよく冷えた奈良萬会津中将を1合もいただけば気分はフワフワと浮遊し始める。
思えばアルコールの味を覚え始めたハタチそこそこのあの頃、コンパなどで飲み放題の安酒を浴びるように飲んでいたあの頃、僕の心は「酔ってなるものか!」だった。いやモチロン酔っ払いたくてお酒をいただくのだけれど、それはアルコール成分との「一騎打ち」なのであって、お酒と僕は互いに対峙しては火花を散らしていた。永遠の負けいくさ。僕の人格はまだずいぶんと硬かった。

今は嬉しいんだよね、アルコールが身に染み入ってきて静かに酔いが回り始めると嬉しい。「あら、いらっしゃい」というおもてなしの感覚で酩酊を迎えいれている。人は酒を飲んだら酔っ払い、酔っ払うとだらしなくなり、だらしなくなると恋みたいなメールを送り、恋みたいなメールを送った翌日は二日酔いの頭をひたすらかきむしる。そこに身をまかせている自分が、何とも言えず愛らしい。
「対決ムード」の季節を通り過ぎ僕とアルコールは公園のベンチに横並び肩を寄せあい、同じ夕暮れを眺めながら語らうのだ。いや、アルコールは最初から僕と同じ方角を向こうとしてくれていたに違いなく、かたくなな僕のハートはそれに気づく余裕がなかった、それだけの話なのだろう。

妻のいない夜に何をするかといえばごくごくと酒を飲むわけで一人でも二人でも大勢でも飲酒はいつだって実に愉快、けれどね。その裏で妻がいないのはやはり寂しい。とても寂しい。昨日は友人のしあわせそうな結婚式だったから、よく笑うすてきな新郎新婦だったから、ますますそう感じられるのかもしれない。

日頃から泥酔しては深夜の帰宅を繰り返すくせにずいぶんと都合のよい話なのは百も承知で、それでも、家に帰って誰もいないのはすごく寂しい。泥のように酔っぱらってはトイレの場所を間違え洗面所を濡らすお前がどの口でそんなたわごとを言うのかという話ではあるけれど、それにしてもやはり。それは「寂しさ」なのだと思う。
10年近く一人暮らしをしてきたが、独り身の時分にはこんなにも「寂しさ」を感じることはなかった。でも今こうやって結婚して、妻にただいまやおかえりを言える生活をたった1年だけでも続けてみると、目の前にはくっきりと輪郭を持った空っぽというか、妻の不在が実在しているというか、心の中にはやはりそういった空虚なものがありありと感じられるのだった。

一人で生活している時の僕はひょっとしたらアルコールよろしく、寂しさと「対決」しようとしていたのかもしれない。たとえば家族とか、たとえば恋人とか、そういったあたたかな「あなた」がいなければ克服しようのない寂しさを相手に一人挑んではのたうち回る。そんな勝ち目のないケンカを自分から売っては連戦連敗を重ねていた。そして「否認」と呼ばれるであろう類の防衛メカニズムを駆使してこううそぶいていたのだ。「惨敗なんてなかったし…ていうか、そもそも最初から寂しくなんてなかったし…」。永遠の負けいくさ。寂しさを「そもそも感じていなかった」というのはきっとそういうことだ。

薄々感づいてはいたんだろう。孤独にフタをして口笛吹き吹き「フタの中には何もありませんよ〜」とおのれをいつわり続ける生活には限界があるし、心の圧力釜はバクハツ寸前。
独身の友達に「結婚しようと思った決め手はなんなの?」と聞かれることがままある。それっておそらく圧力釜に少しずつひびが入って、寂しさの蒸気がぴゅうぴゅうと漏れ吹き出はじめたから、つまり「寂しさに気づいちゃったから」なのだ。だからこそ、寂しさと対峙しては負けいくさを挑むのではなくて、公園で同じ夕暮れを眺めながら寄り添って身をまかせて…。結局はそんなアレだったのかもしれない。結婚したいと思ったのって。それにあの時、僕は確かに恋をしていたのだし。今だってそうだ、きっと恋をしている。

酔いであれ寂しさであれ、弱い自分がまざまざとさらけ出されてしまう文脈において対決ではなく、寄り添い身をまかせるやり方で生きていく。それはある種の逃げであるのだけれど、とても心地よい逃げなのであって、なんというかな、しばらくは逃げ路線でやっていこうかと思う。弱さとは対峙するものではないし、退治なんてできようもない、ただそこに寄り添うものなのだ。
不在の妻よありがとう。僕の人生はあなたにゆっくり育てられています。

餌付け

今日はみんな大好きパンダの話です、キャッチーです。*1

あれはいつだったか…気の置けない酒席でしたたかに酔っぱらいながら「だったら俺だってパンダなんだから、笹とバランの違いくらい見抜ける訳ですよ!(焼酎の水割りを机にドカン!)」と発言したのは覚えている。覚えてはいるのだけれど、文脈が全く思い出せない…俺、パンダじゃないしなあ…。と年来ずっと悩んでいたのが天からの贈りもの、ふと記憶が蘇った。そんな話をしたいと思います。

大学生(医学部でした)の時分、柄ではないと知りつつも「合コン」に出席したことが何度かあります。こじらせた自己愛と自意識の二重らせんがおりなす、過剰なまでに低い自己評価には定評のある私。「居合わせることになる女性にこんな自分を見舞わせては本当に申し訳ない…しかし、今しかないこのチャンス、男もすなる合コンなるものを体験してみたい…」などの面倒な葛藤に駆られつつ、「これは物見遊山なわけで、言ったら軽い〈ギャグ〉なんだから僕のひなどりのような自我は決して傷つかないんだ…!傷つかないんだ…!」とみっともないうわ言を碇シンジくんばりに繰り返してはパイロットスーツに身を包み、自意識を守るATフィールド全開で私は飲み屋へ赴くわけです。
そこで感じるのはいつだって「医学部」っていうワッペンの実に独特な意味付けですよね。へ〜、医学部って○○なんだ〜。そんなリアクション(リップサービス)をしてくる女子が実に多くていらっしゃる。

ひとつには僕の話が面白くなさすぎるため、相手の女子たちも「やむを得ず」の菩薩心をフルに発揮、最大公約数的な質問で無難に場をつないでいたというのがあると思います。私なんていきなりエヴァスーツ来てプシューッ…緊張と身の置き場なさからうわづった声でコ、コンニチィハァ…!なのだから、接しにくいことこの上ない。
しかしまあ「医学部」ってそんなんなんだ〜!みたいな話はやはり多いのです。そして私は気付きます、総じて私たちに(少なくとも私に)求められているもの、それは「パンダ」であると。

冗談としか言いようのない水玉模様(フレッシュマンが会社にパンダ柄のスーツを着てきた所を想像してみてください)、悪ふざけとしか思えない主食(楽しみにしていたお弁当が笹オンリーだった昼休みを考えてもみてください)などが逆転の好奇心を生み、上野動物園の一等人気はいつだってジャイアント・パンダ(学名:Ailuropoda melanoleuca)です。
パンダが笹をほおばる場面に、タイヤ遊びに興じる姿に、お客さんたちは惜しみない歓声を送ります。新入社員は揃いも揃ってパンダ柄スーツ、お昼ごはんにもたされた愛妻弁当は笹、そんな絶望の淵に立つ課長さんの顔にも自然と笑みが浮かぶでしょう。うわぁ、パンダ(学名:Ailuropoda melanoleuca)ってホントに笹なんて食べるんだねぇ〜!タイヤで遊ぶんだねぇ〜!なんつって。女子たちはふれあいコーナーで笹やりプレイにキャッキャしたりして昼下がり。かわいいじゃねえか。

閑話休題、そういった類の柵越しに供される「笹」。これが合コンたるふれあいパークでは会話の節々(笹だけにネ!)にビックリするほど差し出される。えぇ〜やっぱり、医学部とか入るのってすっごい勉強するんでしょ〜?やっぱ血ぃ見るのとか無理だとダメじゃない?なんてな具合で。
今、目の前にあるもの、それは「Ailuropoda melanoleucaとしての反応」への期待。そして私はパンダ島耕作、白黒の毛皮がそんな期待をビンビン察知します。「タイヤで遊ぶんだろうな〜」「美味しそうに笹食って、顔を手でぬぐってむはぁみたいな表情しろよ〜」という無邪気な善意、それすなわち残酷な悪意。
はいはい、だったら演じますよ…そりゃあパンダを気取りますよ。勉強しすぎてインテグラル(積分記号)見ただけでエロい気持ちになってたとか、女性の体で好きなところは点滴しやすそうな血管とか、嘘でも言いますよ。パンダ学部ですから。


スピッツ 「フェイクファー」

せっかく都合をつけてまでパンダ放牧ランドに来ていただいたのだから…せめて相手の方々に喜んでいただかなくては…期待通りのAiluropoda melanoleucaとして道化ていさえすれば…笹良し!タイヤ良し!。そういう思いで全力でパンダにいそしんだ時代がありました。私にはありました。そうその通り!今思えば、それはあらゆる意味で大失敗です。
相手側だって「本気でしていた」訳じゃないと思うのです、その手の質問を。心から知りたかったというよりは、その場を明るく楽しく心地よいものにするために執り行われる、敢えての毛づくろいとでも言いますか。たとえそれがフェイクファーだとしても、目の前の女子たちが「こちらへの興味」を質問に乗せてくれている、ならば踊ろう。私は踊ろうではないか。ダンスだよ〜、パンダンスだよ〜。
たとえイミテーションでも花は食卓をいろどります。寿司に添えられた緑が、生の笹ではなくバランでもそこに彩りが生まれます。そういう嬉しさって替えがたく大切ではありませんか。

もちろん「本当に興味をもってくれているんだな」「上辺ので聞いてるだけじゃなくて、他者を理解しようとしてくれてるなあ」と感じられる場面もごくごく少ないながらにありました(相手が何枚もウワテだっただけかもしれない)。うれしいナマ笹。そんな場面では真摯に誠心誠意をもって答えます、プシュゥー(心の防壁、白黒エヴァスーツをぬぐ音)。
別に構わないの、動物園感覚でも。唇をすり抜けるくすぐったい言葉のたとえ全てが嘘であってもそれでいいの。そう思える幸せなひととき。私をパンダ扱いして、ガンガン笹の葉っぱを与えてくれて、タイヤ遊びを要求してくれて一向に構わないのです。だいたい、ひっくり返せば男も同じ事をやっているのだし。
何つうかな、パンダごっこも悪くないんですよ決して。そこにコミュニケーションが生まれ、それで場がうるおうのなら。だから、だから一言だけ言わせて。

…だったら俺だってパンダなんだから、笹とバランの違いくらい見抜ける訳ですよ!*2

*1:facebookに書きなぐったnoteを流用しました。

*2:強がりましたすみません、モチロン実際には全く見抜けません。

3.11

東日本大震災から今日で1年。地震津波、そして原発問題に、いまなお困難な生活を強いられつづけている多くの方々の労苦はいかほどたるか。他人ごとではないとは思いつつも、被災された方々に対して直接の援助をおこなっているわけでなし、東京で暮らしている私にはその苦しみを想像すべくもありません。いちはやい復興とともに、皆さまの心身がすこしずつ回復されることを心からお祈り申し上げます。

「あの時」を忘れないようにという思いからからこのエントリを書きましたが、実にまとまりの悪い文章になってしまいました。これは外部の者からみた、被災の現状のごくごく一部です。気をつけたつもりですが、スキャンダルをあおるような過剰な脚色になってしまった部分、歪めてしまった情報もあるのかもしれません。どうかその点はご容赦いただければと思います。

2011年の3月18日〜20日の3日間、私は災害医療支チーム(精神科)として、被災直後のA市をたずねました。当時一般には開放されていなかった東北道を公用車で北上するはずが、原発問題で通過が許可されず、東京から新潟・蔵王を経てA市へ。到着に17時間を要し、2時間の仮眠から活動開始という強行スケジュールでした(それでも、震災直後に現地に向かったDMATなどに比べればはるかに恵まれた環境でした)。そこで訪れたB病院の様子を、すこしだけ思い出してみます。

B病院は精神科の単科病院。精神疾患をもつ方が通院し、時に短期/長期の入院をする施設です。市街地からやや入った海辺に近い雑木林を抜けた環境はおだやかで、療養にぴったりの環境だったに違いありません。中庭には作業療法の一貫で作られた畑がならび、来るべき春にはさくらの花が季節をいろどります。

このB病院はきわめて大きなダメージを受けていました。やはり津波による被害はすさまじく、3階建ての建物のうち、外来診療をおこなっていた1階、入院機能をになっていた2階は全壊し機能停止。市街地への道路はおびただしい瓦礫と木片で完全に塞がれ、文字どおり「陸の孤島」となっていました。3月18日に車幅ギリギリの道路が再開通するまでの1週間を、250人に及ぶ入院患者さんと50人ばかりの医療スタッフの方々が、ただただ「しのいで」いました。

職員の方々のすばらしい機転、患者さんたちの驚くべき協力体制(精神疾患につき入院されているわけで、冷静な判断力がどうしても落ち込んでいるはずです)が功を奏し、3階への避難はすばやくに実行されたとうかがいました。結果、津波による被害者はゼロ。ゼロです。これは本当に、ひとつの奇跡であったと思います。
とはいえ、その生活環境は筆舌に尽くしがたいものでした。電気・ガス・水道といったインフラ設備は壊滅、その中で300人に近い、しかもその大半が(入院を要するくらいの)精神疾患をもった患者さんたちが救助を待たなくてはならない。2階に入院していたすべての患者さんが3階へ緊急避難したため、人口の密集はいちじるしいものでした(単純計算で、人口密度が倍になるわけです)。一部屋に20人が雑魚寝し、不潔な布団にくるまっていました。

夜には氷点下を割る低気温がA市を容赦なく襲い、皆の体力を奪っていきます。残された灯油をつなぎながらの生活ですが、もともと体力の落ちている方も多く、感染症が頻発していました。スタッフの方はできるかぎりの清潔処置や、汚物の隔離を行うのですが、上述の密集状態のなか、感染は少しずつ病院に広がっていました。津波の被害をまぬがれ残されたごくわずかな抗菌薬も、不運にして効果が不十分なことがあり、私が訪問した日にも肺炎で2人の方が命を落とされていました。霊安室も失われ、とくべつな畳敷きの上に白布ではなく毛布で(とても丁寧に)くるまれたご遺体、そのお顔を拝見したときのやるせなさは、どうにも表現できないものでした。

食事は1日2食、1日あたり1,000kcal。小さなおにぎり(ときには乾パン)に一汁がつくだけの簡素なもので、文字通りに「食いつなぐ」状態。簡素とは言いましたがもちろん、裏では栄養師さんや調理師さんが限られた食材から、院内の人たちが少しでも体調を維持できる献立に知恵をしぼり、病院に流れ着いた木材を干してたきぎにし、一日中調理にいそしんでおられました。赤く腫れた両手で懸命に作業している姿から、厳寒の炊事作業の苦労がうかがわれました。

排泄も大きな問題でした。水道設備が損壊しているなか、300人規模の集団の排泄を管理しなくてはならない。ポータブルトイレ(おまる)を駆使しして一日に数回、排泄物を裏庭に廃棄していました。排泄のきまりを守れない患者さんも少なからずいらっしゃり、身動きのとれない患者さんの失禁もあり、院内は糞尿の匂いに満ちていました。し尿の染み付くシーツに包まり、かろうじで暖をとる患者さんもいました。そんな状況の中で、感染対策にせよ衛生管理にせよ、あらゆるメディカル・スタッフの方々のプロ意識、実際の活動には感動をおぼえました。

薬剤の不足も深刻でした。市街への経路が再開通するまでの1週間、流通復旧の見込みがまったく読めず、そんななかで病院の医療判断を一手に担うドクター(実質1人…)は患者さん250人分の処方をすべて見直し、平時のおよそ1/3の薬剤量で、なんとか患者さんの病状を保とうと奮闘されていました。しかし薬剤減量に加えて、生活の苦しさや先行きへの不安が患者さんに与える影響は大きく、さまざまな精神症状が悪化してしまう患者さんがあとを絶ちませんでした。病棟にはときに叫び声が響くなか、ドクターは昼夜なく「9日連続当直状態」で診察に明け暮れていました。

私も少しだけお手伝いをさせていただきましたが、災害用ヘッドライトの明かりとかじかむ手でおこなう診察と処方は恐ろしくハードで、2時間もすれば消耗はげしく手の感覚は薄まり、文字を書くこともおぼつかないありさまでした。衰弱した患者さんの手はどこまでも冷え、スタッフや他の患者さんやがどれだけさすり続けても、肌のぬくもりは簡単には戻りませんでした。それでもさすり続けるしかないという無力感は、どれだけのものだったでしょうか。


地震津波につづく火災で焼け野原になったA市の港近くに落ちていたレコード盤


ここに紹介した様子は、私が見聞きした「病院の被災」の、ほんの一端にすぎないし、おそらく裏ではさらに多くの苦労があったにちがいありません。スタッフの皆さんは(そして患者さんも)懸命に職務にはげんでおられました。自身も被災者であり、家族や住居を失った哀しみのなか、みずからが現実に向き合う時間や余裕が必要な時期であるにもかかわらずです。ただただ頭が下がりました。

非力な医者が何人かお手伝いにうかがったところで問題は一向に解決などしないと打ちひしがれていたところに、自衛隊が到着しました。みるみると瓦礫がとりのぞかれ、院内が清掃されていきます。あの機動力は光のようでした。こんなにも頼りになるありがたい存在があるのかと、そのありがたみをからだの芯から実感しました。
数日後(おそらく3月20日)、簡易発電機からの送電が復活したときのことは忘れられません。小さな白熱電球が一つともった瞬間、身を寄せ合って互いの体温で暖をとっていた患者さんたちの顔が一気に、よろこびをたたえました。電気があれ程までにありがたい瞬間は、後にも先にもないと思います(もう体験せずにすむことを祈ります)。

B病院の他にも、知的障害をもつ方の入居施設、特別養護老人ホーム老健施設をたずねました。慣れない夜勤体制で必死に介護をする女性スタッフさんは疲弊しきり、見ず知らずの医者(私のこと)の前でおいおいと泣いていました。小学校や公民館、市役所やホテルに設置された、さまざまな避難所にもお邪魔しました。皆さん心身ともに疲弊しきっているはずなのに、明るく気丈に振る舞っていらっしゃいました。子どもたちは外で内で元気に遊びまわりながら、そのヤンチャな様子はあまりに「良い子」すぎるようでした。子どもたちもまた、一生懸命に被災と格闘していたのだと思います。

ご家族を失った方がいました。不安で急に寝付けなくなった方がいました。日常の内服薬がなくなりパニックを再発させた方がいました。自宅を失った事実を理解できず、避難所を寄り添い歩く認知症の老夫婦もいました。被災後1週間のA市には、そういうシーンがどこまでも広がっていました。
その一方で、私が滞在したたった3日間でも、徐々に道は広がり電気が戻り、わずかではあるけれど回復の兆しを感じることもできました。

あれから1年たち、生活も漁業も、少しずつではあるけれど復興が進んでいるという報道がなされています。その一方で、癒えぬ部分もまだまだ多いにちがいありません。
くり返しになりますが、いちはやい復興とともに、皆さまの心身がすこしずつ回復されることを、心からお祈り申し上げます。

わが美しき故郷よ〜朗読〜 畠山美由紀

A市出身の畠山美由紀さんの歌を。震災で亡くなられた方のご冥福もまた、心からお祈り申し上げます。