相沢、再び上京

相沢中佐は一旦福山に帰りますが、8月10日に再び上京します。
この時の目的は永田殺害でした。
軍刀を最初から持っていました。
彼はこの時、台湾への赴任が決まっていました。
台湾に赴任すれば簡単には帰ってくることができません。
「今しかない」という気持ちだったと思われます。
ただ、ちょっと不思議なのですが、相沢は永田を殺害しても台湾へ行くつもりでした。
捕まるということを前提にしていないわけです。
国のために事を成す。言ってみれば正義を実行する。
これが犯罪という認識はなかったのかもしれません。
それはさておき、相沢は上京の途中で大阪と伊勢神宮に寄っています。
大阪は東久邇宮中将への挨拶が目的でした。
伊勢神宮には祈願だったと思われます。
相沢によれば伊勢大神が相沢に乗り移ったということになります。
東京に着いたのは11日の午後9時半ごろ。
西田宅へ向い、泊めてもらいます。
改めて永田殺害の必要性を認識したと思われます。
翌日、陸軍省へ向います。

相沢、永田に会う

相沢は連隊長である樋口季太郎の許可を得て、7月17日に上京します。
樋口は相沢をよく理解していたようです。その彼が相沢の状況を許可しています。
許可を与えないと無断で上京しかねないと思ったのでしょうか。
当時は青年将校が無断で隊を離れることがちょっとした流行だったようで、これを「脱藩」などと称していたようです。
ちなみに一部では統制派のことを「佐幕派皇道派のことを「勤皇派」と言ったといいます。
それはさておき、相沢の上京の目的は永田鉄山に会う為です。
この段階で永田を殺すつもりであったかどうはわかりませんが、まだその気持ちは固まっていなかったと思われます。というのも相沢は上京してから短刀を購入しています。
19日の午後永田と会談をします。
永田は相沢の言ったことが理解できたのでしょうか。
永田のように論理が考える人物にとって情で行動する相沢の言った言葉は理解できない部分があったのではないでしょうか。
永田によると「よく言ってきかせたから、おとなしく帰った」ということになります。
相沢は帰路西田宅によります。

相沢三郎中佐

相沢三郎中佐は岩手県の生まれです。
事件当時47歳だったといいます。
仙台幼年学校を出た陸士22期生でした。
同期のものがほとんど大佐になっていたので出世が遅いほうでした。
剣道4段で、陸軍戸山学校時代には剣道の教官といいます。
この戸山時代に村中孝次、磯部浅一、大蔵栄一ら急進派の将校と交わりました。
彼の思想は最初父によって形づくられたようです。
父から子ども時代に語られた「陛下の側近にあると思って御奉公し」というのが根本思想だったようです。
したがって、政党、財閥が腐敗して、それに軍の関係者の一部が軍の威力を借りて接する。いわば、陛下の軍隊を私物化することが許せなかったようです。
相沢中佐のような一途な人間には永田鉄山のような思慮に富んだ人物の行動はどのように見えたのでしょうか。
相沢の行動に自分自身の欲望はなかったと思います。
その一途さゆえに事件は発生したように思えます。

相沢事件へ

真崎教育総監が罷免され後任は陸軍大臣参謀総長の協議により渡辺錠太郎教育総監となります。
この決定は皇道派から疑義がでました。
2長官の協議で教育総監が決まるのはおかしいというのです。
つまるところ教育総監部統帥権があるかどうかということです。
皇道派統帥権があるとしていました。
統制派は教育総監部統帥権はないと考えました。
こうした両派の対立は真崎罷免により怪文書が出回る原因となります。
さてこのような一種の粛清にはリーダーの指導力というわ統制力が必要です。
ところが一般に言われるように林陸軍大臣にはそれだけのものがなかったようです。
つまり永田鉄山に頼りきっていたわけです。
こうした状態が次の事件を生むことになります。
いわゆる相沢事件です。

真崎教育総監の敗北

第2回目の3長官会議が7月15日に行われました。
この会議で閑院宮が真崎に対して発言します。
「総監は大臣の事務を邪魔するのか」と。
真崎はこれに答えます。
その内容は
 総監は天皇の総監であるから、統帥権に関わる人事であるので、陸軍大臣の一存による決定には従えない。
 また陸軍最高人事を陸軍大臣の一存で決めてしまっては今後に悪例を作ることになる。
 これが行われるとどのような事態を引き起こすかわからない。
といった趣旨でした。
最後の言葉は一種の威嚇であったのでしょうが、後の事態を考えると威嚇だけであったのかどうかわかりません。
閑院宮が「そのような事態が起こったときは陸軍大臣が適切に処理するであろう。今回はこの案で行こう」と結論を出します。
真崎としては不服であったのでしょうが、相手は宮様ですのでしぶしぶ承諾します。
かくして真崎の敗北で会議は終了します。


 

3長官会議

さて7月15日です。となるのが論理的な展開なのでしょうが、人間はなかなか論理では動かない面もあります。
そんなわけではないのでしょうが、7月12日に3長官会議を開くことになります。
真崎は情勢が不利と考えこの会議への出席を渋ったようですが、林が積極的に動いて出席させたようです。
会議では林が真崎の罷免の必要性を主張します。
真崎は引き延ばしを図ります。
参謀総長閑院宮は発言をされなかったようですが、真崎嫌いであった宮の気持ちは真崎も分っていたのではないでしょうか。
この会議では結論が出ずに次回会議を7月15日に開くことを決定します。
7月14日のことです。
真崎が林を訪ねます。
林への威嚇のためです。
双方の駆け引きが行われつつ7月15日を迎えることとなります。

真崎が更迭に抵抗

真崎甚三郎は林陸相に対して子分に対するような気安さがあったのかもしれません。
林の人事に対してかなり口を出したようです。
もともと林陸相の人事構想の後ろには永田鉄山がいたので、真崎にしてみれば一層邪魔をしたかったのでしょう。
永田としても真崎を一掃する必要性は十二分に感じていたと思われます。
林はまず真崎直系の秦真次第2師団長を待命にするなど皇道派を中央から一掃し、東条英機など地方にいるものを中央に戻すことを考えます。
ところで、この当時の陸軍の人事は3長官、すなわち陸軍大臣参謀総長教育総監の3人の協議の上で決定する慣習でした。
当時の参謀総長閑院宮でしたが、彼は真崎嫌いであったので林の人事に賛成でした。
もう一人の教育総監である真崎は当然のことながら反対。この案の内示を受けると中央の皇道派に漏らしたようです。
この結果、皇道派が騒ぎ出します。
かくして7月10日に林は真崎に更迭を持ち出します。
これは真崎に意外な話であったようですが、3長官の協議を縦に抵抗します。
この日の会談は物別れになり、7月15日に再度開かれることになります。