背中の向こう

しゃっとして皺のみえぬ紺の制服に身を包み
背筋をピンと張ったひょろ長い20代後半の店員が
バレットガールズという、銃で撃つと女の子の服が弾け飛ぶ
世界平和を夢見る我々にとって夢のようなゲームを購入した私の
くたびれた背中を隠しきれない、くたびれて薄くなったシャツへと
押し殺せぬ嘲笑をぶつけた。
私は思った。
オレがお前の歳の頃はもっとちゃんとした仕事してたよ。
お前はもうオレみたいにはなれないよ。
と。
ああそうか。
私はもう彼のようにはなれないのか。
私が彼の背中を見る事はないのか。


しかし彼は私の背中を見ていたいのだろうか。
そう思い、とっさに振り返ってみると
彼は目線を逸らすかのように私に背を向け
レジの後ろにあるパソコンへと手をやった。


何の変哲も無い背中であった。

素のぼやき。

孝行サービスで実家に帰る度に、実家に帰りたくなくなる事件をてておやが起こすという。自分のしでかした悪業を指摘されて開き直るんじゃないよ子供じゃあるまいし。終いにゃ他人のせいにしはじめる始末。自分で何もせず、当然の事という振る舞いで我儘をいい、したり顔で手前勝手な事をやってのける。君がそうやって自尊心を保とうとしているのは判っている。が、そういう行為は自分の信用を限りなく悪いレートで投げ捨てるバーター取引であり、尚且つ信用を取り戻す手段がもう君にはほぼ存在しない事を本当に理解しているのだろうか。理解せずやっていて、理解しようとしないのも悪いが、理解してやっているならば尚更救いようが無い。信用など、とうにしてはいないが、期待はしていたのだ、私は。だがそれも終わり。私がみていた彼の未来は潰えた。さらば親しき人。



なんか最近愚痴しか書いてないみたいなんで、精神衛生の為にも愚痴話自粛とします。ええいちくしょうめえ。

そういう事。

友人から悪い評をうけてる奴と仕事をした。やってみて、仕事の出来自体はそんなに悪くなく、単に不手際とそれに関しての誤魔化しの嘘が何回かあって、それでもまあ一緒に仕事が出来そうな感じではあったので、今後の一緒にやるなら仕事そのものでも仕事上の信頼の上でも問題になるかもしれないからとやんわり指摘したらば、「そういう事いうのか。お前は俺の敵だな。」と冗談めいた口調で誤魔化すように返された。
予想外の事で、思わず相手が年長なのを措いて、なーにがそういう事だ、ガキじゃあるめえし仕事でくだらねえ事をほざくんじゃねえ、馬鹿か手前は。と丁寧にお返しした所、「まあそういう事だ。」とふんぞり返ってのたまわれた。
ああ、そういう事か。

鏡面教師。

ひとの話をよく聞かず、一知半解に届く程度も理解せず、己が理に適っていると話者との関係性で思い込み、共有していたと思っていた理念を話の流れであっさりと否定し、その場の状況から思いついた事に酔いしれ喧伝し、事の実際に置くと行き詰る。
そんな奴が自分の他にもいたとは、世の中広いものである。

バンバン。

定年を迎えた父の相手に困っている。

定年間近、私が2か月ほど居候していたときに観察していてびっくりしたのだが、父は帰宅時と、休みの土日の殆どをテレビをみて過ごしているのだ。きくと、昔からずっとこんな感じらしい。自分にテレビをみる習慣がないもので、あまりに驚いて、気付いてから1週間でちょっと計算してみたのだが、平均すると一日あたり6時間強くらい観ているという数字が出た。うわ・・・。さーっと血の気が引く。仮に40歳から同じ生活を続けていたとして、退職する60までの間にまるまる5年間テレビの前に座り続けていた事になる。誰に届く事もない野次と変なうすら笑いを5年間である。
流石に退職までそれを続け、そのまま毎日が日曜日状態に入ってしまうと、同居する母との関係がまずくなると思い、客観的にみた父の生活習慣と、テレビの視聴時間の総計を判り易く絵面でまとめてA4用紙1枚に印刷して手渡した。して、手にした直後。「お前大袈裟にいってるだろ。」とか一言おっしゃいましたが、そこそこに頭のよい人だったので、間違いない、と真顔でいったら黙り込み、自分でもまずいと思ったのだろう、それから1週間ほどテレビをみる回数が激減した。のだが、まあひそかに予約録画は倍増していて、あっけなく翌週からはまたもとの生活に戻っていった。

時は過ぎ、父は無事に退職へと至りました。
さて、リビングの横にふすま一枚隔てて母の部屋があるのですが、リビングで夜中にテレビを見られるとうるさいから部屋にテレビ買おうよ、と何度か話をふっておいて、私とメールでやりとりしてテレビやチューナーの値段を調べて色々計画していたらば、母がメールをしている所が目に入ったらしく、そこから及んで「俺に居間に出てくるなっていうのか!勝手に決めるな!」と激昂して部屋にこもってしまったと。その日用意した昼食は流しに捨てられ、晩御飯も食べずに自室にこもったそうだ。ガキじゃあるまいしハンストて、とか思ってたら夜中に菓子棚を漁りに来ていたとか。(リビングに菓子棚があるので母にはまるわかり。)
いったい彼は何をしたいんだろうか。テレビをみたいとか、そういう事では無く、そこでテレビをみるという事に何をかけているのだろう。周囲の人間に実質的な害が及ぶという状況下にありながら、自分が出てくるな、という解釈にいたるその思考。というか、テレビをそこでみない=出てくるなという結論にいたる状況がおかしいとは思わないのか。そこでテレビしかみてないってことだろー。部屋の前でテレビを延々と見られると母だって生活しづらいし、音がうるさい以前に居座られると精神的に参っちゃうから、自室にテレビを置くのは二人にとって利がある事だと思うんだけどなぁ。   と、思い立ったまま全部言ってきたらば。
キレられた。キレた父は叩いた。私をではなく、菓子棚の引き扉を。バンバン!と。
育ちがあんまりよろしくなかった私はあまりも滑稽な動きと状況に吹き出しそうになったのだが、ふと我に返り状況を鑑みると、何だか急に頭の中に冷たい空気が流れ込んだような感じになって、目の前がはっきり、冷たく固まっていく気がした。私は、ああ、もうこの人と家族として付き合ってはいけないな、と心底感じた。甘えているのだ。駄々っ子のように。つい先日まで大企業の役員で、口髭をぶら下げたむさ苦しい男が甘えているのだ。正直思った。すげええええ気持ち悪いいいい、と。
立ち位置的に普段家族の遠くにいて、家族に対していい顔をする私は、甘えやすい相手だったのだろう。しかし私のいい顔は、いわば関係の線を自分できっちり引いて、家族といえども他人という認識を確立しているから成り立たせていたつもりだったのだが。そこら辺の認識が父と共有できていなかったのだろう。
あの人はもはや父では無い。妖怪菓子棚バンバンだ。そう思わねば、きっと本当に菓子棚バンバンになってしまう。それからというもの、実家に帰る度に、私は心の中で父の事を菓子棚バンバンと呼んでいた。語呂が良かったので思わず、夏休みで遊びに来ていた甥っ子達にもおじいちゃんの事を菓子棚バンバンって呼ぶと喜ぶよ、と吹聴していたら、本当に殴られた。いてえなこの野郎。

欠落情報の旅。


ちょおっと海外に行っていた。日本よりちょおっと暑い所に。


写真はDSiで撮影した。デジタル一眼レフ持ってるくせに旅行の写真とかは滅多に撮らないという性癖(というか持ち運びや管理が面倒)で、何よりそもそも私用での渡航では無くカメラを振り回すのも難があるよなぁ、と、今回も記憶して帰りゃいいかとふわふわ行ってみたのだが。いざ現地に着くとこらすげえぜーとカシャカシャパチパチ。うぇるかむとぅざじゃんごー俺ー。やたら左折する車。道路ぼっこぼこで街中ジェットコースター。*1凄いきれいなホテルやレストランの壁天井にヤモリがベター。*2かしこまった酒宴中これまたかしこまったスピーカーのグラスの中に虫がポテ、必死に出ようとグラスを這いまわるもワイングラスだったせいか構造的にねずみ返しのようになってて出れずにグラスをはじく音がスピーチの後ろにカンカン鳴り響く。これがガムランの起源かーなどと感心し、いやもう何をみてもテンション上がりっぱなしで。気付いたらおっさんが恥ずかしげもなくDSiをカシャカシャ鳴らしまくっていた。*3

DSiカメラの解像度自体最近の携帯以下だし、もともと自分に写真の腕がない上に歩きながら撮りまくってた写真がほとんどでどれもぶれまくり。だけども自分の記憶とは直結していて、あの時の暑さだとか匂いだとか色彩だとか、人や動物の動きだとかを写真をみて思い出すのだ。そもそも写真なんて体験した視覚を無理に二次元に落とし込む代物で、そこに作品性とか作為性とかを盛り込める人じゃない限り情報の媒介として不完全であって、記録として他人に見せるという観点からすると解像度なんて不要なんだよね。物体として固有の特徴を認識できるレベルであれば、そこに言葉を織り交ぜる事によって記憶としての解像度の高い「話」つーやつが出来上がるんだー。だからDSiで十分なんだー。
などと強がってみないとやってらんないのであった。暑いわ湿度高いわで機材には最悪だったけど、ええとこだったわー。無精者の自分が今になってうらめしい。


現地を紹介する雑誌の写真がもっと凄ければこんな事も無かったんだけどなぁ。あ、これは要するに雑誌のカメラマンが「話」を語る解像度が低かったという事か。プロつっても大したことねーなあ。
などと自らの不甲斐なさの転嫁気味に考えていたのだが。他に普通の立派なカメラを持って来ている方がいらっしゃったのを思い出し、それを踏まえると逆を返せば自分がカメラの必要性を見いだせなかったともとれる事にも気づいた。あれ、解像度が低いのは良いカメラの必要性を見出せなかった俺の目なのか。


解像度という言葉は、いわゆる視覚的な情報の細かさ、単位辺りの情報量の多さを指す。しかし現実において、そもそも伝達しようとする情報が大元の事象そのものである事は(元々媒体が同じでない限り)ありえないし、その情報を含有する媒体とその媒体を認識するものは必ず同一でないので、それだけで数度の齟齬、情報の劣化や変質が発生する。その前提があるゆえに解像度とは単なる理解の可能性の選択肢の幅であって、そこに倍率として介する媒介、受け手が存在する事によって、結果的な情報量が決定されるという過程の一部でしかない、絶対的なものではないように思える。


とはいっても何事にも限界はある。レンズキャップを外し忘れて撮りまくった写真をみせて伝わる事実は、どう雄弁に語ろうとファインダーを覗かずボタンを押しているだけというお粗末さが主題になってしまうし、延々とブルースクリーンを見せてこれが芸術だとうそぶくには遠大か、あるいは深遠なる前説が必要になる。結局のところ、語る場所が絵面や口に分散していくと、それらをつなぎ合わせていく過程でそれぞれ固有のデフォルメされた一面に解像度という物量的な情報が負けて、主題が変わるのである。何事もバランスが肝要ということだろか。

僕がDSiで撮った写真と、この日記はどこぞの誰かに何かを伝えるのであろうか。そう覚えながら、確固たる意思もなく、ただ自分の感じた面白さを原点に、この欠落した情報たちを旅へと送り出すことにした。何を求めるわけでもないが、本来欠落していた部分に何かが見えてくれれば幸いである。

*1:南米とかと同じで故意に盛り土してスピードを落とさせているそーな。

*2:縁起ものらしい。日本でも同じポジションだったよーな。

*3:DSiは携帯と同じで撮影時に必ず効果音が鳴る。