祈りの本質について(フォーサイスとCSルイスから)

 

フォーサイスC.S.ルイス、二人の思想家は祈りの本質とその実践に関して深い洞察を提供しています。フォーサイスは、特に『祈りの精神』において格闘的祈りの概念を掘り下げ、イエスゲッセマネにおける祈りをその究極の例として提示しました。これに対し、C.S.ルイスは、祈りが祈る者自身を変えるという視点を強調しています。これら二つの視点を統合し、キリスト者の祈りの本質について考察します。

フォーサイスにとって、格闘的祈りは、神の意志と自己の意志とが対峙し、最終的には神の意志に自らを委ねる過程を示します。イエスゲッセマネでの祈りは、この格闘的祈りの最も鮮明な表現であり、「父よ、もし可能であれば、この杯をわたしから取り除いてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたの願いが行われますように」という言葉にその本質が現れています(マタイ26:39)。この祈りにおいて、イエスは自らの苦しみと死に直面しながらも、父なる神の計画と意志に深く従うことを選びます。フォーサイスはこの点を強調し、真の祈りは自己中心的な願望の表明ではなく、神の意志への深い同意と自己の意志の放棄であると説きます。

一方、C.S.ルイスは祈りを通じての変容を強調し、「祈りは神を変えることではなく、祈る者を変える」と述べています。ルイスにとって、祈りは神との関係性の中で自己を開き、神の働きを自己の中に受け入れる過程です。これは、自己の願望や考えを超えた神の現実との出会いを通じて、内なる変化を経験することを意味します。

これら二人の視点を統合すると、キリスト者の祈りの本質は、自己の限界を認め、神の無限の愛と知恵に自らを開くことにあると言えます。祈りは、単に神に対する願望のリストを提示する行為ではなく、神の前に自己を開き、その意志と目的に自らを合わせる過程です。イエスゲッセマネでの祈りは、この神への絶対的な信頼と服従の模範を提供しています。また、C.S.ルイスの考えは、この過程が最終的には祈る者自身の内なる変化をもたらすことを示しています。真の祈りは、神との深い一体感へと導く旅であり、その過程で我々は自己を超えた存在、すなわち神の愛と慈悲の実現へと変貌します。

したがって、キリスト者の祈りの本質は、神との関係性の深化と、その関係性を通じての自己変化にあります。これは、自己中心的な願望を超え、神の愛と意志に自らを合わせることから始まります。フォーサイスとルイスの思想は、この神秘的かつ変革的な過程を理解するのに不可欠な洞察を提供しており、祈りがいかにして信仰生活の中心となるかを示しています。祈りは、私たちが神の現実に開かれ、その現実によって形作られ変えられる過程です。

「あたらしいものを生み出す通り道」   藤井 秀一

  11月、私たちの教会は「宣教」をテーマに共に「使徒言行録」のみ言葉に耳を傾けています。今日の礼拝において読まれる使徒言行録8章1節後半から5節では、初期エルサレム教会が直面した最初の迫害について記されています。

 

この迫害は、敬虔なリーダーであるステファノの殉教から始まりました。彼は、初代教会において選ばれた七人の執事の一人でした(使徒6:5)。彼らの任命は、教会内でヘブライ語を話すユダヤ系クリスチャンとギリシャ語を話すユダヤ人クリスチャン(ヘレニスト)間の緊張を緩和するためでした。特に、ヘレニストの未亡人たちが日々の物資分配で見過ごされているという問題があったからです。

 

ステファノたちの働きにより、この対立は和らぎ、使徒たちは神の言葉を伝えることに専念できるようになりました。ステファノ自身も「信仰と聖霊に満ちた」重要な人物であり、その後の彼の殉教は、教会に深い悲しみをもたらしました。さらに、彼の死が教会への迫害へと発展し、まさに「泣きっ面に蜂」の状況が引き起こされ、教会は散らされてしまったのです。

 

しかし使徒言行録は、この苦境が福音の新たな地域への広がりをもたらしたという話の流れになっています。つまり神は、エルサレム教会を新しい境地へと導くために、このような苦難を用いられたと証言しているのです。この初代教会の証言を読む時、わたしたちも苦しみの中に隠されている神の意図を、深く考えさせられます。

 

2020年から続くコロナ禍は世界中の教会に大きな苦難をもたらしました。しかし、この苦難を通じて新しい伝道の方法も生まれ、今まで届かなかった人々に神の言葉を伝える機会となったことを私たちは知っています。苦難は、新しいものを生み出す通り道。この希望を忘れず、前に進んでいきたいと思います。

『主の声に応える心』

エレミヤ1章4節~8節 

1:4 主の言葉がわたしに臨んだ。

 1:5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」

 1:6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」

 1:7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。

 1:8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。

 

 

エレミヤ書1章4節から8節にかけての言葉は、私たち一人一人にも響きます。エレミヤは若く、経験に乏しい自分に神が大きな役割を託すことに対して、恐れと疑念を抱いていました。それは、私たちが神の声に応える際に感じる不安と重なります。神はエレミヤに「恐れるな」と言われました。これは、私たちにも向けられた言葉です。

神はエレミヤの存在を、母の胎にいた前から知り、彼を選び、預言者として立てられました。これは、私たち一人一人が特別な目的のために神によって選ばれ、愛され、用いられることを意味します。神は私たちの能力や経験よりも、信仰と従順を重んじます。

「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」という神の約束は、エレミヤにも、私たちにも力を与えます。不安や疑念の中で、神は私たちを見捨てることはありません。彼は私たちと共に歩み、困難を乗り越える力を与えます。

この箇所から、私たちは自らの弱さを認め、神の導きと保護に信頼を置くことを学びます。神が私たちを呼び、用いることは、私たちの人生において最大の栄光であり、その使命に応えることは、深い喜びと平安をもたらします。エレミヤのように、私たちも神の恵みと力を信じ、神の計画に従う勇気を持ちましょう。

神の招きに応える

 

「わたしは聞いた。主が言うには、『わたしはだれを遣わそうか。だれがわれわれのために行こうか』。わたしは言った、『ここにいます。わたしを遣わしてください』」(イザヤ6:8)

神の呼び声は、常に私たちの周りに響いています。しかし、その声に耳を傾け、応答するのは私たち自身です。イザヤは、主の声を聞き、躊躇なく自らを捧げました。彼の応答は、信仰の深い姿勢を示しています。主の呼びかけに対して「ここにいます」と言える勇気は、神への深い信頼と、神の計画への自己の委ねから生まれます。

しかし、神の言葉に対する私たちの応答は、いつも肯定的ではありません。「彼らの心を鈍くし、その耳を重くし、その目を閉じさせよ」(イザヤ6:10)。これは、神の言葉に耳を塞ぎ、心を閉ざす人々の姿を示しています。神の言葉に対する拒絶は、心の硬化をもたらし、真実から遠ざかる原因となります。

この箇所は、神の呼びかけと人間の反応の間のダイナミクスを示しています。神は常に私たちを呼んでいますが、その呼び声にどのように応答するかは、私たちの心の状態によって異なります。イザヤのように、神の呼び声に「ここにいます」と応答するためには、心を開き、神の言葉に耳を傾け、その導きに従う必要があります。

神の言葉を受け入れることは、時には困難かもしれません。しかし、私たちの心を神に向け、その導きに従うことで、神の愛と真実の光を私たちの人生に宿すことができます。神の呼び声に応えることは、私たちの信仰の旅において重要な一歩です。

祈り: 主よ、私たちの心を開き、あなたの言葉に耳を傾けさせてください。私たちがあなたの呼び声に応答し、あなたの愛と真実に従うことができるように、私たちの信仰を強めてください。アーメン。

言葉の力

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」
ヨハネ福音書1章1節

 

■はじめに
ヨハネ福音書は、新約聖書の中でも独特の始まりを持っています。1章1節は「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と記されています。これは、創造の始まり、すべての始まりを指し示しています。

■言葉の力
この節は「言葉」という概念に深い意味を与えます。言葉は単なるコミュニケーションの道具ではなく、創造と存在の根源です。言葉を通して神は世界を創造し、言葉を通して神は自己を示し、言葉を通して神は私たちと関わります。

■神との関係
「言葉は神であった」という部分は、私たちが神との関係をどのように理解すべきかを示しています。神は遠く離れた存在ではなく、私たちの日常に深く関わる方です。言葉という形で私たちの世界に存在し、私たちとの関わりを求めています。

■キリストの存在
ヨハネ福音書は、イエス・キリストがこの「言葉」であると示しています。神はイエス・キリストを通して私たちと直接的な関わりを持ち、私たちに神の愛と救いの手を差し伸べています。

■応答としての信仰
この聖句は、私たちが日々の生活の中で言葉の重要性を理解し、言葉を通じて神との関係を深めることを促します。言葉を通じて神の愛を受け入れ、信仰を深めることで、神との関係がより豊かになります。

■現代への適用
私たちの日常生活においても、言葉は重要な役割を果たします。どのように言葉を使い、どのようにコミュニケーションを取るかは、私たちの人間関係や社会生活に大きな影響を与えます。神の言葉に耳を傾け、その教えに従って生きることで、私たちの生活はより意味深く、充実したものになります。

■結論
ヨハネ福音書1章1節は、私たちの信仰生活と日常生活の両方において、言葉の力と意味を理解し、それを生かすことの重要性を教えています。言葉を通じて神と深い関わりを持ち、その導きに従うことで、私たちの人生は豊かで意味のあるものとなるでしょう。

聖書とLGBTQについて対立ではなく対話を

 

キリスト教の中には多くの異なる教派や理解が存在し、LGBTQ+の方々に対する見解も大いに異なります。
 あるクリスチャンは、聖書が同性愛行為を罪とみなしていると解釈しますが、他のクリスチャンは、その伝統的な解釈に、疑問をもっています。
たとえば
 「文化的文脈の理解」
  聖書が成立した時代と文化の文脈により、それらの禁止されている行為が現代のいわゆるLGBTQ+とは、全く異なるものであった可能性が指摘されています。
 一部の学者は、聖書の記述は主に男性間の性的な乱行や、力と支配の象徴としての性行為、異教の儀式に関連した性行為を扱っていると主張します。
「翻訳と解釈の問題」
聖書の翻訳や解釈に問題があると指摘する人もいます。たとえば、新約聖書に出てくるギリシャ語の言葉 "マラコイ" と "アセルノコイタイ" を「同性愛者」と訳す聖書がありますが、この言葉については多くの議論があり、「同性愛者」を指すという翻訳が必ずしも正確ではないとする見解もあります。(そもそも「同性愛」という言葉は、19世紀後半に出現したものであり、その前の時代は、そのような特定のカテゴリーとして分類する概念はありませんでした。)
「福音理解の問題」
 神はすべての人を目的と愛をもって創造したと信じる人々は、愛、寛容、赦し、共に生きるという考えに重きを置き、そもそも性的指向によって人を差別する読み方は、「福音」に反していると考えます。
 これらの解釈は全て、聖書学者や神学者の間で広範囲にわたる議論と討論の対象となっています。そして、それぞれの教派、教会、または個々の信者が独自の解釈を持っているのが現状です。
対立ではなく、対話をしていくことが大切です。

聖書とLGBTQについて対立ではなく対話を

キリスト教の中には多くの異なる教派や理解が存在し、LGBTQ+の方々に対する見解も大いに異なります。
 あるクリスチャンは、聖書が同性愛行為を罪とみなしていると解釈しますが、他のクリスチャンは、その伝統的な解釈に、疑問をもっています。
たとえば
 「文化的文脈の理解」
  聖書が成立した時代と文化の文脈により、それらの禁止されている行為が現代のいわゆるLGBTQ+とは、全く異なるものであった可能性が指摘されています。
 一部の学者は、聖書の記述は主に男性間の性的な乱行や、力と支配の象徴としての性行為、異教の儀式に関連した性行為を扱っていると主張します。
「翻訳と解釈の問題」
聖書の翻訳や解釈に問題があると指摘する人もいます。たとえば、新約聖書に出てくるギリシャ語の言葉 "マラコイ" と "アセルノコイタイ" を「同性愛者」と訳す聖書がありますが、この言葉については多くの議論があり、「同性愛者」を指すという翻訳が必ずしも正確ではないとする見解もあります。(そもそも「同性愛」という言葉は、19世紀後半に出現したものであり、その前の時代は、そのような特定のカテゴリーとして分類する概念はありませんでした。)
「福音理解の問題」
 神はすべての人を目的と愛をもって創造したと信じる人々は、愛、寛容、赦し、共に生きるという考えに重きを置き、そもそも性的指向によって人を差別する読み方は、「福音」に反していると考えます。
 これらの解釈は全て、聖書学者や神学者の間で広範囲にわたる議論と討論の対象となっています。そして、それぞれの教派、教会、または個々の信者が独自の解釈を持っているのが現状です。
対立ではなく、対話をしていくことが大切です。