60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(26)アメリカン・スポーツの普及と展開

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(26)アメリカン・スポーツの普及と展開

 

 以前、米軍の接収した保養地や娯楽施設ついてふれた(8)にて、ナイル・キニック・スタジアムや米軍内のアメリカンフットボール対抗戦などについてふれました。アメリカン・スポーツとしての野球の、戦後の隆盛に関しては山室寛之『プロ野球復興史:マッカーサーから長嶋4三振まで』(中公新書、2012年)や谷川健司『ベースボールと日本占領』(京都大学学術出版会、2021年)、ボウリングに関しては笹生心太『ボウリングの社会学:〈スポーツ〉と〈レジャー〉の狭間で』(青弓社、2017年)など参照のこととして、ここではアメリカンフットボールについてふれておきます。

 アメリカンフットボールは戦前から日本に入り始め、「ベースボール→野球」ほどには普及しませんでしたが、「鎧球」「米式蹴球」として戦時中もかろうじて命脈を保っていました(ちなみにバスケットボールは籠球、バレーボールはアニメ「ハイキュー!!」でおなじみの排球)。そして敗戦。

 

30Kp「戦争直後にスポーツする余裕などなかったように思われがちだが、終戦とは「スポーツできる日々」の復活でもあった。野球、陸上、サッカーなどあらゆるスポーツが復活に向けて動き始めた。中でも、マッカーサー元帥自身が、戦争中も試合結果をいつも気にしていたと言われるフットボールは、米軍(連合軍)占領下のもと、素早い復興ぶりを見せる。/1945年10月3日、甲子園球場を連合軍(第15軍)が接収する、連合軍関西司令官は、ウイリアム・キーン少将。フットボールファンだった少将は、ただちに甲子園球場を舞台に、部隊対抗のフットボール試合を開催した。そしてこの試合に、戦前の関西の大学フットボール選手―坪井義男(関大)、井床国夫(関学)らを招待した。当時、甲子園球場周辺がイチゴ畑だったことから「ストロベリー・ボウル」と呼ばれたこの米軍の試合をきっかけに、関西の学生フットボールは復活ののろしを挙げる」(川口仁『岡部平太小伝:日本で最初のアメリカンフットボール紹介者――附改訂版関西アメリカンフットボール史』関西アメリカンフットボール協会、2004年)

 

 大学とともに、高校でもアメリカンフットボールは盛り上がりを見せ始めます。

 

32Kp(1946年9月)「大阪軍政部のピーター岡田が、フットボールのボールを持って大阪北摂の2つの中学、池田中学(現大阪府立池田高校)と豊中中学(同豊中高校)を訪れる。そこでタッチフットボールの講習が始まった」

34Kp「実はピーター岡田以外にも、フットボールを中学で広めようという動きは日本の各地の米軍基地であった。関西では奈良(旧制奈良中学、奈良商業)、京都(日吉ヶ丘高校)、さらには山口(山口高校)などでフットボール部が生まれた。北海道の函館中学などでもフットボール部創設の動きがあったらしい。/中でも奈良は、米軍奈良キャンプの日系人・小田野中尉が熱心に指導、自ら奈良中学のグランドにこまめに足を運び、生徒とともにタッチフットボールをプレーした。この時代の奈良中学からは関西の大学フットボールで活躍する選手が多く生まれている。しかし継続した指導者に恵まれず、やがてタッチフットボール部は消えてしまう」(川口前掲書)

 

 阪神間アメリカンフットボールが根付いたのには、阪神間モダニズム(さらにはアメリカニズム)といわれた戦前からの流れがあったからかもしれません。たとえば、前出の「ピーター岡田はのちに米軍を退職し、しばらく箕面、そして宝塚に居住し、貿易関係の仕事を営んでいた。彼の母親で日系1世の秀(ひで)が敬虔なクリスチャンであり、当時、箕面市桜井でバイブルクラス(聖書学習のための家庭集会)を開いていたこともあり、ピーター岡田は北摂地区には縁があった。なお秀は自由メソジスト派のクリスチャンであり、関学高等部部長河辺満甕(かわべみつかめ)の父河辺貞吉から導きを受けている」(川口前掲書、33Kp)。

 一方「京大は沢田久雄が同志社の伊藤の指導を仰ぎながら、なんとか作り上げたチーム。ちなみに沢田の母はエリザベスサンダースホーム創始者として知られる沢田美喜である。海軍兵学校陸軍士官学校出身の選手が多く、激しい闘志を全面に出すチームだった。京都軍政部に所属していたジョン・ピンカーマン特務曹長を監督に迎え、短期間で力強いチームを作り上げた」(川口前掲書、39Kp)。

 こうした大学アメリカンフットボールの復活により、1947年には東西の代表校による甲子園ボウルが行われ、「‘48年1月17日、東京のナイル・キニック・スタジアム(戦前の明治神宮外苑競技場をこう改称していた。現在の国立競技場)で、第1回のライスボウルが行われた。関西と関東のオールスター戦が復活したのだ。ちなみにナイル・キニックとは、第2次大戦で戦死したイリノイ大学のスター選手の名前からつけられたもの」(川口前掲書、40Kp)。

 またこの1948年には、関西学院大学アメリカンフットボール部にとって、「ミスター・ローは神戸の米軍軍属であり、何度か来校してコーチをしてくれたが、対同大戦の11月27日、大型ジープにアメリカ製防具を満載して来、寄贈してくれた。そのときは部員一同、思わず歓声を挙げ、狂喜したものであった」という慶事もありました(米田満編『関西学院大学アメリカンフットボール部50年史』関西学院大学体育会アメリカンフットボール部OB会、1991年、30p)。

 占領期、武道は雌伏を強いられたこともあったようですが、ベースボールなどアメリカン・スポーツは人気を博していきます。そういえば、ワシントンハイツに住んでいたジャニー喜多川が、少年たちを集めて野球チームを作ったことが、ジャニーズの発端でした(その後、前回もふれたミュージカル映画ウエスト・サイド物語」をきっかけに、ショービジネスを目ざすこととなるのですが)。

 

先日(といっても4月半ば)、知人のお通夜で箕面聖苑に行った際。
中・高一緒で(一貫校ではない、たしか高校1年が同じクラス)、大学も学部は違うが一緒。
建築学科で修士まで進み、ゼネコン勤務を経て大学教員に転身し、岡山理科大から関西大学に移ったというのを、かなり前の同窓会で聞いた気がする。
関大で定年まで勤めるものだと思っていたのに、癌の進行が思いのほか早くといったことだったらしい。娘さんが一人、うちと同じくらいの年恰好に見えたが…
ご冥福をお祈りします。

 

今日は講義、院ゼミ、会議、Zoom研究会など。

 

真鍋公希『円谷英二の卓越化:特撮の社会学』ナカニシヤ出版、2024

(講義関連)アメリカ(25)戦後、文学者たちのアメリカ体験

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(25)戦後、文学者たちのアメリカ体験

 

 以前(21)にて、アイルランドのダブリンを舞台として青春映画『ザ・コミットメンツ』(1991年)に、「アイルランド人はヨーロッパの黒人だ。ダブリンの住人はアイルランドの黒人だ、俺たちノースエンドの住人はダブリンの黒人だ」といった台詞があったという話をしました。以下は1960年から61年にかけてアメリカ南部に滞在した文学者の文章です。

 

116p「私を黒人の集会に案内してくれたキビーの家はナッシュヴィルを西南に五十マイルほどはなれたフランクリンという町にあるが、「そこで五人の南軍の将軍が殺された」と彼は酸っぱいものでものみこんだように顔をしかめながら、長い指を折って一人一人の将軍の名を私に教えこもうとする。黒人差別に反対し、きわめて進歩的な意見をもっているキビーにして、そうである。これは所謂リベラルな考えを持つ人にも、保守的な人にも共通した心情であるといっていい。「南部はアメリカのアイルランドだ。南部の人たちは無益と知りながら、北部への抵抗を執拗にくりかえす」とは何を指していった言葉か私にはわからないが、南部がその重要な産業をほとんど北部の資本におさえられているという事実からも、南部人の北部への反感が単なる感傷や復讐心といったものでないことはたしかである」(『安岡章太郎全集Ⅶアメリカ感情旅行』講談社、1971年)

 

 アイルランドイングランドとの関係のように、南北戦争以来、南部は北部に虐げられてきた、南部の黒人差別について、(主として)北部の知識人、リベラルはとやかく言ってくるが、南部のことは南部で決める、放っておいてくれ、という意識がこの頃強かったのかもしれません。

 同じようにアメリカ南部におもむいた小田実は、フルブライト奨学金による留学でしたが、安岡の場合はロックフェラー財団基金による招聘でした。このロックフェラー財団創作フェローシップによって1950年代から60年代、アメリカに滞在した文学者には安岡以外にも、福田恆存大岡昇平石井桃子中村光夫阿川弘之小島信夫庄野潤三有吉佐和子江藤淳などがいたようです(金志映『日本文学の〈戦後〉と変奏される〈アメリカ〉:占領かつ文化冷戦の時代へ』ミネルヴァ書房、2019年)。

 こうしたプログラムや以前(14)でふれたCIE図書館など、アメリカからの(アメリカとの)文化外交の軌跡に関しては、渡辺靖アメリカン・センター:アメリカの国際文化戦略』(岩波書店、2008年)が包括的に取り扱っています。このようなより組織だった交流以外にも、1991年から約2年半、村上春樹プリンストン大学の客員研究員として滞米するなど、知識人・文化人のアメリカ経験や相互交流は、長い目で見たときに、われわれの「アメリカ」イメージ形成に関与していそうです。

 まぁ、ロックフェラーのフェローシップはかなり昔の話なので、今日への影響は薄いかもですが、ここでは有吉佐和子(1959~60年、ニューヨークに滞在)の『非色』(ひしょく、1967年、角川文庫)を紹介しておきます。この小説を一言でまとめると、「戦争花嫁(war bride)」たちの物語。Wikipediaには、戦争花嫁の説明として「戦時中に兵士と駐在先の住民の間で行われた結婚に言及する際に使われる言葉で、通常、兵士と結婚した相手のことを指す。主に第一次世界大戦第二次世界大戦中のものを特に指すが、他の戦争も含む」とあります。かつて、ラッパー風の外見で演歌を歌うと評判になり、NHK紅白歌合戦にも出場したジェロの祖母も横浜出身であり、祖母の影響で日本に興味を持ったのだとか(https://courrier.jp/cj/311222?gallery)。

 さて、『非色』に登場するアメリカに渡った戦争花嫁たちの夫は、アフロアメリカン、イタリア系、プエルトリカンなどでした。占領期、日本にいるときは皆一様に「アメリカ兵」でしたが、本国での夫たちは人種的な偏見・差別の中にいました。そのために生じた悲劇も、この小説の中では描かれています。

 中央公論社刊の単行本初版『非色』(1964年)には、副題として「NOT BECAUSE OF COLOR」とあります。主人公笑子は、駐留軍キャバレーの支配人と従業員として東京で知り合った頃、夫の黒い肌をあまり意識しませんでした。が、娘メアリィに向けられた日本社会の視線を考え、渡米します。しかし、ニューヨークでの夫は、東京で頼もしく思えたかつての姿ではありません。笑子も働くことでやっと暮らしていける毎日。米兵ではなくアフロアメリカンと結婚したことを、強く認識します(これは夫がイタリア系でもプエルトリコ系でも同様。そういえば両者の若者たちの抗争を描いたのが、1961年の映画「ウェスト・サイド物語」)。本質主義的に肌の色をとらえるのではなく、その社会的な関係の中で肌の色への意味づけはなされていくということで、「色のせいではない」という副題となったのだと思います。

 もうあまり読む人も少なくなったのでしょうが、いわゆる帰国子女であり、戦後南博率いる社会心理研究所にも出入りしていた有吉は、社会派文学者(『恍惚の人』『複合汚染』など)として読み返されるべき存在だと思います。Wikipediaでの有吉の記述が、「笑っていいとも」での奇行の件ばかりが目立つのは、ちょっと残念。

 

 

ゼミ卒業生(広告会社勤務)がネットの部で優勝とのこと。「ネット」が何を意味するかも分からないが、88888888888。

(講義関連)アメリカ(24) 『ヨコスカ・フリーキー』から『ベットタイムアイズ』へ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(24) 『ヨコスカ・フリーキー』から『ベットタイムアイズ』へ

 

 山田詠美は1959年に生まれ、明治大学漫画研究会に所属している時代にプロデューが決まり、主婦の友社の『ギャルコミ』に「ヨコスカ・フリーキー」(1982年3月号~83年1月号、本名の山田双葉名義)を連載します。横須賀を舞台にハーフ(黒人の父、日本人の母)のJBと女子高生との恋愛マンガです。小説家としては、1985年に「ベットタイムアイズ」――売れないクラブ歌手キムと黒人米兵スプーンとの同棲生活を描く――で文藝賞を受賞しデビュー。芥川賞の候補にもなりました(その後、1987年「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」で直木賞を受賞)。

 1986年に出版された『ヨコスカ・フリーキー』(けいせい出版)には、「アドリブパーティ」と題して手書き文字とイラストによる近況報告のページが設けられています。

 

「ねー ちょっと聞いてよお!! 赤坂のムゲンで話しかけてきたブラザーが、いやに、あたしのこと知ってんの。そしたら、前のBOY FRIENDのマリークのお兄ちゃんだったのよォ。マリークから、いつもあたしの写真を見せてもらってて、東京行ったら、絶対、あたしのこと、捜してくれっていわれてたらしいの。もー、MY SISTERっていわれて、すごーく、かわいがってもらってる もち、MAKE LOVEつきで💦 彼の名はラシャーヌ(パタリロでなくてよかった) それが、すごーくセンスのいいの、黒人ぽくいいんじゃなくて、大人のIVYで、渋いのよ。雨の日には、バーバリーのレインコートを着てくる。おにいちゃんて呼んで、甘えてます。わあん💦 JOHNごめんね。双葉っていけない子♡」

 

 JOHNは当時の山田のBOY FRIEND。

 1985年発行の家田荘子『俺の肌に群がった女たち』(2001年、祥伝社文庫)からも、元米兵のジェイムスの語りを引いておきます。

 

146p「それまで一般の女の子は、黒人の集まるディスコにでも行かないかぎり、オリンピックとかコンサートでしか私たち兄弟(ブラザー)にお目にかかることはできなかったのです。が、この年からミラージュ・ボウルが始まったんです。/三菱自動車アメリカのフットボールチームを呼んで、お祭りの中に試合をコーディネイトさせた、年に一度の華麗な催しです。/テンプル大学と、黒人のハーバードと言われたルイジアナ州立グランプリング大学が、日本で初めて、白い身体と褐色の身体をぶつけ合ったのです。/日本の女の子たちが、どちらの美に魅せられたか、もうお話しするまでもないでしょう。憑きものがとれたみたいに、急に六本木に赤坂に、もちろん立川に福生にと、ごくふつうの女の子たちが、黒人見たさにくりだしました」

 

 ミラージュ・ボウルは1977年から85年まで東京で開催されました。「憑きものがとれたみたいに」は家田による言い回しでしょうが、それ以前の「白人崇拝」が抜け落ちたということでしょうか。

 横須賀と言えば、基地に依存して生活する人々を描いた映画『豚と軍艦』(1961年)や、写真家東松照明の一連の作品があります。

 

84-5p「東松の写真では軍人相手の歓楽街ドブ板通りが横須賀の換喩として表象され、侮蔑的な表情でレンズを睨む黒人兵の姿が下から煽るようなアングルで捉えられている。ドブ板通りというのは通称で、正式な地名は横須賀本町(ほんちょう)であり、まさしく横須賀の中心地である。こともあろうにその場所が軍人相手の歓楽街というのがなんとも皮肉だ。米兵はドブ板通りを本庁の英語読みで“The Honch”と呼ぶそうだが、偶然の符丁か、“Honch(hunch)”は俗語で性交を意味する」(但馬みほ『アメリカをまなざす娘たち:水村美苗石内都山田詠美における越境と言葉の獲得』小鳥遊書房、2022)

 

 そういえば『日出いづる国の米軍:米軍の秘密から基地の遊び方まで「米軍基地の歩き方」』(メディアワークス、1998年)には「「ホンチ」に集まる女子たち」がイラスト付きで紹介されていました。

 1980年代に話を戻して、先ほど福生と出てきたので、最後にもう一つ引用をあげておきます。福生のハウスといえば村上龍限りなく透明に近いブルー」(1976年芥川賞受賞)が有名でしょうが、布袋寅泰『秘密』(幻冬舎、2006年)から。

 

96-7p「現在の福生にどれぐらい当時の面影が残っているのか俺は知らない。しかし1980年の福生は、まるでアメリカそのものだった。アメリカに基地に隣接しているから町中に外国人が溢れている。カフェやバーからは朝から晩までロック・ミュージックが大音量で流れている。欧米の払い下げ家具屋があり、米軍兵士の古着屋があり、ミリタリーショップやハンバーガーショップがあり、至る所で英語が飛び交っていた。人種も様々だった。…本来は兵士の家族が住むために建てられたものなのだが、空きが出ると日本人にも貸し出していた「ハウス」の家賃は確か1カ月5万円ほどだったと思う。決して安い家賃ではないが間取りはとても広く、「タモツ君」という名の黒の雑種犬に六畳一間を与えていたことを考えると、贅沢な暮らしだったいえるかもしれない」

 

1981年デビューまでのBOØWY雌伏期の話です。

 

 

今日は会議×2、面談など。

 

引き続き留学生からのお土産。新彊特産!

(講義関連)アメリカ(23) 戦時中、脅威であり、驚異であったアメリカ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(23) 戦時中、脅威であり、驚異であったアメリ

 

 これまで幾度となく言及してきた小田実アメリカ』(角川文庫、1962→1976年)ですが、再度その解説(室謙二)から引いておきます。

 

601-2p「大ベストセラーになり、小田実を一挙に有名にした『何でも見てやろう』は、こういう文章で始まっている。/「ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った。三年前の秋のことである。理由はしごく簡単であった。私はアメリカを見たくなったのである。要するに、ただそれだけのことであった」/この一見なにげないような気楽なポーズの文章のうらに、気負いと、重たいものがあった。/一九七一年(昭和四六年)になって小田実はこう書く。(略)「ものごころついてから、私の前にはいつでも『アメリカ』があったような気がする……私のこころ、というよりはおそらくからだの奥深いところに『アメリカ』があって、それはたとえば……文部省の発行した『民主主義』という教科書のなかの『アメリカ』、チューインガムを私に投げあたえた『アメリカ』、私のまわりに火焔をもたらし、すべてを焼きつくした『アメリカ』……」

 

 1932年生まれの小田にとって、アメリカはきわめてアンビバレントな存在でした。少国民として鬼畜米英を叩き込まれ、かつ圧倒的な物量によって厄災をもたらしたアメリカが、戦後は恩恵をもたらすものとして称揚されていきます。

 戦前のアメリカニズムの隆盛を知る、もう少し上の世代にとっては、さらに複雑な感情を抱いていました。戦時中の文学者・知識人の日記をもとに、菅原克也は次のように論じています(菅原克也「脅威と驚異としてのアメリカ」遠藤泰生編『反米:共生の代償か、闘争の胎動か』東京大学出版会、2021年)。

 

225p「大きいこと、大きくあろうとすることに本質的な性格をあらわすアメリカ。大きいがゆえに、他に及ぼす影響が、その運命を左右する存在となるアメリカ。戦中、戦後をアメリカの影の下に生きた人々のなかに、このようなアメリカを思い描いた日本人たちがいたということを、ここに確認することができるだろう。彼らがイメージとして抱いていたのは、まさに脅威と驚異という同音異義語によって表される感情と反応を引きだす、巨大なアメリカであった」

 

 アンビバレンスの感情は、アメリカという概念に対してだけではなく、その一つの象徴としてのB-29に対しても向けられていました。

 

173p「日記や懐旧談には、いま見てきたように、B-29について美しかった、あるいはきれいだったとする記述が、しばしば現れる。実際、東京上空にその姿を初めて見せたときは、晴れた晩秋の空という、飛行機を地上から観賞するにあたってうってつけの条件があった。太陽光に無塗装ジェラルミンの機体をきらめかせながら、飛行機雲を引きながら高々度を飛んでいく一機のB-29。また、撃ち上げられた高射砲弾が咲き乱れるような弾幕を形づくる。命の危険さえなければ、さぞかし美しい光景だったであろうことは容易に想像できる」(若林宣B-29の昭和史:爆撃機と空襲をめぐる日本の近現代』ちくま新書、2023年)

 

 その半年後には、とんでもない災難を東京、さらには日本全土にもたらすことになる、美しい凶器。小説の中の話ですが、その時京都で一人の若い僧侶が次のように考えていました。

 

60-1p「昭和十九年の十一月に、B-29の東京初爆撃があった当座は、京都も明日にも空襲を受けるかと思われた。京都全市が火に包まれることが、私のひそかな夢になった。この都はあまりにも古いものをそのままの形で守り、多くの神社仏閣がその中から生まれ灼熱の灰の記憶を忘れていた。…私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなものを夢みていた。ともすると早春の空のただならぬ燦めきは、地上をおおうほど巨きな斧の、すずしい刃の光りのようにも思われた。私はただその落下を待った。考える暇も与えないほどすみやかな落下を」(三島由紀夫金閣寺新潮文庫、1960年、2013年改版)

 

 この夢はかなわず敗戦を迎え、酔っぱらった米兵と「外人兵相手の娼婦だと一目でわかる真っ赤な炎いろの外套を着、足の爪も手の爪も、同じ炎いろに染めていた」女とが金閣寺ジープで乗りつけたりもします。三島(作品)とアメリカとの複雑な関係については、南相旭『三島由紀夫における「アメリカ」』(彩流社、2014年)、遠藤不比人「症候としての(象徴)天皇アメリカ:三島由紀夫の「戦後」を再読する」(遠藤編『日本表象の地政学:海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー彩流社、2014年)など参照のこと。

 とくに三島の『美しい星』は、米軍基地(の跡地)に飛来するUFOを軸に話が展開する、なんとも解釈の難しい小説で、1962年(自決する8年前)に発表されています。圧倒的な物量と民主主義の理念とで日本に優越し続けたアメリカ。三島がそれに対峙させようとした「日本」とは何だったのか。事後半世紀以上を経っても、解けない謎として存在し続けています。

 

留学生から貰ったお土産。四季の栞らしい。

 

今日は3年ゼミなど。

(講義関連)アメリカ(22)ネイティブ・アメリカンとGoro’s

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(22)ネイティブ・アメリカンとGoro’s

 

 前回取り上げた小田実アメリカ』(角川文庫、1976年、元は1962年刊)から、主人公がメキシコ旅行した際のタクシードライバーとの会話を、再度引用します。

 

215p「「だんな、合衆国のことを言うのは《アメリカ》という言葉を使うのはやめていただけませんかね」運転手はゆっくりと言った。「《アメリカ》というのは、メキシコもグァテマラもペルーもブラジルもアルゼンチンもふくめたことばですよ。あんたがいまやって来たあっちのほうでは……」彼は顎をしゃくってみせた。「ヒューストンのあるあっちのほうでは、《アメリカ》とは合衆国のことだけかも知れんが、それは奴らの身勝手というものでさ。……」」

 

 アメリカ(USA)の身勝手をもっとも強く感じてきたのは、アメリカ大陸の先住民族たちでしょう。

 続いては、2023年10月号『MEN’S CLUB』の特集「「ゴローズ」受け継がれしものVol.1」からの引用です。

 

「1939年、東京・十条で生まれた高橋吾郎(以下ゴローさん)。子どもの頃からウエスタンスタイル、特にネイティブ・アメリカンの文化に強い憧れを抱いていました。中学校のとき、湘南・葉山での臨海学校に参加したゴローさんは、レザークラフトでものづくりをしていたアメリカ軍の駐屯兵と運命的な出会いを果たす。彼からカービング(彫刻)などの技術を学び、その楽しさを知ったゴローさんは、臨海学校が終わってからも彼のもとに通い詰め、2人の交流は駐屯兵がアメリカに帰国するまで続きます。帰国の直前、ゴローさんは彼から工具を譲り受け、その後も独学で腕を磨いていきます」

 

 そして高橋吾郎は1972年に原宿に店を構え、レザー製品やアクセサリーを製作・販売していきます。

 

「幾度となく渡米したゴローさんは、サウスダコタ州を拠点とする米先住民族ラコタ族のリトルスカイファミリーと出会い、多くを学び、交流を深めていきました。そして1976年、ネーミングセレモニーの儀式を受ける。長時間にわたる儀式のなかでゴローさんはイーグルに出会い、“東から来た鷲”を意味する「イエローイーグル」というインディアンネームを拝受。1979年にはラコタ族の神聖な儀式「サンダンス」を受け、日本人で初めてネイティブ・アメリカンの仲間入りを果たしました」

 

 というわけで、Goro’sのシルバー・アクセサリーなどには、鷲や羽などのモチーフが多用されていくことになります。

 また、2023年11月号『MEN’S CLUB』の特集「「ゴローズ」受け継がれしものVol.2」で、中村ヒロキ(ヒビズム、クリエイティブディレクター)は次のように語っています。

 

「僕はアメカジブームの世代なので、15,16歳だった当時の表参道や渋谷あたりには、ゴローさんのアイテムを持っている人たちがいて。それを見ながら『かっこいいな』『欲しいな』っていう、そんな憧れの存在でしたね。原宿のショップの前を通るとたまに、出勤してきたゴローさんをお見かけしました。サビ色のバイク、確かハーレーだった思うんですが、愛犬を乗せて走る姿に『この人、すごくかっこいいな』と思って見ていました」

 

 このインタビューは「表参道に店舗を構えるインディペンデントなブランドは、今やゴローズ、そしてビズビムだけかもしれない。共に在りつづけることを、切に願う」と締められています。アメカジブームは1980年代頃のことでしょうが、原宿表参道(ないし裏原宿)がファッションストリートとして注目を集めていった1970~90年代には、多くの若者が自らのブランドをさまざまに立ち上げていました。しかしその後は、ファストファッションや高級ブランドのショップが立ち並ぶエリアとなっていきました。

 そして、手作りゆえにそれなりの値段がしたGoro’sのアイテムは、やがてその人気と希少性から高級ブランドと目されていくようになります。

 

「「goro's」扱う高級アクセサリー買取販売店社長の男 コカイン使用疑いで逮捕 自宅は“3億円の豪邸”」2024年2月29日配信(https://news.yahoo.co.jp/articles/bc4945ffdccc6c7dfd251b7f79f91006c4bcd04c)「高級アクセサリー「goro's」の買取や販売を行う会社の社長が、コカインを使用した疑いで逮捕されていたことがわかった。社長は豪華な自宅をメディアに公開するなどして知られていた。高級アクセサリーの買取販売店「DELTA one」を東京・渋谷区などで展開する会社の社長 堀内章容疑者は2月13日頃、コカインを使用した疑いが持たれている。捜査関係者によると、情報提供を受け、警視庁が堀内容疑者の尿を鑑定したところ、コカインの陽性反応が出たという。調べに対し「反省している」と話している。堀内容疑者が運営する会社は高級アクセサリー「goro's」の買取や販売を手がけていて、自宅がメディアで「3億円の豪邸」と紹介されていた」

 

 買い取り市場が成立し、その買い取り店の社長が3億の豪邸に住んでいるとは。サウスダコタラコタ族からずいぶんと遠くまで来てしまったものです。

 

(講義関連)アメリカ(21)多様なアメリカ、多様な受容(ソウル、ブルース)

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(21)多様なアメリカ、多様な受容(ソウル、ブルース)

 

 1958年に渡米した小田実の放浪記『何でも見てやろう』は1961年に出版され、ベストセラーとなりました。また1962年に小田は『アメリカ』という小説も発表しています(下記の引用は、1976年刊角川文庫版『アメリカ』より)。

 

596p「そうだろう、いろんなアメリカがあるだろう。シャーロットのアメリカ、チャーレスのアメリカ、ボッブのアメリカ、ハイネマンのアメリカ、スコット氏のアメリカ、レットのアメリカ、ユリシーズアメリカ、リチャードのアメリカ、そしてたぶん、社長のアメリカ、私自身のアメリカ――それらさまざまのアメリカは、しかし、一つなのだろう。「ユナイテッド・ステーツ」という国名が暗示するように、それらすべてを一つにまとめあげているもの、その力がそこにはあるのだろう」

 

 これだけでは何のことやらでしょうが、『アメリカ』の主人公の私(川崎登)は26歳の商社マンで、会社からMBA取得のためにアメリカ南部の大学町へと送られました。シャーロットは恋人、チャーレスは同居人の画家、ボッブはゲイの友人、ハイネマンはシャーロットの元恋人(ユダヤ人、バイセクシャル)、スコット氏は裕福な実業家(ロータリアンでKKKの疑いアリ)、レットは友人(スコット氏の甥)で、以上いずれも白人。それからユリシーズは黒人の元教師、その子リチャードは川崎を「ジャップ」と呼びます。最後の社長は、川崎をアメリカに留学させた勤務先の社長。

 それぞれのアメリカ像があり、アメリカ観があるわけです。ジョン・ストーリーが、アメリカナイゼーションをめぐる議論の問題点として、「アメリカ文化を一枚岩的だと想定」する傾向をあげていますが、たしかに要注意(ジョン・ストーリー『ポップ・カルチャー批評の理論:現代思想カルチュラル・スタディーズ』小鳥遊書房、2023、403p)。

 アメリカ的なもの、ないしアメリカ産のものにしても多種多様であって、そのグローバルな受容のあり方も、それぞれの地域によってさまざまなローカル化のバリエーションズが生じるわけです。

 たとえば、アイルランドでのアメリカのポピュラー音楽受容を描いた、映画『ザ・コミットメンツ』(1991年)。以下は、この映画をアイルランド英語の教材に用いたホームページからの引用です。https://eureka.kpu.ac.jp/~myama/worldenglishes/pdfs/the%20commitments.pdf

 

「映画の舞台は、アイルランドの首都ダブリン。労働者階級で音楽通の若者ジミー・ラビットは、バンド活動をしている知人のアウトスパンとデレクから彼らのマネージャーになって欲しいと頼まれる。彼は、かのローリング・ストーンズにも負けないビッグバンドのマネージャーになる ことを夢見て、新バンドのメンバーを集め始める。目指す音楽はソウルミュージック。ダブリンの労働者の魂を歌いあげるダブリンのソウル音楽である。やがてメンバーが集まり、バンド名を「ザ・コミットメンツ」 と決定する。コンサートを重ね評判を高めて、バンドは新聞の取材を受けるほどになる。しかし、バンドの内外で問題が起こり始め、徐々にバンド活動の雲行きが怪しくなっていき、ある日決定的な出来事が…」

 

 この「アラン・パーカーの『ザ・コミットメンツ』で語られる音楽との出会い」、さらにはアメリカ文化の受容という点から、もう少し詳しい紹介も引用しておきます。

 

272p「アイルランドの貧しい少年たちのグループは自分たちの持つ労働者階級的な感性を表現するのに相応しい音楽の形式を探し求めていたが、彼らはラジオから鳴り響くアメリカのポップ・ミュージックを、自分たちが求めるものとは違うときっぱりと拒絶していた。しかし、物語の序盤で、彼らはテレビでジェームズ・ブラウンによる彼のトレードマークたるソウル・アクトを目の当たりにする。演奏が終わると、グループのリーダーがすぐさまその出来事を、彼らのアイルランドの生活に根ざした言葉へと変換する。「俺たちはヤツみたいになるんだ。ヤツは俺たちお同じだ。アイルランド人はヨーロッパの黒人だ。ダブリンの住人はアイルランドの黒人だ、俺たちノースエンドの住人はダブリンの黒人だ。もう一度言う。はっきり言うぞ。俺たちは黒人で、プライドを持っている」。仲間たちは驚いて静かに彼の言葉を繰り返すが、彼らの唇の動きが示すのは最後の決め台詞だ。「俺たちは黒人で、プライドを持っている」。メッセージはゆっくりと腹に落ちていくが、ここではもうひとつのアメリカ文化の借用が生じており、若者たちのアイデンティティの感覚に影響している。彼らは文化的回心の儀礼における司祭の役割を担わされている」(ロブ・クルス「アメリカの大衆文化とヨーロッパの若者文化」遠藤泰生編『反米:共生の代償か、闘争の胎動か』東京大学出版会、2021年)

 

 アイルランドの白人(労働者階級)たちが、ブラックミュージックに共鳴する。そうした事例は日本(の黄色人種)の若者たちの間でも、ヒップホップ・カルチャーのはるか以前からでも存在します。ジャズやロックンロールの黒人ミュージシャンたちからの影響(1950~60年代)に次いで、1970年、二人の高校2年生が手探りでブルースへと至ります。

 

24-5p「ぼくは中学時代、ピアノとオルガンとクラシックギターを少し習っていた。内田は子供の頃から兄ちゃんのギターをいじっていて、ビートルズストーンズ、ヴァニラ・ファッジ、クリーム、ジミ・ヘン、レッド・ツェッペリンテン・イヤーズ・アフターと聴くうちに、そのアドリブにある法則があるとことに気づいて、ロックのむこうにブルースがあることを知って、自己流で、勝手にギターでブルースを弾くようになっていた。/ぼくもクリームのレコードのライナーノートに「エリック・クラプトンはBBキングなどブルースの人たちの影響を受けて……」などと書いてあるのを見て、『なるほどなあ』と思っていた。/それで、ぼくが3コードのブルース進行を弾いて、それに乗せて思いつくまま内田がブルースを弾く、ということをやってみると、これがとても面白くて、時間があれば実習室に行って二人で合奏するようになった。/ちょうどこの頃から日本でもそれまでのBBキング、フレディ・キング、アルバート・キングといった有名どころのほかに、マディ・ウォーターズバディ・ガイエルモア・ジェイムスなどなかなか手に入らなかった黒人ブルースの日本盤がいろいろと出るようになって、内田はますますブルースにのめり込むようになった」(木村充揮木村充揮伝:憂歌団のぼく、いまのぼく』K&Bパブリッシャーズ、2012年)

 

 内田勘太郎木村充揮は、大阪市立工芸高校(最寄り駅は天王寺からJR阪和線で一駅南下)で同じコースにいました。内田は心斎橋に「「板根楽器」というブルース好きにはパラダイスのようなレコード屋を見つけ」、通うようになります。

 ダブリンのノースエンドならぬ大阪下町に在日コリアン二世として生まれた木村は、内田とともにブルースバンド憂歌団を結成し、家の工場を手伝いつつ、当時隆盛をむかえつつあった京都(洛北、京大西部講堂など)のブルース・シーンで活躍していきます。そして、シカゴなどのブルース・フェスにも参加。これも一つのアメリカナイゼーションであり、一枚岩ならざるアメリカ文化(の受容)の事例でしょう。

 

文学部裏のひっそり桜。

 

アメリカンフットボール、昨日の慶応大戦、3・4年のゼミ生7人中6名がstarting membersとして名前があり、もう一人も大活躍のよし。皆元気そうでで何より。

(講義関連)アメリカ(20)クヒオ大佐、米軍に憧れた結婚詐欺師。

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(20)クヒオ大佐、米軍に憧れた結婚詐欺師。

 

 1984年6月17日付『朝日新聞』には、「化けも化けたり結婚詐欺男 金髪に染め隆鼻術、米軍人姿 「私…英王室の出」 4500万円だまし取る」という記事があります。もう少し記事を引用すると

 

「頭などを金髪に染め、整形で鼻を高くしたうえに米軍の服を着て米空軍大佐を名乗り、「私は英王室の出だ。結婚しよう」と中年の女性をだまし、計四千五百万円をだまし取った男が十六日までに警視庁三田署に詐欺の疑いで逮捕された。また同署は十六日男の自宅を手入れ、西独製ワルサー22口径ピストル一丁と、実弾二十三発を発見、押収した。この男は、取り調べた同署員も本物のアメリカ人と見間違えるほどで、過去に同じ手口の詐欺などで七回検挙されているほか、さらに結婚詐欺などの余罪があるとみて同署は追及している」
「逮捕されたのは、東京都杉並区下高井戸五丁目 無職鈴木和宏(四二)。調べでは、鈴木は五十七年十月ごろ、友人から紹介された東京都渋谷区在住の女性A子さん(五一)と交際、「自分はプリンス・ジョナ・クヒオといい、米空軍大佐だ。英国のエリザベス女王は双子で、その妹の方が私の母だ」などと身分を偽って結婚を迫った。(略)鈴木は英語は実際にほとんど話せないが、外人風イントネーションの日本語に英単語を交えてだましていた」
「着けていた米軍の制服はハワイで百五十㌦(約三万五千円)で買ったと話しているが、米大使館は同署の照会に「米軍の服ではない」と言っている。/鈴木のだまし方は、時にたどたどしい日本語を使って二世のふりをしたり(新潟市のOLのケース)、A子さんには「いまイスラエル上空の戦闘機内にいる。横田基地を中継して電話している。近く日本に行く。会ってくれ」ともっともらしく電話、そばに録音機を置いて爆音を入れるなど手の込んだもの。五十六年に結婚した本妻(四一)も、鈴木が逮捕されるまで、米軍人と思い込んでいたという」

 

 まあこれだけ面白い事件だと、当然小説となり、映画化もされました(2009年、堺雅人主演)。ちなみに「クヒオ」は、旧ハワイ国王子の名前から。カメハメハ大王の末裔とも称していたようです。

 以下は、映画の原作となった𠮷田和正『クヒオ大佐』(幻冬舎アウトロー文庫、2009年)に登場する記者の語りから。

 

36p「彼の父親や兄は公務員として無事に勤め上げた人だけど、クヒオ一人が定職に就かず、あっちへ行ったりこっちへ行ったりフラフラして、まわりに迷惑ばかり掛けている。彼の父親がポツリと漏らしたことだけど、クヒオが子供の頃、オホーツク海に面した岬に戦後のある時期、米軍の通信隊が駐屯していたそうなんです。クヒオが米軍に憧れるようになったのは、それが彼の原風景にあるのかもしれない、と父親は慨嘆していましたよ」

 

 クヒオ大佐こと鈴木和宏は、戦時中に北海道網走市に生まれたとされています。網走郡には美幌航空基地などもありますが、オホーツク海に面した岬ということは、能取岬でしょうか。近くには航空自衛隊網走分屯基地が現在もあるようです。

 鼻の整形(隆鼻術)に関して、我妻洋・米山俊直『偏見の構造:日本人の人種観』(NHKブックス、1967年)を引いておきたいと思います。

 

25-6p「アメリカ文化との接触の、規模の大きさと影響力の強さとは、明治の文明開化とか、大正の舶来尊重などの比ではなかった。それは、“接触”などという生(なま)やさしいものではなかった。アメリカ文化は、それこそ堤を切った水のように日本に流れこみ、日本を浸した。その水の上には、児童憲章からチューインガムに至るまで、アメリカ文化のあらゆる要素が、雑然と浮流していた。この大洪水の中で、日本女性の化粧も、烈しく変化した。黒い髪をオキシフルで脱色させ、黄色とも錆色ともつかぬ縮れ毛を喜ぶ異常な傾向は、さすがに一時期で消えたが、髪を(又はその一部を)紫色や赤褐色に染めることは、現在でも、一部の女性間に行われている。パーマネントは、それこそ全国津々浦々に普及し、武士が獣の毛と呼んだ縮れ毛が、珍しくなくなった」
27p「現代の日本において、白人に少しでも似ている方が、日本人の容貌にとっても好ましいと考えられているのは、二重瞼と高い鼻筋だけではない。そもそも、女性のヒップだのバストだのの寸法を取沙汰するのは、西欧の白人の間に、特にアメリカ人の間に生じた習慣である。身体上の起伏を消してしまう着物を着ていた日本の女性については、胸の大きさだの腰の細さなどが、少なくとも容姿の外見の条件としては、あまり問題にされないのが、日本の伝統であった」

 

 同書の言うように「日本の敗戦と、連合国軍の進駐につづいて、諸制度のおびただしい変革が、アメリカの指導や命令のともに、アメリカをモデルとして、行われた」(25p)なか、人々の容姿への美意識がある時期まで、欧米の人びと、とりわけ白人コーカソイドを基準としていました。クヒオ大佐≒鈴木和宏の犯罪は、営利目的という以上に、子ども頃憧れた米兵への同一化を動機としていたように思えます。

 

 

クレーン!

 

今日は研究会で大阪まで。

(講義関連)アメリカ(19)占領期の記憶点描

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(19)占領期の記憶点描

 

 ワシントンハイツ(現代々木公園)に関しては、秋尾沙戸子『ワシントンハイツ:QHQが東京に刻んだ戦後』(新潮文庫、2011年)や大泉博子『ワシントンハイツ横丁物語』(NHK出版、1993年)などあるのでふれませんが、最近不思議なところで見かけたので、まずは引用。

 

73p「いまもなお米軍宿舎のままであるワシントン・ハイツの自刃現場におとずれて見たかった。おれは電車に乗って代々木に向かった。/トランクに腰をおろして、おれは鉄条網ごしに芝生の豊かに育った丘の高みを眺めた、将校家族の幼稚園の遊び場になっているらしい自刃現場で、平和な音楽と花かざりにかこまれて金髪の幼い子供たちが遊びたわむれていた、おれは寛容な優しい気持ちになっていたので、その愛らしい外国人の子供らの幸福が楽しかった、夏の終わりの清らかな陽の光が独りぼっちのおれの微笑と、青い芝生にまいた水の銀色のしずくと、そこに遊ぶ金髪の子供のぴくぴく動きまわる小さな肩とを照らしていた。そしておれは十五年前のある夏の夜明けにそこで死んだセヴンティーン、《臍下約四糎のところを横に十五糎、深さ〇・五糎、即ち皮膚のみ》を切り《首の中央より少し下部、第五、第六頸椎間を斬つて前咽喉部の皮を一枚残せしのみ》の介錯をうけたセヴンティーンと、いま党を離れて独り自分の右翼の杜、右翼の城をみずからつくろうとしているセヴンティーンのおれとを、ただ一人の同じ人間であるように感じた」(大江健三郎「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」『大江健三郎全小説3』講談社、2018年、太字は原文傍点部)。

 

 敗戦直後、代々木練兵場で実際に集団自決がありました(木本玲一「国家と死:大東塾の集団自決を事例に」遠藤薫編『戦中・戦後日本の〈国家意識〉とアジア』勁草書房、2021年)。

 他には、山本一力『ワシントンハイツの旋風』(講談社文庫、2006年)。1948年生まれの自伝的小説ですが、主人公は中学時代からワシントンハイツへの新聞配達をはじめ、将校一家、とくに子供たちと仲よしになっていました。

 

172p「高校一年生一学期半ばの六月に、ワシントンハイツの居住者全員が、調布市飛田給(とびたきゅう)に新設された『関東村』への移住を始めた。翌年開催される東京オリンピックの選手村に、ワシントンハイツが転用されると決まっていたからである。/新聞配達は、六月末日で終了と決まった。/「ケンは、我が家の大事なゲストだ。いつでも関東村に来ていいぞ」」

 

 あと記憶の残り方としておもしろいと思ったのは、マンガ家・清原なつの(1956年生まれ、岐阜県出身)のケースで、これもまた自伝的なマンガ『じゃあまたね』(集英社、2018年)の「1969年私は英語が話せニャーン」(中学校に入り英語が苦手となったことに関する章)には、「幼稚園の頃でしょうか 愛知県犬山市の遊園地へ家族とお出かけ 一人でヒコーキ型の乗り物に乗って 乗り物が終わって両親の元へ駆け出した時」、外国人男性に不要になった遊戯券をいきなり手渡され、とっさに英語でサンキューと言えなかったというトラウマ話があります。「遊園地のあった犬山市のすぐ隣の岐阜県各務原市(ぎふけんかかみがはらし)には 戦後しばらく米軍基地がありました 岐阜にいた海兵隊は一九五六年に沖縄(おきなわ)へ移転しました 一九五六年生まれのユウコちゃんは遊園地で出会った外国人さんを なぜかアメリカ兵と記憶してます 服装も顔も何も覚えていませんが…」。

 

 本当に米兵家族が、かつて住んでいたあたりを訪ねていたのか、それとも各務原生まれの清原なつのの頭の中で、長身の白人男性は、自動的にアメリカ兵に変換されていたのか。ともかく戦後のある時期まで、外国人イコール米軍関係者、という前提が生きていたのだと思います。

 最後にもっとも個人的に気になる基地話が、小比類巻かほる『Bバリー・ストリートから』(ファンハウス、1992年)という、1967年生まれのミュージシャンの自伝的小説(青森県三沢生まれで基地のハウスで育つ)にある、小学生の頃エアフォース・カーニバルでジェームス・ブラウンのステージを見たという件です。70年代に数度来日した記録はあり、コンサートツアーのついでに基地によった可能性はあります(1973年2月5日付読売新聞「“魂の叫び屋” J・ブラウン来日」)。

 ちなみにwikipediaジェームス・ブラウン」の項には「吉田拓郎岩国基地ジェームズ・ブラウンの生ライブを観て「とにかく音が凄かった」と述懐していた(パックインミュージックTBSラジオ)1972年5月31日放送での拓郎の言及)」とあります。

 

 

 講義2回目。アイドル・ファンダムの話をします。あと、院ゼミ、面談。

(講義関連)アメリカ(18)アーニー・パイル劇場とテキサスハウス

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(18)アーニー・パイル劇場とテキサスハウス

 

 大竹省二は、女優のポートレート写真などで有名な、昭和を代表するフォトグラファーです。大竹省二『遥かなる鏡:ある写真家の証言』(東京新聞出版局、1998年)の著者略歴には、「一九二〇年(大正九年)五月十五日、静岡県生まれ。上海の東亜同文書院に学ぶ。四二年応召。四四年北京の日本大使館報道部付となる。四七年GHQ広報部嘱託としてアーニー・パイル劇場で、来日女優を撮影」とあります。日比谷のアーニー・パイル劇場(現東京宝塚劇場)は、1946年から55年まで接収され、沖縄戦線で亡くなった従軍記者アーネスト・パイルにちなんで命名されました。

 

186-7p「(支配人の)パーカーが帰国した昭和二十三年を契機に、劇場は大きく変革した。大がかりなショーはなく、日本人の出演者や新着のアメリカ映画が主流となって、舞台のスケジュールを埋めていった。/したがって、来日女優の撮影もほとんどなくなった。それは、僕の劇場における仕事の終焉を意味していることであった。…その後、アーニー・パイル劇場には、石井好子をはじめとし、美空ひばり江利チエミペギー葉山雪村いずみ高峰秀子中村哲(カナダ二世歌手兼東宝俳優)などが舞台に立った。その他多くの日本のジャズ・ミュージシャンが加わり、優秀な人材が育った。/アーニー・パイルは、そういった意味で、戦後の現代日本ポピュラーミュージックの温床ともなり、日本におけるこの世界の基盤を作った功績は大きかった。/また、従業員の中から、コメディアン、トニー谷が生まれ、事務員からファッションモデルの今井美恵子が生まれた。舞踏団からは藤田泰子が松竹のスターとなった。/アーニー・パイルの日本の踊り子たち数名は、伊藤道郎氏の主宰するモデル・エージェンシー「みゆきファッション」に移籍し、日本における最初のモデル紹介事務所となった。/オペレッタ「ミカド」を演出したジョージ・スティーブンスは、帰国後、数年たって、ジャームス・ディーン、エリザベス・テーラー主演の「ジャイアンツ」(一九五六年)のプロデューサー兼監督として名声を博した」

 

 その大竹省二が1950年代から60年代にかけて暮らした「赤坂檜町テキサスハウス」に関して、同じアパートに居住した永六輔が、当時の関係者などにインタビューしてまとめた、永六輔『赤坂檜町テキサスハウス』(朝日新聞社、2006年)という本もあります。ちなみにテキサスハウスは永がつけた愛称で、大竹などは家主の名から「花岡アパート」と呼んでいたとか。

 

15p「今はないテキサスハウスの場所。赤坂通から乃木坂を上る手前、右に乃木會館をみて左に曲がる横町の突き当たり、石の壁に寄りかかっているように建っていた木造アパート。(略)野坂昭如説だと、乃木坂周辺は移転した防衛庁の前は進駐軍のキャンプ(その前は近衛師団)。アメリカ軍将校のオンリーさんのアパートがたくさん建てられていた。/それが朝鮮戦争(一九五〇~五三年)でダンナがいなくなり、オンリーさんが手放した部屋に当時の金まわりのいい人種が引っ越し、花岡アパートもそうした建物だった」

 

 赤坂周辺にはテレビ局があり、放送作家である永六輔キノトール(パートナーはテレビでも活躍した医師・性医学評論家ドクトル・チエコ)、三木鮎郎(三木鶏郎実弟)たちや女優(草笛光子)、ジャズ歌手笈田敏夫)、映画監督(野村芳太郎)などがテキサスハウスには住んでいました。ちなみに大家・花岡太郎(作家)の子が、花岡宏行(春風亭小朝)。また、よく遊びに来ていた面々に、森徹・佐々木信也南村侑広など野球選手、ロイ・ジェームス安部譲二神吉拓郎前田武彦岸恵子飯田蝶子清川虹子江利チエミ芥川也寸志などがいたとか。

 このテキサスハウスの様子(1953年当時)について、永は「笈田宅の壁いっぱいにLPが飾ってあるが、これも米軍の放出品で、国産のLPはまだなかった時代である。何しろ、僕はテキサスハウスで、洋式便所もバスタブも初めて見かけたのだ。/見かけただけではない。逆位置でまたがって目の前のパイプにつかまって用を足した。/テキサスハウスは、僕にとって、アメリカだったのである」(35p)と語っています。そして60年安保の頃に関して、永は次のように述べています。

 

68p「反米闘争の一方で、アメリカに憧れるという不思議な時代だった。/僕自身、デモに参加しながら、ペリー・コモショーやエド・サリバンショーを勉強していた。/それはテキサスハウスに集まる人達にも影響を与えていた。/反米と親米がゴチャゴチャの時代。/戦後の混乱から抜け出せないまま、メディアはアメリカを追って展開、発展、「テレビ時代」の幕が開いた時代でもあった。/写真家はフォトグラファー。図案家はイラストレーターと呼ばれるようになり、片仮名文化が一挙に花開き、やっていることは昔のままなのに、表現がアメリカナイズされていた」

 

 今回はテレビ放送黎明期のトキワ荘的存在だった、アメリカンなアパートの話でした。

 

(講義関連)アメリカ(17)『warp MAGAZINE JAPAN』の軌跡

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(17)『warp MAGAZINE JAPAN』の軌跡

 

 スマホなどの普及により、また景気低迷による広告出稿の減少により、2010年代には雑誌の廃刊が相次ぎました。トランスワールドジャパン社の『warp MAGAZINE JAPAN』も2018年5月21日付で、同社ホームページに「休刊のお知らせ」が掲載されています(https://www.transworldjapan.co.jp/news/warp-magazine-japan/)。

 

「1996年より弊社で発行してまいりました「warp MAGAZINE JAPAN」ですが、2018年8+9月合併号(6月23日発売)をもって休刊させていただくことになりましたので、お知らせいたします。/「warp MAGAZINE JAPAN」は、アメリカ西海岸のボードカルチャー、ユースカルチャーをいち早く日本に紹介し、現在では海外へ目を向けた東京発信のファッション・ライフスタイル誌として発行を続けてまいりましたが、昨今の急激な情報源の多様化に伴う、読者や業界のニーズの変化を真摯に受け止め、このたび休刊を判断することにいたしました。」

 

 「東京発信」とありますが、もう少し限定していうと、「裏原(宿)発信」。いわゆる裏原系のムーブメントに呼応した雑誌でした。1990年代から2000年代にかけて、裏原宿エリアにファンション関連の店舗を構えた(もしくはそうした店舗に集まる)若いファッション・ディザイナーなどが「カリスマ」視され、トレンドセッターとしての役割を果たしていました。そして、ストリート系ファッション誌・ライフスタイル誌がそれら「カリスマ」をフィーチャーし、部数を伸ばしていました。

 その中の一つであるwarp誌のインタビュー記事シリーズを一冊にまとめたのが、『LIFE SUCKS:Interview with 23 Legends』(トランスワールドジャパン、2013年)です。その中から何人かのレジェンドないしカリスマの言を引いておきます。

 

大瀧ひろし(1966年生まれ、スケートボーダー、2009年8月号掲載。1980年頃、中学生だった時に都内のスケートパークが次々と潰れ、スケートボードブームは終わったと言われていた。高校に入り、唯一残った清瀬スケートパークか原宿で滑っていた)

19p「音楽は、その頃スケートボードを通じて知り合った横須賀や横田のベースのスケーターから教えてもらっていた。彼らがくれるカセットテープには、A面にマイナー・スレット、B面にブラック・フラッグ、スイサイダル・テンデンシーズとか入っていた。それを聴きまくって、『THRASHER MAGAZINE』にそのバンドの名前が出ているのを見て、「これでいいんだ」と確認をとったりしていたね。そういったスケートパンクをオンタイムで聴いていたんだけど、その後にLL・クール・Jの「I Can’t Without My Radio」を聞いたときには、パンクもこれで終わりかって雰囲気になったよね」

 

HIKARU(1968年生まれ、DJ、アメリカントイなどのグッズを扱うBOUNTY HUNTERを裏原に構える、2010年8+9月号掲載)

138-9p「生まれは長崎の佐世保。母ちゃんが米軍の基地で働いていたから、物心ついた小さな頃からベース(米軍基地)の中で遊んでいました。覚えているのが、ポップコーン。いつもポンポン!って機械が鳴っていて、今でもポップコーンの匂いを嗅ぐと、懐かしいなあという気持ちになるんですよ。あとはオモチャで遊ぶのが大好きだった。ベースの人たちがG.I.ジョーとか、まだ日本に入ってきてないものをくれたりしたんですけど、「お前、これ知っとる?」と、友達に自慢していましたね。(略)小学校の頃は、従兄弟の兄ちゃんがヤンキーで、それがカッコいいなと思っていたんですよ。不良が、というよりは見た目が他と違うじゃないですか。(略)で、小学校6年のときに従兄弟のお兄ちゃんからアナーキーとブラック・キャッツを聴かせてもらい、「ウワーッ! キターッ!!!」と。それからブラック・キャッツが好きになって、「CREAM SODA」の鞄や財布が欲しくて、小学校のときに母ちゃんにつき合ってもらって、博多まで買いに行きました」
※ブラック・キャッツ=1981年原宿のロカビリーショップ「クリームソーダ」のスタッフ6人で結成。

 

長濱治(1941年生まれ、写真家、堀内誠一もいたアド・センターを経て独立。代表作は、ヘルス・エンジェルスやブルースマンの姿を追った写真集など)

190-1p「10歳くらいのときに、その数十年後の僕がいる大きな理由を作ったものにすでに出会った。それはなにかというと進駐軍アメリカ兵が持ち込んできた、目に見える文化なんだけど。今までに見たことがないような異質なものというか。子供心に見ても、彼らの服装や姿はカッコいいなと思えるものでしたね。僕らが住んでいた小牧って町の北側に、駐屯地ができて、進駐軍ジープで右往左往していたんですよ。そこでアメリカ兵のファッションを見たり、放送で流れていたスウィングやビバップ、ブルースだとかの音楽を聴いたりして。(略)ロックンロールに出会ったのは、中学の2年のときに友達と観た「暴力教室」というグレン・フォード主演の映画で知りました」

 

𠮷田克幸(1947年生まれ、神田の「𠮷田カバン」が実家、Porter Classic代表。小学生のころアメリカのテレビ番組に影響を受け、ファッションに興味を持つ)

241-2p「情報の元っていうのが、銀座だったんですよ。だから中学校、高校の頃は毎週末、本当によく行っていましたね。その頃は、みゆき族とか、VANジャケットとかのアイビー。デニムが銀座になかったもんだから、デニムに関しては上野のアメ横へ行ってました。/その頃の銀座にはさ、GHQがあって、進駐軍とか外国の人が帝国ホテルや日活ホテルに泊まっていたりしたんですよ。そういう時代だから、とにかく銀座がなんでも一番早かった。(略)今はなくなっちゃたけど、三信ビルっていう日比谷に古いビルがあったんだけど、そこの地下に輸入雑貨があって、ほとんど毎日通ってましたね。60年代初め頃の出来事ですよ。(略)音楽は、我々の場合はエルヴィス・プレスリーから始まって、もちろんビートルズもそうだけど、アメリカのザ・バンドとかね。あとはフォークソングも大好き。ウディ・ガスリーからボブ・ディラン。もうどれも初めてだから、なにを聴いてもショックでしたね。あと、モダンジャズキャノンボール・アダレイなんかが、60年代東京へ来始めて、そういう人たちが着ているファッションにまたショックを受けた。もう初めて見るものばかりで、全部真似したいわけ。その頃僕は、アイビーよりも黒人の服装が好きだったの。だから横須賀に住んでいた友達に頼んで、黒人さんたちや兵隊さんたちがいる所へ連れてってもらったりしていましたね」

 

 親子ほどの世代間の差はあっても進駐軍や基地(を介して知ったアメリカ)にそれなりに影響をうけた人々が、1990~2010年代にストリート・ファッション誌に登場していたわけです。裏原系ファッションのソースの一つに、いつの時代のものにせよ、つねにアメリカン・カジュアルがありました。

 

さよなら、池内記念館。

 

今日は会議×2など。馬狼、面白いなぁ。岡野、すごい。