60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(18)アーニー・パイル劇場とテキサスハウス

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(18)アーニー・パイル劇場とテキサスハウス

 

 大竹省二は、女優のポートレート写真などで有名な、昭和を代表するフォトグラファーです。大竹省二『遥かなる鏡:ある写真家の証言』(東京新聞出版局、1998年)の著者略歴には、「一九二〇年(大正九年)五月十五日、静岡県生まれ。上海の東亜同文書院に学ぶ。四二年応召。四四年北京の日本大使館報道部付となる。四七年GHQ広報部嘱託としてアーニー・パイル劇場で、来日女優を撮影」とあります。日比谷のアーニー・パイル劇場(現東京宝塚劇場)は、1946年から55年まで接収され、沖縄戦線で亡くなった従軍記者アーネスト・パイルにちなんで命名されました。

 

186-7p「(支配人の)パーカーが帰国した昭和二十三年を契機に、劇場は大きく変革した。大がかりなショーはなく、日本人の出演者や新着のアメリカ映画が主流となって、舞台のスケジュールを埋めていった。/したがって、来日女優の撮影もほとんどなくなった。それは、僕の劇場における仕事の終焉を意味していることであった。…その後、アーニー・パイル劇場には、石井好子をはじめとし、美空ひばり江利チエミペギー葉山雪村いずみ高峰秀子中村哲(カナダ二世歌手兼東宝俳優)などが舞台に立った。その他多くの日本のジャズ・ミュージシャンが加わり、優秀な人材が育った。/アーニー・パイルは、そういった意味で、戦後の現代日本ポピュラーミュージックの温床ともなり、日本におけるこの世界の基盤を作った功績は大きかった。/また、従業員の中から、コメディアン、トニー谷が生まれ、事務員からファッションモデルの今井美恵子が生まれた。舞踏団からは藤田泰子が松竹のスターとなった。/アーニー・パイルの日本の踊り子たち数名は、伊藤道郎氏の主宰するモデル・エージェンシー「みゆきファッション」に移籍し、日本における最初のモデル紹介事務所となった。/オペレッタ「ミカド」を演出したジョージ・スティーブンスは、帰国後、数年たって、ジャームス・ディーン、エリザベス・テーラー主演の「ジャイアンツ」(一九五六年)のプロデューサー兼監督として名声を博した」

 

 その大竹省二が1950年代から60年代にかけて暮らした「赤坂檜町テキサスハウス」に関して、同じアパートに居住した永六輔が、当時の関係者などにインタビューしてまとめた、永六輔『赤坂檜町テキサスハウス』(朝日新聞社、2006年)という本もあります。ちなみにテキサスハウスは永がつけた愛称で、大竹などは家主の名から「花岡アパート」と呼んでいたとか。

 

15p「今はないテキサスハウスの場所。赤坂通から乃木坂を上る手前、右に乃木會館をみて左に曲がる横町の突き当たり、石の壁に寄りかかっているように建っていた木造アパート。(略)野坂昭如説だと、乃木坂周辺は移転した防衛庁の前は進駐軍のキャンプ(その前は近衛師団)。アメリカ軍将校のオンリーさんのアパートがたくさん建てられていた。/それが朝鮮戦争(一九五〇~五三年)でダンナがいなくなり、オンリーさんが手放した部屋に当時の金まわりのいい人種が引っ越し、花岡アパートもそうした建物だった」

 

 赤坂周辺にはテレビ局があり、放送作家である永六輔キノトール(パートナーはテレビでも活躍した医師・性医学評論家ドクトル・チエコ)、三木鮎郎(三木鶏郎実弟)たちや女優(草笛光子)、ジャズ歌手笈田敏夫)、映画監督(野村芳太郎)などがテキサスハウスには住んでいました。ちなみに大家・花岡太郎(作家)の子が、花岡宏行(春風亭小朝)。また、よく遊びに来ていた面々に、森徹・佐々木信也南村侑広など野球選手、ロイ・ジェームス安部譲二神吉拓郎前田武彦岸恵子飯田蝶子清川虹子江利チエミ芥川也寸志などがいたとか。

 このテキサスハウスの様子(1953年当時)について、永は「笈田宅の壁いっぱいにLPが飾ってあるが、これも米軍の放出品で、国産のLPはまだなかった時代である。何しろ、僕はテキサスハウスで、洋式便所もバスタブも初めて見かけたのだ。/見かけただけではない。逆位置でまたがって目の前のパイプにつかまって用を足した。/テキサスハウスは、僕にとって、アメリカだったのである」(35p)と語っています。そして60年安保の頃に関して、永は次のように述べています。

 

68p「反米闘争の一方で、アメリカに憧れるという不思議な時代だった。/僕自身、デモに参加しながら、ペリー・コモショーやエド・サリバンショーを勉強していた。/それはテキサスハウスに集まる人達にも影響を与えていた。/反米と親米がゴチャゴチャの時代。/戦後の混乱から抜け出せないまま、メディアはアメリカを追って展開、発展、「テレビ時代」の幕が開いた時代でもあった。/写真家はフォトグラファー。図案家はイラストレーターと呼ばれるようになり、片仮名文化が一挙に花開き、やっていることは昔のままなのに、表現がアメリカナイズされていた」

 

 今回はテレビ放送黎明期のトキワ荘的存在だった、アメリカンなアパートの話でした。

 

(講義関連)アメリカ(17)『warp MAGAZINE JAPAN』の軌跡

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(17)『warp MAGAZINE JAPAN』の軌跡

 

 スマホなどの普及により、また景気低迷による広告出稿の減少により、2010年代には雑誌の廃刊が相次ぎました。トランスワールドジャパン社の『warp MAGAZINE JAPAN』も2018年5月21日付で、同社ホームページに「休刊のお知らせ」が掲載されています(https://www.transworldjapan.co.jp/news/warp-magazine-japan/)。

 

「1996年より弊社で発行してまいりました「warp MAGAZINE JAPAN」ですが、2018年8+9月合併号(6月23日発売)をもって休刊させていただくことになりましたので、お知らせいたします。/「warp MAGAZINE JAPAN」は、アメリカ西海岸のボードカルチャー、ユースカルチャーをいち早く日本に紹介し、現在では海外へ目を向けた東京発信のファッション・ライフスタイル誌として発行を続けてまいりましたが、昨今の急激な情報源の多様化に伴う、読者や業界のニーズの変化を真摯に受け止め、このたび休刊を判断することにいたしました。」

 

 「東京発信」とありますが、もう少し限定していうと、「裏原(宿)発信」。いわゆる裏原系のムーブメントに呼応した雑誌でした。1990年代から2000年代にかけて、裏原宿エリアにファンション関連の店舗を構えた(もしくはそうした店舗に集まる)若いファッション・ディザイナーなどが「カリスマ」視され、トレンドセッターとしての役割を果たしていました。そして、ストリート系ファッション誌・ライフスタイル誌がそれら「カリスマ」をフィーチャーし、部数を伸ばしていました。

 その中の一つであるwarp誌のインタビュー記事シリーズを一冊にまとめたのが、『LIFE SUCKS:Interview with 23 Legends』(トランスワールドジャパン、2013年)です。その中から何人かのレジェンドないしカリスマの言を引いておきます。

 

大瀧ひろし(1966年生まれ、スケートボーダー、2009年8月号掲載。1980年頃、中学生だった時に都内のスケートパークが次々と潰れ、スケートボードブームは終わったと言われていた。高校に入り、唯一残った清瀬スケートパークか原宿で滑っていた)

19p「音楽は、その頃スケートボードを通じて知り合った横須賀や横田のベースのスケーターから教えてもらっていた。彼らがくれるカセットテープには、A面にマイナー・スレット、B面にブラック・フラッグ、スイサイダル・テンデンシーズとか入っていた。それを聴きまくって、『THRASHER MAGAZINE』にそのバンドの名前が出ているのを見て、「これでいいんだ」と確認をとったりしていたね。そういったスケートパンクをオンタイムで聴いていたんだけど、その後にLL・クール・Jの「I Can’t Without My Radio」を聞いたときには、パンクもこれで終わりかって雰囲気になったよね」

 

HIKARU(1968年生まれ、DJ、アメリカントイなどのグッズを扱うBOUNTY HUNTERを裏原に構える、2010年8+9月号掲載)

138-9p「生まれは長崎の佐世保。母ちゃんが米軍の基地で働いていたから、物心ついた小さな頃からベース(米軍基地)の中で遊んでいました。覚えているのが、ポップコーン。いつもポンポン!って機械が鳴っていて、今でもポップコーンの匂いを嗅ぐと、懐かしいなあという気持ちになるんですよ。あとはオモチャで遊ぶのが大好きだった。ベースの人たちがG.I.ジョーとか、まだ日本に入ってきてないものをくれたりしたんですけど、「お前、これ知っとる?」と、友達に自慢していましたね。(略)小学校の頃は、従兄弟の兄ちゃんがヤンキーで、それがカッコいいなと思っていたんですよ。不良が、というよりは見た目が他と違うじゃないですか。(略)で、小学校6年のときに従兄弟のお兄ちゃんからアナーキーとブラック・キャッツを聴かせてもらい、「ウワーッ! キターッ!!!」と。それからブラック・キャッツが好きになって、「CREAM SODA」の鞄や財布が欲しくて、小学校のときに母ちゃんにつき合ってもらって、博多まで買いに行きました」
※ブラック・キャッツ=1981年原宿のロカビリーショップ「クリームソーダ」のスタッフ6人で結成。

 

長濱治(1941年生まれ、写真家、堀内誠一もいたアド・センターを経て独立。代表作は、ヘルス・エンジェルスやブルースマンの姿を追った写真集など)

190-1p「10歳くらいのときに、その数十年後の僕がいる大きな理由を作ったものにすでに出会った。それはなにかというと進駐軍アメリカ兵が持ち込んできた、目に見える文化なんだけど。今までに見たことがないような異質なものというか。子供心に見ても、彼らの服装や姿はカッコいいなと思えるものでしたね。僕らが住んでいた小牧って町の北側に、駐屯地ができて、進駐軍ジープで右往左往していたんですよ。そこでアメリカ兵のファッションを見たり、放送で流れていたスウィングやビバップ、ブルースだとかの音楽を聴いたりして。(略)ロックンロールに出会ったのは、中学の2年のときに友達と観た「暴力教室」というグレン・フォード主演の映画で知りました」

 

𠮷田克幸(1947年生まれ、神田の「𠮷田カバン」が実家、Porter Classic代表。小学生のころアメリカのテレビ番組に影響を受け、ファッションに興味を持つ)

241-2p「情報の元っていうのが、銀座だったんですよ。だから中学校、高校の頃は毎週末、本当によく行っていましたね。その頃は、みゆき族とか、VANジャケットとかのアイビー。デニムが銀座になかったもんだから、デニムに関しては上野のアメ横へ行ってました。/その頃の銀座にはさ、GHQがあって、進駐軍とか外国の人が帝国ホテルや日活ホテルに泊まっていたりしたんですよ。そういう時代だから、とにかく銀座がなんでも一番早かった。(略)今はなくなっちゃたけど、三信ビルっていう日比谷に古いビルがあったんだけど、そこの地下に輸入雑貨があって、ほとんど毎日通ってましたね。60年代初め頃の出来事ですよ。(略)音楽は、我々の場合はエルヴィス・プレスリーから始まって、もちろんビートルズもそうだけど、アメリカのザ・バンドとかね。あとはフォークソングも大好き。ウディ・ガスリーからボブ・ディラン。もうどれも初めてだから、なにを聴いてもショックでしたね。あと、モダンジャズキャノンボール・アダレイなんかが、60年代東京へ来始めて、そういう人たちが着ているファッションにまたショックを受けた。もう初めて見るものばかりで、全部真似したいわけ。その頃僕は、アイビーよりも黒人の服装が好きだったの。だから横須賀に住んでいた友達に頼んで、黒人さんたちや兵隊さんたちがいる所へ連れてってもらったりしていましたね」

 

 親子ほどの世代間の差はあっても進駐軍や基地(を介して知ったアメリカ)にそれなりに影響をうけた人々が、1990~2010年代にストリート・ファッション誌に登場していたわけです。裏原系ファッションのソースの一つに、いつの時代のものにせよ、つねにアメリカン・カジュアルがありました。

 

さよなら、池内記念館。

 

今日は会議×2など。馬狼、面白いなぁ。岡野、すごい。

(講義関連)アメリカ(16)城山三郎とフラワー・ムーブメント

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(16)城山三郎とフラワー・ムーブメント

 

 作家・城山三郎と言えば、経済小説の草分け的存在で、歴史小説なども多く、どちらかといえば重厚な作風で、中高年男性向けといったイメージが私にはあります。ですが、1967年(当時城山は41歳)に出版された『ヒッピー発見 アメリカ細密旅行』(毎日新聞社)は、4カ月半にわたり北米をバスで駆け巡った紀行文となります。

 船でサンフランシスコに着いた城山がまず目にしたのは、「ヒッピー族」の群れでした。

 

36p「美しいサンフランシスコの街に下りた私に、最も衝撃的だったのはビートの大群であった。私は啞然とし、同時に下船時の感慨をたしかめられる思いもした。…ビート、またはビートニクという言葉の意味そのものもあいまいであるが、このごろではヒッピー(hippie)と呼ぶ。「ビート」では獣的な感じがあるからと、彼ら自身でそう改称したというのだが、この由来もまたはっきりしない」

 

 ビートの由来は、1950年代に隆盛した文学運動「ビート(ジェネレーション)」から。ビートニクスたちの愛した音楽は、ジャズでした。一方、60年代に入っての「ヒッピー(ムーブメント)」は、そこに新たなサイケデリック・ロックなどの要素が加わり、ベビーブーマーの巨大な人口の塊、泥沼化するベトナム戦争(に対する反戦運動)、公民権運動、反資本主義(自然回帰)の思潮などが絡まりあい、大きなうねりとなっていました。

 

37p「ヒッピーの大群に襲われたサンフランシスコでは、この夏にはヒッピーの数が十万を越すかも知れぬとして(同市の人口は八十万)、市長がその抑制措置をとると二、三日前発表したところだという。/ハイトに近づくと、なるほど、いるわ、いるわ。ヒッピーのトレード・マークである肩に垂れる蓬髪(ほうはつ)が、路上にあふれていた。金色(ブロンド)、亜麻(あま)色、栗(くり)色、にんじん色……」

 

 文中「ハイト」とあるのは、ヘイト・アシュベリー。Wikipediaには

 

Haight-Ashbury is a district of San Francisco, California, named for the intersection of Haight and Ashbury streets. It is also called The Haight and The Upper Haight. The neighborhood is known as one of the main centers of the counterculture of the 1960s.

 

 とあります。再度、城山の文章を引きます。

 

50-1p「アシュベリ通りに折れて、わたしはあっと思った。眼の前の公園に黒々と人だかり。ヒッピーたちの大群がそこにいた。おんぼろトラックの上で、バンドが演奏している。そのまわりをびっちり埋めつくし、公衆便所の屋根にまで上っている。/そのヒッピーたちの服装の多様さ。目近に見ると、細部にまで趣向をこらし、一人として同じ服装はない。音楽がたかまると、大群衆の一部が躍り出した。手をつないで盆踊りふうに踊り出す一群もあれば、男女が組になって踊るのもある。ロウソクをにぎって踊る女もある。顔は桜色に染まり、息をあえがせ、眼を夢見るよう。男と女が互いに、息を吸わんばかりに重なり合い、性的陶酔そのままである。市民たちが、とまどい、きょとんとした顔つきで見つめているが、彼らの陶酔はさめない。/楽団の長い演奏が終わると、こんどはいくつかの小グループが、あそこの木陰、ここの草むらといったふうに陣取ってそれぞれの演奏をはじめる。「地獄の天使」と呼ばれるオートバイにまたがる乱暴者たちも来ていたが、その一人がヒッピーといっしょに踊り出し「あんたもどう?」としきりに市民を誘い出す。ついにパン屋のおやじさんふうの男が「そうか、そうか」といわんばかりに踊り出して拍手がわく。/アメリカの村祭りである。すべてがキリストの昔に帰ったような、のびやかなふんい気である。物質文明によって失われたものが、そこにある。日の暮れるのが惜しまれた」

 

 楽団(=バンド)や地獄の天使(=ヘルス・エンジェルス)と言った言い回し以外にも、落伍(ドロップアウト)や愛頑動物用(ペット)(←愛玩か?)などのルビやLSDによる「目下旅行中(ジャスト・トラベリング)」といった表現など、なかなか味わい深いです。愛知学芸大学(現愛知教育大学)にて教員の職歴も持つ城山にとってはカルチャー・ショックの連続だったのでしょう。

 ヒッピーたちの集まる禅の講演会にも出かけたとのことで、同書には「ヒッピー族の新聞「オラクル」に出ていた般若心経」の図版も掲載されています。

 

「願はくはこの功徳を以つてあまねく一切に及ぼし我等と衆生とみなともに仏道をなさんことを

NEGA WA KU WA KONO KUDOKU O MOTTE AMANEKU ISSAI NI OYOBOSHI WARERA TO SHUJO TO NINATOMO NI BUTSUDO O JYO ZEN KO TO O

What we prey, this merit with universally all existence pervade we and sentient being all with Buddhism achieve」

 

 なるほど。こうした動き――対抗文化(カウンターカルチャー)や精神世界(ニューエイジ)、エコロジーフェミニズムetc.――は日本にも伝わり、各地にコミューンができたり、新宿界隈に「フーテン族」「アングラ族」「サイケ族」と呼ばれる若者たちが出現したり、影響を受けたバンドが族生したり(「フラワー・トラベリング・バンド」「めんたんぴん」「村八分」「裸のラリーズ」「外道」「カルメンマキ&OZ」「ブルース・クリエイション」「ファニー・カンパニー」「センチメンタル・シティ・ロマンス」「サンハウス」…)。

 占領期には「アメリカ」の存在が全世代にインパクトを与えたのに比して、60年代にはアメリカが「団塊の世代」を直撃したと言えそうです。

 

150人中の一名として寄稿してます。

 

今日は知人の葬儀など。

(講義関連)アメリカ(15)恵比寿のアメリカ橋と英連邦軍キャンプ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(15)恵比寿のアメリカ橋と英連邦軍キャンプ

 

 「半グレ」という言葉を知っていても、グレの語源である「愚連隊」を知らない人もいるかもしれません。愚連隊という言葉自体は戦前からあったようですが、より社会的に広まったのは戦後の混乱期でした。闇市などグレイゾーンな領域を、組織というよりも個人の腕力や才覚で仕切っていた、今の言葉で言えば「反社会的勢力」でした。なかでも渋谷を拠点に、トレードマークの白いスーツ姿で名をはせた花形敬は伝説的な存在として語り継がれています。

 

172p「アメリカ軍が代々木に、イギリス連邦軍が恵比寿にそれぞれ進駐するにおよび、その周辺にいかがわしい職業の女性が増加し、彼女らの手を通じて、アメリカの物資も次第にこれらのヤミ市へ流れるとともに、一方、配給機構が整備し、或いはアメリカ軍からの食糧放出によって、区民の食生活が一応安定してくると、これらの露天商人たちは次第に焼けあとの空地一帯に、長屋式のマーケットを作り始めたのである」
262p「花形は宇都宮刑務所で離婚を経験する。/「くるみ」で千鶴子と一緒に働いていた池田の表現によると、彼女はエリザベス・テーラーを日本的にしたような色白の女性で、背は小柄だがバストとヒップが張り出していてコケットリーがあり、彼女がついた客のなかには一万円、二万円と法外な勘定をとられても、またやってくるものがいたという。/池田は「くるみ」で働くうち、「ジャポック屋」と呼ばれていたJAPOC(米占領軍)ナンバーの米車を扱うディーラーと組んで、売り手と買い手のあいだの橋渡し役をするようになる。当時、米軍の平均的な値段は一台三千五百ドル前後で、商談がまとまると双方から百ドルの報酬がもらえた。/そういう副業の関係で、「くるみ」には日系二世が何人か客として出入りしていた。その中のフタガミという将校が千鶴子と愛し合う仲になり、結婚話へと進んだのである。/そのためには花形と千鶴子が離婚しなければならない」(本田靖春『疵(きず):花形敬とその時代』ちくま文庫、2009年)

 

 花形の所属した安藤組率いる安藤昇も「渋谷の米軍ハイツは俺のシマだった」と語るような人物で(『日出づる国の米軍』メディアワークス、1998年)、のちに俳優に転身しています

 それはさておき、アメリカ軍が現・代々木公園のワシントンハイツに入る一方、英連邦軍は今の防衛装備庁艦艇装備研究所であるエビスキャンプに入りました。主力はオーストラリア軍だったとか。1946年5月5日付『読売新聞』には「呉進駐の濠洲軍部隊一千名は三日夜呉を出発、東京に向ひ宮城一帯の警衙に就く予定である、なほ英聯邦軍の東京司令部は日本郵船ビル及び元海軍大学校内におかれる」とあります。日本郵船ビルは日比谷・有楽町にほど近い丸の内二丁目、海軍大学校は恵比寿の隣の目黒駅近くの上大崎にありました。エビスキャンプにいつ入ったのかはまだ調べられていませんが、英連邦軍の東京における拠点は、城南の恵比寿~目黒界隈だったようです。『重ね地図シリーズ東京 マッカーサーの時代編』(光村推古書院編集部、2015年)には、目黒駅付近に「英連邦軍東京病院」「バックナーアパート家族宿舎」とあります。バックナーとは、沖縄戦で戦死したサイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア中将(米陸軍)由来でしょうか。このあたりもまだ調べがついていません。なお、目黒雅叙園も接収され、駐留軍将校宿舎となっていたとか。

 

222-3p「一九四八(昭和二三)年、松尾は中華料理店中華殿を全面改築し、ダンスホールを備えたハイカラなホテルを建設した。「ホテルが有名になったのは、進駐軍がホールを使い始めてからでした。進駐軍の軍人さんの社交場になっていたんです。あのころは、帝国ホテルと並び称されるほどの評判のホテルでした。おかげでホテルは、進駐軍からホールや部屋の賃貸料がどんどん入るようになり、レストランの売り上げもケタ違いでいた。なにせ終戦間もないころはハイパーインフレで、円なんか紙屑(かみくず)同然。そんなころ、進駐軍の支払いはすべてドルでしたから、当時にしてみれば、大変な儲けだったんです」/…やがて雅叙園観光ホテルは、日本におけるアメリカンジャズの発祥の地と呼ばれるようになる」(森功許永中 日本の闇を背負い続けた男』講談社+α文庫、2010年)

 

 話を恵比寿に戻して、エビスキャンプからJR線恵比寿駅に向かうと「アメリカ橋(恵比寿南橋)」があります。エビスキャンプとなにやら関係ありそうにも思いましたが、wikipediaによると「もともとはアメリセントルイスで1904年に開催されたセントルイス万国博覧会に展示されていたものであった。それを日本の鉄道作業局(当時)が買い取り、鉄製の橋のモデル橋として1906年明治39年)に現在地に架設したことが愛称の由来である」とのこと。

 日本麦酒醸造会社の工場(のちのサッポロビール恵比寿工場)が竣工したのは1887年。そのヱビスビールは、1904年のセントルイス万国博覧会にてグランプリを獲得したのだとか。直接アメリカ橋とは関係ないのでしょうが、戦前のアメリカニズムの盛り上がりを、こんなところでも感じられます。

 なお、先ほどの新聞記事に「呉進駐」とあるように、英連邦軍は中国・四国地区の武装解除などを担当(千田武志『英連邦軍の日本進駐と展開』御茶の水書房、1997年)。「はだしのゲン」に、ゲンが広島市内で米兵に捕らえられ、米軍基地内にて取り調べを受けたシーンがあるが、時期的には英連邦軍でないとおかしい、という説があります(未確認。はだしのゲン、部屋のどこかに全巻揃えてあるはずなので、探索してみます)。いずれにせよ、当時それだけ「進駐軍・駐留軍=アメリカ」というイメージが強かったことの証左ではあります。

 

 

娘の通う大学の元学長さんの本ということで、パラパラめくってみる。
大学院生時代、獣医師の資格を持っているということで「ぼくは、大学がある堺市内の動物病院で「動物のお医者さん」として稼ぐことにした。堺は、商人と刃物と千利休の町だ。そして、どういうわけか闘犬を飼う人が多い町でもあった」とある。
いや、大阪府立大(現大阪公立大)近くで育った者にとって、「どういうわけか」とはならない。
高校時代、郷土史研究の部活のようなことをしていて、旧堺市内(土居川=環濠内)をフィールドワークと称してうろついていたが、今はそうは言わないのだろうけど「組事務所」前を通る際、「兄ちゃんら、ちゃんと勉強してるかぁ⤴」とやたらと声かけられた(NHK大河ドラマ黄金の日日」の頃)。
もっと南に行くと、軍鶏(しゃも)を闘わせることになる…

 

今日はZoom面談、会議など。

(講義関連)アメリカ(14)CIEの映画と堀内誠一のデザインと

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(14)CIEの映画と堀内誠一のデザインと

 

 占領期のアメリカの文化的影響に関して、GHQ民間情報教育局(CIE、Civil Information and Education Section)の存在は、土屋由香・吉見俊哉編『占領する眼・占領する声:CIE/USIS映画とVOAラジオ』(東京大学出版会、2012年)をはじめ、近年研究の進展をみていますが、まだなかなかその全貌がみえてこないところがあります。

 

108p「占領期にGHQ民間情報教育局(CIE)の肝煎りで積極的に展開された公民館運動は、戦後民主主義の実験的な拠点となったもので、大島渚の『白昼の通り魔』(一九六六年)が、公民館を戦後民主主義の挫折のシンボルとして苦く郷愁を込めて描いたことが思い出される」
108-9p「短編教育映画は、占領期のCIE映画(ナトコ映画)以来、市民的公共圏を形成するためのメディアとして大きな役割を担ってきた。日本製CIE映画の『わが街の出来事』」(シュウ・タグチ・プロ、CIENo.189、一九五〇年)は鎌倉市のゴミ問題を住民たちが民主的な手順を踏んで解決するフィルムで当時好評を博した」
(中村秀之「原水爆、家長、嫁:『生きものの記録』(一九五五年)における「私」の自壊」ミツワ・ワダ・マルシアーノ編『「戦後」日本映画論:一九五〇年代を読む』青弓社、2012年)

 

 ナトコ映画は、映写機(National Company製)の名称から。多くの社会教育的なフィルムが作られ、全国を巡回していきます。また、人々への啓蒙・啓発という点では、CIEはPR(パブリック・リレーションズ、広報活動)の普及にも足跡を残しています。(https://www.jsccs.jp/publishing/files/19th_004.pdf

 それから図書館事業。1945年の早々から、CIEは動き始めます(マイケル・K・バックランド『イデオロギーと図書館:日本の図書館復興を期して』樹村房、2021年)。

 

67p「CIEは、内幸町の当時放送会館と呼ばれていた。旧NHKの建物を接収していた。11月15日会館の108号室にパンフレットを中心とした小規模な図書館が開館した。翌1946年3月CIEは日比谷にあった日東紅茶の喫茶室を接収して、図書館が移転し、利用者中心のサービスを開始して瞠目され、盛んに利用された。都内ばかりでなく、地方からの利用者も少なくなかった。その後、CIEは人口20万以上の17の市にインフォメーション・センターを設置する方針を立て、着々と実行に移していった」(今まど子「CIEインフォメーション・センターの図書館サービスについて:九州編」図書館学会年報41-2、1995)https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajsls/41/2/41_67/_pdf/-char/ja

 

 たとえば、2024年3月15日付『朝日新聞』「語る―人生の贈り物 編集工学者・松岡正剛5」には、中学生時代(松岡は1944年生まれ)に「京都の「アメリカ文化センター」に行って、向こうの新聞を見た。ニューヨーク・タイムズとかワシントン・ポストとか。それがものすごくかっこよく見えて、新聞や雑誌というメディアに関心をもちました」とあるのも、この流れです。また、グラフィックデザインの領域で活躍したアートディレクターなどについて調べていると、このCIEの図書館などで洋雑誌をみて勉強したという証言をよく見かけます。

 CIEとは関係ないですが、以下の堀内誠一氏の回想も大変興味深いです。堀内誠一は戦後すぐに伊勢丹宣伝部に入り、その後ファッション関連のグラフィックデザインを手がけ、最後は平凡出版(現マガジンハウス)にてさまざまな雑誌の創刊に関わり、日本の今日的なファッション誌のデザインの原型をつくった人として有名です(絵本画家としても有名で、代表作は「ぐるんぱのようちえん」)。

 

72p「伊勢丹の建物は戦災をまぬがれたビルの数少ないひとつでしたら、三階から上は進駐軍に接収されていました」
72-3p「沢山あったのは、倉庫に積まれた、戦前戦中のさまざまの資料で、広告関係の物置には戦前の『フレンチ・ヴォーグ』や『イリュストラシォン』誌や美術書、図案集の類いが、洋服部や呉服部関係にはスタイルブックや意匠図案、柄見本などが山とあり、ある倉庫には戦前のマネキン人形置場というか捨て場で、ジョセフィン・ベーカーまがいの金塗りの人形、アーキペンコの彫刻のような流線型の時代離れした人形たちがほこりをかぶっており、それはSF映画スター・ウォーズ』の中古ロボットの奴隷船のなかのようでした。エンサイクロペディアのなかに住んでいるようなもので、営繕係の人を別とすれば、私ほどこの建物の隅から隅までを家ネズミのようにもぐり廻って楽しんだ人間もいないでしょう。」
73-4p「新しいデザインの資料、外国雑誌もふんだんに取り寄せられて、『エスクワイヤ』誌が新進デザイナーのポール・ランドの手で誌面が一新されるのを見るなど体験でき、進駐軍の見終わったパルプマガジンをドサッともらってくることもできたのです」
堀内誠一『父の時代・私の時代:わがエディトリアル・デザイン史』ちくま文庫、2023(原著1979年)

 

 新宿伊勢丹は、1933年にオープン。戦前は「モダン」の震源地として、戦後はファッションの伊勢丹として名を馳せ、1960年代ティーン向けのコーナーも充実していました(高野光平・難波功士編『テレビ・コマーシャルの考古学:昭和30年代のメディアと文化』世界思想社、2010年)。いつの間にか、三越伊勢丹となってしまいましたが…。

 

 

立て看文化、残ってほしいもんだ。

 

シナン・アラル『デマの影響力』ダイヤモンド社、2022

(講義関連)アメリカ(13)庄助(1950年生)10歳とモデルガン

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(13)庄助(1950年生)10歳とモデルガン

 

 このシリーズの2回目に述べたように、1950年代から60年代初頭にかけて、アメリカのテレビドラマが日本のお茶の間(←死語)に溢れていました。8回目にも引いた山口瞳江分利満氏の優雅な生活』は、長男「庄助」とモデルガンのエピソードから始まります。

 

「少年はしばらくコルトに凝ったことがある。食事中も手離さず、夜も抱いて寝たが、1年経(た)って小遣(こづか)いをためてSNUB-NOSE.38を買った。私立探偵(プライベート・ディテクティブ)のつもりである。「サンセット77」というテレビ映画をご存知のかたはすぐ分るはずと思うが、上着の下に仕込むピストルである。/彼は様々にスナッブ・ノーズを発音してみた。勉強中にもときどき「スナッブ・ノーズ!」という気取った声が聞かれた」(『山口瞳大全第一巻』新潮社、1992年、11p、()内は原文ルビ、以下同様)

 

 庄助少年が辞書を引いてみたところ、「獅子鼻」と出てきて、「獅子の鼻、勇ましいネーミング!」とさらに気に入ったのですが、母親にそれは「獅子鼻(ししっぱな)」と読むのであり、獅子舞の頭のような、ぺちゃんこな鼻のことだと教えられ、一気に熱がさめていきます。江分利満氏はほぼイコール山口瞳であり、息子庄助はそのまま、作家・エッセイストの「山口正介」となります。山口正介は、1950年生まれ。10歳当時のエピソードなので、1960年から61年にかけての出来事だったのでしょう。

 アメリカの探偵ものドラマ「サンセット77」は、本国では1958年に放送開始で、日本では1960年から63年までKRT(現在のTBS)にて放送されました。その頃山口瞳が勤務していたサントリーの一社提供だったので、わざわざ番組名まで出したのでしょう。

 この頃のモデルガンブームに関して、社会学の領域で以下のような論文もあります。探偵ものというよりは、西部劇のブームによるものですが。

 

19p「テレビ西部劇を模倣してモデルガン遊びをする場合、暴力の上演は同時に「アメリカ」の上演でもある。モデルガン遊びには必然的に「アメリカ」の上演という付加がなされてしまう。これが他の暴力の上演にはみられない、モデルガン遊びに固有の特徴である。/先に述べたように、その「アメリカ」そのものは、当時の少年たちが惹きつけられてやまないものだった。だから「アメリカ」の上演という付加は、彼ら自身にとって歓迎すべきことであったにちがいない」(髙橋由典「暴力の上演:一九六〇年代初頭のモデルガンブーム」『ソシオロジ』63-3、2019年)

 

 当時はまた、少年マンガでは戦争もののブーム期でもありました。少年マンガ誌の戦争特集などを見ても、戦後生まれの少年たちにとっては、「アメリカはかつての敵というよりは、戦後的価値の体現者なのであった」(同18p)のです。

 1961年生まれの私にとって、少年誌の戦争マンガといえば「光る風」(山上たつひこ、1970年)。戦争反対の声や学生運動の盛り上がりを時代背景として、はっきり言って反戦マンガでした。以前も書いた通り母親が小田実ベトナムに平和を市民連合)と同級生だったりして、私はミリタリー趣味とは縁遠かったのですが、私の子どもの頃もプラモデルと言えば軍艦や戦車、戦闘機などなどが人気でした。私のように金閣寺や姫路城を作って喜んでいたのは極めて異端で、「宇宙戦艦ヤマト」(1974年、テレビアニメ化)にも乗りそびれていました。

 まぁそれはともかく、1960年頃、アメリカのテレビドラマが大人気で、少年たちは「アメリカ=戦後的価値の体現者」として、モデルガンを抱いて寝ていたのでした。

 

 

(講義関連)アメリカ(12)ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(12)ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ

 

 1977年、ソニーのラジカセ「MARKⅡ」の広告が、東京コピーライターズクラブのTCC賞を受賞しました。

 今だと、まずラジカセから説明する必要があるかもしれません。ラジオ&カセットテープ、の略でラジカセ。電波を受信してラジオが聞けて、磁気テープも再生できる一体型のオーディオ機器とひとまず理解しておいてください。

 キャッチフレーズは、「ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ」。また、そのセールスマニュアルには「青春の夢は、ふたたびロックロール」「あの熱狂が欲しい。あの底抜けに明るいリズムが欲しい。あの陽気で、はつらつとした踊りが欲しい。ソニー・マークⅡ」などとあります。これらを書いたコピーライターは、1947年広島市生まれ。ものごころついた頃には占領期も終わり、黄金時代のアメリカを全身に浴びて育った世代なのでしょう(海野弘『黄金の50年代アメリカ』講談社現代新書、1989年)。

 この「ジルバ」ですが、もともとは“jitterbug”。戦前からアメリカで流行していたダンススタイルです。

 

329p「「一般の日本人と米軍との親善交換パーティを行いたい」/という名目で、『セブン・マイルズ・ハウス』にマスコミを集め、ジッター・バッグを披露公開した。昭和二一年三月九日。じつに、終戦のわずか七か月後である。ジッター・バッグは、すぐに呼びやすいジルバという和製英語に名を変えて。爆発的に広がっていった。/その後サンバ(昭和二四年・美松ダンスホール)、マンボ(昭和二九年・松竹ダンスホール)、ロックン・アンド・ロール(昭和二九年・日本劇場)、チャチャチャ(昭和三一年・新橋フロリダ)、ツイスト(昭和三六年・ミス東京)など、概観するだけでも、そのまま戦後のダンス史を成している」(乗越たかお『ダンシング・オールライフ:中川三郎物語』集英社、1996年)。

 

 キューバ生まれのマンボにしても、中南米というよりはアメリカ由来のものとして意識されていたかもしれません。

 

116p「マンボは翌三〇年に全国的なブームとなった。新橋のフロリダを初めとして各地のダンスホールで講習会が開かれ、中川も日本中を飛び歩いた。/なぜか男性の「細身のズボンにリーゼント」という格好が「マンボ・スタイル」と呼ばれた。同じ頃に流行っていたロック・アンド・ロールと混同されたのだろう。一方女性は、ヘップバーン・スタイルが流行り、マリリン・モンローの来日、美人コンテストが流行するなど、終戦以来、日本人はどんどんファッショナブルになっていった」(乗越たかお『中川三郎ダンスの軌跡:STEP STEP by STEP』健友館、1999年)。

 

 そして、「ジャック&ベティ」は、1948年刊行開始の中学校向け英語教科書Jack and Betty English Step by Step(開隆堂出版)からきています。紀平健一「戦後英語教育におけるJack and Bettyの位置」『日本英語教育史研究』1998年3巻によれば当時圧倒的な採択率を誇っていたとか。(https://www.jstage.jst.go.jp/article/hisetjournal1986/3/0/3_169/_article/-char/ja/

 オールディーズブームのきっかけとなった映画「アメリカングラフィティ」の日本公開(1974年)から、ウォークマンの発売(1979年)までの間、ラジカセの周りで踊る若い男女(の表象)が、世に溢れていたわけです。1960年代初頭に流行したツイストとなるとソロダンス(の屋外での群舞)というイメージがありますが、ジルバはダンスホールでのペアダンスが基本なのでしょう。いずれにせよ、ベトナム戦争の泥沼にはまり込む前のアメリカです。

 その頃のアメリカを1977年の日本が懐かしむという構図が、「ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ」という広告から浮き彫りとなってきます。

 

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 今日は講義、院ゼミ、会議など。

(講義関連)アメリカ(11)「ハーフ」のポピュラー・イマジネーション

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(11)「ハーフ」のポピュラー・イマジネーション

 

 「ハーフ」という言葉は70年代頃から広まり始め、「ゴールデン・ハーフ」という1970年代前半に活動したメンバー全員がハーフという設定の女性アイドルグループがきっかけで、この言葉がよく使われるようになったと言われています(下地ローレンス吉孝『「ハーフ」ってなんだろう?』平凡社、2021年)。

 1961年生まれの身としては、アイ・ジョージ山本リンダ、テレビドラマ「サインはV!」のジュン・サンダース(范文雀演じる)などの存在もありつつ、「ゴールデン・ハーフ」(ないし「ゴールデン・ハーフスペシャル」)が、「ハーフ」の祖型という説は、説得的に感じます。

 そして、ハーフのイメージに関しては、「欧米系・白人系のバックグラウンドと美しい外見、英語能力や外国生活経験などの文化資本中流以上の階級イメージ(必ずしも実際に中流以上の階級とは限らないが、そのようなイメージを持つもの)がパッケージ化され、それが支配的なハーフのイメージ、つまり〈ヘゲモニックなハーフ性〉として広く流通している」(高美哿「戦後日本映画における〈混血児〉〈ハーフ〉表象の系譜」岩渕功一編『〈ハーフ〉とは誰か』青弓社、2014年、80p、太字は原文傍点)。

 この『〈ハーフ〉とは誰か』には、2011~12年に大学生に対して行われた調査結果ものっており、「ハーフ」という言葉から連想する人物としては、ベッキー、ローラ、トリンドル玲奈ウエンツ瑛士ダルビッシュ有、JOYらの名が多くあがったとか。まずは、コーカソイドとジャパニーズとの間に生まれた人が「ハーフ」、ということでしょうか。こうした調査を今行っても、大勢は変わらないような気がします(大坂なおみ、八村塁、鈴木彩艶、アントニー副島淳、関口メンディなどの名も挙がるかもですが。アジャコング、最近の大学生、ピンとこないか)。

 そして、さらに言うと、『「ハーフ」ってなんだろう?』には次のような事例があがっているように、「白人系ハーフ=アメリカ」のイメージもあると思います。

 

81p「母がスイス人で、父が日本人なんですけど、イギリスで父の仕事があって、母はそこで働いてたので、そこで私が生まれて、日本に転勤になって、日本に家族全員で移って、という感じです。…小学校ではまわりから、「ヘンな顔」って言われたり、「日本語ヘンだ」って言われたり、そういうこともありましたね。これは、あるあるだと思うんですけど、ほかのクラスからわざわざ私を見に来たりだとか。あと、いっつも「アメリカ人!」「アメリカ人!」って言われてました。海外イコール、アメリカみたいなイメージが」

 

 また、『「ハーフ」ってなんだろう?』では、アイドルグループ「ゴールデン・ハーフ」が、セクシャルなものとして商品化されていた、という話がありました。そういえば、山本リンダも、清純派路線から「お色気」にふって再ブレイクを果たす、みたいな過程を子供ながらに眺めていた記憶があります。あとは安西マリアの「ハーフ匂わせ」の売り出し方も記憶してます(青山ミチは、ギリ物心まにあわず)。「ハーフ匂わせ(実際はそうではない)」の売り方と言えば、沖縄出身の南沙織もそうだったのかも。シンシアというそのクリスチャンネームが広まり、よしだたくろうかまやつひろしに「シンシア」(1974年)というオマージュの曲もあります(沖縄(出身)などのアメリカ×アジアのハーフに対して「アメラジアン」という呼称も存在しますが、詳細はS・マーフィ重松『アメラジアンの子供たち:知られざるマイノリティ問題』集英社新書、2002年、野入直美『沖縄のアメラジアン:移動と「ダブル」の社会学的研究』ミネルヴァ書房、2022年)。

 ハーフ設定と言えば、GS「ゴールデンカップス」に関しても「長い髪の少女」(1968年)くらいは、リアルタイムな記憶に残ってます。しかし、横浜(本牧)出身ゆえのギミックだったりとか、その音楽性について知ったのは後年でした

 あと、後年掘り起こしてみたといえば、映画「小さなスナック」(1968年)。やはりGSブームの副産物ですが、爽やかな青春スターだった頃の藤岡弘(現藤岡弘、)やジュディ・オングとともに、ケン・サンダースの姿が印象的でした。未見ですが、映画「自動車泥棒」(1964年)にも安岡力也、ジョー山中とともに出演したとか。また、この「自動車泥棒」には、「非行少女ヨーコ」(1966年)トミイ役の関本太郎も出演していたよう。
 ミュージシャン、ジョー山中山口冨士夫の凄さも、後年追体験することになります。

 話、大きく逸れてしまいましたが、「ハーフ」表象を通じても、日本においてジャパニーズ以外を指す際のデファクト・スタンダードとして、「アメリカ(のとりわけホワイト)」があること、その存在感の大きさが確認できると思います。

 

 

 今日は、大阪市内にて会議。

(講義関連)アメリカ(10)「釣りバカ日記」から「漫玉日記」まで

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(10)「釣りバカ日記」から「漫玉日記」まで

 

 アメリカと「釣りバカ日記」。あまり縁がなさそうですが、以下は作者のマンガ家・北見けんいちの言です。

 

216p「アルバイトで思い出すのは、写真科の学生だった昭和35年頃に、成増にあったグラント・ハイツっていうアメリカ軍キャンプで皿洗いを1年間やったことだね。キャンプで働く日本人用の寮に入り、そこから学校にも通っていたんだ。だから1年間アメリカに留学したって気分だったよ。なにしろ、ゲートをくぐるとそこはもう外国って感じだったからね。手入れのよくいきとどいた青い芝生。舗装された広い道。赤い屋根の洋館。家と家の間が20~30mも離れてるんだ。キャンプ中には小・中・高の学校もあれば教会から映画館、スーパーマーケットと何でもあるんだよ。バス停も四つぐらいあったね。もう完全なひとつの町だったな。これが本当の文化的な生活なんだと感心したよ。昭和35年といえば、冷蔵庫、テレビ、電気洗濯機が三種の神器と呼ばれ、庶民の憧れの品だった頃で、ほとんどの人がバラックに毛の生えたような狭い家に住んでた時代だったからね。このアメリカの町は夢のまた夢みたいな気がしたんだね」(フロム・エー編集部+アルファトゥワン編『フリーター』リクルート フロム エー、1987年)

 

 グラントハイツは1947年から73年まで、東京都練馬区に存在したアメリカ空軍の家族宿舎で、現在の光が丘公園や光が丘パークタウン(大規模団地)一帯にあたります。今でこそ大江戸線光が丘駅がありますが、昔は東武東上線の下赤塚や成増が最寄り駅でした(米軍基地内への引き込み線もあって、啓志(ケーシー)線と名付けられていたとか)。

 成増出身の有名人と言えば石橋貴明がいます。ネットを検索すると、下赤塚出身の故尾崎豊と地元トークをする機会があり、二人ともグラントハイツ(跡地)で遊んだことがあるという話で盛り上がったとか。

 たしかに1965年生まれの尾崎には、「米軍キャンプ」(1985年「壊れた扉から」に収録)という曲があります。他にはラジオDJケイ・グラント(1959年生まれ)も下赤塚が地元で、芸名の由来もグラントハイツからだとか。

 さて、1961年生まれの石橋貴明ですが、同年生まれに桜玉吉がいます(私もそうです)。自身の日常を描く、私小説ならぬ、私マンガといった作風で、「漫玉日記」シリーズや「日々我人間」シリーズ(連載中)などがあります。生まれてから長らく都内(ないし都下)在住だった桜ですが、現在は伊豆に居住しており、「伊豆漫玉日記」「伊豆漫玉ブルース」「伊豆漫玉エレジー」などの単行本も出ています。その『伊豆漫玉ブルース』(KADOKAWA、2019年)に収録された四コマ・マンガ「前の車が」より(69p)。

 前の自動車のナンバープレートの下に「クルミが二個入った袋みたいな物をブラ下げていて」「犬のキンタマかよ!と思ったことがあったんだけど」「ホントにキンタマだった。アメリカのジョークグッズ「トラックナッツ」というらしい」。そして最後のコマには、「練馬のグラントハイツでアメリカ人の子供とプロレスごっこをして50年…少しは文化的に歩みよれてきてると思っていたが、やっぱりワカランアメリカンなツボ」とあります。

 1961年生まれと言っても(同じく本土で生まれ育ったとしても)、さまざまな基地経験(の有無)があるもんだと思います。そういえば、沖縄生まれの羽賀研二も同い年。いわゆる「アメラジアン」に関しては、また改めて。

 

 

 今日はゼミ説明会2回目や会議など。

(講義関連)アメリカ(9)日米関係史:禍福は糾える縄の如し

自身の取材対応仕事のリンクも貼っときます。

 

メディアの役割や広告のあり方を考える時期がきた 関西学院大学教授・難波功士さんが予測する未来のメディア社会 | メディア環境研究所|博報堂DYメディアパートナーズ

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(9)日米関係史:禍福は糾える縄の如し

 

 今回は100年単位のスパンで日米の関係性をみておきます。まずは、戦前。

 

山室信一『モダン語の世界へ』岩波新書、2021年
302-3p「もちろん、アメリカニズムとは、本来、「アメリカ的流儀」や「アメリカ的言葉遣い」や「アメリカ人気質」を意味するに過ぎなかった。しかし、モダン語では、アメリカが世界に向けて発する経済・社会システムや文化や生活様式さらには価値観そのものと理解されるに至った。/モダン語辞典でも、「アメリカニズム」についての解釈は、時を経て変わっていく。1914年刊の『外来語辞典』では単に「①米国贔屓(びいき)。②米国風。米国気質」に過ぎなかった。しかし、1925年刊の『広辞林』では「①金銭を尊重し、金銭によりて万事を解決せんとし、無遠慮にして軽便を尚(たっと)び、かつ何事に於いても世界第一を目的とする一種の物質万能主義。③趣味は低級浅薄にして、万事に派手好みなるもの」となり、1934年刊の『新語新知識』では「一にも金力、二にも金力で凡(あら)ゆるものを押しぬこう、軍艦も世界一、建物も世界一、何でも他国に負けずに遠慮会釈なくやっつけようというような、拝金的で傍若無人な態度。又、所謂(いわゆる)ヤンキー式の軽佻浮薄で、享楽的で渋味のない浅薄野卑な趣味をいう」と、その影響力の増大に比例して批判的な色合いが濃くなっていく。それは取りも直さず、アメリカの影響が、日本の生活世界に浸透していく濃度に比例するものであった。/いや、それが日本には限定されない浸透力をもって世界に広がっていることに、注意を払うことが読者に呼びかけられる。1933年刊の『モダン流行語辞典』は、「アメリカニズム」を「宣伝の国、繁栄の国、ジャーナリズムの国、映画の国、機械主義の国、大量生産の国、産業合理化の国、享楽の国、ナンセンスの国、ドルの国、フェミニストの国、ストッキングレスの国、これらのカクテールによって出来たのがアメリカ主義である。現代日本のモダンの源泉は、このアメリカであって、昨日のアメリカの流行は、今日の日本の流行となる。単にわが国のみではない。このアメリカ主義は、今や全世界を風靡(ふうび)してしまった」と、その世界化を指摘する」※( )は原文ではルビ

 

井上寿一『理想だらけの戦時下日本』ちくま新書、2013年(1939年訪日のドイツ人ジャーナリストの証言)
229p「東京や大阪のビルには「ニューヨークやシカゴとほとんど変わりなく――ネオンが輝きまたたいている」。ネオンサインによる広告術はアメリカ式だ。そのような印象を受けたロスは、日本人の精神主義とは裏腹な別の側面を指摘する。「そもそも日本人はひそかにアメリカ人やアメリカニズムを愛しているのだ」」

 

川本三郎林芙美子の昭和』新書館、2003年
148p「震災後の東京ではアメリカ文化がどっと入り込んで来る。昭和六年に出版された安藤更生の『銀座細見』には、「昨日までの銀座は、フランス文化の下にあった。今日では銀座に君臨するものはアメリカである」「今日銀座を横行するものは、モダンボーイであり、アメリカニズムである」とある」

 

 銀座とともにアメリカニズムのメッカともいうべき場所が、商都であり、日本のマンチェスターと言われた工業都市・大阪。映画「浪華悲歌(なにわえれじい)」(溝口健二監督、1936年)や「新しき土」(日独合作、原節子出世作、1937年)などからも、その活気が伝わってきます。

 そして、「鬼畜米英」の時代へ。ただし、新聞記事データベース(ヨミダス歴史館)で「鬼畜」で検索してみると、鬼畜の語は1930年代中国大陸での戦線において使われ始め、アメリカに対しては1942年に入ってからのようです(1942年1月25日付「鬼畜に等しき米人暴虐の詳報 12月20日ダバオ、比島在住邦人遭難事件」)。それ以前だと、1939年8月23日「貰子5人殺す 養育費めあて 鬼畜の反抗発覚/東京・八王子」、1941年4月17日「妻子を売って賭博 捕まった鬼畜男/東京・鬼畜」となります。

 しかし、42~45年は「鬼畜」連発。そして、敗戦後は一切見かけなくなります。松本清張の「鬼畜」(1957年)以降、その映画化などに際して、頻出するようにはなりますが。

 ともかく、敗戦後、人々のアメリカ観やアメリカへの対応は一変します。例えば出版業界では、講談社(1958年まで大日本雄弁会講談社)は、戦時中に陸軍関係の雑誌・書籍を出版する「日本報道社」を関係会社として設けていましたが、戦後一転して

 

・新海均『カッパ・ブックスの時代』河出ブックス、2013年
24p「光文社は一転して、「征旗」から「光」(一九四五年一〇月創刊・13万部)という、民主主義を称える雑誌を創刊する。「アメリカに何を学ぶか」という記事や高見順の小説、和田伝、朝比奈宗源らのエッセイ、瀧井孝作の俳句などが掲載された」

 

人々の側も

 

・Dower, John,1999,Embracing Defeat, W.W.Norton=ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて:第二次大戦後の日本人』岩波書店、2004年
120p「1945年12月、京都のある玩具メーカーが全長10センチ足らずの小さなジープのおもちゃを10円で販売した。10万個の商品がすぐに店頭から消え、玩具産業復活のささやかな前触れとなったが、この商品がアメリカそのものの象徴であったことは不思議ではない。…ジープは陽気な米兵がくれるチョコレートやチューインガムを連想させた。…子どもたちは、もはや伝統的な武士のカブトではなく、柔らかいGI帽を紙で作った」

 

 占領期、米兵たちの姿は、全国津々浦々で人々の目に焼き付いていました。当時14歳だったアニメーター大塚康生は、終戦山口市でむかえ、ジープなど占領軍の車両を克明にスケッチしていました(大塚康生ジープが町にやってきた』平凡社ライブラリー、2002年)。

 そこから高度経済成長を経て、オイルショックを乗り切ったころ、Vogel, Ezra F. 1979  Japan as Number One: Lessons for America, Harvard University press=エズラ・F・ヴォーゲル『ジャパンアズナンバーワン:アメリカへの教訓』(TBSブリタニカ、1979年)が出版されます。

 

エズラ・F・ヴォ―ゲル『ジャパンアズナンバーワン:それからどうなった』たちばな出版、2000年
81p「『ジャパンアズナンバーワン』が初めて本屋の店頭に並んだのが一九七九年のことであった。大方の予想を裏切って本の販売部数は急上昇した。アメリカ国内でハードカバーが約四万部、ペーパーバックも一〇万部ほど売れた。日本では七〇万部以上が売れて、何週間もベストセラー・リストに登場した」

 

 先行するお手本としていたアメリカ(のハーバードの教授)が「日本に学べ」と論じていることに、日本のビジネスマンなどが飛びついたということでしょう。今の目から見ると、勘違いのはじまりというか、お手本を喪失した迷走の起点というべきか。

 

 

今日は3年生ゼミなど。