60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(30)結局「アメリカ」とは何なのか

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(30)結局「アメリカ」とは何なのか

 

 1stシーズンの最後にまとめとして、そもそも「アメリカとは」を問うておきます。
 20世紀、アメリカは物質的な繁栄の象徴でした。

 

287-8p「一八〇〇年頃のイギリスの世界制覇が、第一次産業革命の賜物だったように、一九〇〇年頃に際立ち始めた合衆国の世界制覇は第二次産業革命の結果として生じたのである。/この頃、ヨーロッパがアメリカについて抱くイメージが決定的に変化した。インディアン、森の人、野生の自然、旧世界からの逃亡者や移住者を吸収した広大な空間といったイメージから、摩天楼の図像学、自動車の大群、屠殺場、冷蔵庫、蓄音機、電話、ミシン、掃除機、日々刻々と何千もの製品を吐き出すベルトコンベア、そしてすべてを操作し支配するドルの億万長者へと変わったのだ。一九〇〇年頃には、『革のストッキング』とか『白鯨』などの作品は、古いアメリカを描く「ノスタルジー文学」となっていた。高く評価され、また多く読まれたのはアプトン・シンクレアの産業小説だった。この新世界は、同時にまたヨーロッパの著書によってもとりあげられて、多くの読者を獲得した。そして、これらの著書や評論のタイトル――『アメリカのエネルギー』『アメリカの挑戦』『世界強国アメリカ』『危険なアメリカ』『アメリカの未来』など――は、アメリカの脅威を如実に物語っていた。さらには、「アメリカ化」「アメリカニズム」といった新語が日常語の一部となり始めた頃には、「アメリカ」という語はたんに国を表す語であることをやめて、物質的、ニューリッチ、未洗練、悪趣味、アンバランス、といった否定的な意味に使われることが多くなっていった」(ヴォルフガング・シヴェルブシュ『敗北の文化:敗戦トラウマ・回復・再生』法政大学出版局、2007)

 

 資本主義を批判する側からのアメリカ論として。

 

107p「こんにち、アメリカ商標のもとで普及している「新しい文化」および「新しい生活様式」を構成する諸分子は、ちょうど手探りの最初の試みでしかないのであり、それらはまだ形成されていない新しい制度から生まれた「秩序」によるのではなくて、形成されつつある新しい制度と作戦行動(いまだ破壊的で解体的な)から社会的にはじき出されたと感じ始めている諸分子の表面的でサルのようなイニシアチブによるものである。こんにち「アメリカニズム」と呼ばれているものは、大部分が形成されるはずの新しい秩序によってまさに押しつぶされるであろう古い諸階層、すでに社会的パニック、解体、絶望の波に襲われている古い諸階層による予防的批判であり、再建能力がなく変革の否定的側面だけに訴える者の無意識の反動の試みである。再建を期待できるのは、新しい秩序から「断罪された」社会諸集団ではなくて、外部からの押付けにしろ、また自らの忍耐力によるにしろ、この新しい秩序の物質的基盤をつくりだしつつある社会諸集団である。言い換えれば、後者の社会諸集団は、こんにちでは「必然」であるものを「自由」へと切り替えるために、アメリカ商標でない「独創的」な生活体系を「発見」しなければならない、ということだ」(東京グラムシ会『獄中ノート』研究会編『アントニア・グラムシ獄中ノート対訳セリエ1 ノート22アメリカニズムとフォーディズム』いりす、2006(原著1934年))

 

 批判する側も、アメリカが強力かつ魅力的な「新しい文化・生活様式」、一つの「生活体系」と認識されていました。こうした知識人たちのアメリカ観と、以下の「アメリカ」という曲の歌詞――これまでしばしば言及してきた「ウェストサイド物語」の劇中歌で、若いプエルトリカンたちのかけあい、作曲はバーンスタイン――は意外と通底していそうです。

 

I like to be in America(あたしはアメリカ暮らしが好き)
Okay by me in America(あたしとしてはアメリカは良い所)
Everything free in America(アメリカでは何だって自由だし)
For a small fee in America(アメリカでは何だって安く済む)
Buying on credit is so nice(クレジットで買い物なんてすごく素敵じゃない)
One look at us and they charge twice(俺たちのナリを見て二倍の値段を吹っかけられる)
I'll have my own washing machine(自分だけの洗濯機を買いましょ)
What will you have, though, to keep clean?(キレイにするものなんかあったっけ?)
Skyscrapers bloom in America(アメリカに聳える摩天楼)
Cadillacs zoom in America(アメリカで唸りをあげるキャデラック)
Industry boom in America(産業大国アメリカ)
Twelve in a room in America(一部屋に12人も詰め込むアメリカ)
Lots of new housing with more space(新しくて大きな家を買いましょう)
Lots of doors slamming in our face(そこかしこで入居拒否される)
I'll get a terrace apartment(テラスハウスを借りましょう)
Better get rid of your accent(まずは訛りを直さなくちゃ)
Life can be bright in America(アメリカでの人生は明るい)
If you can fight in America(辛抱できればの話)
Life is all right in America(アメリカでの暮らしは快適)
If you're all white in America.(肌が白ければの話)
Here you are free and you have pride(ここでなら自由でいられる、自信を持てる)
Long as you stay on your own side(でしゃばらなければの話)

 

 アンビバレントな語り口ですが、やはり20世紀の(白人たちの)アメリカの物質的な繁栄とその魅力は、誰もが否定できないところでしょう。

 

332p「フォルクスワーゲンのモデルとなったのが、T型フォードだった。反ユダヤ主義社で反金融資本主義者だったヘンリー・フォードが、イデオロギー的にナチズムに近かったことは、この場合、あまり関係がなかった。フォルクスワーゲン計画に決定的だったのは、大量生産される自動車という機能だった。つまり、〈サービス〉と〈魂の工場〉の一体化である。「総統(フューラー)の計画と意志と行為」の賜物として大衆に下賜されて、夢実現マシーンであるフォルクスワーゲンは、個人を体制に組み込むプロパガンダのもっとも効果的、かつ――一九四五年以降の成功が示すように――もっとも永続的な手段のひとつとなったのである」(ヴォルフガング・シヴェルブシュ前掲書)

 

 そして多様性に富む移民国家アメリカは、とどまることなく流動し続けつつ、つねに再構築を繰り返す、そのアイデンティティ希求の運動こそがアメリカらしさ(Americanness)なのかもしれません。「アメリカーナ」という音楽ジャンルなどは、それを端的に表しているように思います。

 

89-90p「カントリー、ルーツロック、フォーク、ブルーグラスR&B、ブルースなど、アメリカの様々なルーツミュージックスタイルの要素を取り入れた現代の音楽であり、その結果、元になった各ジャンルの純粋な形態とは別の形で存在している。アコースティック楽器がしばしば登場し重要な役割を果たす一方で、アメリカーナではしばしばフルエレクトリックバンドも使用される」(柴崎祐二『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす:「再文脈化」の音楽受容史』イースト・プレス、2023)

 

 

  昨日、息子とミュジーカルを観に行く。息子が三浦透子が好き、という経緯だけで、どんな作品か調べずに付き添いでいったが、公民権運動とかベトナム戦争とか、南部の信仰やらが背景にある、そんな話だった(いや、とっても、アメリカ)。三浦透子を、いまだに「鈴木先生の樺山がこんなに大きくなっちゃって」目線で追ってしまう。面白かったのだが、題材が題材なだけに、黄色人種がやるのはちょっときついと思う個所があったり、回想シーンへの切り替えにうまく対応できない箇所があったり。でも、生バンドや映像の使い方など、息子的には勉強になったよう。

 

 

周密『BLと中国』ひつじ書房、2024

(講義関連)アメリカ(29)圧倒的な食文化としてのアメリカ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(29)圧倒的な食文化としてのアメリ

 

 占領期、子供だった人たちの思い出は、つねに空腹と結びついています。1947年日本橋兜町に生まれた山口果林

 

「幼児期の思い出に、アメリカ兵の姿が色濃く焼き付いている。のちに姉から、証券取引所の立会場がGHQに接収されていたことを教えられて納得がいった。戦後生まれのわたしだが、物心ついたころも、アメリカ兵は身近な日常の一部だったのだ。アメリカ兵の制服と帽子、乗っていたジープ。お菓子も貰った」(山口果林『阿部公房とわたし』講談社、2013年、86p)

 

1943年長野に生まれた野上暁は

 

「小学三年生の時だから、一九五二年のことだ。九月二日の日記に、千曲川の河原にアメリカの兵隊が三〇台近くの車を連ねて来て、大きな釜でスコップを使ってご飯をかき回している光景を不思議そうに記している。…すでに、チョコレートやガムをばらまく時代ではなくなっていたからか、そういうことは、全く書かれていない。…米兵が、おもしろがってつきまとう子どもたちの足元に、ねずみ花火を投げつけたりしたのだ。人の家の屋根に投げあげたりもしていて大人たちもひやひやしていたが、だれもとがめだてはできなかった」(野上暁『子供文化の現代史:遊び・メディア・サブカルチャーの本流』大月書店、2015年、76p)。

 

 ミステリー小説の中でもアメリカンなケーキの思い出が、重要なカギとなっていたりします。

 

130p「戦後しばらく経ったころ、深草にはアメリカの進駐軍が駐留してました。今の『龍谷大学』に進駐軍の司令塔があったんやそうです。旧一号館図書館の二階ですわ。留学経験もあって、英語に堪能やった聡子さんは通訳として雇われはりました。そこで出会うた将校さんの家に招かれてホームメードケーキの作り方を教わらはった。最初は自宅でケーキ教室を開いてはったんですが、十年ほど前から、週に三日だけ小さな店をやってはった」(柏井壽『鴨川食堂おかわり』小学館文庫、2015年)

 

 当時の体験談に話を戻すと、もう少し年長の横山ノック(1932年、神戸生まれ)も、ハウスボーイ時代に

 

「テーブルに着き、かじりつこうとすると、ジャロリーがそれを制し、何やら得体の知らないものをぬりつけました。それがバターとシロップだと知ったのは後のことです。/おそるおそる食べて見ると――なんという味、なんという美味さ!! いや美味いなんて言葉はとてもおっつきません。この世のものとは思えないくらいの、まさに天上の極上の食べ物と形容した方がいいでしょう。いやいや、あの味はどんな言葉をもっても表現できません。/とろける甘さ、バターの風味、それに何とも言えないメイプルシロップの味わい――ぼくはこの時初めて「アメリカ」に触れたのです!/終戦以来、アメリカのおびただしい物量、巨大な機械群など、見るものすべてに驚かされてきましたが、正直に言って、この時のパンケーキの衝撃は、それらすべてを上回るものでした」(横山ノック『知事の履歴書:横山ノック一代記』太田出版、1995年、65p)

 

 そういえば同様にハウスボーイの経験のある野坂昭如の「アメリカひじき」(1967年)にて、紅茶の葉をひじきと勘違いする話を書いています。

 食のアメリカ化といえば、まずコカ・コーラ(Coca-colonization)やマクドナルド(McDonaldization)が引き合いに出されますが、同時にそれぞれの現地化(localization)もよく語られるテーマです。

 

429p「中国では、アメリカの帝国主義、資本主義的近代の約束、あるいは単純に風邪を治すための(生の生姜と一緒に煮る)飲み物ベースを意味することもありえる。この飲み物は単一の物質性を持つかもしれないが、何を意味するのかは特定の社会実践におけるその位置づけ(つまり、誰がどこでそれを消費しているのか)に依拠している。アイコン的瓶と独特の文字のデザインは世界的に識別されている事実ではあるが、一方で、コカコーラの国際的な地位を理解するためには、その物質性を超えて、物質性と意味が社会実践によって絡み合い、使用可能になった文化的なものとして扱われなければならないのである。/物質性が変化しうる意味と絡み合う別の例として、クリスマスの世界的成功が挙げられる。公的には無神論の国家である中国で、このキリスト教の祝祭がますます目立つようになってきている」
403p「グローバリゼーションを文化的アメリカ化とするモデルに関する第三の問題は、アメリカ文化を一枚岩的だと想定していることである。より用心深いグローバリゼーションの説明においてさえ、アメリカ文化と呼ばれるなにか単一のものをあきらかにできると想定されている。たとえば、ジョージ・リッツァ(1999)は、「グローバルな多様性を今後も引き続き目にするであろう一方で、そうした文化の多くが、ほとんどが、いやおそらく最終的にはすべてが、アメリカの輸出品に影響されるようになるだろう。アメリカが、事実上すべての人の「第二の文化」になる」(89)と主張している」(ジョン・ストーリー『ポップ・カルチャー批評の理論:現代思想カルチュラル・スタディーズ』小鳥遊書房、2023年)

 

 サンタクロースのイメージの普及が、コカ・コーラの広告図像と深く関連していることはよく語られるところです。また後者の引用の「ジョージ・リッツァ(1999)」は、Ritzer,G.(1999)The McDonaldization Thesis,London: Sage. (『マクドナルド化の世界:そのテーマは何か?』早稲田大学出版部、1999年)。アメリカンな食文化のグローバルな受容とともに、それぞれの地域に応じた変化を扱った本です(たとえば、テリヤキバーガー)。

 中華料理から日本で独特な発展を遂げたとされるラーメンも、

 

61p「日本でラーメンが復活したのは、アジアの同盟国に優先的に小麦の食糧援助を行うというアメリカの戦略的決定の結果だった。…アメリカ産小麦からつくられるラーメンなどの食品は、多くの日本人の飢餓を防ぐ重要な政治的機能を担った。さらに、小麦が到着したのは、日本当局とアメリカの監督者が行う食糧配給制度の機能不全と腐敗に対する抗議運動が頂点に達した、まさにそのときだった。当時、日本の共産主義指導者たちは、政府当局の食糧対策への大衆の不満を、共産党への支援に誘導しようとしていた。アメリカはこれに対して、ことあるごとに輸入小麦を宣伝し、アメリカは飢餓の時代の救済者だというイメージをつくりあげようとした」(ジョージ・ソルト『ラーメンの語られざる歴史:世界的なラーメンブームは日本の政治危機から生まれた』国書刊行会、2015年)

 

 人間の最も基本的な欲求のレベルでも、アメリカの影は遍在ないし潜在してるように思います。

 

 

 息子から映像専攻の必需品だから買ってとおねだりされたアイテム。

 

大澤昭彦『正力ドームvs.NHKタワー』新潮選書、2024

(講義関連)アメリカ(28)ヒスパニック、ラティーノ、チカーノ

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ゼミ卒業生がMAKi名義で登場。ヘッドフォンして歩いてます。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(28)ヒスパニック、ラティーノ、チカーノ

 

 すでに(22)などでもふれましたが、昔ほどではないにせよ、アメリカと言えば第一義的にWASP(ホワイト・アングロ・サクソンプロテスタント)というイメージがまだまだ強いでしょうが、2060年には人口比で白人43.6%、ヒスパニック28.6%、黒人13.0%、アジア9.1%となるとの予測もあります。https://www.nhk.or.jp/school/syakai/10min_tiri/kyouzai/001601.pdf

 

318p「アメリカは存在しなかった。四世紀にわたる労働、流血、孤独そして恐怖がこの国土をつくったのである。わたしたちがアメリカをつくり、その過程がわたしたちをアメリカ人――あらゆる人種に根ざし、あらゆる色合いをおびて、民族的には一見無秩序な新人種――につくりあげたのである。それからほんのわずかのあいだに、わたしたちは相違点よりはむしろ類似点が多くなったのである。新しい社会――偉大ではないが、「多様のなかの統一」という、偉大さを求めるわたしたちのまさにその欠陥にふさわしい社会――になったのである」
325p「二つの人種的集団が、到着、偏見、受容、そして吸収という型に従わなかった。すでにこの国にいたアメリカン・インディアンと、自分の意志でやってきたのではない黒人である」(スタイベック全集16『チャーリーとの旅 アメリカとアメリカ人』大阪教育図書株式会社、1998年)

 

 この「アメリカとアメリカ人」は1966年に出版されましたが、当時はまだまだヒスパニックへの意識は薄かったと思われます(ヒスパニックという言い方にはスペイン系の意があるので、より広くラテンアメリカ系という意でラティーノが使われることもあります)。

 また、中南米への移民は始まっていたものの、戦前の日本でもなかなかラテンアメリカは意識に上りにくかったようです。

 

212p「日本におけるタンゴブームは、ちょっと込み入った事情がある。そもそも大正一二年、永遠の二枚目ルドルフ・バレンチノの映画『血と砂』に出てきたスパニッシュ・タンゴにシビれて以来、長いこと日本人はタンゴとはスペインの踊りだと思い込んでいた。実際は「アルゼンチンを植民地としていたスペイン風にアレンジされたタンゴ」だったのだが。その後スペインの力が弱まり、アルゼンチンに強力な軍事干渉を始めたフランス・イギリスを経由して、日本にコンチネンタル・タンゴが入ってきたときも、まだタンゴはヨーロッパのものだと思っていた。当時の日本人の国際感覚からすれば、目賀田男爵などごく一部の知識人を除いて、アルゼンチンなどという国のことなど思いもよらなかったのである。当時は「アルゼンチン・タンゴ」という名のフランスのダンスと思われていたのだ」(乗越たかお『ダンシング・オールライフ:中川三郎物語』集英社、1996年)

 

 流れが変わったのは、1950年代中頃のマンボブームあたりからでしょうか。でも、「マンボは翌三〇年に全国的なブームとなった。新橋のフロリダを初めとして各地のダンスホールで講習会が開かれ、中川も日本中を飛び歩いた。/なぜか男性の「細身のズボンにリーゼント」という格好が「マンボ・スタイル」と呼ばれた。同じ頃に流行っていたロック・アンド・ロールと混同されたのだろう。一方女性は、ヘップバーン・スタイルが流行り、マリリン・モンローの来日、美人コンテストが流行するなど、終戦以来、日本人はどんどんファッショナブルになっていった」(乗越たかお『中川三郎ダンスの軌跡:STEP STEP by STEP』健友館、1999年、116p)とあるように、アメリカというフィルターのかかったマンボブームだったようです。

 西インド諸島の島々(プエルトリコキューバ、ジャマイカetc.)から、ニューヨークなどへと移民した人々からはサルサなどが広まる一方、メキシコからの移民はロサンゼルスなど西海岸・西部に多く、チカーノとしてのアイデンティティを有しています。Wikipediaのチカーノ文化の項には

 

音楽を中心とした、イーストロサンゼルスやテキサス州のチカーノ文化は特に有名である。低所得層の若者は黒人たちと交流を持ち、近接した文化圏を持つ。カリフォルニア州南部のロサンゼルス、サンディエゴなどではギャングスタとなる者もいる。チカーノ・ギャングスタ(チョロ)の特徴としては、髪を剃り、口髭を伸ばし、サングラスをかけ、さらに所属ギャングの名前やカルチャーなどのタトゥーを入れている者が多い。南カリフォルニアでは自動車産業に従事する者もおり、ローライダーと呼ばれる改造車を好んでいる。ラッパーでは、キッド・フロスト(現:フロスト)が1990年の「ラ・ラーサ」で知られている。また、ロス・ロボスなどのロックは「チカーノ・ロック」と、ティエラやロッキー・パディーヤなどのチカーノ・ソウル/R&Bは「ブラウン・アイド・ソウル」と呼ばれることもある。アメリカ南部のテキサス州を中心としたメキシコ人の音楽全般は、「テハーノ・ミュージック」(テックス・メックス)と呼ばれる。

 

 西海岸にはホットロッドと呼ばれる改造車文化(映画「アメリカングラフィティ」にも登場)がありましたが、それが白人男性文化だったのに対し、ローライダーは有色人種のものでした(少し日本でも流行しました)。音楽で言えば、黒と白だけではなくブラウンもという流れを指して「ヒスパニック・インヴェイジョン」と言ったりもします(大和田俊之『アメリ音楽史ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』講談社選書メチエ、2011年)。また、西海岸のチカーノや黒人のギャングスタイルは、‘Colors’(1988年)や‘ⅯenaceⅡsociety’(1993年)といった映画などを通じて、チーマーに次ぐ不良ファッションとして日本にも伝播します。以下はウーマンラッシュアワー中川パラダイス(1981年、大阪生まれ)の10代の頃の回顧です。 

 

168-9p「…ちょうどその時期に『池袋ウエストゲートパーク』が流行ったんですよね。で、カラーギャングってかっこいいなって思って。
――そういう世代ですよね。
自分たちが一番上の世代になったんで、みんな暴走族やめてカラーギャングやろうって言い出して、地区によって色が決まってるんですよ。僕らは淀川区なんで黄色で。黄色の服を着て悪いことするとかじゃなくて、どっかに集まって朝までしゃべってサヨナラぐらいの感じで…(略)
―― じゃあ、そんなにケンカもしてない。
ないですないです。月に1回、アメ村にカラーギャングが集まる日があったんですよ。いろんな地区の青やら黒やら赤やら白やら黄色が集まって、集まる前はみんな「色違いのヤツ見つけたら全員でボコるぞ」みたいな、気合い十分みたいな感じで行くんですけど、結局何人かと会うと知ってるヤツがいるんですよ。「おう!」ってなって、「あ、知り合いなんや」ってなると結託して、「ほかの色のヤツ見つけたらそいつらボコボコにしようぜ」ってなって、それで次また見つけたら知り合いがいて、最終的にはレインボーみたいになって団体行動するみたいな(笑)」(吉田豪『シン・人間コク宝』コアマガジン、2023年)

 

 ま、これももろもろ屈折したカタチでの、アメリカナイゼーションだと思います。

 

 

 

 この前、実家に行ったときの道中写真。星野リゾート越しのハルカス。以前、

(講義関連)アメリカ(15)恵比寿のアメリカ橋と英連邦軍キャンプ - 60歳からの自分いじり

にて堺話をしたが、高校時代、地元の選挙区でなかなか香ばしい候補がいたことを思い出した。ラジオの政見演説か何かを聞いていた際、関西新空港建設を推進する側として、「騒音公害などを心配される方もおられるようだが、技術の進歩はすさまじい。飛行機が垂直に飛び上がる技術が開発中だそうだ。そうなれば、近隣の騒音などは…」みたいな発言を耳にした。「飛行機が垂直に飛び上がる」はなかなかのパワーワードで、しばらく同級生の間ではやっていたように思う。約半世紀前の記憶。

大阪の池田組 | ミックスジャーナル

大阪5区 - 第34回衆議院議員選挙(衆議院議員総選挙)1976年12月05日投票 | 選挙ドットコム

(講義関連)アメリカ(27)DH住宅と生活空間のアメリカ化

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(27)DH住宅と生活空間のアメリカ化

 

 米兵をはじめ戦後来日した膨大な数の人々の住居に関しては、まずは接収、急ぎ改修、さらには新築と進んでいきました。これまで何度か登場した安岡章太郎の小説「ハウスガード」(1953年)では、主人公は接収家屋にて留守番をする仕事にありついています。

 さて、建築に関してですが

 

159-60p「夫婦の性愛化はまた、夫婦の器/ハコ――つまり住空間についての言説にも現れる。西川祐子は、占領期、西山夘三や浜口ミホの日本の住宅理論が「一組の夫婦とその子供たちから成る近代核家族のための容器、という住まいのコンセプト」を明瞭に打ち出したと指摘する。さらに西川は、西山の「寝食分離理論」や浜口の「脱封建性」住宅の呼びかけは、同時期のアメリカ占領軍の住宅(ディペンダントハウジング)のコンセプトと通底していたと述べる。そのコンセプトとは何か。占領軍住宅の建設に従事した日本人建築家・網戸武夫の言に耳を傾けよう。

ファミリーでなければ、ワシントンハイツには入居できないです。そうすると、そこにあるのはアメリカの生活方式です。その生活というのは、短絡的にいえば夫婦単位の生活つまりセックスです。(略)だから女性は家にいても非常にカラフルなものを着て、挑発的で、帰ってきたらいつもキスをするとか、抱き合うとか。そういう二人の行為が営まれる場所としての軍の施設であること、それは歴然としています。

つまり、日本の住宅理論家が戦前に想起し占領期に展開した住空間のコンセプトとは、同時期に占領軍の家族が営んでいたアメリア的家庭生活――「夫婦の寝室」を中心とした生活――と同様、夫婦の性愛の営みを空間的にも囲い込むことも目指すものであった」(木下千花「妻の選択:戦後民主主義的中絶映画の系譜」ミツヨ・ワダ・マルシアーノ編『「戦後」日本映画論:一九五〇年代を読む』青弓社、2012年)

 

とあるように、日本に近代的なライフスタイル、家族像をもたらすうえで、米軍住宅はそれなりのインパクトがあったようです。もちろん、戦前から住宅改良運動はいろいろありましたが(内田青蔵『アメリカ屋商品住宅:「洋風住宅」開拓史』住まいの図書館出版局、1987年)、占領・被占領という関係性の中で、アメリカンなライフスタイルはやはり圧倒的だったと思われます。

 先の引用文中に「ディペンダントハウジング」とあるのは、扶養家族との同居といった意味合いで、要するに家族で日本に駐留する世帯に対応する住宅の意です(略してDH)。ワシントンハイツは敷地面積277000坪、総戸数827戸、成増のグラントハイツは600000坪、1260戸の規模で、礼拝堂・劇場・クラブハウス・学校・PX(酒保、売店)・日本人使用人宿舎があり、グラントハイツには野球場もありました(小泉和子編『占領軍住宅の記録(上):日本の生活スタイルの原点となったデペンデントハウス』住まいの図書館出版局、1999年、52p)。また同書38pの「表2 DH建設の地域別(日本、朝鮮)家族数」によれば、総数13561(うち東京5199、横浜2830)と、やはり東京近辺に集中はしつつも、全国で建設が進んだ様子がうかがえます(ちなみに朝鮮では、ソウル、釜山、光州、大邱、大田などで計1582家族)。

 また単に家を建てるだけではなく、米軍ハウスには新たな家具調度、什器・電気機器などが持ち込まれました。

 

225p「「オフリミット」の看板を掲げた金網に囲まれた中に建つDH住宅を直接見ることができた日本人は、当時きわめて少なかった。ただ出入りの業者やメイドなどの日本人を通じて、「アメリカ人の家は暖房が効いてるから冬でも半袖を着ている」「蛇口からお湯が出る」「アメリカはレデイファーストで男も台所に立つ」などといった話が一般に伝わり、衝撃を与えた。またPXから放出される米国製日常雑貨も人々の心をとらえた。/なにしろ普通のアメリカ人の生活を直接目にするというのは、一般の日本時にとっては初めての経験である。しかも、文化的な格差はきわめて大きかったから強烈なカルチャーショックだったのである。このため必死にアメリカ文化を吸収しようとした。四七年には「アメリカに学ぶ生活造型展」が、四八年には「海外生活資料文化展」が開かれて、アメリカのモダンリビングや海外の進んだ量産日用器具が紹介された。/GHQも率先してアメリカ文化の紹介に努めた。小学校の校庭を利用して映画界を催しなどして、進んだアメリカの住宅や台所の紹介を行う一方、農村に対してはGHQ天然資源局が主導して、四七年から農林省を中心に全国的な規模で生活改善運動を展開した。これは竈の改善にみられように農村が主体で、農村に色濃く残っていた封建制度の打破が目的であったが、そこで見せられたアメリカ映画の台所やインテリアに人々は瞠目した。「よくこんな国と戦争しようとなどしたもんだ」と誰もが改めて慨嘆し、なんとかしてあんな生活がしたい、あんな家に住んでみたいと熱望した」小泉和子編『占領軍住宅の記録(下):デペンデントハウスが残した建築・家具・什器』住まいの図書館出版局、1999年)

 

 その後、米軍基地住宅も多様化していったようですが(幸まゆか『基地住宅今昔物語』日本図書刊行会、2000年)、生活様式アメリカナイゼーションの展示場として、DHハウスの住宅群は機能していきました。

 米兵をはじめ戦後来日した膨大な数の人々の住居に関しては、まずは接収、急ぎ改修、さらには新築と進んでいきました。これまで何度か登場した安岡章太郎の小説「ハウスガード」(1953年)では、主人公は接収家屋にて留守番をする仕事にありついています。

 

 

ゼミ卒業生の監督作品。広報室も対応してたくれていたこと、遅ればせながら認識。

 

 今日は町内のお仕事など。

(講義関連)アメリカ(26)アメリカン・スポーツの普及と展開

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(26)アメリカン・スポーツの普及と展開

 

 以前、米軍の接収した保養地や娯楽施設ついてふれた(8)にて、ナイル・キニック・スタジアムや米軍内のアメリカンフットボール対抗戦などについてふれました。アメリカン・スポーツとしての野球の、戦後の隆盛に関しては山室寛之『プロ野球復興史:マッカーサーから長嶋4三振まで』(中公新書、2012年)や谷川健司『ベースボールと日本占領』(京都大学学術出版会、2021年)、ボウリングに関しては笹生心太『ボウリングの社会学:〈スポーツ〉と〈レジャー〉の狭間で』(青弓社、2017年)など参照のこととして、ここではアメリカンフットボールについてふれておきます。

 アメリカンフットボールは戦前から日本に入り始め、「ベースボール→野球」ほどには普及しませんでしたが、「鎧球」「米式蹴球」として戦時中もかろうじて命脈を保っていました(ちなみにバスケットボールは籠球、バレーボールはアニメ「ハイキュー!!」でおなじみの排球)。そして敗戦。

 

30Kp「戦争直後にスポーツする余裕などなかったように思われがちだが、終戦とは「スポーツできる日々」の復活でもあった。野球、陸上、サッカーなどあらゆるスポーツが復活に向けて動き始めた。中でも、マッカーサー元帥自身が、戦争中も試合結果をいつも気にしていたと言われるフットボールは、米軍(連合軍)占領下のもと、素早い復興ぶりを見せる。/1945年10月3日、甲子園球場を連合軍(第15軍)が接収する、連合軍関西司令官は、ウイリアム・キーン少将。フットボールファンだった少将は、ただちに甲子園球場を舞台に、部隊対抗のフットボール試合を開催した。そしてこの試合に、戦前の関西の大学フットボール選手―坪井義男(関大)、井床国夫(関学)らを招待した。当時、甲子園球場周辺がイチゴ畑だったことから「ストロベリー・ボウル」と呼ばれたこの米軍の試合をきっかけに、関西の学生フットボールは復活ののろしを挙げる」(川口仁『岡部平太小伝:日本で最初のアメリカンフットボール紹介者――附改訂版関西アメリカンフットボール史』関西アメリカンフットボール協会、2004年)

 

 大学とともに、高校でもアメリカンフットボールは盛り上がりを見せ始めます。

 

32Kp(1946年9月)「大阪軍政部のピーター岡田が、フットボールのボールを持って大阪北摂の2つの中学、池田中学(現大阪府立池田高校)と豊中中学(同豊中高校)を訪れる。そこでタッチフットボールの講習が始まった」

34Kp「実はピーター岡田以外にも、フットボールを中学で広めようという動きは日本の各地の米軍基地であった。関西では奈良(旧制奈良中学、奈良商業)、京都(日吉ヶ丘高校)、さらには山口(山口高校)などでフットボール部が生まれた。北海道の函館中学などでもフットボール部創設の動きがあったらしい。/中でも奈良は、米軍奈良キャンプの日系人・小田野中尉が熱心に指導、自ら奈良中学のグランドにこまめに足を運び、生徒とともにタッチフットボールをプレーした。この時代の奈良中学からは関西の大学フットボールで活躍する選手が多く生まれている。しかし継続した指導者に恵まれず、やがてタッチフットボール部は消えてしまう」(川口前掲書)

 

 阪神間アメリカンフットボールが根付いたのには、阪神間モダニズム(さらにはアメリカニズム)といわれた戦前からの流れがあったからかもしれません。たとえば、前出の「ピーター岡田はのちに米軍を退職し、しばらく箕面、そして宝塚に居住し、貿易関係の仕事を営んでいた。彼の母親で日系1世の秀(ひで)が敬虔なクリスチャンであり、当時、箕面市桜井でバイブルクラス(聖書学習のための家庭集会)を開いていたこともあり、ピーター岡田は北摂地区には縁があった。なお秀は自由メソジスト派のクリスチャンであり、関学高等部部長河辺満甕(かわべみつかめ)の父河辺貞吉から導きを受けている」(川口前掲書、33Kp)。

 一方「京大は沢田久雄が同志社の伊藤の指導を仰ぎながら、なんとか作り上げたチーム。ちなみに沢田の母はエリザベスサンダースホーム創始者として知られる沢田美喜である。海軍兵学校陸軍士官学校出身の選手が多く、激しい闘志を全面に出すチームだった。京都軍政部に所属していたジョン・ピンカーマン特務曹長を監督に迎え、短期間で力強いチームを作り上げた」(川口前掲書、39Kp)。

 こうした大学アメリカンフットボールの復活により、1947年には東西の代表校による甲子園ボウルが行われ、「‘48年1月17日、東京のナイル・キニック・スタジアム(戦前の明治神宮外苑競技場をこう改称していた。現在の国立競技場)で、第1回のライスボウルが行われた。関西と関東のオールスター戦が復活したのだ。ちなみにナイル・キニックとは、第2次大戦で戦死したイリノイ大学のスター選手の名前からつけられたもの」(川口前掲書、40Kp)。

 またこの1948年には、関西学院大学アメリカンフットボール部にとって、「ミスター・ローは神戸の米軍軍属であり、何度か来校してコーチをしてくれたが、対同大戦の11月27日、大型ジープにアメリカ製防具を満載して来、寄贈してくれた。そのときは部員一同、思わず歓声を挙げ、狂喜したものであった」という慶事もありました(米田満編『関西学院大学アメリカンフットボール部50年史』関西学院大学体育会アメリカンフットボール部OB会、1991年、30p)。

 占領期、武道は雌伏を強いられたこともあったようですが、ベースボールなどアメリカン・スポーツは人気を博していきます。そういえば、ワシントンハイツに住んでいたジャニー喜多川が、少年たちを集めて野球チームを作ったことが、ジャニーズの発端でした(その後、前回もふれたミュージカル映画ウエスト・サイド物語」をきっかけに、ショービジネスを目ざすこととなるのですが)。

 

先日(といっても4月半ば)、知人のお通夜で箕面聖苑に行った際。
中・高一緒で(一貫校ではない、たしか高校1年が同じクラス)、大学も学部は違うが一緒。
建築学科で修士まで進み、ゼネコン勤務を経て大学教員に転身し、岡山理科大から関西大学に移ったというのを、かなり前の同窓会で聞いた気がする。
関大で定年まで勤めるものだと思っていたのに、癌の進行が思いのほか早くといったことだったらしい。娘さんが一人、うちと同じくらいの年恰好に見えたが…
ご冥福をお祈りします。

 

今日は講義、院ゼミ、会議、Zoom研究会など。

 

真鍋公希『円谷英二の卓越化:特撮の社会学』ナカニシヤ出版、2024

(講義関連)アメリカ(25)戦後、文学者たちのアメリカ体験

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(25)戦後、文学者たちのアメリカ体験

 

 以前(21)にて、アイルランドのダブリンを舞台として青春映画『ザ・コミットメンツ』(1991年)に、「アイルランド人はヨーロッパの黒人だ。ダブリンの住人はアイルランドの黒人だ、俺たちノースエンドの住人はダブリンの黒人だ」といった台詞があったという話をしました。以下は1960年から61年にかけてアメリカ南部に滞在した文学者の文章です。

 

116p「私を黒人の集会に案内してくれたキビーの家はナッシュヴィルを西南に五十マイルほどはなれたフランクリンという町にあるが、「そこで五人の南軍の将軍が殺された」と彼は酸っぱいものでものみこんだように顔をしかめながら、長い指を折って一人一人の将軍の名を私に教えこもうとする。黒人差別に反対し、きわめて進歩的な意見をもっているキビーにして、そうである。これは所謂リベラルな考えを持つ人にも、保守的な人にも共通した心情であるといっていい。「南部はアメリカのアイルランドだ。南部の人たちは無益と知りながら、北部への抵抗を執拗にくりかえす」とは何を指していった言葉か私にはわからないが、南部がその重要な産業をほとんど北部の資本におさえられているという事実からも、南部人の北部への反感が単なる感傷や復讐心といったものでないことはたしかである」(『安岡章太郎全集Ⅶアメリカ感情旅行』講談社、1971年)

 

 アイルランドイングランドとの関係のように、南北戦争以来、南部は北部に虐げられてきた、南部の黒人差別について、(主として)北部の知識人、リベラルはとやかく言ってくるが、南部のことは南部で決める、放っておいてくれ、という意識がこの頃強かったのかもしれません。

 同じようにアメリカ南部におもむいた小田実は、フルブライト奨学金による留学でしたが、安岡の場合はロックフェラー財団基金による招聘でした。このロックフェラー財団創作フェローシップによって1950年代から60年代、アメリカに滞在した文学者には安岡以外にも、福田恆存大岡昇平石井桃子中村光夫阿川弘之小島信夫庄野潤三有吉佐和子江藤淳などがいたようです(金志映『日本文学の〈戦後〉と変奏される〈アメリカ〉:占領かつ文化冷戦の時代へ』ミネルヴァ書房、2019年)。

 こうしたプログラムや以前(14)でふれたCIE図書館など、アメリカからの(アメリカとの)文化外交の軌跡に関しては、渡辺靖アメリカン・センター:アメリカの国際文化戦略』(岩波書店、2008年)が包括的に取り扱っています。このようなより組織だった交流以外にも、1991年から約2年半、村上春樹プリンストン大学の客員研究員として滞米するなど、知識人・文化人のアメリカ経験や相互交流は、長い目で見たときに、われわれの「アメリカ」イメージ形成に関与していそうです。

 まぁ、ロックフェラーのフェローシップはかなり昔の話なので、今日への影響は薄いかもですが、ここでは有吉佐和子(1959~60年、ニューヨークに滞在)の『非色』(ひしょく、1967年、角川文庫)を紹介しておきます。この小説を一言でまとめると、「戦争花嫁(war bride)」たちの物語。Wikipediaには、戦争花嫁の説明として「戦時中に兵士と駐在先の住民の間で行われた結婚に言及する際に使われる言葉で、通常、兵士と結婚した相手のことを指す。主に第一次世界大戦第二次世界大戦中のものを特に指すが、他の戦争も含む」とあります。かつて、ラッパー風の外見で演歌を歌うと評判になり、NHK紅白歌合戦にも出場したジェロの祖母も横浜出身であり、祖母の影響で日本に興味を持ったのだとか(https://courrier.jp/cj/311222?gallery)。

 さて、『非色』に登場するアメリカに渡った戦争花嫁たちの夫は、アフロアメリカン、イタリア系、プエルトリカンなどでした。占領期、日本にいるときは皆一様に「アメリカ兵」でしたが、本国での夫たちは人種的な偏見・差別の中にいました。そのために生じた悲劇も、この小説の中では描かれています。

 中央公論社刊の単行本初版『非色』(1964年)には、副題として「NOT BECAUSE OF COLOR」とあります。主人公笑子は、駐留軍キャバレーの支配人と従業員として東京で知り合った頃、夫の黒い肌をあまり意識しませんでした。が、娘メアリィに向けられた日本社会の視線を考え、渡米します。しかし、ニューヨークでの夫は、東京で頼もしく思えたかつての姿ではありません。笑子も働くことでやっと暮らしていける毎日。米兵ではなくアフロアメリカンと結婚したことを、強く認識します(これは夫がイタリア系でもプエルトリコ系でも同様。そういえば両者の若者たちの抗争を描いたのが、1961年の映画「ウェスト・サイド物語」)。本質主義的に肌の色をとらえるのではなく、その社会的な関係の中で肌の色への意味づけはなされていくということで、「色のせいではない」という副題となったのだと思います。

 もうあまり読む人も少なくなったのでしょうが、いわゆる帰国子女であり、戦後南博率いる社会心理研究所にも出入りしていた有吉は、社会派文学者(『恍惚の人』『複合汚染』など)として読み返されるべき存在だと思います。Wikipediaでの有吉の記述が、「笑っていいとも」での奇行の件ばかりが目立つのは、ちょっと残念。

 

 

ゼミ卒業生(広告会社勤務)がネットの部で優勝とのこと。「ネット」が何を意味するかも分からないが、88888888888。

(講義関連)アメリカ(24) 『ヨコスカ・フリーキー』から『ベットタイムアイズ』へ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(24) 『ヨコスカ・フリーキー』から『ベットタイムアイズ』へ

 

 山田詠美は1959年に生まれ、明治大学漫画研究会に所属している時代にプロデューが決まり、主婦の友社の『ギャルコミ』に「ヨコスカ・フリーキー」(1982年3月号~83年1月号、本名の山田双葉名義)を連載します。横須賀を舞台にハーフ(黒人の父、日本人の母)のJBと女子高生との恋愛マンガです。小説家としては、1985年に「ベットタイムアイズ」――売れないクラブ歌手キムと黒人米兵スプーンとの同棲生活を描く――で文藝賞を受賞しデビュー。芥川賞の候補にもなりました(その後、1987年「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」で直木賞を受賞)。

 1986年に出版された『ヨコスカ・フリーキー』(けいせい出版)には、「アドリブパーティ」と題して手書き文字とイラストによる近況報告のページが設けられています。

 

「ねー ちょっと聞いてよお!! 赤坂のムゲンで話しかけてきたブラザーが、いやに、あたしのこと知ってんの。そしたら、前のBOY FRIENDのマリークのお兄ちゃんだったのよォ。マリークから、いつもあたしの写真を見せてもらってて、東京行ったら、絶対、あたしのこと、捜してくれっていわれてたらしいの。もー、MY SISTERっていわれて、すごーく、かわいがってもらってる もち、MAKE LOVEつきで💦 彼の名はラシャーヌ(パタリロでなくてよかった) それが、すごーくセンスのいいの、黒人ぽくいいんじゃなくて、大人のIVYで、渋いのよ。雨の日には、バーバリーのレインコートを着てくる。おにいちゃんて呼んで、甘えてます。わあん💦 JOHNごめんね。双葉っていけない子♡」

 

 JOHNは当時の山田のBOY FRIEND。

 1985年発行の家田荘子『俺の肌に群がった女たち』(2001年、祥伝社文庫)からも、元米兵のジェイムスの語りを引いておきます。

 

146p「それまで一般の女の子は、黒人の集まるディスコにでも行かないかぎり、オリンピックとかコンサートでしか私たち兄弟(ブラザー)にお目にかかることはできなかったのです。が、この年からミラージュ・ボウルが始まったんです。/三菱自動車アメリカのフットボールチームを呼んで、お祭りの中に試合をコーディネイトさせた、年に一度の華麗な催しです。/テンプル大学と、黒人のハーバードと言われたルイジアナ州立グランプリング大学が、日本で初めて、白い身体と褐色の身体をぶつけ合ったのです。/日本の女の子たちが、どちらの美に魅せられたか、もうお話しするまでもないでしょう。憑きものがとれたみたいに、急に六本木に赤坂に、もちろん立川に福生にと、ごくふつうの女の子たちが、黒人見たさにくりだしました」

 

 ミラージュ・ボウルは1977年から85年まで東京で開催されました。「憑きものがとれたみたいに」は家田による言い回しでしょうが、それ以前の「白人崇拝」が抜け落ちたということでしょうか。

 横須賀と言えば、基地に依存して生活する人々を描いた映画『豚と軍艦』(1961年)や、写真家東松照明の一連の作品があります。

 

84-5p「東松の写真では軍人相手の歓楽街ドブ板通りが横須賀の換喩として表象され、侮蔑的な表情でレンズを睨む黒人兵の姿が下から煽るようなアングルで捉えられている。ドブ板通りというのは通称で、正式な地名は横須賀本町(ほんちょう)であり、まさしく横須賀の中心地である。こともあろうにその場所が軍人相手の歓楽街というのがなんとも皮肉だ。米兵はドブ板通りを本庁の英語読みで“The Honch”と呼ぶそうだが、偶然の符丁か、“Honch(hunch)”は俗語で性交を意味する」(但馬みほ『アメリカをまなざす娘たち:水村美苗石内都山田詠美における越境と言葉の獲得』小鳥遊書房、2022)

 

 そういえば『日出いづる国の米軍:米軍の秘密から基地の遊び方まで「米軍基地の歩き方」』(メディアワークス、1998年)には「「ホンチ」に集まる女子たち」がイラスト付きで紹介されていました。

 1980年代に話を戻して、先ほど福生と出てきたので、最後にもう一つ引用をあげておきます。福生のハウスといえば村上龍限りなく透明に近いブルー」(1976年芥川賞受賞)が有名でしょうが、布袋寅泰『秘密』(幻冬舎、2006年)から。

 

96-7p「現在の福生にどれぐらい当時の面影が残っているのか俺は知らない。しかし1980年の福生は、まるでアメリカそのものだった。アメリカに基地に隣接しているから町中に外国人が溢れている。カフェやバーからは朝から晩までロック・ミュージックが大音量で流れている。欧米の払い下げ家具屋があり、米軍兵士の古着屋があり、ミリタリーショップやハンバーガーショップがあり、至る所で英語が飛び交っていた。人種も様々だった。…本来は兵士の家族が住むために建てられたものなのだが、空きが出ると日本人にも貸し出していた「ハウス」の家賃は確か1カ月5万円ほどだったと思う。決して安い家賃ではないが間取りはとても広く、「タモツ君」という名の黒の雑種犬に六畳一間を与えていたことを考えると、贅沢な暮らしだったいえるかもしれない」

 

1981年デビューまでのBOØWY雌伏期の話です。

 

 

今日は会議×2、面談など。

 

引き続き留学生からのお土産。新彊特産!

(講義関連)アメリカ(23) 戦時中、脅威であり、驚異であったアメリカ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(23) 戦時中、脅威であり、驚異であったアメリ

 

 これまで幾度となく言及してきた小田実アメリカ』(角川文庫、1962→1976年)ですが、再度その解説(室謙二)から引いておきます。

 

601-2p「大ベストセラーになり、小田実を一挙に有名にした『何でも見てやろう』は、こういう文章で始まっている。/「ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った。三年前の秋のことである。理由はしごく簡単であった。私はアメリカを見たくなったのである。要するに、ただそれだけのことであった」/この一見なにげないような気楽なポーズの文章のうらに、気負いと、重たいものがあった。/一九七一年(昭和四六年)になって小田実はこう書く。(略)「ものごころついてから、私の前にはいつでも『アメリカ』があったような気がする……私のこころ、というよりはおそらくからだの奥深いところに『アメリカ』があって、それはたとえば……文部省の発行した『民主主義』という教科書のなかの『アメリカ』、チューインガムを私に投げあたえた『アメリカ』、私のまわりに火焔をもたらし、すべてを焼きつくした『アメリカ』……」

 

 1932年生まれの小田にとって、アメリカはきわめてアンビバレントな存在でした。少国民として鬼畜米英を叩き込まれ、かつ圧倒的な物量によって厄災をもたらしたアメリカが、戦後は恩恵をもたらすものとして称揚されていきます。

 戦前のアメリカニズムの隆盛を知る、もう少し上の世代にとっては、さらに複雑な感情を抱いていました。戦時中の文学者・知識人の日記をもとに、菅原克也は次のように論じています(菅原克也「脅威と驚異としてのアメリカ」遠藤泰生編『反米:共生の代償か、闘争の胎動か』東京大学出版会、2021年)。

 

225p「大きいこと、大きくあろうとすることに本質的な性格をあらわすアメリカ。大きいがゆえに、他に及ぼす影響が、その運命を左右する存在となるアメリカ。戦中、戦後をアメリカの影の下に生きた人々のなかに、このようなアメリカを思い描いた日本人たちがいたということを、ここに確認することができるだろう。彼らがイメージとして抱いていたのは、まさに脅威と驚異という同音異義語によって表される感情と反応を引きだす、巨大なアメリカであった」

 

 アンビバレンスの感情は、アメリカという概念に対してだけではなく、その一つの象徴としてのB-29に対しても向けられていました。

 

173p「日記や懐旧談には、いま見てきたように、B-29について美しかった、あるいはきれいだったとする記述が、しばしば現れる。実際、東京上空にその姿を初めて見せたときは、晴れた晩秋の空という、飛行機を地上から観賞するにあたってうってつけの条件があった。太陽光に無塗装ジェラルミンの機体をきらめかせながら、飛行機雲を引きながら高々度を飛んでいく一機のB-29。また、撃ち上げられた高射砲弾が咲き乱れるような弾幕を形づくる。命の危険さえなければ、さぞかし美しい光景だったであろうことは容易に想像できる」(若林宣B-29の昭和史:爆撃機と空襲をめぐる日本の近現代』ちくま新書、2023年)

 

 その半年後には、とんでもない災難を東京、さらには日本全土にもたらすことになる、美しい凶器。小説の中の話ですが、その時京都で一人の若い僧侶が次のように考えていました。

 

60-1p「昭和十九年の十一月に、B-29の東京初爆撃があった当座は、京都も明日にも空襲を受けるかと思われた。京都全市が火に包まれることが、私のひそかな夢になった。この都はあまりにも古いものをそのままの形で守り、多くの神社仏閣がその中から生まれ灼熱の灰の記憶を忘れていた。…私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなものを夢みていた。ともすると早春の空のただならぬ燦めきは、地上をおおうほど巨きな斧の、すずしい刃の光りのようにも思われた。私はただその落下を待った。考える暇も与えないほどすみやかな落下を」(三島由紀夫金閣寺新潮文庫、1960年、2013年改版)

 

 この夢はかなわず敗戦を迎え、酔っぱらった米兵と「外人兵相手の娼婦だと一目でわかる真っ赤な炎いろの外套を着、足の爪も手の爪も、同じ炎いろに染めていた」女とが金閣寺ジープで乗りつけたりもします。三島(作品)とアメリカとの複雑な関係については、南相旭『三島由紀夫における「アメリカ」』(彩流社、2014年)、遠藤不比人「症候としての(象徴)天皇アメリカ:三島由紀夫の「戦後」を再読する」(遠藤編『日本表象の地政学:海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー彩流社、2014年)など参照のこと。

 とくに三島の『美しい星』は、米軍基地(の跡地)に飛来するUFOを軸に話が展開する、なんとも解釈の難しい小説で、1962年(自決する8年前)に発表されています。圧倒的な物量と民主主義の理念とで日本に優越し続けたアメリカ。三島がそれに対峙させようとした「日本」とは何だったのか。事後半世紀以上を経っても、解けない謎として存在し続けています。

 

留学生から貰ったお土産。四季の栞らしい。

 

今日は3年ゼミなど。

(講義関連)アメリカ(22)ネイティブ・アメリカンとGoro’s

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(22)ネイティブ・アメリカンとGoro’s

 

 前回取り上げた小田実アメリカ』(角川文庫、1976年、元は1962年刊)から、主人公がメキシコ旅行した際のタクシードライバーとの会話を、再度引用します。

 

215p「「だんな、合衆国のことを言うのは《アメリカ》という言葉を使うのはやめていただけませんかね」運転手はゆっくりと言った。「《アメリカ》というのは、メキシコもグァテマラもペルーもブラジルもアルゼンチンもふくめたことばですよ。あんたがいまやって来たあっちのほうでは……」彼は顎をしゃくってみせた。「ヒューストンのあるあっちのほうでは、《アメリカ》とは合衆国のことだけかも知れんが、それは奴らの身勝手というものでさ。……」」

 

 アメリカ(USA)の身勝手をもっとも強く感じてきたのは、アメリカ大陸の先住民族たちでしょう。

 続いては、2023年10月号『MEN’S CLUB』の特集「「ゴローズ」受け継がれしものVol.1」からの引用です。

 

「1939年、東京・十条で生まれた高橋吾郎(以下ゴローさん)。子どもの頃からウエスタンスタイル、特にネイティブ・アメリカンの文化に強い憧れを抱いていました。中学校のとき、湘南・葉山での臨海学校に参加したゴローさんは、レザークラフトでものづくりをしていたアメリカ軍の駐屯兵と運命的な出会いを果たす。彼からカービング(彫刻)などの技術を学び、その楽しさを知ったゴローさんは、臨海学校が終わってからも彼のもとに通い詰め、2人の交流は駐屯兵がアメリカに帰国するまで続きます。帰国の直前、ゴローさんは彼から工具を譲り受け、その後も独学で腕を磨いていきます」

 

 そして高橋吾郎は1972年に原宿に店を構え、レザー製品やアクセサリーを製作・販売していきます。

 

「幾度となく渡米したゴローさんは、サウスダコタ州を拠点とする米先住民族ラコタ族のリトルスカイファミリーと出会い、多くを学び、交流を深めていきました。そして1976年、ネーミングセレモニーの儀式を受ける。長時間にわたる儀式のなかでゴローさんはイーグルに出会い、“東から来た鷲”を意味する「イエローイーグル」というインディアンネームを拝受。1979年にはラコタ族の神聖な儀式「サンダンス」を受け、日本人で初めてネイティブ・アメリカンの仲間入りを果たしました」

 

 というわけで、Goro’sのシルバー・アクセサリーなどには、鷲や羽などのモチーフが多用されていくことになります。

 また、2023年11月号『MEN’S CLUB』の特集「「ゴローズ」受け継がれしものVol.2」で、中村ヒロキ(ヒビズム、クリエイティブディレクター)は次のように語っています。

 

「僕はアメカジブームの世代なので、15,16歳だった当時の表参道や渋谷あたりには、ゴローさんのアイテムを持っている人たちがいて。それを見ながら『かっこいいな』『欲しいな』っていう、そんな憧れの存在でしたね。原宿のショップの前を通るとたまに、出勤してきたゴローさんをお見かけしました。サビ色のバイク、確かハーレーだった思うんですが、愛犬を乗せて走る姿に『この人、すごくかっこいいな』と思って見ていました」

 

 このインタビューは「表参道に店舗を構えるインディペンデントなブランドは、今やゴローズ、そしてビズビムだけかもしれない。共に在りつづけることを、切に願う」と締められています。アメカジブームは1980年代頃のことでしょうが、原宿表参道(ないし裏原宿)がファッションストリートとして注目を集めていった1970~90年代には、多くの若者が自らのブランドをさまざまに立ち上げていました。しかしその後は、ファストファッションや高級ブランドのショップが立ち並ぶエリアとなっていきました。

 そして、手作りゆえにそれなりの値段がしたGoro’sのアイテムは、やがてその人気と希少性から高級ブランドと目されていくようになります。

 

「「goro's」扱う高級アクセサリー買取販売店社長の男 コカイン使用疑いで逮捕 自宅は“3億円の豪邸”」2024年2月29日配信(https://news.yahoo.co.jp/articles/bc4945ffdccc6c7dfd251b7f79f91006c4bcd04c)「高級アクセサリー「goro's」の買取や販売を行う会社の社長が、コカインを使用した疑いで逮捕されていたことがわかった。社長は豪華な自宅をメディアに公開するなどして知られていた。高級アクセサリーの買取販売店「DELTA one」を東京・渋谷区などで展開する会社の社長 堀内章容疑者は2月13日頃、コカインを使用した疑いが持たれている。捜査関係者によると、情報提供を受け、警視庁が堀内容疑者の尿を鑑定したところ、コカインの陽性反応が出たという。調べに対し「反省している」と話している。堀内容疑者が運営する会社は高級アクセサリー「goro's」の買取や販売を手がけていて、自宅がメディアで「3億円の豪邸」と紹介されていた」

 

 買い取り市場が成立し、その買い取り店の社長が3億の豪邸に住んでいるとは。サウスダコタラコタ族からずいぶんと遠くまで来てしまったものです。

 

(講義関連)アメリカ(21)多様なアメリカ、多様な受容(ソウル、ブルース)

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(21)多様なアメリカ、多様な受容(ソウル、ブルース)

 

 1958年に渡米した小田実の放浪記『何でも見てやろう』は1961年に出版され、ベストセラーとなりました。また1962年に小田は『アメリカ』という小説も発表しています(下記の引用は、1976年刊角川文庫版『アメリカ』より)。

 

596p「そうだろう、いろんなアメリカがあるだろう。シャーロットのアメリカ、チャーレスのアメリカ、ボッブのアメリカ、ハイネマンのアメリカ、スコット氏のアメリカ、レットのアメリカ、ユリシーズアメリカ、リチャードのアメリカ、そしてたぶん、社長のアメリカ、私自身のアメリカ――それらさまざまのアメリカは、しかし、一つなのだろう。「ユナイテッド・ステーツ」という国名が暗示するように、それらすべてを一つにまとめあげているもの、その力がそこにはあるのだろう」

 

 これだけでは何のことやらでしょうが、『アメリカ』の主人公の私(川崎登)は26歳の商社マンで、会社からMBA取得のためにアメリカ南部の大学町へと送られました。シャーロットは恋人、チャーレスは同居人の画家、ボッブはゲイの友人、ハイネマンはシャーロットの元恋人(ユダヤ人、バイセクシャル)、スコット氏は裕福な実業家(ロータリアンでKKKの疑いアリ)、レットは友人(スコット氏の甥)で、以上いずれも白人。それからユリシーズは黒人の元教師、その子リチャードは川崎を「ジャップ」と呼びます。最後の社長は、川崎をアメリカに留学させた勤務先の社長。

 それぞれのアメリカ像があり、アメリカ観があるわけです。ジョン・ストーリーが、アメリカナイゼーションをめぐる議論の問題点として、「アメリカ文化を一枚岩的だと想定」する傾向をあげていますが、たしかに要注意(ジョン・ストーリー『ポップ・カルチャー批評の理論:現代思想カルチュラル・スタディーズ』小鳥遊書房、2023、403p)。

 アメリカ的なもの、ないしアメリカ産のものにしても多種多様であって、そのグローバルな受容のあり方も、それぞれの地域によってさまざまなローカル化のバリエーションズが生じるわけです。

 たとえば、アイルランドでのアメリカのポピュラー音楽受容を描いた、映画『ザ・コミットメンツ』(1991年)。以下は、この映画をアイルランド英語の教材に用いたホームページからの引用です。https://eureka.kpu.ac.jp/~myama/worldenglishes/pdfs/the%20commitments.pdf

 

「映画の舞台は、アイルランドの首都ダブリン。労働者階級で音楽通の若者ジミー・ラビットは、バンド活動をしている知人のアウトスパンとデレクから彼らのマネージャーになって欲しいと頼まれる。彼は、かのローリング・ストーンズにも負けないビッグバンドのマネージャーになる ことを夢見て、新バンドのメンバーを集め始める。目指す音楽はソウルミュージック。ダブリンの労働者の魂を歌いあげるダブリンのソウル音楽である。やがてメンバーが集まり、バンド名を「ザ・コミットメンツ」 と決定する。コンサートを重ね評判を高めて、バンドは新聞の取材を受けるほどになる。しかし、バンドの内外で問題が起こり始め、徐々にバンド活動の雲行きが怪しくなっていき、ある日決定的な出来事が…」

 

 この「アラン・パーカーの『ザ・コミットメンツ』で語られる音楽との出会い」、さらにはアメリカ文化の受容という点から、もう少し詳しい紹介も引用しておきます。

 

272p「アイルランドの貧しい少年たちのグループは自分たちの持つ労働者階級的な感性を表現するのに相応しい音楽の形式を探し求めていたが、彼らはラジオから鳴り響くアメリカのポップ・ミュージックを、自分たちが求めるものとは違うときっぱりと拒絶していた。しかし、物語の序盤で、彼らはテレビでジェームズ・ブラウンによる彼のトレードマークたるソウル・アクトを目の当たりにする。演奏が終わると、グループのリーダーがすぐさまその出来事を、彼らのアイルランドの生活に根ざした言葉へと変換する。「俺たちはヤツみたいになるんだ。ヤツは俺たちお同じだ。アイルランド人はヨーロッパの黒人だ。ダブリンの住人はアイルランドの黒人だ、俺たちノースエンドの住人はダブリンの黒人だ。もう一度言う。はっきり言うぞ。俺たちは黒人で、プライドを持っている」。仲間たちは驚いて静かに彼の言葉を繰り返すが、彼らの唇の動きが示すのは最後の決め台詞だ。「俺たちは黒人で、プライドを持っている」。メッセージはゆっくりと腹に落ちていくが、ここではもうひとつのアメリカ文化の借用が生じており、若者たちのアイデンティティの感覚に影響している。彼らは文化的回心の儀礼における司祭の役割を担わされている」(ロブ・クルス「アメリカの大衆文化とヨーロッパの若者文化」遠藤泰生編『反米:共生の代償か、闘争の胎動か』東京大学出版会、2021年)

 

 アイルランドの白人(労働者階級)たちが、ブラックミュージックに共鳴する。そうした事例は日本(の黄色人種)の若者たちの間でも、ヒップホップ・カルチャーのはるか以前からでも存在します。ジャズやロックンロールの黒人ミュージシャンたちからの影響(1950~60年代)に次いで、1970年、二人の高校2年生が手探りでブルースへと至ります。

 

24-5p「ぼくは中学時代、ピアノとオルガンとクラシックギターを少し習っていた。内田は子供の頃から兄ちゃんのギターをいじっていて、ビートルズストーンズ、ヴァニラ・ファッジ、クリーム、ジミ・ヘン、レッド・ツェッペリンテン・イヤーズ・アフターと聴くうちに、そのアドリブにある法則があるとことに気づいて、ロックのむこうにブルースがあることを知って、自己流で、勝手にギターでブルースを弾くようになっていた。/ぼくもクリームのレコードのライナーノートに「エリック・クラプトンはBBキングなどブルースの人たちの影響を受けて……」などと書いてあるのを見て、『なるほどなあ』と思っていた。/それで、ぼくが3コードのブルース進行を弾いて、それに乗せて思いつくまま内田がブルースを弾く、ということをやってみると、これがとても面白くて、時間があれば実習室に行って二人で合奏するようになった。/ちょうどこの頃から日本でもそれまでのBBキング、フレディ・キング、アルバート・キングといった有名どころのほかに、マディ・ウォーターズバディ・ガイエルモア・ジェイムスなどなかなか手に入らなかった黒人ブルースの日本盤がいろいろと出るようになって、内田はますますブルースにのめり込むようになった」(木村充揮木村充揮伝:憂歌団のぼく、いまのぼく』K&Bパブリッシャーズ、2012年)

 

 内田勘太郎木村充揮は、大阪市立工芸高校(最寄り駅は天王寺からJR阪和線で一駅南下)で同じコースにいました。内田は心斎橋に「「板根楽器」というブルース好きにはパラダイスのようなレコード屋を見つけ」、通うようになります。

 ダブリンのノースエンドならぬ大阪下町に在日コリアン二世として生まれた木村は、内田とともにブルースバンド憂歌団を結成し、家の工場を手伝いつつ、当時隆盛をむかえつつあった京都(洛北、京大西部講堂など)のブルース・シーンで活躍していきます。そして、シカゴなどのブルース・フェスにも参加。これも一つのアメリカナイゼーションであり、一枚岩ならざるアメリカ文化(の受容)の事例でしょう。

 

文学部裏のひっそり桜。

 

アメリカンフットボール、昨日の慶応大戦、3・4年のゼミ生7人中6名がstarting membersとして名前があり、もう一人も大活躍のよし。皆元気そうでで何より。