60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(補遺の補遺)アメリカ(55)アメリカ産「テレビ映画」について&恵送御礼

 

富豪刑事』がないじゃないか~とか、突っこもうとしたが、ちゃんとコラムで拾っている…。さすが過ぎます。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺の補遺)「アメリカ」を考える(55)アメリカ産「テレビ映画」について

 

一旦区切りをつけたはずが、またぞろ、だらだらと。備忘代わりに抜き書き2点。

 

荻昌弘「TV映画を憂う:とくに最近のアメリカ映画の氾濫について」1961年9月号『CBCレポート』

7p「なぜ、日本のテレビ界は、今日、このような外国製TV映画の攻勢を迎えねばならなかったのであろう?/その第一の理由は、いうまでもなく、急激に誕生し全国に拡散した日本のテレビ局の、自主的な供給能力が、需要に追いつかなかったためであろう。第二には、これまたいうまでもなく、米国の経済的優位性が、優良な品(TV映画)を、相対的安値で放出し得る能力を所有していたからだ。/この二つの経済的理由を、芸術的側面から照らし直せば、第三に、日本製テレビ番組が、外からの攻撃に対してあまりにも脆弱なほど“つまらなかった”こと、そして第四に、要するにアメリカ製TV映画が、“じつにおもしろく”巧く作られていること――が理由だ、ともいいうる。そして第五、日本における外国テレビ映画の猖獗は、日本のテレビ局が(半ば英断、半ば機械上の必要に迫られて)早くも、そのセリフを日本語化したことに、大きな理由があった、と考えられる。さらに第六の理由として、私たちは当然、この戦後の、日本人のアメリカに対する心理的接近感と、憧憬も、あげなければなるまい」

8p「61年の五月現在、東京のテレビ五局は、週合計六十八本の外国テレビ映画を放映しているという(東京新聞)。数年前、KRTから、はじめてTV西部劇「カウボーイGメン」が送られたころ、多少その内部に立ち合ったことのある私は、ある感慨を持たずに今日のこの隆盛を眺めることはできない。単に本数の点だけではなく、また作品の質のうえでも、今日のはなばなしさは、とうてい数年前に、考え得られなかったものだからである」

 

松山秀明『はじまりのテレビ:戦後マスメディアの創造と知』人文書院、2024

77p(『パパは何でも知っている』)「このようなアメリカ民主主義に根ざした明るく楽しい中流家庭の生活は、新しい家庭のモデルとして日本社会として日本に受容されていく。敗戦後の日本社会にとって、「家族の民主化」が急務であったが、そうした家父長家族から夫婦家族へと転換を迫る一翼を担ったのが、アメリカ製ホーム・ドラマであった。外国製テレビ映画によって日本人は初めて今まで知らなかったアメリカ的生活の内側を見たのである。とりわけアメリカ製の家族劇は、近代的個人主義を土台にして、個我の主張と相互の尊重を基本とする。そもそもホーム・ドラマという英語は存在せず、近代的な感覚を日本人の心に引き起こすことを期待した和製英語独特の響きが、アメリカへの憧憬を示していた。こうした、アメリカの理想化されたホーム像が、日本の連続ドラマ、とりわけホーム・ドラマとして引き継がれていくことになった」

135-6p(バラエティ番組、クイズ番組など)「この背後に、アメリカの影がちらついていたことである。多くの放送史が記述するように、敗戦後、GHQによるマイクの解放によって日本の民主化が図られた。戦後すぐに始まったNHK『街頭録音』や『のど自慢』に限らず、クイズ番組もまた、視聴者参加という形でその役目を担ったことはよく知られている。『話の泉』はInformation Please、『二十の扉』はTwenty Questions、『私は誰でしょう』はWhat’s my nameというアメリカの番組に範をとるよう、民間情報教育局(CIE)ラジオ課による指導があった。丹羽美之(2003)が指摘するように、そもそも日本版のクイズ番組とは、ラジオの民主化という歴史社会的な文脈のなかでCIEがNHKに助言して実現したものだった。ゆえに、「クイズ番組そのものが多分にアメリカ的に匂いを持つもの」(日本クイズクラブ同人編1954:189)だったのである。/このラジオのバラエティに潜んだアメリカの影が、テレビ時代になってなお、バラエティの製作現場に影響を与えつづけたことは、重要な史実である。クイズ番組の人気は、一九五五年を境にラジオからテレビへと移ったと指摘されるが(滝沢正樹・西野知成・石坂丘1966)、このなかで初期テレビのバラエティは、CIE指導下のラジオ時代のバラエティ観を無意識に引きずった。たとえばNHKジェスチャー』や『私の秘密』などが、いち早く視聴者参加の形式となったのは、その証左だろう。/それだけではない。これから本章で見ていくように、日本テレビ『何でもやりまショー』、そして『光子の窓』といった音楽バラエティもまた、多くがアメリカからもってきたアイディアを、日本で開花させたものだった。これはアメリカのテレビ界への憧憬とともに、バラエティというジャンルが、他国のものを真似しやすかったという事情もあったに違いない。さらに初期テレビのバラエティに出演していたのは、米軍キャンプなどでジャズバンドをしていた者も少なくない。それゆえに、初期バラエティのクイズやミュージカルといった表現には、多分にアメリカからの影響を見ることができる」

157p(1964年~『光子の窓』、井原高忠)「そもそも井原が渡米したのは、NBCの特番『ジャパン・スペクタクル』のスタッフの一員として同行したためであった。当時、NBCはロサンゼルス郊外にカラー用の大テレビ・スタジオを建設したばかりで、そこで井原は本場アメリカのショー・ビジネスの実態を目撃する。「とにかく生まれて初めてでしょ、当たり前だけど。もう、死ぬかと思ったね、あんまり嬉しくて」(井原高忠1983:69)。井原はこれまでの自分の演出が映画などから作り上げられた「イメージ」に過ぎないとショックを受ける(小林信彦2006:63)。本番になると、滑車のついたセットが出ては消え、息もつかせぬ演出方法だった。「いったいいかなるところからこの演出方法は生まれたのか」。それを知るため、井原はどうしてもブロードウェイへ行く気になる。ロサンゼルスには一週間の出張だったが、「もう一生アメリカに来られないかもしれない」と思い、ニューヨークへ向かった(井原高忠1983:71)。/ニューヨークに何のあてもなかった井原だが、偶然、CBSに勤める女性と出会う。そこで『江戸・サリバン・ショー』や『ペリー・コモ・ショー』の現場を見学させてもらい、「あらゆる物がブロードウェイの演劇やミュージカルから来てるということ」(井原高忠1983:77)を悟る」

(講義関連)アメリカ(54)最後に「パチンコ」について考える。

www.youtube.com

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(54)最後に「パチンコ」について考える。

 

 講義との関係で、目についたアメリカ関連のもろもろについて書いてきたこのシリーズも、ここでいったん区切りとします(Season2、多分あります。誰も待ってないでしょうが)。

 で、今回取り上げるのは、この2月に出た、玄武岩ほか編『グローバルな物語の時代と歴史表象:『PACHINKO パチンコ』が紡ぐ植民地主義の記憶』(青弓社)です。この本は、2022年にApple TV+で配信されたドラマ(とその原作にあたるミン・ジン・リーの小説”PACHINKO”)についてのシンポジウムがベースになっています。ドラマが取り扱うのは、1910年代から80年代まで。韓国済州島から日本に渡った女性とその孫の男性(アメリカから日本に戻ってくる)との絡みなど、家族の歴史を追った作品です。

 基本的に日韓の物語なので、「アメリカ」に関連づけるのはやや無理があるようですが、在米コリアンの作者が英語で書いた小説が、アメリカでヒットし、それをアップルがドラマ化して世界に配信したという点で、まぁ「アメリカ」というテーマに関連ありそうです。が、話自体は日韓、とりわけいわゆる「在日(ZAINICHI)」をめぐる物語。

 私はApple TV+には入っていないので、中古の円盤(アマゾンで購入)で観ました。本の中では、「なぜドラマ「パチンコ」が日本ではあたらなかったのか」に関する議論も多々あるのですが、日本でのApple TV+利用者の少なさが、まずその大きな要因でしょう。しかし、かつて日本では全く当たらなかった「MAD MEN」の時同様、私はドはまりしました。なにせオープニング曲がかっこいい。アメリカのバンドThe Grass Rootsがカバーした”Let’s Live for Today”(The song that would become "Let's Live for Today" was originally written by English musician David "Shel" Shapiro and Mogol in 1966, with Italian lyrics and the Italian title of "Piangi con me" (translation: "Cry with Me"))。アメリカでの発表は、1967年。

 私にとっては、萩原健一率いるテンプターズがカバーした「今日を生きよう」(1968年)です。子どもなりに聴いたような気もするのですが、調べてみるとデビューシングルのB面だったようで、リアルタイムに聴いたというよりは、1990年頃、CMにこの曲が使われた際に上書きされた記憶なのかもです。でも、カバーであっても、今聴いてもカッコいい。まぁいろいろありましたが、惜しい方を亡くしました。歌謡曲化していった後のテンプターズは、あまりピンとこないですが、一連のなかにし礼のコテコテ歌詞はさすがです(「今日を生きよう」の訳詞もなかにし)。

ザ・テンプターズThe Tempters/今日を生きようLet's Live For Today (1968年) - YouTube

www.youtube.com

エースコック 1.5倍 大盛りいか焼そばCM 1989年 15秒 深津絵里 - YouTube

 

 昔からマイナー好きだったので、アイドル然としたタイガースよりは、ショーケン推しだったように思います(ゴールデンカップスモップスも、なんか他のGSとは違うなと感じつつも、当時はよくわからなかった。ダイナマイツやズーニーブーは子どもなんで視野に入らず)。でも、タイガースも、沢田研二岸部一徳(おさみ)、加橋かつみなども当時王子様然として売ってはいましたが、今考えるとけっこう危ない匂いがするラインアップ(加橋かつみ横山やすしが、同(じ)中(学))。岸部一徳の愛称サリーも、「のっぽのサリー(Long Tall Sally)」から来てるのかもですが、いや、そんなかわいらしいものではなく、当時からどこか凄みはあったと思います(当時、サリーと言えば魔法使いだったガキにはとって、サリーのあだ名は非常に違和感)。さらに話逸れますが、映画「リトル・リチャード:アイ・アム・エブリシング」は、私にはツボでした。

 話を急ぎドラマ「パチンコ」と『グローバルな物語の時代と歴史表象』に戻します。本の中には、「『パチンコ』とOTTナラティブのリアリティ:受容者資源論との接点」(イム・ジェンス)という章があります。OTTは、オーヴァー・ザ・トップの略で、要はネットフリックスやアマゾン・プライム、ディズニー+、もちろんアップル・テレビ+などインターネットを通じて、テレビ局などの「頭越し」に、世界中にコンテンツをダイレクトに届ける仕組みを言います。

 そして「受容者資源論」は、おおざっぱに言えば、視聴の履歴を残す視聴者=契約者たち(のデータ)は、プラットフォームにとっては単なる集金源なだけではなく、効果的に広告配信しうる対象であり、広告収入をもたらす資源でもあるという話です。

 これに近しい議論に「プラットフォーム資本主義」があり、昨今続々と本も出ています(ニック・スルネック『プラットフォーム資本主義』人文書院、2022年、水嶋一憲ほか編『プラットフォーム資本主義を解読する:スマートフォンからみえてくる現代社会』ナカニシヤ出版、2023年)。そこで言われている「プラットフォーム」とは、具体的にはグーグル(アルファベット)、アップル、メタ(旧フェイスブック)、アマゾン、マイクロソフト、アリババ、テンセントなどであり、その各種ソーシャルメディアによって利用者のデータが集積され、さらにはUGC(ユーザー・ジェネレイトッド・コンテンツ)によって、プラットフォーム側がその手を煩わせることなくそこにコンテンツが集積されていくようなシステムを言います。そうしたプラットフォームが巨大化し、グローバルな経済圏、ひいては生活圏をなしている現状を、「プラットフォーム資本主義」と呼ぶわけです。

 たしかに、これまでの資本主義の仕組みとは違います。そして、この新たな資本主義をリードするのは、グローバル・インフラと化したインターネットを生んだ「アメリカ」です(アリババやテンセントの今後はわかりませんが)。

 アップルの生み出したコンテンツ「パチンコ」は、ナショナルないしトランスナショナルな物語でありつつ、グローバルなビジネスでもあります。「パチンコ」が、あからさまには「アメリカ、アメリカしていない」コンテンツであることは、逆に潜在的アメリカが世界に遍在している現状を逆説的に示しているようにも思えます。

 と、小難しいこと言いましたが、要はショーケンのカッコよさは、音楽的にブラックっぽい匂い(R&B)がしたことのように思います。憂歌団の「パチンコ」が、また別の文脈でブラックっぽい(ブルース)のと同様に。

 まぁともかく、「パチンコ」のSeason.2が楽しみです。

 

「寺山(修司)さんとは価値観が合わない」爆

 

今日は授業、院ゼミ、それ以外にも学部・大学院教務多々。

 

堀野正人ほか編『都市と文化のメディア論』ナカニシヤ出版、2024

嶽本野ばら米朝快談』新潮社、2013

(講義関連)アメリカ(53)1979年のアメリカと1945年のアメリカ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(53)1979年のアメリカと1945年のアメリ

 

 1932年生まれの評論家・哲学者と1932年生まれのアメリカ文化・文学の研究者とが、1979年に3日がかりで計13時間半、アメリカについて語りつくした記録が残っています(鶴見俊輔亀井俊介アメリカ』エッソ・スタンダード石油株式会社広報部、1979年)。鶴見は戦前アメリカに留学し、プラグマティズムなどについて学んだ経験があり、亀井は戦後アメリカに留学しています。

 

5p「亀井●(略)いまはOLとか大学生とか、たいへんな数の日本人がアメリカへ旅行していて、彼らはもう内村鑑三のように悲壮がらないで、もっと気楽にふるまっている。そういう人たちの持っているアメリカのイメージ……。そして、週刊誌や若者雑誌、グラビアの多い旅行の本がつくるイメージ……。そこには、アメリカ西部の荒野もいちおうはイメージとしてはいっているし、摩天楼がそびえる大都会というイメージもある。とにかく、ごく一般の人びとの中で、アメリカは身近なイメージとなって生きてきているように思います。
鶴見●人前で男女が手をつないで歩くというようなことが、普通になったでしょう。戦争が終わって占領軍の兵隊が日本の女性と手をつないで歩いているのが、日本の男にはきわめて屈辱的だったけれども、その風俗が、アメリカの映画や漫画を通しても、だんだんに日本にはいってきた。戦前のように細君が夫のあとを数歩おくれて歩くというのは、もうあまりないようだね。そこのところは、アメリカがわれわれ日本人の感性の領域まで深くはいっちゃったのじゃないか(略)」

6p「亀井●僕らの経験ですと、新制中学で男女共学が強制された。これもたいへんな文化的事件だったと思いますよ。占領軍のおえら方が来るから、その前で男女生徒のフォークダンスを見せるといって、ダンスをやらされました。当時はまだバンカラ風がのこってましたから、心のなかでは楽しんでいるくせに、フォークダンス反対のストライキをするとかいって騒いだものでした。とにかく、ダンスもまた占領軍のモラル・サポートをうけていた。つまり、キッスやダンスがデモクラシーであるという感じだった……」

 

 戦後約半世紀を経て「いまはアメリカに留学してアメリカ化するというのじゃなくて、日本で暮らしていてアメリカ化するということが、あらゆる面で可能になりましたね」(鶴見、19p)、その一方で「アメリカ風俗がいま日本にどんどんはいっていますね。そのアメリカ化かというのが、ひょっとするとアメリカよりもアメリカ化しているくらいのもの」「東京の新宿、六本木、原宿などの繁華街に生きているアメリカ風の文化というのは、アメリカ以上にアメリカ的なもの」(亀井、19p)という事態も進展していました。

 二人の「しゅんすけ」には、世代差や出身地(東京と木曽)の違いこそあれ、アメリカを観念的にとらえず、かつ一過性の表層的なものとしてもとらえないという一致点があります。

 

98p「鶴見●だれでも食べられる衛生的な食べもの。これが敗戦後の日本とアメリカをつなぐ一つの綱だったね。丸腰になった日本人に、アメリカはどんな過酷なことも強いることができたわけだが、それをしないで、とにかくいろんな食べものを調達し、伝染病がひろがらないように手を打った。第一次大戦後のドイツに対して、イギリスとフランスはたいへんな窮乏を強いて恨みを買ったけれど、アメリカは日本に対してそれをしなかった。だから日本人のアメリカに対して持つイメージは、いま生きているかなりの世代で、まず食いものというのが自然な連想じゃないかな。粉ミルクとパンとマーガリン(略)」

 

 1979年からさらに45年を経て、アメリカの食文化やライフスタイルに対し、強い驚きをもって接した世代も、もう少なくなりました(亀井氏も昨年ご逝去)。

 この対談のなされた1979年の刻印としては、「鶴見●エズラ・F・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がよく売れていますね。日本語訳も売れているし、英語版も日本で売れている。英語版を注文したら品切れだった。/亀井●日本人をよろこばせるのじゃないですか」(106p)の件。多幸感あふれる日本の80年代へのとば口感が、ひしひしと伝わってきます。それに対する鶴見俊輔のカウンターの言葉。

 

121p「鶴見●占領時代にわれわれが落ちこんだ劣等感を忘れて、ご破算にしてというのじゃいけないんだ。私はつい最近になって、沼正三の『家畜人ヤプー』を読んだんだが、あれは占領文化の重大な所産で、あれから手を放してはいけないという気がする。沼正三は復員兵として日本に帰ってきて、ものすごい劣等感に陥ったんだな。その劣等感を、白人の女性に対して這いつくばって暮す人間の感情として造型しているのが、『家畜人ヤプー』でしょう」

 

 最後に、二人にとっての「アメリカとは」に関して、もっとも肝だと思った個所を引いておきます。

 

120p「鶴見●アメリカ思想がわれわれにとって意味があるのは、日本のインテリのなかに明治以後つねにある観念的な狂信への、一種の解毒剤としてであってね。ヨーロッパに追いつけ追いこせで、観念の最高のものを握ったと思えば全部がそこで新しくなるという考え方に対して、つねにその足を引っぱる役割をする。で、どういう暮らしをするの、何を食っていくの、というのが、福沢諭吉以来アメリカ思想としてあったでしょう。
亀井●頭より胃袋よね」

 

 やはり、鶴見はプラグマティズムの思想家だし、亀井はアメリカ大衆文化の碩学です。

 

(講義関連)アメリカ(52)バブルの頃、日本版WASPなるものが。

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(52)バブルの頃、日本版WASPなるものが。

 

 WASP。本来はWhite, Anglo-Saxon, Protestant. の略で、かつてアメリカの支配層、エリート層であった北欧出自の白人たちのことを言います。まずイギリスあたりから東海岸に入植してきた人々の子孫で、ネイティブアメリカン、アフロアメリカン、アジア系、ラティーノムスリムなどはもちろん、ユダヤ系、南欧系(カソリックが主)、東欧系(正教会など)などに対しても、以前ほどではないにせよ依然メインストリーマーとして存在している人々のことです。

 そうしたWASPを前提として、1989年に月刊アクロス編集室『WASP 90年代のキーワード:日本人はいま、どこにいるのか?』(PARCO出版)という本が出版されました。

 

13p「それは“White-collar, Americanized, Suburban, Private”の略である。すなわち職業はホワイトカラー、ライフスタイル・行動様式はアメリカナイズされ、郊外に住み、私生活尊重で個人主義的、というイメージをキーワード化したものである。それは戦後の日本人が、大衆レベルで追い求めてきたもののキーワードであり、一九八〇年代を通じて完成されて来た生活・文化のキーワードである。そしてそのキーワードを最もよく形象化してみせているのが「第四山の手」ではないかと思う。/以下本書では、豊かな大衆消費社会を築き上げた一九八〇年代の日本の原点を、三〇年前のアメリカに求めながら、翻って現在の日本人が今一体どのような文化段階にいるのか、そして今日本人が抱える問題を考えていくにしたい」

 

 1998年に休刊となった『アクロス』(ないし『流行観測アクロス』)はマーケティング情報誌であり、トレンドをとらえる、さらにはトレンドを予測する多くのキーワードを世に送り出しました。中でも、人口集中する首都圏において「山の手(中産階級向けの新興住宅地)」がより郊外へと遷移したことによる「第四山の手」は、比較的バズった言葉です(WASPは残念ながらですが)。

 内容をいちいち説明するのも何なので、章タイトルを拾っていきます。

 

第一部ギブ・ミー・アメリカンドリーム!
 第一章ブロンディの夢
 第二章キャデラックの誘惑

第二部ジャパニーズ・グラフィティ
 第三章マクドナルドとハーゲンダッツ
 第四章コカ・コーラナイゼーション
 第五章ショートケーキハウスの起源
 第六章テーブルの上のアメリ

 

 第三部のタイトルは「ギブ・ユー・ジャパニーズドリーム?」で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン時代」における「アメリカンドリームからジャパニーズドリームへ」、ジャパニーズWASPがアジアに影響を及ぼし「アジアのセンター性強まる日本」など、35年後からみれば、その振り切った夜郎自大ぶりは清々しいばかりです。そして、当時のいわゆる団塊ジュニアたちの意識を次のように描いています。

 

244-6p「一九八六年の夏から八七年の秋口まで、ティーンズのメッカ渋谷では「アメカジ」と呼ばれるファッションが大流行した。アメカジとかアメリカン・カジュアルの略であるが、実施は必ずしもアメリカ的であるわけではない。ただ、非常にカラフルでスポーティブである点、バットマンアメリカンフットボールのチームであるレイダースなどのロゴが付いている点などに、なるほどアメリカ的かと思わせるものがあった。

しかし問題はファッションそのものにあるのではない。そうしたファッションを平気で着こなすことのできる彼らの感性の変容こそが問題なのである。そもそも本書のテーマであるジャパニーズWASPという概念が生み出された背景のひとつが、このアメカジファッションにあった。そこからは明らかに日本とアメリカの文化的関係の変化が見てとれたからである。

一九七〇年代にもUCLAやYALEなどのアメリカの大学名の入ったトレーナーが流行したことがあったが、アメカジはそれとは異なってきている。七〇年代にはまだやはりアメリカそのものを輸入してきているという感じが強かったが、アメカジの場合はアメリカ的なるものを勝手にアレンジしてしまったようなところがある。今のティーンズにとってアメリカはもはや遠い憧れの対象ではないし、豊かさや強さのシンボルでもない。

おそらく彼らにとってアメリカは今や大衆性とチープさの記号なのではないか。けばけばしくテカテカとしたビニール素材のバッグやカラフルなシューズやポロシャツは、必ずしも趣味がいいとも、洗練されているとも思えない。が、その大量生産的な安っぽさこそが、かえって日常的なアメリカを感じさせる。それは彼らが、これまで見てきたように生活の隅々に至るまでアメリカ的な環境の中で育ってきたからこそであろう。彼らにはもうアメリカと日本の区別はつきがたくなっているのではないだろうか」

 

 アメリカが、暗黙の裡に、デフォルトとなって遍在・潜在している日本社会、という見立ては当たっていたものの、そのことによってアジアへの影響力を有するセンター・日本という自画像は、遠い過去のものとなった感、ひしひしとします。

 

 

 最近、外向きベンチも追加されたF号館前。中央講堂横にもあったはず。

 

 今日は、面談、会議、学部での研究会など。

(講義関連)アメリカ(51)国道16号、横須賀から木更津まで。&恵送御礼

島根県立石見美術館の方から。以前、「ファッション イン ジャパン1945-2020」展の図録づくりに関わった関係で、ご恵送いただく。中原淳一展を催すとのこと。戦後の解放感とシンクロしてるし、やはりどう見てもオードリー。

母方の祖父が大和紡績の益田工場にいた関係で、益田が母の生地。一度行きたいとは思いつつ…

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(51)国道16号、横須賀から木更津まで。

 

 まずは横山剣(1960年、横浜出身)率いるクレイジーケンバンドの「タイガー&ドラゴン」(2005年)の歌詞から。

 

トンネル抜ければ 海が見えるから そのままドン突きの 三笠公園

あの頃みたいに ダサイスカジャン着て お前待ってるから 急いで来いよ

俺の俺の俺の話を聞け! 2分だけでもいい 貸した金の事など どうでもいいから

おまえの愛した 横須賀の海の優しさに抱かれて 泣けばいいだろ ハッ!

 

 子供の頃から音楽やファッションに興味津々だった剣さんは、次のように述べています。

 

152p「おれはアイビーというセオリーにがんじがらめになった型通りのスタイルはあまり好きではないけれど、アイビーを崩したジャジーで黒人っぽい着こなしには憧れていた。/例えばマイルス・デイビスのコンポラのスーツにナロー・タイというスタイルとか。/東京のみゆき族は七五三みたいで服に切られている感じがしたけれど、横浜や横須賀の不良の着こなしは「服を着倒す」って感じで全然垢抜けていたんだ。/たとえスタジアム・ジャンパーを着ても、スリッポン履いても、カレッジっぽくならない。可愛いショウちゃん帽でさえ、逆に凶悪で不気味なムードを増幅するアイテムになったりするんだから最強だ。/パンツも踝ぐらいの長さで、スリムなトップ。スカマンだね。ヨコスカ・マンボ。/そのあたりのセンスがやっぱり1960年代後半から‘70年代初頭のヨコハマ&ヨコスカンな不良スタイルだったんじゃないかな」(横山剣『クレイジーケンズ マイ・スタンダード』小学館、2007年)

 

 今なお基地の街横須賀はもちろん、1982年に本牧の米軍住宅地区が返還される横浜には、東京よりもアメリカに近い街という自負があったのでしょう。

 横須賀から発した国道16号は、横浜や相模原、福生、入間・狭山など米軍基地に縁の深い街を結んで、千葉の木更津まで東京郊外を外周しています。

 

125p「二〇一七年現在、相模原市には、三カ所のアメリカ軍関連施設がある。現在の南区と戦後分離した座間市にまたがる「キャンプ座間」(陸軍士官学校と練兵場の跡地)、南区の「相模原住宅地区」(陸軍電信第一連隊の跡地)、そして中央区の「相模総合補給廠」(陸軍造兵廠の跡地)である。いずれも旧陸軍の時代から軍用地として使用され続けている土地であり、それらもまた現在の相模原に残された軍都の痕跡である」

139p「確かに、十六号線沿いには、多少、「アメリカン」な店舗が並んでいるし、十六号線と沿うように走るJR八高線とわらつけ街道沿いには古びたアメリカ軍ハウスが現在も点在している。また地元の商店会も「基地の街」や「アメリカンな雰囲気」を特色として打ち出している。だが、現在の福生で、何よりも「基地の街」とのリアリティが希薄化しているように思えるのである」

160-1p「鈴木芳行『首都防空網と〈空都〉多摩』によれば、そもそも東京の外郭に円弧をなす十六号線は「日中戦争後に急浮上した軍用道路構想」の産物であり、この道路がつなごうとした東京近郊の軍事都市群は首都防衛の役割を担っていた。
 日中戦争後、埼玉往還の沿線では、多摩に〈空都〉化が進行し、軍港横須賀、軍都相模原、〈空都〉立川、〈空都〉所沢など、千葉県の東京沿岸には軍都柏、軍都市川、軍都千葉、軍都習志野、軍都木更津などの軍事都市が顕在化した。(略)軍事都市は膨大な重工業製品を需要し、かつ軍事産業製品も供給するから、埼玉往還と千葉県下の道路を結び、東京の外郭をぐるりと循環する道路とし、沿線の軍事都市と京浜工業地帯を連絡させて、軍事産業製品などの輸送を目的とする軍事用道路とする構想が急浮上、まず埼玉往還を優先し、道路橋の建設、道路の拡幅や舗装などの事業が施工された」(塚田修一・西田善行『国道16号線スタディーズ:二〇〇〇年代の郊外とロードサイドを読む』青弓社、2018年)

 

 そういえば、上條淳士のマンガ『SEX』(1988~1992年)には、八高線東福生駅京浜急行汐入駅などがでてきます。

 そして、終着地点である木更津と言えば、氣志團。学ランや暴走族(マンガ)風といった意匠と、リーゼントやロックンロールとが、「解剖台の上のミシンと傘の偶然の出会い」的な趣を醸しています。

 

 

今日は打ち合わせ、面談、会合など。

 

津田正太郎ほか編『ソーシャルメディア時代の「大衆社会」論』ミネルヴァ書房、2024

白土由佳『はじめてのソーシャルメディア論』三和書籍、2024

塚本明『伊勢参宮文化と街道の人びと』吉川弘文館、2024

(講義関連)アメリカ(50)ミック立川と1969年をめぐって

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(50)ミック立川と1969年をめぐって

 

 前回、イングリッシュネーム持ちの人々という話をした流れで、GS(ザ・ルビーズ)時代ミック立川と名乗っていたという立川直樹(1949年生まれ)の『TOKYO 1969』(日本経済新聞出版社、2009年)を題材にします。川添象郎などと同様に、プロデューサー業の常として、やったことが明示化できない憾みはありますが、1970年代以降音楽プロデューサー、音楽監督として幅広い仕事をした人のようです(川添象郎『象の記憶:日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー』DU BOOKS、2002年)。

 

33p「現在は高速道路が通る六本木通りに走っていた都電。六本木の交差点を飯倉に向かって一つ目の信号の角にあった”ザ・ハンバーガー・イン”も遂になくなってしまったし、”ザ・ハンバーガー・イン”と並んで二十一世紀に入ってもまだ頑張って存在していた”ジョージ”もTOKYO MIDTOWNの工事が始まる時に伝説のヴェールの中に姿を消してしまった。/勿論、赤坂の”ニュー・ラテン・クオーター”も”ビブロス”も”MUGEN(ムゲン)”も既に伝説の存在」

 

 森永博志との対談では、植草甚一が渋谷の古書店で漁書していた件に話が及び

 

130-1p「――恋文横丁の所?

「そう。ちっちゃい古雑誌屋で、僕もしょっちゅう行ってたけど、やっぱりその時『エスクァイア』と『ヴォーグ』見て憧れたもんね。”格好いいな”みたいに。その時代だと雑誌の『ローリング・ストーン』の編集やるのはまだ格好いいと思われていて、七四、五年に日本版『ローリング・ストーン』が創刊されるけど、やっぱり『ヴォーグ』は凄い格好いいと思ったよね」

――わかる。その感じ……。渋谷のあの場所も……。

「古雑誌屋、古本屋、新宿にはない」

――六本木には誠志堂古書部があった。俳優座の向かいにあって、十七、八の時に行くと『PLAYBOY』があった。米兵が売っていった」

 

 森永博志(1950年生まれ)は、ピンクドラゴンの山崎眞行の評伝などもあり、日本におけるアメリカンなユースカルチャーの生き証人の一人。
 新宿に関しては、立川とJ・A・シーザーの対談にて

 

202-3p「「僕は”ジ・アザー”のソウル・ブラザーズと一緒に踊ってたこともあるんですよ」

――え、想像がつかない……

「最初に”アップル”というゴーゴー喫茶が”ヴィレッジ・ゲート”の隣に出来たんですよ。女はタダで、男は一〇〇円だったかな。ただナンパするためだけに行くようなとこで、そこで最初に聴いたのがジミ・ヘンをそのまんまコピーした『パープル・ヘイズ』だったな。そんなのを聴きながら踊って、ナンパしてはという感じだったんだけど、そのうちに踊りを覚えてくると、やっぱり”ジ・アザー”のほうに行ってソウルの踊りをということになって……」

――クックとかニックとか……。

「そうそう。で、ソウル・ブラザーズとやるようになるんですよ。けっこう受けたんですよ。『サタデー・ナイト・フィーバー』じゃないけど、僕らが踊ってた時には広がってくれたし、ソロで踊ったこともありましたね(笑)。けっこう、踊り好きだったんですよ」

 

 新宿カウンターカルチャーの申し子、J・A・シーザーがソウルステップというのは意外ですが、アンダーグラウンドな文化という点では通底していたのでしょう。そう言えば、ソウルブラザーズ(LDHではない!)も、ニック岡井、クック豊本、チャッキー新倉でした。(ソウルブラザーズに関しては、このシリーズの初回、田代まさしの語りの中にも登場)https://sidnanba.hatenablog.com/entry/2024/04/01/000000

 空間プロデューサー岡田大貮(1946年生まれ)との対談では、前出の川添象郎の話も出てきます。

 

276p「――パリに行く前、六八年から六九年ぐらいの時の東京だと、どの辺に一番行っていたんですか?

「六九年頃だと、僕の兄が川添さん、象郎さんと慶應で同期だったんですね。川添さん、六本木”スピード”というディスコをやってたから、そことか”シシリア”とかそれから……。ピザ屋がとにかく格好いい!」

――”ニコラス”とか……

「そう、”ニコラス”にバーがあって、そこでドライマティーニを飲むんだということを大人から教わって。僕等はまだ学生の頃ですよね。十八か十九歳の頃かな。それで真似事をしてね。当時はピザ屋が一番格好よかったんです」」

 

 ニコラスに関しては、ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』(角川文庫、2002年)参照のこと。1980年代、バブル期の東京を経験して、私もこうした大人たちの存在はなんとなく感じてましたが、夜遊びするくらいなら早く家帰って本読んで、レンタルレコード聴いて、レンタルビデオ観たい人間だったしなぁ……。

 その頃、たしか「1969」という映画も観たはず。村上龍原作の「69 sixty nine」ではなくアメリカ映画。1988年の作品で、キーファー・サザーランドも出てたけど、まったく評判にならず。当時はなぜかベトナム戦争を回顧するアメリカ映画がやたらと作られていました。やっと、冷静に振り返られるようになった、ということなんでしょうか。

 

 

今日は通院からの、面談や会議など。

(講義関連)アメリカ(49)トニー谷というトリックスター

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(49)トニー谷というトリックスター

 

 戦後昭和期に活躍したボードビリアントニー谷。1917年東京下町に生まれ育ち、復員後は本名大谷正太郎からとった「谷正」と名乗り、米軍キャンプやアニー・パイル劇場(現東京宝塚劇場)、東宝渉外部などに勤めるうちに、谷から転訛してトニーと呼ばれるようになり、やがて怪しげな和英折衷語(パングリッシュ)、トニー英語(トニングリッシュ)を操り、ジャズのコンサートなどでMCを務めるようになっていきました(村松友視トニー谷、ざんす』毎日新聞社、1997)。「レディス&ジェントルメン、おとッつあん・アンド・おッかさん、おこんばんは」といった調子です。こう書くとトニー谷は、エセ日系二世風、ないし前回取り上げた軽薄なアメション族のように聞こえますが、村松の見立ては以下の通り。

 

73-4p「トニー・イングリッシュは日本人を揶揄しているように思えるのだが、その半面には占領軍たるアメリカの言葉をもてあそんでいるという要素があった。いや、むしろそこのところに、実はトニー谷という存在の真髄があったのではないだろうか。それは、トニー谷自身の自覚を越えて、あの時代全体を揶揄しているという構造を、トニー・イングリッシュがもっていたからなのだ。そして、トニー谷の軀の奥底にそのような毒がひそかに息づいていたという気がするのだ。/それは、もしかしたら暗い過去をもつものが、明るい世界へ向ける怨年の矢であったのかもしれない。明るい世界には、戦勝国アメリカも入っていたが、そのアメリカに馴染んでゆく戦後の日本のありさまも入っていたし、戦争をはさみながら悠々とくらす芦屋夫人も入っていた。それらへどうしようもない怨念の矢を放つ自分も、むろんその中のひとつだ。つまり、トニー谷の細胞は、あの時代のすべてをお笑い草と把えていたのかもしれないのである」

 

 トニー谷は恵まれた環境で生まれ育ったわけではなく、口先ひとつでのし上がっていき、1950年代前半に全盛期をむかえた芸人でした。「~ざんす」といった奥さま言葉を操ったのも、富裕層に対する「怨念」からだったのかもしれません。そして村松は、外国人を揶揄するような芸風が人気を博した背景には、日本の人々の「怨念」があったのでは、それは力道山が白人レスラーに放つ空手チョップとも通じていたのでは、と述べています。

 しかしそのトニー人気も、愛息が誘拐されるという不運などもあって、50年代後半には急激に低下していきます。1960年代にテレビ番組の司会者として復活するも、1972年の「トニーのガイジン歌合戦」(読売放送)は早々に打ち切りとなってしまいます。

 

193-4p「すでに日本人にとって外人はめずらしくなくなっていた。アメリカは強大国であり、アメリカがカゼをひくと日本がクシャミするという構図はあったが、そのことがアメリカ人対日本人に置きかえにくくなっていたのだ。したがって、アメリカや外人を強者と見立てて、それをからかってみせるトニー谷喝采をおくる感覚は、もう平均的日本人からは消えはじめていたはずだ。(略)むしろ、日本人と外人が仲良く同じ歌を歌うゲームの方が受けそうな時代だったが、それもあまりインパクトがなさそうだ。すでに、外人というだけでは売り物にならない時代に突入していたのかもしれない」

 

 人々の間にアメリカに対する強い愛憎があったからこその、トニー谷人気やヒーロー力道山だったのかもしれません。ハーフではなく、トニー谷のようにイングリッシュネームを使用する人々は、フランキー堺、スマイリー小原、ナンシー梅木フランク永井デニー白川、ジョージ川口マーサ三宅、バッキー白片、ペギー葉山、ベティ稲田、ティーブ釜萢、ディック・ミネダニー飯田、チャーリー石黒、ダン池田(?)などから、GS期のデイブ平尾、エディ藩、ジャッキー吉川ミッキー吉野マイク真木などまでは、本場アメリカへの憧れを感じさせる部分もありました。
 しかし、テリー伊藤、チャーリー浜、ナンシー関ジミー大西となってくると、強くアメリカ(ないし海外)を意識してというよりは、単なる愛称であったり、やや諧謔を含んでいたり、という気がします。これもまた、現在の日本社会における、アメリカの遍在ないし潜在ゆえかもしれません。そういえば、いわゆるキラキラネームにも、漢字にイングリッシュネーム風の読みをあてるケースが多いように思います。

 

(講義関連)アメリカ(48)死語「アメション」について

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(48)死語「アメション」について

 

 朝日新聞の記事データベースに「アメション」と入れてみました。1990年11月30日付夕刊「素粒子」には、「赤ゲット、アメション、洋行帰りなんぞという言葉は遠く、今年の海外渡航1000万人を突破。」とあります。まさに、バブル。

 そして1996年4月22日付朝刊「天声人語」は、上記の素粒子にふれ、

 

「「アメション」とはどういう意味か、との質問が集中した。戦後数年して、国会議員、役人、芸能人らの渡米ラッシュが起こった。ほとんどが、ちょっとアメリカで用を足す、といった程度の中身の薄い短期の旅だったので、上品とはいえないけれどアメにションと呼んだ。当時はだれもが知っていることばだったが、いまや知る人の方がごく少ないようだ。」

 

 と述べています。さらにさかのぼると、1986年4月5日付朝刊の特集「昭和60年間の世相語」は、毎年10語ずつ世相語を並べみたという企画ですが、その昭和25年(1950)の項に曰く。

 

「朝鮮動乱と裏腹に「レッドパージ」と旧職業軍人の追放解除があった。産業界は朝鮮「特需」に息を吹き返した。アメリカは対日講和に乗り出した。アメリカへと草木もなびき「アメション」ということばも生まれた。公金3億円の浮き貸しも「つまみぐい」と片付けられ、日大ギャング事件の犯人はつかまるとき気軽に「オーミステイク」。まったく「とんでもハップン」。」

 

 ハップンはhappenで、思いがけないことが起こったさま。「オーミステイク」といい、まさにアメリカへと草木もなびいていていたわけです。

 

「1949年10月に女優の田中絹代が渡米して以来、翌50年にかけて多くの芸能人、国会議員、文化人たちがこぞってアメリカに旅立ち、メディアが華々しくそれを報じた。そんな彼らを一部のマスコミは、アメリカ帰りという箔(はく)付のためアメリカでションベンだけして帰る、という意味の”アメション”と皮肉ったが、日米交流ブームは時代の流れだった(当時の日本人が渡米するのは今みたいに簡単なことではなかったが)。
この流れに笠置とひばりが乗ったのも別に不思議はない。特にブギを歌う笠置が本場アメリカで歌い、4カ月かけて歌手として見聞を広めることは納得できる。笠置側の名目は”日系人慰問講演”としているが、興行が目的ではないと明言している。ひばり側は”日系二世部隊第百大隊記念塔建設基金募集興行”という”大義名分”で帰国後公開される映画「東京キッド」の撮影も兼ねていた。」(2008年4月15日付朝刊)

 

 これは香川県版に連載されていた「こころズキズキワクワクああしんど」(砂古口早苗)の、笠置シズ子美空ひばりの間に確執があったとされる件に言及した回からの抜粋です。

 アメリカかぶれの「アメション」への中和剤というわけでもないですが、「アメリカ=バビロン」と見立てるレゲエの反米リリックを引いておきます(SPICY CHOCOLATE「米本-アメポン-feat.卍LINE&TONY the WEED」2009年)。

 

「”歴史”が告げる声を聞け ”自然”が告げる声を聞け ”本能”が告げる声を聞け 

 そして危機回避 超えろ危険

 八百万坐します 大和の日本 

 和をもって貴しとなす人々のハートビート たぐり合う糸

 (略)

 お国のためだか お金のためだか わからん連中のイスとりゲーム

 おおわれたベール 金送るメール 日本大セール たたき売るソウル

 アメリカに売っちまったもんは株だけじゃねぇ…

 ヤツらがアメリカに売っちまったもんは株だけじゃねぇ…

 アメリカに売っちまったもんは株だけじゃねぇ…

 俺は俺やお前の為だけに言ってんじゃねぇ」

 

売国劇場ジンマシン」「巧妙なからくりのシステムに同化した極東の道化」などともあり、アメリカ一辺倒なこの国(の支配層)に対して、物申す歌詞なんでしょう。ちなみに卍LINEは、窪塚洋介ラスタファリズムじゃなくて、八百万の神々なんだ…。

 

(講義補遺)アメリカ(47)米系二世としての片岡義男

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(47)米系二世としての片岡義男

 

 小説家・エッセイスト・翻訳家もろもろの片岡義男は、1939年、日系二世の父のもと東京に生まれました。祖父がハワイへと移民し、その子(片岡の父)はアメリカ本土で暮らし、日本で結婚してアメリカに帰ろうとしたときに、日米関係の悪化により日本にとどまることになりました。Wikipediaによれば、片岡家は英語と関西弁が飛び交う場所であり、父親がGHQの仕事をしていた関係で、使い古されたペーパーバックスが大量にあるような家庭だったよう。

 

5-6p「高校生になって僕はLPを買い始めた。(略)日本でLPの時代はすでに始まっていた。僕は立川の米軍基地には出入りすることが出来、そこでかなりの期間に渡ってLPをたくさん買った。バーゲンになっているものは一枚が三十円くらいだったと記憶している。当時の自宅から電車で五つ目の駅で降りるとワシントン・ハイツが目の前で、ここには友人が何人かいて、僕はほぼ自由に入ることが出来た。ここの売店でも数多くのLPを買った」(片岡義男小西康陽『僕らのヒットパレード国書刊行会、2012年)

 

 以前、大瀧詠一細野晴臣が、自身らのアメリカ体験が、メディアを介したヴァーチャルなものだったと語り合った件を引いたことがありますが、少し年代が上のこともあって、片岡義男の場合は、日本に居ながらにしてよりリアルにアメリカンだったと思われます。

 

27-8p「アメリカのものでもっとも強く心に残っているものはなにですか、というような質問をされたなら、それはアメリカの英語です、としか答えようはないのだが、なにか具体的なイメージやかたちを持ったものをあげるなら、他のすべてを捨ててひとつだけ選ぶという無理を承知で、それはロイ・ロジャースです、と僕は答える。/いまはただの人である僕が、その前身のただの子供だった頃、六歳から十歳くらいまでの期間一九四六年から一九五〇年までの四年間に、一年に十本のロイ・ロジャース西部劇映画を観たとして、四年で四十本だ。そのくらいは観ているだろう。日本のなかの占領軍アメリカにごく近いところに日常があったから、そんなことが可能になった。しばしばB級と呼ばれた、やや時間の短い、単純明快な勧善懲悪の展開を持った、歌もアクションもある痛快な活劇映画のスターとして、この時代のロイは最盛期の後半にあった。デイル・エヴァンスとは一九四四年に共演して知り合い、四七年にふたりは結婚して夫婦となった。ロイは「キング・オヴ・ザ・カウボーイ」、そしてその妻は「西部の恋人」と呼ばれた」

 

 そうした片岡少年も、1958年には大学生となります。

 

163-4p「エルヴィス・プレスリーの入隊をもって、それまでの戦後がすべて終わった一九五八年という年を、日本の世相史年表のような本で点検してみると、日劇でウエスタン・カーニバルの第一回が開催される、などという記載があるのを僕は見る。僕が言う新しい日本とは、一例としてこういうことだ。/僕にとっての最初の日本は、アメリカの影響を大きく受けたものだった。もの心つく以前からそうであり、大学生になった頃には、精神の平衡を保つには日本語のほかに英語も必要である、というような状態となっていた。だからたとえば一人で自分の部屋にいて、なにをするでもなくいろんなことをしているときには、ほとんど常にラジオをつけっぱなしにしていた。米軍ラジオ放送網の極東ネットワーク、つまりかつてのAFRS-FENだ」

 

 ビッグバンドがダンスホールなどで人々を躍らせるポピュラー音楽の時代(=最初の日本)が終わり、ビートルズボブ・ディランを経てロックの時代へと至ります。片岡自身も、1960年代のカウンターカルチャーの影響を受けていきます(その後の雑誌『宝島』などを舞台とした展開に関しては以前にもふれたので割愛)。

 片岡に関して興味深いのは、1939年、日系二世の父のもと東京に生まれるという経歴が、かまやつひろしと全く同じことです。かまやつは、ジャズシンガー・ティーブ釜萢の子として生まれ、片岡同様、進駐軍放送(コールサインWVTR)に夢中になり、ジャズやカントリー&ウエスタンにのめり込んでいきます。そして、ご多分にもれず米軍キャンプで演奏の仕事を始めます。

 

37-8p「横田、立川、厚木、横須賀、いろいろな基地を回ったが、当然ながら、キャンプの中はまさに憧れのアメリカそのものだった。/演奏が終わると、「はい、よくできました」という感じでGIがPX(米軍キャンプ内の購買部)でしか売っていないような洋モク、たとえばチェスターフィールドやキャメル、ラッキーストライクをくれたり、ジョニー・ウォーカーを飲ませてくれる。それがとてもうれしかった。ハンバーガーを食べたのも、コカ・コーラを飲んだのも、キャンプの中が初めてだった。/当時の少年たちにとっては、アメリカという国は豊かで大きな存在だった。テレビでアメリカのホームドラマを観ると、どの家にも巨大なGE(ゼネラル・エレクトリック)製の冷蔵庫があり、ハドソン、スチュードベイカー、オールズモービルのようなでっかいクルマを持っていて、華やかなクリスマス・パーティを自宅で開いたりする。まるで夢の世な生活だった。ぼくらの世代はみんなアメリカに憧れて育ったといえるだろう。その憧れのアメリカが、キャンプにはあったのだ。/ちなみに、上野のアメ屋横丁に米軍の放出物資を売っている店があって、アメリカに憧れている若い洒落者はみんなアメ横ジーンズやカウボーイ・ブーツを買いに行った」(ムッシュかまやつムッシュ!』文春文庫、2009年)

 

 その後、GSやフォークシンガーとなっていったことは、よく知られたところでしょう。占領期の日本の子供たちに圧倒的な影響を及ぼしたアメリカですが、よりそれを身近に感じた人々もいれば、ヴァーチャルですらあまり体験しなかった人々もいる。その多様性には留意しておきたいものです。

 

 

今日は授業、院ゼミ、会議など。

 

津田正太郎『ネットはなぜいつも揉めているのか』ちくまプラマリ―新書、2024

三島邦彦『言葉からの自由』宣伝会議、2024

(講義関連)アメリカ(46)日本天然色映画の伊庭長之助

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(46)日本天然色映画の伊庭長之助

 

 

 杉山登志(1936年生まれ、1973年没。享年37歳)。日本のテレビCMの黎明期に現れ、国内外の広告賞を総なめにして、自死をとげたCMディレクター。「伝説のCM作家」「30秒に燃え尽きた生涯」という惹句は掛け値なしのものだと言えます。

 が、今回とりあげたいのは、杉山が所属していた日本天然色映画(略称、ニッテン)というCM制作プロダクションの創業者、伊庭長之助についてです。以下、書影を上げた書籍(2012年刊)に従い、話を進めます。1941年に慶応大学を卒業した伊庭は、在学中はハワイアンバンドを組んだりしていましたが、中国に渡り就職し、現地召集に応じたりもしました。

 

98-9p「焦土と化した内地に復員した伊庭は、すぐさま慣れ親しんだハワイアンバンドを結成し、銀座伊東屋の階上にあったダンスホールのメリーゴールドやエーワン、シルクローズで演奏しながら、進駐軍に占領されて変わり果てた祖国での第二の人生の行く末を、その直感を働かせながらじっくりと眺めていた。それもこれも、伊庭が慶応大学時代に親しんだ軽音楽が、彼の新たな進路を産み出したといえる。ちなみに、日本のハワイアン界の第一人者と呼ばれる大橋節夫(スター・ダスターズ・ハワイアン)や宮崎英夫(コニー・アイランダース)もまた伊庭の大学の先輩に当たる」

 

 バンドマンから足を洗った伊庭は、次に天津時代に身につけた英語力を用いて、進駐軍関連の仕事に就くようになります。まずはCPO(Central Purchase Officeの略)にてPXに卸す商品の買い付けなどを担当します。

 

101p「CPOの廃止は一九五四(昭和二九)年二月で、その業務はJCE(Japan Central Exchange在日米軍中央交易局)が受け継いでいる、同五二(昭和二七)年四月に進駐軍による占領が終わり、業務が残留米軍に順次移管されたためである。ちなみに、伊庭長之助が家庭を持つのは同四九(昭和二四)年、彼が三三歳の時である。廃止当時の日本人スタッフは全員で一三名。その内の伊庭だけが大船PACEX(倉庫地区)に、在米軍バイヤーのアシスタントとして引き抜かれる。伊庭の新天地である米軍倉庫地区は大船と名づけられてはいるが、戦中の日本海軍燃料廠跡地で現在の横浜市栄区の厳密には大船の隣り町にあった。敗戦後に一部が払い下げられ住宅や工場となったが、同五二(昭和二七)年の進駐軍撤退と同時に在日米軍が物資倉庫として使用し始めた地である」

 

 こうした米軍関連の仕事から、広告業への転身の経緯は以下の通り。

 

103p「大船PACEX時代に知り合った知人が、横浜の映画館にスライド広告を上映する仕事をしていた。伊庭はその知人に、同じ仕事を東京の映画館でやるように勧められる。伊庭は先にふれたように、新聞や雑誌だけでなく映像のみの広告がこの世に存在していることを身を以て体験していた。その映像表現には、彼の大好きな音楽も使用できる。活字中心の広告には興味が湧かなかったが、音と映像なれば別である。聞けば競争相手もまだ少なく、時代の最先端を往く職業になるかもしれない。それに、CPO時代に知り合った多くのアメリカ人たちは、映画に対して特別の感情を抱いていて頻繁に映画館(ムービーシアター)に通っていた。彼らにとって映画は、一種の文化であり映画鑑賞は生活の一部でもあった。(略)一九五七(昭和三二)年一月二六日、伊庭は、京浜映画館でスライド広告をかけていた会社の出身者とカメラマンとの三人で、現在のJR新橋駅の西口の港区芝田村町(現在の港区西新橋二丁目付近か)に映画館専用のPRフィルム会社を創業した。正式な会社登記は翌年に当たるので、この時点ではまだ試運転の状態であったが、社名は日本天然色映画と決めていた。ちょうど杉山登志が、日芸に入学しアルバイトに精を出している頃である」

 

 戦前からハワイアンバンドをやっていた伊庭に対して、1936年生まれの杉山にとってのアメリカは以下の通りです。杉山の父は戦後立川で建設関係の会社に勤めていましたが、戦時中は陸軍経理部に所属し、戦後処理業務にも関わっていたため、陸軍所有の土地建物の接収にあたった進駐軍の将校が、父のもとに情報を得るためたずねてきた件です。文中にある弟の傳命は、のちにカメラマンとなります。

 

32-3p「この時、進駐軍の将校は土産にと、ベビールース(キャンディバー)とバターフィンガー(チョコレートでコーティングされたスナックバー)を大量に持参したという。傳命は今でもこの味が忘れられないと、子供の頃の顔に戻って当時を懐かしむ。この味こそ、登志を含めて、杉山家がはじめて出会うアメリカであった。それは富める国アメリカを象徴した味であった。また同市史には、〈立川市内では、米兵が、米軍の衣料、毛布、食料品を持ち歩き、一般家庭にあらわれ、日本貨幣との交換を行ったのもこの頃であった。食料品や衣料品は、すべて配給制度によって行われた。町会を通じて、食料品、トウモロコシ粉、衣料品(キップ制)、靴、なべ、かま、フライパンにいたるまで配給されており、戦災者には、優先的に配給される制度であった〉との記述を発見することができる」

 

 杉山登志中島哲也ら数々の人材を輩出した日本天然色映画も、今はもう存在しませんが、戦後アメリカCM(総天然色!)を追いかける急先鋒だったことはたしかです。

 

 

書評原稿を載せていただいてますが、見逃した文献や勘違い等あり、なかなか恥ずかしい拙稿ですが。

 

今日はZoom会議やら面談やら取材対応やら。