60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(補遺の補遺)アメリカ(58)アメリカとロリータ・ファッション

この前の日曜、たまには…と思い、学会に行ってみる。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺の補遺)「アメリカ」を考える(58)アメリカとロリータ・ファッション

 

 ロリータ・ファッションときくと、小説の「ロリータ」自体がアメリカで書かれたものであるにせよ、作者はロシアからの亡命作家だし、主人公も同様にヨーロッパからアメリカへの亡命者ということで、あまりアメリカとは結びつけて考えにくいかもしれません。また、ロリータ・ファッションも、まぁイギリスとかフランスあたりの匂いがします。

 しかし、嶽本野ばらロリータ・ファッション』(国書刊行会、2024年)など眺めていると、かすかな脈絡も感じられたりします。

 

77p「Jane Marpleに代表されるロリータが、ブリティッシュ志向であるのに対し、田園詩にはアメリカン・カントリーへの標榜があったからです。その頃の僕達はブリティッシュ原理主義に陥っていました。ですからカントリー派であるPINK HOUSEに対し、可愛いと認めつつ、思想が違うと排他的なる傾向を有していました」

191p「フィフティーズ――。頭にスカーフを巻き、或いはポニーテールで、水玉やストライプ柄の膝丈スカートをヒラヒラさせながらツイストを踊るアメリカの黄金期の若者達のファッション。これと同時に革ジャン、アロハシャツなどもフィフティーズの象徴ですが、こちらはキャットストリートに一九七四年にオープンしたCREAM SODAが既に取り扱いを開始していました。/奇しくも同年、子供服のメゾンとしてShirley Templeを立ち上げた柳川れいさんは、CREAM SODAにおいてはカッコいいであったフィフティーズを、“可愛い”ものとして解釈、独自の世界観として提示しました。/といえども、Shirley Templeの項に記したよう、それはイギリスに拠って再構築されたフィフティーズでした。つなり、ヴィヴィアン・ウエストウッドマルコム・マクラーレンが、最初、Paradise Garageの一角で五〇年代のレコードを集めて販売したように、CREAM SODAのフィフティーズにも、Shirley Templeのフィフティーズにもロンドのファクターが掛けられています」

 

 後にパンクの仕掛人となった二人も、最初はテディボーイ・リバイバルを手掛けており、アメリカのユース・カルチャーの引力圏内にいたこと、アメリカからロンドンへの波及が原宿に及んだこと――「CREAM SODA(一九七四年)はロカビリー調の古着を扱いセンセーションを巻き起こしましたが、仕入れはアメリカではなくイギリスで行っていたらしい」(197p)――、さらにはロリータ・ファッションのブランド(嶽本的にはメゾン)が、アメリカの名優Shirley Templeに由来することなどなど。

 戦勝国アメリカのゴールデンエイジの文化的影響は、太平洋も大西洋も越え、もしくはロンドンを経由して東京にまで及んでいたわけです。

 

嶽本野ばら『ハピネス』小学館文庫、2010

 

ロリータ!

 

今日も各種面談など。

(補遺の補遺)アメリカ(57)ヴィジュアル系の原点としてのKISS

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺の補遺)「アメリカ」を考える(57)ヴィジュアル系の原点としてのKISS

 

 ヴィジュアル系という言葉の起源に関しては諸説ありますが、1990年頃X(現X JAPAN)が用いた“PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK”のキャッチフレーズが有力なようです。

 

80-2p「佳樹が11歳の誕生日が近づく頃に、興味の対象を一変させる。行きつけのレコード店で、派手なEP盤のジャケットを手にしたからだった。/「なんて恰好してるんだろう、この人たち……」/佳樹がみつめていたレコードのバンド名はKISSだった。…翌日からは、わき目も振らずKISSのレコードだけを繰り返し聴いた。それまで触れたことのなかったロックというジャンルは、小学校5年生の男の子をいとも簡単に虜にしてしまったのである。/73年に全米でメジャーデビューしたKISSSは、全世界を席捲していた。彼らは、アメリカンコミックに登場する敵役のようなメイクをし、黒いレザーに鎖や鋲のついた派手なコスチュームでステージに現れた。ハードロックと呼ばれるパワフルなサウンドで観衆の熱狂を誘うのだ。…KISSを聴いた芳樹は、母にプレゼントをねだっていた。/「今年はね、ドラムセットが欲しいんだ」/芳樹は衝動的にドラムを叩きたいと思っていた。全身を使ってビートを刻むロックになくてはならないその楽器に特別な力を感じたのだ。/母は、理由を聞くこともなく彼が望むものをいつもの楽器店で購入してくれた。息子への誕生日プレゼントに楽器を贈っていた父親の習慣を、母はそのまま引き継いだのだ」(小松成美YOSHIKI/佳樹』角川書店、2009年)

 

 まぁ、その他、ヨーロッパ由来のGoth(お耽美、退廃・背徳、背教、廃墟、怪奇…)など、いろんなものが絡まってヴィジュアル系は形成されていくので、そんなにストレートにアメリカというわけではないのですが…。でも、KISSは歌舞伎の隈取にインスパイアされた説もあったりするので、何がなんだかよくわからないのですが…。

 

 

 息子が1時間並んだそう。聖地巡礼

 

今日は大阪市内に出てお仕事。

(補遺の補遺)アメリカ(56)1968年、日本でのスティービー・ワンダー。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺の補遺)「アメリカ」を考える(56)1968年、日本でのスティービー・ワンダー

 

 元編集者(婦人生活社→平凡出版・マガジンハウス)の椎根和さんの『“オーラな人々”』(河出書房新社、2009年)より。

 

195-6p「モーテルという形式のドライブインが、日本にはじめてオープンしたのは一九六八年。二年前に開通した有料道路、第三京浜沿いにできた。モータリゼーションは若いサラリーマンにも、自動車を持てる希望をあたえた。ホンダが、三十一万三千円でN360を発売したのは、一九六七年の春だった。マッチ箱スタイルで、まだ冷房装置はついていなかった。/世界初のポータブル・カセット・レコーダーがAIWAから、三万千八百円で売り出された。/ぼくは同じ編集部の石川次郎の“エヌサンビャクロクジュー”で、毎晩、第三京浜を走り、横浜中華街西門にあった「コルト45」というソウルスナックに通った。客は、本牧にあった米軍キャンプの黒人兵と、彼らを目あてに集まる日本娘とハーフの女のコばかりだった。スナックといっても客席はなく、キラキラ輝くジュークボックスが、電装王様のように、なにもない空間に鎮座していた。黒人兵たちは、いまのラップファッションのような、だらしのない格好ではなく、全員が、フェルト帽子に、三つ揃いスーツ。パンツは、まだダブダブではなく、トレアドールパンツ風に、足元にゆくほど細くなっていた。シャツは、玉虫色の、いわゆるヒカリモノ系の生地が多かった。シューズは皮のタッセルスリッポンが粋にみえた。/飲み物は、彼らが“アカダマママ”といって注文する、サントリー赤玉ポートワインをラッパ飲みしていた。ジュークボックスにおさめられていたのは、日本で一番早く、黒人兵たちが持ち込むモータウン系のR&Bのドーナッツ盤ばかりだった。テンプテーションズの「マイガール」、スティービー・ワンダーの「フィンガー・ティップス」、マーヴェレッツダイアナ・ロスシュープリームス、マーサとバンデラスの「ジミーマック」が、いつも流れていた。自分の好きな曲が、流れ始めると、私服制服の彼らは、ソウルステップというダンスを踊った。ぼくと石川は、そのステップを憶えようと、早朝までねばった。ぼくが一番好きだったステップは、ソウルチャチャだった。マンボと一緒に生まれたカリブ海のダンス音楽を、米国の黒人たちが、自分たちの音楽と合体させた。このチャチャのリズムは、現在も日本サッカーの応援歌として生き残っている。そして、R&Bは六〇年代初頭に出現した。それまで白人系シンガーが、甘ったるい綿菓子みたいに、“ハート、ハート”と歌っていたものを、ソウルミュージックは“ラブ”という最終的言葉にかえた」

 

 そうしたソウルミュージックも(ビートルズでさえ)、モータウンレコード社のビジネスにのみ込まれていきます。

 

197-8p「一九六八年の冬、そのモータウン・レビューが、在日駐留米兵の慰問に来る、という噂が流れた。それもテンプテーションズ、マーサとバンデラス、スティービー・ワンダーの組み合わせだ、と発表された。スティービーは、リトル・スティービーといわれ、まだ十七歳になったばかりだった。米軍関係に強かった石川が、立川基地公演取材の話をきめてきた。/N360に乗って、立川基地に行った。モータウン・レビューは、立川基地の屋内バスケットコートで行われた。…観客は、全員、黒人兵とその家族だった。会場にもぐりこんだ日本人は石川とぼく、キョードー東京の創業者というより前年にビートルズ来日を実現させた呼び屋、永島達司、ソウル音楽評論家、R&Bレコードのライナーノーツを、独占的に書いていた桜井温の四人だった」

 

 当時の少年スティービーには、その後ゴッドファーザーとなっていくオーラはなかったとか。

 この本には、渋谷で古本屋めぐり中の植草甚一と出会った話もあります。

 

97-8p「石井書店は、道玄坂を上って、最初の横丁を右にまがり、麗郷という台湾料理屋の反対側の路地を入ったところに、闇市あとの空地とも道路ともつかない妙にほのぼのとした空間にあった、つぶれそうなバラックの店舗が、三軒ほど並んで、その中央に書店があったような気がする。両側はなぜか米軍払い下げの中古衣料品店で、目玉商品としてリーバイスの中古ジーンズなどをぶら下げていた。東、南、西側にはビルの殺風景な背中があった。こんな所にやってくる外国人の姿は、あまり見かけなかったが、石井書店の店先には、パルプマガジンアメリカン・コミックスの古本が乱雑に積まれていた」

(補遺の補遺)アメリカ(55)アメリカ産「テレビ映画」について&恵送御礼

 

富豪刑事』がないじゃないか~とか、突っこもうとしたが、ちゃんとコラムで拾っている…。さすが過ぎます。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺の補遺)「アメリカ」を考える(55)アメリカ産「テレビ映画」について

 

一旦区切りをつけたはずが、またぞろ、だらだらと。備忘代わりに抜き書き2点。

 

荻昌弘「TV映画を憂う:とくに最近のアメリカ映画の氾濫について」1961年9月号『CBCレポート』

7p「なぜ、日本のテレビ界は、今日、このような外国製TV映画の攻勢を迎えねばならなかったのであろう?/その第一の理由は、いうまでもなく、急激に誕生し全国に拡散した日本のテレビ局の、自主的な供給能力が、需要に追いつかなかったためであろう。第二には、これまたいうまでもなく、米国の経済的優位性が、優良な品(TV映画)を、相対的安値で放出し得る能力を所有していたからだ。/この二つの経済的理由を、芸術的側面から照らし直せば、第三に、日本製テレビ番組が、外からの攻撃に対してあまりにも脆弱なほど“つまらなかった”こと、そして第四に、要するにアメリカ製TV映画が、“じつにおもしろく”巧く作られていること――が理由だ、ともいいうる。そして第五、日本における外国テレビ映画の猖獗は、日本のテレビ局が(半ば英断、半ば機械上の必要に迫られて)早くも、そのセリフを日本語化したことに、大きな理由があった、と考えられる。さらに第六の理由として、私たちは当然、この戦後の、日本人のアメリカに対する心理的接近感と、憧憬も、あげなければなるまい」

8p「61年の五月現在、東京のテレビ五局は、週合計六十八本の外国テレビ映画を放映しているという(東京新聞)。数年前、KRTから、はじめてTV西部劇「カウボーイGメン」が送られたころ、多少その内部に立ち合ったことのある私は、ある感慨を持たずに今日のこの隆盛を眺めることはできない。単に本数の点だけではなく、また作品の質のうえでも、今日のはなばなしさは、とうてい数年前に、考え得られなかったものだからである」

 

松山秀明『はじまりのテレビ:戦後マスメディアの創造と知』人文書院、2024

77p(『パパは何でも知っている』)「このようなアメリカ民主主義に根ざした明るく楽しい中流家庭の生活は、新しい家庭のモデルとして日本社会として日本に受容されていく。敗戦後の日本社会にとって、「家族の民主化」が急務であったが、そうした家父長家族から夫婦家族へと転換を迫る一翼を担ったのが、アメリカ製ホーム・ドラマであった。外国製テレビ映画によって日本人は初めて今まで知らなかったアメリカ的生活の内側を見たのである。とりわけアメリカ製の家族劇は、近代的個人主義を土台にして、個我の主張と相互の尊重を基本とする。そもそもホーム・ドラマという英語は存在せず、近代的な感覚を日本人の心に引き起こすことを期待した和製英語独特の響きが、アメリカへの憧憬を示していた。こうした、アメリカの理想化されたホーム像が、日本の連続ドラマ、とりわけホーム・ドラマとして引き継がれていくことになった」

135-6p(バラエティ番組、クイズ番組など)「この背後に、アメリカの影がちらついていたことである。多くの放送史が記述するように、敗戦後、GHQによるマイクの解放によって日本の民主化が図られた。戦後すぐに始まったNHK『街頭録音』や『のど自慢』に限らず、クイズ番組もまた、視聴者参加という形でその役目を担ったことはよく知られている。『話の泉』はInformation Please、『二十の扉』はTwenty Questions、『私は誰でしょう』はWhat’s my nameというアメリカの番組に範をとるよう、民間情報教育局(CIE)ラジオ課による指導があった。丹羽美之(2003)が指摘するように、そもそも日本版のクイズ番組とは、ラジオの民主化という歴史社会的な文脈のなかでCIEがNHKに助言して実現したものだった。ゆえに、「クイズ番組そのものが多分にアメリカ的に匂いを持つもの」(日本クイズクラブ同人編1954:189)だったのである。/このラジオのバラエティに潜んだアメリカの影が、テレビ時代になってなお、バラエティの製作現場に影響を与えつづけたことは、重要な史実である。クイズ番組の人気は、一九五五年を境にラジオからテレビへと移ったと指摘されるが(滝沢正樹・西野知成・石坂丘1966)、このなかで初期テレビのバラエティは、CIE指導下のラジオ時代のバラエティ観を無意識に引きずった。たとえばNHKジェスチャー』や『私の秘密』などが、いち早く視聴者参加の形式となったのは、その証左だろう。/それだけではない。これから本章で見ていくように、日本テレビ『何でもやりまショー』、そして『光子の窓』といった音楽バラエティもまた、多くがアメリカからもってきたアイディアを、日本で開花させたものだった。これはアメリカのテレビ界への憧憬とともに、バラエティというジャンルが、他国のものを真似しやすかったという事情もあったに違いない。さらに初期テレビのバラエティに出演していたのは、米軍キャンプなどでジャズバンドをしていた者も少なくない。それゆえに、初期バラエティのクイズやミュージカルといった表現には、多分にアメリカからの影響を見ることができる」

157p(1964年~『光子の窓』、井原高忠)「そもそも井原が渡米したのは、NBCの特番『ジャパン・スペクタクル』のスタッフの一員として同行したためであった。当時、NBCはロサンゼルス郊外にカラー用の大テレビ・スタジオを建設したばかりで、そこで井原は本場アメリカのショー・ビジネスの実態を目撃する。「とにかく生まれて初めてでしょ、当たり前だけど。もう、死ぬかと思ったね、あんまり嬉しくて」(井原高忠1983:69)。井原はこれまでの自分の演出が映画などから作り上げられた「イメージ」に過ぎないとショックを受ける(小林信彦2006:63)。本番になると、滑車のついたセットが出ては消え、息もつかせぬ演出方法だった。「いったいいかなるところからこの演出方法は生まれたのか」。それを知るため、井原はどうしてもブロードウェイへ行く気になる。ロサンゼルスには一週間の出張だったが、「もう一生アメリカに来られないかもしれない」と思い、ニューヨークへ向かった(井原高忠1983:71)。/ニューヨークに何のあてもなかった井原だが、偶然、CBSに勤める女性と出会う。そこで『江戸・サリバン・ショー』や『ペリー・コモ・ショー』の現場を見学させてもらい、「あらゆる物がブロードウェイの演劇やミュージカルから来てるということ」(井原高忠1983:77)を悟る」

(講義関連)アメリカ(54)最後に「パチンコ」について考える。

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(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(54)最後に「パチンコ」について考える。

 

 講義との関係で、目についたアメリカ関連のもろもろについて書いてきたこのシリーズも、ここでいったん区切りとします(Season2、多分あります。誰も待ってないでしょうが)。

 で、今回取り上げるのは、この2月に出た、玄武岩ほか編『グローバルな物語の時代と歴史表象:『PACHINKO パチンコ』が紡ぐ植民地主義の記憶』(青弓社)です。この本は、2022年にApple TV+で配信されたドラマ(とその原作にあたるミン・ジン・リーの小説”PACHINKO”)についてのシンポジウムがベースになっています。ドラマが取り扱うのは、1910年代から80年代まで。韓国済州島から日本に渡った女性とその孫の男性(アメリカから日本に戻ってくる)との絡みなど、家族の歴史を追った作品です。

 基本的に日韓の物語なので、「アメリカ」に関連づけるのはやや無理があるようですが、在米コリアンの作者が英語で書いた小説が、アメリカでヒットし、それをアップルがドラマ化して世界に配信したという点で、まぁ「アメリカ」というテーマに関連ありそうです。が、話自体は日韓、とりわけいわゆる「在日(ZAINICHI)」をめぐる物語。

 私はApple TV+には入っていないので、中古の円盤(アマゾンで購入)で観ました。本の中では、「なぜドラマ「パチンコ」が日本ではあたらなかったのか」に関する議論も多々あるのですが、日本でのApple TV+利用者の少なさが、まずその大きな要因でしょう。しかし、かつて日本では全く当たらなかった「MAD MEN」の時同様、私はドはまりしました。なにせオープニング曲がかっこいい。アメリカのバンドThe Grass Rootsがカバーした”Let’s Live for Today”(The song that would become "Let's Live for Today" was originally written by English musician David "Shel" Shapiro and Mogol in 1966, with Italian lyrics and the Italian title of "Piangi con me" (translation: "Cry with Me"))。アメリカでの発表は、1967年。

 私にとっては、萩原健一率いるテンプターズがカバーした「今日を生きよう」(1968年)です。子どもなりに聴いたような気もするのですが、調べてみるとデビューシングルのB面だったようで、リアルタイムに聴いたというよりは、1990年頃、CMにこの曲が使われた際に上書きされた記憶なのかもです。でも、カバーであっても、今聴いてもカッコいい。まぁいろいろありましたが、惜しい方を亡くしました。歌謡曲化していった後のテンプターズは、あまりピンとこないですが、一連のなかにし礼のコテコテ歌詞はさすがです(「今日を生きよう」の訳詞もなかにし)。

ザ・テンプターズThe Tempters/今日を生きようLet's Live For Today (1968年) - YouTube

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エースコック 1.5倍 大盛りいか焼そばCM 1989年 15秒 深津絵里 - YouTube

 

 昔からマイナー好きだったので、アイドル然としたタイガースよりは、ショーケン推しだったように思います(ゴールデンカップスモップスも、なんか他のGSとは違うなと感じつつも、当時はよくわからなかった。ダイナマイツやズーニーブーは子どもなんで視野に入らず)。でも、タイガースも、沢田研二岸部一徳(おさみ)、加橋かつみなども当時王子様然として売ってはいましたが、今考えるとけっこう危ない匂いがするラインアップ(加橋かつみ横山やすしが、同(じ)中(学))。岸部一徳の愛称サリーも、「のっぽのサリー(Long Tall Sally)」から来てるのかもですが、いや、そんなかわいらしいものではなく、当時からどこか凄みはあったと思います(当時、サリーと言えば魔法使いだったガキにはとって、サリーのあだ名は非常に違和感)。さらに話逸れますが、映画「リトル・リチャード:アイ・アム・エブリシング」は、私にはツボでした。

 話を急ぎドラマ「パチンコ」と『グローバルな物語の時代と歴史表象』に戻します。本の中には、「『パチンコ』とOTTナラティブのリアリティ:受容者資源論との接点」(イム・ジェンス)という章があります。OTTは、オーヴァー・ザ・トップの略で、要はネットフリックスやアマゾン・プライム、ディズニー+、もちろんアップル・テレビ+などインターネットを通じて、テレビ局などの「頭越し」に、世界中にコンテンツをダイレクトに届ける仕組みを言います。

 そして「受容者資源論」は、おおざっぱに言えば、視聴の履歴を残す視聴者=契約者たち(のデータ)は、プラットフォームにとっては単なる集金源なだけではなく、効果的に広告配信しうる対象であり、広告収入をもたらす資源でもあるという話です。

 これに近しい議論に「プラットフォーム資本主義」があり、昨今続々と本も出ています(ニック・スルネック『プラットフォーム資本主義』人文書院、2022年、水嶋一憲ほか編『プラットフォーム資本主義を解読する:スマートフォンからみえてくる現代社会』ナカニシヤ出版、2023年)。そこで言われている「プラットフォーム」とは、具体的にはグーグル(アルファベット)、アップル、メタ(旧フェイスブック)、アマゾン、マイクロソフト、アリババ、テンセントなどであり、その各種ソーシャルメディアによって利用者のデータが集積され、さらにはUGC(ユーザー・ジェネレイトッド・コンテンツ)によって、プラットフォーム側がその手を煩わせることなくそこにコンテンツが集積されていくようなシステムを言います。そうしたプラットフォームが巨大化し、グローバルな経済圏、ひいては生活圏をなしている現状を、「プラットフォーム資本主義」と呼ぶわけです。

 たしかに、これまでの資本主義の仕組みとは違います。そして、この新たな資本主義をリードするのは、グローバル・インフラと化したインターネットを生んだ「アメリカ」です(アリババやテンセントの今後はわかりませんが)。

 アップルの生み出したコンテンツ「パチンコ」は、ナショナルないしトランスナショナルな物語でありつつ、グローバルなビジネスでもあります。「パチンコ」が、あからさまには「アメリカ、アメリカしていない」コンテンツであることは、逆に潜在的アメリカが世界に遍在している現状を逆説的に示しているようにも思えます。

 と、小難しいこと言いましたが、要はショーケンのカッコよさは、音楽的にブラックっぽい匂い(R&B)がしたことのように思います。憂歌団の「パチンコ」が、また別の文脈でブラックっぽい(ブルース)のと同様に。

 まぁともかく、「パチンコ」のSeason.2が楽しみです。

 

「寺山(修司)さんとは価値観が合わない」爆

 

今日は授業、院ゼミ、それ以外にも学部・大学院教務多々。

 

堀野正人ほか編『都市と文化のメディア論』ナカニシヤ出版、2024

嶽本野ばら米朝快談』新潮社、2013

(講義関連)アメリカ(53)1979年のアメリカと1945年のアメリカ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(53)1979年のアメリカと1945年のアメリ

 

 1932年生まれの評論家・哲学者と1932年生まれのアメリカ文化・文学の研究者とが、1979年に3日がかりで計13時間半、アメリカについて語りつくした記録が残っています(鶴見俊輔亀井俊介アメリカ』エッソ・スタンダード石油株式会社広報部、1979年)。鶴見は戦前アメリカに留学し、プラグマティズムなどについて学んだ経験があり、亀井は戦後アメリカに留学しています。

 

5p「亀井●(略)いまはOLとか大学生とか、たいへんな数の日本人がアメリカへ旅行していて、彼らはもう内村鑑三のように悲壮がらないで、もっと気楽にふるまっている。そういう人たちの持っているアメリカのイメージ……。そして、週刊誌や若者雑誌、グラビアの多い旅行の本がつくるイメージ……。そこには、アメリカ西部の荒野もいちおうはイメージとしてはいっているし、摩天楼がそびえる大都会というイメージもある。とにかく、ごく一般の人びとの中で、アメリカは身近なイメージとなって生きてきているように思います。
鶴見●人前で男女が手をつないで歩くというようなことが、普通になったでしょう。戦争が終わって占領軍の兵隊が日本の女性と手をつないで歩いているのが、日本の男にはきわめて屈辱的だったけれども、その風俗が、アメリカの映画や漫画を通しても、だんだんに日本にはいってきた。戦前のように細君が夫のあとを数歩おくれて歩くというのは、もうあまりないようだね。そこのところは、アメリカがわれわれ日本人の感性の領域まで深くはいっちゃったのじゃないか(略)」

6p「亀井●僕らの経験ですと、新制中学で男女共学が強制された。これもたいへんな文化的事件だったと思いますよ。占領軍のおえら方が来るから、その前で男女生徒のフォークダンスを見せるといって、ダンスをやらされました。当時はまだバンカラ風がのこってましたから、心のなかでは楽しんでいるくせに、フォークダンス反対のストライキをするとかいって騒いだものでした。とにかく、ダンスもまた占領軍のモラル・サポートをうけていた。つまり、キッスやダンスがデモクラシーであるという感じだった……」

 

 戦後約半世紀を経て「いまはアメリカに留学してアメリカ化するというのじゃなくて、日本で暮らしていてアメリカ化するということが、あらゆる面で可能になりましたね」(鶴見、19p)、その一方で「アメリカ風俗がいま日本にどんどんはいっていますね。そのアメリカ化かというのが、ひょっとするとアメリカよりもアメリカ化しているくらいのもの」「東京の新宿、六本木、原宿などの繁華街に生きているアメリカ風の文化というのは、アメリカ以上にアメリカ的なもの」(亀井、19p)という事態も進展していました。

 二人の「しゅんすけ」には、世代差や出身地(東京と木曽)の違いこそあれ、アメリカを観念的にとらえず、かつ一過性の表層的なものとしてもとらえないという一致点があります。

 

98p「鶴見●だれでも食べられる衛生的な食べもの。これが敗戦後の日本とアメリカをつなぐ一つの綱だったね。丸腰になった日本人に、アメリカはどんな過酷なことも強いることができたわけだが、それをしないで、とにかくいろんな食べものを調達し、伝染病がひろがらないように手を打った。第一次大戦後のドイツに対して、イギリスとフランスはたいへんな窮乏を強いて恨みを買ったけれど、アメリカは日本に対してそれをしなかった。だから日本人のアメリカに対して持つイメージは、いま生きているかなりの世代で、まず食いものというのが自然な連想じゃないかな。粉ミルクとパンとマーガリン(略)」

 

 1979年からさらに45年を経て、アメリカの食文化やライフスタイルに対し、強い驚きをもって接した世代も、もう少なくなりました(亀井氏も昨年ご逝去)。

 この対談のなされた1979年の刻印としては、「鶴見●エズラ・F・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がよく売れていますね。日本語訳も売れているし、英語版も日本で売れている。英語版を注文したら品切れだった。/亀井●日本人をよろこばせるのじゃないですか」(106p)の件。多幸感あふれる日本の80年代へのとば口感が、ひしひしと伝わってきます。それに対する鶴見俊輔のカウンターの言葉。

 

121p「鶴見●占領時代にわれわれが落ちこんだ劣等感を忘れて、ご破算にしてというのじゃいけないんだ。私はつい最近になって、沼正三の『家畜人ヤプー』を読んだんだが、あれは占領文化の重大な所産で、あれから手を放してはいけないという気がする。沼正三は復員兵として日本に帰ってきて、ものすごい劣等感に陥ったんだな。その劣等感を、白人の女性に対して這いつくばって暮す人間の感情として造型しているのが、『家畜人ヤプー』でしょう」

 

 最後に、二人にとっての「アメリカとは」に関して、もっとも肝だと思った個所を引いておきます。

 

120p「鶴見●アメリカ思想がわれわれにとって意味があるのは、日本のインテリのなかに明治以後つねにある観念的な狂信への、一種の解毒剤としてであってね。ヨーロッパに追いつけ追いこせで、観念の最高のものを握ったと思えば全部がそこで新しくなるという考え方に対して、つねにその足を引っぱる役割をする。で、どういう暮らしをするの、何を食っていくの、というのが、福沢諭吉以来アメリカ思想としてあったでしょう。
亀井●頭より胃袋よね」

 

 やはり、鶴見はプラグマティズムの思想家だし、亀井はアメリカ大衆文化の碩学です。

 

(講義関連)アメリカ(52)バブルの頃、日本版WASPなるものが。

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(52)バブルの頃、日本版WASPなるものが。

 

 WASP。本来はWhite, Anglo-Saxon, Protestant. の略で、かつてアメリカの支配層、エリート層であった北欧出自の白人たちのことを言います。まずイギリスあたりから東海岸に入植してきた人々の子孫で、ネイティブアメリカン、アフロアメリカン、アジア系、ラティーノムスリムなどはもちろん、ユダヤ系、南欧系(カソリックが主)、東欧系(正教会など)などに対しても、以前ほどではないにせよ依然メインストリーマーとして存在している人々のことです。

 そうしたWASPを前提として、1989年に月刊アクロス編集室『WASP 90年代のキーワード:日本人はいま、どこにいるのか?』(PARCO出版)という本が出版されました。

 

13p「それは“White-collar, Americanized, Suburban, Private”の略である。すなわち職業はホワイトカラー、ライフスタイル・行動様式はアメリカナイズされ、郊外に住み、私生活尊重で個人主義的、というイメージをキーワード化したものである。それは戦後の日本人が、大衆レベルで追い求めてきたもののキーワードであり、一九八〇年代を通じて完成されて来た生活・文化のキーワードである。そしてそのキーワードを最もよく形象化してみせているのが「第四山の手」ではないかと思う。/以下本書では、豊かな大衆消費社会を築き上げた一九八〇年代の日本の原点を、三〇年前のアメリカに求めながら、翻って現在の日本人が今一体どのような文化段階にいるのか、そして今日本人が抱える問題を考えていくにしたい」

 

 1998年に休刊となった『アクロス』(ないし『流行観測アクロス』)はマーケティング情報誌であり、トレンドをとらえる、さらにはトレンドを予測する多くのキーワードを世に送り出しました。中でも、人口集中する首都圏において「山の手(中産階級向けの新興住宅地)」がより郊外へと遷移したことによる「第四山の手」は、比較的バズった言葉です(WASPは残念ながらですが)。

 内容をいちいち説明するのも何なので、章タイトルを拾っていきます。

 

第一部ギブ・ミー・アメリカンドリーム!
 第一章ブロンディの夢
 第二章キャデラックの誘惑

第二部ジャパニーズ・グラフィティ
 第三章マクドナルドとハーゲンダッツ
 第四章コカ・コーラナイゼーション
 第五章ショートケーキハウスの起源
 第六章テーブルの上のアメリ

 

 第三部のタイトルは「ギブ・ユー・ジャパニーズドリーム?」で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン時代」における「アメリカンドリームからジャパニーズドリームへ」、ジャパニーズWASPがアジアに影響を及ぼし「アジアのセンター性強まる日本」など、35年後からみれば、その振り切った夜郎自大ぶりは清々しいばかりです。そして、当時のいわゆる団塊ジュニアたちの意識を次のように描いています。

 

244-6p「一九八六年の夏から八七年の秋口まで、ティーンズのメッカ渋谷では「アメカジ」と呼ばれるファッションが大流行した。アメカジとかアメリカン・カジュアルの略であるが、実施は必ずしもアメリカ的であるわけではない。ただ、非常にカラフルでスポーティブである点、バットマンアメリカンフットボールのチームであるレイダースなどのロゴが付いている点などに、なるほどアメリカ的かと思わせるものがあった。

しかし問題はファッションそのものにあるのではない。そうしたファッションを平気で着こなすことのできる彼らの感性の変容こそが問題なのである。そもそも本書のテーマであるジャパニーズWASPという概念が生み出された背景のひとつが、このアメカジファッションにあった。そこからは明らかに日本とアメリカの文化的関係の変化が見てとれたからである。

一九七〇年代にもUCLAやYALEなどのアメリカの大学名の入ったトレーナーが流行したことがあったが、アメカジはそれとは異なってきている。七〇年代にはまだやはりアメリカそのものを輸入してきているという感じが強かったが、アメカジの場合はアメリカ的なるものを勝手にアレンジしてしまったようなところがある。今のティーンズにとってアメリカはもはや遠い憧れの対象ではないし、豊かさや強さのシンボルでもない。

おそらく彼らにとってアメリカは今や大衆性とチープさの記号なのではないか。けばけばしくテカテカとしたビニール素材のバッグやカラフルなシューズやポロシャツは、必ずしも趣味がいいとも、洗練されているとも思えない。が、その大量生産的な安っぽさこそが、かえって日常的なアメリカを感じさせる。それは彼らが、これまで見てきたように生活の隅々に至るまでアメリカ的な環境の中で育ってきたからこそであろう。彼らにはもうアメリカと日本の区別はつきがたくなっているのではないだろうか」

 

 アメリカが、暗黙の裡に、デフォルトとなって遍在・潜在している日本社会、という見立ては当たっていたものの、そのことによってアジアへの影響力を有するセンター・日本という自画像は、遠い過去のものとなった感、ひしひしとします。

 

 

 最近、外向きベンチも追加されたF号館前。中央講堂横にもあったはず。

 

 今日は、面談、会議、学部での研究会など。

(講義関連)アメリカ(51)国道16号、横須賀から木更津まで。&恵送御礼

島根県立石見美術館の方から。以前、「ファッション イン ジャパン1945-2020」展の図録づくりに関わった関係で、ご恵送いただく。中原淳一展を催すとのこと。戦後の解放感とシンクロしてるし、やはりどう見てもオードリー。

母方の祖父が大和紡績の益田工場にいた関係で、益田が母の生地。一度行きたいとは思いつつ…

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(51)国道16号、横須賀から木更津まで。

 

 まずは横山剣(1960年、横浜出身)率いるクレイジーケンバンドの「タイガー&ドラゴン」(2005年)の歌詞から。

 

トンネル抜ければ 海が見えるから そのままドン突きの 三笠公園

あの頃みたいに ダサイスカジャン着て お前待ってるから 急いで来いよ

俺の俺の俺の話を聞け! 2分だけでもいい 貸した金の事など どうでもいいから

おまえの愛した 横須賀の海の優しさに抱かれて 泣けばいいだろ ハッ!

 

 子供の頃から音楽やファッションに興味津々だった剣さんは、次のように述べています。

 

152p「おれはアイビーというセオリーにがんじがらめになった型通りのスタイルはあまり好きではないけれど、アイビーを崩したジャジーで黒人っぽい着こなしには憧れていた。/例えばマイルス・デイビスのコンポラのスーツにナロー・タイというスタイルとか。/東京のみゆき族は七五三みたいで服に切られている感じがしたけれど、横浜や横須賀の不良の着こなしは「服を着倒す」って感じで全然垢抜けていたんだ。/たとえスタジアム・ジャンパーを着ても、スリッポン履いても、カレッジっぽくならない。可愛いショウちゃん帽でさえ、逆に凶悪で不気味なムードを増幅するアイテムになったりするんだから最強だ。/パンツも踝ぐらいの長さで、スリムなトップ。スカマンだね。ヨコスカ・マンボ。/そのあたりのセンスがやっぱり1960年代後半から‘70年代初頭のヨコハマ&ヨコスカンな不良スタイルだったんじゃないかな」(横山剣『クレイジーケンズ マイ・スタンダード』小学館、2007年)

 

 今なお基地の街横須賀はもちろん、1982年に本牧の米軍住宅地区が返還される横浜には、東京よりもアメリカに近い街という自負があったのでしょう。

 横須賀から発した国道16号は、横浜や相模原、福生、入間・狭山など米軍基地に縁の深い街を結んで、千葉の木更津まで東京郊外を外周しています。

 

125p「二〇一七年現在、相模原市には、三カ所のアメリカ軍関連施設がある。現在の南区と戦後分離した座間市にまたがる「キャンプ座間」(陸軍士官学校と練兵場の跡地)、南区の「相模原住宅地区」(陸軍電信第一連隊の跡地)、そして中央区の「相模総合補給廠」(陸軍造兵廠の跡地)である。いずれも旧陸軍の時代から軍用地として使用され続けている土地であり、それらもまた現在の相模原に残された軍都の痕跡である」

139p「確かに、十六号線沿いには、多少、「アメリカン」な店舗が並んでいるし、十六号線と沿うように走るJR八高線とわらつけ街道沿いには古びたアメリカ軍ハウスが現在も点在している。また地元の商店会も「基地の街」や「アメリカンな雰囲気」を特色として打ち出している。だが、現在の福生で、何よりも「基地の街」とのリアリティが希薄化しているように思えるのである」

160-1p「鈴木芳行『首都防空網と〈空都〉多摩』によれば、そもそも東京の外郭に円弧をなす十六号線は「日中戦争後に急浮上した軍用道路構想」の産物であり、この道路がつなごうとした東京近郊の軍事都市群は首都防衛の役割を担っていた。
 日中戦争後、埼玉往還の沿線では、多摩に〈空都〉化が進行し、軍港横須賀、軍都相模原、〈空都〉立川、〈空都〉所沢など、千葉県の東京沿岸には軍都柏、軍都市川、軍都千葉、軍都習志野、軍都木更津などの軍事都市が顕在化した。(略)軍事都市は膨大な重工業製品を需要し、かつ軍事産業製品も供給するから、埼玉往還と千葉県下の道路を結び、東京の外郭をぐるりと循環する道路とし、沿線の軍事都市と京浜工業地帯を連絡させて、軍事産業製品などの輸送を目的とする軍事用道路とする構想が急浮上、まず埼玉往還を優先し、道路橋の建設、道路の拡幅や舗装などの事業が施工された」(塚田修一・西田善行『国道16号線スタディーズ:二〇〇〇年代の郊外とロードサイドを読む』青弓社、2018年)

 

 そういえば、上條淳士のマンガ『SEX』(1988~1992年)には、八高線東福生駅京浜急行汐入駅などがでてきます。

 そして、終着地点である木更津と言えば、氣志團。学ランや暴走族(マンガ)風といった意匠と、リーゼントやロックンロールとが、「解剖台の上のミシンと傘の偶然の出会い」的な趣を醸しています。

 

 

今日は打ち合わせ、面談、会合など。

 

津田正太郎ほか編『ソーシャルメディア時代の「大衆社会」論』ミネルヴァ書房、2024

白土由佳『はじめてのソーシャルメディア論』三和書籍、2024

塚本明『伊勢参宮文化と街道の人びと』吉川弘文館、2024

(講義関連)アメリカ(50)ミック立川と1969年をめぐって

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(50)ミック立川と1969年をめぐって

 

 前回、イングリッシュネーム持ちの人々という話をした流れで、GS(ザ・ルビーズ)時代ミック立川と名乗っていたという立川直樹(1949年生まれ)の『TOKYO 1969』(日本経済新聞出版社、2009年)を題材にします。川添象郎などと同様に、プロデューサー業の常として、やったことが明示化できない憾みはありますが、1970年代以降音楽プロデューサー、音楽監督として幅広い仕事をした人のようです(川添象郎『象の記憶:日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー』DU BOOKS、2002年)。

 

33p「現在は高速道路が通る六本木通りに走っていた都電。六本木の交差点を飯倉に向かって一つ目の信号の角にあった”ザ・ハンバーガー・イン”も遂になくなってしまったし、”ザ・ハンバーガー・イン”と並んで二十一世紀に入ってもまだ頑張って存在していた”ジョージ”もTOKYO MIDTOWNの工事が始まる時に伝説のヴェールの中に姿を消してしまった。/勿論、赤坂の”ニュー・ラテン・クオーター”も”ビブロス”も”MUGEN(ムゲン)”も既に伝説の存在」

 

 森永博志との対談では、植草甚一が渋谷の古書店で漁書していた件に話が及び

 

130-1p「――恋文横丁の所?

「そう。ちっちゃい古雑誌屋で、僕もしょっちゅう行ってたけど、やっぱりその時『エスクァイア』と『ヴォーグ』見て憧れたもんね。”格好いいな”みたいに。その時代だと雑誌の『ローリング・ストーン』の編集やるのはまだ格好いいと思われていて、七四、五年に日本版『ローリング・ストーン』が創刊されるけど、やっぱり『ヴォーグ』は凄い格好いいと思ったよね」

――わかる。その感じ……。渋谷のあの場所も……。

「古雑誌屋、古本屋、新宿にはない」

――六本木には誠志堂古書部があった。俳優座の向かいにあって、十七、八の時に行くと『PLAYBOY』があった。米兵が売っていった」

 

 森永博志(1950年生まれ)は、ピンクドラゴンの山崎眞行の評伝などもあり、日本におけるアメリカンなユースカルチャーの生き証人の一人。
 新宿に関しては、立川とJ・A・シーザーの対談にて

 

202-3p「「僕は”ジ・アザー”のソウル・ブラザーズと一緒に踊ってたこともあるんですよ」

――え、想像がつかない……

「最初に”アップル”というゴーゴー喫茶が”ヴィレッジ・ゲート”の隣に出来たんですよ。女はタダで、男は一〇〇円だったかな。ただナンパするためだけに行くようなとこで、そこで最初に聴いたのがジミ・ヘンをそのまんまコピーした『パープル・ヘイズ』だったな。そんなのを聴きながら踊って、ナンパしてはという感じだったんだけど、そのうちに踊りを覚えてくると、やっぱり”ジ・アザー”のほうに行ってソウルの踊りをということになって……」

――クックとかニックとか……。

「そうそう。で、ソウル・ブラザーズとやるようになるんですよ。けっこう受けたんですよ。『サタデー・ナイト・フィーバー』じゃないけど、僕らが踊ってた時には広がってくれたし、ソロで踊ったこともありましたね(笑)。けっこう、踊り好きだったんですよ」

 

 新宿カウンターカルチャーの申し子、J・A・シーザーがソウルステップというのは意外ですが、アンダーグラウンドな文化という点では通底していたのでしょう。そう言えば、ソウルブラザーズ(LDHではない!)も、ニック岡井、クック豊本、チャッキー新倉でした。(ソウルブラザーズに関しては、このシリーズの初回、田代まさしの語りの中にも登場)https://sidnanba.hatenablog.com/entry/2024/04/01/000000

 空間プロデューサー岡田大貮(1946年生まれ)との対談では、前出の川添象郎の話も出てきます。

 

276p「――パリに行く前、六八年から六九年ぐらいの時の東京だと、どの辺に一番行っていたんですか?

「六九年頃だと、僕の兄が川添さん、象郎さんと慶應で同期だったんですね。川添さん、六本木”スピード”というディスコをやってたから、そことか”シシリア”とかそれから……。ピザ屋がとにかく格好いい!」

――”ニコラス”とか……

「そう、”ニコラス”にバーがあって、そこでドライマティーニを飲むんだということを大人から教わって。僕等はまだ学生の頃ですよね。十八か十九歳の頃かな。それで真似事をしてね。当時はピザ屋が一番格好よかったんです」」

 

 ニコラスに関しては、ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』(角川文庫、2002年)参照のこと。1980年代、バブル期の東京を経験して、私もこうした大人たちの存在はなんとなく感じてましたが、夜遊びするくらいなら早く家帰って本読んで、レンタルレコード聴いて、レンタルビデオ観たい人間だったしなぁ……。

 その頃、たしか「1969」という映画も観たはず。村上龍原作の「69 sixty nine」ではなくアメリカ映画。1988年の作品で、キーファー・サザーランドも出てたけど、まったく評判にならず。当時はなぜかベトナム戦争を回顧するアメリカ映画がやたらと作られていました。やっと、冷静に振り返られるようになった、ということなんでしょうか。

 

 

今日は通院からの、面談や会議など。

(講義関連)アメリカ(49)トニー谷というトリックスター

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(49)トニー谷というトリックスター

 

 戦後昭和期に活躍したボードビリアントニー谷。1917年東京下町に生まれ育ち、復員後は本名大谷正太郎からとった「谷正」と名乗り、米軍キャンプやアニー・パイル劇場(現東京宝塚劇場)、東宝渉外部などに勤めるうちに、谷から転訛してトニーと呼ばれるようになり、やがて怪しげな和英折衷語(パングリッシュ)、トニー英語(トニングリッシュ)を操り、ジャズのコンサートなどでMCを務めるようになっていきました(村松友視トニー谷、ざんす』毎日新聞社、1997)。「レディス&ジェントルメン、おとッつあん・アンド・おッかさん、おこんばんは」といった調子です。こう書くとトニー谷は、エセ日系二世風、ないし前回取り上げた軽薄なアメション族のように聞こえますが、村松の見立ては以下の通り。

 

73-4p「トニー・イングリッシュは日本人を揶揄しているように思えるのだが、その半面には占領軍たるアメリカの言葉をもてあそんでいるという要素があった。いや、むしろそこのところに、実はトニー谷という存在の真髄があったのではないだろうか。それは、トニー谷自身の自覚を越えて、あの時代全体を揶揄しているという構造を、トニー・イングリッシュがもっていたからなのだ。そして、トニー谷の軀の奥底にそのような毒がひそかに息づいていたという気がするのだ。/それは、もしかしたら暗い過去をもつものが、明るい世界へ向ける怨年の矢であったのかもしれない。明るい世界には、戦勝国アメリカも入っていたが、そのアメリカに馴染んでゆく戦後の日本のありさまも入っていたし、戦争をはさみながら悠々とくらす芦屋夫人も入っていた。それらへどうしようもない怨念の矢を放つ自分も、むろんその中のひとつだ。つまり、トニー谷の細胞は、あの時代のすべてをお笑い草と把えていたのかもしれないのである」

 

 トニー谷は恵まれた環境で生まれ育ったわけではなく、口先ひとつでのし上がっていき、1950年代前半に全盛期をむかえた芸人でした。「~ざんす」といった奥さま言葉を操ったのも、富裕層に対する「怨念」からだったのかもしれません。そして村松は、外国人を揶揄するような芸風が人気を博した背景には、日本の人々の「怨念」があったのでは、それは力道山が白人レスラーに放つ空手チョップとも通じていたのでは、と述べています。

 しかしそのトニー人気も、愛息が誘拐されるという不運などもあって、50年代後半には急激に低下していきます。1960年代にテレビ番組の司会者として復活するも、1972年の「トニーのガイジン歌合戦」(読売放送)は早々に打ち切りとなってしまいます。

 

193-4p「すでに日本人にとって外人はめずらしくなくなっていた。アメリカは強大国であり、アメリカがカゼをひくと日本がクシャミするという構図はあったが、そのことがアメリカ人対日本人に置きかえにくくなっていたのだ。したがって、アメリカや外人を強者と見立てて、それをからかってみせるトニー谷喝采をおくる感覚は、もう平均的日本人からは消えはじめていたはずだ。(略)むしろ、日本人と外人が仲良く同じ歌を歌うゲームの方が受けそうな時代だったが、それもあまりインパクトがなさそうだ。すでに、外人というだけでは売り物にならない時代に突入していたのかもしれない」

 

 人々の間にアメリカに対する強い愛憎があったからこその、トニー谷人気やヒーロー力道山だったのかもしれません。ハーフではなく、トニー谷のようにイングリッシュネームを使用する人々は、フランキー堺、スマイリー小原、ナンシー梅木フランク永井デニー白川、ジョージ川口マーサ三宅、バッキー白片、ペギー葉山、ベティ稲田、ティーブ釜萢、ディック・ミネダニー飯田、チャーリー石黒、ダン池田(?)などから、GS期のデイブ平尾、エディ藩、ジャッキー吉川ミッキー吉野マイク真木などまでは、本場アメリカへの憧れを感じさせる部分もありました。
 しかし、テリー伊藤、チャーリー浜、ナンシー関ジミー大西となってくると、強くアメリカ(ないし海外)を意識してというよりは、単なる愛称であったり、やや諧謔を含んでいたり、という気がします。これもまた、現在の日本社会における、アメリカの遍在ないし潜在ゆえかもしれません。そういえば、いわゆるキラキラネームにも、漢字にイングリッシュネーム風の読みをあてるケースが多いように思います。