135-6p(バラエティ番組、クイズ番組など)「この背後に、アメリカの影がちらついていたことである。多くの放送史が記述するように、敗戦後、GHQによるマイクの解放によって日本の民主化が図られた。戦後すぐに始まったNHK『街頭録音』や『のど自慢』に限らず、クイズ番組もまた、視聴者参加という形でその役目を担ったことはよく知られている。『話の泉』はInformation Please、『二十の扉』はTwenty Questions、『私は誰でしょう』はWhat’s my nameというアメリカの番組に範をとるよう、民間情報教育局(CIE)ラジオ課による指導があった。丹羽美之(2003)が指摘するように、そもそも日本版のクイズ番組とは、ラジオの民主化という歴史社会的な文脈のなかでCIEがNHKに助言して実現したものだった。ゆえに、「クイズ番組そのものが多分にアメリカ的に匂いを持つもの」(日本クイズクラブ同人編1954:189)だったのである。/このラジオのバラエティに潜んだアメリカの影が、テレビ時代になってなお、バラエティの製作現場に影響を与えつづけたことは、重要な史実である。クイズ番組の人気は、一九五五年を境にラジオからテレビへと移ったと指摘されるが(滝沢正樹・西野知成・石坂丘1966)、このなかで初期テレビのバラエティは、CIE指導下のラジオ時代のバラエティ観を無意識に引きずった。たとえばNHK『ジェスチャー』や『私の秘密』などが、いち早く視聴者参加の形式となったのは、その証左だろう。/それだけではない。これから本章で見ていくように、日本テレビ『何でもやりまショー』、そして『光子の窓』といった音楽バラエティもまた、多くがアメリカからもってきたアイディアを、日本で開花させたものだった。これはアメリカのテレビ界への憧憬とともに、バラエティというジャンルが、他国のものを真似しやすかったという事情もあったに違いない。さらに初期テレビのバラエティに出演していたのは、米軍キャンプなどでジャズバンドをしていた者も少なくない。それゆえに、初期バラエティのクイズやミュージカルといった表現には、多分にアメリカからの影響を見ることができる」
私はApple TV+には入っていないので、中古の円盤(アマゾンで購入)で観ました。本の中では、「なぜドラマ「パチンコ」が日本ではあたらなかったのか」に関する議論も多々あるのですが、日本でのApple TV+利用者の少なさが、まずその大きな要因でしょう。しかし、かつて日本では全く当たらなかった「MAD MEN」の時同様、私はドはまりしました。なにせオープニング曲がかっこいい。アメリカのバンドThe Grass Rootsがカバーした”Let’s Live for Today”(The song that would become "Let's Live for Today" was originally written by English musician David "Shel" Shapiro and Mogol in 1966, with Italian lyrics and the Italian title of "Piangi con me" (translation: "Cry with Me"))。アメリカでの発表は、1967年。