ブルー・アイランド版「ポッペアの戴冠」~不適切だけどうらやましい~

今日は本日観劇した、青島広志先生プロデュース、ブルー・アイランド版「ポッペアの戴冠」の感想を。女房がダミジェラ役を演じた昼公演を拝見しました。例によって衒学的かつ浅薄な文章ダラダラ並べて参りますけど、いい所に着地するかどうかは保証の限りではございません。長文になりますので、お時間があれば是非。最後まで読んでいただけたら本当に幸いでございます。

毎回、元のオペラのお話を離れ、青島広志先生ならではの飛躍と諧謔に溢れた全く別物のエンターテイメントに仕上げてしまうブルーアイランド版ですが、過去拝見したブルーアイランド版「こうもり」と「蝶々夫人」が、それぞれの作品自体の物語や設定の読み替えだったのに比べて、オペラという表現が始まった最初期、ルネサンス後期バロックオペラの傑作、という作品の位置付けもあってか、オペラの歴史や時代背景を強く印象付ける読み替えだったなぁ、というのが一番の感想です。

もともと、「ポッペアの戴冠」を初めて拝見したのが、東京室内歌劇場で1997年に市川右近さんが演出した、歌舞伎版「《花盛羅馬恋達引(はなのろおまこいのたてひき)ポッペアの戴冠》」だったんですよね。ネロとポッペアの物語を、平安王朝の物語に読み替え、演出を全て歌舞伎の所作にした意欲的な演出。字幕監修を、「オペラと歌舞伎」の著者、永竹由幸先生が担当されていたのも面白かった。つまるところ、時の権力者が傾城の美女に心惑わされて世が乱れる、という基本ストーリー自体、権力と性欲がある場所ならどんな時代でもハマってしまうお話で、それがローマ帝国であろうが平安時代の王朝であろうが物語としては成立してしまうんですね。金毛九尾の狐は時間と空間を超えてあらゆる次元に遍在している。

そんな一種普遍的な物語の舞台として、今回、青島先生が選んだのは、昭和40年代、高度成長期の池袋の暗黒街。青島先生の個人的な体験をベースにした読み替えの多いブルーアイランドらしいなぁ、と思うのだけど、それ以上の意味もあるのかもな、とちょっと思ったりしました。

もともとルネサンス自体、猖獗を極めたペストと十字軍の失敗によって地に落ちた教会の権威とヨーロッパの旧秩序に対して、ギリシアローマの人間中心の世界観に回帰しようとする文化運動だったのだから、太平洋戦争の敗戦と占領統治下において、国土が焦土と化し、旧秩序が破壊された東京が、高度経済成長によって発展していく昭和40年代、という時代自体、東京のルネサンス期であったと言えなくもない。こういう秩序の崩壊と復興の時期には新勢力の権力者が勃興してくるのは時代の常で、チューザレ・ボルジアも教会権力の世俗化の波に乗ってのし上がったのだし、池袋の暗黒街のギャングだって、戦後の闇市進駐軍の払い下げ品とか怪しげな流通仕切ってのし上がってきた連中だったんだろう。

青島先生がおっしゃるように「池袋駅近辺が怖い場所だった」昭和40年代は、逆に池袋駅近辺がものすごくエネルギッシュで面白かった時代で、それってルネサンス期の文化芸術にもつながるワクワク感だったんじゃないかな。まぁきっと「不適切にもほどがある」時代だったんだろうけど、でもだからこそ面白い。

この、オペラが生まれた時代を意識させる読み替え、という点で、すでに今回の公演は、オペラという表現形態の歴史を意識させる舞台になっているんだけど、もう一つ、オペラの歴史を考えずにいられない大変「不適切」な仕掛けがあって、それが極端なまでに巨大化してカリカチュアライズされたポッペアのオッパイなんですよ。もともとポッペアという名前自体、オッパイという意味の言葉から来ているそうなのだけど、ポッペア役の板波利加さんが巨大なオッパイ(作りものですよ)をさらけ出して登場した時はかなり客席がどよめきました。

冒頭、運命の神と美徳の神(青島版では、富の神(成金富豪)と正義の神(池袋署員))の論争に対して、愛の神(アモーレ=キューピッド)が、「私の言葉で世界は変わる」と宣言するシーンから、このオペラのテーマは明確で、「必ず愛は勝つ」っていうのがテーマなんだよね。愛、というと美しく聞こえるんだけど、要するに性欲、ないし性愛。「エロ」が最高、というのがこのオペラのメインテーマ。自分が初めて東京室内歌劇場のポッペアを見た時にも、「結局エロが勝つんかーい」と思い切り突っ込みたくなった記憶があります。なんて不適切なオペラだ。

でも、禁欲的なキリスト教秩序が凋落した先に生まれたルネサンスが、人間讃歌として「性」を謳歌するのは自然な流れで、ルネッサンスを代表する文学作品である「デカメロン」がエロ話に溢れているのは有名な話。そもそもヨーロッパにルネサンスをもたらしたアラビア世界には「アラビアンナイト」というエロ文学の金字塔がある。そういう意味でも、オペラの草創期の傑作である「ポッペアの戴冠」が、既存秩序を破壊する稀代の悪女のピカレスクロマンであると同時に、性愛(エロ)こそが、人間を、時代を動かす、というテーマを持っているのは、まさにルネサンスという時代のなせる技と言っていい。

そう考えると、昭和40年代っていうのも今の時代と比べれば「性愛」に対する表現はよほど自由だったんじゃないかと思いますけどね。戦前に巻き起こったエロ・グロ・ナンセンスのブームは、戦中の思想統制・検閲によって一旦滅びたけど、戦後の混乱期から再び、「表現の自由」の旗印のもとになんでもありの時代を迎える。まさに昭和40年代を活動の中心とした日本ヌーベルバーグの映画人たちが盛んに取り上げたのも、社会からはじき出されたアウトローたちの反社会的行動と奔放な性衝動でした。

「エロ」がオペラという表現の初期段階の大きな主題であった、ということを、巨大なオッパイゆさゆさ揺らしたポッペアが強調するのを見ていると、自分としては、なんとなく2つのオペラを連想しちゃったんですね。一つが、ワーグナーの「タンホイザー」。そしてもう一つが、プーランクの「ティレジアスの乳房」。

愛欲の女神ヴェーヌスの官能の愛に溺れ、教会から破門される、という騎士タンホイザーの物語自体、キリスト教の持っている禁欲的倫理観と、「エロ=性愛」の対立と葛藤がテーマになっている。煩悩からの脱却や絶対的愛を掲げる宗教が洋の東西を問わず必ずぶつかるテーマなんですかねぇ。親鸞聖人の「女犯の夢告」、雨月物語の「青頭巾」から、ブライアン・デ・パルマの「キャリー」に至るまで、宗教の持つ性的潔癖の要請と性愛の間の葛藤をテーマにした芸術作品は一杯ある。権力志向強くて現世的欲求の塊だったワーグナーの作品がちょっと胡散臭く聞こえちゃうのに比べると、「エロ無敵~!!」とハートマーク作ってしまうモンテヴェルディ先生の方が個人的にはなんか共感できるんですけどね。

「エロ」と禁欲的倫理観の葛藤、という切り口ではなく、「乳房」=「女性なるもの」というジェンダー的な社会規範を諧謔で笑い飛ばしたのがプーランクの「ティレジアスの乳房」で、ここで乳房は、女性の社会的地位を抑圧する器官として否定され、風船のように空に飛び去ってしまう。乳房=「エロ」ないし育児のための器官が、逆に女性の行動を規制してしまう、というのが産業革命以降の工業社会が進めた男女の分業体制の歪みで、そういう観点でも、乳房=「エロ」で権力者を翻弄したポッペアのシンプルな悪女ぶりがちょっとうらやましくなったりもしますね。

キリスト教的因習から人間を開放するはずだった「性」が、ジェンダーによる社会の分業体制とその強要、という別の抑圧システムへと変貌してしまった20世紀初頭。そして今や、その抑圧システム自体を弾劾する「社会正義」が、表現の自由に対する別の抑圧システムとして機能し始めている感じもします。色んな意味で「不適切」な表現も多いブルーアイランド版「ポッペアの戴冠」を見ながら、なんだかモンテヴェルディが自由で楽しそうでうらやましく感じちゃったのはオレだけかなぁ。現代のモンテヴェルディともプーランクとも見える青島先生が、今後も色んなオペラを、リスペクトしつつ自由に楽しく笑い飛ばす活動を続けられることをお祈りしつつ、あうるすぽっとを後にいたしました。

練達の歌い手さん達の中で、デパートガールとしてしっかり存在感示していた女房どの、お疲れさまでした。

 

日本最高のスープレットの一人、赤星啓子さんと。歌だけでなく、バレエシーンも素晴らしく魅せる赤星さん。女房ともども永遠の憧れです。ブルーアイランド版は音楽に妥協しないから、赤星さんのような一流の歌い手さんのパフォーマンスに触れられるのが醍醐味ですね。女房がお世話になりました。今後もご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。

遠坂めぐBirthdayワンマンライブ2024 Day & Nightで歌わないと!〜この人のCD欲しいなぁ〜

最近このブログもすっかり放置状態にしてしまってるんですが、どうしても書きたくなって、久しぶりに駄文綴らせていただきます。先週3月24日、四谷HoneyBurstで開催された遠坂めぐさんのライブ、「遠坂めぐBirthdayワンマンライブ2024 Day & Nightで歌わないと!」。昼夜二公演に参戦。時間も空間も飛び越えて人や想いを繋いでしまう「歌」の力と、それだけの力と重層的な意味を持つ「歌」を生み出せる、遠坂めぐというシンガーソングライターの才能に震えたライブでした。

ピアノ弾き語りから一旦卒業して、バンドを従えてマイクを握って歌う遠坂さんの「シンガー」としてのカリスマ性やパワーに終始圧倒されっぱなし。遠坂さんご自身も仰っていたけど、コロナ禍を超えて色んなイベントやライブの機会を持って、この人の歌声は厚みと表現の幅を倍化させてるなぁって改めて実感しました。毎月のように沢山の聴衆を集めている用賀駅GMOインターネットTOWERでのライブなど、きちんと聴衆の前で、その反応を見ながら歌っている経験が活きてるんだなぁ。個々の歌だけでなく、有機的に考えられたセットリスト、それを繋ぐMCや聴衆巻き込んでのゲームとか、ライブエンターテイメントを構成、プロデュースする力もハンパないんだよねぇ。

 

そういう意味でも、この人のCDアルバムを聴いてみたいなぁって思うんです。いつかの配信ライブで、CDは、作る労力考えると、音楽を人々に届けるツールとしては効率が悪い、という趣旨のことを仰ってて、確かにApple musicとかで新しい楽曲を次々配信していく方が手っ取り早いとは思う。だけど、複数の楽曲が連続して演奏されたり、一つのアルバムに並ぶことで、より立体的にイメージできる世界観があったりすると思うんだよね。短編小説集を読んでいるみたいな。今回のセトリの中で、家族との時間を歌った歌、として歌われた、「カレーライス」(夜公演では、「大きな一軒家」)、「5時半過ぎの音楽室で」、「もうすぐ花火はじまるよ」、という3曲の流れは、家族の温かい空気感の中で、人生の節目節目に向き合う一人の女性の存在感がよりリアルに感じられて、それぞれの楽曲の新しい魅力に気づいたりしました。「もうすぐ花火はじまるよ」って、おじいさまのお家で家族ぐるみで遊んでいた親戚のご家族との交流がベースになってるのかもなって以前から思ってて、そういう印象がより強くなったり。配信されている楽曲を自分なりのプレイリストに並べてみればいいのかなぁ。

 

個人的に、個々の歌の物語が共鳴し合って胸震える思いになったのは、「ピアス」「タイトル未定」の二曲でした。「ピアス」は、さくら学院の卒業生に遠坂さんが提供した楽曲で、私自身が遠坂さんという才能に出会った最初の曲。3年前のちょうど今頃、その卒業生が芸能界を引退してしまい、その後、遠坂さんも「なかなか芽が出ない」暗黒期に突入。大好きな曲だけど、この曲をもう聴くことはできないし、遠坂さんに、この曲を歌って欲しいって言っちゃいけない曲だって思っていたんです。さくらの卒業生の芸能界引退が発表された直後の遠坂さんの配信ライブで、その子の旅立ちに捧げると歌ってくれた弾き語りが最後だったんだと。

 

目の前に立った遠坂さんが、イントロなし(絶対音感のある遠坂さんならでは)で「ピアス」を歌い出した時、3年間閉じ込められていたものがふわっと舞い降りてきたような浮遊感と、今も笑顔でいて欲しいさくらのあの子への想いが渦巻いて、さらにそれが、大人に向かって背伸びをする少女とそれを優しく見つめる先生との絆の物語である「ピアス」の楽曲と重なって、もう感情が沸騰。遠坂さんの方を正視することができず、ずっと俯いてボロボロ泣いてました。「ピアス」聴いて号泣してる60近いオッサンって何者だよねぇ。でも本当に、それくらい自分にとって大切な歌だったんだ。

youtu.be

この「ピアス」の後に「タイトル未定」を持ってこられて、ここでまた涙腺決壊。大人になって恩師に結婚の報告に来たお嬢さんが新生活に心浮き立たせている、なんていう明るい未来につながる物語が頭の中に勝手に組み上げられてしまって、「ピアス」という楽曲が、暗黒期を抜けて本当に明るい日の当たる場所に飛び立ったんだなぁって思った。「タイトル未定」は、「もうすぐ花火はじまるよ」と「明日君に会えるせいだ」に挟まって、あんまりプロモーションかかってない曲なんですけど、ジョン・レノンの「Happy Christmas」を連想する華やかなイントロから、遠坂さんらしい日常の幸福の情景を重ねていく歌詞が多幸感半端ない名曲です。

youtu.be

遠坂さんの声は、パワフルさの中にピュアさ、というか、キュートさがあって、それが彼女の唯一無二の切ない歌声につながってる気がする。パワフルなんだけど、大人の色気が過剰なわけではなく、音圧が高すぎるような圧倒的な声量でもない。いきものがかりの吉岡さんに似てると思うけど、あそこまで真っ直ぐストレートじゃなくて、ちょっとハスキーな雑味が混じっていて、そこがキュートさや切なさを生んでる気がする。だから女子高生の背伸びした想いも歌えるし、さとり世代のプロテストソングもパワフルに歌える。昼の部に歌われた「ぱせり」のようなキュートな曲もこなせる、表現の自由幅の広い歌声だと思います。「ぱせり」は少し前の配信ライブでコメントしたら太田さんが拾ってくれて、その場でアドリブで久しぶりに披露された曲で、この曲が「みんなのうた」に採用されないかなぁって結構マジで思ってるんだよね。最近流行りのダイバーシティなんかもテーマになってるし。

ライブセットリストとステージ写真。遠坂さんのXから転載

夜の部のアンコール、ライブでは必ず歌われる「月にありがとう」で、亡くなったお父様の思い出を語りながら、「今日も最前列でカメラ構えて聴いてるんじゃないかなって思います」って言われた時、偶然空席になっていた隣の椅子に、遠坂さんのお父様が座っているような気がしました。遠坂さん、素敵な時間をありがとうございました。変幻自在のバンドメンバーも最高でした。月にはなれないけど、月のそばで貧弱に瞬いてる星の一つのように、この唯一無二のシンガーソングライターが、どこからも見える場所に立つ日まで見守れたらと思います。

 

五つのクリスタルはどこから来てどこへ行くのか~METALVERSE THE END OF INNOCENCE~

昨日、今日と豊洲PIT で開催されたMETALVERSE #2 THE END OF INNOCENCEに参戦。将来性溢れるこのグループが歩み出した新たな一歩を見届けてきました。5人の美少女達の輝きいっぱい浴びた上に、1日目は関係者席のアミューズキッズ達の天使ぶり目にしてメロメロになり、2日目は退場の時に颯爽と帰路に着く野崎珠愛さんを数メートルの距離で拝見して余りのカッコ良さに呼吸困難になるという至福経験重ねたので、理性的な文章書けるかどうか分かりませんが、例によって思ったことをダラダラと。

 

最初にちょっとネガティブなことを言ってしまうけど、このグループの最大の弱点は、グループ独自の「物語」を持っていないことだと思うんだよね。「物語」という言い方が分かりにくければ、「コンセプト」と言い換えてもいい。グループの誕生自体が、姉貴分であるBABYMETALの異世界における鏡像としての誕生だったし、そしてメンバーのほとんどが、閉校してしまったさくら学院を中学3年生になる前に卒業してしまった卒業生達、ということもあり、BABYMETALの物語やさくら学院の物語への依存度が高すぎて、このグループ自体がどんなコンセプトでどんな物語を紡いでいくのか、がはっきりしない。

 

BABYMETALが持っていた、メタルとカワイイの融合、というコンセプトや、キツネ様や、巨大勢力アイドルとの戦い、METAL RESISTANCE、と言ったギミックは、それが多少カリカチュアライズされたものであったとしても、彼らのパフォーマンスに強い推進力と軸を与えていた。それに、中元すず香菊地最愛水野由結岡崎百々子、という、それぞれ強烈な個性と才能に恵まれたパフォーマー自身の人生の物語が絡み合うことで、BABYMETALという壮大な叙事詩が生み出されていったのだと思います。

 

それに対して、METALVERSEは、BABYMETALの影、あるいはさくら学院への郷愁、という以外の強い物語を持たされていない。彼らが背負っているクリスタルがどこから生まれてどこへ行くのか、ギミックとしても提示されていないし、THE END OF INNOCENCE、THE GARDEN OF EDENというタイトルは、メンバーの成長物語を見守るさくら学院的コンセプトを暗示しているようにも見えるけど、メンバーが匿名性を保っているので、個々の成長を見守ることもできない。

 

匿名性、というのはパフォーマー個人の物語を切り離す仕組みなので、逆にグループそのものが物語を持たないと、グループの行き先が見えなくなってしまう気がする。パフォーマンスも楽曲も物凄く魅力的なんだけど、他のアイドル達やガールズユニットとの差別化ポイントってどこにあるんだろうか、と。ベビメタの妹分、とか、さくらの残党、という以外に差別化要因はないのかと。1日目を終わって、Xでかなりの方々が、「これでいいの?」という感想を上げていたのが印象的で、結局「コバさんはこの子達をどうする気なのさ?」というのが私自身も感じた一番の感想。同じさくら学院の卒業生で構成された@onefiveが、ある時、明確に、さくら学院生という過去の自分達からの決別を宣言し、周囲の先入観や偏見と闘い続けるZ世代女子の代弁者として自らを規定して、4人の個性を前面に押し出している姿勢の潔さとも比べてしまう。

 

とかなりネガティブなことを先に言ってしまったけど、こういうプロデュース面での弱点をねじ伏せてしまったのが、戸高美湖さんをはじめとする5人のメンバーのキラッキラのパフォーマンスでした。このグループの強みはなんといっても戸高さんの圧倒的なボーカルと、5人の美少女達がまさにクリスタルのように輝きながら魅せる美しいフォーメーションダンスのクオリティの高さにあって、しかもそのダンスは、揃っているのに表情の豊かさとダンスの個性で各人が際立って見える。八木美樹さんの華やかな笑顔、野崎結愛さんのアイドル能力の高さ、木村咲愛さんのパワフルなのに可憐さを失わない存在感、加藤ここなさんの末恐ろしいような妖艶さ。こういう才能と個性溢れるAmuse Kids達を材料にしたカワイイMETALの実験場、というのがこのグループのコンセプトと言えるのかもしれないのだけど、実験場という自己規定では匿名性は確保できても物語は生まれないんだよなぁ。

 

戸高美湖さんはさくら学院に転入した当初から、ASH仕込みの高い歌唱技術を持っている人でした。でもASH時代には歌唱よりダンスの実力の方が評価されていたらしいから、ASHってすげぇなぁって思うんだけどね。同じASH出身でも、中元すず香先輩のように、持っている声帯を自然に伸びやかに鳴らすストレートな発声ではなく、声門への圧力を変化させたりファルセットを巧みに織り交ぜたりする、どちらかというとハロプロやスターダストのシンガーさん達や演歌歌手の方々の歌い口を感じる歌い手さん。もっと簡単に言えば「コブシ」が魅力の歌い手で、中元パイセンのようなメタルに対する貫通力よりも歌のラインを聞かせていく歌い手だなぁと思います。言ってみれば、演歌とメタルとJ-POPがこの人の中で融合しているような。この人の歌声に笠置シズ子のパワフルな歌が重なったのは決して突飛な連想ではないと思う。

 

戸高美湖をはじめとして、八木美樹、野崎結愛、木村咲愛、加藤ここな、という、才能溢れるクリスタル達が、METALVERSEという形のはっきりしない場所を与えられて、この異世界でどんな物語を紡いでいくのか。大人の半端な思惑に潰されたり、凡百のガールズグループの中で埋もれてしまうには、この子達の輝きはあまりにも強い。ライブの最後、次回の予告映像に、今までプロフィール画像を見せなかった5人が、はっきりとその美しい姿を見せてくれたのは、このグループの物語を抑制していた匿名性を捨てて、これから5人の個性を前面にアピールしていこう、という宣言だったらいいな、と思ったりします。

 

5人の笑顔も、ステージ上で見かわす視線と微笑も、あの学校のキラキラした思い出と重なったよ。次に会う日まで、元気でいてね。

2023年の推しゴト~新しい物語の最初のページ~

2023年も暮れていきますが、今年の自分の推しゴトを振り返ってみれば、コロナ禍がひと段落して、どの推しも、それぞれの新しい物語の最初のページを開いた年だったなぁ、というのがまとめになる気がします。さくら学院の卒業生たちやこの学校に関わった人たちをまとめて推している自分ですけど、2023年に特に活発だった推し活は、BABYMETAL、遠坂めぐさん、新谷ゆづみさん、@onefive、の4つで、それぞれに強烈な印象を残した現場がありました。年末という機会に、それらを振り返ってみます。

 

(1)積み重ねてきた物語~BABYMETAL~

2023年はBABYMETALにとって、MOMOMETAL爆誕から、新生BABYMETALが世界を制覇した年として記憶されるメモリアルな年になりました。4月の横浜MMでのMOMOMETAL爆誕の瞬間は今思い出しても涙が出るんだけど、それって自分が、さくら学院岡崎百々子さんからMOMOMETALを知っている父兄メイトである、ということも大きいと思う。2023年は新たな物語の第一章ではあったけど、2010年から始まるこのグループが歩んできた道なき道と、2015年にさくら学院に加入した岡崎さんの歩んできた七転八倒の道が交わった所に生まれた物語だったからこそ、今の岡崎さんの笑顔が限りなく愛おしいし、その笑顔がすぅさまやもぁさまの支えになっているのが本当に嬉しいんだよね。3月の生誕祭が今から本当に楽しみ。そして妹分のMETALVERSEがどんな展開を見せるのか、来年もこのグループからは目が離せないなぁ。

 

(2)新章に戸惑いもあった物語~遠坂めぐ~

山出愛子さんの歌った「ピアス」以来、楽曲に魅かれてずっと推している遠坂めぐさん。2022年に「キレてるバター」でブレイク、2023年にも「もうすぐ花火はじまるよ」が再生回数45万回を超えて、すっかり世間に見つかった感じがあります。遠坂さんにとっても新しい物語が始まった年だったんだろうな、と思うけど、自分にとって、推しがこんなに急に世間に見つかるっていうのは初めての経験で、急激に変わる客層とか、配信ライブのコメントの様相とか、なんだか戸惑ったり、ちょっと心配になったりすることも結構ありました。

でもこんなジジイの浅はかな心配なんかぶっ飛ばすだけの底力のある人なんだなぁって実感した一年でもありました。「もうすぐ花火はじまるよ」が沢山のYouTuberさんに取り上げられたり、コラボ動画が作られたのは、遠坂さん自身の求心力と自己プロデュース力の賜物だと思う。歌唱力や作曲能力といったパフォーマンスの実力だけでは上がっていけない世界で、しっかり色んな方々のサポートを受けて確実に階段を上っている遠坂さんの物語、これからも見届けたいと思っています。

 

(3)現実を侵食する物語~新谷ゆづみ~

女優として活躍するさくら学院の卒業生、新谷ゆづみさんの演技には、こちらの現実を侵食するような感覚があって、ちょっと怖くなる瞬間があります。彼女のマネージャーさんが凄く優秀な方なのかな、とも思うのですけど、彼女が参加する企画自体が、日本の今の現実にスポットライトを当てるような素材だったり、もっと本質的な人間の心の底層をえぐるような、メッセージ性の強い素材が多い、というのも一因とは思います。でも、「異世界居酒屋のぶ」のようなファンタジーでさえ、同時期に猖獗を極めたコロナ禍によって、人が集い、人が癒される「場所」の大切さを訴えるその時期ならではの新たな「物語」となり、新谷エーファの笑顔は、その癒しの象徴にもなった。それは自分が与えられた場所や素材にリアリティを与えることができる、新谷ゆづみという俳優の稀有な存在感の力だと思う。

2023年の新谷さんの演技の中で、今も私の現実を侵食してしまって、どうにも消えないのが、9月に観劇した「怪獣は襲ってくれない」の「こっこ」という役。カーテンコール後の衝撃的な演技だけではなく、確かにこの新宿に「こっこ」が生きている、今もここにいる、という感覚を強烈に刷り込まれてしまって、新宿歌舞伎町を訪れるたび、あるいはトー横キッズのニュースがメディアに取り上げられるたび、「こっこは元気かなぁ」「しっかり生きてるかなぁ」って思ってしまう。「ぬいぐるみとしゃべる人は優しい」の白城ゆいちゃんにせよ、「やがて海へと届く」の三陸の少女にせよ、「あの子は今も元気にしているかな」と、ふと思ってしまう、そんな人物を演じられる女優さんは、そんなにいないと思います。

 

(4)共に歩んだ物語~@onefive~

2022年10月にドラマ「推しが武道館いってくれたら死ぬ」主題歌でメジャーデビューした@onefiveは、この2023年に大きく大きく成長したと思います。その成長を支えた活動の一つが、各地で開催されたリリースイベントと、様々なフェスへの参加だったんじゃないかなって思う。

さくら学院に在籍した時も、この4人がファンと直接コミュニケーションを取る機会は一度もなくて、ドラマ「推し武道」でフィクションとして経験した握手会に、「アイドルさんって大変なんだなぁ」という感想を口にしていたくらいだから、各地で開催されたリリースイベントでのファンとの会話は、ある意味「修行」という側面もあったんじゃないかな、という気もします。でもこのリリースイベントで、直接ファンであるFifthとの絆を確かめたことは、彼らの物語を僕らファンの物語とシンクロさせて、ワンマンライブの一体感の基礎になったと思います。

そしてTIFを始めとする各種のフェスに参加する中で、メンバーを一人欠いたり、ステージの目の前でパフォーマンスを無視して寝転がっている聴衆もいるようなアウェイの環境も経験した。「育ちがいい」と言われる4人にとっては、しんどい経験でもあったんじゃないかなって思います。そんなアウェイの環境でも、めげずに会場を引っ張っていく経験は、ステージに聴衆を集中させるパワーやテクニックを身に着ける「修行」でもあったんだろうなって思います。

そんな「修行」を経て、11月・12月に開催された「NO15E MAKER」の2つのライブは、彼らがその経験を、単なる自分達の成長物語にするだけではなく、コロナ禍で失われた時間、結べなかったファンとの絆を再び結びなおすのだ、という強い意志に満ちたストーリーに構成することで、彼らと僕らが共に作り上げた物語に昇華された感があった。大阪のライブのラストで、「このままじゃ壊れちゃう」という切迫感に満ちた楽曲とともに、コロナ禍のために一度もファンの前でリアルに着用できなかった過去の楽曲の衣装たちがステージ上に取り残され、そしてその同じ衣装たちが、東京のライブの冒頭で天に向かって駆け上がっていった時、この子達と一緒にまだ見ぬ世界へ、どこからも見える場所へ行くんだ、という未来の物語が、彼らと僕らの共通の物語になった、という実感がありました。

f:id:singspieler:20231231011002j:image

 

コロナ禍で止まっていた時計が動き出して、自分の推しがそれぞれに新しい物語を語り始めた2023年。2024年も彼女たちが笑顔でいてくれること、その笑顔が沢山の人達に見つかること、そして沢山の人達の心を癒すことを心から祈っています。皆様よいお年をお迎えください。

止まっていた時計は動き出し、そして新しい物語が始まる~2023年振り返り~

2023年も暮れていきますね。いつものように、この一年の自分のインプットやアウトプットを振り返ってみようかと思います。一言で言えば、コロナ禍の間に止まっていたような印象のある時計が動き出した2022年に、思い切って開いた扉が色んな世界につながって、そこからまた新しい物語が始まった年だったなぁ、というのが一番の感想。

まずはインプットから。今年、色んな舞台や演奏会などを拝見したんですけど、一貫していたのが、「音楽と時間」ということについて考えることが多かったなぁ、という印象。今年の2月、娘が参加したユニコーン・シンフォニー・オーケストラの演奏会の感想文で、この「音楽と時間」についてまとめているので、この文章を再掲します。

-----------------------------

音楽っていうのは色んな意味で時間との関係の中で語られる芸術のような気がします。特にライブ演奏が表現のメインとなっている音楽ジャンルでは、そのライブ会場の空間を共有する時間の中に満たされている音楽が、時間の経過と共に高揚していく状況自体が、その人の人生の中に忘れがたい記憶として残る。三次元の空間に「時間」という次元を加えた「四次元」の芸術である、というのが音楽の一つの特性で、「記憶」というのもそういう四次元の性質を持っている。そういう意味でも、「音楽」というのは他の芸術と比べて人間の感情に訴える力が強いんじゃないかな。

------------------------------

「音楽」というのが時間芸術で、その音楽が演奏されているライブ空間という三次元の空間も含めた「四次元」の芸術である、という認識なんですけど、それを強烈に実感したのが、METのライブビューイングで見た「めぐりあう時間たち」というオペラだったんですよね。 

singspieler.hatenablog.com

違う感情や思惑を持った人々が同時に全く違う歌詞を歌っても、音楽によってそれが一つの織物として紡がれて、4重唱、5重唱、6重唱、と美しく重なっていくのがオペラの醍醐味で、特にモーツァルトのオペラとかそういうカタルシスが顕著だと思うのだけど、この「めぐりあう時間たち」は、それを、「同じ場面」ではなく、「異なる時代、異なる時間」に存在する登場人物たちが同時に同じ音楽を歌う、という、きわめて演劇的なアプローチによって、人間の魂の共感を時空を超えて紡ぎ合わせる音楽の魔法を見せてくれました。この作品に触れて以降、色んな舞台を見るときに、この「時間と音楽」というテーマがずっと自分の中で通奏低音のように鳴り響いていた一年だったなぁ、という気がします。

一つの人生という「時間」をシャンソンの名曲を綴ることで歌い上げる、田中知子さんプロデュースの「シャンソン・フランセーズ12」と、青島広志先生と萩尾望都先生のコラボで生まれた名曲「柳の木」で描かれた「時間」が解きほぐしていく血の呪縛の物語とか。

singspieler.hatenablog.com

時が過ぎても、自分の心が立ち返る場所としての「家族」という拠り所を中心に、一つの円環構造を作る物語を構成した、うちの女房プロデュースの「アメリカン・ソングブック2」とか。

singspieler.hatenablog.com

そして、消すことができない自分の過去、家、という呪縛、という裏テーマを、在阪球団の「アレ」と絡めて勝手に読み込んだ、青島広志先生のブルーアイランド版「コシ・ファン・トゥッテ」とかね。

singspieler.hatenablog.com

こうして並べてみると、今年の自分へのインプットにおいて、「時間と音楽」というのが凄く大きなテーマだったなぁ、というのが印象。

それって、自分が自分の過去や未来に向き合う、あるいは向き合わざるを得ない年齢に到達した、というのも一つの要因なのかもしれない、と思ったりします。自分も来月でとうとう59歳。いよいよ還暦、という、人生の第二ステージに向かう年齢に到達しちゃいました。そんな時にアノ球団がアレしちゃったから余計に、自分の過去と現在が色んな意味で共鳴したり、その先にある未来について考えることが多くなっているのかもしれないなぁ。

そういう観点で、自分の2023年のアウトプットを振り返ってみると、そんな年齢になっても、それでもまだ新しいことに挑戦できるのかもなぁって、これから始まる新しい物語に対するワクワク感が募る一年だった気がします。2022年の秋から、自分の本領であるオペラの舞台をやりたくて、地元の調布の調布市民オペラ合唱団に参加。1年間の練習を経て今年の10月に参加したガラ・コンサートで、「こうもり」や「カルメン」「トゥーランドット」などの合唱曲を歌いました。この合唱団に参加する、という新しい扉を開いたことで、地元に立脚したオペラ愛好家の方々とのネットワークが急につながって、一気に自分の世界が変わった気がしていて、それがなんだか嬉しいんですよね。

7月に開催した毎年恒例のソロリサイタルも、この合唱団の団員さんが沢山聴きに来てくれて、今までのお客様の反応とはかなり違う新鮮な印象がありました。新しいことに挑戦することで世界が広がった感覚ももちろん嬉しいけど、何より、自分にとって人生の目標でもある、「一人でも多くの人を笑顔にしたい」っていう目標が、地元調布のコミュニティで実現できる、というのがすごく嬉しい。

この合唱団で知ったVoci Cieliという合唱団で、久しぶりにモーツァルトのレクイエムを歌うことにして、こちらの本番は来年の5月。そして、調布市民オペラ合唱団で初めて参加するオペラ全幕舞台、「トゥーランドット」が9月にあります。自分のソロリサイタルも6月に開催することに決めています。コロナ禍がひと段落して、色んな表現手段が戻ってきたこのタイミングで、止まっていた時計が動き出した。新しく飛び込んだ場所での色んな出会いを通して、新しい物語が始まった。自分にとっての2023年はそんな一年だったなぁって思います。来年、この新しい物語が、どんな時間と空間を繋げてくれるのか、どんな音楽と出会えるのか、今から本当に楽しみです。

@onefive ーNO15E MAKER:Undergroundー彼らの物語、僕らの物語

@onefiveの大阪のライブに遠征してきました。少しでも出費押さえるための夜行バスでの往復は、もう60近いジジイには相当キツかったけどねぇ。でも、このライブには行ってよかった。本当に行ってよかった。

 

@onefiveは、先日の「バズリズム02」でも、「育ちがいい」ってバカリズムさんに言われていた通り、Amuseという大手芸能事務所のKidsの中でもエリートとして育てられた子達。でも、その中でも熾烈な競争があったり、ご家族含めた色んな苦労があるってことは想像がつくし、さくら学院というグループ自体が、ステージを作り上げていくプロセスで、メンバー同士の葛藤や挫折感なども含めて、Low Teenの子供たちがスーパーレディを目指して成長していく日々のドキュメンタリーをエンターテイメントにしたグループ、という側面があった。

 

要するに、僕らは昔から、@onefiveの四人のダークな部分をチラチラと垣間見ることがあったんだよね。挫折の涙、望む場所に立てない悔しさ、メンバーとのぶつかり合い。そんな中でも、吉田爽葉香さんが日誌でチラッと触れた、お父様の早逝のエピソードは衝撃で、この人のパフォーマンスのぶれない軸や、周囲に向ける優しさの源泉って、お父様という守護天使に天から守られている強さなのかなぁって思った。メンバーの栄養管理をしてあげられるかもって栄養士を目指すって、もう聖母じゃん。

ameblo.jp

 

この子達は決して温室育ちのヤワな子達じゃない。色んな喪失や壁や熾烈な競争を乗り越えてきた子達。それでも、さくら学院を母体に、在学中から@onefiveという4人グループとしてデビューする、という路線は、同じ年代のガールズユニットと比べればはるかに恵まれたスタートだったはず。同じさくら学院から生まれたユニットである先輩のBABYMETALが、メタルという敵だらけの戦場にカワイイという武器を引っ提げて突撃していった物語に比べれば、大事に育てられたお嬢さん達が父兄やAmuseのバックアップを受けて、順風満帆なスタートを切る未来図が描かれていたはず。

 

デビューのタイミングを襲ったコロナ禍、というのは、この「育ちのいい」「恵まれた」グループに試練の物語を与えた神様のはからいだったのかもしれない。予定されていたイベントは延期や中止を重ね、配信ライブで誰もいない客席に向かって空しくパフォーマンスをする日々の中で、10代というその時しかない輝きを直接届けられないままに時間はどんどん過ぎていく。その焦燥感がどれほどだったか、僕らには想像することしかできないけど、パフォーマーの生きがいを奪われた日々は、15歳16歳の多感な少女たちにとって、自分自身の生きる意味、人生そのものの目的まで突き付けられた試練だったのかもしれない。今回のライブで、ある意味唐突な感じでラストに披露された「誰もいませんですか(仮」という楽曲は、この頃の焦燥感、自分達の将来を塗りつぶした不安の闇と、その先にある「死」まで見据えた切迫感極まる楽曲で、過去の楽曲の衣装を舞台上に残して無言で去っていく唐突なエンディングまで、このグループの持つ苦難の「物語」を象徴するような楽曲でした。

 

そうやって自分達の辿ってきた苦難の道のりを振り返っていきながら、今回のライブでの4人の視点は、既に大人のそれに成長している印象がありました。Yogibo META VALLEYという会場は、南海電車の高架下という場所のために、屋上を走る電車の走行音が時折低く会場全体を揺らす、という、ライブハウスとしては最悪の立地環境で、逆にいえばその電車音に負けない爆音とリズムを中心とするクラブ系のノリノリの音楽がピッタリ合う会場かな、という印象。冒頭のMCで宣言されたように、この電車音というNOISEを自分達の発するNO15Eでぶっ飛ばそう、という、聴衆をあおるパワー含めて全く別レベルに進化した自信が、この会場を選んだ理由なのかな、と思ったり。地下鉄が轟音を上げて通過していく冒頭の映像も、この会場の立地と「NOISE」=発声というテーマを重ね合わせていましたね。

 

デビュー曲のPinky Promiseを始めとする初期の曲も、リズムを強調したクラブ系の大人のアレンジでガッツリ乗れる曲に変身していて、聴衆を煽る声かけも、フェスやリリイベで客席との距離を詰めてきたこの半年の経験が血肉になっている感覚があって、6月のワンマンライブの時よりも、4人が一回りも二回りも大きく見える。そんなメンバーの声に応じて思う存分声を出せる幸せを、fifth(ファンネーム)の全員も共有している空間。fifthにとっても、この4人と思う存分盛り上がりたかった、声を出したかった、という思いが満たされた時間。「NO15E MAKER」というタイトルが、千葉のリリイベ会場でfifthが「SAWAGE」コールで思う存分弾け過ぎて、会場のショッピングモールから苦情が来た、という挿話から発想された、という裏話がMCで紹介されていたけど、fifthも閉塞感と開放感を4人と共有してきたんだよね。

 

彼らの苦難の「物語」は、苦しむ彼らを見守ってきた僕らfifthの「物語」でもある。グループとファンが同じ「物語」を共有しているグループは強いと思う。BABYMETALが、YUIMETALの卒業や藤岡幹大さんの昇天、その不在からの恢復、という物語を、メイト達と共有して走り続けた姿が、METAL GALAXYやOTHER ONEの神話的パフォーマンスに昇華していったように、@onefiveが自分達の「物語」を一つのLEGENDに昇華させようとしている、そして僕らfifthも、間違いなくこのLEGENDを共有しているんだと、そんな一体感で心震えたライブでした。電車音が混じるこの会場のライブは恐らく映像化されないのじゃないかな、と思うし、実際カメラもほとんど入っていなかった。この一期一会の空間と、この場所で紡がれた物語を4人と共有できたことを天に感謝しながら、深夜バスの狭い座席に老体縮めて東京に戻ってまいりました。そんなしんどさぶっ飛ぶライブだったよ。一杯レスくれた4人、そして、直前まで舞台袖から客席をうろうろしながら会場の様子を見ていた佐竹義康さんはじめスタッフの皆さんも、お疲れさまでした。最高の時間をありがとう。六本木ではまたまるで違う進化を遂げた姿見せてくれるだろうね。今から本当に楽しみです。

終演後、舞台に残された初期の楽曲の衣装たち。直接会うのは初めてだったね。僕らとの時間楽しんでくれたかな。あの子達のしんどい時間を彩ってくれて、本当にありがとう。

アメリカン・ソングブック2 Fancy Parade ~「アットホーム」って和製英語なんだけどね~

今日は昨日、11月22日に開催された、うちの女房プロデュースのコンサート「アメリカン・ソングブック2~Fancy Parade~」の感想を書きます。アメリカが音楽に求めていた温かさ、人との絆がそのまま会場を包み込んだような、本当に「アットホーム」な空気感の中で、多様で芳醇な米国歌曲の世界を堪能した演奏会でした。以下、掲載している写真は、女房のFACEBOOKからの転載となります。


誰もが聴いたことがあるような有名な曲から、知られざる名曲まで、アメリカ歌曲というジャンルを掘り下げるこの演奏会、昨年10月の第一回目(感想文はこちら)から、ほぼ1年を経ての第二回目。今回は、初期のアメリカ歌曲がジャズに出会うまでの流れを紹介する第一部と、ミュージカルの名曲を紹介する第二部、という構成でした。

 

ヨーロッパの各地から大西洋を渡った移民たちが、故郷から持ち込んだ欧州の音楽が、本場欧州の最新の音楽潮流にも影響されながらも、黒人音楽のリズムを取り入れて独自の世界を生み出していく。そのダイナミズムは音楽が生まれた時代背景をダイレクトに反映しているが故に、アメリカ歌曲を語ることは、その時代そのものを語ること。19世紀から20世紀に向かう激動の時代の最先端にあった国ならではの激しさと先取の精神に満ちている魅力あふれる名曲の数々。第一部で紹介された、作曲家として成功した初の女性であったエイミー・ビーチの作品や、現代音楽の手法を貪欲に取り入れたチャールズ・アイヴズの曲などは、そういう時代性を感じる作品群でした。

 

そんなアメリカ歌曲の先進性を追求していくだけだと、演奏会自体のアカデミズムは高まるかもしれないけど、エンターテイメントとしての楽しさはちょっと後退してしまうと思うんですが、今回のプログラムはそのあたりのバランスがよかった。冒頭の「ラブミーテンダー」は、プレスリーの歌唱で耳なじみの曲で、自然に舞台に引き込まれるのだけど、家族が寄り添いながら素朴なリコーダーが奏でるメロディに耳を傾ける演出の中で、何もかも捨てて大陸に渡り、家族の絆だけを頼りに生きた移民たちの姿が浮き上がる。言葉遊びが楽しいコープランドの「チンガリングチャウ」、今を生きる幸福を輝くように歌うエイミー・ビーチの「牧場のヒバリ」など、ワクワクする曲が各所に散りばめられて、飽きが来ないように考えられてるなぁ、と思いました。

「ラブミーテンダー」のリコーダーのデュエット、なんとなく胸に沁みたなぁ。

 

後半のミュージカルパートでは、オペラ歌手がマイクなしで歌うミュージカルナンバーが、歌の持っている音楽性を際立たせる感じがして、そういう感覚って、シャンソンの定番をオペラ歌手が歌うピアニスト田中知子さんプロデュースの「シャンソン・フランセーズ」にも通じる感覚だなぁって思った。でも、人生の始まりと終わりを描く「シャンソン」に比べて、「アメリカン」では、終曲の「屋根の上のヴァイオリン弾き」の名曲「サンライズ・サンセット」で、冒頭の「ラブミーテンダー」に耳を傾けていた同じ家族が戻ってくる、という円環構成を取っていて、これが、第一回でも感じた、「家族」という絆がアメリカ音楽のベースにある、という印象を強く浮かび上がらせる演出になっていました。

 

第一回目の感想の中で、アメリカ歌曲の持っている哀愁が、何もかも捨てて新天地にやってきたアメリカ移民たちの喪失感から来ているのかな、という文章を書いたし、その喪失感は、世界中を放浪し続けるユダヤ人の心情と響き合い、アメリカとイスラエルの同族感につながっているのかもな、とも思います。ラストの「屋根の上のヴァイオリン弾き」が、ウクライナで迫害に会うユダヤ人の家族を描き、新天地へと嫁いでいく娘たちと両親の絆を歌う「サンライズ・サンセット」の中で、冒頭の移民の家族達の姿が再度戻ってくると、自分達を支える唯一の絆であり、帰る場所としての「家族」が強く浮かび上がってくる。そう思って振り返ってみれば、第二部で紹介された「マイ・フェア・レディ」「キャメロット」や「ザ・ミュージックマン」、「ファニー・ガール」などのミュージカルも、音楽でつながる人の絆、新しく生まれる家族の物語にも見えてくる。

 

歌い手さん達はそれぞれの個性が際立ちながら一つの「家族」像をくっきり浮かび上がらせて、どの方も印象的だったのですけど、個人的には、今回が初参加になった神田宇士さんと渡辺将大さんの二人の男性陣が、がっしりした存在感とほどよいキュートさがあってしっかり軸になっている感じがありました。

女性陣は、圧倒的なオーラの三橋さん、北澤さん、声の色の魅力を存分に聴かせてくれた海野さん、丹藤さん、そして相変わらずキュートな富永さんと、皆さんそれぞれに存在感があったのだけど、個人的には田中紗綾子さんの透明感と安定感のある歌唱が好きだったな。

「アットホーム」=at home、というのは、日本では「家の中にいるみたいに居心地がよい」というニュアンスで使われることが多いけど、もともとの英米ではあまりそんなニュアンスでは使われず、単に「家にいる」という事実を表現することが多い言葉なんだそうです。内向きな日本の精神文化を表した和製英語って感じもしますけど、でも、やっぱり唯一の絆としての「家族」を大事にする心って、アメリカ歌曲の底流に強く流れているような気がしますし、そんなアメリカ歌曲の数々を浴びた客席も含めて、すっかり温かい「アットホーム」な空気感に包まれた演奏会でした。

 

今回、演出・制作をやりながらソロ曲とアンサンブル曲をしっかりこなした我が女房どの、お疲れさまでした。新しいメンバーも加わって、この「アメリカン・ソングブック」が、お客様も含めて一つの「チーム」=家族を作り上げていくような、そんな企画に育っていけるといいね。