「スタンダールとエネルギー」シンポジウム参加者募集

 Stendhal Aujourd’hui 学会は、2012年3月30-31日に、「スタンダールとエネルギー」のテーマをめぐって、パリでシンポジウムを開催します。発表のお申し込みは、1月31日までです。

山本明美

STENDHAL AUJOURD’HUI
HB Revue internationale d’études stendhaliennes

COLLOQUE INTERNATIONAL, 30-31 MARS 2012
Université de Paris IV-Sorbonne
STENDHAL ET L’ÉNERGIE


Ce colloque se propose d’explorer la configuration de l’énergie chez Stendhal. Force de l’âme et qualité du moi profond, à la fois principe et impératif de l’idéologie et de l’esthétique, faculté de sentir et de vouloir, l’énergie est dans la mouvance du sublime. Parfois hors de toute espèce de morale, elle est la loi du plus rand plaisir. Sans la « tempête des passions », l’âme est impuissante. Ce mot-clé qui marque l’excès, la transgression ou la révolte renvoie toujours à une forme de triomphe du Moi, d’affirmation ou d’accroissement de l’être dans des situations extrêmes. Qu’il s’agisse des tyrans des républiques italiennes, des grands artistes de la Renaissance, des brigands de Calabre, de la canaille du Trastevere ou des héros des Chroniques, le médiévisme de Stendhal est sous le signe de l’énergie, comme son napoléonisme qu’illustre le rôle énergétique du Mémorial dans Le Rouge et le Noir.
Si, dans le psychisme stendhalien, elle est la volonté ou plutôt le vouloir tel que l’a défini Tracy et, selon l’acception nietzschéenne, l’affirmation de soi contre l’étiolement de la vie sociale, dans l’esthétique de la tension inspirée de Diderot et d’Helvétius, elle est aussi à l’origine de l’acte créatif : qu’on pense à son rôle dans la création du « beau idéal moderne » exposé dans l’Histoire de la peinture, ou, après la Révolution et Moscou, à la régénération de la littérature par les hommes qui, nés après 1780, ont reçu une « éducation énergique ».
L’énergie stendhalienne prend bien des formes dans les âmes exaltables, de celle qui est nécessaire aux « grandes actions » à celle qu’impliquent les « passions tendres et profondes », de l’énergie féminine incarnée par « la divine Madame Roland » à l’énergie passionnelle de « l’Italienne », celle de l’éros et celle de l’agapè. Il y a aussi l’énergie ou plutôt la passion religieuse que l’athée Stendhal intègre à son système.
On s’interrogera sur l’auto-dépassement de l’homme énergique selon Stendhal, sur les qualités de l’énergie comme dynamique ou élément de l’héroïsme romanesque, sur son rôle dans le discours – il y a une énergie rhétorique −, sur ses rapports avec la force, la générosité, le progrès − Stendhal déplore une civilisation « trop raffinée où chacun répugne à séduire ou à être séduit par l’énergie » − et donc sur ses déviations ou sa déperdition dans le monde moderne.

Propositions de communication à adresser par courriel, avant 31 janvier 2012, à :

Michel Crouzet : mj.crouzet@wanadoo.fr
Michel Arrous : michelarrous@club-internet.fr
Didier Philippot : philippot.didier@wanadoo.fr

中央大学人文科学研究所・公開講演会のお知らせ

下記の通り、中央大学人文科学研究所の「アーサー王物語研究」チーム主催により、公開研究会を開催いたします。講師は、比較神話学研究組織GRMCを主宰されておられる篠田知和基先生で、近著『愛の神話学』(八坂書房)についてお話いただきます。皆様お誘い合わせの上ご参加下さい。

         記

日時 2012年1月21日(土)15時〜17時
場所 中央大学多摩キャンパス2号館4階 研究所会議室2
講師 篠田知和基氏(広島市立大学国際学部元教授)
テーマ 愛の神話学
要旨 トルストイのいう「愁いなき神」とはヘブライの思想なのか、それともオリエントやギリシャの神々においてもその源がみとめられるのか。神の愛とは本来、おそろしいものではなかったか。エジプトの「おそろしい女神」、「いくさの神としてのアスタルテ」、「エロスとプシュケ」の神話、「エロスとアンテロス」の神話などから考える。

多摩キャンパスへのアクセス
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/access/access_tama_j.html
中央大学多摩キャンパスは多摩モノレール中央大学・明星大学駅』下車
※モノレールはJR中央線立川駅」、京王線高幡不動駅」、小田急線・京王線多摩センター駅」で乗換です。

第25回フランス語教授法研究会

第25回フランス語教授法研究会は、2011年12月11日(日)に獨協大学で開催予定です。今年の統一テーマは「今、なぜ、フランス語」です。

La 25ème Journée Pédagogique de Dokkyo aura lieu le 11 décembre 2011 à Dokkyo. Le thème principal de cette année est : « Pourquoi apprendre le français ? »

詳細につきましては、以下のホームページをご覧ください。
Pour plus d'informations :
http://www.dokkyofrance.com/

プルースト『失われた時を求めて』と絵画

講師: 吉川一義 氏 (京都大学大学院文学研究科教授)
日時: 2011年 12月7日 (水) 16:30〜18:00
会場: 同志社大学京田辺キャンパス 嗣業館2F 第1会議室


 プルーストの長篇小説『失われた時を求めて』には、筋立ての重要な箇所にさまざまな絵画が重要な役割をになって登場する。スワンが好みのタイプでもないオデットに惚れるには、ボッティチェリの絵画が決定的な契機となる。作中の小説家ベルゴットは、晩年に見に出かけたオランダ絵画展で、フェルメールの『デルフトの眺望』を前に発作をおこして息絶える。主人公「私」のアルベルチーヌへの恋心の背後には、ヴェネツィア派のカルパッチョの画が想起される。今回の講演では、これら小説の場面を画の図版を参考にしながら読みすすめ、絵画がそれぞれの場面でどのような役割を果たしているかを考える。刊行中の『失われた時を求めて』の新訳(岩波文庫)も随時参照して、本作を読んだことのない人にはプルースト小説への案内となるようにしたい。

講師プロフィール

吉川 一義(よしかわ かずよし) 1948年大阪市生まれ。東京大学文学部、同大学院博士課程満期退学。パリ・ソルボンヌ大学文学博士。都立大学人文学部教授をへて京都大学文学研究科教授。専攻は近現代フランス文学。プルースト失われた時を求めて』の生成過程、絵画との関係などを専門とする。主な著作に『プルースト美術館』(筑摩書房)、『プルーストと絵画』(岩波書店)、『プルーストと絵画芸術』(仏文、シャンピヨン書店、2011年カブール=バルベック・プルースト文学サークル賞受賞)、『ディコ仏和辞典』(共編、白水社)、『プルースト書簡集総合索引』(仏文、共編、京大出版会)、翻訳にバレス『グレコ─トレドの秘密』(筑摩書房)、タディエ『評伝プルースト上下』(筑摩書房)などがある。2010年11月よりプルースト失われた時を求めて』の全訳を刊行中(岩波文庫)。2010年にプルースト研究によりアカデミー・フランセーズ(フランス学士院)より学術大賞「フランス語フランス文学顕揚賞」を受賞。


主催: 同志社大学言語文化教育研究センター
同志社大学言語文化学会 (Tel: 0774-65-7070)

講演会の案内はこちらからダウンロードできます。

フランソワ・ルセルクル講演会

2011年11月29日(火) 16時30分から

フランソワ・ルセルクル (パリ第4大学教授)
「「存在しないものが見える」―幻覚の医学理論の誕生とその演劇的効果―」


京都大学文学部 新館8階L830 フランス語学フランス文学研究室


Le mardi 29 novembre 2011 à 16h30

François LECERCLE (Professeur à l'Université Paris 4)
« "Je vois ce qui n’existe pas" : La naissance d'une théorie médicale de l'hallucination et ses effets théâtraux »

Université de Kyoto, Faculté des Lettres
Nouveau bâtiment, 7e étage, L830,
Département de langue et littérature françaises

問い合わせ先

フランス語学フランス文学研究室 Tel 075-753-2829

Renseignement

Département de langue et littérature françaises
Tél. 075-753-2829

フランス哲学と「科学」の思考〜構造主義・数学・医学・エピステモロジー

●開催概要

2011年11月20日(日)14時〜17時30分(13時30分開場)
青山学院大学青山キャンパス(渋谷区渋谷4-4-25)総研ビル(14号館)3F・第10会議室
入場無料・事前申し込み不要

主催:青山学院大学フランス文学科

問い合わせ先:青山学院大学フランス文学科合同研究室(tel :03-3409-7914)、
阿部崇研究室(tabe〔アットマーク〕aoyamagakuin.jp)

●開催趣旨

古来、哲学はさまざまな科学と不可分の関係を取り結んできた。数学、物理学、生理学や医学等々、さまざまな科学が哲学とともに、広大な「人文学」の領域を形成してきたのである。学問の専門化が進行した近現代の思考において、哲学と科学を通底する広大な知の地層を探ることは、すでに困難なことかも知れない。だが、一見失われたかに見える哲学と科学との結びつきをさまざまな「知」の具体的なあり方のうちに見出し、「哲学的な思考」と「科学的な思考」が互いを支え合うさま、またその片方がもう片方にとっての密やかな原動力となるさまを見ることができはしないか。科学史や、フランスで花開いた「科学認識論(エピステモロジー)」によってもたらされた知見を中心軸としながら、数学や哲学、医学といった知の領域の背景に垣間見える「科学的思考」のあり方を検討する。

●参加者(50音順)および発表概要
阿部崇(司会、青山学院大学

《イントロダクション:哲学の思考と科学の思考》
かつてフーコーがフランス哲学について「意識の哲学」と「概念の哲学」という二つの潮流が存在することを指摘したことは知られているが、とりわけその「概念の哲学」は、フランス科学認識論(エピステモロジー)と密接に関係するものであった。その概念の哲学がフランス哲学の歴史においてどのような位置を占めるのか、そしてそれがいかなる思考の可能性を開いてきたのかという点について確認し、「科学の思考」が「哲学の思考」に何を与えうるのか、という問題を提起したい。

田中祐理子(京都大学

《「非人間的」な身体の思考:フランス医学理論の変転について》
18世紀末から19世紀末にかけてのフランス医学理論、特に病理学的記述における「人体」の描写に注目して、この時期を通じた医学の科学性の確立と「人間性」との間に生じた距離(すなわち「客観性」の条件)を探る。ビシャ、ベルナール、パストゥールの三者の言説を取り上げつつ、同時に彼らのテクストからカンギレムやフーコーが引き出そうとした近代的人体像についても考察したい。

前田晃一(東京大学UTCP共同研究員)

ミシェル・フーコーの絵画論におけるエピステモロジーの影響》
ミシェル・フーコーは自身にとっての「エピステモロジー」を論争のなかで定義することを迫られ、それは「方法論的」な著作『知の考古学』の執筆の契機の一つともなる。同時にフーコーは「絵画論」や「文学論」を積極的に執筆することをやめる。カンギレムの影響による「エピステモロジー」の確立と「フィクション」についての再検討がこの時期に行われる。本発表では、『言葉と物』におけるベラスケス『侍女たち』論から未完に終わった『マネ論』へと至る「絵画論」の変遷を辿るなかで、フーコーにおける「エピステモロジー」の位置づけについて考察する。

松岡新一郎(国立音楽大学

《数学と構造主義ブルバキの1950年代》
哲学において構造主義の立場から数学、さらに物理学の基礎付けを行おうという試みは、近年様々な立場から活発な議論がなされているが、その中心である圏論をめぐっては、1950年代に数学者の集団ブルバキの中でも議論があった。圏論を大きく発展させたグロタンディークをメンバーに抱えながら、なぜブルバキ圏論をその数学体系に加えることに躊躇したのか。本発表では、この問いを歴史的に振り返りつつ、より広範な構造主義の問題を考えてみたい。

シンポジウムのチラシはこちらからダウンロードできます。