アニメ映画『トラペジウム』ネタバレ感想その2

まず最初に「ごめんなさい」という謝罪から。
以下にまとめた今回の作品感想記事では、前回の記事とは東ゆうのキャラクター解釈、ひいては作品全体の解釈が根本的に変わっています。
変わらざるを得ませんでした。

前回の感想記事における、東ゆうの解釈も自分で言うのもなんですが「面白い面白くない」で言えば、割と結構面白いところはあるんじゃないかなとは思います。

ただ、本編描写との間に否み難い矛盾があります。

世の中には完璧に正しいといえる作品やキャラクターの解釈はないだろう一方で、明確に誤っているとは言えるだろう解釈というものがあり、それに該当するのだと思えます。
悲しいことですね……。

 

ともあれ、物好きな方、心の広い方、気持ちとお時間に余裕のある方には、前回の感想記事と今回を比べてみたりして頂いても面白いのではないかとは思います。


ともあれ、以下、目次です。

 

  1. :東ゆうは"アイドルは(成り得る)誰にとっても素晴らしい、最高の価値があるものだと信じて疑わない"狂信を抱いている。ただし、その1点を除けば(少々性格は悪い)ごく普通の少女である
  2. :『トラペジウム』という作品における「アイドル」とは何か。「人間って光るんだって」とはどういうことか。「トラペジウム」という題名の意味は。
    この3つの問いにはいずれも明確、明快な正しい答えがある
  3. :南西北の三人はゆうが見出した「光る人間」。三人の光は「職業としてのアイドル」であることとただ関係ないだけでなく、三人三様に明確明快に相容れないもの。
    「どのように相容れないか」こそが正にそのまま各々のキャラクター造形の根幹を為している。
  4. :東ゆうの狂信の終焉=東西南北のアイドル活動の終焉
  5. :映画版『トラペジウム』はとことん東ゆうの視点に寄り添って綴られている。別視点からだとおよそ別の様相をみせるということでもある(※ここは前回の記事とほぼ同じ内容)。
  6. :狂信を失った後にこそ、東ゆうの人間的な美点や魅力が繰り返し提示され。その提示が挫折した東ゆうに皆がケアや後押しを向ける理由でもある
  7. :元トップアイドルの原作者がこの原作小説を書く妙味
  8. :「萌え袖の女」西の星/大河くるみというキャラクター
  9. :(5/17追加)「善を為す女」北の星/亀井美嘉というキャラクター
  10. (5/17追加)「縦ロールの女」もとい「純金インゴット」南の星/華鳥蘭子というキャラクター
  11. :(5/18追加)写真男、工藤真司という作品の「答え」を提示するための装置でありキャラクターについて
  12. :原作者・高山一実が小説家・湊かなえの大ファンであることの納得感


1:東ゆうは"アイドルは(成り得る)誰にとっても素晴らしい、最高の価値があるものだと信じて疑わない"狂信を抱いている。ただし、その1点を除けば(少々性格は悪い)ごく普通の少女である

まず、映画を元にしたノベライズ版(映画版に概ね忠実な展開、台詞。そして映画版では口にされない、キャラクターの内心が地の文として書き加えられていることも多い)から一つの場面を引用する。

「ふうん……。くるみちゃんて、アイドルに興味あんのかなあ」
「私、かわいい子を見るたび思うんだ、アイドルになればいいのにって」
 かわいいのに、アイドルにならないなんて、もったいない。人生、損してると、私は思う。
「くるみちゃんも、南さんも、すっごくかわいいけど、本人がアイドルに手を伸ばさないかぎりはなることができないでしょ? それってすごくもったいない。私はみんなをアイドルにしたい。そのための、きっかけを作りたい」
 はじめてアイドルグループを見たあのときから、ずっと思いつづけている。
「アイドルって、キラキラ輝いてるんだよ、星みたいに。私もあんなふうに光ってみたい」
「それが、君の夢なんだ」
「夢じゃない。夢で終わらせたくないから、現実にする」
 自分の中では、もう決めてる。誰かに反対されたって、ぜったいにやりとげる。
 シンジは数秒間ぼんやりと私の顔を見ていた。そしてポケットに手をつっこんでスマホを取りだした。
 「これ見て」
  画面は、大自然の中の、星降る夜空の写真だ。空じゅうに、星がまたたいている。」

上記場面の台詞(及び地の文で語られる内心)に東ゆうの狂信の在り方が概ねそのまま示されていると共に、工藤真司の短い台詞が的確に問題点を挙げてもいる(ただし彼はさらっと問題点を挙げはしても、決して反論しない)。

(アイドルとして輝くだけの資質をもっているならば)「アイドルに興味」を持たないなどあり得ないし。それは「君(東ゆう)の夢」に留まらず、皆が抱くべき夢であると、東ゆうは信じて一切疑わない。

 

例えば、
・アイドルをやってみた上で、嫌に思うとか。
・アイドルをやってみた上で、その障害になると分かりきっていてもなお譲れないものがあるとか。
・アイドルをやってみた上で、もっと他に面白いことを見つけてしまうとか。

 

そんなことは有り得る筈がないとしか思えない。

有り得る筈のないことに直面しての反応はいつも、

 

・もっとアイドルをやっていけば、アイドルを好きになっていくよ。
・もっとアイドルをやっていけば、夢中になって何よりも優先していかずにはいられないはずだよ。
・もっとアイドルをやっていけば、アイドルより面白いものなんてあるわけがないってわかるよ。

 

といったものになってしまう。

「分かってもらう」ためにコミュニケーションを取ろうとするのですらなく、「そう思い、動いて当然なのに、なんでそうしてくれないんだ」と押し付けようとするか苛立つことしかできない。

皆でアイドルをやっていく上で生じた問題への対処法が「もっとしっかりアイドルをやっていく」一択しか思い浮かばない。

 

どうしてそんな風に思えてしまうのか。
おそらくは、

"なぜなら「アイドル」は素晴らしくて、アイドルをやっていくことを好きにならない人なんているわけがない!
あの「人って光るんだ」という圧倒的な体験が私にそう教えてくれたんだから!"

という具合に。
幼い頃にTVに映るアイドルを観て感じた「人間って光るんだ」という感動は東ゆうにとってある種の神秘的体験であり、それによって理屈に先立つ強固な信仰として根付いてしまったからだと思われる。

 

実は映画冒頭に置かれたOP映像の中で、東ゆうにとってのその神秘的体験が描かれている。

 こちらの動画の3:04-3:18がそれ。
※ちなみに2:26-2:34では映画冒頭から東西南北のアイドル計画を開始していく……それ以前に受けて落ち続けたオーディションの様子と、激昂して落選通知を床に叩きつける姿が描かれていたりもする。

 

前回の感想記事では、このおよそ正気でない信仰が理解できていなかった。
なので、東ゆうというキャラクターについて、およそ見当違いの解釈しかできていなかたのだと思えている

 

どうか一度、だまされたとでも思って「東ゆうがこうした信仰を抱いている」という前提の元で、東ゆうのその狂信が一旦破綻を迎える(くるみの号泣と、蘭子と美嘉との言い争いの場面)までの言動を改めて劇場で観るなり、思い返すなりしてみて欲しい。
普通に見たらおかしいと思えるような言動は、それで(ほぼ)全て説明がつくと思う。

 

まず、こんな狂信がなければ、東西南北のアイドル計画なんていう代物はまずもって始められていない。そもそも物語が開始されない。

 

次に、狂信の中の「誰にとっても」の部分が破綻した時(くるみの号泣と、蘭子と美嘉との言い争いの場面)がそのまま、東西南北のアイドル計画の終焉の時(すぐ後の3人の事務所退所)となっている。

それは四人にとって「職業としてのアイドル」でなくなった時でもある。

 

そして、狂信がなぜ狂信になってしまったのかを東ゆうがふさわしい時に、ふさわしい人間たちと共に、明快明確に理解し、正しいあるべき信仰に到った時に作品が大団円を迎え、それは同時に「トラペジウム」という題名の意味が明らかにされる時でもある。

 

次の項ではそのことについて解説していく。

 

※5/19追記

ひとつ、とても大事だと思えることがあって追記。

おそらく先掲のOP映像の中で描かれている幼い日の東ゆうが「人間って光るんだ」と宗教的神秘体験とすら言えそうな衝撃を受けたTVで観たアイドルのライブは、きっと作中においても東ゆう以外にとって……他の観た人多くに広くそんな衝撃を与えるものではなかったのではと思う。

なぜなら誰かが「なりたいわたし」を見出しそれを目指してひたむきに夢中になる理由は、誰かと共有する必要も、理解や納得をされる必要もないし、理屈でもない、ただそうなってしまうものだから。それで良いものだから。

 

勿論、東ゆうが工藤真司に"この相手には伝わる/この相手は分かる"と直感して自身がなぜそんなに熱烈にアイドルを目指すのかの理由を答え、直感通り大いに理解を得たのはきっと非常に良い出会いだったし。

義足の少女(水野サチ)と東ゆうのように「なりたいわたし」が重なる同志を見出した時はそれゆえの嬉しさが大いにあっただろうし。

その間で夢を託し託されることには特別な思いが伴ったりするわけだけれど。

しかし、共有したり、理解や納得をされたりして貰えればそれはとても嬉しく、大事でもあることだろうけれど……その「必要」まではない。更に言えば、無理に共有(や理解、納得を得ようと)などするものではない、無理にゴリ押しまでしてしようとしてはいけない。そう思える。

 

ある種、繰り返しになるけれども。東ゆうが自身の「なりたいわたし」=職業アイドルは、他の人間……華鳥蘭子とも大河くるみとも亀井美嘉とも共有できる……できるできない云々以前に、共有されて当然だと一切疑いなく信じ込んでいたことがその後の軋轢の根源であるわけだけど。

それぞれがそれぞれの「なりたいわたし」を持つものである以上、共有できなかったことは当然であり、「もっと互いにコミュニケーションをとって共有できればよかったのに」なんて話では決して、断じてない。

むしろ共有などせず、東ゆうがそうしたように、華鳥蘭子も大河くるみも亀井美嘉もそれぞれがそれぞれの「なりたいわたし」をひたむきに追い求め、そして叶えた。だからこその完璧なハッピーエンドであったのだと強く思える。

 


2:『トラペジウム』という作品における「アイドル」とは何か。「人間って光るんだって」とはどういうことか。「トラペジウム」という題名の意味は。
この3つの問いにはいずれも明確、明快な正しい答えがある

後にプロ写真家になる写真男(工藤真司)は星=光を放つものを見つけ見出し、撮る人間だ。
だからエピローグで8年後に元・東西南北の4人が集った彼の展示会に並ぶ写真はどれも星(とその光)の写真である。
ようするに彼はこの作品において「アイドル=光って見える人間=星」とはなにか、という答えを提示する存在だ。そのためにこそ存在するのだと言ってもいい。
「トラペジウム」という作品の題名の持つ意味も、その文脈で提示されるというか、その意味の提示がそのまま問いへの回答になってる。

四人が大河くるみが通う高専の文化祭での「10年後の自分」の企画で各々が心から願う将来の姿/夢を体現する様を彼が撮った「トラペジウム」と題された写真は即ち、光り輝く四つの星を映したものだ。

この写真が即ちこの作品におけるアイドル(という存在、その意義、その輝き)=星の在り方だ。
それは「アイドルという職業」でもなければ、プロかアマチュアかなんて話でもなく、そもそもいわゆるアイドルという方向性である必要もない。

 

その人が願う在りたい自分を心から表現する姿。
それこそが星。光を放つものだ。

 

幼い日に東ゆうが打たれた「人って光るんだ」というのは真に神秘的体験だった。
そこで目にした光は、信仰を捧げるに足る尊いものだった。
ただ、たまたまそこで出会った光を放つ存在が職業アイドルであったため、光を放つ人間=星であることと「職業としてのアイドル」であることは実は無関係であることに気づかなかった。
「トラペジウム」の写真を前にして、東ゆうは初めてその真実に目覚め、真の信仰を得ることができたのだと思う。
そしてそれは即ち、この物語全体の幕引きも意味していた。


それと、工藤真司が東ゆうを初めてみた時のあの挙動不審は制服が好き云々は単なるごまかしで。
ようするにあの瞬間、星を見出すことに極めて優れた才能を持つ(まさにその才能で後にプロ写真家になったに違いない)彼が、東ゆうの姿に直感的にまばゆく輝く星を見出していた、だからあんなにも最初から積極的に動いたということである。

一心にアイドルになりたいと願い、挫折(オーディション全落ち)してもめげずに奇妙すぎる計画一つ抱えて突き進む東ゆうの姿は、野暮な制服姿だの、アイドルという職業や称号(※)だのなどと関係なく、正に東ゆうが出会い憧れた光を放っていた……少なくとも工藤真司の目には彼女が光って見えた。
「人って光るんだ」という驚きと感激はその時の彼のものでもあったのだ、ということでもある。

 

※「アイドルという称号」について。

「……やめさせていただきます」
 『うーん、まあ、残念だけどねえ、また連絡するから、がんばってよ』
  でもきっと連絡はない。わかっていた。
  やっと掴みかけたと思っていたアイドルという称号は、私の手からするりと逃げていった。」

ノベライズでは地の文として書かれている「やっと掴みかけたと思っていたアイドルという称号は、私の手からするりと逃げていった」は映画版でも独白として口に出される。

 

また、先述の東ゆうの狂信の在り方を示すとして引用した工藤真司との会話場面。

「シンジは数秒間ぼんやりと私の顔を見ていた」

とあるのは夢を語る東ゆうの姿に、彼は再び「星」を見出していたということ。
「誰にでも」アイドルは夢であるというのは端的に誤りであり、狂信だった。
しかし、東ゆう自身に限定した話とするならば「(職業としてという意味合いも含んだ)アイドルになりたい」というのは「その人が願う在りたい自分を心から表現する姿」、即ち星であることと同じだったから……。
映画本編でもその様子を映像で見て取ることができる。

一つ東ゆうを諌めようなどせず、彼女の共犯者であることを選んだ。
それがたとえ狂信によるでも、彼の目を奪った星の輝きを損なうようなことは決してしたくなかったからなのかもしれない。


いわば『トラペジウム』はある意味で、幼い日の神秘体験に支えられた信仰の話なのかもしれない。
神秘体験は本物……真に尊いものに触れていたのだけどその解釈を間違って「誤った信仰」を抱き続けていたため色々あって。
でも結果的に「誤った信仰」も諸々プラスに働き。
最終的には「正しいあるべき信仰」にたどり着くべき正しい時にたどり着きました。
めでたし、めでたし、という。

別の言い方をするならば。
「もしも主人公がまともに自省をしたならばその時点で話は終わるというかそもそも始まらないのだが「なぜ自省しない/できないのか」に「幼い頃神秘体験で信仰を抱きそれが誤った信仰だから」と解を用意した上で、アイドルというテーマを不即不離に接続した」というのが『トラペジウム』という作品の構造なのだろう。

 

なお、割合繰り返しになるのだけれど。

「トラペジウム」の写真の場面で明らかになるのはトラペジウム』という作品の中で「なりたいわたし」に向かって一心に手を伸ばすその姿が輝く星なんだと描かれたのは一人ではなく四人だということ。

間違ってもエゴの塊の東ゆうが一方的に東西南北の他三人を犠牲にして挫折して、それでも赦されるなんて話ではない。

三人は東ゆうに負けず劣らず輝く星であり、東ゆうの一方的な犠牲者などではない。

輝く星であるということは、実は相当にエゴまみれであることも意味している。

 

後の項でそれぞれのキャラクターについて解説しているので、詳しくは後でそちらを読んで欲しいのだけれど。

大河くるみは自分がいかにエゴイスティックな人間か自覚してるし、実際そうだし。
華鳥蘭子はつまり"この体験を糧にして私人間的に成長させて頂きましたわ"と曰ってるのだし。
亀井美嘉のエゴの在り方も嫌というくらいに濃く描かれている。

その上で勿論東ゆうも含めてエゴまみれで、それも含めて一心に「なりたいわたし」に手を伸ばす姿が「人間って光るんだ」ということ。
四人とも星なんだよ。四人ともどぎついエゴを持ってる。
それも含めて星の輝きなんだ。

 

それと一つ面白いのは、東ゆうが8年後にようやくたどり着くことになるこうした「答え」に一度、実は遥か以前に辿り着いていること。

ほとんどそのまま「答え」を口にしていること。

映画版でも原作小説においても。

「東さんはどうしてそこまでしてアイドルになりたいんだい?」

「初めてアイドルを見た時思ったの。人間って光るんだって。」

「……」

 あの時の感動は今も忘れられない。カナダにいたころ、親戚が日本のテレビ番組を録画したテープを沢山送ってきた。その中に、あの人たちの歌う姿が映っていたのだ────。

「それ以来ずっと自分も光る方法を探してた。周りには隠して、噓ついて。でも自分みたいな人、いっぱいいると思うんだよね。みんな口に出せない夢や願望を持っていて、それについて毎日考えたり、努力してみたり。勉強してないって言ってたのに100点取る人と一緒でさ。」

「そういう奴ほど目の下、黒くなってたりする。」

「でもそういう奴ってかっこいい。」

 喫茶店には今日もお客は2人だけだ。いまにも潰れそうなこの店いっぱいに、笑い声を響かせる。一瞬の沈黙が訪れると、自分の発言が急に大言壮語に思えてきたが、もう遅いだろう。本心を他人にさらけ出すことは赤裸裸という文字通り、恥ずかしいことだった。

「光るものって、なんであんなに魅力的なんだろう。」

「さすが星好きのシンジくん。よくわかってますね。」

引用は原作小説から。

「人間って光る」事とアイドルは関係ない。「そういう奴」はアイドルだけじゃない。

東ゆうはこんなにもはっきり、その(この作品における)真実を自ら口にできていたのに。

ある種のミステリの手法というか仕掛けとしてよく観る類のものではある。
真相はこんなにもあからさまに解決編の遥か手前で提示されていたのに、さらっと提示する/されることで、それに気づかせない/気付かない。

 

 

3:南西北の三人はゆうが見出した「光る人間」。三人の光は「職業としてのアイドル」であることとただ関係ないだけでなく、三人三様に明確明快に相容れないもの。
「どのように相容れないか」こそが正にそのまま各々のキャラクター造形の根幹を為している。

南西北の三人は「人間って光るんだ」と感動した東ゆうが見出した「光る人間」だ。
東ゆう自身を含めた四人が「光る人間」であることは作中で題名の意味と共に明確明快に示される。
それが示される時「人間が光る」ことと「職業としてのアイドル」は実は無関係なのだとも、やはり明快明確に示される……というのが先程明らかにした「トラペジウム」と題された写真を巡る話の意味するところだった。

その上で、南西北三人の光は「職業としてのアイドル」であることとただ関係ないだけでなく、三人三様にやはり明確明快に相容れないもので。
というか「どのように相容れないか」こそが正にそのまま各々のキャラクター造形の根幹を為していて、その在り方は「10年後の自分」のコスプレ姿=「なりたいじぶん」(東西南北が歌う劇中歌の題名でもある)にやはり明確明快に象徴されている。

 

工藤真司が「トラペジウム」と題した写真を再掲載しつつ、順に見ていく。

南/華鳥蘭子は「職業としてのアイドル」に収まる器ではないというか「職業としてのアイドル」を単に踏み台として自分の目標/冒険に羽ばたく人間として造形されている。
「そもそもアイドルって楽しくないわ」は遅かれ早かれ、彼女がたどり着かずにはいられない一つの結論であったことだろう。
冒険家のような姿はその象徴。

 

北/亀井美嘉には「職業としてのアイドル」として不特定多数の人に向き合うより大事なものがある。
恋愛/彼氏、ボランティアで接する人たち……「近くの人を笑顔にする/文字通りの「隣人」を愛し愛される」ことが何より大事な人間。
シスターのような姿はその象徴(「汝の隣人を愛せ」)。

くるみの号泣の後のやりとりでの「近くの人を…笑顔にできない人が?」と東ゆうに投げかけた言葉もそのことと完全に結びついている。

 

西/大河くるみは「職業としてのアイドル」に徹底的に不向きな人間。
まず自分自身の好きや大事を貫きたい……それを誰にもコントロールされたくない(「私が私でなくなっちゃう」という号泣)。
他人が勝手に自分から影響を受けないで欲しい……責任取れないし、そしてそもそも、知ったことではないから。

「「でも、アイドルって、どうしてもくるみには無理だった。自分の存在が知らない人の人生に関与するのが怖くて。アイドルはデバッグできないからね」

展望台での再会時に東ゆうに告げたこの台詞は謙虚なようである意味傲慢な言葉でもあって。

自分で自分をコントロールするだけでなく、自分が他人に与える影響もエラーやバグがあれば修正するデバッグのように、問題を感じたらコントロールしてしまいたいし、それが出来ないのは我慢ならないということ。
研究者のような姿はその象徴。

 

「人間が光る」ことと「職業としてのアイドル」は実は無関係なのだけれど、無関係であるということは別に「職業としてのアイドル」であっても良いということで。
東/東ゆうは「職業としてのアイドル」であることと「なりたいじぶん」が一致していて、8年後のインタビューのように裏の苦労や打算など表にはみせず、綺麗に汚れなく輝く光だけ見せていく……ことが(たとえ8年後でも)どれだけ徹底できているかはともかく、そうあろうと努める姿が似合いもすれば、本人の性にとことん合ってもいるのだろう。
アイドル衣装の姿はその象徴。

なお、楽屋裏をみせないアイドルなんておそらく昭和の遺物で。
作中で描かれたように今はSNSも活用したりして「演出された楽屋裏」も含めて売り物にするのは当然で、8年後の東ゆうはそこら辺もうまくやってたりするんだろう。
その8年前に南西北の三人とのSNSの反応格差に直面した時、例のノートに「SNS対策も強化」と書いていたのだし。

 

 

※2024/5/18追記

それとこちらはX(旧twitter)でだいぶ以前から相互の方の感想記事なのだけれど。

「トラペジウム」の一つの語義もう一つの「不等辺四辺形」も色々示唆的でダブルミーニングなのだと思えるけど、この作品においてはより一層重要と言えるだろう)「オリオン星雲の中にある四つの重星」「重星」という部分への着目がとてもいいレビューだと思う。

というか「単語の意味を調べたらざっと見て満足しないで、しっかり読もうな!」と自分自身に言いたくなった……。

重ねて書くけど「重星」という要素、着目すべきものだったと思う。

 

4:東ゆうの狂信の終焉=東西南北のアイドル活動の終焉

映画『トラペジウム』本編シーン映像「こんな素敵な職業ないよ」編|大ヒット上映中

この映画の中で随一の悲劇的事態、破綻であり見せ場として描かれたのは勿論、上に掲載した動画の直前の大河くるみの号泣場面と、直後の動画で描かれている華鳥蘭子、そして更にその後の亀井美嘉との決裂だと言えるだろう。


一連の場面においてはずっと、二人の総作画監督の一人にクレジットされている「けろりら」さんの絵柄が全面に押し出され、くるみの感情の爆発、蘭子と美嘉との言い争いで決定的に東ゆうが押し付けたアイドルの幻想……そして東ゆうが自分自身に求めたアイドルとしての在り方が破綻し、東西南北のアイドル計画が崩壊する様が強烈に情感豊かに、叩きつけるように描かれる。

「東さんは本当、何もわかってないわ。くるみさんは限界よ」

「そもそもアイドルって楽しくないわ」

「アイドルって大勢の人たちを笑顔にできるんだよ?」

「近くの人を…笑顔にできない人が?」 

これは"アイドル活動を二人も楽しんでくれている、あるいは今はまだそうでなくてもきっといつかそうなってくれる。だってアイドルになる、アイドルをやるというのは誰にとっても何より素敵な夢のはずだから!"という狂信に真正面から突きつけられた否定による破綻であり。
そこでなに一つ取り繕えない、東ゆう自身も楽しさも笑顔も……心からのものは勿論、そう装うことすら全くできない無惨な姿を晒してしまったことはその信仰にとって決定的な打撃ともなっただろう。

 

こうして東ゆうの狂信が一旦の破綻を迎えた時、直後に三人が揃って事務所をやめた旨が東ゆうに無情に知らされ、ほどなく東ゆう自身も退所を決める。
東西南北のアイドル活動も終焉を迎えることになった。
それは東ゆうにとって「職業としてのアイドル」が(一旦の)終わりを迎えたということでもあった。


5:映画版『トラペジウム』はとことん東ゆうの視点に寄り添って綴られている。別視点からだとおよそ別の様相をみせるということでもある。


ところで一方、この破綻は他の三人にとってみれば、それぞれ何を意味したのだろう。

まず、大河くるみは確かに危うかった。
でも、こうして感情を爆発させ号泣することで、大河くるみは大河くるみの心を自ら守り抜いたということでもある。
破壊力抜群の笑顔のように、素直な心をそう表すことができることも、大河くるみという少女の掛け替えのない特質だと言えるのだろう。

「周りにいろんな人がいる環境で、あそこまで感情を爆発させられることってなかなかないと思うんですけど、だからこそくるみちゃんの辛さや限界も感じられて。それと同時にすごく大切なことでもあるなと思ってます。心が死んでしまう前に叫べることは本当にすごいことですし、あれこそくるみちゃんの本音でもあると思うので、ぜひ見届けていただきたいです」
(パンフレット掲載の大河くるみ役、羊宮妃那インタビュー)

次に、華鳥蘭子も亀井美嘉もそもそもアイドルという職業に懸ける思いも薄く、「そもそもアイドルって楽しくないわ」「近くの人を…笑顔にできない人が?」とアイドルというものに、何より自身がアイドルをすることへの幻想も意義も失った所で、実のところ大した話ではない。
アイドル活動に賭けていた東ゆうと違い、別に活動するうえで取り返しのつかないような犠牲を払ってきたわけでもない(例えば亀井美嘉はあれだけ東ゆうに詰め寄られても、結局例の彼氏と別れてなどいない)。

そして三人にとって、ここで決裂してしまった東ゆうとの関係も割とすぐに雨降って地固まるくらいの和解もあったわけで……言ってしまえば「ちょっと大変だったけど、それも良い思い出」くらいの話ではあったりする。


例えば亀井美嘉にとって、とても大事な友だちである東ゆうとの決裂はそのままだったら非常に大きな痛手だっただろうけど、「最初のファン」として東ゆうが立ち直る大きなきっかけになったりもして、むしろそれこそ雨降って地固まるでむしろ関係は深まった。
たぶん彼女にとって東ゆうとの関係性は共にアイドルをやっていく仲間同士であるよりも、ファンとアイドル/ヒーローという形のほうがずっとしっくりくるのだろうとも思われる。
あと彼女にとって、アイドルであることやアイドル活動なんかより、「近くの誰か」……例えば彼氏との関係のほうがたぶんずっと大事なことだろう。

「………でもやっぱり腑に落ちない。美嘉ちゃん、恋愛ってそんなに大事?」
「ふふっ。大切な人ができればわかるよ。東ちゃんも」

更に言えば東ゆうにとってはアイドル活動のための単なる手段だったのが、他の誰かにとってはそうではないということだってある。


例えば大河くるみ視点からは、
"最初からやりたくなかったアイドル活動やらされてからは色々すごく嫌なことばかりだったけど。蘭子さん家のプール借してもらって東さんと三人でロボコンに向けて一緒にがんばって、準優勝できたのはすごく良い思い出!"
東ゆうの視点とはまるで異なる思い出が当然にあるかと思われるわけで。

 

そして東ゆうに狂信といっていいアイドルというものへの思い入れがあったように、他のキャラクターもそれぞれに抱えるものがある。
例えば展望台での再会の際、大河くるみが二度に渡って口にした、

「役に立てなくてごめん。でも、東ちゃんと知りあえて、くるみは、はじめて、友だちができたんだよ」

「くるみと仲良くしてくれた女子は、東ちゃんが初めてだったよ」

という言葉はきっと、向けられた東ゆうが思うよりもずっと重みがあるものだったろうと思う。
これについては後に大河くるみというキャラクターについて少し詳しく書いていく項で触れることになる。
 

ところで……他の事例を挙げるなら、いわば映画版『トラペジウム』はデレアニ……アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』6話と似たような側面を持ってもいるのかな、と。
本田未央の主観では大失敗、大事件だけど少し客観的に外から見ればライブは成功だったし、当人の落ち込みとそこからの問題しか実は起きていなかったと作中でも7話で結構しっかり説明された顛末。

 

ちなみにこうしてデレアニ6話(~7話)の話題出したので、一応。
余談もいい所ではあるので、まあ、物好きにも興味がある方だけぜひ。

【6話(&3話)】未央、凛、卯月で三者三様のアイドル像から観る6話感想

【7話感想【前編】】7話概説&本田未央特集
【7話感想【中編】】島村卯月&渋谷凛特集
【7話感想【後編】】CP14人+Pの再出発としての7話

 

なお、一応付け加えておくと。
映画『トラペジウム』がとことん東ゆう視点に寄り添った映像で綴られている以上、観る側も基本的にその視点に沿って観たほうが色々と楽しい筈で。
東ゆうの視点から離れ別視点で観る試みは相応に面白いかとは思うけど(だからこそこの項でそれなりに書いても来たわけだけれど)、作品を楽しむあるべき本筋では多分無いのだろう。
あまりそうした脇道からの視点に拘泥しすぎないように……例えば「実はちょっと離れてみれば、この作品って全体がくだらない話なんだよね」などと片付けてしまうことなど無いよう願いたいとも思う。

 

6:狂信を失った後にこそ、東ゆうの人間的な美点や魅力が繰り返し提示され。その提示が挫折した東ゆうに皆がケアや後押しを向ける理由でもある

 

東ゆうは東西南北のアイドル活動終焉あたりまでは主に「誤った信仰」を振り回して突き進んできていたわけだけれど。
それが破綻した後にこそ、その人間的魅力だとか、本来持っているのだろう気丈さや勇気が色々発揮されてはいる。

 

久しぶりの登校の際、トイレで鏡に向かって笑顔を作り、打ちひしがれた姿などみせてやらないよう努めてみせる場面だとか。
古賀からの「うちは東西南北のおかげでいっぱい楽しいこと、経験させてもろたから」とどこまでも明るく伝える電話を受けた後、乗るはずだった電車が去った後もずっと頭を下げ続ける姿だとか。
狂信が破綻し見失った自分を再度見つけるべく、拒絶される怖れも振り払ってババハウスに美嘉を訊ね「昔の私」について聞く勇気だとか。
義足少女(水野サチ)からラジオに寄せられた感謝の言葉と「なりたいじぶん」のリクエストも文化祭の「10年後の私」企画の場でその時ばかりは完璧に発揮していた善性への報いだとも言えそうなことだとか。

 

いずれも地味で、ささやかな意思や善性のあらわれだけれども。
人として大事なものが発揮されている場面かとも思える。


そうした部分もあってこそ、これだけ打ちのめされても諦め悪く職業としてのアイドルたることに一人再挑戦を始める姿にも、元・西南北の三人を始め、これまで関わってきた、それにこれから関わっていく多くの人から後押しを受けたり、受け入れられていくことに繋がって……その結果がエピローグの姿であるのかとも思う。

 

その義足少女(水野サチ)に託された思いに応える時に、アイドル狂いも含め東ゆうの善性、美質がもっとも良く出て光を放っていて。

だからこそ一番辛い時期に良き報いとして帰ってくる。

その報いのリクエストで流れる「なりたいわたし」を他三人も同時に聴いていて、それが再会と和解に繋がる。美しい流れ。


7:元トップアイドルの原作者がこの原作小説を書く妙味


『トラペジウム』は「人間って光るんだ」という東ゆうが見た光、アイドルの核心的な価値でもある光は信仰すらするに値する尊いものだとしつつ。それはアイドルという職業とは別に関係ないのだ(アイドルという職業であってもいいし、そうでなくてもいい)と明快に結論づけもする作品で。
そりゃあ、元トップアイドルの作者がそう書いてるのは面白くもあれば挑戦的/挑発的ではあるのだろうな、と。


そして、きっと自身が何を書いたかよくよく分かった上で、映画パンフレットでも他の所のインタビューでも決まり文句のように「アイドルという職業」を過剰なくらい讃え上げてる。「アイドルという職業」という言葉を多用した上で、めちゃくちゃに肯定してる様子がだいぶ面白い。

 

なんというか、とてもとても賢いし、面白いし、すごく「いい性格」している人なのではと思う。自分はアイドルに疎くて、アイドル時代の高山一実さんのことも乃木坂46のこともほとんどまったくといっていいほど存じ上げず、映画版『トラペジウム』と原作小説『トラペジウム』、関連するインタビュー等だけを通じての印象にはなるけれど、強くそう思わされる。
一切皮肉でなく、ごく素直にすごい人なんだろうと思えている。

 

「アイドルを、本当に素敵な職業だな、眩しい職業だなと今も強く思っています」
(映画パンフレット掲載の東ゆう役結川あずさとの対談)

 

「アイドルっていい職業ですよ、本当に」
「自分がこの人生でよかったな、って思えるのは間違いなくアイドルという職業に就いていたからなんですよね」
「アイドルにずっと憧れていて、アイドルとしての活動を終えたあとも「すごくいい職業ですよ!」って心から言える。そういうアイドル人生を送らせてもらって、本当によかったと思います」
「私はアイドルに憧れて、実際になってみて、しんどいなって思うこともほとんどなかったんです。いい職業ですよ、本当に。胸を張っておすすめしたい」

 

「アイドルって本当にすごい職業だと思います。だから渋谷とかを歩いていても、かわいい人とすれ違うたびに「アイドルをやっていないのかな? もったいないなあ」なんて、つい思ってしまうんです」


「人の人生に多く関われる、こんなに良い仕事はないと思っています。作品の中の大河くるみとは真逆の考えですね。「発言の一つ一つがいろいろと取り上げられて生きづらいね」と言われることもありますが、「でも、それが芸能人だよな」と思っています。そういう面もあるかもしれないけれど、それ以上に、やりたいことがかなえられる良い職業だと思います。良い人も多いし」


8:「萌え袖の女」西の星/大河くるみというキャラクター

これまでやや、作品の構造といった話に偏っていろいろ書いてきてしまったので、少し特定のキャラクターについての細かい話も。

 

大河くるみというキャラクターについて。
初見に比べいろいろと余裕も出てくる2回目の観賞の際には、くるみがいかに華鳥蘭子になつきまくっているかよく分かりもした。ニコイチといっていいくらい、仲が良さを示す描写がとても多い。
それと子ども(特に小さな女の子)相手の時はいつも付き合いやすそうにして楽しんで居ると重ねて描かれているのも目立った(義足の少女、水野サチとすぐ親しくなり、文化祭に呼んだのもその流れ)。
また「なぜ(同性の親しい)友だちができないのか」もなんとなく分かるような気がした。

 

「萌え袖の女」(他三人を「縦ロールの女」「輝きたい女」「善を為す女」とするのと同様に「第二章 西の星 ~萌え袖の女~」と原作小説から提示され、映画パンフレットの人物紹介でもキャッチフレーズのように添えられている)は一見あざとく人に媚びてるように見えるけど、本質だか本性だかはその真逆で。
自分のやりたいことに真っすぐで、とにかくそれに向かうことが大事な人間。
媚びて周囲からよく思われることなど全く関心がなく、好きでも嫌いでも勝手にイメージを抱かれ、自分がそれに振り回されるのも、他人が勝手に影響を受けるのも、ものすごく嫌う。

 

表面をみて媚び媚びの萌え袖女として嫌うか。
もう少しつっこんで接することで、およそ普通の人が持つことなど叶わないだろう、自分の好き/大事なものにどこまでも忠実であれる毅(つよ)さに触れた時にそれに勝手に打ちのめされたり、妬んだりするか。
あるいは自己の好きや大事に忠実なあまり他には無頓着で、他人からみればわがままに思えたり(例えば無断欠席やドタキャンからの音信不通)、けっこう不用意な言動(例えばキャンプの時に班が別れてしまった後の昼食時の「この裏切り者~」)もあったりするようなので、そこら辺で嫌われたり敬遠されるか。
それと、大河くるみの「好き」「大事」において工学系の関心が締めるウェイトがだいぶ大きいだろうところ、その関心を同性と共有することが難しいという話がある。

 

で、そうしたもろもろすべてに関して、華鳥蘭子との相性がものすごく良かったのだと思われる。
いろんな場面でとにかく仲良く一緒にいて、しょっちゅうくっついているし、互いを気にかける描写が目立つ。

 

まず積極的に様々な体験を求め踏み込んでいく気性からの、ロボコンでのプール提供と応援が大いに好印象だったろうし。
その後もくるみに「コンピューター(のこと)を教えて貰」っていたことも、滅多に共有できない工学方面への関心という琴線に触れたのかなとも思う。

そして唯我独尊的なくるみと、仲裁役に回ることが多い蘭子というのも相性が良さそうだし。
その上で蘭子は自我が薄いから仲裁役なのではなく、強固にマイペースを貫き揺らがせることがないからできているというキャラクターなので、そのマイペースぶりと好きに忠実なくるみの相性の良さというのも想像しやすいし、実際そうだったのだろう。

そんなわけでくるみと蘭子は何かと並んで一緒にいる、くっついて座ったり寝ていたりもする、よく二人で話している。

 

他にも例えば、

「で、でも、わたくしは歌が苦手ですし、助かったわ」
 蘭子は笑顔でフォローする。
「南さんさ、苦手って思うんだったら、練習すればいいじゃん」

こう東ゆうに蘭子が詰め寄られている時、ふん……とばかりにくるみがそっぽを向いていたりする。
まず、くるみ自身がアイドル活動のために無理を強いられるのが大いに気に入らないし、蘭子が悪く言われるのも嫌だし、蘭子自身の意見というより悪くなった雰囲気のフォローのためにそう口にしただろう蘭子につっかかる東ゆうの在り方も嫌だったのかなと思う(くるみは自分の好きを通すけど、察しが悪いわけでも空気が読めないわけでもないので。察して読んだ上で、自分を通すことを優先するだけで)。

 

美嘉が彼氏騒動の時、まず東ゆうが激詰めを始める前に、くるみが「そこまでする必要あるの?」と呟いていて。
激詰めが始まると露骨にドン引きし、怯えもして後ずさる。
で、くるみの隣りにいる蘭子は激詰めされている美嘉でなく、隣で後ずさって怯えているくるみに顔を向け心配している様子が描かれていたりする。

 

こうした、その場で直接言い争ったりアクションを起こしている当事者だけでなく、そこに居合わせているキャラクターがどんな態度でいるかという描写が全編にわたりいろいろ細やかで面白い作品でもある。
二回目の鑑賞だと概ね全体を把握するので精一杯だった初見の時と違い、そこら辺が色々分かる感じがして特に面白かった。


例えばくるみの号泣後、すぐ説得に向かおうとする東ゆうをぐっと力強く引き止め、蘭子がきっぱり諌め、言い争う場面。
美嘉は二人のどちらからも顔をそらし、ずっと俯いて黙っている……きっと、ゆうは間違っていると思うし分かるけど、大好きなゆうの糾弾にも加わりたくないということなのだと思う。
しかし、"アイドルとは素敵なものだからみんなもきっとその良さをわかってくれる"という勝手な盲信が正面から否定され崩れ、自分だって今の状況が楽しいとは到底思えず。「アイドルとは素敵なもの」という盲信を自分自身が維持することすらできない。
そうして色々なものが崩れ落ちてしまって……あまりにも"自分が好きで憧れてファンである東ゆう"からかけ離れてしまった姿に耐えきれず、

「近くの人を……笑顔にできない人が?」

「いまの東ちゃんは……変だよ……。怖いよ……」

と声を振り絞り、東ゆうの方を見て訴えてくる。
その後、泣き崩れる。

 

ここで蘭子は

「くるみへの心配と理解」

「自分自身が達した「アイドルって楽しくない」という理解」

「「それを楽しいって思えるのは、東さんがアイドルを好きだからよ」という東ゆうへの理解」

といったあたりを元におそらく動き、話している。
自分の心と認識に忠実でありつつ、周りへの配慮も大いにしている。

 

それに対して美嘉は東ゆうやくるみへの心配だって勿論あるだろうけれども……まず「"自分が好きで憧れてファンである東ゆう"からかけ離れてしまった無惨な姿が嫌なんだろうと思う。言ってしまえばかなり自分本位の感情。

また、くるみの号泣が周りの目などもう一切気にしない、ただただ自分の感情を爆発させたものであるのに対して。
泣き崩れる美嘉はそうすることで周りにアピールするということを、意識するにせよ無意識にせよやっているんだろうと思う。
泣き方とその意味合いにおいても、それぞれのキャラクター性がよく出ていたと思う。
そういう微妙な心理や人物像の描き方がとても面白い作品。


それと最後に、大河くるみの「破壊力抜群の笑顔」は基本、無邪気なものとして描かれ続けていて。
8年後の再会の時、やってきた東ゆうに飛びつく直前にぐにゃあ、という感じで浮かべるのが相変わらず「破壊力抜群の笑顔」のままなのも、とても良い。

 

更に、それとは異なる笑顔もまた魅力的で。
先だっても触れたことなのだけれども。
東西南北の破綻後、展望台でのCDを抱え合っての再会の場。

「でも、アイドルって、どうしてもくるみには無理だった。自分の存在が知らない人の人生に関与するのが怖くて。アイドルはデバッグできないからね」

ここで見せる笑顔というか目つきが他の場面とはおよそ違うように見え、とても好きだ。

 

9:(5/17追加)「善を為す女」北の星/亀井美嘉というキャラクター

亀井美嘉はアイドル活動も、ボランティアも、東ゆうにもいつも真面目に熱心に取り組み向き合おうとしてるのだけど。

当人の中で価値の軽重の順番がわかりやすくあって。結果、どれに対してもいい加減に見えかねないの、損な描かれ方してるなとは思う。


まず大前提として「トラペジウム」と題された写真の中で並び輝く星々の一つであるのが彼女で、星の光とは「なりたいじぶん」に向け一心に懸ける思いであるからには。
亀井美嘉が亀井美嘉の大事なものに懸ける思いは、東ゆうがアイドルに懸ける思いにも勝るとも劣らないものなのだろう。

 

その上で、彼女の人物造形の根幹は「10年後の自分」のシスター姿……「汝の隣人を愛せ」に象徴される、(不特定多数を相手にする「職業としてのアイドル」と対照的な)「身近な人を愛し愛されること」に価値をおく人間ということだと思う。

その価値観の中できっと、

 

アイドル活動<<ボランティア<<<最初の友達で「私のヒーロー」東ゆう<<恋愛/彼氏(/家族)

 

といった序列がある(当人に明確な自覚がなくとも。というか、自覚が薄いからこそ、本編中で重ねて事故っていたのかもしれない)。

 

例えば車椅子をサポートしての山登りのボランティアの際、美嘉は東ゆうばかり気にかけ、参加しているボランティア活動には気がそぞろにすら見える。

東ゆうがあからさまにすごく不機嫌だ……私はゆうちゃんと二人で一緒にするグループ活動すごく楽しみだったのに(映画本編で「私と東ちゃんは、同じ班」とすごく嬉しそうに言う姿。彼女にとってはむしろ、他の友だちとは別に、二人だった方が……)。
私にとってゆうちゃんはすごく大事だけど、ゆうちゃんにとっては私は価値なんてないのかな。
私なんかといたら不機嫌にさせてしまうのかな。
ゆうちゃんに何かしてあげられることはないかな(だから昼食の時、蘭子とくるみを呼び寄せる。映画本編での台詞「みんな一緒のほうが、東ちゃんが喜ぶと思ったから」)。

まるでボランティアは脆くて不安定な自我を慰めるための手段に過ぎず、実はそんなに大事ではない……かのようにも見えるのだけど、けっして、そうではなくて。

ボランティアもとても大事でとても熱心に取り組んでいるのだけど。そこに嘘などないのだけれど。
ただ、亀井美嘉にとって東ゆうがボランティアよりも更にずっと重く大事な存在だったのだということが、後の展開、特に東ゆうが「昔の私はどんなだったか」を訪ねにいった時に答えた「私のヒーロー」「私は最初のファン」といった話から明らかになっていく。

 

で、その大事な東ゆうに誘われてのアイドル活動だって、あの東ゆうが満足するくらい熱心に真面目に取り組んでいく。
アイドル活動……不特定多数のファンを相手にするようなことに亀井美嘉は本来、およそ向かないのだけど。
大事な東ゆうの役に立つ私でいたい、楽しそうな東ゆう、格好良く輝いている東ゆうの大事な仲間として側にいて、笑う東ゆうをみて、自分も笑っていたい。そんな私を認めてほしい。すごいゆうちゃんが認めてくれることで、私も私を価値ある人間だと思えるようになりたい……きっと主にそういう理由でとても熱心だったことだろう。

それなのに、なぜアイドル活動に不都合だと分かりきっている、ボランティア活動の先輩だという彼氏との以前からの付き合いを東ゆうにも秘密にし、アイドル活動をはじめてからも関係を切ることもしなかったどころか、不用意にSNSの彼氏のアカウントで「三周年記念」だとかいう二人で指輪をカメラに向けている写真をアップしてしまったりするのか。
事務所からも、そして何より大事な東ゆうをあれだけ怒らせて詰め寄られて……それでもなお、別れなかったのか。

アイドル活動なんてどうでもよかったのか。
大事だと言っている東ゆうがあれだけ一心に打ち込んでいるアイドル活動の障害になるとわかりきっているのに、そんなことはどうでもよかったのか。

実はそうではなく。断じて違って。
アイドル活動自体はともかく、東ゆうのことは本当にそれはもうとても大事なのだけれど……それ以上に自分の恋愛が、彼氏のことがちょっともう周りからは想像がつかないくらいに大事だった、ということなんだろう。

美嘉の彼氏騒動から少し後の、くるみから蘭子への言葉。

「……気づいてた? 美嘉ちゃんが、笑わなくなったの」
 美嘉は向かいの席で、ずっとスマホを見つめている。その目はうつろだ。とくに何かを調べたり、打ったりしている様子はない。
「ええ」
「美嘉ちゃんのこと、何にも知らないで、好き勝手なことばっかり。芸能人ってこういうのが普通なの?」

※引用はノベライズから

そりゃあ、笑えないだろう。
SNS等で不特定多数から叩かれるのも"やっぱり私は無価値な、周りを不愉快にしてしまう人間なんだ"とめちゃくちゃ辛かっただろうけど。
それ以上に、そのことで東ゆう……身近な人の中でも特別に大事な存在が自分をお荷物の不快な存在だと思っているんじゃないか、「美嘉ちゃん、この前は言いすぎてごめん。私が悪かった」なんて口では言ってはくれたけど、本当は全然許してなんかくれていないんじゃないか(別に美嘉の思い過ごしでなく、実際にほぼ間違いなくその通り)と思えてならなかったりすることが、とんでもなく辛かっただろう。
笑えるわけがない。

 

「そんなことない! 慣れていけばきっと楽しくなっていく。アイドルって大勢の人たちを笑顔にできるんだよ? こんなすてきな職業ないよ!」
 私はむりやり笑顔を作って言った。
「……ち、近くの……」
 それまでずっと黙っていた美嘉が、口を開いた。声がふるえている。
「え?」
「近くの人を……笑顔にできない人が?」
「は?」
 イラついた声で問いかけると、うつむいていた美嘉が顔をあげた。
「いまの東ちゃんは……変だよ……。怖いよ……」
 美嘉の目から涙があふれだした。ぽろぽろと、涙が頬をつたっていく。美嘉はそのまま崩れおちた。蘭子が美嘉をなだめている。

※引用はノベライズから。

 

この場面については、つい先程の大河くるみの項でついでに触れたわけだけれど。
なんというか、細かい所までどこまでも亀井美嘉らしい言動だと思う。

 

「みんなと出会えて、よかった。これからも、友だちでいてくれる?」
 美嘉の言葉に、くるみと蘭子は目を合わせた。
「あたりまえだよ、ね、東ちゃん!」
「もちろん」
 私はうなずいた後、実はずっと疑問に思っていたことを美嘉に尋ねてみた。
「……でもやっぱりちょっとだけ、腑に落ちないんだけど。美嘉ちゃん、恋愛ってそんなに大事?」 
 私はどうしても、それがわからなかった。
「大切な人ができればわかるよ」
 美嘉はおだやかに笑った。

※引用はノベライズから。

 

亀井美嘉にとっての恋愛……身近な最も大事な相手を愛し愛されることは、東ゆうにとってのアイドルと同じくらい大事なことなんだろう。
つまり、到底簡単に言葉で伝えられるような重みの話ではない。どんな言葉を尽くした所でとても分かるわけがない。
なので「大切な人ができればわかるよ」とおだやかに笑うだけなんだろう。

 

ただ、それは例えば東ゆうが

「皆、必ずアイドルの素晴らしさはやっているうちにわかってくれるはず!(だって、アイドルは本当に尊く、最高に素晴らしいものなんだから!!!!)」

と疑うことなく信じ込んでいたように。

亀井美嘉も

「ゆうちゃんも(他のみんなも。誰だってきっと)大切な人ができればわかるよ。恋愛がどんなに大事かって!(だって、恋愛って本当に尊く、最高に素晴らしいものなんだから!!!!)」

とやはり疑うことなく信じ込んでいるんだという話なのかもしれない。

 

意味がわかると怖い話というやつなのかもしれない。

 

8年後、当時の例の彼氏とそのまま結婚、二人目の子どもがお腹の中にいて、一人目はもう「六歳。もうすぐ小学生」だと幸せそうに言う亀井美嘉。
彼女が身近な誰より大事な人達……家族と積み重ねてきた8年間は、同じ期間に東ゆうがアイドルとして大成するまで重ねただろう8年に、懸けた思いの強さなり、様々な喜怒哀楽において勝るとも劣らないものだったのだろう。

 

そういう話であるのだと思う。

なお映画パンフレットの原作者インタビューでの

「個人的には、小説を書いているときは美嘉のことがあまり好きになれなかったんです。じめっとしすぎている。だから彼女のシーンは筆の進みが遅かったのですがアニメの美嘉を見たらなんか守りたくなる空気感を纏っていて、かわいいと思ってしまったんです。逆にくるみはちょっと地雷臭が増して面白いです(笑)」

というコメント、なかなかに味があっていいとも思う。

 

10:(5/17追加)「縦ロールの女」もとい「純金インゴット」南の星/華鳥蘭子というキャラクター

先だってもさらっとだけ触れたけれど。

東西南北の四人は各々「職業としてのアイドル」への相性を根幹に人物造形がされているだろう中で。

華鳥蘭子のコンセプトは「「職業としてのアイドル」を踏み台にしていく」なんだと思う。

それをゴリゴリの野心家みたいな方向で出すとアレなんでいろいろ精神もスケールも大きく格の高い「枠に収まらない」という形でキャラクター造形がなされているのだと思う。野心でなく人物そのものが大きい、という方向性。

 

ただ、他三人と比べて、その在り方や魅力というのが、少し分かりづらいというところはあるのかもしれない。

 

東ゆうのアイドルへの信仰とでもいうべき熱狂は「それくらいでないとやっていくのは辛い職業ではあるね」「そういう人、どうしてもアイドルという職に夢中で打ち込めない人(特にアイドルグループの同僚)にあたりがきつかったり、そもそもなんで打ち込めないか理解も想像もできないとかすらあったりするね」といった……特に元トップアイドルの原作者によるのたいへんに実感が籠もった感覚が背景にあるんだろうなと思いつつ眺めてもまた味があるし。

 

亀井美嘉は不特定多数を相手にするアイドルに対し身近な人を愛し愛されるというコンセプトであるわけだけど(そうとしか思えない)。

愛って綺麗なだけでなくめちゃくちゃドロドロもする……愛してるんだから愛してよと見返りを求めてしまうような所、私が好きなあなたでいてというような厄介さ(私が知ってたゆうちゃんじゃない!今のゆうちゃん怖いよ!)、私にとってこんなにあなたが大事なのに私はあなたにとってどうでもいいの?(ボランティア繋がりだけ?ちゃんと友達だって言ってほしかった!)、あなたに嫌われたら私は……といった裏面も、短い尺の中で随所に入れ込むものだから何もそこまで……というだいぶ業の深さすら匂わせるくらいの何かが立ち込めるようで大変に面白いし。

 

大河くるみは「職業としてのアイドルになるには相性最悪、徹底的に不向き」が根底のコンセプトなのだと思うけど。

じゃあ「徹底的に不向き」なのに血眼でアイドルをプロデュースしたいと原石を探す東ゆうのお眼鏡に叶うようなキャラクターってどんなものか、というのも満たす造形として「萌え袖の女」と称して出してくる妙味がまず面白いわけで。


幼くかわいい容姿、だぶついた萌え袖、隙のあるような崩した服の着方、そして「破壊力抜群の笑顔」、甘い声(CV:羊宮妃那!!)……雑に表面をみると媚び媚び女のように受け取られそうに仕立てつつ。


本質として「広く周囲に向け自己演出して人気を集めたり、戦略的にアイドルとしてのイメージを作ってやっていく」という職業アイドルの真逆、「自分を他者に向け演出することに一切興味がない人間」として描かれている。


自分の興味関心が大事でそれに向け突き進むのに他者の目も他者との軋轢も気にしない……いや、大いに傷つきはするんだけど、でも決して、断じて譲らないし(だからロボコンのチームの仲間と決裂しかけたりもした)。

勝手に人気とやらが出て勝手にわけのわからない自分のイメージを抱えて自分に関わってくる相手がわずらわしくて嫌で仕方がない(ゆうが訪れた時の最初の拒絶反応等にも顕著)。


そういう人間だからこその魅力、そういう人間だからこその苦しみや葛藤が短い尺の中でとても色濃く描けていたと思う。

個人的にも大変に好きなキャラクターであり描写だった。

 

上記三人については、言ってしまえば、これだけすごくはっきり「まずコンセプトありき」の人物造形だと思われるのに(だから時折「キャラクターが書き割りのように見えてしまう」みたいな感想を見かけもするんだろう)、いわゆる「血の通った」キャラクターとして見て取ることがそれぞれにやりやすいかと思う。

 

ここで華鳥蘭子は映画版だとまず、CV:上田麗奈という武器も得たことが「枠に収まらない」格やスケールの大きさを描くうえでプラスに働いてもいたかなとは思う。

ただ品の良いだけでない、その裏に深く湛えられているなにか、みたいなのもちゃんと感じてさせてくれる声/演技。

ただ、このキャラクターの魅力は華鳥蘭子一人の様子をみていても少し、分かりづらいところがあるのかと思う。

 

でも例えばまず「萌え袖の女」大河くるみというキャラクターの面倒さ……素晴らしく魅力的なのだけど、本質的には唯我独尊、ずっと近しい間柄でやっていくにはなかなかに厄介な所が多分にある人物像を鑑みると……その大河くるみがめちゃくちゃになついて、ニコイチといって良いくらいにいつもべったり一緒にいることがまず、華鳥蘭子の人徳や人間的なスケールの大きさを大いに物語るものだと結構強く思える。

 

また、東西南北の四人はアイドルをやっていく上でも他のことでも、とにかく全然別の方向を向いている。

その上に蘭子の他には誰一人、歩み寄ろうともろくにコミュニケーションを取ろうともしない。

東ゆうは「アイドル活動をやっていれば、皆自然とアイドルというものの素晴らしさをもっとわかってきてくれる。それで全部解決する!だって、アイドルってとにかく最高に尊くて素晴らしいものだから!!!!!……あれ。おかしいよね。なのに、なんで皆、もっと夢中でアイドルやってくれないの?」という具合だし。

大河くるみはそもそも、人と人の間を取り持つタイプではおよそない。

亀井美嘉は「近くにいる人」を大事にする人間なので、くるみも蘭子も相応に大事だろうけれど……なんといっても東ゆうが特別に大事で、アイドル活動も東ゆうのためにやっているような所が多分にあるので。その東ゆうがたびたび例の狂信から暴走する状況では、到底頼りにならない。

その中でなんだかんだいつも調整役を買って出て動いている。

そしてそのことに愚痴ひとつこぼす様子がない。

『私だけ口パクじゃないから。いつも必死なのに私ばっかり損してる。ずるい』

 腹が立った勢いで書きこんだけど、こんなことをバラしたらダメだ。すぐに手を止め、一文字ずつ消していった。

東ゆうを引き合いに出してしまうのもなんだけど、ともあれ、なんというかそういう所がない。

表立って何かをする行動でなく、何をしないかにも人の価値や美質は大いに現れるものだと思う。

「純金インゴット……!」

東ゆうが華鳥蘭子を初めて見た時思わず発したこの言葉は主に外見的な雰囲気についてのものだっただろうけれど。

華鳥蘭子は外見などより、その心こそが純度の高い鈍い黄金の輝きを放っているキャラクターなのだと思う。

 

 

11:(5/18追加)写真男、工藤真司という作品の「答え」を提示するための装置でありキャラクターについて

 

写真男、工藤真司。「真を司る」という名前の通り、作品の「答え」を提示する装置みたいな存在なんだけども。

 

一応一人のキャラクターとしての人格も想定できはする。

きっと、コイツはとことん「撮る」ことに徹する人間で。

故に、被写体を変えてしまう干渉を厳に控える。

 

だから東ゆうの語る狂信の問題とあるべき答え(人間が光ることとアイドルは関係ない。「光を放つ存在を目指すことは尊く素晴らしい」はこの作品において真とされ肯定されるが、その手段が東ゆうにとって「アイドルを目指す/アイドルをやる」であるように、他の人は各々そが心から願う「「なりたいわたし」を目指す/やる」ことがそれにあたる)にまず間違いなく気づきながら、その在り方を正そうとは決してしない。

 

求められれば協力はしつつ(放つ光の本質を歪めることなく、輝きを強める手助けをできるならば極めて熱心に行う)、同時に、相手が特にまばゆい光を放つ瞬間をとらえて撮ろうとも試みる。彼の言動は大体それで説明し切れると思う(そしてしばしば成功している。「かわいく撮る自信があるんだけどな」)。

 

ここで、その被写体に干渉せず変えようとしない、自分の方も「星/光を撮る存在」という強固な自己を揺るがせない姿勢は大河くるみとの相性が極めて良い。

「私、去年の工業祭は休んでたの。出店するのも面倒だなって思ってたし、一緒に回る人もいないし」

「でも、東ちゃんと知りあえて、くるみは、はじめて、友だちができたんだよ」

「くるみと仲良くしてくれた女子は、東ちゃんが初めてだったよ」

大河くるみはその自己演出を一切せず、自分に干渉されるのも他人に干渉するあるいは他人が勝手に自分に影響を受けてしまうことも激しく厭い嫌う性質のため、まともな友人づきあいが出来ていない。

その中で工藤真司とは高校時代も明らかに親しげだったし(ただし「友だち」ではない)、8年後を描くエピローグでもやはり親しげな素振りを見せていた。
それはそうだろう。互いの本質があまりにも相性が良いものと思えるから。

 

ただ「互いに干渉しない」からこそ相性が良いのであるからには、二人の間柄は例えば亀井美嘉が「近くの相手」と結び深めていくような関係とは自ずから違ってくる。
あるいは「友だち」にも一生なることはないのかもしれない。
そうでありながら、互いにある種の共感を寄せ合う、いわば同類同士であったりするのかもしれない。

 

では、東ゆうとはどうか。
東ゆうはアイドルだ。アイドルはみんなもの。誰かのものにはならない。
8年後の東ゆうはアイドルとして大成した……心底願い続けた「なりたいわたし」であることを叶え今もそう在り続けているだろう、一際眩く輝く星だ。工藤真司にとって素晴らしい被写体だろう。
ただし、彼にとって彼女は

「初めて見た時から、光っていました。」

(映画版にはない、原作小説最後の一文となる彼の台詞)

という存在ではあるのだけれども。

 

12:原作者・高山一実が小説家・湊かなえの大ファンであることの納得感

最後になるけれどこれはやや余談なので、横着してX(旧twitter)での投稿を幾つか引用する形で済ませてしまうことにする。

 

アニメ映画『トラペジウム』ネタバレ感想

※2024/5/16追記

この感想記事で書いた東ユウのキャラクター解釈及び作品全体の解釈が次回の感想記事で概ね根っこからひっくり返されてしまったため、もしどちらも未読なら(こちらの感想日記でなく)「ネタバレ感想2」↓の方を(先に)読んで頂くことをお勧めします……。

 

 

 

アニメ映画『トラペジウム』についてのネタバレ感想です。
諸々、内容について大きく触れています。

また、1度映画を観た(&その後原作小説を読んだ)記憶からの感想のため、事実誤認や多くの見落とし、思い込み等があるかもしれません(恐らく、少なからずあってしまうかと思います)。
ご留意の上読んで頂けると助かります。

 

※明確に作中描写と異なってしまっていることを書いてしまっていたりした場合、コメント欄でご指摘など頂ければ助かります。
また、その他感想などもやはりコメント欄、あるいはX(旧twitter)アカウント等にどうぞ。

 

以下、目次です。

1:東ゆうは映画開始時点「以前」で一度、アイドルに挫折し打ちひしがれている

2:東ゆうは必死に自己演出しようとし、しかし全然徹底できていない。

3:映画版『トラペジウム』はとことん東ゆうの視点に寄り添って綴られている。別視点からだとおよそ別の様相をみせるということでもある。

4:およそ徹底できない東ゆうの計画と、容赦なく勝手な「流れ」に組み込み使い捨てる芸能界ひいては社会の対比

5:自己演出しそれに強い屈託を抱くのは東だけではない。北と南(特に北)、ある意味西も

6:西南北の三人も他の登場人物たちも、なんだかんだそれなりに強かに自分の「ゲーム」を生き続けている(実は東ゆうの「ゲーム」の便利な登場人物として動き続けている/そうしてくれている人物など最初からまるで居ない)

7:東ゆうは"アイドルとして、自分の持つ手札はどう組み合わようが役にならないクズ揃い"と認識しているが、しかし事実はそうでなかったと描かれる

8:東ゆうがそれぞれアイドルとして強烈な手札を持っていると見込んだ西南北の三人も、その手札絡みでそれぞれ色々と大変だったりコンプレックスまみれ

9:劇中で色々あった後に打ちひしがれ、一旦引きこもった東ゆうと母親の会話の良さ

10:劇場特典のある登場人物からのメッセージカードが面白い

11:『トラペジウム』という作品における「アイドル」とは何か、「人が光って見える」とはどういうことか(※2024/5/15 10時頃に追加、17時半頃に改訂)

 

1:東ゆうは映画開始時点「以前」で一度、アイドルに挫折し打ちひしがれている

「どうして東さんは、オーディションを受けてアイドルになろうとしなかったの? その方がよっぽど近道なのに」
 「さぁ……なんでだろうね」
(中略)
「全部落ちたなんて、かっこ悪くて言えないや」

引用は原作小説から。映画版でもほぼ同様のやり取りと独白がされている。

具体的にいつ頃のことかは分からないけれど、映画で描かれる冒頭「以前」に東ゆうはごくまっとうな方法、オーディションを受けてアイドルになろうとし、そして全部のオーディションに落ちている。

"配られた手札で勝負するしかない"という使い古された言い回しがあるけれど、アイドルに憧れる高校生(あるいは小中学生の頃から何年もかけてかの話かもしれない)の東ゆうにすればきっと"アイドルとして、お前の手札はどう組み合わせても役なんてつかないブタなんだ、クズ札しかないんだ"と烙印を押されたも同然と思える経験だったことだろう。

絶望し、打ちひしがれただろうことは想像に難くない。

 

それでも、東ゆうはアイドルへの夢を諦めなかった。

自分の手札が使い物にならないなら、強い手札を持つ他人を引き込み、自分もその外せない一員として居るグループとして手札を揃え勝負するしかない。
映画開始時点から東ゆうがその計画をはじめる「東西南北」のアイドル企画は、自分を「東」として当然の一員とするため……クズ札しか持たない自分がグループの欠かせない一員となるための窮余の一策だったに違いない。

「馬鹿で勝算のないプロジェクトだが、始める覚悟はできているようだ」

上記引用は原作小説のほぼ冒頭から。

アニメ映画版ではこうした東ゆうの地の文での独白(の多く)をあえて省き、その内面を伏せていることに一つ大きな特徴があるけれど(カギ括弧でくくられ、台詞として出されるような独白は映画版でも前述の「全部落ちたなんて、かっこ悪くて言えないや」のように口に出す独白として描かれたりもしている)。
映画冒頭時点でやはり「馬鹿で勝算のないプロジェクト」だとは思っていたに違いない(そうでなければ、それこそ信じられないホームラン級の馬鹿であり過ぎるだろう)。

それには「始める覚悟」が必要で、その覚悟は既に固めた上で自分の態度や心構えはそれに沿えているようだ……映画開始時点での東ゆうの状態と自己認識はきっと、そんな感じだったことだろう。


2:東ゆうは必死に自己演出しようとし、しかし全然徹底できていない

「馬鹿で勝算のないプロジェクト」を実現させるためには、馬鹿げた覚悟が必要になる
それはまず、自分を主人公とした自分の目的(アイドルになり、アイドルとしてやっていく)を叶えるためのゲームの駒のように他人を(そして自分自身も)見て、自分のゲームに組み込み、誘導し操っていく覚悟だろう。
そうでもしなければ遂行できない、そうすることが要求される計画だから。

 

また、全身全霊を賭けて成りたいと願ったアイドルへの夢をオーディション全落ちという形で否定に否定を重ねられた時、東ゆうの自我はもうボロボロだったことだろう。
"この世界はお前の願いを叶えるためにあるわけじゃないし、お前はハッピーエンドを約束されて歩む物語の主人公なんかじゃない"そうした否定を否定し返すには……自分を自分が演じたい主人公として受け入れてくれる場所/世界がないならば、自分で作ってしまえばいい。自分で作るしか無い。
"自分は今から始めるゲームの主人公であり、周りはそれを叶えるために便利に誘導し操るべき駒である"という妄想は、傷ついた自我を癒し立ち上がるために必要とした夢想でもあったことだろう(「癒やし立ち上がるのにはもっと別の方法もあったのでは?」というのは至極もっともな疑問だけど、幾つもありはしただろう方法の内、その一つではあったという話)。

 

東ゆうはきっと、生まれながらに他人のことが道具にしか見えない認知の歪んだエゴの塊だとか、(フィクションの人物や、時には現実の他人を非常に雑に捉え決めつける人が)いわゆる「サイコパス」(というしばしばあまりにも雑に使われる言葉)だとして片付け切って捨ててしまう類の人間ではない。
他人を(そして自分自身も)道具のように捉え扱わなければ遂行できないプロジェクト、馬鹿馬鹿しいと思いつつもそれくらいしか思いつけなかった計画をどうしても進める必要があったから、どうにかして必死にそうあろうと自己演出していただけだ。
そして、にも関わらず到底そうあり切れていなかった、大体いつ見ても徹底なんて出来ていなかった様子が描かれ続けていたのが本編の描写だろう。

 

東西南北のアイドル計画があれだけ早く破綻したのは、東ゆうが他人を道具としか見れないエゴの塊だったからではなく、むしろ自分も他人も徹底して道具扱いし切ることなんて最初からずっと全くやれていなかったからだろう(もし仮に徹底できても長くは保たなかっただろう、無理がありすぎる計画だったにしても)。

 

例えば冒頭、典型的なお嬢様学校という風情の聖南テネリタス女学院にまずは一人目、南の星を見出しにいった場面。
白く綺麗な制服のお嬢さんたちの中で、野暮ったい紺の制服の東ゆうはとても目立つ異物だ。
にも関わらず、こそこそせず、堂々と目的に向かって歩いていく……といったきっと保ちたかっただろうイメージを、この時点からもう、まるで保てていなかった。
ヒソヒソに留まらず聞こえるように交わされる疑念、そして蔑視。
おそらく東ゆう自身気にしているだろう制服のダサさを嘲笑される等の対応に不機嫌や怯えをあからさまにし、大きく舌打ちもしてしまう。

 

他人を道具のように冷静冷酷に利用し尽くしていこうというなら、まず自分自身を冷静冷酷にコントロールできないと話にならないだろうと思われるが、東ゆうは最初からこんな感じで、その後も概ねずっとそうだ。


勝手な計画に都合のよい反応を得たり展開があれば、喜びを結構はっきり顔にも態度にも出し、時には小さくガッツポーズ。逆に都合が悪い展開や想定外な事態が生じれば非常にわかりやすく不機嫌を滲ませ、すぐにピリピリし始めたりする。
たとえばボランティアで向かったキャンプで四人で同じグループに入って親交を深めようと思い描いていたのが、二人と二人で別グループに分けられてしまった時などは、もうボランティアとしてサポートすべき人たちなどそっちのけで露骨に不機嫌を撒き散らしていた。

 

これだけ上機嫌も不機嫌を露骨に示し続けていれば、西南北の三人をはじめ身近に接している人間なら、はっきりとは言わずともなんとなく東ゆうの目的なり夢なり言動の意図なりを察していくことになりそうだし、おそらくは実際そうだったことだろう。
関係破綻後の再会時に「何となく気づいてたよ」とは大河くるみの弁だけれど、他の二人もそうして口にしなくても、結構いろいろ気づいていたことだろう。
アイドルの仕事関係の芸能界のスタッフ関係者なんかにもバレバレだっただろうし(なんせ、四人の中で一人だけあんなにわかりやすくアイドル業に積極的だったりしたわけだから)、たとえば翁琉城のボランティアの老人たちあたりも色々察した上で割合温かく接していたような空気もあった。

当人は"私は冷酷非情、人の都合や痛みや苦しみなど気にせず、自分の目的のために道具として利用する……そう、私は悪い人間なんだ!"とでも思い詰め、それで罪悪感も抱いた上で押し込めて、ますますピリピリとしていた気配があるのだけれど。
そして映画は概ね東ゆう視点で進むので、その認識や感覚に大いに引きずられた映し方、印象の打ち出し方がされていたかと思えるのだけれど。
実は割合、周囲からみれば隙だらけで、むしろ時折は(上機嫌なときには)愛嬌とか、ある種の健気さとか、そうでない時にもなんかしょっちゅう明らかに無理してがんばってるな、ちょっといたましいな……といった、だいぶ東ゆうのセルフイメージとは違った見方をされていたのではとも思えてしまう。

 

東西南北のアイドル活動破綻後、三人との再会時には東ゆうは自分が続けてきた仕打ちを告白した際、きっとひどく驚かれ、怒りを買い、断罪されるのではないかと覚悟していた節がある。
東ゆう視点で綴られその認識や心情を大きく反映した映像にずっと付き合ってきた我々観客も、なんとなくそういう思いに引き寄せられる空気もあった。
でも、その後に待っていたのは驚くほど速やかで和やかな和解であったわけで。
そこに観ていて不自然だとかご都合主義みたいなのを感じた人もいるかと思うのだけれど……ここにおいて、むしろ不自然なのは東ゆうの主観で。実は少し客観的に観るならば「ああもう、しょうがねえなあ」というくらいの扱いを受けるのが妥当なくらいのところで、概ね実際そうなったということなのかもしれない。

 

勿論、三人には三人の事情や思惑があり、後に詳しく触れていくように「自己演出しそれに強い屈託を抱くのは東だけではない。北と南(特に北)、ある意味西も」ということから、三人の側にもそれぞれ東ゆうの事情や心情を理解し受け止め、それなりに共感する素地が大いにあったことも大きいと思われもするわけだけど。

 

言ってしまえば映画中盤頃までに描かれた、東ゆうの東西南北アイドル計画の短い栄光と破綻は馬鹿げた計画と自覚しながら縋らずにいられず、精一杯悪ぶったものの当人が思っている数分の一も悪(ワル)になんて成りきれず……破綻すべくして破綻した、一人の少女のお遊戯だったんだ、と総括できてしまえなくもない。


3:映画版『トラペジウム』はとことん東ゆうの視点に寄り添って綴られている。別視点からだとおよそ別の様相をみせるということでもある。

前項の最後で東西南北のアイドル活動を「破綻すべくして破綻した、一人の少女のお遊戯だったんだ、と総括できてしまえなくもない」と書いたことについて。

「そうは言っても、東ゆうの身勝手に巻き込まれ、周りは大変なことになって酷い目にあってたじゃないか!」

と文句を言いたくなる向きもあるかと思う。
でも、言ってしまえばとことん東ゆう視点に寄り添った映像だからこそ、その夢の破綻が一大事と映され、観る側の印象もひきずられているわけで。
少し視点を変えてみると、事態はおよそ別の様相を見せてきたりもする。


まず作中随一の悲劇的事態、破綻として描かれたのは勿論、大河くるみの号泣と、直後の華鳥蘭子、亀井美嘉との決裂だと言えるだろう。
一連の場面においてはずっと、総作画監督にクレジットされている、けろりらさんの絵柄が全面に押し出され、くるみの感情の爆発、蘭子と美嘉との言い争いで決定的に東ゆうが押し付けたアイドルの幻想、そして東ゆうが自分自身に求めたアイドルとしての在り方が破綻し、東西南北のアイドル計画が崩壊する様が強烈に情感豊かに、叩きつけるように描かれる。

「東さんは本当、何もわかってないわ。くるみさんは限界よ」
「そもそもアイドルって楽しくないわ」

(「アイドルって大勢の人たちを笑顔にできるんだよ?」)
「近くの人を…笑顔にできない人が?」 

これは"アイドル活動を二人も楽しんでくれている、あるいは今はまだそうでなくてもきっといつかそうなってくれる"という都合の良い幻想(東ゆうが抱えているだろう罪悪感にとっても大変都合が良い)に真正面から突きつけられた否定による破綻であり。
そこでなに一つ取り繕えない、東ゆう自身も楽しさも笑顔も……心からのものは勿論、そう装うことすら全くできない無惨な姿を晒してしまったことは、三人の脱退と共に東ゆうの心を(オーディション全落ちから、ようやくここまで立て直したというのに)再びボロボロに破砕してしまった場面でもあった。

東ゆうにとっては、間違いなく一大事、人生における大事件だ。

 

一方、例えばこれは他の三人にとってみれば、それぞれ何を意味したのだろう。

 

まず、大河くるみは確かに危うかった。
でも、こうして感情を爆発させ号泣することで、大河くるみは大河くるみの心を自ら守り抜いたということでもある。
破壊力抜群の笑顔のように、素直な心をそう表すことができることも、大河くるみという少女の掛け替えのない特質だと言えるのだろう。

「周りにいろんな人がいる環境で、あそこまで感情を爆発させられることってなかなかないと思うんですけど、だからこそくるみちゃんの辛さや限界も感じられて。それと同時にすごく大切なことでもあるなと思ってます。心が死んでしまう前に叫べることは本当にすごいことですし、あれこそくるみちゃんの本音でもあると思うので、ぜひ見届けていただきたいです」
(パンフレット掲載の大河くるみ役、羊宮妃那インタビュー)

次に、華鳥蘭子も亀井美嘉もそもそもアイドルに特に懸ける思いも薄く、「そもそもアイドルって楽しくないわ」「近くの人を…笑顔にできない人が?」とアイドルというものに、何より自身がアイドルをすることへの幻想も意義も失った所で、実のところ大した話ではない。
アイドル活動に賭けていた東ゆうと違い、別に活動するうえで取り返しのつかないような犠牲を払ってきたわけでもない。

そして三人にとって、ここで決裂してしまった東ゆうとの関係も割とすぐに雨降って地固まるくらいの和解もあったわけで……言ってしまえば「ちょっと大変だったけど、それも良い思い出」くらいの話だったりする。

 

更に言えば東ゆうにとってはアイドル活動のための単なる手段だったのが、他の誰かにとってはそうではないということだってある。
例えば大河くるみ視点からは、
"最初からやりたくなかったアイドル活動やらされてからは色々すごく嫌なことばかりだったけど。南さん家のプール借してもらって東さんと三人でロボコンに向けて二ヶ月も一緒にがんばって、準優勝できたのはすごく良い思い出!"
と東ゆうの視点とはまるで異なる思い出が当然にあるかと思われるわけで。

「くるみと仲良くしてくれた女の子は、東ちゃんが初めてだった」

上記は原作小説からの引用だけれど、映画版でもこういった台詞があったというか、むしろより強調されて出てきていたかと思う。
で、「くるみと仲良く」していた時期は東西南北のアイドル活動より前の、実は何ヶ月もに渡るアイドルやっていた時期と比べても時間としても結構長いものだったりするので、ロボコンに打ち込んだ(くるみにとっての)濃度も濃い時間だったろうこともあり、そりゃあ輝くような大事な思い出にもなっただろう、という。
ことによっては東ゆうは大河くるみにアイドルの面白さ楽しさを教え込むことは叶わなかったけどその逆に、後から振り返るなら……くるみとロボコンに打ち込んだ時間はそれ自体、東ゆうにとっても実は結構楽しいものだったと改めて思えたりすることもあるのかもしれない。

 

例えば亀井美嘉にとって、とても大事な友だちである東ゆうとの決裂はそのままだったら非常に大きな痛手だっただろうけど、「最初のファン」として東ゆうが立ち直る大きなきっかけになったりもして、むしろそれこそ雨降って地固まるでむしろ関係は深まった。
たぶん彼女にとって東ゆうとの関係性は共にアイドルをやっていく仲間同士であるよりも、ファンとアイドル/ヒーローという形のほうがずっとしっくりくるのだろうとも思われる。
あと彼女にとって、アイドルであることやアイドル活動なんかより、彼氏との関係のほうがたぶんずっと大事なことだろう。

「………でもやっぱり腑に落ちない。美嘉ちゃん、恋愛ってそんなに大事?」
「ふふっ。大切な人ができればわかるよ。東ちゃんも」

これは原作小説からの引用だけれど、映画版でも似たようなやり取りがあった気もするし、もし無くてもそこについては小説版の亀井美嘉も映画版の亀井美嘉も、言うまでもなくそういうキャラクターであるのだろうと思う。


他の事例を挙げるなら、いわば映画版『トラペジウム』はデレアニ……アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』6話と似たような側面を持ってもいるのかな、と。
本田未央の主観では大失敗、大事件だけど少し客観的に外から見ればライブは成功だったし、当人の落ち込みとそこからの問題しか実は起きていなかったと作中でも7話で結構しっかり説明された顛末。

 

ちなみにこうしてデレアニ6話(~7話)の話題出したので、一応。
余談もいい所ではあるので、まあ、物好きにも興味がある方だけぜひ。

【6話(&3話)】未央、凛、卯月で三者三様のアイドル像から観る6話感想

【7話感想【前編】】7話概説&本田未央特集
【7話感想【中編】】島村卯月&渋谷凛特集
【7話感想【後編】】CP14人+Pの再出発としての7話


なお、一応付け加えておくと。
映画『トラペジウム』がとことん東ゆう視点に寄り添った映像で綴られている以上、観る側も基本的にその視点に沿って観たほうが色々と楽しい筈で。
東ゆうの視点から離れ別視点で観る試みは相応に面白いかとは思うけど(だからこそこの項でそれなりに書いても来たわけだけれど)、作品を楽しむあるべき本筋では多分無いのだろう。
あまりそうした脇道からの視点に拘泥しすぎないように……例えば「実はちょっと離れてみれば、この作品って全体がくだらない話なんだよね」などと片付けてしまうことなど無いよう願いたいとも思う。


4:およそ徹底できない東ゆうの計画と、容赦なく勝手な「流れ」に組み込み使い捨てる芸能界ひいては社会の対比


はじめてのTV収録の際にゆうが漏らす

「これが大人の世界なんだ」

自身のおよそ徹底できない……自身に言い聞かせるように悪ぶったところで言ってしまえば遊戯じみた観もある東西南北のアイドル活動計画と、容赦なく型にはめてくる芸能界/社会の仕組みの徹底した酷薄さという、作品全体に関わる大きく明確な対比を明らかにしている一言と思う。
ちなみに原作小説にはない、映画オリジナルの台詞となっている。

例えば大河くるみを追い詰めたのも東ゆうの計画などではなく、一度踏み入ったらどんどん勝手な型に嵌め込み、よいように使いまわし、しばしば使い潰す芸能界/社会の仕組みであったりした。

「わたくしたち、このままどんどん別世界へ連れて行かれるのかしら。」
「くるみは今すぐにでも逃げ出したいくらい。」
「不安な気持ちもわかるけど、これまでもなんとかなってきた。きっとこの先も流れに逆らわずに生きていけば、なんとかなってしまうのよ。」

「この前、南さんがくるみに言ったこと。やっぱりくるみは違うと思う。」
 「……」 
「このまま流れに身を任せて生きていけば、なんとかなる…そう言ってた。でもね南さん、くるみはもうおかしくなりそう。」
 「くるみさん…」 
「美嘉ちゃんが笑わなくなった。見ず知らずの人たちからの、言葉の暴力によって。芸能人ってこういうのが普通なんでしょ。」

上記は原作小説からの引用。
ただ、この「流れ」については映画版でもおそらく印象的に口にされ、提示されていたかと思う。
ちなみに東西南北としてアイドル活動を始める前は、東ゆうが広く人気がある大河くるみの参加を一番当てにしていた時も、さっと音信不通を通して逃げに逃げ、東ゆうを大いに苛立たせていたりした。
大河くるみはかなり最初の方から、東ゆうの計画に沿って思い通りになんか動いていてくれなかったという話でもある。


それと東西南北の活動を大いに揺さぶったのが、亀井美嘉の彼氏発覚事件。
小説版では割合さらりと流されたりもしている所、映画版では怒りを抑えられない東ゆうが激しくなじり、非常に不穏ないたたまれない空気を作り出したりしていた。

 

ところでここで一つ、落ち着いて考えてみて欲しいのだけれど。

"アイドルなんだから交際禁止、彼氏だなんてもってのほか"

というのは何も、東ゆうが独自に身勝手に押し付けているルールではない。
日本の芸能界、特にアイドル界隈(アイドル的な声優界隈とか他にも色々あるようだけど)での「常識」とでもいうべきものだろう。元乃木坂46の主要メンバーだった原作者高山一実にも非常に馴染み深いルールだったのだろうとも思う。

でも、そんなによく考えるまでもなく、10代(~20代)の若い(男)女にアイドルだからといって恋愛もするな、と押し付けるというのは、東ゆうが個人のエゴで色々と誘導したり押し付けたりする程度のことなどとは比較にならないくらいグロテスクな縛り付けだろう。
どう言い繕ったところで「恋愛なんてされたら「商品価値」が落ちるから」という話であるわけで。
人間をとことん商品として扱ってしまう、芸能界/社会の仕組みの酷薄さ身勝手さの表れであることは明らかかと思う。

 

それに、東西南北が内輪もめから三人がまとめて退所を希望すると、事務所はあっさり受け入れる。

形ばかりの慰留くらいはしたのかもしれないが、きっとあったとしても形ばかり以上のものではなかっただろう(そもそも、東ゆうの超積極的な売り込みにも、そんなに大歓迎という姿勢を示していたわけではおよそ無くもあった)。


東ゆうにとって東西南北でのアイドル活動がどんなに切実に大事なものであったとしても、事務所/芸能界/社会にとって、そんなことは概ねどうでも良すぎることで。
良いように使い、そして使い潰した。潰れてしまったら、はい、さようなら。
東ゆうのような不徹底などどこにもない、罪悪感なんてものもおよそない。
その対比は作品全体を通じて、明確に示されていたかと思う。


この物語の中で真に身勝手で、汚れていて、酷いものがあるとするならそれは何だったのか、明らかだと思う。

 

5:自己演出しそれに強い屈託を抱くのは東だけではない。北と南(特に北)、ある意味西も

先述したようにこの映画は東ゆうの視点に寄り添って描かれるため、東ゆうの自己演出とその屈託がとにかく強調され、西南北の三人を始め周囲はそれに振り回される一方のような印象を受けがちだ。

でも、きっとこの作品について考えていく上でとても大事なこととして"自己演出しそれに強い屈託を抱くのは東だけではない。北と南(特に北)、ある意味西も"という話がある。
三人には東ゆうの仕出かしたことを受け入れたり、理解し共感する素地が十分にある。
そう描かれているという話でもある。

 

(1)「お蝶夫人」になりたくてなれない「縦ロールの女」南の星/華鳥蘭子

南の星/華鳥蘭子はお蝶夫人に憧れそんな格好をしテニス部にいながら、部で一番下手で誰もお蝶夫人みたいだと言ってくれない。だから東ゆうが何気なく漏らした「お蝶夫人」の一言で初対面なのに一気に心を寄せていった。
他人からすれば「なんでそんな振る舞いするの?馬鹿じゃないの?頭おかしいの?」と思われるだろうことが当人にはやむにやまれぬ、馬鹿みたいにみえても切実なものであったりする……きっと散々お蝶夫人云々絡みで色々言われてきただろう華鳥蘭子には、アイドルへの資質が無いと散々に否定された(この計画の前にアイドル目指して受けたオーディションは全部落ちた)上でそれでも目指さずにいられず色々仕出かした東ゆうを、理解し共感し、その所業を受け入れる素地がそりゃああるだろうし、きっと実際にあったからあのように描かれている。

 

「縦ロールの女」は原作の章題「第一章 南の星 ~縦ロールの女~」で提示されたもの。
映画パンフレットの人物紹介でも、彼女のキャッチフレーズのように扱われている。
彼女もまた自己演出の人間……いつも憧れのお蝶夫人を、在りたい自分を意識した振る舞いをしている人間であることをよく示している言葉でもある。


(2)嫌いだった自分を変えようと、髪型や服装などだけでなく、作中で言及されていたように整形までした「善を為す女」北の星/亀井美嘉

北の星/亀井美嘉は嫌いだった自分を変えようと、髪型や服装などだけでなく、作中で言及されていたように整形までした。
ボランティアに打ち込むのも純粋な善意より、とにかく誰かに愛される自分になりたいからに見える。ボランティアに参加した東ゆうが自分の計画ばかりに夢中で、サポートすべき人たちへの対応がおざなりだったり不機嫌をあらわにしていたのを目の当たりにしても「サポートすべき人たちに失礼」みたいなことは全く言わなかった。


ただ、かつて自分を救ったヒーローである東ゆうが、自分を友だちとして……大事な存在とみてくれるか、ヒーローが認めてくれることで自分自身を認められるかばかりに拘泥して、言動もそればかりだった。最初のTV撮影の時には、東ゆうにも「なんでボランティアで繋がっているだけみたいに言ったの。大事な友だちだって言って欲しかった」と強烈に喰ってかかったりもした。


周囲をいわば自己肯定のための道具として捉え、接しているということでは亀井美嘉も東ゆうと良く似ているとすら言えなくもない。
彼氏がめちゃくちゃ大事というのもそれはそうで、自分を大好きでいてくれる彼氏は彼女の自己肯定にとってそりゃあ大事だろう、という。

 

そしていじめられていた幼い日に、関わって自分もいじめられる危険など気にする価値なんて無い、知ったことかと助けてくれた東ゆうは亀井美嘉にとってずっとヒーローで、彼女いわく「ゆうちゃんの最初のファン」。
周りからどう受け止められどう言われてもいい、という態度に憧れてそうなった亀井美嘉は、東ゆうの自分がアイドルになりたい/アイドルをやっていきたいがための傍若無人も、"そういう所もゆうちゃんらしい"と許す素地が大いにありそうだし。
そしてきっと。(また)挫折して凹んだことで。それに自分(美嘉)への仕打ちへの罪悪感からも"あのゆうちゃんが、傷つけた自分からの反応をすごく気にしてる……今、私はゆうちゃんにとって大事な存在になっている"そんなロジックですごく喜ばしいことだとすら思っていそうで、なかなかに怖い。そういうエゴや身勝手さの形もある。

 

「善を為す女」は原作の章題「第四章 北の星 ~善を為す女~」で提示されたもの。
「何の為に?」という問いを忍ばせてる、なかなかに意地悪なキャッチフレーズだとも思う。


(3)無邪気で破壊力抜群の笑顔、身も世もない号泣が作中屈指の印象を残す「萌え袖の女」西の星/大河くるみには同性の(親しい)友達がいない

西の星/大河くるみは天真爛漫な笑顔が強烈な魅力だと、繰り返し非常に力のこもった笑顔の作画でも強調されるし、東ゆうも「蘭子の強烈なキャラクター、くるみの笑顔の破壊力、美嘉の万人受けする容姿」(だったかな?記憶がやや曖昧)とその魅力を語る。
けろりらさんの絵柄全開で描かれた号泣場面も作品全体の大きな見どころのひとつ。
ここで……破壊力のある笑顔も号泣も……それが意図的でない自然に出るものであっても、他者に訴えかける強烈な自己演出になる。しばしば、当人がそう思ってなくても、そう受け取られる。


で、ロボコンに出る高専のような極端に女子比率が少ない環境だけでなく、おそらく大変幼く愛らしい容姿で繰り出す素直すぎる笑顔や号泣、それに対する世間や男性の反応や人気が「女の子の友達が出来たことない」「ゆうが最初の友達だった」という同世代の(アイドルとしてはともかく、身近な友人としてみる時の)女性受けの悪さにおそらく繋がっていて、それをめちゃくちゃ気にしていたのだろうとも思われる。


東ゆうが自分を自分勝手に利用したのだとしても(実際そうであるわけだけど)、少なくともこんな自分をとても価値のある際立って魅力的な存在だと考えて、ロボコンもアイドル活動もずっと一緒に友達として仲間として同じ時間を過ごしてくれた。同年代の同性の人間でそんな相手は東ゆうと、ゆうをきっかけに出会った他二人しかいなかった。
全然乗り気なんかじゃなかったアイドル活動に引っ張り込まれてとてもとても嫌な思いもしたし、とことん向いていないことも改めて分かってもうアイドルなんて金輪際お断りだけど、東ゆうに出会ったこと、どんな理由であれ引っ張り込まれ一緒に過ごした時間は自分にとっても悪いことばかりなんかじゃなかったよ、と。
そう受け止める心理は十二分に理解可能だし、実際概ねそういうことを作中で言っていたかとも思う。

 

「萌え袖の女」は原作の章題「第二章 西の星 ~萌え袖の女~」で提示されたもの。
なぜ同性同年代の(親しい)友達がいないのか→そういうところだよ、と言わんばかりのなかなかにえげつないキャッチフレーズかとも思う。

 


あと、流れで少し続けると。

アイドル活動をはじめてからしばらくの間の順調な日々について、東ゆうが「蘭子の強烈なキャラクター、くるみの笑顔の破壊力、美嘉の万人受けする容姿」を人気の理由として数え上げる場面。自分自身については一言も触れていない。
これは当たり前のことで、東西南北の計画の前にオーディションに落ち続けたというのは彼女にとってみれば"アイドルとして、お前の手札はどう組み合わせても役なんてつかないブタなんだ、クズ札しかないんだ"と烙印を押されたも同然だから。
SNSの反応で他三人が想像以上に世間の反応を集めているのに対し、自分一人がひどく人気が無いことを目にした時も、ろくに手を打つことがなかったのもまた当然で。自分に使える手札なんてないと思うからこそ、それぞれ強力な札を持つ三人を引き入れ、四人セットの一人になることで無理やり自分にも価値をつけた。だから、それぞれが自分の手札で自分の人気を得るとなったらクズ札しか無い自分がそうなるのは当たり前過ぎて、対策もあるわけがない、と。

 

そして。そんな東ゆうだからこそ……ボランティアで接して、文化祭の日にアイドルへの憧れを口にして"将来の自分のイメージをここで衣装を着て変身して先取りしてみよう"と言われ、一度アイドル衣装を手に取ったのに自分の義足……夢を阻むだろう大きすぎる障害に目を落とし。東ゆうに衣装を、夢を託した少女が東西南北の解散後も寄せたファンレター、曲のリクエストがどんなにか嬉しかったことだろうか、と。

四人の順調だったアイドル時代をスタートさせた場所で、三人は既に退所、東ゆうも(どれだけ悪ぶってみせたところで)罪悪感でいっぱいの中で再会した三人から仕出かした所業を受け入れられ、許されたことが。
特に(「北の星」は向こうから来たので、一人だけそうはしたことがなかった)相手の学校まで出向いて。出待ちした上でこれまで関心を向けてこなかった、相手にとっての過去の自分自身について訊ねたことで……亀井美嘉からあなたは幼い日に自分を助けてくれた時から私のヒーローで、アイドルだと。私はあなたの最初のファンなんだと……アイドルとしてクズで無価値な自分を、ずっと輝くアイドルだとみていた人間がいてくれたと聞かされた時、どんな思いでいたことだろうかと。

そんなことも思わずにはいられない。


6:西南北の三人も(他の登場人物たちも)、なんだかんだそれなりに強かに自分の「ゲーム」を生き続けている。実は東ゆうの「ゲーム」の便利な登場人物として動き続けている/そうしてくれている人物など最初からまるで居ない

東ゆうは自分の計画通りにうまいこと他人を操っていこうと彼女なりに頑張ってはいたし、彼女自身が驚くくらい幾度か都合よく目論見通りかそれ以上に話が進んだりした巡り合わせもあり、ともあれ東西南北は見事にアイドルとしてデビュー、活動を開始するまでにはなった。

ただ、少し落ち着いて見ていくと西南北の三人も(他の登場人物たちもだけど、ここでは割愛する)、なんだかかんだ各々の我や都合を通していて、東ゆうの思惑通りに素直に動き続けている/そうしてくれている人物など最初からまるで居ないことがわかってきたりもする。

 

例えば亀井美嘉は東ゆうの「最初のファン」「大事な友だち」を自認しており、彼女がアイドル活動に並々ならぬ意欲を燃やし夢を抱き自身を賭けていることも大いに察していることかと思われるのだけれど。
それはそれとして彼氏の存在を隠していたし、事務所にも東ゆうにも劇中であれだけ厳しく責められながら……恐らく、結局別れてなんかいない。
だって、亀井美嘉にとって自分を愛し自分が愛する彼氏はとっても大事だから。
それは大事な東ゆうの都合や頼みよりも、亀井美嘉にとってもっと大事な優先すべきことだから。

 

例えば大河くるみは東ゆうが四人のアイドルデビューを目指す上で、既に持っている人気とカリスマ性を三人の中で一際頼りにし、協力してくれるよう、大事な時には一緒にいて参加してくれるよう必死に頼み、連絡を取ろうとするのだけれど。
東ゆうにとって大事な時に繰り返し欠席したり、音信不通になったりしていた。
だって、大事な友だちの頼みであっても、大河くるみは嫌なものは嫌だから。

 

例えば華鳥蘭子は他の二人よりは概ね積極的に東ゆうの計画に沿って動いてくれている風ではある。ただ、蘭子はどこまでもマイペースな人間であるわけで。

「せっかくここまで来たのに辞めるっていうの?」
「そうよ。わたくしね、気づいたことがあるの。そもそもアイドルって楽しくないわ。」

おそらくもし仮に東ゆうがもっと自分も他人も巧みに道具として操るなり誘導するなり徹底してやってやりきれる人間だったとして。
それで美嘉やくるみを丸め込んでやっていくことは出来たとしても、蘭子はなんかしらのルートをたどって「そもそもアイドルって楽しくないわ」という結論にたどり着いてしまうのは防ぐことはできなさそうな気がする。
ある意味では、三人の中で本質的には一番思い通りになんてならない人物なのではないかと思う。

 

もしも東ゆうを"他人を道具のように操って自分の目的を叶えようとする化け物"とでも見立てようとするならば。
どうも、だいぶ弱い化け物でしか無い見立てにはなってしまうようだ。

 

東ゆうの"被害者"に見えがちな西南北の三人も、なんだかんだ結構自分の都合、自分の価値観、自分にとって何が大事なのかで動き続けていたし。
東西南北のアイドル計画もその破綻も含めて、それぞれの人生の物語に都合よく回収して、各々結構各々にとって悪くないだろう人生を重ねていった……というのが作中の「8年後」で描かれる様子から察せられることなのではないかとも思う。


7:東ゆうは"アイドルとして、自分の持つ手札はどう組み合わようが役にならないクズ揃い"と認識しているが、しかし事実はそうでなかったと描かれる

端的に、ラスト近く、時間が飛んでの8年後の描写から。
どんな経緯を経てかはわからないけど、東ゆうはアイドルとして大成功している。

かつてオーディションに全落ちし、アイドルとして無価値として烙印を押されたと思い込んだだろうけども。
だからこそ東西南北のアイドル計画なんて無茶苦茶で無謀な計画に縋ったのだろうけれども……ともあれ何年もの後、どうにかした、どうにかできた。

それは一時的に浴びせかけられた他人の評価なんて絶対視するもんじゃないよ、といったメッセージでもあるんだろう、きっと。


8:東ゆうがそれぞれアイドルとして強烈な手札を持っていると見込んだ西南北の三人も、その手札絡みでそれぞれ色々と大変だったりコンプレックスまみれ

「華鳥の強烈なキャラクター、くるみの破壊力抜群の笑顔、美嘉の万人受けするルックス」

と東ゆうが挙げた三人の人気の要因は、どれも面白いというか裏面があるのがポイントかとも思える。

 

まず一番分かりやすいのは「美嘉の万人受けするルックス」というもの。
作中で割合はっきり描かれた通り、髪型や服装だけでなく、整形までした結果なわけで、つまりは彼女が元々持ってた手札ではない。
東ゆうは手段を選ばずアイドルになろうとしたという自己認識だろうけど、それでもそのために整形しようとはしなかった(あるいは思ったかもしれないが、実行しなかった)ということでもある。
美嘉の過去の写真と今を見比べて「整形してる」と見て取った時には「問題ない」と判断した……他人の整形にはそう判断したし、整形も含めて美嘉が作り上げたイメージが「万人受けする」と強い武器だと見て取りつつ、自分はそうしようとはしなかったということでもある。
……ごくごく個人的には"本当に何がなんでもアイドルを目指したいが自分には武器がない、本当の本当に何が何でもなりたいんだけど……"というなら整形も普通に検討すべき一つの手段に過ぎないんでは?それの何が悪いんだろう?くらいには思うけど、それはそれとして、作中の描写としては上記のようなことが言えるだろう。

 

次に、「華鳥の強烈なキャラクター」。
蘭子は「お蝶夫人」に憧れるあまり、それに似せた髪型や服装をしてテニス部にも入ったけど。肝心のテニスは部内一ヘタで、誰も彼女を「お蝶夫人」だなんて言ってくれない。つまり、彼女には強く明確に願う「かく在りたいキャラクター」がありつつ、それを誰にも認めてもらえてなかった。
彼女自身は自分が「強烈なキャラクター」を(アイドルとしての)手札として持っているなどとはおよそ思っていなかっただろうし、思えるわけもなかっただろう。

 

最後に「くるみの破壊力抜群の笑顔」。
その笑顔にはよくも悪くも破壊力があるというか、おそらくそれもあって「萌え袖の女」たる彼女は同性の友達を持てたことがない。
彼女自身にとってはその笑顔も、けっこう大きなコンプレックスの一つだったのではないだろうかと思う。

 

つまるところ雑にまとめると……
"東ゆうがそれぞれアイドルとして強烈な手札を持っていると見込んだ三人も、その手札絡みでそれぞれ、まあいろいろと大変だったりコンプレックスまみれだったりするんだよ"
といった話になる。
8年後に結局、二度にわたり自身のアイドルとしての可能性に絶望してもうダメだと自身を決めつけただろう東ゆうがアイドルとして大成していた描写ともあわせて考えるに。

10代の頃のごくごく狭い視点や感覚で自分の可能性も他人のそれも、簡単に決めつけてしまわないでもいいんじゃないか。
可能性など微塵もないと絶望していたことだって、なんとかなってしまうこともあるし。
自分と違って恵まれていると思えてならない相手も、それぞれに色々と何やら大変さを抱えている。人間、概ねそういうものだよ、と。


なにやらまあ、作品のメッセージみたいなものをそりゃあ感じるよね、という話にはなる。


9:劇中で色々あった後に打ちひしがれ、一旦引きこもった東ゆうと母親の会話の良さ

アイドル活動が破綻し家にひきこもってしまった東ゆうが、母親に「私ってひどいやつだよね」とこぼし、それに母親が応える場面はおそらく丸々映画オリジナル。
盲目的な全肯定でない、よくよく娘を理解し、良い所も悪い所もよくわかった上で、それでも味方だと、がんばって、と伝える……映画で描かれた東ゆうという存在にとって、ものすごくありがたい理想的な母親像に思えた。
素晴らしい描写と思うし、個人的にとても好きな一幕。

 

またこの母親が娘に向ける視線と態度は年長者ならではの……つまりは10代の頃の狭い視野や感覚とある種対置されるものとも言えそうで。
若さゆえの短慮や極端さや視野狭窄、それゆえの暴走と挫折といったものにフォーカスしているように見えつつ、実はそれに対置される諸々も終盤で割合強く訴えている作品でもあるのかな、とは少し。

 

10:劇場特典のある登場人物からのメッセージカードが面白い

映画『トラペジウム』公開から間もない時期の劇場特典。
これなんだろう、と開封してみたところ、とある作中人物からのメッセージカードだった。
笑った。まず心から良かったね、と思えたし。
この人物について信じ難い程雑にしか観ようとしない観客にはいい面当てになるというか、そう目論んでないとはとても思えない。よくやるなー。
その意味する所を(めちゃくちゃ勝手に)翻訳?して、ちょうど今流行りのTVアニメの一場面に託してみると。

冗談抜きでつまりはこういう意図も(それがメインでは決して無くとも)入っていないとは思えないので、ロックだな、素晴らしい心意気だと、勝手にめちゃくちゃいい笑顔を浮かべてしまっている。

 

11:『トラペジウム』という作品における「アイドル」とは何か、「人が光って見える」とはどういうことか(※2024/5/15 10時頃に追加、17時半頃に改訂)

 

映画『トラペジウム』はきっと、アイドルという存在、その輝きやアイドルへの憧れは否定してないと言うかだいぶ肯定的で。

一方で、アイドルを商品として「流れ」に嵌め込んで扱う業界の仕組みは悪辣で熱狂的にアイドルに、その職業としての業も含め憧れるような人間でもなければ耐え難かったり「ちっとも楽しくない」代物だとも描いてるように見える。

 

ここで、後にプロ写真家になるカメラの人(工藤真司)は星/光を見つけ見出し、撮る人間であるわけで。
だから「8年後」の元東西南北の四人が集った彼の展示会に並ぶ写真は、どれも星(光)の写真。
ようするに彼はこの作品において「アイドル=光(光って見える人間)」とはなにか、という答えを提示する存在であり、「トラペジウム」という作品の題名の持つ意味も、その文脈で提示されるというか、その意味の提示がそのまま問いへの回答になってる。


四人が大河くるみが通う高専の文化祭での「10年後の自分」の企画で各々が心から願う将来の姿/夢を体現する様を彼が撮った「トラペジウム」と題された写真は光り輝く四つの星を……その構成する「不等辺四辺形。どの二つの辺も平行でない四角形(「トラペジウム」という用語の意味)」を映したもので。
光≒アイドル(という存在、その意義、その輝き)であり、そしてそれは職業でもなければ、プロかアマチュアかなんて話でもなく、そもそもアイドルという方向性である必要もなく、その人が心から願う在りたい自分を表現する姿こそが、という。


また、工藤真司が東ゆうを初めてみた時のあの挙動不審は制服が好き云々は単なるごまかしで、ようするにあの瞬間、星/光を見出すことに極めて優れた才能を持つ(まさにそれで後にプロ写真家になった)彼が、東ゆうの姿に直感的にまばゆく輝く星/光を見出していた、だからあんなにも最初から積極的に動いたということでもある。

 

一心にアイドルになりたいと願い、挫折(オーディション全落ち)してもめげずに奇妙すぎる計画一つ抱えて突き進む東ゆうの姿は、野暮な制服姿だの、アイドルという職業や称号(※)だのなどと関係なく、正に東ゆうが出会い憧れた光を放っていた……少なくとも工藤真司の目には彼女が光って見えた、「人って光るんだ」という驚きと感激はその時の彼のものでもあったんだ、という。

「……やめさせていただきます」 
『うーん、まあ、残念だけどねえ、また連絡するから、がんばってよ』
 でもきっと連絡はない。わかっていた。
 やっと掴みかけたと思っていたアイドルという称号は、私の手からするりと逃げていった。」

引用は原作小説から。この「アイドルという称号」という台詞は映画版でも同じ場面で口にされる。

 

また、例えば義足少女(水野サチ)から贈られたラジオでのファンレターと楽曲リクエストのエピソード、亀井美嘉が東ゆうの「最初のファン」だったというあたりも「アイドル=光(光って見える人間)」「人が光って見える」とは何か、という問いへの答えに連なる話かとも思う。


一方で、アイドルを商品として「流れ」に嵌め込んで扱う業界の仕組みは非常に悪辣でえげつないとも描いている。

人/ファンを惹き付ける稀有な魅力があっても嵌め込まれる型に合わないような人間(大河くるみ)にとっては耐え難いし。

恋愛禁止とか人間を商品扱いするのは非道であるし(亀井美嘉)。

「そもそもアイドルって楽しくないわ」は華鳥蘭子個人の感想というより、むしろ東ゆうみたいにアイドルに、その職業としての業も含め憧れ受け入れようと決意している人間でもなければ楽しめるようなものではない……と言いたげなところが多分にあると思う。

安和すばるが「嘘つき」というのはどういうことか、という話/『ガールズバンドクライ』5話時点での感想

安和すばるは4話で祖母に役者の道から外れ、バンド活動をはじめたいと告白しようとする。

ここで少し考えてみると、役者になることとバンド活動は単純に職業と考えるなら別に択一ではない。

それがなぜ……というのはきっと安和すばるが晒して叫ぶべきなのが「嘘つき」という話とも絡むのだけれど。つまりは人生全般、生きる姿勢の話と捉えているからなんだろう。

装い、演じる役者。装い、演技する生き方

裸の自分をぶつけるバンド活動というか新川崎(仮)のライブ/音楽。そういう生き方

という構図。

"役者よりもバンドをやりたい"ではなく、(職業として両立できるけど)"役者にはならない""なりたくない"というのは装い、演技する「嘘つき」な自分の生き方をずっと続けるのが嫌だということだろうし。


祖母・安和天童の述懐、

「私ね、娘にはこの仕事、ひどく嫌われてるの。偉そうな割に家のことは何もできないって。だから嬉しかったな。すばるが私の仕事を好き、って言ってくれた時は。あの子だけは笑ってくれたの。私の仕事、あの子だけが好きだ、って。やってみたい、って。……感謝してる」

もどうみても単に仕事でなく、その人生、生き方全般についての話をしている。

 

ただ、これが単なる志望する職業選択の話でなく人生の話だとするとなおさら、ドラムでのバンド活動も少なくとも4話の段階ではこれが本当にやりたいこと「かもしれない」に留まるのに拙速にそちらに道を絞ろうとすることにもきっと、大きな問題がある。
「バンドをやりたい」とはっきり道を見出しての主張というより、「役者になりたくない」という逃げの度合いがきっと、大きい。

 

だから、すばるが祖母に"役者にはならない、バンド活動をやる"と告げようとする寸前にそれを促していた仁菜が掌を返して止めたのは"問題を先送りにした"とか"せっかくのすばるの成長の機会が損なわれた"という話ではなく。
本当に今ここで"すべきではなかったこと"をしっかり止めて貰ったということなのだと思える。

 

新川崎(仮)のバンド活動で裸の自分をぶつけたい(別にバンド活動というもの全般がそういうものだなんてこそはおよそないと思うけれど、新川崎(仮)の活動に限ればそれが核心になるようだ)……では、安和すばるにとって、ぶつけるべき「裸の自分」とはなんだろう。
ライブでの振る舞いだけでなく、そういう生き方とはなんだろう。

 

例えば、余りにも当たり前の話だけれど、それは井芹仁菜の在り方とは違う。
すばるが仁菜とは別の人間である以上、「裸の自分」の在り方も全く異なるはず。
まあ、もしなんか勘違いして安和すばるが「私も変に装ったり演技したりせず、ニーナみたいに(その時その時で色々忙しく考えたうえでのことでも)衝動に任せて暴れたい!」とでもやろうものなら、秒でバンドが崩壊してすべておしまいになるわけで。そういうものではないのは明らかすぎることだ。


勿論、河原木桃香とも違う。5話は正に桃香が晒すべき「裸の自分」の在り方を問われ、問い詰められた話で。
仁菜によって「爪痕、つけていきましょう!!」と。かつて思い描いていた自分……ダイヤモンドダストの仲間たちと絶対に一緒にガールズバンドを続ける、それが一番かつ共通の願いだと信じていた自分と今の自分は変わってしまったことを受け入れて。
かつての仲間とそして自分自身にケジメをつけることを求められ、応じることになった挿話だった。

 

で、ライブ衣装のシャツに大書された「脱退」というのは正にその「裸の自分」、現在進行形の傷であり。
どんなに曲げられるものなら曲げたいと自身が願っても折れることが出来ない、自分に嘘をつくことはできなかった在り方の象徴だったわけで。

また、仁菜が自分のシャツに「中退」でなく「不登校」と大書したのも、それが過ぎ去った過去でなく、今も学校に通っていない、通えていない……「負け」続けているという現在進行形の傷で、どうも行動原理に"自分の考える正しさを曲げられない"負けたくない"があるらしい井芹仁菜にとって耐え難い、しかし直視しないといけない自分の在り方だからと思う。

となると、安和すばるのシャツに書かれた「嘘つき」もまた、すばるにとってやはり現在進行形の傷であり。
そうであると共に「嘘つき」であることもどうにもし難いすばるの在り方なのではと思う。

 

例えば、桃香桃香である以上「脱退」は避けられなかったから、傷ではあっても悔いではないように。
例えば、仁菜にとって「不登校」は「負け」(こうした「勝ち」「負け」は具体的な誰かがそう判断するとか世間の評価とかいうより、仁菜が自分自身に対して自分は負けているとか勝っていると認識するという意味合いが非常に大きいのだと思う)で傷だけれど、どうにかして「登校」したいというのでなく、(たぶん高卒認定とって)大学受験していい大学に入って「勝って」やろうとしているように。
安和すばるはきっと「嘘つき」を辞められないし、日常生活の中でも他の場面……バンド活動のライブの場以外で「嘘つき」ではない自分を求めている訳でもないのでは、と思う。

 

例えば、よく周りの空気や思惑や気分を読んでいろいろ装ったり演技して場を取り持ったりするのは多分得意なだけでなく、そうすることが自然で過ごしやすくもありそうだし。
装う、演技するといえばそれこそ、なぜかいつも偽制服を着ているのが正にそうであるところ。

まず、偽制服を着ている理由が5話で問われて答えた言葉通りでは無いことははっきりしている。

「なんですばるちゃんていつも制服なの?」「着るもの考えなくて楽だし、それにいろいろ得なことあるんだよねー、女子高生だと」

「…嘘つき」

そもそも、安和すばるは「女子高生」ではない。
おそらくアクターズスクールに制服なんてなく、通ってもいないどこかの高校だか、どこのものでもない偽制服ということになる。

「言っとくけどね、アクターズスクール行ってる、っていっても私の所は高卒の資格貰えないんだよ!あなたと似たようなもん!」

その上で、自分の立場に大いに屈託を抱いている。
高卒の資格を貰えず、将来が限られている。
そして当人のいう通り役者になるつもりもないのだとすると、中卒のまま社会に出ていくことになってしまう。

 

また「いろいろ得なこと」を気楽に享受する/できるタイプでもない。

桃香さん。自分がお金出してる、ってちゃんと言ってくれればいいのに」
桃香さんからしたら子どもなんだよ、私たち。そりゃ年下だし。社会出て働いてるわけでもないし」

こういうことを意識し、分かり、このように語る人間には、"今はなにかと保護され与えられる「子ども」である/でしかない自分"に屈託があるのは明らかだと思う。

 

では、安和すばるはどんなつもりでいつも制服姿でいるのだろう。

 

一つ考えられるのは、これが安和すばる流の世界へのある種の中指の立て方、ロックな在り方であるのかもしれないということ。
高校を退学した仁菜が「勉強して良い大学に行かないと」「負けたことになる」と周囲からの目線も気にして、そしてなにより自分自身の自分に対する捉え方としてそう思い込んでしまっているのに対して。
すばるは今の自身の半端な立場に屈託を抱えつつ、外見上制服を着てみせることで「いろいろ得なことがある」と世間の目を利用して見せるという、強かさであると共にいつでも直球過ぎる仁菜とはまた違ったある種の反抗をしている……そうすることでなんとか自分を保って生きているのかもしれない。


他に一つ考えられるのは、一般に「学校の制服」の大きな機能の一つとして挙げられる"貧富の差に関係なく、同じ服装でいることで格差を感じず/感じさせずにいられること"を「いろいろ得なこと」の一つとして利用しているのかもしれない。

有名女優を祖母に持つ安和すばるは裕福だ。
(おそらく武蔵小杉の)タワーマンションの、やたらとデカい部屋に一人で住んでいる。
そして祖母が有名女優であるだけに、その孫娘として裕福であろうことも周囲に知られるなり察せられるなりしていることが多いだろう。
その上でアクターズスクールという環境上、服装にはその価格等も含め周囲も敏感であるだろうところ、金のかかった服装をしていればひがまれたり距離を感じられたもあるだろうし、そうでなければそうであったで「お金あるのに、嫌味だな」と受け取られたりと、何かと面倒なこともあるのかもしれない。
スクールでも謎制服を着ていれば、その面倒は回避できる。

「あ、あの安和さんは」

「安和さん?ああ、すばるちゃんか」

「すばるー!」

多分はっきりそう言わないだろうけどすばるは「安和さん」と呼ばれるのが嫌だときっと周囲の皆に伝わってる。
その上で「あの安和天童の孫娘」である事もきっと皆知ってる。

そんな中で気軽に親しげに「すばるちゃん/すばる」と読んで貰えるような関係を望み、築くにはそういった工夫も必要だし、そうしているのかもしれない。

 

安和すばるが周囲との経済的な格差にかなり敏感なのは、いろいろな描写のから伝わってきたりもする。

例えば4話で上掲の自宅に仁菜を招いた際の言動……「ん?私の家だよ。入って入って」「すぐ飽きるけどね」辺りの端々にも、暮らしが贅沢な事もそれへの相手の反応も大した事ない何も気にしてないよと装い演じている、あるいは分かった上で"どうか気にせず接して欲しい"と願っている事を汲み、そう振る舞ってほしいという思いが溢れていた訳で。

そこで「どこなの、ここ」「すごーい…」と驚きつつ、「好きな所座っててくれる」と言われるなり即座に好き放題ソファークッションでくつろいでみせた仁菜が、すばるにとって凄く嬉しい存在だったろうというのも容易に想像できる。

 

あまりの傍若無人ぶりに呆れつつも

「ゲームやる時にいいんだよね、それ」

と軽く言った時/言えた時、嬉しく、心が軽く在れただろう。
この台詞の時、飲み物を置く画であえてすばるの表情を映さない演出も良い。

並ぶ飲み物…相手と構えず対等に居ることが出来ているすばる、という意味もあるのかと思う。

 

例えばもしも、アクターズスクールの同年代の仲間を連れてきたとして。
やっぱりまず「すごーい」と声を上げるだろうとして。

 

"高卒資格もないスクールで先の保証もなく今と未来の生活に困ったり不安を抱えて頑張らないといけない私達と違って、有名女優の祖母のコネもあってそれでもう仕事も来てるし、その上、もし女優で一人立ちなんてできなくても暮らしていくのになんも心配なさそうで、祖母そっくりな美人のすばるは良いよね!すごーい!"

 

などといった思いが言葉に出されるなり、滲み出るなり、口にしなくても察せてしまえたりしたらそりゃあ嫌だろうな、と。

 

また、居酒屋や鍋料理の食事やスタジオ代を、バイト暮らしの桃香が大人としてバンド活動の先輩として出すのを"私、お金ありますから"とか四の五の言わず素直に受けているのも、そうするのが桃香にとってやりやすく助かるのが分かっての振る舞いに違いないとも思う。

 

ともあれ、話を戻すと。

「すばるがなぜ、いつも偽制服を着ているか」は上述のようにいろいろと憶測も出来て、それはあるいは正しいのかもしれないし、あるいは単にひどく的外れだったりするかもしれないけれど。

実のところはそれよりなにより"そもそも、安和すばるは装い、演技するというそのこと自体が本質的に好きなのかもしれない"と思えたりもする。

 

ここで、言葉の上ではそういう見方に真っ向から反する台詞がありもする。

「おばあちゃんの七光りでどこいっても特別扱いなのも嫌だし」

「そもそも芝居って好きじゃない。恥ずい」

その言葉を文字通りの本音だと受け取る解釈の筋もあるはある。

例えば、すばるはこの台詞を言ったすぐ後、自分に良く似た若き日の祖母を映す画面を消す。


幼い頃は祖母にそういったように、役者という祖母の仕事も好きで、やってみたかった。でも、河原木桃香が高校時代の桃香のままでいられなかったように、安和すばるも変わってしまった。
画面を消す動作には、自分が変わってしまったことへの屈託や、幼い頃の自分の言葉を喜び、今も自分がその頃の思いを抱き続けていると捉えているだろう祖母への申し訳無さ等を振り切るような思いが籠もっているのでは……といった具合に。

 

でも、それとは違う解釈もできて、ごく個人的にはそちらに傾いている。
示されているのは自分の力で得たのではない恵まれた境遇への周囲の反応、それを意識し絶え間なく演技する事への自己嫌悪といった……装い、演技することを強いられることと、その方向性なのではと思える。
ここで「そもそも芝居って好きじゃない。恥ずい」が文字通りの本音だとしたら安和天童があまりにも報われない……とも思いつつ、それ以上にそれこそ、そもそも4話に限らず安和すばるの言動を見てその場面場面の心理を考えてみても、どう見ても「芝居って好きじゃない」ようにはとても思えない。その逆に思える。


また4話を通じて天和天童と安和すばるは外見だけでなく、本質的にとても似た者同士の祖母と孫なのだろうと思わせる描写がされ続けていると思う。

 

祖母についてすばるが言った

「言ったことを額面通り受け取ると、痛い目見るわよ」

は、それこそいつでも額面通りに受け取れない言葉を吐くすばる自身についてもぴったり当てはまるだろうし。


初対面の仁菜達の無礼を大目に見たり、すばるが「本心」を告げようとする時には(そもそも全て察した上で)優しく待ち受け、むしろ穏やかに促すような態度を取っていた姿からはこの祖母も孫娘同様の「とてもいい人」なのだろうと察せられるところもあり。

大女優があれだけ圧をかけての即興劇への誘いを「嫌です」と正面から断ったあたりでおそらく仁菜をめちゃくちゃ気に入ったのだろう(だからこそ、例えばただ孫娘の友人だというだけで打ち明けるわけもない、大事な心の裡を語りもしたのだろう)あたり、そういういわば好意の湧くツボみたいな所も孫娘と良く似ているのかと思える。

で、それだけ祖母と孫娘がよく似ているならば。
孫娘の方も本当の所「芝居って好きじゃない」なんてことはおよそ無さそうだと思えてならない。

 

ただ、"安和すばるには大女優の祖母がいるけれど、安和天童にはいない"というのが二人の大きな違いというのはありそうで。

安和すばるはまず「安和天童の孫娘」という外装を否応なく被され色眼鏡で扱われ、否応なく対抗して装い、演技する事を強いられる。
祖母は実力で自分の立場を築き上げただろうけどすばるはゼロからのスタートは切れない。似た者同士でも、その違いから自己肯定の在り方に違いがあるだろう。


また、アクターズスクールに入るなどして役者の道を歩み始めた時、周りから祖母の七光りとみられると共に、当人自身が"祖母と違って私には才能なんか無いんじゃないか。あれだけ期待してくれている祖母を、自分の才能の無さが裏切ってしまうのではないか"といった恐れや不安に苛まれるというのは、ある種そういう立場の人間によくある話ではないかと思える。
安和天童の出世作「すばる」を一緒に見ていたリビングでの仁菜との会話の最後の台詞

「あーあ、役者の学校いけば才能ないってわかって、諦めてくれるって思ったんだけどなあ!」

これもやっぱり額面通りでなく、役者の学校いって才能が無いのではと不安になり、諦めそうになっているのはすばる自身では。その不安から「芝居って好きじゃない」と自分に言い聞かせて逃げようとしてもいるのでは、と憶測してしまう所もある。

 

 

そんなこんなで。
将来、職業として役者になるかどうかは措くとして(ところで、多分すばるはずっと「役者」、仁菜はずっと「女優」という言葉を使っているのも面白いなと思う)。
安和すばるは「嘘つき」である自分……なにかと装い、演技するし、きっとそうすることが好きなのだろう自分に逃げずに向き合ったほうが良いのではと思えるし。
そんな安和すばるに他でもない「嘘つき」と大書したライブ衣装を着せた仁菜の理解なり直感なりは凄まじいものがありそうだなとも思う。

 

※6話放送後、5/11追記。

まず、6話を通じてすばるが仁菜から「嘘つき」と言われることをすごく敏感に嫌がるようになっているのが面白い。

その上でこのやり取りが特にいい。

 

また、ライブで仁菜に煽られる形で名乗ることになった「プレア(ちゃん)」というのはおそらく「すばる→プレアデス→プレア」ということだろう。

「本名はまずいから」となっても「すばる」……祖母の出世作にちなんだ自分の名前から別に離れようとか、距離を置こうとはしていない。

これまでの描写全般を鑑みても、安和すばるはその由来も含めて「すばる」という名前をどう見ても嫌っていない。

そこら辺から考えても安和すばるはきっと祖母大好きなだけでなく、やっぱり役者も演技も好きなのではと思える。

 

※5/12追記

それに他にも…………

そもそも安和すばるさんが本当に「芝居って好きじゃない。恥ずい」と思っていて、「嘘つき」と言われるのが嫌なだけでなく「嘘つき」である自分が本当に嫌いだというなら……じゃあ、今もいつも着ているその偽制服は一体なんなんだ、という話ではある。

 

togetter.com

ガールズバンドクライ5話。河原木桃香の「ごめんね」「ごめん」の意味について~現在進行形の傷としての「脱退」&なぜ「中退」でなく「不登校」なのか

ガールズバンドクライ5話。

 

酔い潰れた桃香の二度繰り返す

「ごめんね」

「ごめん」

これはきっと脱退という過去の"裏切りと。新たなメンバーと全力でやっていってしまうこれからの裏切りへの「ごめんね」なのだと思う。


そして仁菜に「私の歌」を見出して故郷に帰るのを止めた時点でもう"これからの裏切り"は決めてしまっていたのに、その事実にはっきり向き合えずにいたことを"裸の自分を出せ"と促し続けていた仁菜にも詫びたのかもしれない。

「やりたいことも一緒で、これは運命だって感じた。こんな奇跡無い、って鳥肌立った」

 

桃香が振り返るダイヤモンドダストの仲間たち。
そして「やりたいこと」とは、

「ガールズバンドで婆さんになってもオリジナルメンバーで続けようって。絶対にやめないって。音楽性も主張もない、目指していたのはそれだけ」

その思いを皆で共有していた筈なのに、桃香自身、それを「運命」とも「奇跡」とも感じ思いは揺るがないと確信していた筈なのに。
そのメンバーで続けていくという絶対の目標のためにも曲げられないものが出来ていたことに、きっと桃香は気づいてしまったんだろうと思う。

「バンドも人間と同じで、成長もすれば、変化もするんだ。どんなものでも、変わっていくんだよ」

つまり"変化してしまった"のは、変わらないはずの「やりたいこと」が変わってしまったのはダイヤモンドダストでなく桃香の方だった、と。

「だから、悪いのは私なんだ」

この言い方が仁菜が口癖のように言う「私が悪いんです」と重なるのもきっと、大きなポイント。
仁菜がどうしても自分の「正しい」や「負けない」をダメだと思っても抑えられないように、桃香も自分の音楽をどうしても曲げられない。桃香自身にもどうにもならない。

「ひん曲がりまくって、こじらせまくって。でもそれは、自分に嘘をつけないからだろ。弱いくせに、自分を曲げるのは絶対に嫌だからだろ」

「それはさ…私が忘れていた、私が大好きで、いつまでも抱きしめていたい、私の歌なんだ」

 

ここで「脱退」というのは桃香にとってすでに過ぎたもの、過去ではなく。
「ガールズバンドで婆さんになってもオリジナルメンバーで続けようって。絶対にやめないって」と固く誓った約束を共有していた相手を現在進行形で裏切り続けている、巨大な傷だ。

同様に「中退」でなく「不登校」なのは、仁菜にとって既に済んだ過去でなく、今、通うべき学校に通えていない……現在進行形で「負け」続けている問題だからだろう。


そして3話で桃香が仁菜に言った言葉、促し仕向けた行動を、5話最後のライブでは桃香がそうするように求められることになる。

「ビビるな!上手くいこうがいくまいが、成功しようが失敗しようが、お前はどっちにしろ後悔するんだ。そういう性格だからな」

「素っ裸になって、思いっきり、今感じてることだけ歌えばいいんだ。違うか?」「その怒りを歌にぶつけろ!それがお前の本音だ」

「仁菜が絶対嫌がる衣装の方がいいと思ってさ。余計なこと考えるな。本当に思っていることだけど、気持ちだけをぶつけろ」

 

「気に入らなかったら言ってね」「気に入らなくても着てもらいます。一緒に裸になってもらいますから」

「お」

「へえ…」

「爪痕、っていい言葉だと思いません?」「ん?」「必死で足掻いて、暴れまわって、自分が傷つきながら、相手も傷つけてやるって感じしません?」

「かもね」

 

「私、桃香さんの歌に胸を抉られたんです」「んっ」「爪痕残されたんです。死んでも負けんな、って」

「…ん!爪痕、つけていきましょう!!」

桃香は仁菜につけた爪痕の責任を求められている。
そして「脱退」によって傷つけた……今も傷つけ続けている(と桃香は感じ、認識している)ダイヤモンドダストのメンバーへの責任を果たす必要もある。

 

皆で交わした絶対の約束を破ってでも曲げることが出来なかったのが河原木桃香の音楽、「私の歌」だというなら……それを捨てて故郷に逃げ帰ることなど論外、許されないのは勿論のこととして。
後悔や贖罪の思いに立ちすくんだり、「私の歌」と言った仁菜を前に出して後ろでその暴れっぷりを保護者のように見守り支えている場合ではない。


「必死で足掻いて、暴れまわって」それを貫かないといけない。何よりも大事だった筈の約束を裏切ってでも殉じずにはいられなかった、それだけの価値が輝きがあるのだと桃香自身にもかつての仲間たちにもいずれ見せつけてやらないといけない。


それはかつての仲間も桃香自身も傷つける新たな深い爪痕になるかもしれないけれど、そうでなければかつての仲間たちも桃香自身もきっと、納得できない。

きっと、別れたダイヤモンドダストのメンバーたちに、仁菜に、桃香自身に、「私の歌」に……本当にしっかりと「ごめん」と言うには、河原木桃香はこうして裸の自分を叩きつけて暴れなければならなかった。

そして、そうして「ごめん」を済まして新たに深い爪痕を残しつつもしっかりと「過去」にすることで、ダイヤモンドダストのメンバーたちも桃香も心残りなく"これから"に踏み出していくことが出来る。

 

この一連の流れを作ったのは勿論、他ならぬ井芹仁菜で。

こうしたところにその掛け替えのない魅力があるのだとも思う。

 

※6話放送後、5/11追記。

5話放送までの時点で書いた上記の感想と、6話で観た河原木桃香にはギャップがあり、"まだ「脱退」のケジメをつける覚悟を決めきれていない"様子はやや意外にも思えた。

でも、仁菜は「ぶつかり星」からぶつかりを広めに来たぶつかり星人だけど、桃香はそうじゃない。なかなかそんな思い切り良く走り出してしまえるものじゃない。
ようするに、河原木桃香は井芹仁菜じゃない。当たり前のことをもっと分かっておかない。きっと、そういうことなのだろう。

 

一方、なにが決めるべき覚悟なのかも。
そしてすばるが語ってみせた桃香の二面性……"絶対このメンバーでバンドを続ける、それが皆共通の何より優先する一番の願い"と心から思っていた"かつての桃香"(→今は傷つき立ちすくむ桃香)と、否応なく変わっていた/変わってしまった、その願いを破ってでもどうしても曲げられない自分の音楽へのこだわりを抱き自覚した"ミュージシャンの桃香"というのは大体イメージに沿ったものかと思えた。

そのあたりについては悪くないキャラクター解釈だったとは(とりあえず今のところ)言えなくもないかとは思う。

togetter.com

アニメ『ガールズバンドクライ』感想まとめ

アニメ『ガールズバンドクライ』感想まとめ

キャラクターのころころと変わる表情、情感豊かな仕草など躍動感あるCGで綴られる、迷走を繰り返しつつ全速力で駆けていく青春模様が楽しい。

序盤(1-2話)からなんといっても特に、井芹仁菜という面倒くささの権化……勝手に反発、勝手にほだされそうになり、勝手にそんな自分が嫌になり逃げ出す。逃げ腰になる時の口癖は「私が悪いんです」「ごめんなさい」、いよいよ逃げる際の捨て台詞は「ありがとうございました!」という普通に最悪すぎるんだけどこれで愛すべきキャラとして立ってきている存在のあまりの面白さと、それを成り立たせる作劇の素晴らしさに引き込まれる。

 

アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズU149』感想メモ

アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズU149』感想メモ


アイドルマスター派生の漫画作品の中でもキャラクター/ストーリーの魅力、マンガとしての表現の巧さ等多方面で群を抜いた面白さと思える原作漫画を、しかし、概ね原案として扱い独自のストーリーを描いていきそうな(1,2話時点)、アニメ版U149。

ただ、本編、OP、EDと文句なしの素晴らしい画、動き、演出が繰り出されていて(同じく1,2話時点)原作漫画版ともまた異なる魅力が大いに描かれていきそうで楽しみな作品となっている。

『機動戦士ガンダム 水星の魔女 Season2』感想

機動戦士ガンダム 水星の魔女 Season2』感想

1期から引き続き、毎週毎週色々と(やや露悪的ではある)話題作りと視聴者を楽しく転がしてくれる工夫に満ちていてリアルタイムで追いかけていくことで面白さが大きく増すよう設計されたアニメだなー、と強く思わされる。
そういう空気もこうしてまとめておくことで不完全でも残しておくことが(また、そうすることで振り返ることが)できたら少し、面白くもあるのかなとも思う。