ダサピーク

 生きがっている割にはすぐ日常にのまれてぐだぐだになってしまう非常に愚かしいところがある、というか全体的に愚かしいので僕は今日という日を日記に記します。
 なんかオフレコっぽい雰囲気とかあったので黙っていたけどみんなTwitterでつぶやきまくったり参加した作品も公開されたし語っても良さそうだしというのもある。

 でもこれはあくまで僕が僕のダサさ、おはなしにならなさを記念する日記です。し、ゴシップ性とかも限りなくなくしたいところですね。

 まずこの日記を記述する意味なんですが、ダサさというのは物語のはじまりなんです。物語は完成への指向性をもつが故に、始まりは常に未完成、不完全なんです。
 何者でもなかったつまらない人間だった僕は、尊敬できる人々をようやく目の当たりにしかつ自分の最大限のダサさを自覚したことによって物語る資格を手に入れたんです。
 僕は頂点まで昇りつめさらに進んでいく人と、頂点に向かって登っていく人や、ずっと続けていく人、勝負の世界に踏み込んだ人、ジョーカーのようなプレイヤー、そしてスタートラインにさえ立っていない自分という物語のステップをあらかた全て網羅するような景色を見た。

あらすじ。
 JNTさんがある日「アシスタントほしいなぁ〜」みたいなことをつぶやいていたので、ようやく「見る前に飛ぶ」ことをはじめた僕は超丁稚りたいです!というレスによって僕は一応の丁稚になった。(「見る前に飛べ」は大江健三郎の短篇集より
 直後Mr.xJNTという企画が立ち上がり、僕はJNTさんのヘルプとして企画に参加したのだった。
 というご縁で様々な方々とお話させていただいたのが今日。

 僕はそこに集まっている人たちの様子や経歴を見聞きしていくうちに、悔しい、ずるい、なんで俺は…!という思いがふつふつと湧いてきた。
 美大とか専門いっているだとか、親がアート系だとか、もう本当に僕にはものすごくズルく感じたし、全くそういう世界を夢にも思わない家庭に生まれついた、そういう所与のもので僕は創作的なことを追求しきれていない、出遅れている、そういう現状がものすごくムカついた。
 別に努力した結果が出るとか出ないとかそんなことじゃなくて、俺は努力するスタートラインにもたっていない。しかも家庭の事情で!というのが本当にうらめしかった。

 しかし本当はそんな問題はさっさと家出をしてしまってやることやればいい、そういうものだということもわかっている。親子の縁を断絶して創作に励んでいる人なんていくらでもいるだろうし、自分が甘えているのもわかる。ダサい。

 でもさぁ、そういう問題を考えても美大とか専門いけてるっていうのは基本的に親の理解と支援を受けられているわけじゃんすか。親の期待を裏切る必要だってないわけじゃんすか。
 特に僕は、勉強が、できちゃったんですよ。それですげー偏差値高い早稲田の付属の高校入って、早稲田大学入ってっていう風になりまして。まず勉強できるようになるまでに投資があったし、できていい学校いってからも投資があったわけじゃないですか。あと僕高校で一回ちょっと創作に夢中になりすぎちゃって留年してるんすよね。そういう、そこにかかってる、一千万とか普通にいきそうな投資額と、そしてそれによってむくむく膨れ上がった親の期待や「これで安心だ」みたいな、勝手な幸福感とか、そういうものを全部蹴って、「俺は就職なんかしねぇ!!!」って宣言して期待をへし折ることからはじめなきゃいけなかったわけなんですよ。いやなんどもしてきてそのたびに落胆する親の姿とかみてたわけなんですよ。きついよ…。

 でも多くの方は、美大とかいけてる時点でそういうのとかないわけじゃないですか。この場所にいる多くの人が!
 …ズルいよ!そんなのズルいよ!!!!

 そういうこといいながら客観的にみたらどう見たって僕も金かかったおぼっちゃんなんでそういうのもすごくダサいんですけど…。

 あとあのー、その「大企業の社員になってほしい」という親の要求と、僕のしたいことの折衷点をとった結果就活的にはゲームのグラフィッカーが最大妥協点というかんじだったんですけど、これがまぁ本当にダサい話で。ダサいし失礼な話で。
 NaBaBaさんやN_Aさんに就活的な相談にのっていただいたんだけど、まず僕の行動が全然やる気あるとはいえない状態だった。2月中旬入った今、ポートフォリオができてないんすよね。
 言い訳はあって、とにかく僕は絵かきとしては孤独すぎて自分が何ができているのかさえわからなかった。自分の実力が全くわからない状態だった。ようやくJNTさんに話を聞かせていただいたりしてぼんやりとしたグラフィッカーの輪郭が見えてきてやっと取り掛かれるかどうかという状態になった、のが2月の頭頃だったという状況だった。
 でもそういう状況でもグラフィッカーになりたいのならもう、就活浪人するなりなんなりやり方はあるわけなんだけど、あくまでも”第二希望”なわけで、そこまでするんだったらやりたいことやるよ!という状況で、、いやほんと自分で思いますけどそういう態度は本当に職業を冒涜していると思う。自分でもそういう形で向かわなければならなかったのが非常に心苦しかった。
 というのが結局行動に出たのが、ポートフォリオを作らないということだった。
 だってポートフォリオ作らない傍らで漫画すごい描いてたもん。

 そういう状況にありながらアーテイストの人とかに絵をみてもらって「うまいじゃん」とかいわれて喜んだりしたのも本当にダサいし。

 活動と背景の関係をつかもうとして人の家庭の事情きいたりとかも本当にダサかった。

 僕解散して家帰るときフォロワーのレスくれた方(女性!)に会ってお話ききたいっすとかそういうリプライとか送ってて。ガチだったんですけど、いやそれお前新手のナンパかよとかほんとに。
 しかも丁寧にDMで応対してくださったところに説明で送ったDM9通で、送ってる間に親と話しつけてたりして結局最終的に「自己解決シマスタ;;;;」みたいな状況。

 なんかもうダサいとかそういうレベルじゃないですね。やべぇや俺。ヤバいよこれ。もうボロボロとかじゃないじゃん…。


 でもそういう、もう立つ瀬がないようなダサい、カッコ悪い状況に至れたっていうことは、僕にとって大きな利益なんですよ。スカしてカッコつけたがってるだけじゃ、はじめから完成を提示しようとするだけじゃ物語を作れないんですよ。
 だから、今回はかかなかったけど、普通のつまらない人間としてのコンプレックスとか、全く話にならない自分とか、そういうものがあるということが僕の資産になるんですよね。
 まぁそういうことを記念する日記でした。

”_N_A_ 村上隆さん、Mr.さん、JNTさん、TOKIYAさん、pixiv片桐さん、NaBaBaさん、gnckさん、toiさん、SNKTさんほか人生にリスクを背負って挑戦し続けてる人たち大勢との一夜が明けた…”

 まぁこんな感じの日だったのです。僕はダサさを認識したこととあわせて、このような方々と僕みたいな人間が接触する機会をもてたことをまたよく覚えておかなくてはならない。

 オチはまぁ、ないです。というか本当にダサすぎてオチっぱなしですね。


 さらにダサいのが、結局僕は帰ってきてから親にもう絶対に職業を冒涜するような就活はやりたくないし、という話をして、家を頼らなくちゃいけなくなったらおとなしく派遣社員でもなんでもなる、大学は四年で出る、一人暮らしは見送るで一応合意をしたんですね。
 スタートラインに立ったんですね。あんだけズルいとかいいながら。本当にダサいですね。

 でも僕はもうほんと ダサさでいうと今がピークだと思うんだけど、やっとスタートラインにたったからあとは全然取り返せるんですよね。取り返すんですよ。そういうかんじですね。

 僕は死ぬまでメシ喰う漫画家になるんですよ。

物語の構造的理解とその構築に関する仮説

 以下の論は、僕の個人的な経験に基づいた仮説です。
 より良い物語を作るための仮説であって、物語をただ無目的に分解しカテゴライズするような性質のものではない。物語をどのように理解したらより良い物語を作ることができるのか?という目的に基づいた仮説です。
 ここでいう物語とは基本的には近代の大衆向け娯楽、特に漫画におけるものを念頭においています。娯楽映画やゲームなどにも適用できると思います。とにかく近代の大衆向け娯楽における物語についての論です。


・物語とはなにか
 より良い物語を作るためにはそもそも物語とは何かを理解しなくてはならない。
 僕の経験によれば、物語とは
  問題解決の記述様式
 である。

 問題解決を時間的な形式で記述したものが物語である。





・物語の基本構造
 物語が問題解決の記述様式であるからには、本質、核として問題が存在する。また、問題解決を時間的な形式で記述したものが物語であるからには、出題が存在しなくてはならない。
 従って、
  出題-解決
 がごくごく基本的な物語の構造ということになる。ただし、物語が時間的な形式で記述されたものであるからには、これだけでは不十分で、さらに間に試行錯誤を挟む必要となる。
 つまり、
  出題-試行錯誤-解決
 が物語の基本構造である。
 これを例えば起承転結にあてはめれば、
  出題(=起)-試行錯誤(=承)-解決(=転・結)
 に相当する。

 また、役割としては試行錯誤は問題の難易度を規定し、解決におけるカタルシスの大きさを左右する。


 多くの物語はマクロ的にもミクロ的にもこの構造をもつことになる。
 マクロ的な物語構造とは、主人公が達成すべき大いなる目的などのレベルにおける物語である。(少年漫画などで、主人公が頂点に上り詰めることが解決にあたり、野望をもったたよりない少年としてはじまることが出題にあたる)
 ミクロ的な物語構造とは、シーンごとのレベルにおける物語構造である。
 娯楽的な物語は基本的にはマクロ的にもミクロ的にもこの構造になっていると考えてまず間違いない。
 イレギュラーとして、
 ・マクロ的な物語構造が存在しない、あるいは稀薄なもの(ミクロ的な物語の連続によって成立している/鬼太郎などを想像すると良い)
 ・解決にあたる部分が存在しないもの
 などがある。しかし、このではあくまで基本をおさえるのが目的なので言及しない。


 物語は再帰的な、フラクタルな(部分と全体とが相似的であること)構造を持っており、この基本をおさえれば多分かなり問題が解決する。
 例えば、物語制作時のエラーチェックとして、
 ・全体的につまらない→問題の設定がつまらない
 ・どうにも物語の進展しないシーンがある→シーンにおいて出題がされていない
  (また、このようなエラーから、物語のシーンは常に起承転結の構造を持つべきであり、またシーンとシーンの結と起は連結されているべきであるということがわかる)
 ・カタルシスが少ない→試行錯誤が甘く問題の難しさが示せていない
 ということが確認できる。






・問題について
 物語の核である問題について。
 問題とは、物語のテーマと同義であり、物語構造においては転、解決部と同義であり、コンセプトと同義である。

 物語がつまらないとき、問題がつまらない、ということが分かりづらければ、テーマがつまらない、コンセプトがつまらないと表現するとわかりやすくなるかもしれない。
 テーマ設定、コンセプト設定という言葉は問題設定と同義であると考えて良い。

 また、物語においては問題はまた主人公と等しい。なぜなら主人公とは物語の根幹である問題を解決する人物であるから。主人公と問題とは不可分である。
 脇道になるが、従って、主人公像が決まらない、いい主人公が作れないといった場合物語の問題設定がマズい。

 問題形成、コンセプト形成において、とかく創作においてはオリジナル性にこだわりがちであるが、コンセプトは常に既存のコンセプトを大きく包含しなければならない。
 なぜなら、コンセプト、つまり意味というものは言語性の要素であり、完全に新規な意味というものはそもそも理解され得ないからである。
 例えば、嬉しいとか悲しいといった共通的に誰もが了解している意味は言語において理解されえるが、あなたが完全に新規に作った意味は共通の理解がないので意味として理解されない。あなたが複雑なことを伝えようと作品を作ったとき、読解力の高い人にしか理解されなかったという経験はないだろうか。それは普通の人は既に理解している意味によって物事を理解するためである。

 僕の経験上、コンセプト形成は既存のコンセプトを8割、新規の意味を2割程度で作ると良い。

 また、コンセプトは一つの統一された意味を持つ必要がある。時間的広がりの少ない、瞬間として提示できるものが良いコンセプトである。
 なぜなら、物語の核が問題=コンセプトである以上あらゆる物事はコンセプトに向かって集約する。その時コンセプトが複合的すぎると物事の流れが集約せず、結果としてカタルシスもぼやけるからだ。
 あるいはまた、コンセプトは意味という単位である以上、多義的であることは望ましくない。

<複雑な事象を複雑なままに記述したい、という欲求は確かにわかるし崇高だと思う。しかしそのように物語を作った場合、ほとんどの人にまともに理解されず、厳しく辛い生き方を余儀なくされることを覚悟しておかなければならないだろう。
 僕においてはわかりやすさの中に意味のわからなさを混ぜ込むことを選択する。>





・少年主人公がなぜ非常に作りづらいのか?
 脇役だったら個性的な人物がいくらでも作れるのに、主人公はなんだかぱっとしないキャラクターになるという経験はないだろうか。

 これは主人公という役割の特殊性と、少年というコンセプトの特殊性に起因する。

・主人公とは何か?
 主人公とは、物語を解決に導く役割を持った人物の事である。仕手。
 娯楽における物語では、特にこれから何事かを為す、問題の解決者である。

 そのような性質上、主人公は、起点から物語を考えてしまった場合、その人物に方向性をつけることができないのは当然である。
 問題の解決者であるから、その性質は問題の設定なしには決定され得ない。

 また、そのような性質からいって、物語におけるマクロな問題と主人公とは同義であると言える。
 「主人公が変わってしまったら別の物語である」という言説はこのような理由によって正しい。

・少年とは何か?
 少年は主人公と性質として大体同じだ。
 少年とは、まだ何者でもない者、半端者であり、これから何者かになる人物である。
 であるから、主人公と同じように、どのような者になるのか?が解決されない限り少年は方向付けをされえないのである。
 少年は実はただ少年としてはキャラクターは成立せず、何者になるのか?何を為すのか?という将来像によって成立しているのである。






・まとめ
 基本的に物語の核が問題である以上、物語は転をはじめに作ることになる。
 転からはじめて、その転をいかす形で帰納的にミクロな問題を配置していく事になる。

 物語は常に、マクロ的にもミクロ的にも問題設定が肝。
 見る価値のある問題を、物語構造的に展開すれば大体多分どうにかなる。





・補論 コンセプトの優位性
 漫画やイラストレーションなどを実際に製作する上で、その制作を要素として分解したとき、ここでは特にイラストレーションを例にするが、コンセプト、基礎技術、演出的技術のような要素に分解できると思う。
 あくまで僕の経験上の話ではあるが、他にいろいろな分解のしかたがあるにせよ、コンセプトはその中でも有意に優位に評価される。
 凡庸で見る所のないコンセプトを元に、形を良く取ることなどに非常に力点を置いたイラストより、コンセプト形成に力を入れて絵自体はさっさと描いたものを比べると、明らかに、コンセプト形成に力を入れたものの方が何倍もウケがいい。
 技術派の人間には屈辱的だが、頑然たる事実としてコンセプトの優位性は存在している。ように僕には思える。

 しかし考えて見れば当たり前だった。
 というのも、世間一般の人々は物事を非常に言語的に処理しているからである。言葉で言い表せないような抽象的だったり絵画的な理解ということをする人間というのは、よっぽど沢山絵を観ているか、あるいは自分も制作している人間ぐらいしかいない。
 創作物を弁当に例えたとして、制作側は弁当箱から制作するが、一般の人、消費する立場の人間は具材にしか興味がない。弁当箱や具材の容れ方は、きれいなほうがいいものの、しかし注意を払ってはいないのだ。それは、至極当たり前のことだ。

 ハイコンテクストなものを理解できる人間だけの市場でやっていけるのであればそれはそれでいいが、そうでない限りは、コンセプトには大いに気をつかわなければならない。理解されものは評価してもらえないからだ。

 あと、経験的に、マクロにしろミクロにしろコンセプトはコンセプトアートとしてかきだすのが望ましい。
 文字では魅力的だったはずが形にしたら大したことないなんてことはざらだから。

twitlog:現在の俺の物語方法論

 所見。物語は問題解決の記述様式だっていうことは大体俺的には確定してて、問題解決の記述様式であるからには出題と試行錯誤と解決がある。。これが起、承、転・結に対応するみたいな。。そんで物語はミクロ的にはその形式の繰り返しだし、マクロ的な構造としてもその形をとる。フラクタル的。

 そんで、ネームかいてなんかストーリーが進まないと思った時には出題を欠いていると考えて間違いない。
 大課題を提示した後、安心して説明パートに移ったりしないで常に小課題を出題し続ける必要がある。その過程で説明とかはさんどく。
 そんで、承:試行錯誤のとこで四苦八苦したりすることでたぶん課題の難易度が強調される形になる。解決のカタルシスが大きくなる。

 多分つまんないのは、課題がつまらない。キャラの問題は? キャラは大課題の一部な気がするので多分大課題に見る価値がない。
 俺的に転=コンセプト=大課題≒主人公なので。コンセプトとかいうとアレだったら、狙いとかかきたかったものとかいいかえてもいい。キモとか。そういうやつ。

 そういう大課題に見る価値があるかどうかはネームかかなくてもそれをイラストに描いてみればわかる。物語広げる過程でなんか自分の中で盛り上がっちゃってその大課題が本当におもしろいのかわかんなくなったりするけど、ちゃんとしたイラストにしてみるとおもしろいものかどうかわかる。
 のでイラストはプレ制作とか企画つくるのにつかえる。イラスト描いて「うーん…。」て感じ、何も胸が躍る感じがなかったらそのコンセプトは失敗している。たぶん。少なくとも、きちんと練れてないのはたしかだ。
 ネームきってる最中は演出でどうにかできる気がしちゃうけど、凡庸なコンセプトはどう頑張ってもやっぱちょっと足りない感じになるよなぁ。

twitlog:物語について考える。

 割と用語がアレだけどまぁ俺メモ的な。


 「誰にも言えないネガティブな秘密日記サービス」やべぇ すげぇひびきがいい
 ネガティブ日記は割とガチに書くもんだから読み物としてのおもしろさがそこそこ担保されてるっぽいな。ポジティブ系は、文章として成立しないというかそもそも楽しいことって内省するもんじゃないから娯楽的には成立しねーのかもな。
 ネガティブな日記がおもしろいとはいえそれはポジティブな日記とくらべて、、、程度であってやっぱ基本的には全然おもしろくないなー。でも「本当にあった○○な話!!」的な漫画とかかけそう。。
 いやそんなことしても得しないからしないけど、、とかおもったけどなんか「私のこと好きっていわれたけどセックスしたいだけっぽい」みたいな日記とかからもっと漫画住人のファンタジックな内的世界みたいなの展開すれば女性作家みたいな漫画とかかけんじゃんとかなんとか。

 なんかあぁいうネガティブな日記から現実の人間の顔を想像するからただキモいんであって、漫画のキャラならどうしようもない悩み事ももうすげぇいいかんじになるよなうん。。
 現実のセックスしたいだけでいいよられる女の話はうへぇってかんじだが、漫画のセックスしたいだけでいいよられる女の子の話は涎がとまらない。。
 あーまじいいなぁこれ。志村貴子先生みたいな漫画とかかけそう。。いいなぁ。
 好きとか嫌いとかそういう話って俺結構好きなんだけどゼロから考えるのはちょっと苦手なんだよな。


 つーかあれだな 楽しいことってかなり複合的に成り立ってるから文章化しづらいのもあるんだろうな。嫌なことは大抵独立した出来事だ。だからコンセプトとしてかなり明確で、物語を素人にもうまく構成させてしまうんじゃないか。
 楽しいことにはあまり何が楽しかったのか、どう楽しかったのかを意識させられる瞬間ていうのはないけど、嫌なことは何がどう嫌だったのかかなり明確だ。というか、そうでないなら、嫌なことが具体的にわからない場合不安から精神症になるからまた別の問題になる。
 つーか、物語が問題解決のための能力であるとするなら、嫌なことに物語適性があるのは当然だということになる。嫌なことは問題そのものだし。
 つーかだから、、物語が問題解決の方法であるのにもかかわらず、本質的に問題を解決してないのに解決しちゃうご都合主義コンテンツが嫌いなんじゃないか。。それを認めたらもうおしまいだっていう感覚、それを認める人間になってしまったら頭がめちゃくちゃになっちまうぞ、みたいな感覚は多分、物語が問題解決の方法として成立しなくなってしまう予感からきてんじゃねーかな。


 あと、俺がどうしても下から積み上げる方式で物語を作れなかったのは、おそらく娯楽として作る以上どうしても必要になる恣意性が、問題解決の方法である物語の形式にどうしてもあわないからだ。
 逆に転からさかのぼる形では一瞬で物語を作れたのは、問題解決が所与の問題に対して働く機能であるからだ。あるいは、問題解決の本質が「なぜそうなったのか?」であるからだ。つまり、はじめに結果を与えれば物語が展開できるというのは必然だし当然だ。

 プロの作家さんとかみるとやっぱどうみても、一番はじめに見せ場を考えてるよな。キャラが勝手に動きだす、みたいのは順を追って展開させていく物語においてではなくて、コンセプショナルなシーン、つまりネタが連想的にどんどんでてくるっていうことであって、物語の考え方とは別の軸なんじゃね???
 っつーか、物語とネタ出しっつーのは実は全然違う技術なんじゃねーか??物語の技術はネタとネタの間をつなげてそんで一連のコンテクストに仕立て上げる技術のことなんだよ、、、多分。

 演繹的に見える物語も、その制作においてはおそらくただ演繹的なんじゃなくて、小さな帰納の繰り返しでできてるとおもうんだよな。コンセプトを置いて、なぜそうなるかの説明をしての繰り返しでできてるんじゃないか。
 あるいはガチでいきあたりばったりにコンセプトを配置していくっていうのもあるだろうけどそれは幼児の物語じゃないかと思う。

まぁそんなかんじでうん。
っつーか、「つーか」っていいすぎですね。。

twitlog:実際制作に対する思い入れが強すぎるとおもうんだよなぁ

絵はリハビリでかいたらくがき。

pixivで、すげーかわいい女の子の絵とかが何ページスクロールしてもあるような人を見て、、すげぇなぁ!!俺も描かなきゃなぁ、、とか思った直後に「この人いったいどういう時間の使い方してんだ?」という疑問が。あと、コンスタントに同じクォリティで絵を描いてる人は、その熱量を一個の作品でつみげたくならないんだろうかって疑問に思う。

絵をなぜ描くのかっていう動機の分解まできた やべー
俺にとって絵を描くことは運動の一種だったのではないか仮説
なんかある程度しんどくないと絵を描いてる気がしないのとかすげぇ運動っぽい。

インラインスケートはじめて自分の気持ちいい負荷がわかったりしたせいですごいすっきりしてて、絵を描く欲求とかあんましなくなってるあたりほんとなんか俺にとって絵を描くのは運動の一種だったっぽいとか うーん。

つーかだったらそーだよ エクササイズであるならエクササイズであることを自覚して描けば、それこそ俺はもっとサクサク絵を描いていけるじゃないか!!
絵を描くことが自分の中で価値を積み重ねていく行為だったから重かったんだと思う。

自分の中での価値の積み重ねみたいのはそれこそ何か作品を作ることから運動そのものにシフトしてもいい気がする。
遊びとしての運動と自己実現としての制作だったんだけど、逆にしたら多分いい結果をもたらす。

実際制作に対する思い入れが強すぎるとおもうんだよなぁ。。やるからには、意味がなくちゃいけない、キワキワじゃなきゃいけない。そうじゃなきゃやる意味ないからやる必要ない。みたいのがある。だからフットワークが重い。

キワキワなかんじの絵なんて欲してるのは自分ぐらいなもんで、フツーの人はかわいいくてえっちな女の子とか、なんかズギャーンてしてる絵とかが欲しいんだよなー
僕は最近趣味がものすごく地味になっているのでそのあたりも厳しい。。