手の行き届くスケールでの生活
深夜にテレビを見てるとNHKのおしゃれ工房の再放送にミタニ・ハットが。(左側。右は工房)
工芸家三谷龍二さんの自宅。番組中には紹介されていなかったけど中村好文の設計。
(JA43号 http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/ja/ja0043/mainfr.html)
数年間のあいだに大分使い込まれていて、テーブルが丸から楕円に変わった他は基本的に掲載当時の写真のまま。定番のチークの調理台はまったく痛んでない。戸棚や建具の手掛かり部分がだいぶ汚れて黒ずんでいるのは仕方ないのかなぁ、ほかにも薪ストーブを置いているアルコーブの壁が ストーブの引き手に当たってえぐれているところなんかもらしくないと思ったりしたけど、僕の中で好文さんへの評価がすこし盲目的であったことがわかり、同時に安心した。
番組を見ているうちに、この住宅は、設計者の感覚よりも、使い手のキャラクターに負っているものが大きいと思えてくる。三谷さんそのもののようになじんでいるのが分かる。もちろん、これは二人の考え方が似通っていてなおかつそれが可能な規模である、からかもしれないけど。三谷さんの、「表現としてではなく使い手の側から物を作っている」という製品を使いながら改良を重ね最終的な物として出してく姿勢にも通じている。
すこし離れたところにある土壁の古い木造家屋を改装した漆工房も良かった。その内部は一見薄塗りの塗装かと思ったら実は漆のために埃止めの和紙のような紙(ネパール産?の紙)が壁と天井に隙間なく貼られており、その効果が塗装にはないマットさというか抽象と具象が混ざり合ったような心地よい包囲感を作っていた。窓も新調されていて、大きすぎないFIXガラスと窓辺の小さな作業台がちょうど良い感じ。この漆工房から住居であるミタニ・ハットやその隣の工房へは、大家さんの育てているりんご園の斜面を抜けて行き来する。いいなー。
その次は大介花子の農園。関西のおばちゃんっぷりがおかしかった。NHKのレポーターに出会い頭から長靴を履かせるあたりはさすが。一瞬にして花子のペース。面白かったけど、こっちは途中で切り上げてお風呂に入った。
ちなみに、エゴマの油と蜜蝋による器のオイルフィニッシュは、オリーブオイルとかサラダ油でも代用できるそうだ。手入れも同様。
「そこにある」という感覚
表面を整えるために内部の矛盾を許すべきなのか、内部の矛盾を許さないことで結果として表面に矛盾(これを矛盾というべきかどうかは置いておいて)が出ることを許すのと、どちらを選択するべきなのか。
美学の問題なのでどちらが正しいわけじゃない、と思う。一般的に、建築では表面の矛盾を整えていくことを選びとっている場合が多いと思うし、実際かなりの時間をその作業に当てているんじゃないかと思うときもある。
だけど、面一と見付寸法を優先した納まりを試みるたびに性能とコストについてとがめられる毎日を送っている中で、もちろんそのことが原因なのかどうかはわからないが、表面を無理やり整えることがすごくマッチョな美学に思えるようにさえなってきた。
そう思うようになって、オープンハウスなどで住宅を見るたびに感じる違和感が理解できた。華奢なディティールや面一にするための無理な納まりは「なぜここまでして面をそろえる必要があるのか」という疑問を感じさせた時点でその空間はフェイクになってしまうのだ。そうならないとしても、華奢なディティールを感じさせてしまうのは居る人を不安にさせるんじゃないだろうか。
今はまだどういうものかわからないけど、そこにしっかりものがある、という感覚をつくりたい。と思った。
「はずである」
駝鳥さん
「官から民へ」について〜問題は「責任の所在」なのか
リスク管理エラーのリスク
そのとおりだと思う。
それにしてもこれは傷口に塩を塗るようで、あまりにもひどい。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20051128k0000m040134000c.html
「ヒューザー社が倒産すれば、(買戻しにより)所有権を失った入居者にローン債務だけが残る極めてリスクの高い提案」なんだとか。
非合法な行為を故意に行う者が一定数存在するのはしょうがない。その行為を未然に防ぎ発生しても何らかの対処がなされる仕組みが整備されている、「はずである」という信頼を前提に平穏な生活は成り立っている。
今回の構造計算書偽装事件でいえば、合法的な詐欺行為により法外な利益を上げ始めていた不動産業者と、そのおこぼれに預かる建設業者、彼らに心を売ってしまった建築士がいて、クライアントである不動産業者の圧力に屈して提出してみた計算書が、十分でない制度に則ったチェックが常態化していた審査機関を通り抜けてしまった。彼らによって僕らが信頼していたはずの安全や不動産の価値が不安定なものになってしまった。ただそれだけだ。マスコミが騒ぎ立てるようには壁や床のひび割れに心配するのは、やはりおかしい。
必要なのは、どうするかだ。この事件は、いわば制度の欠陥による公害のようなものだと考えれば、被害者は国家や自治体に救済されるべきだとは思う。国は自分が作った制度の欠陥を認めたくはないだろうから難しいかもしれないが。
次にするべきは、簡単にすり抜けられる仕組みになってしまっている審査制度そのものを設計しなおすことだろうと。今あがっている国交省の案の建築士資格の更新制や、建築士会への強制加入など出てくる案は的外れで、どれも手数料収入と会費収入につながるような無意味な提案でしかない。本当に必要な確認審査制度自体の改善案が、なかなか出てこない。
あきのくだもの
食欲の秋じゃやないんだろうけど、今年のドミールでは異常なほど果物を食べた。
毎日のようにぶどうや梨、イチジクや桃で冷蔵庫がいっぱいだった。
果物を食べていると、夏のあいだに溜めこんだからだの熱を取り除いてくれるような感覚が心地よいし、なにしろペットボトルのジュースを買うより安いってことが新鮮だったのだ。
ふた月くらいかけて腹いっぱい食べ、心と体が満たされ、空気がだいぶん冷たくなってきてからは不思議とくだものを食べたいと思わなくなった。
そして今度は無性に本が読みたい気分になって欲しかった本を買ったり、今まで買ったものの読まずに我慢していた本を本棚からとりだして通勤途中につまみ食いする毎日。
読書の秋と同時に芸術の秋というのも今の身体感覚とうまくなじんでいるようで、つくづく昔の人は季節による体の変化に敏感だったんだなと感心しつつ普段はあまり行かない六本木へ、あちこちで評判の杉本博司展を見に行ったりしていた。今まであまり興味はなかったけど、解説をビデオで聞いて見え方がまったく変わる。彼には神になりたいかのような、あるいは日本的とされている伝統や美学や神と自分を同一視しているかのような印象を受けた。とにかく、妄想を実現するための完成度への執念と、そこから達成される空間からは好き嫌いを超えられるだけの強さがある。特にシースケープの意味を知り、古代から変わらないものとひとりで対峙している感覚はこれは宗教だと思った。宗教って言うのは芸術と同じくらい気持ちがいいのだ。あまりにもすごいものを見せられ直島に貼ってあった同じものとは思えないほどの空間の経験。phloorさんもお勧めしている「苔のむすまで」も購入。
ダヴィンチ展は日本の悪しき展示産業の典型のようでかなり萎えた。
もいういっこのスポーツの秋に興じるほどには体力が回復していないようだったのでkincha主催のフットサルは見送ってしまったものの、相変わらずプールとマッサージは、お昼過ぎまでの睡眠の次に重要な僕の休養手段で、ただひとつ気になるのが千駄ヶ谷のプールの塩素が以前より濃くなったような気がしてならないけど、気のせいなのかどうなのか。
で、今日食堂で読んだ朝日新聞の夕刊の「じゃんけん」から東アジアの文化を語った本の話がとても面白かった。西洋や中東のような二項対立を基本とした文明にたいするオルタナティブとしてじゃんけんのように常に弱さと強さをあわせて循環する文明の可能性の話で、印象的だった。
それから、ずいぶん前に渋谷のパルコで偶然見て、その日はまだ予定があったので買わないでいたら、いつの間にか本屋さんからなくなっていた鈴木理策の「モン・サン・ヴィクトワール」を青山ブックセンターで見つけて購入。瀬戸内海の風土と通じるような植物や鉱物の質感とレイアウトがこれこそ今まで僕が意味もなく無駄に写真を撮っていた理由だと気づかせてくれるような視点で、もうこれがあれば写真を撮ったりここに文章を書いたり建築をやったりしなくてもいいんじゃないかと思ってしまうほど。
ここにはプリントも売ってるみたいで欲しい。8万円なり。
http://www.shelf.ne.jp/limited/limited%201.html
セップリンハルトの「拳の文化史」(の冒頭での指摘)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106101114/qid=1131624610/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-2900150-9732303
韓国の学者で元文化相の李御寧の「ジャンケン文明論」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4047021032/249-2900150-9732303