スピリチュアルペイン(4)

      • -

ソンダースはいう*1.「私たちは仕事,利害関係,業績といったものに関わる必要があります.なぜなら多くの人々は彼らが行なうことで自らのアイデンティティを得るからです.しかしそれよりも考慮すべきなのは次のことです.患者の内的な関心や価値はなにか? その患者にとってこの上なく深い意味をもつものとしての,その人自身とはなにものか? その人のスピリットが向けられているのはどこか?
もし,誰かがその生をいくばくかの安らぎと満足とをもって終えることができるとすれば,それでよしという感覚を抱くとすれば(患者がそれを最終的なおわりと考えているにせよ,いないにせよ),どういったところを見すえねばならないのか.さらにいえばそれはスピリチュアルな次元であり,そこにおいてこそスピリチュアルな痛みが定義できるのではないだろうか」*2

そしてスピリチュアルな次元をあきらかにするため,ソンダースは辞書から霊 spirit の定義を引き出す.それによれば spirit は“the animating or vital principle in man, the breath of life”(人にあって,人を息づかせる,生き生きとさせる原理.生命の息)と定義される.この定義はキリスト教の spirit や生命にかんする記述にルーツをもつだろう:「その日ヤハウェ神は地の土くれから人を造り,彼の鼻に生命の息を吹きこまれた.そこで人は生きたものとなった」(創世記 2:7)*3

  • -

窪寺俊之*4によれば,この言葉は人間がスピリチュアルな存在であるという考えを語ったもの,ひいては人間存在の根拠を語ったものである.
神から生命の息(the breath of life,spiraculum vitae)を吹き込まれ(breathed,inspiravit)て人は「いきもの」となった.とすれば,生命の息すなわちスピリットは人が人として生きるときの神との関係を示している.ひいては,スピリットとは「神が与えた「自己認識」の手段」であり「「わたし」が「わたし」であることを可能にするもの」である.
そして,以下のように述べられる.

1)スピリットは,人間が人間として生きるときの神との関係を示している.
2)人はスピリチュアルな存在であるから,神との関係の中で固有性を示すのである.じつは,この関係を示すのがスピリチュアリティであり,人間が生きるための「枠組み」を与えるものである.

スピリチュアリティの本質は…,人間が生得的にもっているもので,自分の生きる意味や目的,そして死後の問題への関心であり,「人間らしく」,「自分らしく」生きるための根拠となる生の「枠組み」を,自己(人間)の存在を超えたものに求めたり,あるいは「自己同一性」を自己の内に求めて,危機状況の中でも生きる意味や目的を見つけ出し,かつ死後の世界の問題を解決して生きるための機能である.(第2章)

スピリチュアルは,人がいかなる状況にいるときにも,そこに「超越的なもの」,「究極的なもの」との関係がある点である.この世のものは,すべてが相対的なものであるが,超越的なものは質的相違をもつものである.また超越的なものは,人間がもつ有限性を超えた無限や永遠を本質とする.(第3章)

スピリチュアルペインとは,人生を支えていた生きる意味や目的が,死や病の接近によって脅かされて経験する,全存在的苦痛である.特に死の接近によって「わたし」意識がもっとも意識され,感情的,哲学的,宗教的問題が顕著になる.(第5章)

スピリチュアリティを「人間が生きるための「枠組み」を与えるもの」とし,スピリチュアルペインを「人生を支えていた生きる意味や目的が,死や病の接近によって脅かされて経験する」苦痛とする考え方は,これまで私が述べてきた考え方とほぼ同じものだと考える.なお窪寺によれば,スピリチュアルペインのあらわれとしてみられる「なぜわたしが…」という問いは,それまでの自己理解が崩れて,新たな自己理解を求めて葛藤している姿であるという.

      • -

以上.文献ではさらにマズローの欲求の階層性 hierarchy of needs の理論*5フランクルの“The Search for Meaning”*6などが参照されていた.とくにマズローについては自己実現 self-actualization というキーワードがある.
(「ところで現実態を意味する〈エネルゲイア=エルゴン ergon(作品・成果・能力の発現)に達した状態〉は中世のスコラ哲学のもとで actualitas とラテン訳され,さらにこれが近代のドイツ哲学では Wirklichkeit と訳されることになる。いずれの場合にも,現実的存在者は何ものか(たとえば神)の actus,Wirken(働き・活動)によってその状態にもたらされたものと考えられ,なんらかの超自然的原理の介入が想定されることになるわけである」.平凡社 世界大百科事典,西洋哲学の項)

      • -

*1:Saunders,C."Spiritual pain" Journal of palliative care, 1988 vol4(3),pp.29-32

*2:“For the essential person. We need to concern ourselves with work, interests, and accomplishments, for so many people identify themselves with what they do. But there is more to consider than that. What are the patient's inner concerns and values? What is the patient's own as deepest meaning for him? Where is the spirit of this person focussed? / If someone is to be able to lay down life with some degree of peace and satisfaction, where does one have to look, if one is to make some sense of it all (whether or not the patient thinks it is the final end)? Is this indeed the spiritual dimension within which we can define spiritual pain?”

*3:“then the LORD God formed the man of dust from the ground and breathed into his nostrils the breath of life, and the man became a living creature” / formavit igitur Dominus Deus hominem de limo terrae et inspiravit in faciem eius spiraculum vitae et factus est homo in animam viventem / 参考:Biblegateway.com〈http://www.biblegateway.com/

*4:窪寺俊之『スピリチュアルケア学序説』三輪書店,2004

*5:Motivation and Personality,1954.邦訳は『人間性の心理学』(産業能率大学出版)

*6:邦訳は,どうやら『夜と霧』がそれにあたるらしい.参考:北海道立図書館レファレンス通信 no.10(通巻14号)〈http://www.library.pref.hokkaido.jp/contents/dore%20bn/pdf14.pdf

何故苦しむ者に光を賜い,心悩めるものに生命を賜うか.(ヨブ記 3:20)
何故あなたはわたしを胎から出されたのか,その時息たえれば,誰もわたしを見なかったろうに.(ヨブ記 10:18)

  • -

ヨブ記を読む.以下の箇所がとくに印象にのこる.私のことがどうであれ,空は果てなく雲は高い.

  • -

天を見,よく見て,雲がいかに高きかを知れ.
君が罪を犯しても,彼に何をも加えず,君の咎が多くても,彼になんの関わりもない.
君が義くても,君は彼に何物も与えず,彼が君から何を受けるというのか.
君の悪は君と同じ人にかかわり,君の義は人の子にかかわる.(ヨブ記 35:5-8)

スピリチュアルペイン(2)

スピリチュアルペインは西洋とりわけキリスト教の思想にルーツをもつ概念であり,日本における臨床には不要な概念なのではないだろうか.また仮に,非キリスト教徒である日本人にも“スピリチュアル”なペインがあるとすれば,それはどのようなものだろうか.

続きを読む

聖書の真理は,ここ千九百年間西欧の世界を主な舞台として発揮された.…….しかし西欧文化が,聖書の真理を全体として正しく吸収し理解し生かしえたと断定することは,できない.なぜか.まず第一に,聖書はあきらかに東洋において成立した.今日なお紛争のたえまのないパレスティナ地方に,セム民族の一分派が長く定住し,そこに,古代東方一般に共通な生きかたと考えかたとが純化されて,ヘブル的と特色づけられたものをうんだ.したがって,これらは,ほんらい西欧にたいしては異質的である,東洋的生きかたに属する.聖書は,旧約聖書はいうまでもなく新約聖書さえも,このヘブル的生活と思考とがもとになって出来た文書である.
(聖書入門,小塩力,岩波新書,1955)

  • -

これまでは漠然と“西洋思想,とりわけキリスト教の思想”などと一括していたけれども,少々考えなおしたほうがよいかもしれない.

  • -

もちろん,東洋という領域の規定が困難である…….ただ,インドのような鮮明さ,日本のようなおぼろさの区別はあっても,最後の本質を「原理的」なものにみようとし,したがって「悟り」が第一義となるものと,「人格的」なものを主とし,したがって「信仰」が問題となるところとの相違は,十分取りあげられねばならない.
(前掲書)

      • -

スピリチュアルペイン(1)

緩和ケア palliative care とは,がん医療における終末期医療にみられるようなケアである.緩和ケアは全人的ケア total care であり,たんに身体的苦痛 physical pain のみならず,精神的 mental,社会的 social,そして霊的苦痛 spiritual pain にたいするケアが必要となる.――そのように講義で教わり,また教科書的参考文献に記されている.
身体的苦痛とはフツーの「痛み」すなわち画鋲を足で踏んづけたときの痛みである.精神的苦痛とは病への不安や憂鬱といった「心苦しさ」に違いない. 社会的苦痛は例えば入院費の問題だとか家族関係だとかによる「苦痛」であるらしい.いずれもよくわかる話だ.しかし霊的苦痛 spiritual pain とはなんだろう.死んだら地獄に落ちるかもしれないといったシューキョー的な不安だろうか*1.あるいはどこかに魂 spirit とやらがあって,それが感じる痛みがスピリチュアルペインなのだろうか*2

  • -

スピリチュアルペインとはなにか.教科書*3にも「霊的苦痛とは spiritual pain の日本語訳であるが,この言葉だけでは理解しにくい概念である」(p.6)とあった.
教科書によれば,スピリチュアルペインを含む全人的苦痛とは,ソンダース Saunders,C.が,がん患者とかかわった経験をもとに,患者が経験している苦痛をあらわすためにつくり上げた概念だという.ホスピス緩和医療のいわばルーツであり,ソンダースはホスピス運動の中心となったセント・クリストファーズ・ホスピタルの創始者である.ホスピスの思想・実践はキリスト教と非常に強いかかわりをもつ.ということはソンダースの提唱するスピリチュアルペインは西洋思想,とりわけキリスト教の思想と不可分に結びついたものではないだろうか.
実際,教科書によれば,ソンダースはスピリット spirit を「個人に生命を吹き込む,不可欠な根源」the animating or vital principle of an individual と述べている(p.227).この表現からはキリスト教におけるスピリトゥス Spiritus を連想する;「とくに新約聖書では,父なる神から吹発(spiratio)された第三の位格として,人を生かし,人の内に宿る聖霊 Spiritus Sanctus が啓示される」*4という*5

  • -

霊的苦痛という概念は西洋思想とりわけキリスト教に由来するものであり,日本における臨床にはそぐわないものではないだろうか.

*1:しかし,それは精神的苦痛としての不安とどこが違うのだろう

*2:こころ mind さえありはしないとされるこの時代に,なんと非科学的な.そしてまた,精神 mind と魂 spirit とはどうちがうというのか

*3:恒藤暁『最新緩和医療学』最新医学社,1999

*4:岩波 哲学・思想事典,スピリトゥスの項

*5:原文には「吹き込む」というニュアンスはあらわれていないけれども

西洋哲学史(2)

『西洋哲学史』(邦訳,みすず書房)読了.
分冊2の訳者解説によれば,ラッセルの「西洋哲学史」はおもに国家の仕組みや政治・法律・教育などの制度と哲学・思想との関連をとくに力をいれて叙述し,それらをあきらかにするものだという.たとえば中世哲学ではその枠組みをつくりだした教会や修道院制度,さらに法皇と皇帝との政治的対立の歴史などが細かく記されている.
分冊3では近代〜現代の哲学が取りあつかわれている.哲学というだけで何やら偉いもののようだと崇めるくせのあるこの読み手にとって,各哲学者にかんするページの半分近くがそれぞれにたいする批判であったことは新鮮であり,また自らがどれだけ惰性で(というよりも単なる雰囲気や権威主義によって)物事をみているか,思い知らされた.

          • -

以下,分冊3に,先日記したことと関連する興味ぶかい記述があったので抜粋(pp.582-583.).

  • -

この世界が神に創造されたとして,その神が全能でありかつ善をのぞむ性質をもつのであれば,なぜこの世界には悪がふくまれるのか.この「悪の問題」についてライプニッツは以下のように答える:

  • -

世界は論理法則と矛盾しないかぎり「可能」である.そのような世界を可能世界と呼ぼう.神は世界創造に先だちあらゆる可能世界について思索した.そしてもっとも最善なる世界,悪と善との差引勘定において善の度合いがもっとも大きくなる世界を現実世界として創造した.
現実世界には悪がふくまれている.これは大きな善の幾つかは論理的に悪と結びついているからである.たとえば自由意志という善と,それにより罪を犯すという悪である.自由意志は一つの大きい善であるが,人間に自由意志を与えてかつそれによる罪は起きないような世界を創造することは論理的に不可能だった.
このようにしてできた現実世界は他の可能世界にくらべてもっとも善が過剰にある世界,もっとも最善なるものである.それゆえ現実世界に悪がふくまれているとしても,それは悪を含まない世界を神が創造できなかったということの証拠にはならないし,神の善性にたいする反証ともならない.

  • -

悪の問題にたいするライプニッツの回答は論理的に可能ではあるが反論の余地のあるものだ.たとえばマニ教徒なら次のように反論するだろう:
この世界はあらゆる可能世界のなかで最悪のものである.世界のなかの善なる事物は悪を高めるために役だつにすぎない.この世界は邪悪なデミウルゴスにより創られた.デミウルゴスは善なる自由意志を許容したがそれは悪である罪を生じさせるためであり,罪が生じればその悪は自由意志の善を凌駕する.デミウルゴスは善い人間を創造したがそれは彼らが悪人によって罰されるためである.それはきわめて大きな悪であり,この世界を善人がまったくいない場合よりも,より悪くするのだ.

          • -