リスクを乗り切るための数学、リスクを乗り切るための確率

 

 

『確率的発想法 数学を日常に活かす』小島寛之著を読む。

 

どうも「確率」は、誤解されている。ふだん誰もが確率的判断をしているはずなのに。そこには「数学の確率理論」が「通底している」と。ならば「確率を有効利用しよう」と、作者はこの本でさまざまな事象を踏まえて、確率的発想法の「すべ」を紹介している。


そもそも確率的発想法とは何か。作者曰く「不確実性をコントロールするための推論のテクニック」。

 

たぶん、いちばんおなじみなのが、「リスクの分散」。資産運用における「分散投資」もそうだし、仕事の取引先もそう。全部同じところではなく、数社ずつ小分けにしてつきあう。そうすれば、一社がコケたとしても、なんとか被害を最小限にしておくことができる。

 

また、「人は何か勝負」する場合、「固有の癖があって、それを読まれてしまい、負けることもある」。「それから脱出するには乱数による攪乱を利用する」と。プロ野球の乱数表は、そのためだったかと、納得。

 

しかし、確率は万能ではない。作者は「インフォームド・コンセントの落とし穴」についてこう論じている。統計は平均的なデータであって、個々人で症例が異なる患者には当てはまらないと。

 

「手術が失敗したとて、成功する確率が九十%あったがあなたは残念ながら十%のほうだった、といっても患者は納得できない、という点です。患者にとって大切なのは、確率ではなく結果のほうだからです」

「このように、医師と患者の間で確率情報が交換されるとき、そこに客観と主観のすり替えが行なわれます。つまり、決して正確な情報伝達ではないわけです」

 

ふむふむ。確率の見積り方では、注目を集めている「ベイズ推定」の記述に興味を覚えた。だけど、平易に説明なんてムリな話なので、こんな使われ方ができるという実例でお茶を濁らせていただく。

 

このベイズ推定を利用すれば、ネットショッピングの場合、「消費者からの『問い合わせ』という『結果』から『購買意欲』という『原因』にさかのぼること」ができるそうだ。すなわち、それは「消費者の動向」を即時に把握することができるとか。

 

確率的発想法のフィールドは広範。本書でも経済はもとより、社会問題から環境問題までを扱ってみせている。複雑な数式も極力排除してあるとかで、どちらかというと、論理学の本に近いようだ。計算だけではない新しい数学、そのさわりを知ることができる。


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近代の日本人の「精神の歴史」を読み解く

 

 

『日本精神史  近代篇上』 長谷川 宏著を読む。迂闊にも『日本精神史』という前著があったことを知らずに読み出した。

 

在野の哲学者として知られる著者が歴史、しかも近代の日本人の「精神の歴史」を書くとは。どのようなものかと読み進む。


「はじめに」から引用。

「さて、江戸の終わりから明治の初めにかけて日本の歴史は大きな転換期を迎える。それまではやや遠くに眺めやられていた西洋の文明が、すさまじい勢いでこの極東の島国に流れこみ、日本はまたたくまに「近代」の名で呼ばれる時代に突入する」


その昔、網野善彦の『日本の社会の歴史』(岩波新書) 上中下巻を読んだが、下巻の近代になると急にそれまでの魅力が薄れてしまったことを思いだした。

 

「探求の手法は、『日本精神史』(上・下)を引き継いでいく。すなわち、日本近代の美術と思想と文学の三領域にわたる文物や文献を手がかりに、そこに陰に陽に示された精神のありさまをことばにするというやりかただ」


以下、つらつらと。

〇近代洋画の先駆者、高橋由一の作品「豆腐」や「鮭」を見ると、スーパーリアリズムの絵画に見える。「絵というものは精神のなす仕事なのだ」というのは名言。

 

〇大ベストセラーとなった『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉。「その啓蒙思想は時流に乗ってあからさまに富国強兵策・対外強硬策を推奨するものへと変質していった」。
その理由を「個としての人間一人一人を、独自の思考と感情をもつゆたかな主体的存在としてとらええない人間観の貧しさにあると思う」と手厳しい。

 

坪内逍遥二葉亭四迷が「リアリズム(写実主義)の名で呼ばれる西洋近代小説」をいかに日本文学に定着させるか。いわば産みの苦しみを知る。言文一致。二葉亭四迷三遊亭円朝の語りを参考にしたのだが。小説よりもツルゲーネフの翻訳の文体がきわめて魅力的。村上春樹がデビュー作『風の歌を聴け』で、一部英文で書き、それを翻訳したそうだが。西洋式の恋愛を掌握するのは漱石や鴎外の出現を待たなければならない。日本語のロックや日本語のラップから考えると似た図式で興味深い。

 

〇「第七章 韓国併合大逆事件」では、権力の凄まじい蛮勇ぶりに唖然とした。大逆事件で死刑となった幸徳秋水たち。結果的に生き残った堺利彦。もはや「反体制運動」どころではなかった。「堺にとって明るさを失わないようで生きることが人間的に反体制を生きることだった」この一文が滲みる。

 

〇「第八章 民族への視線、民芸への視線」では柳田国男柳宗悦を取り上げている。
「国家の主導した戦争によってもっとも大きな痛手を蒙ったのが村の人びと、家の人びとだったことからしても、地方の村や家に依拠する民俗学は、村や家の共同性と国家支配の共同性との切断と不連続をこそなにより問題とすべきだった思われるのだ」
「(柳の)民芸への愛と敬意が人びとの日常の暮しへの愛と敬意にしっかりと結びついた思索と実践は、個をつらぬいて生きるのが困難な時代に類稀な思想の強さを発揮したのだった」

 

「美術と思想と文学」を串刺しにして人びとの「精神のありさま」をあぶりだすという方法は新しく、知らなかったこと、改めて知らされたことなど、まさに、目からウロコ状態。

 

上からではなく市井の人の視線から近代を見つめる。雑誌『思想の科学』の後継といっても言い過ぎではないだろう。

 

高橋由一「豆腐」「鮭」

 

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わたしを通り過ぎた本たち

 

 


『ロゴスと巻貝』小津夜景著を読む。

 

友人の家に行くと、真っ先に目にしたいのが本棚だ。どんな本を読んでいるのか。
想像通りだったり、想像外だったり。本棚には、その人そのものが詰まっている。
他人の本棚を見るのは好きだが、自分の本棚を見られるのは恥ずかしい。裸を見られるよりも恥ずかしいかもしれない。

 

この本は、まるで著者の本棚を覗くような気分で読むことができる。それと本を述べるとともに自分の人生についても短く述べているので繋ぎ合わせると作者の人生が見えてくる。

 

まずは、本読みの言い訳(?)から。

「わたしはこれぽっちも読書家じゃないのである。そもそも本が好きなのかどうかまずもって怪しい」「なぜ本が嫌いなのかというと、読みたくても思うように読めなかった期間が長かったからだ。子どもの頃は体が弱くて、大人になってからはお金がなくて」、わたしは読書の機会をたびたび逃してきた。それで罪のない本に向かって卑屈にも「嫌いだ」と八つ当たりしていたわけである」

 

南仏ニース在住の作者にとって日本語の紙の本を入手するのは、困難かも。

 

「わたしは本に救われたことがあるのだから。これまで半生の、決して多いとはいえない宝物が本との出会いなのだから」「ただしいわゆる読書遍歴は語らないし、愛読書にも触れない」「同じ理由から良書リストを編む気もない。日々のどうってことない瞬間を拾いながら、その場でひらめいた本を添えていくつもりだ」

 

さまざまな本が取り上げられている。以下、ランダムに。

 

〇両親が本好きだったらしい。さらに母親はずっと『花とゆめ』など熱烈な少女漫画読みで母親の影響も多い。

 

〇小学生の時、自分の本を図書館の蔵書みたいにしたいと工夫してマネた。それに飽き足らず、学級文庫を提案して本を提供してもらった。集まったのは、ほとんどが、漫画本だった。

 

〇京都で大学生のとき、知る人ぞ知る古書店アスタルテ書房」でアルバイトをしていた。命名生田耕作澁澤龍彦も通ったという。作者は森ガールでもあった。瑤子じゃなくて、まゆみじゃなくて、茉莉。

 

〇漫画『ナニワ金融道』が好きすぎて大学卒業後、マチキンに就職。当時、大卒者は採用していなかった。拾われた1社に話が合う先輩、上司?がいた。ところが、入院することになる。先輩はお見舞いに京極堂の『姑獲鳥の夏』を持ってきた。

 

〇「高山れおなの私家本『俳諧曽我』」に強い衝撃を受け、俳句を作るようになる。

 

〇最初の句集を出すので銀行からまとまった額の融資を受ける。ラジオで穂村弘もそのことを話していた。句集は自費出版。それを先輩や関係者に寄贈する。それが慣行だと。サラリーマンだった穂村はなんとか費用を工面したとか。作者はSNSなどを活用して販売。評判が良く、正式に出版となる。融資も半分の期間で完済した。

 

〇カタい本もあるが、びっくりしたのは殿山泰司の本『JAMJAM日記』。この文体に著者もやられたそうな。

 

ニュートンの『プリンキピア』。さっぱりわからなかったが、「「一般的註釈」が哲学的探求」だったと。その翻訳詩にいたく感じいったので、まんま引用。

 

「プリンキピア(抄)

 

延長は神のダンスフロア
持続は神のスローモーション
主はここにそしてどこにもいる
なんだって経験している そんなスタンス

 

変わらぬパワーで全域をカバー
スペース&タイムを超えていくフロウ
空間の隅にも、至高のプレゼンス
刹那の時さえ、不変のエレガンス

 

すべてを包み込み 躍らせるけれど
神は傷つかない 物体の運動に
物体も抗わない 神の遍在に
超アクション 超リラックス それが至高のスタイル」


ニュートンは「ケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた」。授業のテキストにまだ未完の『プリンキピア』を用いたが、その先進すぎる内容にエリート理系学生たちはついていけなかった。委細構わず、ニュートンは『プリンキピア』を読む進めたという
エピソードを何かの本で読んだ。

 

巻末の「引用書籍一覧」には、おいしそうな本たちが。


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即戦力の即は、即席の即

 

 

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』竹内 洋著を読む。


教養は、たぶん、即効性がない。ところが、最近の教育は即効性を求める。大学がまるでビジネススクールのようになったのも、社会が学生に即戦力を求めるからだということになっている。しかし、即戦力の即は、即席の即、すなわちインスタントである。
企業がかつてのように若い人材を育成する余裕がなくなってしまい、スキル的にすぐ使える人を雇いたがる。

 

しかし、それじゃ、企業自体が脆弱化していく。すぐに役に立たない。というよりも、すぐに役に立つものは教養とはいえない。じゃあ、知識は。どうもこの知識も机上のものと思われ、経験と比べれば旗色が良くない今日この頃。どっちがどうと比較できないと考える者である。


本で得た知識と現場でたたき上げた経験知からの知識、刑事ドラマならこの対立図式は面白いのだが、ケースバイケースってとこ。知識と体験の根底にあるものが、教養だと考える。だって、根っこの部分が形成されていないと、知識も体験も、実にならない。
できれば、教養は小さいうちに叩き込みたい。「門前の小僧、習わぬ経を詠み」でいい。

 

ぼくが教養と聞いてイメージするのは、ヨーロッパ各国におけるラテン語の履修なのだが。あるいは「知を愛する」が本来の意味である哲学だとか。「何のためにやるの」と子どもにたずねられて、明確に返答できないくらいのものがいい。

 

悪評噴飯だった「ゆとりの教育」も-あれは生徒ではなく先生のゆとりのためという説もあるが-「教養の教育」とか銘打てば、反論も少なかったりして。なんでもかんでも悪い意味でのプラグマチックになってしまっている。学習塾は、進学のために受験テクニックを授ける場だけど、学校は違うだろ。少なくとも、公立学校は。

 

教養がないというと、またぞろ戦前の旧制中学や旧制高校を持ち出してきて「ノーブレス・オブリージェ」などエリート教育の必要性を訴えるというのも、一利あるかもしれないが、このあたりは今後の宿題ということで。


教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』竹内 洋 (著)が、参考になるかも。
ただ作者の「昔はよかった」的スタイルが、いまに通じるかどうかは疑問。

 

「夢を見る。??これこそが、教養の力なのだ」と、web草思でのエッセイ(リンク切れ)で保坂は結んでいるが、このくだりがぼくにはイマイチ理解できない。

 

一時期、お題目のように出てきた「生きる力」、これこそ「教養」とイコールで結べないだろうか。


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エッジの利いた深夜アニメのようだ

 

 

『飛ぶ男』安部公房著を読む。安部公房って実に久々。

 

著者の死後、「フロッピーディスクに遺されていた」原稿。ミュージシャンなら未発表音源(ってぼくの常套句)。『飛ぶ男』と『さまざまな父』の2篇。

 

冒頭部。夏の明け方、謎の「物体」が飛翔した。某国の飛翔体ではなく、人間だった。それが、「飛ぶ男」。目撃者は3人。主人公の「保根治 男 36歳 中学教師」「不眠症」に悩む。「仮面鬱病」と「逆行性迷走症候群」を患っている。小柄で何もかも丸いメガネっ娘。「男性不信の29歳独身女性」「小文字並子」。もう一人が暴力団員。

 

「飛ぶ男」は、保根を兄さんと呼ぶが、彼には弟は存在しない。ところが、「嘘も百回言えば真実となる」ように、弟かもしれないと思うように。「飛ぶ男」が暴行魔と勘違いされ、「小文字並子」に空気銃で撃たれ、ケガしていた。


「飛ぶ男」の職業は「スプーン曲げ」。スプーン曲げ少年?いやいや、もうオトナなんだけど。彼女はなぜか彼が逃げ込んだ保根の部屋へやって来る。

 

フィリップ・K・ディックばりの暴力とスピードと不条理と黒い笑い。延々と書かれたパンツとブリーフの違いのくだりなど。保根の目の前で起きていることは、現実なのか、持病から来る妄想なのか。なんかドラッグでラリっているシーンにも似ている。庵野秀明の映画にも通じるものが。

 

アニメーション映画『スパイダーマン:スパイダーバース』や『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』のスピーディーかつ大胆なアングルのフライングシーンをイメージした。だが、待てよ。この「飛ぶ男」、「時速2、3キロで滑空する」と書いてある。遅くね。鳥の速さをヤホー(byナイツ)したら、「1位はハヤブサ、時速180キロ」、スズメでさえ「時速45キロ」だそうだ。

 

アニメーションだと関係性が不明でも、1クール10話完結、最終話で無理やり大団円にしても、文句はつかないが、なぜか小説だとストーリーが破綻しているとか、矛盾しているとか、厳しくないか。この本は未完の書なんで、そんなことは言われないと思うけどね。

 

『飛ぶ男』と『さまざまな父』。関連性はあるので、作者が存命してたら、どう完結したのか。未完とはいえ、それぞれに、読ませる内容ゆえ、惜しいなと。『死者の帝国』のように、円城塔あたりに続きを依頼するはどうかな。と勝手に思う。

 

余談

昔、パルコ劇場で作者の演劇を見に行ったことがある。大胆なダンスパフォーマンスと音楽と舞台装置。演劇弱者のぼくは、不覚にも後半、熟睡してしまった。

 

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「今澁澤」って呼ばれてる作者の、小説デビュー作だって。どれどれ

 

 

『塔のない街』大野露井著を読む。古今東西のマニアックな文学に造詣が深くて、翻訳も名手。で、ついに小説を発表。だから、「今澁澤」(新一万円札の人ではない、念のため)という呼称がついたらしい。

 

自身のロンドン留学体験を下敷きに書いた短篇集。いろんなテイストが楽しめ、うほうほ言いながら読んだ。言ってはないけどね。

 

頃は「ルートマスター(二階建てバス)が「引退」した」あたりのロンドン。ネット検索したら、「2005年12月」だった。円安ポンド高のせいで何もかもが高い。家賃もそう。こんな部屋が、高額の値段。まるでバブル期の東京のみたい。何篇かのあらすじや感想などをば。

 

『劇場』
ようやっと部屋を見つけた「僕」。「週210ポンド、光熱費もこちら持ち」。ただし「部屋の改装はまだ途中」。いやな予感。映画を見に劇場へ行ったり、街を人々を漫然と眺めつつ、やり繰りの算段に頭を痛める。大学は出たけれど、定職にも就かず、
えいやっとロンドンへ来て見たが。ここで小説を書きたいと思うが、まだ白紙。それよか部屋の電灯が点かなくなったのをなんとかしなければ…。

 

『窓通信』
「僕」は、部屋の向かいの「建物の最上階」に住む女性の存在が気になりだす。いつも部屋のカーテンを開けている「あなた」へひょんなことで知り合った女の子に何号室かを確認してもらい、手紙を出す。まさかの返信が届く。実は彼女も「僕」の行状を覗き見していた。ヒッチコックの『裏窓』ならぬ相互覗き見。この手紙のやりとりに書かれた文面が、実にチャーミング。合間に紹介される大家のゲスぶりもなかなか。最後のオチが効いている。

 

狂言切り裂きジャック
いきなりハイランドから召集された医師である「私」。謎の男、ハイランドとバディを組んでさまざまな事件の謎に挑んできた。今回は時間移動(タイムスリップ)により1889年・ヴィクトリア朝のロンドン・ホワイトチャペルへ。そこは、かの切り裂きジャックの記念すべき最初の殺人現場だった。そして連続殺人が起こる。それはヤツの仕業なのか、模倣犯なのか。ユダヤ人バイザーに嫌疑がかかるが…。


『 舌学者、舌望に悶舌す』
ロンドンに暮らし始めてから「僕」はイギリス英語で通している。アメリカ英語ではなくイギリス英語を使えないといっぱし扱いされないとか。部屋探しで日系の不動産会社にアポを取り、物件先で待ち合わせる。たぶん年上の日本人の営業ウーマン。半地下の部屋でさえ高い!知り合いの日銀氏はエリート意識が高いが、アメリカ英語を少し話せる程度の語学力。紅茶専門店にいるアルバイトの東洋人の女性。たぶん、日本人と思うのだが、イギリス英語を話す。「僕」は官費で暮らしている官僚や研究者よりも自活している彼女の方に好感を覚える。タイトルの韻の踏み方がいい。

 

『 秋の夜長の夢 ド・ポワソン著』
憧れの地、日本へ長い船旅でやってきたド・ポワソン。案内された上野の旅館で日本情緒を満喫する。襖に何やら切れ端が見える。鳥瞰窟主人という人が書いた詩だった。あ、ひょっとして『四畳半襖の~』の本歌取りか。大英図書館の図鑑に挟まれていたものを訳した「僕」。ド・ポワソンの素性や詩についての考察が書かれるメタフィクション。この手では、田山花袋の『蒲団』へのオマージュ、中島京子の『futon』が面白かったが、本作もうまさが冴える。

 

『おしっこエリザベス』
ガリヴァー旅行記』(小人国篇)と『不思議の国リス』をマッシュアップしたような作品。エリザベスの不可思議な冒険。金子國吉か宇野亜喜良の装画入りのオトナの絵
本で再読したい。

 

『塔のある街』
パリは塔のある街だが、ロンドンは塔のない街。いやいや、漱石でおなじみの倫敦塔があるじゃないか。帰国間近の「僕」。電灯は結局、ダメだった。ようやく修理工が来たが、大家は工事OKの確認の電話に出ない。漱石のように神経衰弱には罹らなかったが、孤独と怒りに「蝕まれた」ことに気づく。「旅行社に就職した」友人が来る。最後に大家へのリベンジの手紙を出す。昔、読んだ中島義道の『ウィーン愛憎』のロンドン版ってとこだろうか。

 

下記の評論が秀逸。

web.kawade.co.jp


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読みしめたい「哲学のエッセイ」集

 

 

 

『生成流転の哲学 人生と世界を考える』小林道憲著を読む。

 

「宇宙、時間・空間、人類、芸術」など多岐にわたり、文系から理系まで踏まえた短い「哲学のエッセイ」が収められている。まずは目次を眺めて興味深いテーマから読み出すと知的好奇心を大いに刺激してくれる。読後感が、どことなく寺田寅彦のエッセイを思わせる。参考文献や人名・事項索引もあるので、さらに詳しく知りたい人には手助けとなる。

 

こんな感じ。

デカルトの自己は、世界の外に立って世界を見ている。しかし、われわれは、世界の中にあって世界を観察している。―略―しかも、この世界内主体は世界の中で行為する。―略―だから、私が在るのは、考えるがゆえにではなく、行為するがゆえである。
目を退化させたモグラも、掘りながら土を知り、己を知る。モグラデカルトに対して言うだろう。「われ掘る、ゆえにわれ在り」と」(「3 時間と空間  モグラデカルト」より)

 

「オランダの版画家、M.C.エッシャーの作品に、―略―「円の極限Ⅳ(天国と地獄)」」と題する作品がある。―略―悪魔が踊っているようにも見え、天使が踊っているようにも見えるわれわれの視点を主観と言い、天使と悪魔が折り重なっている絵を客観というとすれば、天使や悪魔はわれわれの見方次第で現われなかったりするのだから、主観と客観はいつも一つになって対象を作っていることになる。そこに現われている悪魔や天使は、単なる客観でもなければ単なる主観でもない」


量子力学のもう一つの原理、相補性原理でも、光や電子は、粒子とも見ることができるし波とも見ることができる。波として見るか、粒子として見るかは、観測者次第である。量子力学では、物質のもつ粒子性と波動性は相補的であり、しかも、両者は同時に観測されることはない。ここでは、世界は、いわば波と粒子の重ね合わせの状態にあり、われわれがそれをどのように観測するかによってのみ、現象は一定の状態に収束する。この点でも、これは、見方によって天使とも悪魔とも見られる「円の極限Ⅳ」に似ている」「6 人間について  エッシャーの多義図形」より )

 

「生々流転」ではなく「生成流転」、その哲学とは。あとがきから引用。

 

「天と地、生と死、善と悪、聖と俗、煩悩と救いなど、相反するものは相補って存在し、それらが絡み合って、生成流転する世界は成り立っているという考えである。―略―絶えることのない変化の流れの中で、すべてのものは生成する」

 

噛むと噛みしめるという言葉がある。後者の方が、より奥歯あたりにギュッと嚙む力が加わる感じ。で、読むに対して読みしめる。あ、正しい日本語ではないかもしれないが、この本は、読みしめたい本。

 

M.C.エッシャー「円の極限Ⅳ(天国と地獄)」」


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