je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

はえぎわ×さい芸『マクベス』アフタートーク @芸劇シアターイースト

2月22日(木)マチネ公演の後のアフタートーク

さい芸の高木さんが司会で、翻訳家の松岡和子先生と演出のノゾエ征爾さんのトーク

メモ書き起こしなので、細かいニュアンスなどの違いあるかもしれません。明らかな間違いありましたらコメントでご指摘いただければ幸いです。

上演台本について

松岡さん(以下松):トゥモロースピーチは今回変えている。1996年(初版の年・さい芸初演時)では「明日も、明日も、また明日も、」*1だが、今回2023年公演では「明日へ、明日へ、また明日へ」にした。

「太鼓だ!だだだん!マクベスだ。」*2カルメンに合わせてたのが良かった。原文でA drum, a drum! Macbeth doth come.>の雰囲気を出したい訳だったのでうれしい

ノゾエさん(以下ノ):高校生に向けた演出にするため、馴染みない層にも、言葉やフレーズを繰り返して刻み付ける上演台本にした。音として気持ちいいことを目指した。しかしウザくないように気を付けた。シェイクスピアに馴染みある人にも楽しんでもらえたら。

:笑いをいれる演出はどのように?

:笑いを入れようとしてはいない。笑わそうとすると面白くない。人を多面的に描くということを意識。俳優から生まれてくるおかしみが笑いになった。

シェイクスピアの作品は、初めから終わりまで深刻なのはない。笑いを取るのはシェイクスピア劇の側面。ロンドンのグローブ座は観客席が立ち見で、舞台と距離が近い。「ハムレット」などでも客を巻き込んだ形。大衆向けである。逆にプライベートシアターの劇場などは「テンペスト」など仕掛けがあるちょっと上流な雰囲気の演出をやる。

:ダンカン王の丁寧語(「側近のみなさん」「あそうなの」など)は親しみやすいキャラクター。日本の皇族のイメージ。

:2022年の試演会から大きくは変えていない。(試演会の苦労など)

シェイクスピアの大作を自分が演出すること、上演台本を作ることはとても大変だった。何も分からない状態で、松岡さんに助けてもらった。翻訳者は作家であり創作者で素晴らしい。脚色する自分は敬意を持っている。今回は松岡さんがいたのでできた。

音楽について

:音楽や歌はいい演出。マクベス夫人の歌はどういう段階で入れることになったのか。

マクベス夫人の独白パートの歌は、平常心でない状態を歌にしてみたいと思った。台詞に合わせて垂れ幕が落ちてくる演出は、台詞のいいところでリズムが切れなくて難しかった。

:マクダフ夫人のシーンで流れる歌がよい。

:「教訓1」はコロナ禍で女優の杏さんがYouTubeで弾き語りしたのを見て。

:まだ見られるなら見てみたい。

ラストシーン

松:マクベスの首が目をぎょろっとさせて、安堵の表情、白い波の中で眠る演出は、蜷川マクベスの胎児のイメージと重なった。眠りたい、という台詞は原作にはない。

演出について

:椅子は最初なかった。さい芸での試演会は素舞台。その後9台の平台を使っていた。椅子を細分化した演出へと変化した。チェスを模しているのは、人間が作ったルールや規律を壊していく。不自由さや思うようにいかないイメージ。

:椅子をつかった「ドン!」という音が印象的。椅子は社会的地位=chairという意味もある。積み重ね崩せるもの。

:さい芸のスタッフさんからネクストの「カリギュラ」のセットの椅子もあったらよいかもと提案され準備した

「両義性、曖昧な言い回し(Equivocation)」について

:「女から生まれた者は誰一人マクベスを倒せはしない」*3という魔女の予言があって、最後マクダフが「母の腹を破って出てきた」*4のでマクベスを殺せる、というくだりが分かりづらい。ゲネプロまでどうするか迷った。

:マクダフは帝王切開で生まれたというのは、通常の出産ではないという意味がある。当時は帝王切開は母親の死を意味するので、マクダフは「女」ではなく「死体」から生まれたという解釈になる。『ハムレット』のオフィーリアも死んでしまうと墓堀りの台詞で「もと女」*5と呼ばれる。死体は女ではないという前提がある。しかしそういう説明をするわけにもいかない。ややこしいからそのままにした。どういうこと?という謎のままでいい。

:「きれいは汚い、汚いはきれい」*6に代表されるように、この作品は「どうとも取れる言葉の使い方」がキーワードになっている。これは「equivovcation」という。当時ジェームズ1世の暗殺計画(火薬陰謀事件)*7があった。その時の裁判の陳述がどうとでも取れる言い方で、社会問題になった。それを反映しているので、「女から生まれた~」の予言もどうとでも取れるままでよいと思う。

その他

松:バンクォーの息子を絵にして松明にくくって二役にしたのや、きつねのえりまきの使い方などよい。場をゆるめる演出。レイディマクベスの迫力があって、マクベスが追い詰められていた。

 

(感想メモ)

  • 上演台本のお話は、昨今の原作改変の件を踏まえてお話されてたのかな、と思いました。上演台本はノゾエさんやワークショップの俳優の個性が反映されているとも感じましたが、松岡先生の翻訳あってこそ、そこを大きく逸脱しないが自由で豊かなテキレジだったと思います。
  • 火薬陰謀事件については他のシェイクスピア作品にも多く出てくる。
  • マクダフの出生についてのくだり(帝王切開、死体は女ではない等々)はいろいろなところでお話されてるのですが、文献もあったか(要調査)。

*1:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.168

*2:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.17-18

*3:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.119

*4:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.177

*5:ちくま文庫 松岡和子訳『ハムレット』P.232-233

*6:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.10

*7:火薬陰謀事件 - Wikipedia

曖昧の森で彷徨う偽王〜『マクベス』はえぎわ×彩の国さいたま芸術劇場 ワークショップから生まれた演劇 @芸劇シアターイースト

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2022年春に、さい芸がはえぎわ主宰のノゾエ征爾さんを招き『マクベス』を題材としたワークショップを実施。「演劇を見慣れていない若者に演劇の魅力を知ってもらう」というテーマの演出で約100分の『マクベス』を制作。そこから今回の本公演が実現。

松岡和子先生の翻訳をベースにしつつコンパクトにまとめられ、分かりやすく現代語に置き換えられた部分や、ワークショップの中で生まれたと思われる箇所も見られた(上演台本についての話は当日のアフタートークで語られたので別記)。

チケット取った時にC列だったので、まあまあ前の方だな、と思ったら思い切り最前列ほぼど真ん中。いやいいんですけど!嫌いじゃないけど!ちょっと恥ずいんです。

舞台には木の椅子がきっちりマス目に並べられている。床にはマス目に区切られた白線。前方にA〜Hの文字、横に1〜8の文字が記されており、チェス盤を模している。舞台両脇には長卓の上に雑然と置かれた物たち。舞台の小道具らしく、さい芸で幾度となく使われたものであろう。

舞台の一番前には白い紙が細長く引かれて、全体的に黒の舞台の中でとりわけ白く光るように見えた。

1.魔女の囁きはどこから/誰から?

開演前に女性の声で鑑賞注意のアナウンス。珍しく小さな言い間違いがちらほら、と思いきや大事なキーワードを密かに含めており(キタナイやキレイ)、まるで魔女の囁きのようだった。

芝居がまだ始まる前に魔女3人が舞台上を彷徨う。両脇の卓上の小道具で遊ぶ。球を上から入れると流れ落ちてくる円錐形の玩具を気に入ったようで、子供のように繰り返し遊ぶ。カラカラと球が周り落ちる音が響く。(もしかしたらここは日によって変わる?)

  • 茂手木桜子による魔女像

メインの魔女は茂手木桜子さんで、ワークショップ時は一人だったそう。やはり三人でなくては!という茂手木さんの希望だったということ。「3」という数字は台詞においても重要な意味を持つ*1ので、ここは戯曲に忠実だ。

茂手木さんの細長い腕と体を強調した衣装による踊りや動きはかなりインパクトがある。これは茂手木さんが映画『十三人の刺客』で演じた「両手両足のない女」を思い出させた。映画では視覚的なインパクトの強さはもちろん、かつてあったであろう手足を想像させ、その恐怖を引き起こす動きの演技だった。もちろんその手足はCGで消されているのだが、まるで本当にそこにそういう人がいるかのようで、当時のCGの甘さゆえに偽物だと気づくくらいだった。

2022年にジョエル・コーエン監督版マクベスを見た時に、キャスリン・ハンターが演じる魔女で『十三人〜』の茂手木さんを思い出した。ハンターの、荒野に巣食う蜘蛛の化け物のような不気味な動きの魔女。ハンターが茂手木さんの演技を参考にした可能性は低いが、かなりイメージが一致した。

そういえばイントロで魔女が踊る時のBGMは「めでたい‐だるま」(うた KAKATO-環ROY×鎮座DOPENESS)なのだが、茂手木さんからインスパイアされた選曲なのだろうか。この「だるま」というキーワードはラストシーンにもつながり、コミカルだがぞっとする。

  • 四人目の魔女

川上友里さん演じるマクベス夫人はかなり魔女的なイメージがあり、「四人目の魔女」ともとれた。特に独白のシーンで台詞を歌にしてミュージカル風にして、さらにその台詞を垂れ幕にした演出はエキセントリックな異化効果を感じ、マクベス夫人の狂気がすでに始まっていたと見えた。(4は日本での不吉な数字という符号は考えすぎか?)

川上さんはマクベス夫妻の主語である「私たち(We)」を強調する台詞(松岡訳における大事なポイント*2)王殺しに戸惑う夫を鼓舞する強さ、夫への熱情、夫婦の絆を感じさせる台詞もすべて戯曲どおりに伝える。

しかし「なぜあれほど強くマクベスを殺人へと駆り立てるのか?」という疑問は残る。単なる自己顕示や出世欲なのか、夫への愛情が歪になったゆえの形なのか。そしてなぜ魔女の囁きを直接聞いてないのに信じたのか(信じてはいないのかもしれないが)。もし、「魔女の囁き=マクベス夫人」の願望としたら、辻褄は合う部分がある。

魔女はいるのかいないのか分からない。予言も本当か分からない。森が見せた幻かもしれない。マクベス夫人はそれを利用しただけ。はたまた夫人の前からの願いを知っていたマクベスが、都合のよい幻聴を聞き、バンクォーにはあたかも一緒に聞いたようにいい含めたかもしれない。

今作のマクベス夫人は、マクベスを操るような怪しさも待ち合わせており、魔女とともに得体のしれないホラー的要素があった。

魔女は一人でも茂手木さんの表現力ならば成り立つかと思うが、見ていくうちにこれは三人でバランスがよいなと思った。魔女の権化のような茂手木さんの存在感、それに劣らぬマクベス夫人の得体のしれぬ怪しさは、ともすると芝居の根幹になってしまいそうであやうい。魔女を三人にしたバランスはその偏りを感じさせない効果があった。

2.脇役たちの策略

マクベス夫妻と魔女以外のキャストもたいへん印象的だ。バンクォー役の山本圭祐さんは少年のような雰囲気とコミカルな演技で、バンクォーとその息子フリーアンスを演じ分ける。フリーアンスに至っては紙に適当に描いた顔を松明にくくりつけて、腹話術のように演ずる。この演出は「若者向け」というテーマに沿っていてよい。その後のえりまきの使い方も楽しい(場面としては緊張感あるが)。幽霊で出てくるときもその小柄な体が日本ホラー的で、外連味過ぎないがちょっと面白味ふくんだ感じがよかった。

2020年にグローブ座が無料配信したマクベスも若者向けで、フリーアンスのシーンは小話パートになっていた。全体的に暗い話なので、つかの間肩の力を抜くシーンになった。

ダンカン王役の村木仁さんはおっとりした王様像で親近感があり、抜けている感じがやすやすと殺されそう感があった。ただマクベス夫人の二の腕を触るくだりは「セクハラ」をイメージしてるのだろうが、ここはキャラに合ってなかった。このセクハラ表現は、2023年のKAATの『蜘蛛巣城』(赤堀雅秋演出)や『レイディマクベス』でもあり、マクベス夫妻がダンカン王殺しの動機付けとしてあったが、戯曲上はダンカン王に瑕疵はみられない。セクハラ表現ない演出で、マクベス罪悪感を強調する方がよいのでは。おそらく若者への「こういうおじさんいるよね」的な表現なのかもしれないが。

マクベス夫妻以外の俳優は複数役を担い、椅子を動かし、場面を変えていく。マクベスはそれに従うかのようだ。俳優たちは影のように動き、主人公を策略にはめて、最後ははりぼての城の頂上に置き去りにする。

チェスの駒が動き、キングの駒を奥へ奥へと追い詰めていく。

3.孤独な偽王マクベス

内田健司によるマクベスは、ダガースピーチもトゥモロースピーチはもちろん、どの台詞も戯曲のひとつひとつ正確に発声し、そしてその体も台詞と違うことなく演技している。ある意味とても優等生的解釈のマクベスだ。

マクベスは魔女の言葉に翻弄され、王殺しに躊躇し、妻に鼓舞され、犯した罪におののく。決して強い人間ではなく、弱い。内田マクベスはその「弱さ」の表現においては他と違った。マクベスは仮にも軍人であり、男性社会の頂点に君臨しようという立場なので、その弱さを終始隠し古い男性的な強さを演じるのが割と多い(またそれも弱さだが)。内田マクベスマクベスが持つ繊細さを隠さない。マクベスの中に相反する男の見せかけの強さと本来の弱さのバランスを隠さない。

それは前述の、脇役による策略の演出に流される様、やわらかな偽物の甲冑を真剣な様子で身に着ける様、はりぼての城に破滅を予感しながら自ら上っていく様に現れる。抵抗していないかのように自然に破滅へ向かう様、それはまるで「哀れな役者」そのものではないか。荒野を彷徨うリアとは設定が逆の「偽王」のようだ。

「きれいは汚い、汚いはきれい」に代表される曖昧さ(equivocation)の表現は大事なキーワードである*3。曖昧な予言や他人の言葉に翻弄され「王」になることを、すべてはまやかしと薄々気づきながら流されるように受け入れる、そんな諦めに満ちた内田マクベスは、強さでも弱さでもどちらともとれない(あるいは両方の)演技は、まさにこのequivocation を体現していた。

おそらくこれは内田さんの持つ個性でもあると思う。たとえば蜷川シェイクスピアの常連の他の俳優がマクベスを演じるとしたら、ダガーもトゥモローも大体想像できる。朗々と大きく歌うような男性らしい台詞回し、死を強く恐れ、欲望渦巻く中で強く生きようともがく姿、コントラストのはっきりした古典的な男主人公。それが破滅へ向かう様は臨場感があり演劇的だろう。しかし内田マクベスは初めからより内的で、思索的だ。それはむしろ戯曲のマクベスを的確に表している。

4.美術・衣装・音楽

椅子を動かし、拍子木のように鳴らすシンプルなセットと演出は、この物語が嘘であり芝居だと強調する。衣装もモノトーンでシックだが、かわいらしいデザインと形状だ。ダンカン王の王冠はちょっと大きすぎるようだし、マクベスの甲冑は柔らかそうで何も守らない。何より椅子をより集めた城は子供の要塞あそびのようだ。

若者向けに分かりやすく、というテーマに沿ったであろうこれらの演出が、期せずしてこの芝居の「曖昧さ」というキーワードにつながる。嘘か真か、芝居か人生なのか、生きるのか死ぬのか。曖昧模糊とした世界をそのままに。

ダガースピーチの「幻の剣」は魔女(茂手木)によって差し出される。おもちゃのようなグレーの剣に水を垂らすと濃い色に染まっていく様を血のように表現し、殺人を終えた後のマクベス夫妻の手は墨汁の黒に染まる。舞台前面の白い紙にそれをこすりつけ黒い手形が記される様は、ここにも日本的ホラー感があった。ともすれば「分かりやすさ」から離れるようなアートな表現だが、不思議と外連味を含み、血なまぐささをすっきり表現してとっつきやすくする効果もあったのではないか。

前述のグローブ座の学生向け『マクベス』では、あえて血糊たっぷりにしたり、子供たちの興味を引くエキセントリックな演出があった。墨や陰影を血に見立てた今回の演出は日本的とも言える。カジュアルな衣装や、おもちゃを使った小道具などの演出は共通していた。

 

音楽については分かる部分だけ、下記。

「教訓1」は茂手木さん演じるマクダフ夫人が子供と共に殺される場面で流れる。現実のあらゆる戦争へのメッセージでもあり、芝居が血の流れる非道な世界であるということも気づかせる。

悪くはないのだが、さい芸の『ジョン王』の時も思ったが、日本のフォークソングシェイクスピアは合わせるのがちょっと難しいのでは。国の違いもあるが日本のフォークソングが生まれた1970年前後の雰囲気、今の世界情勢、シェイクスピアの頃、と三つの時代のつながるイメージは世代によって変わり普遍性があるかどうか疑問だ。またグローバルになった現代の若者にとっては、というとどうなのだろう。蜷川さんや吉田鋼太郎さんはフォーク全盛期が身近だったからというのもあるのかもしれない。「教訓1」はシンプルな日本語歌詞で分かりやすいが、直截的でなくてもよかったのではとも思った。

 

余談:森といえば

シェイクスピアといえば森がよく出てきまして、マクベスも動く森でおなじみの「バーナムの森」が舞台。シェイクスピアでは「庭」は「国」のメタファーなんですが、じゃあ森はどうなの?と調べてて、いろいろシェイクスピア専門の先生に聞いたり資料を掘り返したりしまして。

ブリテン諸島(UK)での森林割合って13%なんだそう。イングランドでは10%以下なんだそうです。マクベスの舞台のスコットランドが多めで19%*4

そして日本は国土の67%が森林なんだそうです。*5

英国は16世紀から17世紀の頃は木材輸出量も多かったのに、産業革命時にいろいろあって減ったそう(めんどいので気になる人は各自ググろう)。

ということでそもそも森というもの概念が日本とUKだと違うんじゃない?

そしてシェイクスピアの頃と今のUKの森も全然違うのでは?

確かにシェイクスピアだと喜劇に出てくる森はウフフアハハと恋人たちがたわむれたり、妖精だの魔女だの出てきてファンタジック。悲劇やマクベスではちょっとおどろおどろしいけど、やはり魔的な魅力のある異世界観。英国映画とかだとお金持ちがバカンスに行くし、英国の詩でも現実から離れた心休まる場所な感じ。

フランス人もバカンスは海も行くけど、山も大好き。

日本は近年はキャンプ流行りだが、どっちかというとなんにもないとこのイメージ。森はただ森なだけ。森がありすぎて「行って何かして感じる場所」というのではないのではないか。熊や猿もいるし。あとトトロとかもののけ姫などの宮崎アニメにあるように、穢してはいけない聖なる場所とか立ち入るべからすぽいイメージある。

シェイクスピアの森について日英文学比較でレポート書けそうですね。書かないけど!

☆アフタートークは別記します。

参考書籍

  • 松岡和子先生翻訳版『マクベス』。今回の公演はノゾエさんによる上演台本だが、ベースはこちら。

www.chikumashobo.co.jp

www.amazon.co.jp

 

Play out the play!~2023年観劇ベスト10

2023年舞台ベスト10 。シェイクスピアを中心に見つつも、新たな発見、素晴らしい俳優さんや演出に出会う2023年でした。

今年は劇場で見たのが24本、配信・映像が14本。計38本。うち15本がシェイクスピア作品(翻案含む)。

1.兎、波を走る(NODA・MAP東京芸術劇場プレイハウス)

野田地図は毎回がーん!ってなるんですが、今回は特に楔を打ち込まれたような。そして野田さん自身の楔も初めて見たんじゃないかなと思う。傷だらけになりながら、血を流しながら見る感じ。芝居が終わると磔になるかのような。それらをエモいなどという軽い言葉で表してはいけない。

劇場というラビット・ホール〜『兎、波を走る』東京芸術劇場プレイハウス - je suis dans la vie

2.エンジェルス・イン・アメリカ(上村聡史 演出/新国立劇場

新国立の小劇場のかたい椅子に耐えながらの二日間。今上演時間調べたら、第一部が約3時間半、二部が約4時間でした...。8時間耐久レースか、鈴鹿なのか、はたまた演劇フジロックか。とはいえよかった。作品も俳優も演出も。なかなか再演難しいと思うがまたいつか見たいです。新国立劇場は早く椅子をなんとかしてください。

終わりの始まり:起~『エンジェルス・イン・アメリカ』第一部「ミレニアム迫る」新国立劇場小劇場 - je suis dans la vie

「祝福せよ」は聖なる祈りか禍々しい呪文か〜『エンジェルス・イン・アメリカ』第二部「ペレストロイカ」新国立劇場小劇場 - je suis dans la vie

3.星の王子さまサン=テグジュペリからの手紙―森山開次 演出/KAAT)

ダンスと音楽で綴る星の王子さま。心が洗われる体験だった。アオイヤマダさんの王子さまはもちろん、言葉を超えた踊りの表現は、世界で一番翻訳されている「星の王子さま」の新しい翻訳。美術も衣装も、そして音楽。唯一声を発する坂本美雨さんの歌が舞台に溶けるようなしなやかさ。

4.ペリクリーズ(中屋敷法仁 演出/演劇集団円

中屋敷法仁さんのキレキレでスタイリッシュな演出。衣装、美術を濃いターコイズブルーでまとめ、コンテンポラリーダンスのような振付で目にも楽しく。膨大な台詞、奇想天外な旅物語を分かりやすく楽しく。クルーズに出たような爽快感。

5.『L. G.が目覚めた夜』~ロリエ・ゴードロが目覚めた夜~ (山上優 演出/国際演劇協会日本センター 戯曲翻訳部会/Tokyo concerts lab.)

リーディング公演。ケベック戯曲。詩のように研ぎ澄まされたテキスト、熟練のキャスト、笠松泰洋さんの即興ピアノ演奏と台詞のマリアージュとみどころ満載。インプロヴィゼーション的表現の驚きときらめきがあったのはリーディングという形式ならではかも。

グザヴィエ・ドランが製作したドラマ『ロリエ・ゴドローと、あの夜のこと』の原作。ブシャールは『トム・アット・ザ・ファーム』原作者。 ドランが演じたエリオット役の玉置祐也さん(演劇集団円)が好演。

6.ハムレット野村萬斎 演出/世田谷パブリックシアター

多くはないけどいろんなハムレットを見てて、これはちょっと別格。萬斎さんのクローディアスは魅力的すぎるなあ。ハムレットだけでなく野村萬斎シェークスピアシリーズやらないかしら。あと完全狂言様式のハムレットって難しいのかな。見てみたい。

7.『尺には尺を』&『終わりよければすべてよし』(鵜山仁 演出/新国立劇場

新国立劇場シェイクスピアシリーズ。ダークコメディを交互上演。両作ともシェイクスピア後期の「問題劇」とされ、解釈が難しい。コメディだがハッピーエンドでもなくバッドエンドともいえない。両者ともベッドトリックが使われるのも問題作たる所以。そしてどちらも主人公が女性で、精神的に自立して意思が強い。

今回の演出ではフェミニズム観点を強く打ち出しており、現代における最適解といえるのではないでしょうか。最後まで意思を貫き戦うイザベラ(尺尺)を演じたソニンさん、たおやかさと芯の強さのあるヘレナ(終わり~)を演じた中島朋子さんは現代的な女性像。それを支える那須佐代子さんの助演には、戯曲と現実をつなげるようなシスターフッドを感じました。

女性が魅力的なプログラムでしたが、男性キャストも素敵。アンジェロ(尺尺)を演じた岡本健一さんはは特に戯曲をより深めた解釈と、戯曲を超える魅力&色気でした。フランス王(終わり~)もコミカルでかっこいい王様!バートラム(終わり~)の浦井健司さんも凛々しく上品ながらもコミカルなダメ男。わきもキャスト同士のきずなの強さを感じました。亀田佳明さんいいですね。

そして新国立劇場は早く椅子をなんとかしてください(二度目)。

8.ヘンリー四世(G.GARAGE////ウエストエンドスタジオ)

河内大和さん率いるG.GARAGE///(ジーガレージ)の「シェイクスピア道シリーズ。前回のリチャード二世と同じく、細長い花道を舞台に、セットも最小限のコンパクトな舞台。ただし前回は花道の先を正面にしてコの字に客席が囲む形だったが、今回は花道の両脇に客席配置で、どちらも正面になる。

そんな風に毎回少しずつ変化はあれど、和的な衣装や、最小限の小物やセットなど、ひとつの型ができつつあり、今後も続けてみていきたいプロダクション。

河内さんのフォルスタッフかわいかったー!

9.眠くなっちゃった(ケムリ研究室/世田谷パブリックシアター

久しぶりの舞台俳優・北村有起哉さんでした...ありがとうケラさん。やっぱり舞台の北村さんは格別。

3位の『星の王子さま』、4位の『ペリクリーズ』でも感じたのですが、コンテンポラリーダンスなどの表現を駆使した演劇が最近すごい好き。

コントロールできないのは夢も現実も同じ〜ケムリ研究室No.3『眠くなっちゃった』世田谷パブリックシアター - je suis dans la vie

10.金夢島(太陽劇団東京芸術劇場プレイハウス

海外からの演劇は最近やっと見られるようになりうれしいところ。ここの劇団の制作方法は難しい面もあるが、今の日本の演劇であんまりない気が。現地での公演も見てみたい。

演劇は世界に何をもたらすのか~太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』東京芸術劇場プレイハウス - je suis dans la vie

 

次点:『ハートランド』(ゆうめい)、『蜘蛛巣城』(赤堀雅秋)、『レイディマクベス』、『たかが世界の終わり』(テアトル新宿・配信公演のスクリーン上映)

  • ゆうめいはテキストすごくよくて、ただ自分の中でまだ演劇が続いてる感じがありランキングに入れませんでした。戯曲、配役、美術、演出、すべてこれからも続けて見ていきたい劇団ではあります。
  • 藤原季節さんの出演作品を2023年は3作(『祈冬』、『たかが世界の終わり』、『人魂を届けに』(イキウメ))見ました。
  • 玉置祐也さんの出演作も3作(『ペリクリーズ』、『犬と独裁者』(劇団印象)、『L.G.が目覚めた夜』)見ました。

2022年は「俳優目当てで芝居を観ない」というしばりを設けてましたが、藤原季節さん、玉置裕也さん出演の作品はすべてよかったので今後このしばりは緩めます。2024年も基本は「シェイクスピア作品」を中心に観劇予定。

Murder on the film~2023映画マイベスト

遅ればせながら(書いてるの3月...)、2023年の映画マイベスト。

1.イニシェリン島の精霊

見たのが2023年の1月だったのですが、不動の一位でした。物語もアイルランドの美しい景色もコリン・ファレルの困り眉もロバのジェニーもすべて完璧。そして何より私のバリー・コーガン愛を確固たるものにしました。マクドナーパイセン、バリーをこんな風に撮ってくれてありがとう!

私の鑑賞時の感想はこちら☟(※ネタバレあり)

ロバの名前はジェニーだよ!〜『イニシェリン島の精霊』 - je suis dans la vie

2.コンパートメントNo.6

ひとり旅をする若い女性の映画はだいたい名作。ってことはないとは思いますが、やはり危険であるという前提のもとに見ているので、主人公がだんだん緊張がほぐれていくとともにこちらもあたたかい気持ちになっていく感覚が。そして今はこんな撮影はできないということを思うと複雑な気持ちにも

私の鑑賞時の感想はこちら☟(※ネタバレあり)

ボンボヤージュボンボヤージュ~『コンパートメントNo.6』シネマカリテ - je suis dans la vie (hatenablog.com)

3.Saltburn

アマプラ配信。配信はランキングに入れないようにしてたんですが、これは!今のバリー・コーガンのすべてがつまっているのです。マイベストバリーは『聖なる鹿殺し』ですが、今作も周りの人を取り込んでいく魔的な魅力満載。『聖なる~』で『テオレマ』を思い出したのだけど、今作も『テオレマ』、あと『太陽がいっぱい』ぽさが。エンディングの「Murder on the dancefloor」がここんとこずっと頭の中でリフレインしております。

Amazon.co.jp: Saltburnを観る | Prime Video

4.ぼくたちの哲学教室

北アイルランドベルファストの小学校のドキュメンタリー。哲学を子供たちに教える校長先生、子供たち、周りの教師や家族、ベルファストの暴力の歴史、コロナ禍。教育とはなんぞや、知識はなんの役に立つのか、そしてそれは人をどのように救うのか?というのを分かりやすく、そして決して押しつけがましくなく。

そういやアイルランドは「個人GDPが第3位まで上がったのでテロが減った」っていうのがあって、政治の力で格差を減らすのが一番いいんだね、という話を映画友がしてて。

5.別れる決心

パク・チャヌク監督、サスペンスには美しい映像が必須とよく分かってらっしゃる。ラブストーリーとしても秀逸。韓国映画はそんなに見られてないのですが、近年さらに成熟してきた感じが。ヌーヴェルヴァーグヒッチコック的な引き算の美。パク・チャヌクイ・チャンドンホン・サンスはチェックしていきたい。

6.帰れない山

山に魅せられた二人の男の人生。友情も超えるかのような魂の縁。それを東洋的な宗教観のイメージにつなげる映像美が小説的。ありきたりなブロマンスとはまた違ってよかった。

7.すべてうまくいきますように

フランソワ・オゾンは間違いがない、安心して見られる。今作の安楽死という難しいテーマも難なく。しかし親子と長女ものは身につまされて個人的にはつらい。

私の鑑賞時の感想はこちら☟(※ネタバレあり)

コーディリアのいないリア王〜『すべてうまくいきますように』Bunkamuraル・シネマ - je suis dans la vie

8.ジェーンとシャルロット

ジェーンが亡くなってすぐのタイミングだったこともあり、ジェーンの映画として扱われているのが主でしたが、私はシャルロットのファンなので「その母親」として見てきたせいか、終始シャルロットの視線、思い、背負ってきたもの、傷についてずっと考えてました。親子、とりわけ母と娘というのは複雑なのでしょうが、娘が背負うものが大きすぎて。

近づいては離れ~『ジェーンとシャルロット』(Jane par Sharlotte)渋谷シネクイント - je suis dans la vie

9.裸足になって

アルジェリアバレリーナを夢見る少女の物語。内戦後のアルジェリアの姿と問題をベースに、ろう者のダンス表現を通じて、そこに生きる人々の思いを映画にこめた作品。主人公を演じるリナ・クードリは内戦でフランスへ渡ったアルジェリア移民の女優(『フレンチ・ディスパッチ』で好演)、製作総指揮が『コーダ・あいのうた』でアカデミー助演男優賞を獲得したトロイ・コッツァ―ということもあり、社会的問題も手話言語をダンスに入れることも、分かりやすくしてはいるが決して軽はずみに扱ってはいない良作。

10.ザ・クリエイター 創造者

なぜギャレス・エドワーズ監督にスター・ウォーズのEP7~9を撮らせなかったのか…。というかこれがニューエイジのSWでいいと思う!撮影もEP4のSW見た時の感動を思い出したし。ジョン・デイヴィッド・ワシントンは追いかけられる役とか妻を失う男の役がレオ様なみにはまるわよね~。ジェンマ・チャンも良かった。

 

映画館で見た:78本

配信等:合計115本(アマプラ50本、ネトフリ34本、他6本、Myfff 25本(短編含)

合計:193本

 

次点:ノベンバー、シャドウプレイ完全版、ボーンズアンドオール、EO、苦い涙、聖地には蜘蛛が巣を張る、それでも私は生きていく、aftersun/アフターサン、クロース、オオカミの家

演劇は世界に何をもたらすのか~太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』東京芸術劇場プレイハウス

太陽劇団『金夢島』

あらすじ(公式より)

時は現代。病床に伏す年配の女性コーネリアは、夢の中で日本と思しき架空の島「金夢島(かねむじま)」にいる。そこでは国際演劇祭で町おこしを目指す市長派とカジノリゾート開発を目論む勢力が対立していた。夢うつつにあるコーネリアの幻想の島では、騒々しいマスコミや腹黒い弁護士、国籍も民族も様々な演劇グループらが入り乱れて、事態はあらぬ方向へと転がっていくのであった……。

太陽劇団 (テアトル・デュ・ソレイユ Théâtre du Soleil)について

創立者で演出家のアリアーヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)が主宰する太陽劇団。1964年に創立され、もうすぐ60年を迎えるフランスの老舗の劇団。他民族・多国家の劇団員から成り、「集団創作」というスタイルで知られている。パリ郊外のヴァンセンヌの森にあった旧弾薬倉庫(カルトゥーシュリ)を活動拠点としている。

今回初めて観劇したのだが、確かに個よりも集団を意識した作品作りだった。主役のコーネリアという女性はいれど、彼女は案内役であり大きな軸というわけではない。彼女が見る夢が入れ子構造のように舞台上に引き出されていく。いったい何人俳優がいるのか。今回は日本の能や歌舞伎などの日本的舞台様式を模しており、黒子や能面的な肌色のマスクなどで俳優の特徴や個性が分かりにくいため、集団としての動きが目立った。場面転換では大きな装置を動かしているのだが、転換の素早さはもちろん、足音やセットの移動音をほぼ感じさせない技術が素晴らしかった。演出や音響もあるが、転換含めて間合いで観客の集中を途切れさせないのは、劇団を長く続けていることと、その創作スタイルが所以であろう。

アリアーヌは1939年生まれで、ナチス占領下のフランスを経験している。うちの父と同い年の84歳ということだが、そのパワーに圧倒された。

スペクタクルな演劇世界

あらすじの通り、病床のコーネリアが日本にいると勘違いして、その夢の中の話を黒子的なポジションの守護天使の男に話している。その夢うつつの舞台が「金夢島」なのだが、演劇祭の人間関係や政治的あれこれはかなり日本的で、実話なのかなと思ったり。

現市長と反対派とか、カジノリゾートを目論む外国人とか、村的な人間関係、過疎化問題、などなど。一応ここが「物語」として流れてはいくのだが、テレ東の2時間ドラマぽいなと思っていた。元ネタはなんだったのだろう。

物語軸よりも、演劇祭に参加している各国の芝居が練習風景として差し込まれていくのだが、こちらの方が見ごたえがあった。香港の劇団は独立運動を、中東の劇団は宗教と人種で分断された歴史を、人形劇団は新型コロナが中国で発生した際の中国の対応を皮肉たっぷりに、アフガニスタンの劇団やブラジルの劇団も。時事を切り取ったり、戦争の悲劇を描いたり。全体主義や独裁への批判的目線が主だった。

日本の市民劇団のシーンは大衆演劇的な表現で、歌舞伎や能を模したものよりこちらの方が日本的な部分をよく表現してるなと思った。大衆演劇の方が太陽劇団との共通点が多いからしっくりくるのかもしれない。

『夏の夜の夢』に出てくる『ピラマスとシスビー』の引用や、聖書の「放蕩息子の帰還」、能・狂言・歌舞伎の引用はもちろん、日本的なセットや背景の浮世絵など、あらゆる物語やモチーフが咀嚼する暇なく繰り広げられる。見ているだけで精一杯だったが、それだけでも楽しい舞台だった。何故かヘリコプターに乗るダイナミックな演出があり、ほぼ話の筋には必要ないのだが、フランスのナントの「ラ・マシン (La Machine)」のパフォーマンスぽくて楽しかった。つくりものの舞台で見せる夢、という表現にぴったりだし、遊び心がある。

日本を愛する異邦人が見たファンタジーとしての日本

アフタートークで能、狂言、歌舞伎、太鼓などは実際に指導を受けたという。あいにくコロナ禍で大変だったそうだが、Zoomで専門家からしっかりトレーニングされたというだけあり、かなり丁寧に作っていた。あくまで太陽劇団としての表現なのだが、デフォルメしすぎたり、外連味強かったり、人種的な笑いに転じたりというのは感じなかった。

基本フランス語の台詞に字幕上演で、日本人にも分かりやすくするためなのか、フランス語の台詞まわしも比較的ゆっくりで聞きやすく理解しやすい。日本語台詞も相当練習したのが分かる。他の国の言語も多国籍劇団らしく、うまく散りばめていた。

人種的な表現がまったくなかったわけではない。フランス人が裸でうろちょろするとこは、日本とフランスの違いを面白おかしく表現していた。ここはちょっと自虐ギャグ?

肌襦袢をつかった裸体の表現は、昔のドリフぽさもあり、大人計画でこういうの見たことあったので、オリジナルでなくてどこか日本の劇団とかから拝借したのか。

全体的にアリアーヌもしくは劇団から見た日本像なので、日本であって日本でない世界を見せられてる面映ゆさはぬぐい切れない。「こんなに好きになってくれてありがとうね~」とは思うのだが、そうかこういうところに惹かれるのか、という不思議さが先立ってしまうのだ。フランスの公演時はどういう反応だったのか。

この面映ゆさは『アメリカン・ユートピア』と『フレンチ・ディスパッチ』を見た時に限りなく似ていた。前者は「白人が描く多民族文化」で、後者は「アメリカ人の見たフランス文化」みたいな感じ(でいいか自信ないがとりあえず)なのだが、表現としてのすばらしさよりも、現実とのずれの方が気になってしまうのは私だけではないと思う。

とはいえ日本も散々海外への憧憬を、愛という免罪符で時に素っ頓狂な表現でアートや文化に出しまくってきたので、よその事はいえまい。

仮面の使い方について

アフタートークの質問で「仮面は人種的ステレオタイプのように感じる」というのがあり、アリアーヌさんがショックを受けていた。「能面をオマージュしたもので、日本への愛を表現しています」とのことだった。

私も実は最初この仮面表現に違和感があった。コーネリアやフランスにいる現実世界の登場人物は仮面はなくそのままだが、夢の中の登場人物は全員仮面をかぶっている。日本人役だけでなく、外国人の役も同じものを被っているので、日本人を模しているわけではない。

仮面マスクは肌色で目と鼻の穴と口のところだけ穴があいている。肌色でストレッチ素材なので、厚手のストッキングを顔に被っているようにも見える。ストレッチ素材のためか、鼻の凹凸が消えて、少し目も小さく見えてしまうので、いわゆるアジア的な顔を表現していると勘違いしても仕方ないかもしれない。表情も消してしまうので、よく揶揄された「アルカイックスマイル」も思い出してしまった。

能面を模したのであれば、本当の能面のような硬質なタイプにするとか、お祭りのお面的なものでもいいかも。多分マスクは使いやすさを優先していて、人種的意図は全くなかったであろうが、使用した意図はもう少し掘り下げてもとは思った。

個人的には多国籍な演劇世界を表現してたので、人種や国にとらわれない世界を表現するための道具として、というようならよかったかもと思った。

「ブラックフェイス」の問題もいまだあるので、アジア圏の表現の問題は今後いろいろ出てくるだろう。

演劇による「美」は世界に「和」をもたらすのか

終演後のアフタートークはアリアーヌさんと、東京芸術祭総合ディレクター・宮城聰さん。通訳さんと劇団員も壇上に。

冒頭、宮城さんが「演劇による美は世界に和(平和)をもたらすのか」という、なかなか難しい問いを投げかける。宮城さんは「それについては自分は疑問がぬぐえない、それを言ってしまうのは傲慢ではないか」と常々思ってたそうだが、太陽劇団の公演を見て、アリアーヌさんの意見を聞きたかったのだという。

それについてアリアーヌさんは

ドストエフスキーが美が世界を救うと言っていた気がする。美は気持ちよいもの、しかし平和を望んでいない人にまで和をもたらさない。ナチスも音楽や美術を楽しんでいた。しかし、美を探求せずに制作はできない。美=和でなはい。」

「美は問題を解決することはできないが、人々を落ち着かせることはできる」

というとても芯の強い言葉が返され、宮城さんも楽しそうにうなずいていた。

その後「宮城さんのいう傲慢であるというのはよく分からない。どういうこと?」

とアリアーヌさんが問い詰めてて、宮城さんがあわわとなり。

アリアーヌさんは否定的な意見を受けるのが苦手というより、劇団として確固たるスタイルがあり、自分の表現への哲学があり、そこに自信があるのかなと思った。

それ以外にも

  • 演劇という道具で戦うという事は特権。人々に生きる喜び(美しいものや静かな時間)を与えること。
  • 絶望するためにやっていない。絶望と戦うためにやっている。
  • 公金をもらって、観客にチケットを買ってもらっている。
  • 演劇とはオアシスだが、現実を否認するものではない。

など印象的な言葉が多かった。フランスはナチス支配下にあった影響で全体主義や独裁主義への拒否反応が大きい。また議論したり市民が権利のために戦う文化が根付いている。漠然とした美というより、もっと現実につながった表現やアートへの意識が強い発言が多く、この辺は日本と違う部分かもしれないと思った。

Q&Aではあまり時間もなかったのもあって、細かいところまで聞くことはできなかったが、観客側の質問も幅広く盛り上がった。

「感謝」「癒し」「悟り」という言葉がランプに書かれていて、その意図は?という質問があったが、わりと感覚的に選んだようであった。電話の表現の効果や、鶴の意味なども、観客が思うほど深く掘り下げていたわけでもなかったようだった。

観客側は、特に異文化の観客は言語化することで意味を求め納得したいのかもしれないが、舞台上にあったものがやはりすべて、というのはどの演劇にも言える。

この劇団が持つ「感覚的な鋭さ」というのはまさに演劇的で、舞台でしかないものだった。「賛否どちらにせよ、もっと観客側も感覚を鋭くせねば、真の和はもたらされない」とでも投げかけてくるような刺激を受け取った公演だった。

 

  • 東京芸術祭総合ディレクター・宮城聰さんのコメント内にアリアーヌさんの発言の引用あり。

tokyo-festival.jp

マクベス夫人とはいったい誰だったのか?〜『レイディマクベス』よみうり大手町ホール

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ベースはもちろんシェイクスピアの『マクベス』。こちらはマクベス夫人ことレイディ・マクベスを主役にした、現代の架空の国の戦争の物語。一心同体のカップル、絶え間ない戦争、男に傷つけられる女、支配者と兵士、世襲、母と娘。新しいテキストに散りばめられた新たな世界の中で、天海祐希が「穢いは綺麗、綺麗は穢い」を体と言葉で換骨奪胎する。

キャリアに悩む女性としてのマクベス夫人

レイディマクベス天海祐希)は元戦士で、マクベスアダム・クーパー)とかつては共に戦場を生き抜いてきた同志でもある。しかし出産によって体を痛め、今は家庭で夫マクベスを支えている。その夫も、長びく戦争で心身ともに衰弱している。命をかけて産んだ娘(吉川愛)に対しては、自分のキャリアを奪った存在として見てしまっているのか、レイディの態度は冷たい。

レイディはマクダフ(鈴木保奈美)やバンクォー(要潤)に、かつての戦場での功績や苦労を自慢する。どれだけ自分は素晴らしい戦士だったか。その横で言葉少ない元同僚のマクベスと戦士レノックス(宮下今日子)は、いまだ続く戦争に緊張が途切れていない様子だ。

レイディがダンカン王(栗原英雄)殺しへ傾いていく気持ちの流れは、彼女の「仕事のキャリア」への未練に端を発している。一心同体の夫へその思いを託しているが、夫はそのプレッシャーに耐えかねており二人はすれ違う。やがて燻ぶり続けたレイディの野心と欲望が、歪に積み重なっていったための悲劇、という設定だ。

職場のセクシャルハラスメントや性差、仕事と家庭のバランス、女性のキャリア、現代における問題を盛りこんでいる。女戦士レノックスも「妻」がいる設定で、同性婚もあるようだ。

マクベス夫人がなぜあれほどまでに夫を王にしたかったのか?という部分を現代的に分かりやすくしたところはある。

現代に寄せつつ、欲望に翻弄される人々の狂気の芝居が、原作戯曲を踏襲する。また『ホロウクラウン』のように王冠に呪われる世界も。それでもシェイクスピアとは全く違う、新しい物語ではあり。もしシェイクスピアが現代にいて書くとしたら?というような視点もあった。

レイディを取り巻く人たち

マクベス役のアダム・クーパーは英語台詞と日本語台詞の両方あったが、あまり話さない設定になっている。これは戦場でPTSDを負ってしまった影響とも取れるし、また「男性らしさを強要された男性ゆえの苦悩」という、そちらも現代的な問題を反映している。

ただせっかくアダム・クーパーをキャスティングしたのだから、もうちょっと台詞あってもよかったのでは?一人英語台詞にして、日本人キャストとの差異を際立たせることで、マクベスの孤独や夫婦のコミュケーション不和を表現するのもありだったのではと思う。英語台詞で娘が父の言葉を「翻訳」するシーンがあったが、意訳にしてて、そこは微妙なずれが面白かった。マクベスが本当に言いたいことをいくらか分かってるのは、娘だけというようにも捉えられた。日本人観客の多くが英語が分からない、という弊害あれど、字幕にするとか、思い切って観客に分からないのを演出にするのもありだったと思う。

魔女はいつ出てくるんだ?と思ったら「マクダフ、バンクォー、レノックスの顔を持った幽霊(レイディが戦場で殺した敵)としてレイディの前に現れる」という二役設定になっており、ここはうまいなと思った。

娘の存在はラストへつながるし、レイディの苦悩の原因となる新たなキャラとして効果的だった。彼女が事の流れを振り返るようなモノローグで、物語の案内をする。この名のない娘は、物語の外側にいることがあるために、まるで彼女の存在は透明な幽霊のようでもある。

 

(※下記、本作のラストのネタバレに触れていますのご注意ください)

帝王切開の悲劇

最後はレイディは、王になったマクベスが衰弱しきって戦場への指示が出せなくなったのを見て撃ち殺す。レイディは王冠を受けるが、片割れである夫を失ったために狂う。そして母親を娘がその銃で殺し、娘が王となる。

ここは原作における「女から生まれたものはマクベスを殺せない」という「帝王切開トリック」から来ている。原作では「自然分娩でなく母の腹を破って(帝王切開)生まれたマクダフがマクベスを殺す」のだが、ここでは「母の腹を裂いて出てきた娘がレイディを殺す」というラストになった。

(※帝王切開での出産は昔は死ぬことを意味していたので「女から生まれた」のではなく「死体から生まれた」ことを意味している。帝王切開=女から生まれていない)

ここもレイディが女たる所以の悲劇となっており、最初から最後までレイディは「女」であることを枷としているのは、テーマとしては統一はされているが、個人的にはしっくりこない部分だった。天海さんが強い女性を演じ、その中にある問題を彼女が発するのはたいへん説得力があるのだが、もし本当に現代的にするのならば、性差における問題を悲劇のままにオチにするのはどうなのかと思った。

一心同体のマクベス夫妻

パンフでは松岡和子先生の「マクベス夫人には名前がない」ということについての解説があり、新たな視点と解釈が広がる。また文庫本の訳者解説にも、マクベス夫妻の一人称複数表現「We(私たち)」について書かれているので併せて読むと大変面白い。

マクベス夫妻は愛し合う一心同体のカップルで、分かちがたい絆で結ばれている。他のシェイクスピア作品に比べても、これだけ「カップル」がフィーチャーされてるのはそうそうない。

松岡先生の訳と新解釈により、マクベス夫婦がニコイチだったことが証明され、この上演にも反映されている。

マクベス夫人とはいったい誰だったのか?(個人的な解釈)

マクベスとレイディが同等な関係にあり、他のシェイクスピア作品に比べると新しいカップル像を表現したのであれば、当時としてはかなり斬新であったと思う。

その中で、ではシェイクスピアは果たして男女の同等を表現したかったのか?というと時代的にちょっと違うのかもという疑問に当たる。

「私たち」を主語にすることで二人を主人公にする、新たな表現だったのかもしれないし、夫婦愛を描きたかったのかもしれぬ。

私がこのところ思っているのは、シェイクスピアは創作の上でノンバイナリーな側面があったのでは?ということである。作家が「異性」を描くときにどういうアプローチをしただろうか、ということを考える時に、ざっくり2つに分けると、「自分の外側にある理想または現実の異性像」を描く人と、「自分の中にある自己としての異性」を描く場合がある。シェイクスピアは後者に近い気がするのである。

十二夜』『間違いの喜劇』などで異性装が出てくるのは、当時の男性俳優のみの上演ゆえの演出というのが大きな理由だ。一人何役もするので、そこをトリッキーに演出に組み込んだ創作だったろう。しかしそれを難なく表現したのは、創作者としてのシェイクスピアの中では、ジェンダーへの境が曖昧な部分があったのではないか?という気もする。

マクベスの場合は、夫と妻が表裏一体で、実は一人の人間だった、という解釈もありなのではないか。マクベス夫人は、マクベスが殺人を実行するために作り出したもう一つの人格、というとらえ方もできる。戯曲で夫人の死は言葉によってしか表現されない。あれだけ存在感あるのに、彼女の死は説明台詞でしか語られない。そこで存在が曖昧となるのは、もともと存在しなかったからでは、という解釈もできる。魔女や幻がたくさん出てくるからありえなくはない。

あるいは女性を主役に書きたかったが、いろいろあってできなかった、というのもあるかも。この辺りの解釈は他の作品を読み込んで、考えてみたい。

コントロールできないのは夢も現実も同じ〜ケムリ研究室No.3『眠くなっちゃった』世田谷パブリックシアター

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あらすじ

近未来の架空の国。人口は減り、気温は下がり、食物は少なくなり、人々は中央管理局なるものに監視・管理されている世界。

娼婦のノーラ(緒川たまき)は夫ヨルコ(音尾琢磨)と暮らしている。住んでいるアパートの大家・ダグ(福田転球)の妻.・ウルスラ犬山イヌコ)らの家族、アパートの住人、娼婦の仲間たちも、抑圧された日々に慣れつつもなんとか生き抜こうとしている。ある時ノーラの元に新しい指導観察員・リュリュ(北村有起哉)がやって来る。

日々の小さな変化がそれぞれの生活に影響を及ぼしていく。

コラージュされたディストピア世界

近未来ディストピアでSFな設定。しかしテクノロジーが進化した社会ではなく、むしろ技術は後退している(あるいは制限された)かのよう。レトロな雰囲気が昔のSF映画を思い起こさせる。

アパートの雰囲気や近隣の音が聞こえてきそうなダクト、「なんの肉を食べてるか分からない」というカニバリズムを想像させる台詞は『デリカテッセン』的世界観。全体的には『ラ・ジュテ』を思い出した。パンフではそれは出てこないが、主に参考にしたという『未来世紀ブラジル』のテリー・ギリアム監督が撮った『12モンキーズ』の元ネタは『ラ・ジュテ』である。リュリュがノーラに固執するところは、よくあるファムファタルものではあるが『ラ・ジュテ』ぽさがある。

ナイフ投げのくだりはまさに『橋の上の女』。ストーリー自体はそれらの映画とは関係なく、ところどころの雰囲気や手触りが、そのものずばりなぞるというより、モンタージュやコラージュのようにバラバラに切り取ったものをパズルのようにカンパニーの世界にはめて、さらに彩っている。元ネタを知らなくても世界観をたっぷり楽しめるが、映画好きだとおや、と思うところが多かった。

これは現代映画の中で名作をオマージュするというのも違っていた。その場合どうしてもオリジナルの方が勝つからである。今回はトレースの跡は感じられず、演劇だからできるのか、ケラさんだからなのか。

引き込む声、恐怖の演技、ステージングの妙

削ぎ落とされたテキストのシンプルさが、俳優の演技をより際立たせる。

脚本の質の高さも起因するが、俳優の声がより生かされる演出でもあった。

奈緒さんの可愛いけれど決して媚びてはいない強さの声、母性的で優しいけれど悲しみも感じる犬山イヌコさんの声、などなど。

そして声が脚本でも大きなキーになっているのだが、北村有起哉さん演じるリュリュの奥さんの「声」を、実際の北村さんの奥様が声だけ出演している。設定も含めて、なかなかエモいシーンだったので、ケラさんぽいのか?ぽくないのか?おおっと思いました。

演技については芸達者な方ばかりなので当たり前だが、むしろその演技の高さはあえて控えめに演出されていたと思う。コメディにせず「笑い」を封じたために、それを武器とする俳優さんらの新たな面が引き出されてもいた。

山内圭哉さん、福田転球さんなどはいくらでも笑いを取れる俳優だが、あえて抑えていることで元々の演技の良さ(怖さ)が分かる。近藤公園さん、野間口徹さんらはコメディなら「ボケ」のポジだが、「ツッコミ」がない事で淡々とした空気が強く出て、こちらも怖さがある。

そう、笑いを抑えると「怖さ」に転じる。何かを制限されている、抑えている、というのは恐怖を引き出す。

松永玲子さんと山内さんのシーンは唯一2人とも必死すぎて、とても安心して笑える部分もあった。ただやはりこちらも爆笑するというよりは、ニヤニヤする程度の笑いしかない。

木野花さんに至っては、恋多き老女(というかほぼ色情狂?)なトンデモ設定なのだが、木野さんの凛とした雰囲気とのギャップが凄い。

小野寺修二さん率いるカンパニーデラシネラのステージングと、自ら演じる道化師のコレオグラフィーに魅了された。演劇という夢の世界、サーカス、ディストピア世界が出会い重なり通じ合う。

昨年、東京芸術祭で小野寺さんが演出した野外劇『嵐が丘』を観たのだが、ステージング、パフォーマンスがまことに素晴らしく、演劇における身体性を使った表現の果てしなさを感じた。同じような感覚が中屋敷法仁さんの演出『ペリクリーズ』にもあり、自分がこれから観たい演出はこっちなのかなと気づきもあった。既存のダンスでも演技でも、それ以外の何かの型にはまった表現でもない、俳優の体を使った新しい表現。老若男女問わず、ジェンダー表現にも偏らないそれは、すごく現代的で未来的で魅力的だ。

※ここからラストのネタバレに触れますので注意⚠️)

果たしてここは何処なのか

ノーラの記憶を吸った(見た)ボルトーヴォリ(篠井英介)は、今までとは違う衝撃を受け脳が破壊(もしくは狂った)されたかのように倒れる(おそらく死ぬ)。今までは誰かの記憶は、曲一曲分くらいの刺激しかない、ちょうどいい嗜好品だったはずだ。ノーラの記憶は致死量を超えた麻薬だった。人を狂わせるほどの、果たしてそれはなんだったのか。ノーラが殺人や享楽、いわゆるモラルが欠如しているという仄めかしは所々にあった。確かに罪人だったのかもしれないが、ノーラは自由で愛に満ちた人でもあった。犯した罪が許されるか否かは別として、生きることに前向きで愛を諦めない純朴さ。その底なしの人間らしさにボルトーヴォリはやられてしまった。

けれどきっとそれは、人間が本来持っている当たり前の感情というものではなかったろうか。抑制された世界で、失われつつあった心。リュリュはそれに惹かれた。

最後の人間らしさを持ったノーラが「眠くなっちゃった」と雪舞う中、リュリュの腕の中で目を閉じるラストシーン。芝居は終わり、世界が終わる。

ディテイルは違うが、『ラ・ジュテ』の記憶を巡る話にも通じる。タイムマシンこそ出てはこないが、『猿の惑星』のような感覚もある。実はこれは近未来ではなく、現在、もしくは過去。ただ時空を巡っているだけ。

あるいはこれはノーラの見ている夢で、登場人物も劇世界もすべてノーラの夢の話。そして「眠くなっちゃった」と言った瞬間にパッと暗転した瞬間は、客席にいた私たちでさえも消えてしまったかのような恐怖があった。

ケラさん作品を多くは見ていないが、わりと笑いのリズムやナンセンスで煙に巻かれてしまうので、今までは感想が書きにくかった。

今回は笑いを封じた事で「恐怖」が感じられた。しかしホラーやサスペンスのように襲いかかるような分かりやすいそれではなく、もっと紗がかかったような手ごたえのない、床の下に壁の向こうに見えないけれど隠れているような、幽霊よりももっとふんわりした優しい手触りの恐怖だった。

劇団かケラさん単体プロジェクトなら、もっと恐怖は恐怖でしかなかったのではないか。パートナーでありファムファタルであり、失うことも得ることもすべて託し託される、誰よりも信頼する緒川さんの存在あってこその、手応えはないが確実にそこにあるとでもいうような、不思議な手触りの物語だった。

おまけな余談

今回4日のマチネのチケットを取っていたのですか、「9月30日に世田谷パブリックシアターの舞台機構に発生した予期せぬ深刻なトラブル」により10月1日から7日までの7公演中止という出来事があり。大焦りしました。

だって北村有起哉さんが舞台に出るの久しぶりなんだもんよ〜!2月に主演映画の舞台挨拶があって、その時「もうすぐ舞台やります」ってわざわざ伝えてくださった。やはり舞台はご本人にも大事な場なのではと。

そして北村有起哉が舞台でこそ輝くことを信頼し、あるがままの力と魅力を見せてくれたケラさんに感謝しかない。

日程の都合で行けなかったであろう方も多いと思うが、これは同じメンバーで再演をしてほしい。