新幹線でマカロンを

先日、北陸新幹線に乗る機会があった。私は、二人掛け窓側E席の指定を取っていたが、金沢行きの「はくたか」に上野駅から乗り込むと、通路側D席の若い女の子がテーブルを引き出して、早くも駅弁を広げていた。

ビジネス客が多い東海道新幹線の下り列車では、通路側の客は新横浜発車まではテーブルを出さず、箸を動かすなんてもってのほか、という暗黙のルールがあるが、北へ向かう新幹線は穏やかだ。

なんてことを思うのも、これが女の子だからで、キモヲタやクソジジイが同じことをしてようものなら、たちまち非常識呼ばわりするだろうな、などと考えていると、駅弁を食べ終わったその女の子が、私の方を振り返り、

「良かったら、これ食べますか」

と、包みに入ったマカロン1個を差し出した。

実を言うと、私はマカロンがあまり好きではない。

しかし、令嬢の好意を無下にするのは野暮というものだろう。私は、礼を言って、自分では決して買わないマカロンを食べた。北に向かう新幹線のマカロンは、優しい味がした。

周遊きっぷより青春18きっぷを廃止しては


久々に日記を書こうと思うのは、「本業」の鉄道について、黙ってはいられない一大事だからである。

先週金曜日(2月15日)にJR旅客6社からひっそりと発表された「周遊きっぷ」の廃止は、「反国鉄」が社是のJRグループも、ここまでやるか、という思いだ。

周遊きっぷは、国鉄時代からの似て非なる商品である「周遊券」に代わり、平成10年4月から発売された、比較的新しい(と、言って違和感がないかは世代によるのだろうが)商品だが、一言でいえば、「鉄道に詳しくなければ、買うことすらできない」、一般旅行者にはおよそ使いようのないきっぷで、失敗商品といってよかった。その意味では、周遊きっぷの利用低迷は、当然の結果であり、今回の廃止も既定路線といえるのかも知れない。

しかし、使い勝手の悪いきっぷであっても、JR6社共通商品として発売されていたところに、「日本を鉄道で旅行する」客への最低限の配慮はうかがえた。当たり前のことだが、JR各社にとって、単価の高い長距離客は、本来、優良顧客であり、航空機などとの対抗上も、需要喚起型商品の設定は当然必要となる。

昭和45年の大阪万博閉幕後の輸送落ち込みを食い止めるため、国鉄は、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを打ち出し、国内の観光需要を喚起するとともに、北海道・四国・九州や東北・信州・山陰など、まとまったエリアの国鉄線・国鉄バスを自由周遊区間に設定し、往復乗車券をセットした「ワイド周遊券」、そのコンパクト版である「ミニ周遊券」の発売を開始した。

例えば、大阪市内発の北海道ワイド周遊券を例にとると、有効期間は21日間。往復のルートは、東京経由(東海道東北本線)でも、日本海経由(北陸・信越奥羽本線経由)でも自由に選べ(さらに、わずかの追加運賃で、十和田湖に立ち寄ることもできた)、道内は、特急・急行列車の普通車自由席が乗り降り自由だった。おそらく、現在、30代半ばより上の世代では、学生時代、このきっぷで北海道を旅した経験のある方も多いだろう。

広く親しまれた周遊券だったが、国鉄分割民営化が影を落とした。すなわち、国鉄という全国一体組織を前提とした商品設計が、路線ごとに会社が分かれ、運賃配分も厳格に行うようになったJRグループの元では相容れないというのである。もちろん(?)、こうした意見を最も強硬に主張したのは、東海道新幹線(東京〜新大阪)全線を管轄するJR東海であった。

また、周遊券は、有効期間が長かったこともあり、1枚のきっぷを複数の利用者で使い回すなどの犯罪行為(詐欺、鉄道営業法違反)や、特急通勤の定期代わりなど趣旨を外れた濫用も指摘された。

こうして、運賃の計算方や有効期間の定め方に通常の乗車券の考え方を採り入れて企画されたのが周遊きっぷだったが、往復の経路を購入時に指定しなければならないなど、自ら時刻表を調べ、ある程度複雑な乗車券の運賃計算ができる利用者でなければ、購入すらできない(そもそも、値段がいくらになるのかも分からない)きっぷとなってしまった。加えて、周遊券と比べて、大幅な値上げとなったことも、利用減につながったと思われる。

今回の周遊きっぷ廃止報道を受けて、「JRは、最初から安楽死を目論んでいた」という趣旨の辛口意見があるようだが、私は、そうは思わない。周遊きっぷを企画した当時のJRグループの営業担当者が、鉄道に乗るのは、必ずしも自分で時刻表を調べ、運賃も計算できるような利用者だけではないということを失念していたのだろう。

実際に、周遊きっぷ発売当初は、それなりに積極的なPRがなされていた。平成11年ころだったと記憶するが、JRグループ共通の大判ポスターで周遊きっぷが宣伝され、「201キロを超える恋と、日本の旅に」というキャッチコピーが付されていた。また、平成10年夏から平成12年春まで、当時のJR旅客会社の直営自動車事業部(北海道・四国・九州)、JRバス各社が展開した「バス旅フォトラリー」も、周遊きっぷの利用を推奨するものだった。

周遊きっぷの利用低迷は、JRにとっては「予想外」だったのかも知れない。遺憾なのは、その原因(商品の複雑・難解さ)を追求して改善する努力はいっこうになされず、「利用減」を理由とする周遊ゾーンの一部廃止がさみだれ式に繰り返された挙げ句、無為無策が極まる形で、今回の全廃に至ったことである。

周遊きっぷは、周遊券時代から続くJR6社の共通商品であり、JR各社の思惑に縛られない旅行ができた。現在、JR各社は、自社内完結の旅行宣伝・商品設計には余念がないが、例えば、首都圏(JR東日本)から山陰(JR西日本)へ、京阪神JR西日本)から東北(JR東日本)へ、といった、大半がJR他社区間の利用となる旅行に使える企画乗車券は、強いて言えば、「青春18きっぷ」を除き、皆無である。

JR6社は、青春18きっぷの発売は今後も継続するようだ。しかし、周遊券の見直しを主張したJR東海の言い分ではないが、青春18きっぷほど、全国どんぶり勘定のきっぷはあるまいし(発売駅によって、ある程度の傾斜配分はなされているが、詳細は営業秘密である)、もともとは、若者の貧乏旅行を主眼とした商品だったはずが、今や、高齢化社会の象徴か、時間も資力も持て余すシニア層が好んで使うきっぷに変質しつつある。

「フルムーン夫婦グリーンパス」など、シニア層への需要喚起型商品はほかにもあるのだから、営業戦略としては、昭和57年の発売開始から30年以上を経過したこのあたりで、青春18きっぷを抜本的に見直し、安過ぎる値段設定を改め(5回(日・人)分で1万1500円→同1万5000円程度)、さらには年齢制限(収入も安定してくると思われる30歳程度が妥当か)を設けるなどしたほうが、周遊きっぷの廃止より、よほど有意であろう。

JRグループは、優良顧客である長距離客をみすみす取り逃しているといわざるを得ず、鉄道の発展の上でも残念でならない。

「文民統制」謬論に見る政治家の資質

森本敏拓殖大学教授の防衛大臣就任をめぐり、いわゆる「文民統制」の観点から問題がある、との議論がある。

「安全保障はズブの素人だが、これが本当のシビリアン・コントロール文民統制)」と言い放った一川保夫防衛大臣といい、文民統制に関する誤解(あるいは、論者による恣意的で牽強付会な用い方)は、一義的には、当該個人の無知蒙昧が原因だが、究極的には、独立主権国家として当然の国防議論を忌避し続けた、我が国の「戦後レジーム」に行き着く。

文民統制とは、軍事に対する「政治優先の原則」(political leadership)のことであり、それ以上でも以下でもない。分かり易く言えば、国家にとっての一大事である戦争の開始(宣戦布告)等は、政治(すなわち、文民)が決定しなければならず、軍人が独断専行してはならない、ということである。

さて、鳩山由紀夫元首相によると、「ミサイル発射のボタンを押す権限を持つ大臣に、選挙の洗礼を受けていない民間人が就任するのは、文民統制上の懸念がある」のだそうだ(産経新聞の報道による)。

鳩山氏は、いい加減、自らが発言する度、この国を誤らせることを自覚し、身を処すべきだろう。

なぜならば、第一に、選挙の洗礼云々は、一種の「選民思想」にうぬぼれた政治家(正確には、議員のセンセイ方)が好んで使う言葉だが、選挙で選ばれたか否かは、文民であるか否かとは無関係だからである。「文民」の意義については、日本国憲法66条2項(「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」)の解釈上、「職業軍人でない者」と解されており、「政治家」ないし「議員」といった意味はない。

現に、歴代のアメリカ合衆国の国防長官は、軍人経験のある民間人が務めた例が多いが、鳩山氏の論法によると、合衆国の国防長官人事は、文民統制上大問題ということになる。

第二に、文民統制の意義については鳩山氏の勉強不足ということで目をつむるとしても、より致命的な鳩山氏の問題は、防衛大臣の出自を問題視することで図らずも露呈した、政治家(statesman)として最も基本的な、議院内閣制の本質を理解していないことである。

そもそも、現役議員であれ、民間人出身であれ、各大臣は、首相(内閣総理大臣)により任命され、天皇の認証を受ければ、内閣を構成する一員なのであって、内閣は、国会に対し、連帯責任を負っているのである(憲法66条3項)。

したがって、仮に、ある大臣の職務執行が問題になったとき、その大臣の職責が問われるのはもちろんだが、行政権の行使について、国会に対して責任を負うべきは、内閣にほかならない。

鳩山氏の論法は、個別の大臣に問題があっても、その大臣を罷免しさえすれば良しとし、内閣の連帯責任は一顧だにしない民主党政権を体現しており、むべなるかな、と思わず納得するが、いやしくも内閣総理大臣を務めた身として、これ以上の国会軽視はあるまい。

ためにする批判であっても、発言の奥底に、政治家としての資質欠如が垣間見える。鳩山氏は、首相退任時、自ら約束したように、速やかに議員からも引退すべきである。この人が口を開く度、日本が迷走する。議員歳費欲しさにその椅子にしがみついても、「政治屋」(politician)としか見られまい。

どこよりも速い判例解説

 昨年、韓国の最高裁判所は、韓国政府が、いわゆる「従軍慰安婦」問題について、日本側に損害賠償を求めないのは(韓国の)憲法違反であるという判決を出した。韓国の法令については関知しないが、韓国最高裁の判決は、1965年に締結された、韓国との請求権・経済協力協定(http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdf/A-S40-293_1.pdf)2条(特に同条3項)の解釈適用を誤っており、我が国としては無視しておけばよいが、つい先日、国際司法裁判所(ICJ)で、興味深い判決が言い渡された。
 話は、第二次大戦中のイタリアに始まる。枢軸国側であったイタリアが連合国に降伏し、ドイツに占領された状態であった1943年から1945年にかけて、ドイツ軍により徴用され、強制労働に従事させられたとして、イタリア国民が、ドイツ政府に対し損害賠償を求め、イタリアの国内裁判所に提訴した。イタリアの国内裁判所は、ドイツの裁判権免除を認めず、ドイツに対して賠償を命じた。また、イタリアに所在するドイツ政府の施設の差押えを認めた。
これに対し、2008年12月、ドイツは、イタリアの国内裁判所が裁判権免除を認めなかったのは、国家免除(主権免除)に関する国際法違反として、イタリアの措置の違法確認などを求めてICJに提訴したのが今回の事件である。ちなみに、この事件には、ギリシャの国内裁判所もまたドイツの国家免除を認めない判決を出し、イタリアの国内裁判所が、ギリシャ判決のイタリア国内での執行を認めていたことから、ギリシャが訴訟参加(日本の民事訴訟法でいう補助参加に近い)している。
今月3日、オランダ・ハーグのICJ(小和田裁判長)は、ドイツの請求をほぼ全面的に認容する判決を言い渡した(http://www.icj-cij.org/docket/files/143/16883.pdf)。
ICJは、国家免除は主権平等原則を基礎とし、慣習国際法上重要な位置を占めるとした(para. 57)。これは、「対等なる何人も裁判官にはなりえない」ということである。
また、今回のICJ判決は、国家免除に関する各国の国家実行を詳細に検討し、近時説かれるようになった、「領域的不法行為」の例外についても検討している。この中で、ICJは、小和田裁判長の意向か、我が国の「外国等に対する我が国の民事裁判権に関する法律」の10条にも言及している(para. 70)。
これは、国家の行為を主権的行為(acta jure imperii)と私法的・業務管理的行為(acta jure gestionis)に区別した上で、後者については、他国の裁判権からも免除されないという制限免除説の立場に立つものである。
国際法学界では、従前から制限免除説が通説となっていたが、我が国では、昭和3年大審院決定が、国家は他国の裁判権から絶対的な免除を享有するという絶対免除説を説いていたことから、通説と国内判例が相反する状態が続いていた。しかし、平成18年7月21日、最高裁判例変更を行い、我が国も制限免除説に立つことを明らかにした。この最高裁判決を受けて立法化されたのが、上記の「外国等に対する我が国の民事裁判権に関する法律」である。
ところで、同法10条の文言(「外国等は、人の死亡若しくは傷害又は有体物の滅失若しくは毀損が、当該外国等が責任を負うべきものと主張される行為によって生じた場合において、当該行為の全部又は一部が日本国内で行われ、かつ、当該行為をした者が当該行為の時に日本国内に所在していたときは、これによって生じた損害又は損失の金銭によるてん補に関する裁判手続について、裁判権から免除されない。」)だけを読むと、今回問題となったイタリア国内におけるドイツ軍の行為については、イタリアの国内裁判権から免除されないようにも思える。
しかし、同法3条の規定(「この法律の規定は、条約又は確立された国際法規に基づき外国等が享有する特権又は免除に影響を及ぼすものではない。」)に注意が必要である。すなわち、国家免除は、慣習国際法上確立された制度であり、その要件および効果も国際法に基づくのであって、国内法に左右されるものではない。
ICJ判決は、国家の行為の中でも、主権的行為に属する最たるものである武力衝突時における軍隊の行為についての関係各国の国内裁判所の国家実行を検討した上で(para. 73-76)、武力衝突時に軍隊によってなされた生命、身体または財産に対する侵害行為に関する民事手続については、主権的行為に関する国家免除を適用するのが国家実行であり、それは法的確信(opinio juris)を伴うもので、慣習国際法であると認定した(para. 77,78)。
さらに、ICJ判決は、イタリアが主張した、ドイツの行為による侵害の重大性や強行法規違反を理由とする例外的に免除を認めない措置についても排斥した。
結論として、ICJは、ドイツに国家免除を認めなかったイタリア国内裁判所の措置は、慣習国際法に違反すると認定した(12対3)。
さて、ここで話は戻る。イタリアの国内裁判所でドイツが訴えられた経緯は、要するに、日韓と同じような話である。韓国は、こと日本相手となると、裁判所まで「超法規的」になる異常国家だが、イタリアのほうが一枚上手だったということかも知れない。

ドイツ語あれこれ

私の中高時代の友人たちはおそらく知っているように、私は、ドイツ語が好きである。というより、語学全般好きなのだが、とりわけ、ドイツ語に興味がある。

中学1年のころ、ドイツ第三帝国(いわゆるナチス・ドイツ)に興味を持ち、アドルフ・ヒトラーの『我が闘争』を原語で読みたいと思ったことがきっかけという、時と場所をわきまえて発言せねば危険視されそうなことが、その理由である。誤解のないように付け加えておくと、私は、ヒトラーの思想に純粋な興味はあるが、それが正しいと思っているわけではない。だからこそ、一昨年、永年の課題だった、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収用所(ポーランド)も見学したのである。

それはさておき、ドイツ語好きにとって、身の回りにドイツ語が出てくると、無性に嬉しい。京都の平安神宮の近くに、冷泉通りという道路があり、外国人向けに、ローマ字で"Reisen dori Ave."という標識が立っている。当然、読みは「れいせんどおり」である。しかし、私には、そう読めたことがない。

というのも、"reisen"(ドイツ語読みだと「ライゼン」)は、ドイツ語で「旅行する」という意味の、まさに私とは切っても切れない語なのである。したがって、私の脳は、"Reisen dori"という標識を見た途端、ドイツ語で「ライゼン・シュトラーセ」と反応してしまうのである。

私の学部・ロースクール時代の憲法の先生である、初宿正典(しやけまさのり)教授は、私と同じくらい、ドイツ語が大好きなようで、『暇つぶしは独語で』というエッセイを書かれている。私は、教授の著書一覧でこのタイトルを目にして以来、ずっと、読みたいと思っていたのだが、絶版になっていた。

昨年、たまたま書店のドイツ語コーナーを物色していたところ、目の前に、初宿教授の『暇つぶしは独語で』が飛び込んできた。見ると、新版で再出版されたのだった。私は、夢か現かとほっぺをつねりながら、即購入した。

そして、「まえがき」を読み始めた私は、思わず目を疑った。

冷泉通り」"Reisen dori"の話が、そこに書かれていたのである。

明けましておめでとうございます

今更、屋上屋を架してもどうかとは思うものの、礼儀として言わねばならないだろう。

それにしても、習慣とは恐ろしいものだ。以前、毎日のように日記を書いていたころは、書き漏らす日があると気持ち悪かったのに、いったん書かなくなると、ひどく筆が重くなった。決して、書くことがないわけではなく、書くべきテーマがあるにも拘らず、いざ書き始めると、面倒くさくなって、途中でやめてしまっていた。

したがって、この文章を読者各位が読んでいるとすれば、それは、曲がりなりにも、最後まで書きとおした証左ということになる。

ところで、ここ数年、大晦日には、その年を振り返るのを恒例にしていた。しかし、昨年から今年にかけては、ベトナムにいたため、それもできなかった。この習慣だけは、破ってしまうことに対して、若干の抵抗はあった。

思えば、昨年は、よく遊んだ一年であった。海外に3回出かけ(7月にフランス、9月に台湾、12月にベトナム)、東日本大震災発生時も、休みを取って、富山県内の鉄道取材中だった。

今年も、昨年に輪をかけて、各地の鉄道を取材しようと心に決めている。

公共交通壊滅元年

いささか旧聞に属するが、何としても書いておかねばならない。

昨年末、政府(財務省国土交通省)は、鉄道建設・運輸施設整備支援機構の特例業務勘定に係る利益剰余金について、総額約1兆4000億円の内、1兆2000億円を来年度中に国庫納付させることを決めた。いわゆる独立行政法人の「埋蔵金」として、国民年金の国庫負担分の財源に充てるため、民主党の「事業仕分け」で、「国庫返納」とされていたものである。

しかし、この決定は、理論的にも政策的にも、とうてい正当化できない暴挙といわざるを得ない。

そもそも、同機構の利益剰余金の原資は、旧国鉄の用地売却益や、国が保有していたJR本州3社株式の売却益等であり、「国鉄改革」の一環で生まれた、鉄道再生のための資金として位置付けられる。政策論でいえば、例えば、国鉄の長期債務処理に当たって、国民負担とされた分についても、この資金を活用し、一般会計において処理する額を少なくする途もあり得た。けれども、そうではなく、国鉄清算事業団の業務を承継した同機構の資産として引き継がれたのは、鉄道再生に活かすためであった。そうであるならば、鉄道再生のための資金を年金の財源不足の穴埋めに費目流用するなど、国家ぐるみでの「業務上横領」に等しい。

もとより、国鉄改革当時、国民にも痛みを求めた経緯があり、現下の経済情勢にかんがみて、鉄道再生より大なる国民経済上の利益のために、鉄道再生に充てるべき資金をやむなく拠出するというのなら、まだ話は別である。

しかし、政府・与党は、一方において、高速道路無償化に象徴される「バラマキ」政策を進め、受益者費用負担原則を無視し、経済上の合理性を欠く公金投入を止め処なく行い、その結果、民間企業であるJRグループが運営する鉄道を疲弊させ、マクロでの輸送単位当たりのCO2排出量も増大させているのである。選挙民の歓心を買うことにばかり熱心で、政策の自己矛盾に気付かない為政者の精神分裂は、もはや、手の施しようがない。

通常国会では、いわゆる「交通基本法案」が審議入りの予定で、そこでは、「交通弱者に対する移動権保障」と「環境負荷の軽減」が謳われることになっている。法文上、いかに美辞麗句を並べ立てても、実際には、それに逆行する政策を推し進めているのだから、この国の公共交通がたどる行く末は、絶望的なものでしかありえない。