風に吹かれて ピアノ楽譜再掲

放置している間に、楽譜を置いておいたyahooのストレージが終了してしまった。

今後一生存在しそうな、Google Driveに置き直します。

新しい置き場所はこちら

8ヶ月前にコメントくださった方、放置してすみません。まだ間に合えば、この楽譜で楽しんでください!

 

佇む俺の咆哮

ジョニーが佇み彷徨しながら咆哮している。

 

 

 

要するに私は一人佇んでいる。

楽しげな皆の団居の中で。

存在は彷徨い、吹きさらされ、最期の音はこの耳でたった一人で聞く。

 

咆哮は、声ではなく音だ。

魂が咆えたける振動だ。

こんなにも繊細に、こんなにも無様に、

それは誰もいない街に響く。

それは、昇る太陽までまっすぐ届いて共鳴する。

 

 

 

 

 

うまく言えないけど共通している何か

最近の、酒の友となっているYouTubeプレイリスト。



こう来て、



こうなって、



こう来る。


3:55のあたり、裸の宮本が斜め前方を見据え、肋骨ごと全てをさらけ出しながら、体全身を縦ノリで音楽に身を委ねるシーンを見る頃には、深夜2時の路上で嗚咽しながら2リットリくらいの涙を流しているのである。


リスタートすると言ってリスタートできるほど人間は簡単じゃない。
すぐに、いつものあの風景が意識の上に帰り来たる。
その度に自分の半分を振りほどき、生まれ変わったように歩き出せば、その極限でいつか僕は無になるだろう。
そこまでに歩む歩幅を、身を委ねるリズムを知っているから、嬉しくて悲しくて涙が流れるらしい。


どうやら。

死に様こそが

寒波の前とは言え、凍えるような未明の河原に立って川面を眺める。
村外れに住む知識人として、その人の頭脳にはプラトン以来の知の体系がギッシリ。しかし河原に立ったその人の口からはこういう言葉が出ただろう。
「もうめんどくせえや」


甘き絶望。


大衆なるものを批判し、また批判し、絶望の淵にあってだがその人の顔は穏やかである。
昭和の小唄を口ずさみ、すっくとした精神できっぱりと入水した。


西部邁氏が死んだ。


宮本浩次吉野寿西部邁
僕の精神の上に、確かに形を残す三人。
中道も右翼も左翼も関係なく、西部邁氏の雑誌タイトルである「表現者」そのものの三人。
だから、このエレカシのブログで西部邁氏を追悼するのは適切なように思えた。


西部邁氏の著作を読んでる時に頭の中でなるメロディーは、いつも「ポリスター」だった。


やつはとっくの昔に怒りを忘れ
開いた口からよだれがタラタラ
付き合いきれねえ 奴らのノリにゃ
何をしてても全てはポーズ
笑い声さえ全てはポーズ
総和を祈ろう全てはポーズ


何よりも民主主義を批判し、大衆を批判し、大衆でない「私」がどこまで強くなれるかを身をもって示してくれた人。


「私」は死なない。なぜなら歴史と伝統が言葉を育み、「私」は言葉でしか表現されないということは、「私」は死ぬはずもない。なぜなら歴史は連なって進んでいくのだから。


歴史song。死に様こそが生き様だ。
僕もそのようにして死にます。




合掌

紅白

いよいよ明日ですね。10時過ぎくらいから?正座ですよ正座。


あの歌で一番好きなところは、
「もう二度と 戻らない日々を 俺たちは 走り続ける」


こうして書いたところで、決して「好きなところ」は表現できていない。
メロディーと声を伴った「歌」でなければ伝えてもらえない、この喪失感この挫折この連帯感この一瞬の希望、この決意。


そうか、何万回と聞いてきたこのフレーズは、「RESTART」そのものだ。



2017年がなかったかのように、2018年をリスタートするとしよう。
よいお年を。